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神有電車

303.jpg

昭和41年ごろの話だ。

半地下式、石垣の中の湊川駅から出る神有電車(すでにその頃は神戸電鉄という名称になっていたが)は、半地下からそのままトンネルに入り、長田区の北部で急勾配の地上線に出る。
そこは確かに港町神戸の山の手には違いないが、神有電車という親しみやすい愛称そのままの、坂道ばかりの下町という風情だ。

長田駅を出た電車はやはり1000分の50という勾配と急カーブに車輪をきしませ、モーターのうねりを上げながら鷹取山の裏側にある丸山駅にいたり、そこからやはりカーブと勾配の線路を上り、小さなトンネルを超えると鵯越だ。
どちらを向いても山の中、神戸市の都心ともいえた湊川からわずか10分ほどで到達できる深山の趣のある不思議な駅だが、この駅周辺にも古くから住宅は多く、山肌の斜面に張り付いたような住宅が密集するところもある。
電車はここから六甲山系のやや西を勾配とカーブを繰り返しながら、標高400メートルほどもある鈴蘭台へ向かう。

ルリ子は彼女の夫と5歳の長男、1歳の長女を連れてこの神有電車に乗っていた。
その電車といえば茶色一色の、外観こそ鋼鉄製だが内部は木材にニスを塗った、素人が見ても戦前生まれの古臭さだった。

モーターの音を低く唸らせながら、電車は車内を斜めにしながら勾配を上る。

「達夫、あんたのとこへ返すわ」
彼女の実母である鈴江から、電話が入ったのは一昨日のことだった。
電話といっても、当時はまだ呼び出しの時代、実母はアパートの大家のところへ電話をかけ、彼女を呼びだしたのだ。

「半年ほど預かってみたけど、我儘すぎるし、うちには則江がおるしな」
則江はルリ子の父親違いの妹だ。
ルリ子は今年26歳、妹の則江はまだ小学6年生になったばかりの歳の差が開いた姉妹だが、ルリ子には、則江を妹だとどうしても思えない感情もある。
若いころから奔放に生きて、何度も付き合う男を変え、戦前には妾として満州まで行き、そこでルリ子を産んだのだが、ろくに面倒も見ずに、生まれた娘をさっさと親戚に託して神戸へ送り、自分は全く育児にかかわらなかった実母が、世の中が落ち着いてきたときに誠実な男性と出会い、生まれた娘をことのほか大切に育てる様子は、ルリ子には苦々しく思えてならなかったというのもある。

ところが、どうも奔放さという面ではルリ子も母の影響を少しは受けたらしく、住み込みで働く理髪店の店員だった満寿夫と出会い、すぐに子供が出来てしまった。
子供は立て続けに5人もできたが、上の二人は生まれてすぐに亡くなり、彼女のもとには3人が残った。
長男の浩一、次男の達夫、長女の弘子だったが、このころすでに彼女のお腹には4番目の子供が宿っていた。
彼女の実母である鈴江は、3人の孫のうち、二番目の達夫の利発さを非常に可愛がり、ついに自らの養子とすることを宣言、その日のうちに鵯越の文化住宅である彼女の自宅へ連れ帰ったのが半年前というわけだ。

神有電車の古い普通電車が鵯越の駅に着き、咲き始めた桜の木の下のホームに彼女たち一行が降りたとき、明るいグレーとオレンジの有馬温泉からの急行電車が通過していった。
「おかあちゃん、あのきれいな電車、乗られへんの?」
「さぁ・・なんでやろうなぁ・・」
そう関心なく答えるルリ子に代わって、後ろに居た満寿夫が答えた。
「新型は急行だけや、急行は鈴蘭台まで停まれへんさかいな」
短いトンネルを颯爽と走り去る急行電車の明るさが浩一には眩しい。

踏切を越えて坂道を登るとルリ子の妹、則江が走ってきた。
手にした籠を見せる。
「お姉ちゃん、久しぶりやな!弘子ちゃんも!」
ルリ子の腕の中の弘子が嬉しそうに笑う。
「土筆、こんなに生えとるん??」
「うん、そこの田んぼの畦や」
屈託なく笑う小学生、ルリ子とて、妹の存在そのものは嫌いではない。
ただ、鈴江が自分にしでかした仕打ちと比べてみて、何もかもが恵まれていて、何も知らない則江の無邪気さに溜息が出るような思いがあるだけだ。

文化住宅の庭では達夫が立ちすくんでいた。
「おかあちゃん、迎えに来てくれたん?」
「ああ、あんたはやっぱり、うちの子や」
「もう、おばあちゃんをお母ちゃんって、呼ばんでええのん?」
「おばあちゃんはおばあちゃんや、お母ちゃんはお母ちゃんや」

「ほんまに、達夫に恨みはないんや、ただ、則江に力を入れたいさかいな」
そう淡々と言う鈴江をルリ子は何の感情もなく見ていた。
子供たちは満寿夫と土筆採りに出掛けたままで、弘子だけがルリ子の腕にある。
「おかんは、いっつもそうやな・・自分勝手に事を進めて、あかんかったら放り出し」
「いや、そんなんちゃうねんで・・ただ、則江のことがあるさかい・・それだけなんや」
「ま・・かまへんけどね・・ウチは元々、達夫を手放したくなかったさかい」
「そないゆうてくれたらこっちも助かる・・おおきにな」
「そやけど、礼だけやったらサルでも犬でもいえるわいな」
「なんやのん、あんた、なんか求めてるのん?」
「うちの家計は苦しいし、今度また子が出来るさかい・・」
「ああ・・・そのこと・・ここにちゃんと用意してるさかいな」
そう言って、鈴江は裸のままの一万円札を握らせた。
「一枚かいな」
「うちも苦しいんや」
「ふん・・」
「ルリ子、半年面倒見たったんや、礼ぐらいあってもええんちゃうか」
「ほう、そやな、ま・・おおきに」

烏原川の脇で土筆採りに興じている子供たちにルリ子が叫ぶ。
「浩一、達夫、帰るで!」
「え、もう、帰るの?」
浩一が不満そうに呟く。
川の脇を、グレーとオレンジに厚化粧された旧型電車が走る。
「お姉ちゃん、晩御飯、食べていかへんの?」
則江が何も知らぬ明るい表情で問いかけてくる。
「今日は達夫を迎えに来ただけや・・こんど、ゆっくりくるわ」
「うん、今度は一緒に遊ぼ!」

自分の妹とは言え、小学生には難しい大人の事情など分かるはずもない。
ルリ子は軽いため息をつきながら駅への坂道を下る。
「こんな山の中に線路を敷いた昔の人は偉いな」
満寿夫が感嘆したように線路を見る。
「それがどないしたん、こんな山ん中に線路を敷くから山の中にまで家が建つんよ」
不機嫌そうな妻の言葉に満寿夫も黙るしかない。

鵯越の駅に入ってきた湊川行は、旧型電車の2両連結だった。
乗車位置の微妙な違いから、家族は編成の前後の車両に分かれて乗ったけれど、この2両は幌で繋がれてはおらず、連結面から浩一と達夫が手を振りあうこととなった。
浩一から見た母や弟の乗っている車両は、上下左右に激しく揺れて今にも脱線しそうだ。

浩一の横に立っている満寿夫には、弘子を抱きながら達夫の肩に手をやるルリ子の憮然とした表情が、悲しく感じられた。
「結局は稼ぎの少ない俺が悪いのか」
満寿夫がつぶやくと浩一が不思議そうに振り返る。
「おとうちゃん、どないしたん?」
「いや、なんもないで・・この電車、変な電車やな」
2両連結の旧型電車は、恐ろしいような坂道を、鋳鉄制輪子のゆっくりと削られるような音を繋ぎながら、湊川に向けて降りていく。
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