無料レンタル FC2 Blog Ranking story(小さな物語) 2007年04月

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Author:kou1960
小説専門のブログです。
小説の形を借りて自分史も入れたりしています。
もとよりアマチュアですし、たいしたものは書けませんが、楽しんでいってくだされば幸いです。FC2 Blog Ranking


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阪神御影


阪神電車の梅田行き「直通特急」が須磨区からの長い地下を抜け、ようやく地上に踊り出るや、高架上を快走するのだけれども、その電車の北側の車窓一杯に六甲、摩耶連山が広がる。
電車は小駅を高速で通過するが、神戸を走る電車の中で、最も神戸らしい良さに溢れた区間がこの阪神電車の神戸よりの高架区間であると僕は思っている。

その高架上を快走してきた直通特急が、最初に停車する駅が「御影」駅だ。
カーブの途中にあるこの駅は、およそ特急停車駅には似つかわしくない狭いホームと、低い上屋、カーブが急なため電車との間に大きな隙間ができたり、あるいは、上りホームのもうひとつ山側に大昔に使われていたであろう小さなホームと信号所のような建物・・そういった、ちょっと他の駅では見られないものに溢れている特徴的な駅でもある。

この駅を北に出て、いつもバスの停車している広場を右に入る。
ちょっとしたスーパーマーケットの裏手の、五階建ての建物・・君は今でもそこにいる。
最初、このアパートを見せてもらったとき、あまりの日当たりの悪さに「出来るだけ早く日当たりの良いマンションを見つけろよ」と、僕は君に言ったと思う。
けれども、それから二十年ちかく・・今も君はここに住んで、あの山の上の堂々とした病院に看護師として通いつづけている。
そう、阪神御影駅から真正面・・高台に聳えるあの病院だ。

君が広島からようやく帰ってきて、ここに住居を定めたとき、僕は能天気にも君に会いに行ってしまった。
君が何故、広島へ向かったのかは僕には分からない。
君にはきっと何か大きな意味があったのだろうが、親友も捨て、仕事も捨て、この町を出ていった君の気持ちが未だに僕には理解できていない。
けれども、君自身が納得して自ら選んだはずの変化で、その変化の先の君に電話をした僕は我が耳を疑った。
君は電話の向こうで泣いていた。
神戸に帰りたいと泣いていた。

元々は広島の人だ。
広島に住むのは不自然ではないように見える。
けれども、君の広島は、僕らの脳裏にある大都会の広島市ではない。
芸備線の奥、松江へ向かう木次線が分岐する駅から、山以外に何があるのだろうかと思わせるその深い山々を分け入った先の、のどかな牧場が君の故郷だと言う。
そこは確かに広島県ではあるけれど広島市ではない。
神戸からそこへ行く時間や距離と、広島市の中心部からそこへ行く時間と距離と・・どれほどの差があるというのだろう。
君は故郷になら友人もいるだろうし、親族もあるだろう。
けれど、神戸の町で十年近く住んで得た友人や同僚と言ったような人のつながりは、広島市にあるはずもないことは、僕のような貧弱な想像力しか持たない人間でも容易に理解できるのだ。
だから、君が広島市の町のど真ん中で、一人、孤独に耐えかねて泣いていたのは、必然的なことだったかもしれない。

けれど、僕はまた、大きな思い違いをしていた。
君は僕を、愛する神戸からの使者としては迎えてくれたけれど、それは決して僕を君の恋人として認めたわけではないということ・・その単純なことが舞い上がった若き日の僕では理解ができなかったのだ。
僕は違う方向へ信じてしまった。
君もまた、僕をたった一人の恋人として愛してくれているだろうという方向へ・・

御影の、まだ真新しかった君のアパートを僕が訪ねたのは、君が神戸に戻ってまだ幾ばくも時間が経っていない・・そんな頃で、ちょうど君の誕生日近くだった。
そこへ訪ねていった僕が見たものは、ドアを開けた玄関先にきちんと並べられている二足の靴。
君のものらしい小さなスニーカーと、明らかに男物の茶色い革靴。
寛いでいたらしい君は、僕の顔を見て混乱した表情になっていた。

広島に君がいた頃も、よくこうして突然訪ねていって君を驚かせたものだったし、その驚きながらも呆れた表情の君を見るのが僕は大好きだった。
たったそれだけだ。
たったそれだけの表情が見たくて君の部屋のベルを押し、君が開けた玄関を僕は見てしまった。

君が神戸に戻ってきてまだ数週間・・
僅かな間に、もう、自分の世界をしっかり持った君がそこにいた。
ドアのところで立ち尽くす僕は今だ大人になりきれず、玄関の先で僕を睨み付ける君は、すっかり大人の女性だったのだろうか。

気配を察知して出てきたのは不細工な中年男だった。
今でこそ、僕も中年男の仲間入りをしてはいても、その頃はまだどこから見ても青年と言える世代だった僕には、その中年男の存在が意外の中の意外としてしか認識できなかった。
「あなたが、神戸の友人だった方ですか?」
男性は丁寧にそんなことを問うてくる。
君は混乱した表情を更に混乱させ、僕を外に押し出そうとする。
その君を男性はいかにも大人らしく、そっと押さえながら、僕に何かを語りかけようとする。
「そこの居酒屋でお酒でもいかがですか?」
今の僕が彼と同じ立場なら、きっと同じ対処をしようとしただろう。
男性は僕よりも背が低く、人柄だけがよさそうな顔つきをしていた。

「なんで、俺があんたと兄弟の杯を交わさなあかんのや!」
僕の口から出た言葉は、自分でもとんでもないと思うような罵倒の言葉だった。
「まあ、まあ・・」
男性はそれでも、僕を宥めようとはしてくれている。

阪神電車御影駅の北、駅前広場から一歩中に入った小道で、僕は君に別れを宣言した。
小雨が降り始め、君は俯き黙ったまま僕の言葉を聞いていた。

今の僕だから分かると言ってしまえばそれまでだが、君にとっては本当は特定の誰か一人だけを自分の相手にすることは我慢がならなかったはずだ。
君が、いつでもたくさんの人の愛を欲しがっていたということは、自分の周りを孤独にしたくなかっただけなのかもしれない。
それには君と言う人間の生まれ育ちが大きく関係しているのかもしれない。

僕は、怒りが収まってからその男性にこう言った。
「あなたが、彼女を愛しているのなら一刻も早く、彼女を幸せにしてやってください」
男性は少し間を置いてから頷いた。
その時だ。
「いやだ!」
君が叫んだ。
「終わってしまう!何もかも終わってしまう!」
君が髪を振り、叫びつづける。
「いやだ!いやだ!やだぁ!やだ!」
気が触れたように君は叫びつづける。
「終わっちゃうよ!何もかも終わっちゃうよ!」

今の僕なら君の想いを受け止める度量は持ち合わせていると、僕は自信を持ってそう言える。
けれども、僕はまだ若すぎた。
僕だけのものではない君を、僕は受け入れることが出来なかった。
結婚なんて、考えなくても良かったではないか。
なにも恋人と言う言葉に縛られなくても良かったではないか。
君が自分の周りに置きたい、その中の一人になって、君が声をかけてくれればそれを望外の喜びとして嬉々として出かけていく生活で良かったのではないか。

けれども、僕にも人生観はあった。
家庭を作り、家庭を営み、自分が守るべき人たちとともに暮らしていきたいと言う、その願いを捨てることは出来なかった。
だから、僕は君に振られたように思ってはいるのだけれど、君は僕とは逆に、僕が君から離れていってしまったように感じているのではないだろうか。
僕は確かに離れたのだ。
君と言う女性から自ら離れたのだ。
そして、そこからもう、二十年近くの時間が経過している。
だのに、こうして阪神電車が御影駅を通るときにふと、思い出してしまう。

電車が高架線上を快走し、六甲・摩耶連山の豊かな山並みが窓一杯に広がっても、ふと、君を思い出してしまう。
あるいは、電車が御影駅に停車し、乗降する乗客の中に、君の小柄な姿がないか探してしまうこともある。
つまり、僕は未だに君と言う女性から離れることが出来ていないのだ。
笑ってくれ。
僕のこの状況を、もしも、僕と君を両方知る友人から君が聞いたなら、ぜひ、笑ってほしい。

情けない男だと、つまらない男だと、そう思って欲しい。

御影駅を発車した梅田行きの直通特急は、急カーブに車輪を軋ませながらゆっくりと加速する。
あの頃には停車しなかった二つ先の魚崎駅にも停車するために、あの頃の阪神電車のような高加速運転は今はしないのだ。
ゆっくりと高架線を走る電車の車窓に、たくさんのビルのその中で、忘れがたい、けれども、その形は至って平凡なマンション風のビルが見える。
君が健康であるように。
君がどうかずっと生きてくれるように。
僕は情けなくもそう願ってしまう・・それがまた僕と言う人間なのだ。
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選挙


酔った頭で俺は考える。

なにを偉そうにスピーカーでがなりたてても、所詮はおのれらの生活のためじゃないかと・・

日の暮れた街中を選挙運動の街宣車が走る。
あと数日の投票日までの「最後のお願い」だ。

知ったことか・・
俺は思う。

福祉がどうの、市民生活がどうの・・
おまえたちが本気で政治とやらをやっていれば、悪くなるはずのないものが現実に悪くなっているではないか・・

けれども、それとて、所詮は酔った俺の頭の中の会話でしかなく、俺は、暴れ出したい気持ちを押さえ、歩く。
いつもの飲み屋から、またいつもの飲み屋へ・・

俺ももう四十歳に近く、俺の生活はここ20年来、同じ事の繰り返しだ。

「最後の!最後のお願いです!わたくし、カノウをよろしくお願いいたします!」

女の声だ。

街宣車の看板には女の名前が書いてある。

女だとて同じ事・・
政治をやろうなんてのは真っ当な人間のすることではないと俺は思う。

行きつけのスナックの赤い扉を開ける。
薄ぐらい明かりの店のカウンター席にオヤジがひとり、座っている。
「いらっしゃぁい!今日は昨日よりお元気かしら?」
店のママが俺を見て声をかけてくれた。
「おうよ!昨日より今日は元気だ!」
俺はわざと素っ頓狂な声を出してオヤジの隣の席に腰掛けた。

二つ三つ、オヤジとは席をあけて座れば良いものだろうが、この店の入り口から三番目の席は俺の席だと・・俺は信じている。

俺が隣に座るのを少し迷惑そうにしていたオヤジは、俺の身体を上から下まで眺めたあと、「こちら、常連さん?」と店のママに聞いた。
「そうそう!常連さんというより、毎日さん」
「ああ・・毎日さんなんだね」

俺は少し不愉快になる。
俺が毎日店に来ようが来るまいが、オヤジには関係がない。
「毎日・・来てはいけませんか」
俺があらぬ方を見て、そうつぶやくとオヤジは「いやいや、これだけ美人のママさんだもの、私だって毎日来たいですよ」などとほざく。
「じゃ、毎日来れば良いじゃないですか」
「いや、私はちょっと遠方なもんでね・・」

はあ・・そう呟いたものの、俺はオヤジに親近感は抱かないし、早くこの店を出ていって欲しいと思い始めている。
「じゃ、常連さんなら、お願いしちゃおう!」
オヤジは俺の気持ちがまるで読めていないらしく、能天気にそんなことを言う。

「お願い?・・何でしょうね・・」
俺は煙草を取り出し、ママに火をつけてもらいながら、あらぬ方を見たまま聞き返す。

オヤジは少し改まった感じで、俺のほうへ身を寄せてくる。
俺はオヤジから身体を避けるように反らす。

「実はね、今度の選挙のことなんだよ」
「は?」
「だからさ、選挙のことなんだよ。君は誰か入れる人を決めているのかい?」
「なんのことです?」
「決めてなかったらぜひ、頼むよ。自明党の山本だ」
「さあ・・俺は選挙に行ったことはありませんから」
「いや、今度は大変なんだ。自明党はかつてはいろいろ福祉などで実績もあるし、ここで野党の民生党が勝ってしまうと日本にとってもこの地域にとってもだね・・」
「俺は関係ありませんから」
俺はさすがに苛立ちを隠せなくなってきた。
煙草を大きく吸い、苛立ちをぶつけるかのように大きく吐いた。

「君たちのような青年が政治に関心を持てないのは良くないよ」
オヤジは今度はそう言ってくる。
「俺に選挙は関係ありませんし、俺は青年ではありませんから」

ママが俺の前に水割りと小皿を置いてくれる。
俺は水割りを一口飲む。
「いや、政治が嫌いなら嫌いでいいんだ。今回だけ頼むよ」
オヤジは俺にさらに身体を寄せてくる。
おれは、一気にグラスの水割りを飲み干した。
「あんた、その山本何某の友達か何かか?なんでそんなことを始めて出会った人間に頼めるの?」
オヤジはここぞとばかりに俺にさらに顔を近づける。
「私は自明党の山本の応援の為に、東京からきたんだよ!」
「はあ・・それはそれは・・」
「民生党の加納って女候補・・あれは駄目だよ!キャパ嬢だったんだ」
「キャパ嬢だったら、何かいけないことでもありますか?」
「不謹慎じゃないか!そんな商売にいた女が政治の世界に出ようなんて」
「ふうん・・別に商売は関係ないんじゃないんですかね」
「違うな!高い志を持った素晴らしい人材が必要なんだよ」
オヤジは唾を飛ばして俺に噛み付いてきた。
ママが心配そうに見ている。

もう駄目だった。
俺は席を立った。
「あら・・もう帰るの?」
慌てたママの顔を見ると腹が立つとも言えず「用事があったのを思い出したから」とごまかした。
けれども、ママも悪い。
こんな馬鹿なオヤジを、言いたい放題にさせるなんて・・

店の扉を開けて、外に出るとママが追ってきた。
「ごめんね!しんちゃん、あのお客さん、しつこくて、帰ってくれないのよ」
「ママの知り合いか?」
「中学校の同期らしいの・・ぜんぜん覚えてないんだけどね」
俺は、困り果てたママの顔を見ると、おかしくなってきた。
「今日はいいよ・・また明日来るし・・」

夜風に吹かれて歩き出す。
滑稽なことがあったものだ。
何党か知らぬが、何かの組織の指令での応援だろう。
そんなものに本気で取組んでいる人間がいるなんて・・

がなりたてていたスピーカーの音は消えて、夜の町に静けさが帰ってきていた。
俺は、道を真っ直ぐに歩こうとして、その先に選挙運動の事務所があるのを思い出した。
自明党の山本とやらとは違うが、選挙のための事務所であることに変わりはなく、俺はそこを避けたくなった。
選挙が終わってくれれば、町の様子も普段どおりになるのに・・
俺は、そう思いながら、明かりのついた選挙事務所の手前を曲がり、川沿いの細い道に出た。

川の水音が囁くように広がる道を、俺はようやく、ほっとした気持ちで歩いていく。

満月が俺や川を照らしている。
川は人工的に掘り下げられたコンクリートの護岸に囲まれるように流れ、あたりは月明かりに照らされ澄みきった群青色に染まっている。

川にかかる小さな橋のたもとに人影があった。
俺は、その人影が女であることだけを見て、その前を通りすぎようとしていた。
「すみませんが・・」
しっかりした女の声が俺の前に飛び出す。
「煙草の火を持っておられませんか?」
月明かりにロングの髪の、それほど若くはない女であることが分かる。
「ああ・・いいですよ」
俺は、女の無防備さに少し呆れながらもライターを貸してやった。
「ありがとう・・」
女は煙草に火をつけると、大きく吸い、ため息とともに大きく煙を吐き出した。
「おかげさまで、ほっとしたわ・・ありがとう・・」
女がライターを返す時に女の冷たい手が俺の手に触れた。

「こんなところで、何をしているんです?」
俺は、女の無防備さに少し関心を持った。
「ちょっとね・・一人になりたくて・・」
そう、言いながら煙草を吸う。
女は月に向かって煙を吐き出す。
「美味そうに煙草を吸いますね・・」
「美味しいもの・・」
女はいたずらっぽく笑う。
夜目に慣れた目で、女を見ると俺より少し年上くらいの、まあ美人かなといった感じだ。
「でも、こんなところで、知らない男に声をかけるなんて・・無防備じゃないですか」
俺は、ちょっと意地悪い質問をしてしまった。
そう思った。
でも、女の答えは、まったくその意地悪を意に介していないものだった。

「あら・・あなた、狼ってわけ?」
そういったかと思うと女は笑い出した。
「いや・・そう言うわけではないのですが・・」
「狼さんなら、あたしを奪って逃げてくれるのかな?」
「は?」
「もう、面倒なの・・」
「なにがですか?」
「大勢の色々な策略で近づく人間ばかり相手にしてたらね・・」
女は俺の目をじっと見た。
きれいな目だ。

「少し、疲れているのじゃありませんか?」
俺は、女の目に吸いこまれそうになる自分を押さえようとしていた。
「疲れて・・いるわよ・・」
女は、少し下を見ながら、今度は煙を地面に向けて吐き出した。
「でも、もう少しなの!」
「何がですか?」
「面倒なこと!」
「でも、あと少しなら、頑張ればいいじゃないですか」
「そうなのよ!あなた・・いい人ね!」
女はちょっと弾けるようにそういったかと思うと、俺の腕の中に飛び込んできた。
不意を衝かれた俺は、ただ、女を受け入れるしかなかった。
「ね・・キスして・・」
女は俺の腕の中でそう言ったかと思うと顔を寄せてきた。

長く、柔らかく、暖かいキスだった。
俺には何が起こったか理解することが出来なくなっていた。
女の身体の柔らかさも、心臓の鼓動も俺には久しぶりの経験だった。

やがて、女は満足したかのようにゆっくりと離れていく。
「ありがとう・・びっくりしたでしょ」
「ええ・・」
俺の戸惑いを女は軽く笑う。
その笑顔が可愛い。

「また会ってくれます?」
女は俺の目を見据えて聞いてくる。
「ええ」
「じゃあね。今度の月曜日、ここでこの時間に!」
「・・月曜日ですね」
「待ってるわよ」
「はい・・」

俺は女に圧倒され、けれども、女の持つ不思議な魅力にも充分惹かれ始めていた。
月明かりと街灯の明かりに照らされた女の表情は、数分前よりはるかにきれいに見える。

「じゃ、行かなくちゃ・・あたしはこれで・・」
「はい・・」
「あなた、本当にいい人ね!月曜日よ!」
そう言ったかと思うと、女はすぐに駆け出してしまった。
俺の通ってきたほうへ走り、そしてすぐに角を曲がり見えなくなってしまった。

俺は呆然としていた。
しばらくは先ほどの余韻が俺の身体から抜けず、俺はそこを動くことが出来なかったのだ。

それから10分も俺は立ちつくしていただろうか・・
やがて、俺の耳に川のせせらぎが聞こえ始めた。

俺は自分の煙草に火をつけ、大きく吸いこんだ。
そして、胸の中でしばらく煙草の煙を溜め込んでから月に向かって大きく吐き出した。
煙は空に上がりながら風に流され消えていく。

俺は歩き始めた。
しばらく歩いて、町の人が良く使うバス停の明かりの脇を通るとき、何気なくそこに立てかけられている掲示板を見た。
それは選挙の立候補者のポスターを貼り付けるために立てられている掲示板だった。

俺は、その掲示板の中からさっき、不愉快な思いをした自明党・山本何某を探した。
そのポスターはすぐに見つかったけれど、その次の瞬間、俺の目はそのポスターの隣にある女性候補のポスターに釘付けになってしまった。

民生党・かのう祥子と大きく書かれたポスターの名前の横に写っていたのは、まさに、あの女だ。

少し悪戯でもするかのような表情で写っているのは、俺がさっき、出会った女だった。

夢と夕陽と海


風が強く、波頭が白く、海の色が濃く・・
僕は、風に逆らって海岸に出ようとしている。

海岸に出たところで何もないのだ。

そこにあるのは僅かばかりの砂浜とテトラッポットと
そして、打ち寄せる波だけだ。

それにしても、少し離れた街中では
ほとんど感じることのない風が
どうして海辺では、こんなにも・・僕を押し戻すほどに
強くて冷たいのだろう。

そこにあるものを僕が見ることを、
海が拒んでいるようにしか感じられない。

やっと砂浜に出た僕は
今度はテトラポットで砕け散る波しぶきを
頭からかぶることになる。

それでも、砂浜に立ちたい。

それでも、ここから夕陽を眺めていたい。

夕べの夢はなんだったのだろう。

良平よ・・
どうして、今ごろ夢に出てきたのだ。
おまえは夢の中で、僕にこう言った。
「生きるのが嫌になった」

良平よ・・
おまえはとうに、自ら油をかぶって火をつけたではないか・・

もしかしたら良平よ・・
あれから25年・・
おまえは、また同じ事をしてしまったのだろうか・・
いや、そうなってしまいそうなのだろうか・・

人は、生まれて死にを繰り返すという。
もしかしたらおまえは、次の生をまた、自ら終えようとしているのだろうか?

良平よ・・
多分、この世に戻っているとしたら別の名前で呼ばれているだろうおまえよ・・

おまえは、その苦しみへの投げやりを・・
永遠に解決できないのだろうか・・
それとも、解決が出来そうだから僕に救いを求めているのだろうか・・

夢の中の僕は
また学生に戻って、何かを一生懸命に学ぼうとしている。

そして、その一生懸命に何かを学ぶその思いは
今の僕の今の思いと同じ物だ。

夢の中では僕に大きな影響を与えて、
いろいろなものを僕に教えてくれて、
そして自分自身もきちんと楽しんでいたあの女性が
やはり僕に
何かを教えようとしてくれていた。

そこへ唐突に現れた良平よ・・
おまえへの思いを僕は今でも自分が強く持っていることを不思議に思う。

冷たい風の中、10分も立っているとそれだけで身体は芯から冷えていく。
それでもここに居たい。
あの夕陽が沈みきるまでここに居たい。
それを見たところで何かが変わるわけではなく、
それを見たところでいつもと何かが異なるわけでなく、
それでも僕はそれを見たいのだ。

太陽はもう、何億年もこうして毎日この海の向こうに沈んでいくのだろう。
そして、そこから毎日、星や月の時間が始まるのだろう。
その間の、昼の色から夜の色へと移り行くそのすべてを
眺めることが出来る場所は少ないと思う。

そして、そのすべてを眺めることの出来る場所が
自分の住んでいる町のすぐ近くの海辺であることに
僕は素直に感動もする。

だからこそ、こうして贅沢に海や空に語り掛ける時間を
日常の中に作り出すことが出来る。
・・それでも、悲しみを海に捨てるなどは到底出来ない。

僕にとって悲しみとは人生の一部であり、
自分が通過した印のひとつでもあるのだ。

悲しみを消すなどということは僕には出来ない。

良平よ。
いや、おまえだけではなく、すべての僕より先に逝った友人たちよ。

病気や事故で亡くなった友人は僕にはまだ少ない。
先に逝ったものたちは、その多くが自ら命を捨てた人たちだ。

人生を全うするとはどういうことなのか・・
生きると言うことは、どんな苦しみを乗り越えてでもそれを優先させねばならぬのか・・

自ら死を選んだ君たちは
果たして人生の敗者なのか?
それとも、いずれ生まれてくる命なれこそ、そう言う正しさもあるべきなのか?

ああ・・
それでも僕は生きたい。
生きて生きて、もうこれ以上は自分の生命の灯火が続かないところまでは
生きぬいてやりたい・・
僕は、今でもそう信じている。

大自然の作り出す雄大な映像を見て、
自分がちっぽけな存在であると認識するなんて嘘だ。
少なくとも僕はそう思う。
けれども、
僕が信じることが出来るのは、
生きようとする限り、僕を守る大きな力のあることを
生きようとする限り、僕を信じて見てくれている大きな力のあることを・・

それを僕は、いや、人は、
太陽にその力を見るのかもしれない。
太陽が沈むその瞬間の、あのやわらかで大きな暖かさの中に
自分を守ろうとする意思のあることを、
人は本能的に知るのかもしれない。

思えば、この海岸で今の僕と同じように夕陽を見つめる人間は
過去数千年はいただろう・・
この町の、先住民の、その人たちの中にも
必ず、こうして海を見つめる人がいたことだろう。

先人よ・・
教えて欲しい・・
僕等は人間は進化したのか?
あなたたちが居た時代に比べて、僕等の時代の人間は
悩みや苦しみが小さくなっているのだろうか?

先人よ・・
教えて欲しい・・
良平や僕のほかの友人たちのように
あなたの時代に、
自ら死を選ぶ人は居たのだろうか?

良平よ・・
僕には生きるということが、他の何より大切なものとして見えているのだ。
良平よ・・
僕は声を大にして
生きる意思をはっきりさせてやりたいのだ。

おまえが昨夜の夢に僕に投げかけた課題は
これで答えになっているだろうか?
いや、答えになっていなくても、
僕にはこれでしか、答えの出しようがないのだ。
僕にはこれが最高の答えなのだ。

見てくれ・・良平よ。
待った甲斐があったというものだ。
今、まさしく夕陽が沈む。
今、まさしく、海の向こう・・はるかな山脈の向こうへ
夕陽が沈む。
生きるのだ。
生きることが僕なのだ。
冷たい風に逆らって、
冷たい世間に逆らって、
それがドンキホーテのような滑稽さであったにしても、
それが道化師のように周りに失笑をばら撒くだけであったにしても
それがそのまま赤っ恥のように見えたとしても・・

僕は生きるのだ。
良平よ。
聞いてくれ・・
いや、大切なほかの友人たちも聞いて欲しい・・
僕は生きる。
少なくとも、君らが生きぬけなかったこの世界の薄情を
逆にこちらが足蹴にしてでも
生きぬいてやる・・
これが僕の君らへの思いなのだ。

太陽よ・・
向こうに沈むそのときに、
どうか僕のこの思いを、友達たちに伝えてくれないか・・
何千、何万の・・あるいは何億の人間や獣たちの思いを
向こうまで持っていってくれないか!

ふっと気がつくと、
そこは藍色の空の下。
冷たい風は更に冷たく、波頭はさらに白く・・
波の音はいっそう激しさを増し・・

僕はようやく気分が落ち着くのだ。
良平よ。
また会おう!
いつでも、夢の中にやってきてくれよ!

BAR


親友である「かな~つ」さんに捧げます。

(夢)

みっちゃんあそぼ!
うん!
何して遊ぶ?
うんとね・・影ふみ・・
うん!
じゃ、影を踏まれたら鬼だよ!
うん!
さいしょはあたしから!
うん!

何してるの?
あ!かなちゃん・・
ね!ね!何してるの?
あのね・・影ふみ・・
いいな!
あたしもまぜて!
う・・うん・・いいよ。
じゃ、あたしが鬼するね!

あ・・ごめん・・あたし、塾だ。
塾?じゅんちゃん、塾なんて行ってた?
行き始めたのよ・・最近。
じゃ、しかたないね・・さよなら!
うん!さよなら!

あ・・あたしも帰らなきゃ。
どうしたの?
お母さんに4時には帰っておいでって・・
そうなんだ・・仕方ないね・・
うん!
じゃ、さよなら!
さよなら!

影ふみ影ふみ・・
自分の影はいくら頑張っても踏めるわけがないのに・・
影ふみ影ふみ・・
自分で自分が踏めるわけないのに・・

(朝)

はっと目が覚めた。
寝汗をかいている。
カーテンから陽の光が漏れている。
小鳥の囀りが聞こえる。

ああ・・そうだ・・
私はなぜかいつも蚊帳の外だった。
子供のときからずっと・・

友達が楽しく遊んでいるときでも、私が入ると急に皆がよそよそしくなる。
私は、いつも、平気な風を装っていた。
装わなければ自分が壊れてしまいそうだったからかもしれない。

休日とあって、目覚ましはかけていなかった。
私は、ゆっくりベッドから起きあがり、バスルームに入った。
鏡で寝起きの自分を見る。
私は贔屓目に見ても美人ではない。
自分でも表情が貧相な気がする。
胸も小さくはないはずだが、プロポーションが良いとは自分でも到底思えない。
寝起きの爆発したような髪が、私をさらに近寄りがたいものにしている気がする。

だけど、皆が避けるような雰囲気は持っていないはずだ。
いわば普通の女に・・自分では見える。

夕べも、友人たちとの飲み会に参加していて、皆が楽しくおしゃべりしているその中で、私が何かを言うとその場が静まり返る・・そんなことが何度もあった。
いや、私が口を開けば必ずそうなったのかもしれない。
どうしてだろう・・?
私という人間は周囲の人間にとって招かれざる客なのだろうか?

シャワーを浴びる。
暖かいシャワーは体に残った酒の酔いを流してくれる。
私にはどうして魅力がないのだろう・・
あの、華やかな友人たちのような輝きが、どうして私にはないのだろう・・

お天気も良いし、外に出ようと思ったけれど、それも億劫になってきた。
することはない。
冷蔵庫を開けても食べるものはない。

カップラーメンが幾つか残っていたのを思いだし、食器棚の隅を探してみた。
それは確かに、そこにあって、私は何も考えず、それに湯沸し機からお湯を入れて、貪るように食う。
耐えがたい化学調味料の味が口の中に残るが、それでも私はそれを食べる。
どうでもいいのだ。
何でも良いのだ。
それが私の人生・・
どうでもいい女の、居ないほうがいい女の・・

(夜)

結局、夜になって私はアパートを出た。
まるで、太陽の光を避けているかのようだ。
自分で自分が可笑しい。
男と女がもたれあい、もつれ合いながら歩いている。
私には一度も、ああいう楽しみもなかった。
いや、一度だけ・・あったかもしれない。

その男は、にこやかに近づき、何度か食事をし、そして、一度だけ抱き合ったあと、去っていった。
男の求めるものは、私にはなかったということか・・
せめて身体だけでももう少し魅力があったらなぁ・・
そう思っただけで、哀しくもなかったし、苦しくもなかった。
自分の魅力のなさに、自分で呆れた。

そんな私が、夜の町を歩くとき、ネオンがきらめくあたりを何も考えずに歩く。
私は、こう言うところを歩くのが好きなのかもしれない。
でも、本当は明るい昼間に楽しげに歩きたいとも思う。

ネオンをたくさん見ていると・・
なんだか泣きそうになる。
どうしてだろうね・・
泣くようなことは何もないのに・・

どこかのお店に入りたい。
でも入る勇気もない。
だからいつも歩くだけ・・
こうして、夜の風に吹かれて・・

夜の蝶にもなれないよ・・
私、何がしたいのだろう・・

いきなり、何かにぶつかった。
大きな音がした。
「ごめんなさい!!」
男の声がする。
私は、ぶつかった弾みで、転んでしまった。

「ごめんなさい!」
男は私に一生懸命謝る。
そんなに、謝らなくてもいいのに・・
「いいですよ・・」
私は、そういって立ちあがろうとした。
男は、私に手を貸してくれ、また謝る。
「本当にごめんなさい!」

足元にはギターやらタンバリンやらが転がっている。
私が立ちあがったあと、男は、それらを無造作に拾い、抱えながらまた謝る。
「本当に!ごめんなさい!」

男の顔は髭だらけだ。
若いのか、年をとっているのか、まったくわからない。
髭もじゃが神妙に何度もお辞儀をする。
「いいんですよ・・怪我もしていないですし・・」
そういってやると、男は、さらに申し訳なさそうだ。

「あの・・」
「なんでしょう?」
「折角ですし、お時間さえよろしければ私の店へお越しになりませんか・・」
「??」
「私は、すぐそこで小さなバーをやってます。お詫びに・・たいした物はありませんがご馳走させてくださいませんか?」
「はあ・・」
「焼酎専門のバーなんですよ。奄美の焼酎なんです。」
「はあ・・」
「ぜひ!」
結局、男の顔も決して悪人には見えないし、私は、断る理由もなく、男についていくことにした。

(BAR)

その店は小さな店だった。
オレンジ色の明かり、棚に並んだ焼酎の瓶・・
「お酒は強いほうですか?」
さっさと自分はカウンターの向こうに入って、男が聞いてくれる。
男はこの店のマスターなのだ。
「いえ・・呑めないわけではありませんが・・」
「じゃ、自慢の焼酎を・・」
「焼酎ですか?」
「いけませんか?」
「呑んだことがないのです。」
「どんなお酒がお好きですか?」
「ワインとか・・カクテルとか・・」

ワインもカクテルも格別好きなわけではない。
いや、好きなお酒というものが私にはないのだ。
友達がそう言う話をしていても、私には無縁のものだと思っていた。
「では、軽くてさわやかなものをお試しください」
マスターはそういって、氷を割り、グラスに入れ、酒瓶から酒を注ぎ、その上に水を注ぎ、マドラーで混ぜて・・勝手に私の前にグラスを置く。
「お気に召さなければ、それはそれで結構ですから・・」
私はグラスを取った。
花のような香りが漂っていた。
「香りはいかがですか?」
「花のような・・」
「その香りを御理解頂けると嬉しいですよ」
一口、そうっと含んでみた。
焼酎というからには、きつい飲み物を想像していた私には、意外な優しさが口の中に広がった。
「いかがですか?」
「うれしい・・」
思わず出た言葉だった。
「そういっていただけると、お誘いした甲斐もあるというものです」
「おいしいです・・」
私は自分が笑顔になっているのがわかった。
「今日は最初のお客が、このような素敵な美人で、しかもおいしいと言ってくださる・・こんなに幸先の良い日は滅多にありませんよ」
髭もじゃが笑う。
笑うと案外、可愛い顔に見える。
「でも・・」
「なんでしょう?お気に召しませんか?」
「私は美人ではありません・・」
美人と言われるそのお世辞に歯が浮く感じがする。
「そうでしょうか?」
「はい・・」
「美人を美人といってはいけませんか?」
「美人じゃないので・・」
マスターは一瞬、私を見つめ・・そして、そのことにはもう触れず・・私の前に豚肉らしい料理を出してくれた。
「豚肉の塩茹でです。豚肉はお嫌いですか?」
「いえ・・」
嫌いも好きも、私にはそういった感覚はないのだ。
出してくれたその肉を頬張った。
見た目と違い、驚くほど優しく、線の細いその味わいは、すとんと心に何かが落ちるような気すらする。
「おいしいです・・」
毛むくじゃらのマスターの、その髭の奥で優しい目が笑う。
「どうぞ、今日はお詫びで、私のおごりです。ゆっくりしてくださいね」
うん・・
頷く私の目から涙が落ちる。
「どうかなさましたか?」
「いえ・・あんまりおいしいものだから・・」
おいしいは嬉しいというべきだっただろう・・
私が味わったことのない感情だ。

(ギター)

さっきからギターが鳴っている。
耳の後ろのほうで・・
私はどうやら眠っていたらしい。
カウンターに肘をついて・・
あまりにお酒がおいしくて、そしてこの店の雰囲気に安心したのか、私は眠ってしまったのだ。
体を起こすと、ぼんやりと目に入るのは焼酎の瓶と、何人かの人間たち・・
「お目が覚めましたか?」
はっと、顔を上げると、あのマスターが少し心配そうな表情をしていた。
「ちょっと飛ばしすぎましたか?」
「あ・・いえ・・疲れが出たのでは・・」
私は身体を起こした。
「お疲れですか?ではあまりお酒を飲ませてはいけなかったですね。重ね重ね失礼しました」
マスターは少し不安そうにそう言ってくれる。
「いえ・・本当に疲れているだけです。酔っていませんからご心配なく・・でも・・」
「でも?」
「心配してくださり、ありがとう・・」
自分でも素直に礼を言えたのが不思議だった。

「こちらの方!すごい美人ですね!」
横から素っ頓狂な声が聞こえる。
みると、ギターを抱えた男が私のほうを向いていた。
「はあ・・」
「光栄ですよ!美人の隣に座るなんて!」
「はあ・・」
「嬉しいなあ・・」
「でも・・私は美人ではありませんから・・」
「そんなことはない!あなたはすごく美人です!」
男はそう言ったかと思うと、またギターを抱えて弾きはじめた。
なんだろう・・すごく懐かしいラブソング・・
私をちらりと見ながら、男は一心にギターを弾き、歌を唄う。
「彼、巧いでしょう?」
マスターが私の耳に口を寄せて囁いた。
「はい・・懐かしい歌・・」
「この歌がわかりますか?すごく古い歌なんですけれども・・」

そうだ・・
父が良く口ずさんでいた歌だ。
機嫌の良いときに、風呂場でひとり、気持ちよさそうに唄っていた歌だ・・
あれはもう・・何年前だろう・・
優しい、けれども大きな父だった。
私が17のとき、突然倒れて遠くへ行ってしまった父が・・唄っていた・・

男の歌が終わる。
私は思わず拍手をしていた。
「照れるなあ・・ずいぶん、久しぶりなんですよ!」
彼は、私の顔を見た瞬間、年甲斐もなく真っ赤になってしまった。
「あら・・本当に照れておられるのですか?真っ赤ですよ」
私は自分が言った事もないような軽口を言う自分に、少し驚きながらも、この場所が自分にとって心底落ち着ける場所であることを知った気がしていた。
「少し酔っただけですよ。でも、本当にきれいな方ですね・・」
男は照れ隠しか、そんなことを言う。
「私、きれいですか?」
生まれて始めて私は自分がきれいでありたいと願っていたのだけれども、そのときは気がつかなかったのだ。

おんな哀歌


時は天正8年(1578年)夏、所は播磨の国、明石の町を東へ一里ほど外れた海岸の松林である。
このころの明石は海岸縁に漁師達の棲家が固まるのが中心であったけれど、それでも、明るく温暖な気候に恵まれ、淡路や四国との海上交通、それと西国街道や三木街道が交錯する交通の要所でもあり、人の往来が多かった。

けれども、ここの松林の奥のあばら家が数軒、固まっているあたりは昼間から人が通る事も少なく、周囲に田畑もあるわけでもなく、目の前の海岸には朽ちた船が捨てられているだけの閑散さである。

しかし、まったく人が通らないかと言えば、そうではなく、時折、人の目を盗むようにして男が数軒の家のどれかに引き込まれるかのように入っていく姿を見る事が出来たし、荒れた松林では数人の子供たちの歓声がこだましている。

今も一人の男が、そんなあばら家の端の家に入るところだった。
「おう!たまどの・・おるんかい」
さして広くない家の奥から女の声がする。
「おるわいな。何処に目ぇつけとるんや」
「暗うて分からんわい・・」
「待ったで・・ホンマに、長い事、待たせるんやな」
「いやあ・・今ごろが午の刻やろ・・」
「あんたの午の刻はお天道様が西向いて寝んねはじめてからやわ・・」

明るい表を歩いてきた人の目には、暗い家の中は、最初はまったく見えないものだ。
男の目にも、ようやくぼんやりと、この家の女の姿が見え始めていた。
「えらい、済まんかったわ・・そないに怒らんといてや・・」
男は何とか、“たま”と言う女にすがるようにして謝っている。
「ええで・・約束通り、していってくれるんやったら・・」
女はもう、怒っていたのを忘れたかのように男に優しい目をむけている。
「ほな・・これでええか・・」
男は女の手に銭をいくらかつかませる。
「ほう・・ええ案配なんやな、あんたの商売・・おおきに・・貰とくで・・」
そう言ったかと思うと、女は男の肩にしな垂れかかる。
「すぐ、するか?それとも、酒でも飲むか?」
「いや・・わし、もう、我慢でけへんねん・・」
間もなく、二人の会話は途切れ、女の喘ぐ声と、男の息遣いが狭く暗い家の中に広がる。

時折、海から波の音が聞こえ、松林の枝を吹き鳴らす風の音が聞こえる。
萱や葉を葺いた屋根の隙間から空の明るさが星の光のように・・女には見える。

・・こうして抱かれているのならまだ良い・・
たまは、男に抱かれるとき、いつもそう思う。
あれは2年前の事・・
城を包む猛火の中で、男は斬られ、女は犯されたあとに殺されていった。
炎の向こうで、泣き叫ぶ彼女の周囲の女達・・
本当は彼女もそこに残って、あらゆる辱めを受けて、そして犬や猫の死骸のように、裸のまま、そこらに放り捨てられるべきだったかもしれない。
けれど、息子次郎をなんとしても守りたい・・
彼女は、あの猛炎の中から、次郎を着物の前で布を被せて隠し、混乱の隙間を見つけ、山火事の広がる城山へ走り込んだのだ。
結局は死ぬしかないのかもしれない・・
けれども、少なくとも織田の男達の欲望と一緒に捨て去られるのはごめんだ・・

胸元に抱いた息子が動こうとする気配で目が覚めた。
戦は終わっていたようだったし、人の気配もなかった。
城山は大半が焼け失せていたが、彼女の回りには火が回らずに・・そこで失神していた彼女はその為に助かったのだった。
夜になるまで、その場でうずくまっていた。
夜になって、山を下り、焼け果てた田畑をひたすら歩いた。
途中、一人の武士に出会った。
「何処のものだ!」
彼女は何も答えなかった。
「何処のものだ!」
武士は、何度かそう訪ねたが、彼女は何も答えなかった。
月のあかりは、彼女と息子の顔を照らした。
「何処へ行く」
武士は誰何する。
彼女は答えない・・
やがて、武士は彼女の顔をじっと見詰めて、こう言った。
「東のほうなら戦も終わっていよう・・気を付けていけ・・」
けれども、播磨一国中・・何処へ行っても戦に明け暮れる様相の中、東へ東へと逃げていった彼女はここ、摂津の国との国境の海岸にようやく落ち着いていた。

たまは今、男に体を預けながら、福崎の向こう・・秋霜山の城が落ちるときの事を思い起こしている。
いつも、思い出してしまう・・そう、諦めに似た気持ちに浸りながら・・

夫だった男・・江藤基国は、彼の兄の守る城に立て篭もり、最期を遂げた。
最期を遂げたかどうかは彼女は確認したわけではないが、それは十の内十までも間違いがないだろう・・

あの状況下であの場所から逃げ出したものが、自分達以外にあるとは彼女には思えなかったのだ。

それにしても、自分を見つけながら逃がしてくれたあの武士は誰だろう・・

「おい、たまはんよ・・もうええか・・わし、いてまいそうや」
たまは、「は・・!」とした。
男に揺らされながら気持ちがまったく違うところを飛んでいた。
「もうええのんかいな・・情けない男やな・・うちが、もうちょいと・・ええようにしてやろ・・・」
たまは、男をからかいながら、今度は男と身体の位置を変える。

外が少し暗くなってきたころ、たまは表に出て叫んだ。
「次郎や!帰っといでや!」
その声に、他の数軒のあばら家の主たちも、引き摺られるかのように、声を出し始めた。
「三太や!」「はまや!かえっといで!」
やがて、夜の帳が落ちて、あたりは真っ暗になってしまう。
波の音、風の音、夜目に見える松の木の影・・
遠くの淡路島の島影・・・

世の中から捨てられた女たちの、それでも生きようとする命が、ここにしっかり根づいていた。

数日後、浜辺で子供たちが遊んでいた。
そこへ、立派なみなりをした武士が数人、連れ立ってやってきた。
「おうい!坊!ちょっと教えてくれぬか!」
子供たちは怖そうな武士の姿に、遊びを止めて立ち尽くしてしまう。
「怖がらなくても良い。教えてもらいたい事があるのでな」

しばらく、子供たちは黙ったままだったが、中で一番年長の女の子、“はま”が恐る恐る声を出した。
「お武家様・・何のようで来たのや?・・ここは、女ばかりの村だで・・」
「おお!済まぬな・・わしはの、人を探しておるんや・・」
「誰を探しているのか、知らへんけど・・女しかおらへん・・」
「うむ・・それは存知の上じゃ・・」
武士の一人は出来るだけ子供を怖がらせまいとする配慮か、腰をかがめ、娘の目線で話をしている。
「実はの、この村に“たま”という母御と、次郎という男の子がおらんかと・・思うての・・」
子供たちは凍り付いたように立ちすくんでしまった。
自分達の仲間である。
その仲間を恐ろしげな武者が探しているのだ。
しかも、当の次郎は皆の中に居て・・子供ながらにも自分が名指しされたのを分かっている。
次郎はまだ五つだったが、武士が嫌いだった。
あの、母とともに必死で逃げた恐ろしい記憶が、武士を見ると蘇ってしまう。

子供たちは凍り付いたまま、何も言えなくなってしまった。
「なるほど・・この中に、次郎どのは居られるらしいの・・」
武者は、子供たちを嘗め回すように見詰め、背を伸ばした。
「分かりもうした・・坊や娘っこを怖がらせては何にもならぬのでな・・村のほうで伺うと致そう・・」
武者はそういうと、仲間を引き連れ、あばら家の村のほうへ向かっていった。

子供たちは、何か恐ろしい事が身の上に起るのではないかと、震え、そして泣き始めた。
母達の待つ村へ帰らねばならなかったが、そうするとあの武者達が居る・・それは何より恐ろしい事のように思えるのだ。

武者達はあばら家の前で洗濯物を干している女に声をかけた。
「少々お尋ね申す。この村に“たま”と言われる方は居られませぬか・・」
女は武士のほうをちらっと見てから無碍にこういう。
「知らんね・・誰がたまで誰が石か・・」
「いや・・別にそのものに危害を加えると言うのではござらぬ・・我らの話を聞いて頂きたい・・それだけの事でござるが・・」
女はじっと、武士を見詰めた。
「いややわ・・武士なんて・・ろくなもんやあらへん・・とっとと消えてんか!」
「いや・・その、我らは決しておかしなものでは・・」
「わてら、武士が嫌いやねん!あんたらは客でとるのも嫌やねん!」
その時、連れ立ってきた他の武士が刀を抜いた。
「女!我らをなんだと思っておるのじゃ!」
「ほうらほうら!すぐ刀を抜くやないの・・欲しいものがあれば殺して取り・・そんな連中は、いらへんのや!」
「何を!」
刀を抜いた武士が女に向かおうとしたとき、中心に居たひときわ立派な武士がそれを押しとどめる。
「待て!わしの命に逆らうな!」
刀を抜いた武士は、悔しそうに刀を収める。
「失礼仕る・・我ら、黒田家の者でござる。このたびは、主君の命によりて、まかりこしてござる・・失礼の段、まことに申し訳なく・・お詫び申し上げる・・」
一時は表情を引きつらせた女も、やや、穏やかな表情になりつつあった。

その時、騒ぎを聞いて、他の女達が集まってきた。
「なんか、あったんけ?」
「なにや・・このお武家さんたち・・」

武者の中心に居るひときわ立派な男が、改めて女達に挨拶をした。
「騒がせてしまい、申し訳ない。実は、この村に“たま”という女性(にょしょう)とその連れ子である次郎と言う男の子が居ると聞き、まかり越してござる」
女達は押し黙ったままだ。
「何も危害を加えると言うのではござらぬ・・我らは黒田家のもの・・主君の命によりてその方々をお迎えいたしたく・・」

ここの女達はみな、戦に巻き込まれ、夫を失い、子を失い、親兄弟を失い、棲家を追われ、生きる糧を失い、流れ着いてきたものばかりだ。
いわば、彼女たちは元々が武家の関わりのある女達でもあった。
彼女たちそれぞれも筆舌につくせぬ苦闘の末に、何となく松の木が並んでいて、隠れ家になりそうなこの地に自然に集まったものだった。

ここは西国街道の外れ・・
西国街道は明石の町より海岸を迂回するように丘陵の間を抜け、小高い峠をいくつも越えて摂津の国、兵庫の津へ向かっていた。
女達の居る松林の先には断崖絶壁の海岸があり、それは延々と一里あまりも続いて摂津の国へ至るのだが、そこは漁師でもなければ越える事の出来ない難所でもあった。
つまり、彼女たちは播磨の国の最果てに居着いたわけだ。
そして、そこで女が出来る事と言えば・・自らの身体を売る事だけでもあった。

「わたしが“たま”です。」
ついにたまは名乗り出た。
これ以上、黙っていれば、結局は人の良い仲間を苦しませる結果になる。
「たまさん、あんた、名乗らんでもええやんか!」
「うちらの仲間やさかい・・」
「こんな武家の言葉なんか、信じたらあかん!」
周囲の女達は口々に叫ぶ・・

「ええんや・・わたしが・・皆に迷惑かけられへん・・」
たまは、そう小さく言うと、武士の前に進み出た。
「如何なる御用でござりましょうや!」
久々に城主の弟の妻・・である彼女に武家の言葉が戻ってきた。
「たまどの・・お名乗り頂き、かたじけなく存じます・・」
武士の一人が礼の姿勢をとる。
「黒田のものがわたしに何の用ですか?・・黒田官兵衛どのが小寺殿をお裏切りになられて以来、当家との関係はなくなっておる筈です」
「たまどの・・あれは、小寺殿が織田殿を裏切ったのでございます・・」
「何を言われる・・織田などは所詮は盗人・・播磨は赤松殿の国・・小寺・別所・神吉といった御歴々が厳然とおわすのに、何故に黒田官兵衛殿は織田や織田の部下に過ぎぬ羽柴になど尻尾を振られたのでございましょう・・」
「たまどの・・時でござる。時を見誤ればお家どころか国そのものが滅びかねませぬ・・」
「ああ・・かような話はしとうもない・・わたしに何の用でござりますか?」

立派な武士は姿勢を正した。
「たまどの・・播磨の名家である江藤のお家が、このまま滅びるのを見るのは忍びませぬ故、たまどのと次郎どのに是非、当家居城である妻鹿へお越し頂きとうござる・・これが、我らが主君、黒田官兵衛どののお言葉にて・・」
「そう言いながら、羽柴の命によってわたしを殺すのでありましょう」
「何をおっしゃいます・・主君はさような人ではございませぬ・・もしも、あなたさまや御子息に何かがありましたときは、拙者、命に代えましてお守り申し上げます」
武士は必死の表情で訴える。

「三木城も落ちてござる・・今は播磨は羽柴さまの御領地・・」
別の武士がそう呟く・・
「さよう、我が主君は秀吉様の軍師にてござる・・軍師たるもの、曲がった事は申されませぬ・・」
「では、何故、官兵衛どのが直々にこられない?わたしたちがあなた方の言葉を疑う事くらいは分かっておられよう・・」
「主君、官兵衛・・怪我を致してござる・・長く歩く事が難しいゆえ・・」

一時の沈黙が流れる。
「たまさん!騙されたらあかんで!」
仲間の女がそう叫ぶ・・
たまはあたりを見回した。
やや離れた位置に子供たちが立っているのが見えた。
次郎は泣いた目を腫らしている。
「たまさん!武家なんか!信じたらアカン!」
別の女が叫ぶ・・

けれども、たまは、この短い時間に考えた。
このまま、次郎がここに居ても・・所詮は遊び女の子供・・ろくなものになる筈もない。
いや、いずれは人買いに売られていくしかないかもしれない・・

別の考えも浮かぶ・・たまさえ、しっかりしていれば次郎を村の漁師に頼む事も出来るかもしれない。
そうすれば・・次郎は戦とは関わりなく生きていけるかもしれない。
しかし、武家は戦になると漁師も百姓も見境なく徴用もするし、戦に関わらずとも殺される事も多い・・

「わかりました・・黒田様を信じる事にしましょう・・その代わりにお願いがございますが・・」
「なんなりと、お申し出下され・・」
たまは、黙って突っ立っている女達のほうを見た。
「このものたちが、ここで安心して暮らせるように・・手配頂けませぬか・・」
「畏まってございます。必ずやこの方々が安心して暮らせるように取り計らいますれば・・」

松林は風がなく蒸し暑い・・
夕凪の時刻だ。
波の音も頼りなく、立ったままの人間たちは汗のしたたるのも忘れ、その場の結末を見ようとしている。
武士の後ろに夕日が降りてきて武士の顔は女達には良く見えない・・

やがて、たまが自分の子を呼ぶ。
「次郎!」
息子はよたよたと走ってきて母親の膝にしがみついた。

ややあって、未だ沈みきらぬ夕日に向かい、武家の一団と一組の母子が歩き始めた。
「今宵は林の城にて宿を借り申そう・・」
中心の男は、そういうと、松林の外れに繋いであった馬にまたがった。
「坊!馬に乗せてやろう!」
口を真一文字に閉じ、嫌々と首を振る次郎だったが、「乗せてもらいなさい」との母の言葉に、こわごわ、別の武士に抱かれ、馬の背に乗った。

一団は急ぐ事もなく、のんびりと去っていった。

後にこの子は成人し、武功を上げ続け、黒田家の重臣にまでなったと言う。
けれども、大阪夏の陣で豊臣方に組みし、亡くなったそうだ。
母親のほうは、子供が元服するまでは城に居たらしいが、その後は何処へ行ったか、分からなくなってしまった。
松林のあの村に、彼女に似た女がまた住みついていると誰かの噂に聞こえる。

出陣前夜


「殿!なにとぞ、軍議を開きますよう!」
絶叫にも似た声だ。
日の暮れかかった城内の大広間に詰めている泣く子も黙る筈の武者達ではあるが、誰も皆、心細さに不安の表情を隠せない。
「このままでは、丸根も鷲津も落ちてしまいます!」
髭面の大男が素っ頓狂な声を上げる。
風も吹かず、蒸し暑い。
永録三年五月十八日、西暦に直すと1560年6月12日の夕刻。
場所は尾張の国、清洲である。

「いやいや、殿には篭城され、稲葉山の御助力によりてこの難儀を乗り切るお積もりであらせられるのよ」
少しは物分かりのよさそうな老臣が髭面を諌める声も聞こえる。
「誰か、灯を!」
別の老臣が叫ぶ。

すぐに小姓が灯明に火をいれる。
さして明るくない灯明に照らされた部者達の顔は、強張り、汗が噴き出し、鬼のようになっている。
「されど!されど!このままでは、丸根の者どもは!」
「多少の犠牲はやむを得ぬ事よ・・」
「林殿!まさか、おぬし、佐々殿はじめお歴々の将士を見殺しになさるのか!」
「森殿!目先のことに戸惑っておれば大なる望みは得られましょうや!」
今にも老臣二人が掴みかからんばかりになりそうなとき、静かな声が溜息と共に響く。
「じゃがよ・・今川の四万にぶつかってしまえば、織田など木っ端微塵ぞ・・」
「柴田殿・・剛の者といわれるお主にも似合わぬひ弱な・・」
「ひ弱というなら言えば良いわ・・このままどっちに転んでも、清洲は明日には火の海よ」
「しかし、何か打つ手があるから殿は黙っておいでであろう・・」
「乾坤一擲!敵をひきつけて打つしかあるまい!」
「篭城はこもるほうが負けると・・決まっておるわ」
「決まってなどおらぬ!現に毛利家では吉田の郡山城にて篭城、尼子の大軍をば苦しめ、追い払ったと聞くぞ」
「毛利の後ろには大内がいたればこそじゃ」
「我が織田にも斎藤の後ろ盾はあろうが!」
「大内と斎藤とでは役者が違うわい」

「殿!是非、篭城の軍議を!」
「いや、殿!なんとか、丸根、鷲津の将士を救援する軍を!」
「これは、武士の面目でござる。仲間を見殺しにしてまで能々とは、生きておれませぬ!」

上座にどっかりと座ったまま、充血した眼で皆を見詰めているのがこの家の主人、織田信長だ。
具足もつけず、先ほどから嘗め回すように幕僚達一人一人を見ているのだ。
・・こやつらの、どれかが今川に内応しておろう・・
誰かが敵に内応しているのは事実である。
けれど、それを口に出すようなことは出来ない。
この場で作戦を告げたところで、すぐに今川義元もこちらの作戦を知ることになるのだ。

信長は幕僚達の声を嗄らしての議論も聞かぬ風を装っている。
脇に置いた酒を表情を変えずに飲む。
元々、酒はあまり好きなほうではない。
どちらかというと、果物や菓子のようなものが好きな質だ。
けれども、今日ばかりはこの騒ぎのなかで、平静を保つために酔いが欲しかった。

もしも、平静が保てなくなれば、それは即ち、自滅を意味している。
今は、耐えるしかないのだ。
頭の中に描いた最高の作戦・・
それへの準備はここに居る幕僚達の誰にも知られることなく、秘密裏に整っていた。

「殿・・」
彼の脇の戸が開く。
奥仕えの女が、彼に目配せをする。
「お前達はここで議論をしていろ!」
そう言い捨て、女の誘うほうへ導かれていく。
ここから先は誰人たりとも入れない、信長の私的空間でもある。

「猿か・・」
「さようで・・」
「蜂須賀、生駒の者ども、うまく動いておるか?」
「は、明日、昼を見計らい、今川義元殿本陣を桶狭間あたりにて足止めさせご覧に入れます」
「方法はあるのか・・」
「生駒党のもの、村の百姓男女と入れ替わり、貢ぎ物などを義元殿本陣に届けますれば」
「うむ・・桶狭間へは、どうやっておびき寄せるか?」
「それがしが一党、街道筋にてひと騒ぎなど・・」
「相分かった!多くは聞かぬ」
「しかし、丸根、鷲津はかなり苦しんでおるご様子・・明朝まで持たぬやも知れませぬが」
「うむ・・」
「何とか、逃げる手筈をせねばと思いますが・・」
猿と呼ばれた男は、暗い部屋で良く見えぬ信長の表情を伺っている。
「致し方なし・・許せよ・・」
しばらくの沈黙の後、信長はようやく、一言だけ言った。
「かしこまりました。では、明晩、良い知らせを・・」
「お主もな・・ここがわしらの踏ん張りどころだて・・」

信長はすぐに大広間へ戻ってきた。
「殿!なにとぞご決断を!」
「今、決断が為されなば、いずれ清洲は阿鼻叫喚の炎に・・」
「なにとぞ、丸根、鷲津だけでも・・」
口々に幕僚達が叫ぶのを、黙って聞いていた彼だったが、突然、大音声で叫んだ。
「やかましい!貴様らは黙ってわしの言うように動け!」
「殿!それでは!」
「殿!戦の世、降参も決して恥じるべきものでは・・」
その声の主だけは彼はしっかりと睨み付けた。
・・林か・・
次の瞬間、信長は意外なことを言った。
「腹もすきもうした!夕餉の支度も出来ておろう!メシだ!飯にしよう!」
奥のほうから小姓達の威勢の良い返事が聞こえる。

「もう駄目だ・・」
「ああ・・やはり、殿は御館の器ではござらぬ・・」
小さな声が広まる。
「殿に聞こえると、手打ちにされ申すぞ」
「御気性だけは随分と、荒っぽい方でおざるが・・いかんせん、戦を知らぬ・・」
戦に直面しているとあって、質素な膳である。
ただ、濁酒だけは、目を見張るくらいに運び込まれた。

「飲めや飲め!まさか、敵が迫っているときは肝っ魂が縮こまり、酒も飲めぬとは言わせぬぞ!」
信長は自分への悪口が囁かれているのを知ってか知らずか、皆に酒を勧める。
それも普段にない機嫌の良さである。

「やはり、殿はただの“うつけ”者よのう・・」
「ほんに・・ほんにのう・・」
宿老のなかには、信長から恭しく杯を頂きながら、陰口をこぼすものも居る。

髭面の大男、柴田は、杯をあおりながら、ずっと膳の淵ばかり見ている。
・・いや、殿の事だ・・これは、我らを欺いて、何やら大きなたくらみを図っているに決まっている・・
彼はそう思おうとした。
数年前、信長に反旗を翻した林にそそのかされ、彼もまた叛乱の戦を起こしたことがあった。
けれども、たくらみは見事に見破られ、彼も林もその時に首を斬られるところを、信長は意に介さず、助命したばかりか今にいたるまで重用してくれている。
柴田にとって今や信長は全てを賭けることの出来る神のような存在でもあるのだ。
・・しかし、本当に殿が“うつけ”ならば・・
悪事の同僚、林を見ると、彼はもう、信長を馬鹿にしきったのか、隣のものと何やらにやにや笑みをこぼしながら話をしている。
・・わしは、殿を信じるのみ・・
林を視線から振り払い、柴田はまた杯を空ける。

普段はめったに酒を過ごさぬ信長が、大酔している。
視線も定まらぬようだ。
彼とて飲みたい酒ではない。
“うつけ”を演じるために飲み出した酒だ。
けれども、飲むうちに、家臣の情けなさ、襲い来る大軍への恐怖・・そういったものが渾然となって彼に迫ってきた。
本当は泣きたい。
あるいは腹立たしく、居並ぶ宿老たちの首でも飛ばしてやりたい・・
元来が孤独感が苦手な彼である。
けれども、何も出来ない自分が居る。
これは策略である・・そう言い聞かせるが、自分でも本当に策略なのか、自分が皆が言う“うつけ”なのか・・分からなくなっても来る。

こうしている間にも前線からはひっきりなしに伝令が到着する。
伝令はこの部屋に呼ばれないので、彼らが幕僚の酒盛りを見て愕然とすることはないが、酒盛りをしているほうは、気にかかる。
ふらふらと、信長は立ち上がった。
「お主たちも寝よ!もはや夜もふけた!寝ずの頭では良い考えも浮かばぬわ」
信長はそういって部屋を出ていった。
残された幕僚達は、もはや何を言う気もなく、ただ、柴田や森ら数人が、甲冑を被りはじめただけで、他のものは、諦めたようにそれぞれの寝所へ下がっていった。
信長は、数人が甲冑を被る音を耳にしていた。

「さいよ!」
「はい・・」
信長に“さい”と呼ばれた女は、厳しい表情をしていた。
「少し、酒を過ごした・・」
「まあ・・明日は戦だというのに・・」
「今生の名残の酒になるかも知れぬ・・過ごしても仕方あるまい」
「今生の名残?」
「そうだ」
「私にはとてもそうは思えませぬ・・殿が弱気になるとすべての努力が水の泡でございます」
「おお!そうよの!さいには、いつも世話をかける・・」
「御館様・・私は、この勤めが嬉しくて、させて頂いております」
「そうか・・そうだったな・・」
「御家臣のなかにも、少しは骨のある方もおられましょうし・・」
「そうだ・・甲冑をつけていたのは・・あれは柴田か森か・・」
「自分の身ばかり可愛いお偉方は放っておかれ、良い家臣だけで進めば良いではありませんか・・」
「そうだ・・うむ・・まさしく、さいの言う通りだ・・柴田は可愛いやつよ」

信長の足はもつれ、呂律も回らない。
さいの肩にもたれて、だらしなく奥へ入っていく。

寝所にはすでに布団が敷いてある。
「うむ・・少し休もう・・」
そう言いつつ、信長の目が光る。
部屋に入った途端、彼の表情が引き締まる。
「明日の準備は良いか?」
「はい、今川殿のどのような動きも見逃しはしませぬ・・」
「猿とは連携がなっておるか・・」
「もちろんでございます」
「義元殿の顔を見知っているものは・・?」
「武田信虎殿の家中におりました桑原甚内と申しますもの・・このものが同道いたします。明朝、熱田の宮にて、簗田からご紹介があります」
「分かった!で・・明日の気象はどうなりそうだ・・」
「明日は、必ず大雨となります。時刻がはっきりしませぬが、案外、雨の降り出しは午ごろになるかと・・」
「それまでは持ちそうか?」
「たぶん・・」
信長の表情が変わった。
子供のような笑顔になった。
「勝てるの!」
「はい!」
信長の肩から力が抜けていく。
けれども、酒の酔いが抜けない。
「さい・・よ・・」
「は・・」
「今宵は構わぬか?」
そう言われた彼女は、すこし身を捩って、それでも、小さな声でこういう。
「今生の名残でなければ・・」
信長は、彼女を正面から見据え、笑顔になる。
「おう!明日もじゃ!」
さいも、軽く笑顔を見せる。
「なら、お好きに為さいませ・・」

信長は獣のようにさいに、覆いかぶさった。
さいは声を激しく上げ、信長にされるままに、身を任せる。
彼女は、実は信長が活用している忍びの纏め役でもある。
その彼女は、前線で指揮を執っている“猿”や簗田と組んで、大仕事をしている。

蒸し暑い夜の奥の部屋で、信長はこれまでの鬱憤の全てを吐き出し、新しい運を掴み取ろうとしていた。
その彼の思いは、そのままに、彼と睦みあい、汗を吹き出させる女の白い肌に向けられていく。
「勝つのじゃ!わしは死なぬわ!」
彼は、何度もそう絶叫し、女は彼の全てを受け入れていく。
彼女にとっても新しい運・・そこを乗り越えなければ、必ず死出の旅路となってしまう峠を、今、この男に賭けたかった。
彼女は妻でも側室でもない。
ただ、仕事として信長の側に詰めているだけだ。
側室になろうと思ったこともない。
ただ・・自分の運が欲しい・・
身悶え、絶叫しながら、彼女は明日の勝利を確信していた。

御幸橋

雨が降っていた。
秋になったとはいえ、いまだ夏のあの蒸し暑さが残る雨だ。

広島、平和公園の平和祈念館への道を、僕は、安物の傘を差して歩いていた。
今度こそ、君とのことについて、僕は答えを出さなければならない・・
別に、そこまで思いつめる必要もなかったと・・今になればそう思うのだけれども、若さというものの持つエネルギーには、必ず焦りがあると・・誰かがそう言ったその焦りの罠に、僕もはまり込んでいたかもしれない。

昭和63年秋・・
僕は、毎月一度か二度、こうして広島を訪れては君に会うことにしていた。
僕は君への思いを募らせてはいるけれど、それは、はたして純粋に君が好きだからなのか、それとも、君がたまたま僕を相手にしてくれるからなのか・・もはや分からなくなりつつあった。
というのは、僕はその頃、結婚する相手を探していたけれど、君にはその意志だけはないようだった。
それは、君が僕を嫌いというのではなく、結婚というものを自分の人生の中に置くことが出来ないという・・そういう意味だったのだけれども、僕にはそのことを理解できる人間的な広さが欠けていたように思う。

秋の雨は激しい。
路面電車が自分の後ろを行く騒音は、僕にとっては広島の町そのものを印象づける大事な音だ。
その音さえも雨の音で途切れて聞こえる。

原爆の火に、手を合わせた。
たくさんの折鶴が、悲しく沈んでいるように思えた。
僕は、昔・・生まれるよりも前に、この町にいたような気がすることがある。
夢の中に時折出てくる景色・・
立派な石造りの建物の前で、僕は夏物のシャツを着て、信号を待っていた。
そして、それはその次の瞬間には暗闇になって、何も出てこなくなる。

僕は、自分が広島の町に来ていることに不思議な縁のようなものを感じてもいた。
君に会うまでも、僕は何度もこの町に来ていた。
それは、好きな路面電車を見る為でもあったし、時には町の片隅の居酒屋で、この町の酒を飲む為でもあった。
けれども、その頃の僕には広島の町は、そう言った趣味の対象ではなく、君という女性のバックに存在する大事な景色の一つになっていた。

僕は、祈りを捧げてから、君との待ち合わせ場所である平和祈念館のピロティに向かった。
時間は午後1時・・
雨のせいか、周囲に人影は少なく、僕はベンチに腰掛けて、読みかけの文庫本を取り出した。
本を読めども頭になど入らない・・
物語を追っても、それが頭の中で組み立てられない・・
どうにも苛々した心境で、頭がこそばゆい感じがする。

そこからは、君が勤めている病院の建物が見えた。
あそこで、君が白衣を着て仕事をしている・・そう思い、自分を落ち着かせようとするのだけれど、一度苛立った心は容易に落ち着かない。
雨が強くなった。
さすがに、涼しい風が吹いてきた。
雨の音が大きくなり、僕は、何だか力を入れ続けていた自分が情けなく思えてきた。
ポケットからウィスキーの小瓶を取り出した。
一口、二口・・瓶の半分ほど残っていたウィスキーは、あっという間になくなった。
胃のあたりが熱くなり、身体の力が抜けていく・・

僕はベンチに横になり、顔に文庫本を乗せた。
朝から山陽本線の各駅停車を何度も乗り換え、神戸から広島に着いた。
新幹線に乗れば、特急券などの余分なお金が必要になる。
安サラリーマンの僕には、広島行きを出来るだけ継続する為には、少しでも節約するしか方法が無かったのだ。
どのみち、君は今日は午前中一杯は仕事だ。
そう思い、電車を乗り継いだものの、早起きと長時間乗車の疲れが余計に僕を苛立たせていたのかもしれない。
ウィスキーが空きっ腹に沁み込むと、僕は、眠たくなった。

「何、しとるんよ」
懐かしい声が聞こえた。
目を開けると、君が、呆れたような顔で僕を見下ろしていた。
「ごめんね、仕事、伸びたの・・」
「あ・・いやいや・・」僕は、身体を起こしながら、返事をした。
文庫本が僕の胸元から落ちた。
「お腹・・すいたでしょ・・何か食べに行く?」
僕の決意にも似た想いとは裏腹に、君は屈託がなく、明るい表情をしていた。
「なんでも・・ええよ・・食べたいもの何かある?」
「うーん・・素麺かなあ・・」
「素麺?何処かそんな店がある?」
「知らん・・自分で作ろうかな・・」
ジーンズ地のミニスカートに、薄いブラウスという、ラフな恰好の君は、そう言ったかと思うとさっさと歩き始めた。
「どこへ行くのん?」
僕の質問に「あたしの部屋!」と答えてくれる。
僕は、慌てて傘を差して、君の後を追いかける。

少し待つだけで、君のアパートのある方向へ行く路面電車がやってきた。
乗り込むと中は大勢の乗客の人いきれで、むっとしている。
電車は、紙屋町の交差点あたりに差し掛かると、なかなかスムーズには動かない。
「あたし、路面電車・・きらい」
君はふっと、思いついたように言う。
「どうして?」
「のんびりしすぎていて・・あたしには合わない」
「それは、君があまりにもセッカチだからやろ・・」
僕がそう言うと、君はふっと笑顔を見せてくれる。
「あたし・・セッカチちがう・・」
僕は、笑いながらも膨れっ面を見せる君を見ることに満足していた。

電車は商店街の喧騒を抜け出し、幾分快調に走ってはいたけれど、やがてまた、交差点手前で停止してしまった。
「ここが嫌なん・・いちいち電車が左によって・・そのたびに信号で停まって・・」
不満そうに君は言う。
「なんで・・こんな面倒なことになってるの?」
「工事中なんよ」
電車は、橋のちょっと手前で停車して、信号が変わるのを待ってから、おもむろに道路を左に横断する。
そこから、路面電車らしくない、線路だけの橋をゆっくりと渡る。
渡り終えた電車は、今度はまた信号を待つ。
そして信号が変わってから、おもむろに道路の中央に移動して、本来の軌道を走り始めるのだけれども、その先にまた信号があり、そこでも少し待ってから、右へ大きく折れ曲がり、左の方向から続く路線と合流する。
「面倒くさい橋やな・・」
「でしょう・・」
二つの路線が合流したところで、僕たちは電車を降りた。

雨の中、傘をさして並んで歩く。
線路から離れ、路地にはいると、古いコンクリートの時代がかった建物があり、その建物を回り込んだところが君のアパートだった。
僕は何度か、このアパートには来ていたけれど、中に入れてもらうのは始めてだった。
いつもは玄関先で、チャイムを鳴らして、君が出てくるのを待っていた。

部屋は思ったより広く、僕は居間の絨毯の上に座った。
「なんか・・へんな気分・・」
僕は、まるで自分がここの主人になったかのような気分になっていた。
卵を焼く音、何かを切る音、湯を沸かす音・・
換気扇が回るが、冷房のない部屋の中は蒸し暑い。

「出来たけん」
そういって出されたのは、ガラスの鉢に入れた素麺とその上に錦糸玉子やハム、きゅうりの千切りを乗せたものだった。
それにつゆをかけて食べるという。
「変わった素麺やな・・」
「あたしね・・関西の・・あの、氷水に素麺を入れるの好きとちがうんよ・・これ・・みんな冷麺みたいじゃって・・いうけど・・こっちの方が好きなん」
「ふうん・・」
僕には、その差はどうでも良くて、君が作ってくれたもの食べるというだけで充分な幸福感と、同じくらいの妙な違和感を感じてはいた。

小さな窓から、外のひんやりした風が入る。
君は、座椅子にもたれかかり、うまそうに煙草を吸う。
そして、煙草の煙を目で追いながら・・定まらぬ目線を宙に向ける・・
時折、目を瞑っては大きく煙を吸い込み、ふう・・と声を出してその煙を上の方へ向けて吐き出す。
煙は部屋の中に漂い、君はその煙の行く末を見つめている。
ボタンを外したブラウスから、白い肌がのぞいている。
さして大きくない胸だけれど、その事が君を余計に幼く見せる気もする。

僕は、君が寛いで煙草を吸うその仕草に、どうしようもない欲情の高まりを覚えた。
「なあ・・」
「なあに?」
「抱きたい」
思い切ってそういうと、君は驚く風もなく、僕を見つめた。
「嫌・・」
「抱きしめるだけ・・」
「嫌じゃ・・」
小さな声で、そう呟き、煙草の火を消す。
「どうしても?」
「だめ・・」
「キスだけ・・」

君は立ち上がり、部屋の隅にあるステレオのスイッチを入れた。
「この曲・・好きなんよ」
そう言い、カセットテープをステレオに入れる。
「お願い・・抱きたい」
僕が、またそう言うと、君は、元の座椅子に座り直し、頭を下げた。
「ごめんね・・気分じゃないの・・追い出されたくなかったら・・そこでのんびりしていて」

部屋の外は雨・・
少し冷たい空気が流れ込んでくる。
音楽はどういうわけか、ラップの効いた外国の曲を日本の歌手がアレンジして歌うものだった。
伸びやかに歌う歌手の、その声の響きが、僕のおかしな気分を収めてくれる・・
「どう?いい曲でしょ・・」
君は、ついさっき、僕がおかしな迫り方をしたことも忘れたかのように、寛いでいる。
「コーヒーを・・入れるわね。あたし、コーヒー入れるの上手なんよ・・」
雨の音をバックに、歌が流れ、二人きりの緩やかな時間が過ぎていく。
僕は、いまし方の情けない欲情を、君が柔らかくほぐしてくれたことに気がついていた。
コーヒーの香りは、煙草の香りと混ざり、部屋を大人の女性の部屋に見せていく。
見た目には、幼く見える君だけれど・・・

いつのまにか眠っていたようだ。
外がすっかり、暗くなっている。
僕の上には毛布が掛けてあった。
君は、僕のすぐ側、手を伸ばせば簡単に抱き寄せることが出来るところで、寝息をかいていた。
君の身体に毛布はない。
僕は自分の上にあった毛布を君に掛けた。
気持ちよさそうに、体を横に向けて、君は眠っている。
僕は、今が何よりも大切な時間ではないかと、思った。
眠っている君のブラウスから、白い肌と、その下のピンクの下着が見える。
君のきれいな形の唇の上、小さな傷痕が見える。
子供の頃の、交通事故の名残だといった。

薄い眉、ソバージュにした髪。
自然のままで長くきれいな睫毛、透き通るような白い肌・・まるで北国の小学生のようにいつも薄く桃色に染まる頬・・
僕は、君が歩いてきた道程をまったく知らない。
もしも、君が恵まれた境遇にいるのなら、中学を出てすぐに寄宿舎生活をするなどという道は選ばなかったのではないか・・
小さな頃に、母親を亡くしたと聞いた。
母親不在の家で、君は何一つ不自由はしなかったのだろうか・・
母親の愛に代わるだけの愛を、誰かが君に施してくれたのだろうか・・

君は、神戸の町から広島に来るときに「故郷に少しでも近いから」といったけれど、君の故郷は広島は広島でも、今のこの場所から軽く数時間はかかる山の中だ。
神戸から君の故郷にいくのと、広島市内から君の故郷にいくのとでは、大した時間や距離の差はない。
神戸にいながらにしても、関西弁に染まることもなく、標準語になるわけでもなく、広島弁のイントネーションや、語尾を残す君の頑迷さは、君という女性が、その年齢以上の苦労をしてきたからではないか・・

だけど、僕には君のそれまでの人生を、可哀相だとか、苦しかったろうとか思う単純な思考に持っていくつもりはなかった。
それは、君という女性がいつも屈託なく、開けっぴろげであり、楽しいときは本当に楽しそうに無邪気さをばらまくからでもあるし、僕がそういう君の今を好きだという想いからだと・・自分では思う。

僕は立ち上がった。
窓から外を見た。
日暮れた空の下、広島の下町の情景がある。
路地裏ではあるけれど、窓からは意外な広さの空き地も眺められた。
少し寒い。
僕は、窓を閉めた。
ステレオに近づき、停まったままになっているテープを裏返して挿入する。
部屋には、君のお気に入りの音楽が満ち始める。

音楽が10分ほども鳴った頃、君は眠そうに目を開けた。
「あら・・あたし・・寝てたん・・」
君は、身体を起こし、毛布に気がついた。
「優しいんじゃね・・毛布、掛けてくれたん・・」
「最初に掛けてくれたのは君やで・・」
「あなたも・・いきなり寝るんじゃけん・・」
「眠かったし・・」
「寝とらんかったら・・襲ってきたかもしれんし・・」
「ごめん・・あれは僕がおかしかった」
「うううん・・別におかしくない・・あなたも男ってこと・・」
君は、膝に毛布を置いたまま、煙草に火をつける。
うまそうに目を瞑って吸う。
・・きれいだ・・
僕には、いま、目の前に映る全てが宝物に思える。
「何か言った?」
「ああ・・煙草を吸う姿が・・きれいやなって・・」
君は僕の言葉を聞くと、一気に笑顔になった。
「うそじゃあ!・・女が煙草を吸うの最低なんよ・・」
「いや・・ホンマにきれいや」
「そりゃあ・・あなたが、あたしに惚れとるんよ・・」
そう言って大きく笑う。
僕は君の、この笑顔も好きなのだ。

「お腹空いた・・」
ふっと君がもらす。
「メシでも・・行こうか?」
「うん・・つくるの嫌・・」
君は僕の顔を見て笑う。
立ち上がり、僕の目の前でスカートからはみ出たブラウスを整えている。
「パンツ、見えとるで・・」
「かまん・・どうせ、あなた・・」
「また、色気を見せたら、僕が変な気分になるぞ・・」
「へんな気分になっても、あたしは知らんよーだ・・」悪戯っぽく笑う。
僕らは、ゆっくりと、町の中へ出ていった。

路面電車が走る通りに面したファミリーレストランは混んでいたけれど、運良く待たずに入ることが出来た。
君は、レストランでは、どうでも良いような友人の噂話を聞かせてくれる。
でも、その友人たちは、皆、神戸にいるのだ。
窓の外を電車が通る。
「あのね・・」
「なあに?」
「神戸に帰ることは・・できないのかな?」
僕は思っていることを口に出した。
君は、突然、口をつぐみ、大きな目を更に大きく見開いて、僕をじっと見詰める。
料理を頬張ったまま、君は大粒の涙を流し始めた。
そのまま、僕を見たまま、涙を流し続ける。
「なんで?・・ご飯・・食べてるのに・・そんなこと・・言うの?」
君は、ようやく口の中のものを飲み込んで、切れ切れにそう言う。
「あ・・悪かった・・」
僕は咄嗟に謝った。
君はまだ、僕を見つめ続ける。
僕は、君の視線から逃れたくて、窓の外へ目をむけた。
おりしも、緑色の路面電車がゆっくり走ってくるところだ。

「電車を見んといて・・」
僕は君の声に、君から視線を外せなくなった。
「ごめん・・もう言わない。約束する」
「ほんと?」
「ホント・・」
僕は、大袈裟に君に謝った。
君は、その様子をじっと見ていたと思うと、いきなり笑い出した。
「仕方ないんよ・・あたしだって、神戸に帰りたいんよ・・」
そう言った後、また、友達に話題に入っていくのだった。

店を出ると雨は上がっていた。
僕はそろそろ広島駅へ行き、新幹線に乗らなければならない。
最終の「ウェストひかり」は21時48分だ。
「帰らな・・あかん・・」
「うん・・」
「また来る・・」
「うん・・また来て・・」
僕らは電車道を北に渡り、小さな公園に入った。
公園を、何も言わずに歩く。
君はついてきてくれる。

ベンチがあるが、濡れて座れない。
僕らは立ったまま、川を眺めた。
見ると、南の方、路面電車が窓一杯の光をこぼしながら、橋を渡っているところだった。
電車は、一旦、橋の手前で停車し、ややあってから動き出す。
ゆっくりと、橋を渡った電車はまた停車する・・
「面倒くさい橋やな」
「御幸橋・・だって・・」
「橋の名前がか?」
「うん、幸せの御幸橋・・」
「幸せは回り道って事?」
「さあ・・それは分からんわ・・」
また反対方向の電車が同じように面倒くさい渡り方をする。
その間に、最初は並んでいたクルマやバスはさっさと走り去ってしまう。
川面は真っ暗で、時折、川向こうの道路を走るクルマのヘッドライトが映り込む。
「人生も、回り道・・せなアカン時があるんやろうなあ・・」
僕の言葉に、君は、じっとうつむいていた。

対岸にクルマが走る。
ヘッドライトが、向きを変え、クルマは町の中へ入っていく。
僕は、並んでいた君に向き合った。
「好きだ」
やっとそう言い、僕は君の肩を持った。
君は、僕をじっと見たまま、何の抵抗も示さず、僕の腕の中へ入ってきた。

僕らは自然に口付けをした。
君の暖かさが僕に伝わってきた。
君の身体の柔らかさが僕に伝わってきた。
僕は長いこと、立ったまま君を抱きしめていた。
君は必死になって、僕に何かを求めようとしていた。

シュボッ・・路面電車特有の去勢されたような警笛が聞こえた。
僕は、君を離した。
「また・・来る」
「うん・・」
僕らは、電車の停留所に向かう。
雨に濡れた路面に信号機やネオンサインの光が映り、それがにじむ。
やがて、路面電車がゆっくりと近づき、僕は最後に停留所で君の頬にキスをした。
「また・・」
「うん!」
「来月・・来る・・」
「うん・・」
電車のドアが開き、空いた車内へ僕は入っていった。
走り出した電車の後ろの運転台の方から、君を見ていた。
君は、停留所に立って、手を振って見送ってくれていた。

僕は、手を振り返しながら、それでも君と僕との間には、例えば結婚出来るような深い縁が、今のところは見当たらないことを実感せざるを得なかった。
手を振る君を見つめながら・・僕の頬に涙が落ちてきた。

俺の店


(この物語はフィクションです)

俺は、閉店となった自分の店の前で、呆然としていた。
苦労は必ず実る・・そんな言葉を学校で聞いたことがあった。
努力はすべて己の力となる。
誰かが、そうやって褒めてくれた。

写真館「アールフォトスタジオ」は僅か6年の命でここにその歴史を閉じた。
何が悪かったのか・・
何が足らなかったのか・・
俺にはまったく見えていなかった。
だから、天候不順だとか、あるいは宣伝の不足であるとか、そう言った事にばかり原因を見つけ出そうとし、俺は懸命の努力を重ねた。
努力をすれば、一時的に客は増える。
割引券を出せば、一時的に来店客数は増える。

時代に合う店にしようと思っていた。
だから、スタジオだけではなく、最新鋭のDPE器材も投入した。
俺がした借金は・・スタジオ器材や店舗の改装費も含め2000万円近くになっていた。
毎月の返済額は軽く30万以上・・
それに店舗の家賃が16万円、光熱費が3万円・・
アルバイト二人の給料があわせて12万円・・
春先や秋のシーズンですら月の売り上げは120万円ほどだ。
2月、6月のオフシーズンになるとその半分にも満たない。
材料費も必要だ。
これでは・・経営は成り立たない。

俺が独立したのは、まだこの業界に過去の残照が残っていた頃だった。
デジタル化の進展は、顧客の撮影カット数の増加という形で、写真店の売り上げへ大きく寄与すると・・
俺だけではない。
フィルムメーカーもカメラメーカーも・・問屋も組合も・・そう信じていた。
だから俺は、独立した最初のころの売り上げの低迷の原因は努力でカバーできると信じていた。

違うのだ。
文化の形が変りつつあるのだ。
俺にこれを教えてくれたのは、俺のかつての同僚で、苦労に満ちた人生を歩みながらも、なんか小さなDPE店を継続している俺の親友だった。
親友は、徹底的に低コストで店を運営していた。
だから、店の場所も商店街でもない、住宅地のど真ん中にしていたし、DPE器材は中古品を探しては入れ替えていた。
俺は、彼のやり方を「あまりにも貧乏臭い」と思っていた。
だけど、あいつには見えていたのだ。
業界の崩壊が・・

「デジタル化の時代、写真はパソコンかネットの中だけでしか存在せず、紙に焼き付ける作業はいずれ大きく減少する。これは写真に限らず、伝票でも帳簿でもそうなっていく。そうすると、紙に文字や映像を焼き付ける仕事というものは、結果的に大きく減少するしかない」
あいつは、俺と飲んだとき、こんな事を言っていた。
俺は業界の不振は、DPE店をライバルに見据えたかのような家庭用プリンターの存在があるからだと・・あいつに自分の意見を言った。
「それはお前の意見のようでいて、実はただの受け売りでしかない。一時的に見れば家庭用プリンターはDPE業界の仕事を食うかもしれないが、その影響はむしろ、デジタルカメラによる撮影ショット数の増加で差し引きされるのではないか?それより恐いのは、写真を物理的な形にして残すという文化が消滅していくことだ」
あいつは、恐るべき事を口走る。

・・それでは、おれたちの仕事に意味はないのか?・・
そう反論する俺にあいつはこう答える。
「そんな事はない。まだ、紙の文化が消滅するまではかなりの時間を要する。少なくとも、仕事としては俺達の仕事はまだ当分、無くなることはない。だが、そのパイは大きく減少する。つまりは生き残ることの出来た店しか、社会システムの中で有用だと捉えられないわけだ」
・・生き残る為に必要なことは、考えうる最大の投資ではないのか・・少なくとも旧来のシステムに依存せず、顧客に魅力をばらまいて、顧客を引っ張ることの出来る店に脱皮するしかなかろう・・
「違うな・・今の投資は基本的には、過大に過ぎるのだ。ここ10年続いたデフレの波の中で、写真業界の価格はこれ以上は下げられないところまで下がってしまっている。その状況で、新鋭の器材一式1000万円で足らないという・・しかも、そのリースを組んだ日には、器材の所有は最大でも6年から7年が限界だ。これでは到底割に合わない」
俺は、器材のリース費用に頭を悩ましていたから、あいつのこの発言はまさに俺の痛いところを突いた。
だが・・俺はそれでもあいつに負けたくはなかった。
俺は芸大で写真を専攻していたし、業界に入ってからでも常に第一線にいたという自負がある。
あいつは、俺がいたスタジオのチーフに「弟子入りしたい」と自分から飛び込んで、そして仕事ぶりはまさに弟子の・・丁稚の仕事に徹していた。
俺はいつもあいつより上位に居ないと気が済まない。
だが、あいつはいつも淡々と、袖のほころびたシャツを平気で着て、暗室作業を天性の仕事のように黙々とやってきた男だ。
そのころ、俺はすでに一人前の撮影者として・・認められていた。
「今、必要なのは、何年かかるか分からない・・この苦境を乗り切る強靭な意志しかない。それさえあれば智恵は涌いてくる」
・・意志だけが必要というのはおかしいだろう・・
「俺は写真が好きだ。この道でしか生きていけない。だから、業界全体が大変な状況になっているこの時こそ、おれは、地面に穴を掘ってでも、嵐をやり過ごすのだ」

俺は、あいつの強烈な意志に驚きながら、それでもあいつを見下していた。
DPEは嵐かもしれない。でも、スタジオは人類の文化がある限り生き続ける・・
「それはそうだろう・・だが考えてみてくれ・・紙に写真を焼き付けない世代にとって・・スタジオの写真はどういう位置づけになるのか・・結果として、成人式、卒業・入学、婚礼・・その程度の仕事しか残らなくだろうし、それもデジタルカメラの進化や、画像処理技術の一般化で、結果的には自分達で撮影し、パソコンの中やハードディスクに保管する・・その方が取り出しやすいし、送ることも簡単だ・・そうなってくると、記念写真といっても、そのパイの極度な減少に変りはないということになり、強烈な個性を有するならともかく、一般的なものしか出来ないようでは未来は存在しないと思う」
・・だから俺は、高品質のスタジオ商品を目指しているのだ・・
「今までのやり方の続きにあるものでは駄目だと思う。婚礼写真にあってもスタジオ写真よりは、個性的なスナップショットが増えているのが現状だ。今の時代の顧客の求めているものを見失うと、結果としてどうにも立ち行かなくなると見ている」
・・では、俺のしていることは無駄なことか?・・
「それは俺には分からん・・ただ、俺は俺の感覚に素直に従うだけだ・・」
・・お前の意見がどうあれ、俺はあまりに貧乏臭いことはしないつもりだ・・しっかりと最高の武装をして戦うのみだ・・

俺はその時はそう言ってこの話を切り上げたのだ。
俺には俺のプライドもある。
中古品で店舗の営業などしたくもないし、いざとなればそれなりの資産を持つ俺の実家から助けてもらえる。
そう思ったものの、顧客は減りつづけた。
あいつは、はじめから低価格路線を突っ走っていったけれども、俺は、最初はそれまでの販売価格を下げる気にはなれなかった。
利潤が出ている価格を維持しないと店は立ち行かなくなる・・
俺はそう思ったのだけれど、案外、安売り路線を走るあいつへの対抗意識の方が強かったかもしれない。
・・俺は安物は売らない・・
いつのまにか、俺はそう呟くようになっていった。
スタジオ撮影でもまず、七五三のシーズンに閑古鳥が鳴いた。
ショッピングセンターに出来た「子供写真館」による衣裳、着付け、撮影の低価格セットのあおりをもろに食らったわけだ。
あいつは、七五三のシーズンは、はなから無視するような仕事の仕方をしていた。
11月にあいつは「DPE劇安キャンペーン」と銘打った粗末なチラシを、家族一同で手撒きしていたのだ。
俺は問屋のカラーチラシを使って新聞折り込みを行った。
「七五三はプロのお店へ!」
ポップ調で書かれた大きな文字とメーカー配給の美しい写真・・
けれど、チラシを見て電話をかけてきた人たちはあったものの、価格を聞くと一瞬、声を飲んでそのまま切れてしまうようなことが続いた。
俺の七五三キャンペーンは大失敗だった。
印刷代、折り込み代含めて20万円ほどは消えてしまった。

その2ヶ月後、年が明けてすぐの成人式の日・・
その日の為に、俺はいつもの年と同じように、町中の美容院を回り、挨拶をしていった。
もちろん、着付けやへアセットで集まった顧客にうちの店を紹介してもらう為だ。
けれど、その年はいつもの年とは違った。
「・・うちも、今年は全然予約がないのよ・・」
そう、開き直ったかのように答える美容室がほとんどだった。

それでも、成人式の日・・朝から5人・・振り袖のお嬢さんが来店してくれた。
そして、その5人の次は・・もうだれも来なくなってしまっていた。
いつもの年では俺のスタジオで、成人式の記念写真を撮影する顧客は30人以上になるのだ。
それが、その有り様だ・・

あとで、この町に進出した大手の衣裳屋が貸衣装とセットで、しかもあらかじめ前撮りの形で写真撮影をサービスしていたことが分かった。
俺は、所詮、アマチュアに毛の生えたような衣裳屋のカメラマンでは、今年は良くても下手さが口コミになって伝わり、来年は駄目になるだろう・・
そう思っていた。
そう思おうとした。
けれど、たまたま、写真の複製を依頼してきた顧客が持ち込んだ、その衣裳屋が撮影、仕上げした写真を見て・・俺は息を呑んだ。
きちんと基礎が出来ているカメラマンによる、きちんとした写真だったのだ。
・・衣裳屋がカメラマンを雇ったのか・・
愕然とした俺は・・俺の店の体力では、到底手が回らない・・衣裳や美容、着付けといったものまで抱え込んでいる大手に勝負を挑む力がないのを実感するだけだった。
俺がはじめて味わった挫折感だった。

スタジオ中心の店ゆえ、俺の店は高級感を漂わせている。
あいつの店のような、ポップまみれの、いかにも安売りといった雰囲気ではないことは確かだ。
スタジオが駄目になると、今度はDPEに力を入れるしかない。
けれども、高級感漂う店ではDPEの顧客は、常連がほとんどで、そこからの進展は望めない。
俺は焦った。
あいつにヒントを貰おう!
そう思い、あいつに相談をした。
「だから・・スタジオが駄目だからDPEに力を入れるのは理解できるが・・それをどうやって進めるのだ?」
・・値下しようと思う・・
「値下?お前の店が値下をしたら、失うものの方が多くはないか?」
・・いや、高いというイメージを払拭すればいずれスタジオも復活するだろう・・
「それは・・違うと思う。ここまで来て、安売り店になるというのは・・ある意味ではこれまでの顧客を捨てることにならないか?」
・・お前は、俺の店にお前の店の客が食われると思っているから・・そんなことを言うのだろう。安売りでお前が立派にやっていけるのなら、俺はもっと大きくやれると思うのだ・・
「俺の店とお前の店では5キロほど離れているし、商圏が全然異なるから、お前の店が俺の顧客を取るとは思えない。けれど、お前の店のイメージを壊すことが良いことかどうかは・・俺にはこれ以上は答えられない」
・・そうかと・・言って、俺は電話を切った。
安売りをするのだ。
チラシを撒くのだ。
それは俺の決意だった。

顧客は増えた。
安売りは成功したかのように思えた。
売り上げは一気に向上した。
けれど、支払いの段になって俺は、問屋からの請求書を見て、顔から血の気が引いていくのを感じていた。
安売りの結果は大幅な原価割れと言う現象を招いてしまったのだ。
何故だ!
俺は、薬品や印画紙の価格を見直した。
まったく問題はない筈だった。
原価の倍で売れば・・その分は儲けで残る筈だった。

けれど、俺は自分の店の固定経費の高さに気がついていなかったし、作業量が増えれば増えるほど高くなるもの・・光熱費や薬品廃液の処分料・・そして、忙しくて首が回らなくなって来たことからアルバイトを新しく雇ったことによる人件費・・
安売りを始めて最初の支払いの後・・俺に残ったのはわずか3万円ほどの利益だけだった。
これで家族を養える筈がない・・
俺は愕然とした。
これでは、安売りをした意味がない・・

俺は今度はDPE料金の値上げを企画した。
安売りの価格を低くしすぎたことから収支のバランスが崩れている。
俺はそう思った・・そして、今度は安売りをする以前の価格との間の価格帯を狙って、設定し直した。
そして、それを実行する前にあいつの意見を聞いた。
「今度は値上げ?・・それは止めた方が良い・・低価格路線に入ってしまったのだから、今度は利益幅を出せるように、顧客の増加を考えた方が良い」
・・お前がいいかげんな奴だと良く分かった・・
俺は、あいつに噛み付くようにいった。
・・値下げを反対され、今度は値上げを反対する。それでは俺の生きる道がないではないか・・
「違う!右往左往してはいけないんだ。顧客はじっと見詰めていてくれる。多少しんどくても一度やり始めたことには責任を持つしかないのだ」
・・責任を持つと言っても、すでに顧客は増えている。ここで値上げに踏み切るのが経営戦略だ!・・
俺の叫びにあいつは、黙り込んでしまった。
そして、ややあってからこう言った。
「健闘を祈るよ。思うようにやれば良い・・でも、友達としてこれだけは言っておく。困ったことがあれば、何でも相談してくれ・・」

値下の後の値上げは、忙しさから開放される状況を作り出したものの、俺の店の元からの顧客までもが離れていってしまったようだ。
俺の店は一気に暇になった。
売り上げはどんどん落ちていく・・
それでも、最初のうちはやや黒字額も増えて、ほっとしたものだ。
だが、それがいけなかった。

一度赤字を出してしまうと、それが続くようになった。
赤字を出すと言うことは、それだけ自分が溜めたカネが減っていくと言うことだ。
そうでなくとも黒字になったところで生活があるのだから生活費に満たなければ・・溜めたものは減っていく・・
最初は、緩やかだった貯金の減り方は・・やがて、大きくなっていく。
わずか数ヶ月・・
俺は、自分の店がもはやどうにもならない状況になっているのを感じ始めた。
支払日にどう考えてもすべての支払いを済ませることが出来ない・・
春のある日・・
俺は来るべき時が来たことを知った。

店を閉めると決断しても、問屋、リース会社との交渉が出来なければ首をつらねばならない。
俺は絶望感に打ちひしがれながら・・必死で取引先に頼み込んだ。
店を1ヶ月余分に開けるとそれだけ事態は悪化する。
幸い、リースの残っていた器材には中古市場での人気もあり、売却価格と相殺すると俺の負担分はそれほど多くはなくなることが分かった。
・・閉めるのなら今だ・・
俺は、借金が増える恐怖感を味わいながら・・店を閉める為に奔走した。
そして、今日、ようやく段取りがついたと言うわけだ。

愛すべき店は、明日も今日と同じように顧客を迎える積りでいるかのようだ。
あくまでも堂々としている。
店の看板は俺が自分でデザインしたものを看板屋に作らせたものだった。
悪いのは俺だった。
あいつの忠告をしっかり受け止めていれば・・
そう思いながら、俺は店を眺めていた。
ふと、人の気配を感じた。
「閉めたのか!」
あいつの声だった。
俺は恥ずかしくて、あいつには連絡をしていなかった。
・・ああ・・落城だ・・
「ご苦労さん!後で呑みにいこう!」
・・いや、いいよ・・俺にはカネもないし・・
「おごりだ!心配するな!それより、今日はお前の新しい人生の前祝いだ!」
俺はあいつの顔を見た。
涙が出そうになった。
「それはそうと・・店の器材は処分するのか?」
・・ああ、DPEの器材はリース会社が引き取った上で売却するらしい・・
「他の器材は・・?」
・・荒ごみかなあ・・粗大ゴミの日にでも出そうと思う・・
「それならちょっと見せてくれ・・カメラや、スタジオのストロボもあるだろう・・」
・・デジタル化の進展で売れないものばかりだ・・
「ま・・見せてくれ・・」
あいつは、俺を無理に店に押し込むように、俺と店に入っていく。
すでに機械の電線も外し、薬品も抜いてある。
いつでも運送会社に渡せる状態だ。
あいつは、スタジオや、受付カウンターを見て回っている。

「背景用のバック紙3本、カメラスタンド、大型カメラ、マミヤもニコンもあるな・・パソコン、デジタルカメラ・・スタジオ用の大型ストロボ・・カメラのレンズ、お!レジスターもあるな」
・・デジタルカメラとレンズ2本は別のリースが残っているから・・
「カメラまでもリースにしたのか・・大変だな・・」
あいつは、あちらこちらを見て回りながら、リストを作っていく。
「計算機を貸してくれ」
俺は、電卓を渡してやった。
「バック紙と、大型カメラ、スタンド、パソコン、レジスター・・それにカウンターも・・貰うぞ」
あいつはそう言いながら、俺に電卓を見せた。
そこには500000と打ち込んであった。
・・これは?・・
「買い取りだ!お前はまず何より、現金が要るだろう・・」
あいつは、そう言ったかと思うと、懐から封筒を出して、手渡してくれた。
あいつは、はじめからこのカネをくれるつもりで、やってきたのだ。
その瞬間、俺はあいつの肩を持って・・泣き崩れてしまった。

その時、店の扉が開いた。
「機械を引き取りにまいりました!」
運送会社の人だ。
俺は、涙をぬぐうのも忘れて、機械の運び出し作業を見る。
あいつを見ると・・あいつも立ったまま泣いていた。

大阪環状線


なんや・・寒いの・・
さむうて、かなわんがな・・
背中がぞくぞくしてきたで・・
あかん・・せっかくとっといた150円やけど
わし、ぬくもらな・・死んでまうわ・・

せやけど、切符買うのん・・いややな・・
そこらに落ちてえへんか・・
小銭でも落ちてえへんか・・

新今宮駅・・
寒い・・寒い・・寒いがな・・・
腹へってきたがな・・
あかん・・寒いがな・・
あ・・今・・駅員はん・・おってないわ
駅員はん、おってはれへん・・
よっしゃ・・いくで・・
誰も見てへんな・・
まだ5時やし、駅員はんも眠いのやろ・・

えい!
ピー!
キンコンカンコンキンコンカンコン!
鳴っとるわ・・鳴っとるわ・・自動改札の奴・・
これで120円得したで・・
電車賃、得したで・・
しやけど、電車・・けえへんがな・・寒いがな・・

来たで来たで・・
違うがな・・
緑色はあかんのやがな・・
緑の電車はぐるぐる回ってくれへんのや・・
じぇいあーる難波行きやて・・
あんなとこが難波やあるかいな・・
あそこは湊町やがな・・
難波いうたら・・南海電車の出るとこやがな・・

南海電車・・懐かしいなあ・・
わし、初芝に住んでたんや・子供の頃やけど
懐かしいなあ・・
銀色の電車・・
そら・・釜が崎から南海電車見えるで・・
高い建物に登ったらな・・
そやけど、下からやったら電車の音だけで、電車は見えへんのや
高架やさかい・・

やっときたで・・
あれれ・・
電車、橙色とちがうがな・・
青やがな・・
そやけど・・大阪環状線って書いたある・・
これでええのやろな・・
やっぱり朝や・・よう、空いたあるで・・
なんや、えらい上等の電車やがな・・
ま・・ええわ・・
ここで今日は寝かせてもらうさかい・・
ホンマに寒かった・・
春やのにな・・寒いのや・・今年はおかしいで・・
背中がぞくぞくしとるわいな・・

ああ・・
ケツの下から温もってきたで・・
うれしいなあ・・
只で温もらせてもらえるんや・・
ありがたいなあ・・
ゆうべは、あんまり寝られへんかったさかい・・
ちょうどええわ・・
たたん・・ととん・・たたん・・ととん・・
ががん・・どどん・・
川かいな・・
大正やな・・
たたん・・ととん・・たたん・・ととん・・

「お父ちゃん!」
「ん?誰や?」
「あたしやんか!おとうちゃん、何してるのん!」
「ああ・・芳子かいな・・おかあちゃんは・・」
「おかあちゃんや、あらへんわいな・・お父ちゃん、何してるのん」
「わしか・・わし、電車に乗ってるねん」
「電車?」
「そや・・寒いさかいな・・」
「寒いのんかいな?」
「そや・・なんや・・ゆうべから寒うておかしいのや」
「お父ちゃん・・」
「なんやねん・・芳子・・」
「寒かったら・・帰っといでや」
「帰る・・そない、ゆうても・・お前」
「ええやんか・・気にせんと帰っといでよ」

ああ・・夢か・・
ええ夢と違うな・・
わし、涙が出とるやないか・・
芳子・・会いたいなあ・・
なぁ電車よ・・
聞いてや・・電車よ・・
芳子はな・・わしの一人娘や・・
うるそうてなあ・・
やかましいてなあ・・
そやけど・・
死んでしもたんや・・

わし、自分のクルマで・・酔っ払い運転や・・
事故おこしてなぁ・・
芳子も女房の珠美も・・死んでしもたんや・・
わし・・わしも死にたかったで・・
そやけど、死にきれん・・
死にきれんで、気がついたらここにおったんや・・
芳子の夢・・
久しぶりに見たなあ・・
芳子にあわせてくれて・・
おおきになぁ・・
電車よ・・

大阪駅やな・・
えらい人や・・
わしも、あないやって・・通勤してたな・・
毎日毎日・・背広にネクタイで通勤してたなあ・・
もう・・何年かわからへんくらい・・昔の話や・・
電車が仰山あるな・・
あれは北陸へいく特急やな・・
かっこええがな・・

どうでもええのや・・

「あんた」
「うん?」
「さっき、芳子があんたに声、かけたやろ!」
「あ・・ああ・・夢でな・・」
「夢とちゃいまっせ・・」
「なあ・・珠美・・死んだ人間は生き返らへん・・あたりまえのこっちゃ・・」
「そら・・そっちの世界の話でんがな・・」
「そっちてお前・・」
「そや・・うちら、今、こっちから声、かけてますねんで・・」
「ああ・・珠美・・お前も夢か・・」
「夢ちゃいますって・・あんたが可哀相で、気の毒やさかい・・」
「なんや・・お前・・わし・・許してくれるん?」
「許すも何も・・はじめから何とも思てません」
「そやけど・・わし、お前らを殺したんやで・・」
「あれは事故ですがな・・疲れてるあんたに運転させたうちも悪いのやさかい」
「ホンマか・・ホンマか・・ホンマなんか・・」
「そや・・ホンマでんがな・・」
「わし、わし、帰りたい・・帰りたいねん」
「それやったら・・はよおいで・・」

あ!
びっくりしたわ・・
嫁はんまで・・出てきよる・・
ええ夢、見せてくれるなあ・・
電車・・おおきにな・・
この電車・・ええ電車やなあ・・
わし、よう温もったで・・
そやけど・・降りたら寒いよって・・今日は環状線、ぐるぐる・・ぐるぐる回らせてもらうわな・・

ああ・・大阪城や・・
きれいやな・・
朝日があたってるのやな・・
ホンマにきれいや・・
大阪の町はええとこが多いなあ・・
ああ・・ぬくうなってきたら・・
目があけてられへんわ・・
ぬくいなあ・・
ありがたいなあ・・

「お父ちゃん!」
「なんや・・芳子・・今日は、よう出るな・・」
「出るってなんやの・・うちはお化けかいな!」
「そやけど、死んでるのやから・・お化けみたいなもんや」
「失礼やな!ごちゃごちゃ言わんと、はよ帰っといで・・」
「わし、150円しかもっとらへんがな・・」
「かまへん・・お金なんか要らんさかい・・はよ、おいでよ・・」

「あんた!」
「うわ・・珠美も一緒かいな・・」
「せっかく芳子が迎えにいってるのやで・・はよう・・おいでよ」
「分かった・・分かったがな・・」
「ほな・・立って・・歩きなはれ・・」
「歩くて・・電車の中やがな・・」
「かまへんから・・そのまま歩きなはれ・・」

なんや・・嫁の奴・・えらそうに・・
そやけど、娘も余計、煩うなったが・・大きなったなあ・・
あ・・歩いてみたら身体が、ぽかぽかするで・・
なんや・・軽いな・・
わし、こんなに軽やかに動けるの・・久しぶりやな・・

ああ・・
嫁と娘が手え・・振っとるわ・・
はよいかな・・
はように・・行かな・・煩いさかいな・・
もうちょっとで・・通天閣がまた見えるのやけどな・・
ま・・ええわ・・

あの夏を・・


午後・・もう夕方に近い時間・・
一日の取引先周りでくたくたになった僕は、混雑する姫路駅のホームに立っていた。
これから神戸市内の自分の社に戻り、今日一日の仕事を整理しなくてはならない・・
僕は写真関連の決して大きくはない問屋の営業マンなのだ。
けれども、あるメーカーの写真業界からの撤退報道が、業界人の知らぬままになされたこともあり、取引先のDPEショップや写真スタジオ、カメラ店などの小売店の店主達は動揺していた。
その動揺は、そのまま僕に向けられた。
激昂する店主、落胆する店主・・
写真に夢をかけ、不景気風の吹く業界の中で踏ん張ってきた店主達のその希望を打ち砕いたのがK社の見事なまでの逃げっぷりだったわけだ。

まだ写真業界に未来はある・・
まだ、C社、N社、F社と言った老舗メーカーの大半は逃げてはいない・・
僕の説明にも、既にメーカーを信じられなくなった店主達の悲痛なまでの、時には涙混じりの叫びや悲鳴は収まるどころか一層、激しくなってくるのだった。

僕は心底、疲れ果てていた。
ようやく入線してきた新快速電車は座る事すら難しい様子で、出来ればこのまま休みたかった僕には、乗車がためらわれた。
仕方なく反対のホームを見ると、次発の普通電車が、がらすきで停車していた。
この電車は明石から先は快速電車になる。
三ノ宮までこの電車で帰ろうか・・
とにかく、少し休みたかった。
ゆったりとしていそうな座席がきちんと前を向いて揃えられている。
・・僕は、多少の時間がかかるのは覚悟の上で、普通電車に乗りこんだ。
乗ってすぐに、ゆったりとした座席に体を預け、目を瞑った。

一瞬、眠ったと思ったが携帯電話が胸の内ポケットで震えている。
取りだし、発信者を見ると今日の顧客の一人・・泣きながら叫んでいた小さな店の店主だ。
留守番モードに設定してあるので、出る必要はない。
けれども、電話は切れてもまたかかってくる・・
電車は、もう走り出していて、姫路市街地の東にある鉄橋を渡るところだ。
さすがに同じ人から三度の電話があると出ようという気になる。
眠りかけていた頭で、僕は小さな声で・・電話に出た。
「もしもし・・社長さん!いま、電車の中なので・・」
後で掛け直すと言いかけたが、先方の声がかぶさってくる。
「あんたはええわいな!あんたら問屋はなんでも売れば済むやないか!」
「ですから・・電車の中ですので・・」
相手は、こちらの話など聞いていない・・
一方的にこの業界にいて、自分はどうなるのか・・
そんなことばかりを叫びつづける。
電車はその間に小さな駅に停車し、走り出した。
僕は、すっかりうんざりしていた。
少し走ってまた、電車は駅に停車するらしい・・
僕は意を決して、下車することにした。
携帯電話で小声で喋りながら・・この電車の少ない乗客たちも別に気にしている風ではなかったが、やはり小心者の僕は電車の中で長い通話をする勇気は持ち合わせていなかった。

そこはなんだか閑散とした駅だった。
僕は電話を持ったままホームに下りて、相手と話を続けていた。
「ですから・・社長・・まだまだ頑張ろうと言う企業もたくさんあります。それらの企業と私たち問屋や、ラボや、そういったところと、社長のお店のようなしっかり地域に根っこを張れるお店とでですね・・この難局を乗り切るしかないではないですか・・・」
「難局やて!難局にしたのはあんたらやないか!」
「それはどうしてですか?」
「要らん投資ばっかりさせてからに・・デジタルミニラボだけでも月にナンボのリースがある思てるのや!」
「業界のものはほとんど現在の状況を読むことはできなかったと思いますよ。それは最大手のF社さんだって同じこと・・撤退を表明したK社さんなどは三ヶ月前には、まだまだ今までの仕事で頑張ると・・言っておられたくらいですから・・」
「その話は聞き飽きたわ!」
僕は、正直、困惑していた。
その社長が何を言いたいのか・・何をどうして欲しいのか・・まったく理解できなかったからだ・・
一瞬、黙ってしまった僕は、ふと、あたりを見渡した。
向かい側のプラットホームのすぐ横には貨物列車が止まっているようだった。
トラックが走りまわり、コンテナがあたりに積み上げてある・・その向こうは新幹線の線路だ。
新幹線の白い車体が、流れていく。
「なにか言えよ!」
電話の向こうでは怒鳴っている様子だ。
決して広い店舗ではない。
社長とは言っても個人商店の店主だ。
普段は店主のほかに一人か二人のパート従業員がいるだけの店だった。
電話で怒鳴っていれば、従業員もそれを聞くだろうし、そこへ客が入ってこないとも限らない・・
「社長・・社長はいったい、私にどうしろと・・おっしゃるのですか?」
僕は思いきってはっきりと訊く事にした。
「どうしろだぁ?あんたに何かをしてもらおうとは思わないね!」
「じゃあ、先から私に電話をかけて・・何をおっしゃりたいのですか?」
「あんたやない・・あんたの会社や!あんたの会社の社長や!」
「うちの社長ですか・・では、社長にしっかり伝えますので、一番おっしゃりたいことを教えてくださいませんか?」
一瞬、相手は黙った。
ホームには列車の接近が自動で放送される。
新快速電車が轟音を残して去っていく・・
「何をおっしゃりたいのでしょうか?」
僕は改めて電話の向こうの相手に語りかけた。
「機械を買い取れ!」
「機械?」
「そうや・・デジタル・ミニラボをうちが払うリース総額で買い取れ!」
僕は絶句した。
言っていることは無茶だ。
元々デジタル・ミニラボを導入したいと言ったのは先方の方だった。
僕は相談にのっただけだ。
僕も、僕の会社もなにも悪いことはしていない・・
だのに、リース総額と言えば一千万以上の金額になる。
これは脅しではないか・・
怒りに足が震えてきた。
けれども、ぐっと堪えた。
「社長・・じゃあ、お店をやめると・・そう言うことですか?」
なるべく自分の頭に血が上らないように喋った。
「そうや!こんな儲かれへん業界は・・やめや!」
向こうも精一杯見栄を張っているのだろうか・・相手の息遣いの荒さも伝わってくる。
僕は一息いれて、自分がいるホームの、後ろを見た。
ちょっとしたスーパーと、小さな駅前広場と、田舎の国道らしい道路と高くない山と、道に沿う形の民家や工場・・そしてちょっとした病院のいくつかの建物が見えた。
「おっしゃりたいことだけは良くわかりました。機械の買取についてはリース会社の契約との問題や、買取価格の問題がありますが、今ならリース総額とは言えませんが、それなりの数字は出せると思います。ですので、社長とも相談してみますが、二日だけ・・お時間を頂ければと思います」
僕は思いきってそこまで喋った。
相手は意外に静かで、言葉のトーンを落としてきた。
「まあな・・リース総額言うのは・・無茶やと俺も思てる・・そやけど、損だけせんように頼むさかい・・社長はんとよう、話合うてくれや・・」
ほっとした。
僕は、ようやく、泣き声や叫び声から解放された。
電話を持っていた手に汗がにじんでいた。
ちょうどいい・・次の電車がくるまで、ここで休憩することにしよう・・
僕はそう割りきることにして、また、向かいのホーム越しに貨物の駅や新幹線を眺めた。
新幹線の白い車体が何両も連なって流れていく・・
その向こうはやはり小さな山だ。
新幹線の列車を目で追った僕は、どきりとした。
僕は振りかえり、自分の居るホームの裏側に見えていた病院を見た。
「あ!」
思わず僕は叫んでしまった。
その病院の建物には「I病院」と大きな看板が載っていた。
病院の前から駅までの間は田圃か空き地だった。

そのとき、僕の後ろを列車が通過していった。
僕は、また振りかえり、列車を見た。
ステンレス製だろう銀色の車体の新快速電車が一瞬にして去っていくところだ。

*************

夏の暑い日・・
僕は緑の絨毯のような田圃を前に、いきなり現れた人生最大の危機を今だ信じられない思いで味わっていた。
あれは、僕がまだ13歳の頃・・
中学に入って最初の夏休みの話だ。
僕の父親は、夏の前頃から体調を崩し、しばらくは自宅で養生していたがついに大喀血して、その当時、大きな外科手術をできる病院が近くになかったからか・・二つ隣の市の、田圃に囲まれた病院まで搬送されたのだ。
父は、二度の大手術の甲斐もなく、入院から僅か二週間でこの世を去ってしまった。
まだ36歳の若さだったのだ。
僕は、父の病気平癒祈願の為に祖母が信仰する大阪の神社へ連れていかれた。
果たしてそれが効くのやらどうやら、僕にはわからなかったが、とにかく重大な用事を言いつけられて、僕は大阪へ一人で向かった。
大阪では叔母夫婦が待っていてくれて、翌日に神社へ連れていってくれた。
神社で長い祈願をしてもらったあと、叔母夫婦の車に乗せて貰い、この病院に着いたとき、既に父は息を引き取った直後だったのだ。
母も祖母も、叔母も声を上げて泣いていた。
そこにあるのは大人たちのあたり構わず泣き叫ぶ風景だった。
末期の水をと祖母に言われ、僕は筆で父の唇を拭いた。
それがどんな意味なのかも僕は知らなかったが、大人たちが真剣に行う行事に不思議な滑稽さも見ていたような気がする。
やがて、僕はその場に居たたまれなくなり、そっとそこを離れた。
病院の脇から鉄道線路が見えた。
山陽本線と山陽新幹線・・
僕は幼少のころから電車を見るのがなにより好きな子供だった。
田圃のみどり越しにオレンジとグリーンの快速電車がたくさん車両を連ねて走っていくのが見えた。
電車の甲高いモーターの音が僕の気持ちを落ちつかせた。
飽くことなく線路を眺めていると・・新幹線の線路を長い列車が、数多くのパンタグラフから火花を散らしながらせわしげに通過していった。
その手前の線路を雑多な貨車を何十両も連ねた貨物列車が、ガチャガチャとゆっくりと行く。

風が吹いて、田圃の緑が揺れる。
空は青く、底が抜けたように感じた。

しばらくそこに佇んだ後、僕は病室へ戻った。
今まで泣いていた人たちは、なにやら難しい話を病院の医師や看護婦としているところだった。
僕の姿を見ても、母も祖母も叔母も、僕を気にすることなく話を続けている・・
僕はまた、外に出ようとした。
「何処へ行くの?」
母が僕に尋ねた。
「電車を見てる」
「遠くへ行ったら・・あかんよ」
「うん・・病院のすぐ横やから」
僕はまた先ほどの場所で、電車を眺め続ける。
白鷺が一羽、ゆったりと降りてきて、田圃の中にきりりと立っているように見える。
白鷺と同じような色合いの新幹線電車が流れ去る・・・
白鷺は新幹線の騒音も知らぬ風で、じっと立っている。

**************

僕は、思い出していた。
間違いない・・あの病院のあの建物の脇で、僕は、今、僕が立っているこの場所を走る列車を眺めていたのだ。
あたりは病院以外は田圃しかなかったように思う。
あるいは、特に思い出が深く残る病院だけしか覚えていなかったのかもしれない。
あれは、そう、8月の26日だ。
13歳の8月26日は僕にとって特別な日となった。
それから、僕は苦労を重ねた。
僕のほかに弟一人と妹四人が居る大家族だった。
父親なしで生活ができるはずもなかった。
その苦労をここでは思い出したくはない。
僕は、とにかく自力で定時制高校を出て、別の仕事で10年も頑張って、人の紹介で今の会社に入ったのだ・・

僕は、もう一度、じっくりと「I病院」の建物を見た。
間違いない・・あのコンクリートの脇で、僕は立っていた。
あそこで、複雑な顔をして、こちらを見ている。
あれが僕だ。
中学生の僕だ。
難しい表情・・その頃の僕にはきっと悲しみを持つ余裕すらなかったのだ。
僕は、自分が立っていたその場所へ行きたくなった。
自動改札を出て、何故か足早に・・僕はそこへ向かった。
確かにあのときの病院だ。
あの建物は、何度も改築されているようだけど、間違いなくあのときのままの建物だ・・
建物の横・・コンクリートの土台の脇に僕は佇んでいたはずだ。

僕はまさしくそこに居た。
そこで線路を走る列車を見ていた。
あのときのオレンジとグリーンの快速電車は今は走っていないのだろうか・・
白い車体の新しい快速電車がゆっくりとやってきて停車する。
反対行きの銀色の新快速電車が、モーターの音も高らかに通過していく。
その向こうは貨物列車の駅だ。
電気機関車が、貨車の編成から離れて休憩をしているように見える。
その後ろをグレーの車体の新幹線電車が静かに通過していく。
パンタグラフから火花を散らすこともなく、騒音を撒き散らすこともなく・・

僕は中学生の僕に語りかけた。
「よう頑張ったなあ・・」
「うん・・」
中学生の僕は線路を見たまま答えた。
「あのときは、本当は明日がどないなるのか、こんな大事件が起こることが自分にあるのか・・そればかり考えてたよな・・」
「うん・・・」
「ホンマは悲しかったのにな・・」
「う~ん・・・」
中学生の僕はそこではちょっと、戸惑うようだった。
「悲しくなかったか?」
「みんなみたいに、僕は涙が出えへんかった・・悲しいって、どう言うことか分からへん」
「ああ・・そうやったな・・そうやった・・僕には、悲しむと言うことが理解できなかったなあ」
「うん・・涙が出ぇへんから・・恥ずかしいねん・・」
僕は苦笑した。
そう言えばそうだった。
あのとき、僕がずっと悲しがっていたのは、その後の僕の思い出の中で作られたことなのかもしれない・・
「そやけど・・後で泣くでぇ・・お葬式の終わった後でなぁ・・」
「へえ・・じゃあ、僕も涙がきちんと出て来るんや・・」
「そうや・・そやけどな、お母ぁちゃん・・その時にな、今ごろ泣くやなんて変な子や・・ゆうねんで・・」
「へえ・・お母ぁちゃんは、もう、悲しくないのかな・・」
「悲しいやろうけど、大人はすることが仰山、あるさかいな」
「ふ~ん・・大人も大変なんや」
中学生の僕は笑顔を見せて振り向いた。
僕も笑顔で返した。

あの頃は田圃だった。
空き地の向こうをあの頃はオレンジとグリーンだった快速電車が白い車体になって走っている。
僕はあのときと同じように立ちすくみながら、溢れる涙を止めることができなくなっていた。
向かいの建物から白衣を着た女性看護士が数人、出てきた。
病院の寮らしい・・
彼女たちは建物脇で立ち尽くしている僕に気を向けることもなく、談笑しながら病院の建物に入っていった。
「そう言えば、あの頃は“看護婦”だったなあ・・」
どうでも良いことが僕の頭に入ったときに、僕の涙は止まっていた。

二つの糸


早朝の京王線・・まだ乗客も多くない新宿駅の、昨夜の酔いを残したような妙な気だるさの中で、私はややもすると迫る吐き気を押さえながら、臙脂色のシートに腰掛けた。
向かいの座席にはネクタイをだらしなく緩めた男が、夢の続きをむさぼっている。
この男は、昨夜は何処で寝たのだろう・・

神戸からこの町に流れてきた私が、右も左も分からぬままに、なんとかこうして生きているのは奇跡ではないかと思う。
女ひとり、ただ、自分の夢のためだけに突っ走ってしまった・・自分ではそう思うことにしているが、本当のところ、仕事への夢のためにこの町にきたのではないのだ。
私がしている仕事なら、それこそ神戸の街でもできる。
東京には最新のファッションがあり、それがある故に私はこの町で学ばねばならない・・そう言い続けてきた屁理屈・・
この町が所詮は田舎の集合体であること・・
むしろ、神戸の町の、まるで町が持って生まれたかのような進んだ感覚こそが、私に必要だと言うことも十分に分かっているのだ。
だのに、この町へきた理由は、男だ。
昔、私を愛してくれた男・・彼は、散々悩み、苦しんだ末、何もかもを捨ててこの東京に来た筈だった。
私は彼に、とにかく彼に会いたかった。
彼が神戸を発つ前、彼の希望するスタジオは新宿にあり、彼が、しばらく多摩方面の親戚の家で厄介になると言っていた、その言葉だけを頼りに、私は単身でも申しこめる公団住宅を多摩で借りて、新宿の店に勤めるようになったのだ。
彼は自分の夢のためには、一切のものを捨てるといっていたから、私にもきちんと住所を教えることもしなかったし、携帯電話も代えてしまったようだった。
私は最後に彼と会った夜、私から頼んで抱いてもらった。
それは、私達にとって何度目かの、そう言う夜だったけれど、その夜の彼は、溜息をつきながら、私の身体を撫でてくれた。
私は彼が去って三月ほどしてから、ようやく、ありとあらゆる人脈に手をつくし、この町の店での仕事を得、一人でやってきたと言うわけだ。

今は私はこの町の住人なのだ。
もう3年・・私なりの人間関係も出来たし、時には私に言い寄ってくれる男性もある。
だが、私はまだ、彼を諦める気にはなれなかった。
彼のほうが、とうに私への気持ちを失っていたとしても、とにかく、一目彼に会いたかった。
会って何をするのか、自分でもわからなかったし、そこからどうする積りなのかも決めてはいなかった。
とにかく会いたい・・それだけの気持ちなのだ。

京王線の電車は、地下の線路をかなりの高速で突っ走る。
疲れている・・夕方から明け方まで呑んだ酒がまだ身体に残る。
嫌いなタバコの匂いが、髪や着ているものについている。
帰れば、すぐにシャワーを浴びねばならない。
電車はまもなく地上に出るだろう・・明るい日が射すだろう・・私はそう思いながら、意識のはるか奥へ引き摺り込まれていく。
もうすぐ・・もうすぐ・・明るいところに出るだろう・・
地下の壁に反射して大きく響く電車の轟音は、私の意識の底でも同じように響いている。

助けて・・私は何かから逃げていた。
助けて・・叫ぶけれども、誰も振り向いてくれない・・助けて・・轟音が大きく私に迫る・・
やがて、轟音が小さくなると私は海岸にいた。
母が海岸に立っている。
「帰っといで・・もうええやろ・・」
母は見せたことのないような優しい笑顔で、私に向けて手を広げて迎えるしぐさをしてくれる。
「あたし、帰ってきてるやんか・・」
私は、私が神戸で住んでいた場所のすぐ近くの海岸にいたのだ。
松林、砂浜、淡路へ渡る大きな橋・・
「はよ、帰っといで・・」
「そやから、おるやんか・・ここに」
そう言った瞬間、また地下を走る轟音が聞こえてきて、そして私は駅の雑踏の中にいた。
電車の発車する音が聞こえる。アナウンスが行き先を告げる。

「お嬢さん・・」
私はその声で起きた。
「ここは終点ですよ・・」
年配の婦人が私の肩をゆすり、声をかけてくれていた。
「あ・・すみません」
私はさっと立ち上がろうとした。
少しふらりと、体が浮く感じがする。
「大丈夫ですか?」
その婦人が訊いてくれる。
「有難うございます」
そういって、慌てて電車を飛び出した。
ここは・・何処だろう・・
地下の駅のようだった。
けれど、ホームへ出た途端、私は急激な吐き気を催した。
トイレを・・
エスカレーターをかけあがり、トイレの表示を見つけて、私はそこへ飛びこんだ。
幸い、トイレはあいていて、個室に入るなり、私は溜まっていた物を全て吐き出した。
苦しい・・こんなに酷い酔い方をしたのは始めてだ・・
便器を抱えこむように、私は吐き続ける。
胃をその上から掴んで激しく揉まれているように・・私は吐き続ける。
涙が出てきた。
昨夜は結婚が決まった同僚を冷やかす飲み会だった。
幸せそうな彼女の顔が、私には眩しかった。
それが余計に、普段飲まないほどの量の酒を飲ませたのだろうか・・
それとも、彼女の幸せそうな顔が私に悪酔いをさせたのだろうか・・
吐いても吐いても吐き気がおさまらず、自分の声とは思えない獣のような唸り声で私は吐き続けた。

ようやく気分が納まり、私は、フラフラと立ち上がった。
スカートも靴も吐いたもので汚れている。
トイレットペーパーで、それを拭い、個室を出た。
心配そうな顔をした人が数人、私を見ていた。

ようやくトイレを出て、何も考えず、私は改札口を出ようとした。
定期券を改札機に入れると改札機のチャイムがなり、扉が閉まる。
ぼんやりと、立っていると駅員が飛んできた。
「こちらで・・清算を・・」
駅員が私の腕を掴み、清算機の前へ連れていってくれる。
「あの・・ここ・・・どこですか?」
駅員は一瞬怪訝な顔をして私を見ていたが「ここは、八王子ですよ」と教えてくれた。
「八王子・・」この電車が八王子へ行くのは知っているが、来たことはなかった。
乗った電車は新宿からここまで各駅に停車してやってきたのだろうか・・
私はまだ酔いの醒め切らない頭で、駅員の指図のとおりに清算し、改札の外へ出た。
地上への階段を上がる。
土曜とあってか、こちらへ向かう人が多く、学生風、家族連れ、恋人同士の風・・それらの人々が少なくとも私よりはきちんとしているように見える。

私が今出てきた駅以外の方向へ歩く人たちもいる。
何をどうしたいのか、私自身にも分からず、ただ、人の歩く方向へ同じように歩く・・人の匂いが恋しい。
クルマが走る。
信号がある。
私は交差点で立ち止まり、一息入れた。
また吐き気が催してくる気がする。
建物の影に入ると春先の冷たい風が吹く・・自分が惨めで救いようのない女に思える。
「あれ・・」
信号が青になった方向から、渡ってきた男性が私を見て、ちょっと驚いたようだった。
私は、ぼんやりと、その男性を見た。
会いたくて、会いたくて、懐かしいその人がそこに立っていた。
「あなたは・・」
会いたかった・・そう言おうとした。
けれど、彼は小さな男の子を抱いていた。
後ろからきれいな女性がついてきていた。
「君は・・神戸から来たの?」
彼は私にそう言った。
私は、彼と、小さく無邪気な男の子と、きれいな女性を何度も見回した。
「神戸から・・来たの?」
彼はもう一度、私に聞いてくる。
私は、ようやく「いえ・・今は東京に・・・」とだけ答えることが出来た。
「どなた?神戸でのお知り合い?」
女性が彼に訊ねている。
彼は放心したように、私を見ている。
「東京に・・居るんだ・・」
私は少し頷いた。
「一度改めて、ゆっくりと話をしたいね」
彼が優しい目で私を見る。
その目だ。
私の好きな目だ。
「神戸でのお友達?」
女性がまた彼に訊く。
彼に抱かれた子供は無邪気に女性のほうを見ている。
「ああ・・そうなんだ・・」彼は女性にはそう答えてから、また私に言った。
「また、ゆっくりと・・そうだ・・携帯を教えてくれないか?」
この声だ。
優しい声だ。
でも、言葉が違う。
関東の発音で喋る人ではなかった。
「いえ・・」
私は、彼の目をしばらく見つめてしまった。
「結構です・・私、行くところがありますので・・」
私はそれだけ言うと、その道を走り出した。
今、幸せそうな彼は、きっと昔から私のことなど、好きではなかったのだ・・
私は、自分が小さく、惨めな生き物になった気がしていた。

優しい声、優しい目・・けれども、あの柔らかな関西のイントネーションではなく、彼は東京の人になっていた。
彼に抱かれた子供・・あの子は1歳くらいだろうか・・彼に似ていたあの子供は、私の子供ではない・・それが現実だった。
私は、そのまま、百貨店のある大きな駅の中へ走りこんだ。
切符の自動販売機の前で、何も考えずに500円玉を放りこんで、適当にボタンを押した。
お釣りと涙が一緒に出てきた。
「きらい、きらい・・みんなきらい・・」
私はつぶやきながら、泣きながら、人の波について歩き、オレンジ色の電車に乗った。
「きらい・・きらい・・わたしもみんなも、大嫌い・・」
周囲に居た人から見ると、私は異様に見えただろう。
そうでなくても吐いたり転んだりして汚れたスカート、昨夜からほつれるにまかせた髪、化粧が落ちているその格好は、充分、人目を引くに値するだろうけれど、私は時に独り言をつぶやきながら泣いていた。
電車は混んでいて、他の乗客達は私のほうを見ないようにしているらしい・・
私は、敢えて私から視線を外しながらも、時折盗み見るように見る目があることは分かっていた。

何処をどう通ったか・・
どう乗り換えたか・・駅員に聞いたのか、車掌のアナウンスで乗り換え放送を聞いたのか・・
私は、いつも自分が降りる駅で、モノレールを見ていた。
銀色の車体が、鈍く光を反射させ、ゆっくりと出ていく。
涙は呆れるほど出てくる。
それでも、ようやく落ちついてきたのを汐に、私は携帯電話を取り出した。
実家へ電話をしたのだ。
母の、いつもと変わりない明るい声が聞こえる。
「お母さん!わたし・・」
「どないしたの・・昼間に電話くれるの、珍しいやんか・・」
関西のイントネーションで母が答えてくれる。
「お母さん・・わたし、帰るわ・・」
「帰るって?」
「神戸に!神戸に帰りたくなった・・」
「あらら・・どないしたんやろ・・東京には赤い糸はなかったんかいな・・」
「赤い糸・・?」
わたしは母のその言葉を聞いて笑い出してしまった。
「赤い糸は、東京には、ないみたいやね・・」
久しぶりに関西弁がわたしの口から出る。
「しゃあないなあ・・ほな、こっちにええ男は仰山おるから・・」
「お母さん!わたし、男探しに東京へ来たのとちがうで・・」
「あら・・そうやったかしら・・」
わたしは母には、彼のことは一度も喋ったことがない。
でも、もしかしたら、母はとうに感づいていたかもしれない・・母もまた、わたしと同じように青春を過ごしたのであるならば、それくらいは分かったかもしれない・・
「そうや・・ただなあ・・」
「ただ?どないしたん?」
「神戸から糸が送られてきたみたいな気がしてなぁ・・神戸が懐かしなってん・・」
次のモノレールが、頭の上を通る。
銀色の車体は目に染みるような青い空を散歩するかのように、ゆっくりと駅へ入っていく。
「ほな・・神戸に赤い糸があるわ・・はよ、帰っといで・・」
「うん!早ように帰るわ!」

さっきまでの冷たい涙とは違う、暖かい涙が溢れてきた。
はよ帰って、海を見たいなあ・・わたしは歩きながら空を見上げ、ぼんやりと考えていた。

その日の後


僕は、その日、震災復興のために無料になっている有料道路をミニバイクで走っていて、何かを踏みつけた。
ミニバイクは哀れにもガタガタと揺れ、これ以上の運転が出来ない事態になってしまった。
ここは山麓バイパスの神の谷トンネル・・自宅までまだ6キロ以上はあるなあ・・そう思うと情けなさが涙に変わる。
けれども、寒いし、もともと自動車のための道路だから、ミニバイクを押して長く進むわけにも行かず、次の交差点で多少遠回りになっても、バイパスから離れるしか仕方がなかった。
時間は深夜11時、いつ、帰りつくことが出来るのだろう・・バイクは、けなげにもエンジンは快調に回っていたから、エンジンをかけて押してやると歩くよりは少し楽な感じもした。

あの大地震からやっと1週間・・僕は数日前に地元のガソリンスタンドが、ようやく再開してくれたことを知って、大阪の仕事場への通勤を再開していた。
といっても、地震が来るまでの僕は、自宅近くのバス停からJR駅までの路線バスに乗り、駅からは大阪方面行きの快速電車に乗って大阪駅へ・・環状線に乗り換えて職場近くの大阪城公園駅まで行くという毎朝の行動パターンだった。
けれど、地震でJRはもとより、平行して走る私鉄の阪急・阪神、それに新幹線までもが大きな被害を受け、いつ開通できるか到底判断できない状況の中、毎朝の通勤ルートは完全に崩壊していたし、それでも、とにかく職場に復帰しkなければならない僕がとった窮余の策が、ミニバイクで六甲連山につながる丘陵を越え、鈴蘭台から三田に向かう路線がようやく震災後の被害から立ち直り開通している神戸電鉄に乗り、これで三田まで行き、三田からJR福知山線に乗車してようやく大阪駅へ着く方法だった。(その神戸電鉄は鈴蘭台から南の都心方向へはいつ開通できるか分からない状況だった。)
これまでも毎朝、1時間40分程度の通勤時間はかかっていたけれど、ミニバイクと神戸電鉄、福知山線の通勤では神戸電鉄が一部で徐行運転をしていることもあって、ゆうに3時間を超え、寒い早朝深夜の長距離のミニバイクの運転と、神戸や播州各方面からの乗客であふれる福知山線や神戸電鉄の大混雑は、通勤に疲労を招き、社に着いてもしばらくはまともに仕事をする気すら起こらなくなるひどいものだった。

その日、ようやく家に着いた僕はバイクの修理と明日からの通勤を考えねばならなくなった。
電気と電話は使える。
暖房は電気ストーブとエアコンが使えるが、水道の蛇口からはもう何日も水は出ず、ガスがないものだから風呂は焚けない。
もうすぐ2歳になる娘の顔を見てあやしながら、妻も困り果てているようだった。
幸い、僕の家には電熱器がひとつあったから、これで湯を沸かすことくらいは出来る・・だけど、炒め物やちょっと複雑な料理はとても出来ないから、どうしても食事のメニューが限られてくるのだ。
水道が使えないから洗濯も出来ず、溜まった洗濯物ははるか郊外にある友人の家でさせてもらうしかなかった。
買い物は地震の後、1週間でほぼ、普通に出来るようになったけれど、メニューが限られるから買うものも同じようなものばかりになってしまう。

テレビのニュースで、明日からJR神戸線が西から神戸駅まで開通し、同時に代替バスも国道43号を専用道路として使うことで運行できると知った。
「バイクは壊れたし、これで行くしかないなあ・・」
僕は、レトルトのカレーをご飯にかけながら、そうつぶやいた。
これを食べた後は、風呂には入れず眠るしかない。

翌朝、僕は始発の路線バスに乗りこんだ。
会社まで何時間かかるか分からない。
可能な限り、早く出るしかない。
路線バスは始発にしては多めの乗客を乗せ、それでも、垂水駅に着いた。
けれども、いつも下車する場所とは異なる場所でバスを降ろされた。
「バス停付近の地盤が崩壊する恐れがありますから・・」
どうやらバスも間引きして運転している様子だった。

垂水駅のホームへ上がるとまだ夜が明ける前なのに、人でごった返していた。
「全ての電車は各駅停車で神戸駅まで運行」との張り紙がある。
快速はないのか・・そう思ったが、もとより快速と各駅停車との所要時間の差は五分くらいだから、まあ良いかと言う感じだ。
電車はすぐ来た。
快速に使っている電車だ。
もとより非常時で快速なんてものはない。
乗ってしばらく走ると海が見える。
ようやく少し空が白みかかってきた。

快速に使っている電車が各駅停車しかとまらない駅に停車するのは、やはり違和感がある。
どの駅からも大勢の乗客が乗ってくる。
心なしか、どの人の顔も色が濃く、車内は汗の匂いが満ちている。
誰も風呂には入れないのだ。
まだ男は良いが、女性は大変だろうと思う。
須磨駅を過ぎ、しばらく走ると電車は急に速度を落とした。
何度もポイントをわたり、そのたびに電車が揺れる。
僕の目にびっくりするような景色が飛び込んできた。

倒壊した建物は、仕事を休んでいた数日の間に市内を歩き回ったことで沢山見ていて、このころにはそういう建物を見ても特に感慨も湧かなくなっていたけれど、大きな高速道路が電車の線路を越えているその場所で、高速道路の橋脚が完全に崩れ、傾いていた。
そこを鉄骨で補強し、支えているその下を電車が今にも止まりそうな速度で通過する。
ここで余震が起こればどうなるだろう・・大きな余震であの橋脚が崩壊したら・・電車ごと僕らはぺしゃんこだ。
ようやくそこを通過し終え、電車は更にポイントを渡り、普段は通過列車しか使わないJR鷹取工場の手前の線路を走り始めた。
夜が明け始め少し明るくなってきた。
車窓に見えるのは脱線転覆した操車場の車両たち・・ここに止めてあった全ての車両が同じ向きに転覆したまま放置されていた。
寝台特急のブルーの車体がお腹を見せている。
その転覆した車両のところで電車は停まった。
いかに僕が元国鉄マンでも、転覆した車両をこんなに沢山見たのは始めてだ。
ドアが開き、外を見ると木材で仮設のホームが作ってあり、ここが鷹取駅だと言うわけだ。
そのホームの向こうは、十数年前まで僕が勤めていた懐かしい鷹取工場だ。
けれども、工場の中でも、車両がひっくり返っているのが見える。
JRがいかに無理を承知でこの開通にこぎつけたか・・僕は未だに友人として付き合っている多くのJRマンたちの姿を、悲惨な鉄道の景色に重ね合わせてしまった。
不覚にも涙が出た。
涙が止まらない。

電車はポイントをいくつもわたりながら、新長田駅は通過した。
ゆっくり通過する電車から新長田駅を見ると、焼け落ちて、路盤も崩壊した哀れな姿だった。
このあたりの景色のひどさは、歩き回って知っているつもりだったが電車の高架から見るとあまりにもひどい景色に、なんで俺の愛する神戸がこんなことになるんや・・そう思う。
まるで戦争のあとのようだ。

ようやく神戸駅について、駅員の案内に従い、駅南から三宮行きの代替バスへと向かう。
これが失敗だった。
バスは観光バスタイプだったが、詰め込まれ、立つしかない。
すぐに乗車できて「ラッキー」と思った。
走り始め、しばらくするとバスは渋滞に引っかかった。
そのまま動かない。
結局、三ノ宮駅南側のロータリーまで2キロちょっとを1時間近くかかってしまった。
これでは歩いたほうが早い。

すっかり夜は明けたが寒い。
バスを降りた僕は大勢の通勤者と一緒に案内に従い、国道43号経由という。今日から走り始めたノンストップバスの乗り場へ向かう。
すでに定期券は解約してあるから、会社はどれでも良かった。
ただ、僕は鉄道ファンの本能から青木(おうぎ)まで開通していた阪神電鉄の青木行きノンストップバスがもっとも早そうだと思っていた。
この日の時点で、阪急は西宮北口、JRは芦屋、阪神は青木まで大阪方面からそれぞれ開通していたけれど、神戸市内に乗り入れが出来ているのは阪神だけだった。
長い行列はJRのものだった。
阪神はさらにその先、三宮の東西のメインストリートを数分歩いた場所でようやく行列があった。
幸い、数台待つだけで乗車が出来た。
意外だったのは、阪神電鉄の係員がバスの定員しか乗せなかったことで、これで、補助席もあるとはいえ、観光バスの座席に全員が座れることになる。
バスが走り始めると、観光バスなのでテレビもついていて、ニュースも見ることが出来た。

暖かな、設備の整った観光バスは災害時の代替輸送には似合わないかもしれない。
だが、そのおかげで、乗車した人たちは一様に安心感を得ることが出来た。
少しまどろんで、睡眠を補うことも出来た。
けれども、車窓に、目をやると、親しみ深い会社や商店の建物が倒壊していたり、国道43号の橋脚にも鉄骨で補強が成されていたりする悲しい現実を見ることになる。
見たくない・・でも見てしまう悲しい景色・・

青木(おうぎ)だといわれて降ろされたのは駅から少し西の、やや広い道路上だった。
駅までの道は路地のような場所でしかも火災の後だった。
青木駅に入ると懐かしく感じる阪神電車の、あの赤と肌色の電車が「急行梅田」の案内を出して停車していた。
やわらかなエンジのシートに腰掛け、ここにようやく日常があることを喜んだ。
けれども、結局、この日の通勤は4時間近くを要し、僕は10時の始業時刻にかろうじて間に合うありさまだった。

僕は当時、大阪の巨大ホテルで婚礼写真の仕事をしていた。
そのホテルは大阪三大ホテルのひとつに数えられ、格式も高く、婚礼と言えど結婚式場とはけた違いの高額な費用を必要とするところで、それが受けていたのかシーズンの日曜ともなると日に25組もの結婚式が15分ごとに行われるのだった。
冬や夏の間はホテルは暇で、結婚式も日曜でも日に10組まで・・これくらいの組数だとのんびりした空気があたりに漂うのだけれど、ホテルの平和な1月は神戸を襲った震災で一変していた。

神戸の中心部におしゃれな外観を競っている高級ホテルはいずれも震災で営業不能になり、結婚式どころの騒ぎではなくなっていた。
この時点で、大抵の神戸市民は結婚式やそのほかのパーティーは延期になっているものだと信じていたけれど、事態はそう簡単には収まらない。
神戸のホテルがまとめて営業不能になったその時点で、顧客は大阪のホテルに急遽流れ込み始めていた。顧客にも都合がある。結婚式の延期など出来ないのだ。
僕のいたホテルのように、神戸、大阪両方に系列ホテルがあるところは、直接神戸のホテルから変更の形で流れてきたし、大阪に系列のないホテルもやはり大阪のホテルに移してもらうように顧客に働きかけるしかなく、結果として1月、2月とは思えないオンシーズン並みの婚礼やパーティーが行われることになってしまった。
ところが、ホテルの従業員も多くが被災してしまっている。
大阪へ神戸方面から通う人が多く、営業休止中の神戸のホテルの従業員は殆ど自らも被災して動きが取れない。
僕のいたホテルでは、さらに、高級ホテルを家族の避難所として利用する神戸や芦屋、西宮のお金持ちの方々で宿泊も満室になり、広いロビーでは休校中の小学生が遊んでいるという、わけの分からない事態になった。
ホテルは降って沸いた忙しさに悲鳴を上げる・・従業員の何割かは被災して出て来れない。
悲鳴を上げるのでも決して嬉しい悲鳴ではなかっただろう・・僕のいたホテルでは系列の神戸のホテルの顧客への対応もしなければならなかったし、神戸のスタッフによるホテル再開へ向けた動きも支援していた。
けれども、神戸の系列ホテルは、高層ビル中層階の渡り廊下は崩落していたし、宴会場の水タンクが崩壊し、写真室や宴会場は使えなくなっていた。

僕が出勤を少しでも早くと催促されたのにはこんな理由があった。
事実、先輩のNさんは住宅が被災して倒壊し、着の身着のままで小学校の体育館からようやく出勤していた。
そういった人たちに比べると、僕は家は何ともなかったから、まだ幸いと言えたし、工夫して出て来れる状態になったのなら、なんとか仕事に出てくるしかなかった。
ただ、ホテルでありながら、客室は満室で仮眠室もボーイやフロント、調理のスタッフの方々で一杯で、僕はホテルに泊まることは出来ず、結局、残業で遅くなった日や、婚礼が朝早くからあり、早朝出勤しなければ行けない日は当時の上司の家で泊まらせていただくことになった。

しかし、高級ホテルで仕事をしていると、自分が住んでいる町と僅かに数十キロ離れただけで異国に来たような気になるのも当然だった。
きらびやかな衣装、豪華な食事、豊かで華やいだムード、ゆったりと談笑する人々・・
それは僕がいる今の神戸には無縁の存在だった。
だから、仕事とはいえ、ホテルの格式を失うことなく、接客し、応対するのは苦痛とも言えた。

自分の体が臭い・・神戸方面からの通勤者たちはそう嘆いた。
水もガスも出ず、風呂には入れない。
汗をかいて帰っても、そのまま寝るしかない。
まだ、僕のように自宅へ帰られるものはマシだった。
避難所へ変える人は、疲れを休める術もない。
すると、ホテルは仮眠室のシャワールームを使って良いと言ってくれた。
一度使ったけれど、今度は帰宅途中の代替バスの長い寒い行列で、すっかり身体が冷え切ってしまい、風邪を引きそうになった。
風邪を引くわけには行かない。
通勤は体力勝負だ。
結局、身体を洗うには休みの日に友人の家へ貰い風呂に行くしかなかった。

列車は動いている区間では最終も始発も普段に近かったけれど、なぜか代替バスは朝6時から夜10時までの運行だった。
行列に並ぶ必要もあるから、帰りの時間には気を使った。
遅くとも夜9時には、阪神梅田かJR大阪駅発の電車に乗らないとならない。

ぎりぎりで代替バスに乗り、三宮の町外れでバスを降りる。
2月に入ってから動き始めた阪神の神戸側の地下線、三宮と神戸駅を結ぶ短い区間が開通し、この間の移動も歩く距離が短くなっていた。
バスを降りると、きな臭い匂いが漂う。
道を歩くと小便の匂いがする。
神戸の都心、三宮は未だ灯りも少なく、クルマも少ない。
明かりをつけずに立っているビルの殆どは大破して解体を待っているような状態だ。
それでも、大きく壊れた「そごう」の建物の脇、いくつかの屋台が店を開いている。
「どてやき」の看板を出した店のおやじが声をかけてくれる。
「にいさん!1杯、やってかへんか!」
寒さに思わず、振り向く。
「何があんねん?」
「どてやきや!」
「どてやきだけ?」
「そや!」
僕はおかしくなって、屋台の下へ入った。
「熱燗、1本だけな・・」
「はいよ!おおきに!」
潰れた町、大きく傷つき、うめき声を上げる町、見なれたビルがひしゃげ、見なれた高架がぶら下がる町・・
あまり良くない酒だろうか、やたら甘さのしつこい酒だがそれでも暖かさが身体を回る。
暖かさが身体をめぐり始めると、訳もなく涙が出てくる。
巨大な蛇のように真っ黒な身を横たえている高架に電車が走る日は来るのだろうか?
この、屋台のすぐ横に立つ廃墟のような百貨店が華やかな明かりやおしゃれな客で溢れる日は来るのだろうか?

僕は涙をこするように、屋台を出て、百貨店の建物にくみこんである地下への入り口を降り、阪神電車のホームへ向かった。
地下は何事もなかったかのように静かで、壊れているものは何もなかった。
けれども、必要以上の明かりはなく、ただ、駅の自動販売機付近だけが明るく光っている。

阪神のホームには、震災前と同じくしっかり灯りがついていて、壊れたところもなく、ほっとする雰囲気が漂っていた。
けれども、ホームに並ぶ乗客は少なく、特に上り大阪方面行きのホームは無人だ。
電車がここで折り返すしかないのだから当たり前だ。
ただ、ここで折り返した電車も、姫路のほうへは行けず、新開地までの運転でしかない。
新開地駅の次の駅、大開駅が崩壊し、地上の道路までもが、大きく凹んで通れなくなってしまっていた。
地下鉄の駅が地上の道路ごと崩壊するなんて、これまでにあったのだろうか・・

さて、三宮駅の端のホーム・・大阪方面行きの三宮始発の電車が出ているホームに、青い普通電車が止めてあった。
5000形やな・・そう思いながら、何とはなしに電車に近づいた僕は、悲鳴を上げそうになった。
車体の上のほうを見る限りでは、なんともなっていないその電車は、ドアが大きく凹んで壊れていた。
それも全てのドアがそうなっていた。
良く見ると車体の裾は傷まみれで、よほど大きな衝撃を受けたのだろうと察せられる状態だった。
停まっているその電車は、すでに死んでいるように見えた。
阪神電鉄は西灘と御影の間で殆どの高架が崩壊し、大きな被害を受けていたが、この電車は高架もろとも地上にたたきつけられたのだろうか・・

反対のホームに新開地からの電車が入ってきた。
山陽電鉄の特急用の車両だ。
この電車も線路が途切れているから、車庫へは帰れない。
やがて、数人の客を降ろしたその電車は、大阪方向へ走っていったかと思うと、すぐに転線して折り返してきた。
ドアが開くと、地下線を行ったり来たりするには場違いの、赤いモケットのクロスシートが迎えてくれた。

切ない通り道


秋田栄一は、ふわふわした空間を歩いていた。
こんな空間が現実にあるはずはない。
これはきっと、夢なのだ・・そう自分に言い聞かせるのだが、夢は醒めそうもなく、覚めない夢なら現実として受け入れるしかないなあ・・ぼんやりと考えながら歩いていた。
彼が歩いているところは、やわらかな、暖かい空気に満たされているようで、その先がどこに通じるのかも、彼には分からなかった。
「たしか・・俺は・・」
栄一は自分がさっきまで何をどうしようとしていたのか・・考えようとしていた。
けれどもいくら考えても、肝心なところは思い出せないのだ。
彼は確かに、通勤のために自転車で駅へ向かい、間違いなく駅に着いたのだ。
彼の記憶はそこで止まってしまっていた。

無色、それは白とも灰色ともつかない、まさに無色としか言いようのない空間・・そこをゆっくり歩いていく。
歩いても息切れもしなければ、疲れることもなく、ただ、朝着たスーツのままの姿で、彼は歩いていく。
空間に少し色がついたような気がした。
青と言うのだろうか、それとも水色と言うべきか、そう言う系統の色だ。
それは、薄く、やがて濃く・・

気がつくと栄一は、木造の家屋に中にいた。
懐かしい匂いがする。
「栄ちゃん、ここにおったん?お父さんにお薬上げてきて・・」
割烹着の母親が台所で何やらせわしく働いている。
台所と言っても、昔の土間だ。石の流し、その脇に置かれた台の上に簡単なガスコンロ・・
「はーい」
栄一は、いつしか自分が11歳の自分に戻っていることに驚いたけれど、彼の口から出たのはごく普通の母親への返事だった。
お凡に医院で調合してもらった薬を数種類と水を入れたコップを載せ、父親が眠っている部屋に運び込んだ。
父親の部屋は台所から廊下を少し進んだその先にあった。
障子に手をかけ、開けると布団が敷いてあり、彼の父親はそこに眠っていた。
「栄一か?」
気配に目を覚ましたようだった。
「お父ちゃん、薬、ここに置いとくで・・」
「ああ・・薬か・・いややな・・」
父親は途切れ途切れに、そうつぶやいた。
「では、お酒でもお持ちしましょうか?」
栄一は、軽い気持ちで冗談を放った。
「こら・・こんなときに、冗談はやめてくれ・・」
父親は苦しそうにそう言うと咳き込んだ。
咳き込みながら体を起こし、さらに咳き込む。
栄一は体を支えてやり、背中をさすった。
「あれを・・」
父親が指差す方向に洗面器があった。
洗面器には新聞紙が敷き詰めてあった。
それを取って父親の手に渡してやると、抱え込むようにして、すぐに吐いた。
それはすべて血だった。
真っ赤になった洗面器を置いて、父親は、ほっとしたのか、また身体を横たえた。
栄一は薬の載ったお凡をそこにおいて、かわりに、血で一杯になった洗面器を持ち、台所の母親の元へ行った。
「お母ちゃん、お父ちゃん、また吐いたで・・」
「血いかいな・・」
「そや・・こんなにぎょうさん・・」
「アカンかもなあ・・」
「何が?」
「お父ちゃんや・・」
「いやや!僕、お父ちゃん、死ぬの、いやや!」
「そない言うたかてなあ・・」
栄一の父親は、酒がもとで体を壊し、ろくに病院にも行かず、入院しても帰ってきては酒を飲むと言う生き方をしていた。
腕の良い理髪職人であるにもかかわらず、いつまでも独立もかなわずに、流れて歩いてきたけれど、いつも酒がもとで客や店主、店のほかのものといざこざを起こしては店を変わっていくのだった。

ふと気がつくと、そこは栄一が住んでいた借家の前だった。
夏で暑い。
シキミの束が立てられている。
それらには送ってくれた人の名前や会社名が書いてある。
栄一父のの葬式の日だ。
あれから、いくらも経たないうちに彼の父親は38歳の短い生涯を閉じた。
栄一は母や祖母に言い含められ、棺の横にずっと正座を続けていた。けれども、さすがに、痺れがきて、席を立ったのだ。
親戚や参列する近所の人たちは奇異の目を向けたが、所詮小学生、放っておかれたようだ。

お経の声がする自分の家から外に出ると、担任の先生に連れられた小学生たちが並んでいた。
「あら・・秋田君、中にいないでいいの?」
担任の山口先生だ。
山口先生は若くてきれいな先生だ。
先生のすぐ後ろにコバンザメのように良一がくっついていた。
良一は栄一の手を取り「秋田君!かわいそうや・・」そう言ってくれた。
他のクラスメイトは奇異な目を向けながら、どんな表情をして良いか困っているようだ。
山口先生は他の先生数人と受付で香典を渡しているようだった。
「秋田君!」
突然、列の中からさつきが出てきた。
「頑張ってください!」
大声で彼女が叫ぶ。
「さつきちゃん!こう言うときは、しんみりするものなの・・」
山口先生がさつきを押さえ、小学生の一団はゆっくり去っていった。
良一が繰り返し後ろを振り向き、栄一を見る。
良一は今にも泣き出しそうな表情をしていた。

やわらかな、暖かい空間を栄一はゆっくりと歩いている。
かすかな青い色合いは、やがてはっきりとした色合いになってきた。
懐かしく、切ない風景に出会えたことを喜びながらも、その風景をなぜ自分が見ているのか、そこまでは考えない栄一だった。

中学校、秋の昼下がり・・
授業を終え、掃除も済んで、帰ろうとした栄一をさつきが呼び止めた。
「秋田くーん!」
さつきは、ずいぶん大人びて、肩までの髪、小粋に耳を出し、セーラー服が良く似合う美少女になっている。
「なんやねん・・俺、帰るとこやねんで・・」
さつきの後ろには数人の女子生徒がついている。
彼女は女子の間ではボス的な存在だ。
「知ってる?知ってる?」
「だから・・なんやねん・・」
「男と女が、仲良くなってすること・・」
「男と女?」
「そうそう・・秋田君やったら、知ってるやろうねえ・・」
「知らんわ・・」
「ええ!・・知らんのう?・・ホンマ?」
こいつ、何を言い出すのかと思えば・・悪戯好きのさつきだから油断は出来ない。
栄一はそう思いながらも、さつきには惹かれている自分もあり、向こうから声をかけてくれたら嬉しいとの思いもある。
「男と女やろ・・」
「そうそう・・」
さつきは悪戯っぽく笑う。
栄一は思い切ってこう言った。
「性交・・」
さつきは他の女子と一緒に大声で笑い出した。
「きゃあ!セイコーやて・・聞いたあ・・」
教室に残っていたほかのクラスメイトも笑い出した。
「じゃあ・・なんやねん・・」
「そんなん、デートに決まってるやんか・・いきなりセイコーはないわよ・・」
そう答えたあとで、また大騒ぎをしている。
栄一は、どう取り繕って言いか分からず、ふてくされて、教室を出ようとした。
「秋田くーん・・」
栄一は無言で教室を出る。
「秋田君!エッチやなあ・・」
後ろから女子のきゃあきゃあと笑う声が聞こえる。
栄一は自分でも分かるくらい、顔を赤くして廊下に出た。

廊下に出ると良一が待っていた。
良一とは小学校で同じクラスになって以来、中学では一度もクラスメイトになれなかった。
校舎から外に出て、歩道を歩きながら二人は並んで帰る。
「秋田君、ええなあ・・」
良一は突然、羨望のまなざしで栄一を見る。
「何がええんや?」
ほんの少し、間を置いてから、良一が答えた。
「さつきちゃんと仲が良くて・・」
そう言った良一の顔は少し赤くなっている。
「いや・・あんなオテンバ、ちっとも、ええことあらへん」
「でも、さつきちゃん、可愛いやんか・・」
「ま・・そらそうやな・・いえるわな・・」
「そやろ・・可愛いやろ・・」
「そやけど、性格に問題ありやぞ・・ほんまに・・」
「でも可愛い・・」
栄一は、良一がさつきにこだわるのを、少し、からかいたくなった。
「おまえ、さつきが好きなんか?」
「そうや!」
良一は臆面もなく答える。
栄一はその良一を羨ましく思った。

何だか胸が熱くなってきた。
心の一番奥で眠っていたものが目を覚ましてきたような気がする。
栄一はゆったりとした優しさと暖かさを感じながら、また、空間を歩いている。
空間の色は青からやや濃い群青色に変わりつつあった。
暖かさの中に切ない、しんみりとした空気が混じるような気がする。

夜、良一から呼び出しがあった。
栄一は二十歳、高校を卒業して地元に工場のある大手メーカーに勤めていた。
栄一は買ったばかりの中古自動車で、良一の自宅近くへ行った。
田圃の中に良一が立っている。
ヘッドライトで照らされた良一は、いつものように元気そうに見えた。
「どないしたんや・・急用って・・」
栄一は良一をクルマに乗せながら聞いた。
「僕、明日から仕事に行くねん・・」
「良かったなあ・・どんな仕事や」
栄一は適当にクルマを走らせながら、訊ねた。良一は数ヶ月、無職だったのだ。
「うん、カー用品の販売や・・」
「それは良かったなあ・・おまえ、クルマ好きやしなあ・・」
「うん・・」
「で、急用って・・そのこと?」
「そうやな・・それもある」
「今からどこかで奢るわ!就職祝や!」
「うん・・」
良一は何だか気乗りがしない風だった。
だけども、彼は普段からあまり大げさに喜ぶような男ではなかった。
いつも静かな、強いものを秘めているような男だった。
その日、栄一は良一にファミリーレストランで奢り、良一の家の前まで送ってきた。
「あんな・・秋田君」
「なんや・・」
「さつきちゃんのこと・・知らんか?」
ああ・・そのことか、栄一はそう思った。
良一はまだ初恋を抱いたままなのだ。
「さあ・・大阪の有名私立から帰ってきたという話は聞いたけど・・」
「家におるんか?」
さつきは、頭も良く、地元で一番の優秀な高校でさえも足元にも及ばない大阪の私立高校に入学していたのだ。
卒業は普通にしたはずだが、栄一の母親によると帰ってきたきり、自宅に閉じこもりっぱなしで出てこないと言う。
「家にはおるらしいな・・」
「電話・・してみようか・・」
「そうやな・・してもええかも知れへんぞ・・」
そう言い残して、栄一はクルマを走らせた。
クルマは夜の町を快調に走り、エンジンの伸びやかな音も心地よく、栄一は良一のことを忘れた。

翌日、栄一が会社から自宅へ戻り、夕刊を広げた。
「二十歳の男性、焼身自殺」小さな見出しが社会面の隅にあり、そこを良く見ると良一の名前があった。
栄一はそれを見たとたん、放心状態となり、そのまま、宙を睨み続けていた。
「どないしたん・・栄ちゃん・・」
母親の声に我に返った。
息を吸いすぎて、声がまともに出ず、やっとの思いで切れ切れにこう言った。
「お母ちゃん!良一が死んだ!」

暖かな道にも、時折、切なく、悲しいところがあるものやなあ・・栄一は、つぶやきながら空間を歩いていく。
群青色の空間はさらに濃さを増し、星がきらめき始めた。
星だと思っているだけで、実はそれが何だかわからない。
とにかく、ひたすら濃い色・・黒に近い色の中に無数のちりばめられた光がある。
寒くなってきた気がする。

「さつきさんが亡くなったよ」
栄一は仕事中に携帯電話へかけてきた母をたしなめようとしたけれども、母親の口から出た言葉はあまりにも冷たく響いた。
「なんで?」
「わからへん・・とにかく、今夜、お通夜やから・・」
栄一は工場の事務所で購買の仕事をしている。
仕事は、今日は7時過ぎまではかかりそうだった。
クルマを飛ばせば、お通夜の時間内に着けるだろう・・

お通夜は、彼が行った時には半ば終わっていた。
祭壇にあるさつきの顔は、彼が知っているさつきと目のあたりこそ似ているけれど別人のように見える。
けれども、棺の中を見せてもらったときには、その目元と鼻がきれいに化粧されていて、彼の知っているさつきに思えた。
ただ、彼には、目元と鼻だけが棺の中で花で一杯にされたところから出るようにしているのが、不思議な感じがした。
「秋田君・・」
さつきの声がした。
「来てくれたんやね・・」
栄一はあたりを見まわした。
そこは、暖かい通夜の会場ではなく、荒涼とした夕方の線路際だった。
そうだ、彼女は列車に身を投げたんだ・・
栄一はそのことを思い出した。
「秋田君!」
線路際にいたのはセーラー服姿のさつきだった。
「ごめんね・・仕事が忙しいでしょう・・でも、ありがとう・・」
踏み切りが鳴る。
列車が通過していく。
「寒いなあ・・」
「ホンマや・・寒い寒い・・あたし、中学生のころが一番楽しかったよ」
「そう言えば・・俺も、楽しかったなあ・・」
「あの頃のまま、大人になってたら・・そうね、良一君か秋田君と結婚してたら・・」
「もっと楽しかったか?」
「うん・・」
「喧嘩ばっかりしてたかもなあ・・俺と結婚してたら・・」
「あはは・・そうかも知れへん・・」
「その喧嘩もしてみたかったなあ・・そういや、良一が君のことが好きだったって・・知ってたか?」
「知ってるわ・・彼、亡くなる前の日に電話くれたもの・・」
「なんて?」
「明日会って欲しいって・・」
「どう返事したの?」
「いいわよって・・時間も決めてた」
栄一には意外なことだった。
栄一は今の今まで良一が自殺した原因は、さつきにふられたからかも知れないと思っていたからだ。
「じゃ、どうして、良一は死んだの?」
「彼に聞いたらね・・怖かったんだって・・」
「彼に聞いた?」
「うん・・あとでね・・」
「不思議なことを言うなあ・・」
「でもねえ・・秋田君・・」
「なんや?」
「まだ、こっちへ来たらあかんよ・・」
「こっちへ?」
「うん、秋田君のお父さんも、良一君もこっちにいるけど、あなたはまだ来たらアカンよ」
「そやけど・・俺は・・」
「まだまだ・・またずっと後で会おうよ・・」
さつきは、そういったかと思うと、走り去ってしまう。
追いかけようと栄一は走り出すのだが、身体がまったく動かない。
貨物列車がわずかに残る残照の彼方から走ってきた。

ピーーー・・電気機関車のけたたましい警笛が聞こえる。
踏み切りの警報音が鳴り続いている。
ブレーキの鈍い音が広がる・・長い時間・・・

さつきは、どうしてあんな苦しみ方を選んだのだろう・・
そこまでして彼女が捨てたかったのは何だったのだろう・・
栄一はしばらく考え込んでいた。

気がつけば彼はすっかり暗くなった空間を歩いている。
暖かさも優しさも消えた真っ暗な空間を歩いている。
突然、彼の前に男が現れた。
「来るな!」
男が叫ぶ。
聞いたことの有る声だ。
「兼子先輩!」
そうだ、彼の職場で、いつも彼を邪険に扱ってくれた、嫌いな先輩だ。
「秋田!こっちに来るな!」
「先輩!どうされたんですか?」
「秋田よ!おまえはこっちに来たらアカンのや!来るな!帰れ!」
「兼子先輩!」
「来るな!」
風が吹き始めた。冷たい風だ。
これ以上は進めない・・
そう思いながら、ふと、後ろを見ると、暖かそうな日向が広がっているのが見えた。
「パパ!」
叫ぶ声が聞こえる。
ああ・・あれは娘の響子の声だ・・
ふらふらと、彼はそちらへ向かって歩いていく。
見ると、良一とさつきが手をつないでいる。
「おまえら、結婚したんか?」
「まさか・・デートの途中やわ・・」
悪戯っぽくさつきが笑う。
良一が照れている。
「家族を大事に・・あまり酒を飲むな・・」
その声にびっくりした。
彼の父親の声だ。
優しい笑顔で、彼を見送ってくれている。
懐かしい、大切な人たち・・
「おい!来るなら、もっと準備して来いよ・・」
兼子先輩が笑っている。
ああ・・先輩、入社当事はこんなきれいな笑顔を見せてくれた人だったなあ・・
そう思う。
「お嬢さんによろしくね!」
さつきが叫ぶ。
「パパ!」
娘の声だ。

気がつくと彼はベッドの上でさまざまな機械や人々に囲まれて横たわっていた。
「涙を流しておられますよ!」
若い男の声がする。
手に力を入れた。
暖かく、柔らかい手が握り返してくれる。
「お父さん・・気がついたんだ・・」
ぼんやりと見える、それは、まさに彼の娘の輪郭だった。

秋田栄一はあとで、彼が、あの日の朝、駅のホームで電車を待っていて、誰かに後ろから突き飛ばされ、ちょうど入ってきた電車に接触し、瀕死の重傷を負ったことを知った。
けれども、彼は、そのことで、彼が会いたかった人たちに少しでも会えたことを、じっくりと味わうことのほうを喜んでいた。
彼は優しさと暖かさを知ったような気がしたのだ。

秋を数える

僕は公園のベンチに君と並んで座り、そこから見える町並みを眺めていた。
赤く色づいた葉がひらひらと落ちてくる。
風はなく、光がまぶしいけれど、さすがに十一月も半ばを過ぎると、少し肌寒い。
「秋はいいなあ・・艶々してて・・」
僕は光の輝きを感じ、そう呟いた。
僕の肩にもたれ掛かっている君は、ふーんと返事とも欠伸ともつかない答えを返し、光で満たされる町並みを眺めている。
時折、昼休みらしいOLやビジネスマン達が公園を横切るけれど、ベンチに座っている僕たちには目もくれない。
僕たちは都会の奇妙な静けさの中にいる。
「ねえ、マサトは秋をどれくらい感じたの?」
ふと、君がそう訊いてきた。
「どれくらいって・・」
「毎年秋が来るでしょ・・それをどれくらい過ごしたのかなあ・・」
「毎年来る秋?そりゃあ、年の数だろう・・」
「あ・・」
君は僕にもたれ掛かっていた姿勢を急に直し、僕を見つめた。
「あたし・・馬鹿みたいだよね。そりゃ、年の数だけ秋を見てきてるよね・・」
そういって、くっくと笑いを堪えているようだったけれど、それもやがて我慢の堰が切れたか、大声で笑い出した。
笑いが治まると、君は空を見上げながら、また、何かを考えているようだった。
「ということは、あたしも、年の数だけ秋を数えたわけだ」
僕は、君が何を言いたいのか、ちょっと判らなくなった。
「ねえ・・マサトが数えた秋は・・マサトが四十三歳だから・・43回でしょ・・」
「そうだなあ・・いや、僕は12月生まれだから、生まれた年の秋は知らないから・・42回だよね」
「あ・・そうか・・」
そう言ったまま、君はまた、何か考えている風だった。
「すると、ねえ、マサト、あたしは3月生まれだから・・年齢と秋の数は同じで・・21回・・」
「それがどうしたの?」
「秋の数が、私はマサトの半分なんだ・・」
君は、悪戯っぽく笑った。
「あ・・そうだね・・でも、それがどうかしたの?」
「うううん・・不思議だなって・・感じただけ・・」
僕を見つめてそう言いながら、君はまた、僕の肩にしなだれかかってきた。
僕は、黙って君を受け止めて、また昼下がりのゆっくりした時間が過ぎていくのを楽しんでいた。

「秋の数を数えたら・・ちょうど半分・・」
僕は自分の職場・・それは小さな問屋の事務所なのだけれども・・そこに戻り、開け放した窓から町の景色を見ながら考えていた。
「そうか・・君は僕の半分しか人生を知らないのだ・・」
その感触が、僕の気持ちを一気に突き落としていく。
僕は君なしでは生きてゆけない。
僕というつまらない人間にとって、偶然に捕まえた君という存在は、いまや僕が生きるのに必要な空気か水のようなものになっている。
窓から見える山々は、すっかり秋の色に染まっている。
町は慌しく動いているけれど、山々では静かに冬への準備が始っている・・そう思うと、君にまたすぐに会いたくて、その思いは止まらなくなって来た。
どうしてだろう、どうして、僕はこんなにも君に会いたいのだろう・・

その思いは、デスクの電話機のボタンへと続く。
「あ・・サチコ・・僕だよ・・今日は仕事の打ち合わせで遅くなる・・食事はいいから・・」
はいはいと、明るい妻の声が聞こえる。
まだ、娘が帰る時間ではない・・妻はきっとテレビの画面を飽くことなく眺めているのだろう・・
そう思いながら、僕は携帯電話を取り出し、君へのメールを打ち込んだ。
「今夜、行ってもいいかな?」
学生であるはずの君からすぐに、返事が来た。
「o(^-^)o(*^_^*)(^_^)v」
「なんじゃ、こりゃあ・・」僕が思わず呟くと、横の席にいる部下が携帯電話の画面を覗き込んできた。
「課長も、なかなかやりますなあ・・」
「何を言う・・娘だよ!」
「ほう・・お嬢さんですか・・」
部下は、騙されないぞという顔つきで、僕を見ている。
僕にはそう見える・・

僕は打ち合わせに行くといって、少し早めに職場を出た。
その足で、一旦、先日来、新ソフトを導入してもらった小売店に向かい、そこの店主と暫く雑談をし、幾つかの注文を貰い、私鉄電車に乗り込んだ。
君のアパートは、この私鉄電車が地下に潜って、暫く都心を走ってから再び地上に出たところにある最初の駅を降りて、小さな川を渡ったところにあった。

アパートの階段下で「着いた」とメールを送る。
そのまま屋外の階段を上がり、3軒並んでいるうちの一番端っこが君の部屋だ。
僕の足音が聞こえたのか、かちゃりと鍵を開ける音がする。
扉を開けると、そこに君がジャージ姿で立っていた。
扉を閉めると、君が抱きついてきた。
「おうおう・・いきなりはないよ・・」
僕は君を止めようとしたけれど、君はそのまま、部屋の中まで僕を抱きついたままの格好で誘うと、我慢できないかのような性急さで、僕を求めてきた。

踏み切りの音がする。
川の流れる音もかすかに聞こえる。
電車の通過する音が聞こえる。
踏み切りの音はなかなか止まない。
勢いよく通過する音・・特急だろうか・・
川の流れる音、アパートの前の道路を通るクルマの気配・・人が歩く気配・・

明かりが消された部屋の中で、汗や体液の甘い香りが漂う夢うつつの世界に、僕はいた。
何もかもが、このひと時のためにあるような気がする。
けれども、これは内緒の世界・・表に出してはいけない二人の世界・・
からだとからだを重ねあわせ、汗にまみれ、舌と舌を重ねあわせ、何もかもをそこに投げ捨てていく・・

僕は眠ってしまっていたようだった。
君は明るい電灯の下で、食べるものを並べている。
「目が覚めた?」
ああ・・起きたくないような夢の中から、僕は現実に引き戻され、身体を起こした。
僕の上には毛布がかけられていた。
「いいところで眠っちゃうんだもの・・余程疲れているのねえ・・」
そうかもしれない・・仕事での無理がたたっているのだろうか・・けれども、いつもより多くの仕事をこなした実感は僕にはない。
疲れているとすれば・・
もう2年も続く内緒の世界を隠しとおすことにだろうか・・
立ち上がり、君の方へ行こうとするが、足元がおぼつかない。
それに、僕は裸だった。
「これ、着て!」
君はジャージの上下を出してくれていた。
僕は頷いてそれを着、君が用意した食卓に向かった。
「頭がくらくらするよ・・」
「風邪かなあ?」
心配そうに君が僕の額に手を当てる。
「あたし、悪いときに誘っちゃったわねえ・・ごめんね・・きょうは、もう、我慢できなかったんだ・・」
「いや、それは構わないけどさ・・仕事の疲れだろうな」
そう答えながら、僕は当たり前のように、そこに置いてある箸をとった。
君も、当たり前のようにビールを出して、僕のグラスに注いでくれる。
「美味しい?」
うん・・頷きながら僕は食べては飲んでいる。
「あたしね・・そろそろ、きちんとした生活がしたくなってきたの・・」
「きちんとした?」
「うん・・隠れてこそこそしないで、本当に堂々と、二人で生活するの・・」
僕は思わず、君を見つめた。
この2年、君は一度だって、そんなことは言わなかった。
「それは・・どういうこと?」
「うーん・・ただ、普通になりたいだけ・・」
「普通か・・」
「マサトは、奥さんと別れるなんて・・無理でしょ」
僕は自分が惨めに思えてきた。
いや、自分の悪さに嫌気がさしてきているのを覚えた。
「そりゃあ・・娘もいるし・・」
「あたしもね・・彼氏がいるって事は、パパとママには言ってあるけれど、紹介なんて出来ないし・・」
君はそう呟きながらビールを自分で注いで飲んだ。
深刻な話だけれど、君の表情は明るく、いつもと変わりはない。
「じゃあ・・どうするんだい?」
明るい表情の君に、僕はわざと高飛車に聞いた。
「そうねえ・・どうしよう・・」

君は笑顔さえ浮かべながら、食べ物を口に入れ、ビールを飲む。
「テレビでも見ようか・・」
そう言い、リモコンでテレビのスイッチを入れる。
お笑い芸人達の馬鹿笑いが部屋の中に広がる。
けれども、僕の心は静かだった。
テレビの笑い声も、君の笑い声も、僕もそれに同調しながらも、それでも僕にとっては静かな時間だった。
踏み切りの音がする。
勢いよく通過する電車の音・・

「あたしね・・」テレビ画面を見たまま、君が呟く。
「秋の数を数えたらね・・」
「今日の昼のことかい・・」
「そうそう・・それで・・秋の数を数えたらね・・哀しくなっちゃったの・・」
「秋の数で?」
「うん・・マサトはあたしの倍も秋を知ってるんだよ・・」
「そりゃあね・・」
「あたし、マサトの半分しか、秋を知らないんだよ・・」
「まあね・・」
「だから哀しくなったの・・」
君は僕の方を見た。何のことか判らないけれど、なんとなく分かるような気もする。
泣いているのかと思ったけれど、君は明るい表情で、笑顔だった。
僕は自分の半分しか人生を知らない君に、何か、諭されているような気になってきた。

時計が11時をさしている。
私鉄電車は最終がはやい・・僕の自宅へ帰るには、そろそろここを出なければならなかった。
「マサト、そろそろ帰らなくちゃね・・」
「うん・・」
僕は立ち上がり、ジャージを脱いで、いつもの背広姿に着替えた。
君は僕が着替える間中、僕の前でかいがいしく世話をしてくれる。
背広にブラシもかけてくれる。いつもと同じだ。
僕は「じゃあ・・また・・」そう言って、部屋を出ようとした。
君がいきなり、抱きついてきた。
「奥さんと、別れられない?」
君は、僕の耳元で囁く。
「それは・・今は無理だ・・」
僕は、君を抱きしめた。
「だけど・・」
「だけど?」
「いずれ・・」

言葉はそこで終わってしまった。
僕はもう一度君を愛撫し、君はもう一度、僕に背広を着せる手伝いをする羽目になった。
そして、本当にここで帰らなければならない・・その時刻・・
23時33分発の快速急行・・それに乗らなければ・・
僕は靴をはいて、ドアノブに手をかけた。
「ありがとう!」
君が明るく言った。
「いや、こちらこそ・・」
「ありがとう!2年間、楽しかったです!」
「え?」
「これでおしまい!それぞれの人生を大事に!そうしましょ!」
「え?」
僕は振り向き、君の顔を見た。
涙が溢れて、ぐしょぐしょになった君の顔があった。
「もう、電話もメールもしないでね!マサトは大人だから・・判ってくれると思うの」
僕は、わけがわからず、君を見つめた。
「あたし、普通の恋をして、普通の結婚をするの・・そう決めたの」
泣きながら、少しヒステリックに、けれども声は落として君は言う。
「それはどういうこと?」
僕の問いかけに君は、呆れたような表情になった。
「最終の快速急行に乗り遅れたら知らないわよ!」
君はちょっと苛立つ風で、泣きながら僕の背を押した。
僕は、そのまま、部屋の外に出た。
「じゃね!」
君はそう言ったかと思うと、扉を閉めた。

僕は、夢でも見ているような気分になって、ゆっくりと階段をおり、踏み切りのほうへ向かった。
やがて、踏み切りのシグナルが点滅し始め、警報音がなり始めた。
カンカンカン・・音は何かを急き立てるかのように響く。
僕は、慌てて、すぐそこに見える駅に向かって、走っていった。
君が突然僕を振り切った・・そのことを考えようとしているのに、僕の身体は最終の快速急行に乗るために頑張っている。
それは僕が家族のもとへ帰るため・・
僕の居場所へ帰るため・・

階段を上下し、ホームに滑り込んだ僕の目の前に、見慣れた茶色の電車がヘッドライトも眩しく入ってきた。

松の木


私は息を切らせて海岸の国道を歩いていた。
ついさっきまで走っていたのだ。
クルマがひっきりなしと言うよりは、道一杯に伸びたまま動かない状態で、私は排気ガスの漂う歩道を東へと向かっていた。
遠くに淡路島がぼんやりと見える。
海辺でありながら風がなく、秋でありながら蒸し暑さが漂う。
大きなタンカーが島との間に架けられた巨大な橋の下を通過する。

海辺のマンションでの面接はひどいものだった。
高名な写真家といわれる彼は、協会から紹介されてやってきた私を、じろじろと舐め尽くすように見て、いきなりこう切り出した。
「うちの秘書は、事務だけやないさかい、判ってるやろうな」
何のことか判らず、私は彼の顔を見つめたままだった。
彼の後ろには大きな窓があり、今見ているのと同じ海が広がっていた。
「事務だけではない・・どういうことでしょうか?私は、撮影の助手として紹介いただいたのですが・・」
彼は立ち上がり、海のほうを見た・・つまり、私に背を向けたわけだ。
「助手ねえ・・」
彼はその姿勢で海に向かってそう言った。
「はい・・私はそのつもりで・・」
突然、彼が私のほうを向いた。
「そうや・・助手や・・ええ作品を作るためのな・・」
彼は私に近づき、ビックリしている私の手をとった。
「そのためには、愛が必要なんや」
彼は体を寄せてきた。
酒の匂いがした。
私は、どうしてよいか一瞬、判らなくなった。
彼は私のブラウスに手を入れて、胸を探り始めた。

・・逃げよう!・・
私は、手に持ったアルミバックで、彼を殴り飛ばした。
彼は、不意をうたれて転び、私はその隙に彼の部屋を飛び出した。
「こらぁ!」
彼が怒鳴る声が聞こえた。
気持ちが悪かった。
怖くはなかったが、腹が立った。
私は、怒りと情けなさと、もろもろの激情を抱いたまま、マンションを飛び出し、歩道に出て、ここまで走ってきていた。
もう彼は追ってこないだろう・・
そう思うと同時に、折角、協会が探してくれた仕事をふいにした哀しさも味わっていた。

なまじ、高い評価を貰っていたのがいけなかったかもしれない。
普通の女の子なら、30近くにもなると職場ではリーダー的存在になっているか、あるいは既に結婚して家庭を持っているものだろう。
私は、自分が生きてきた道を、思い返していた。
写真一筋で生きてきたし、写真では誰にも負けないつもりでいた。
重いアルミ製のカメラバックが、今日はことさらに重く感じる。
面接の時に、作品やカメラを見てもらおうと用意したものが、入っていた。

専門学校を卒業して、最初に入ったホテルの写真館では、私はすぐに先輩の男性を追い抜いて、二番手の地位を確保した。
私は気が短く、いつも苛立っていたから、先輩は私を壊れ物を触るかのように扱ってくれていたが、私にはそれが余計に気に触った。

私は駆け出しのカメラマンとしては破格の待遇を受け、撮影時のメインカメラマンもさせてもらえるようになるのに、それほどの時間はかからなかった。
しかも、撮影した写真をプロ写真家のコンテストに出したところ、そのまま入選してしまった。
私の鼻は高く、周囲には傲慢になっていたに違いない。

ところが、あるとき、スタジオにやってきた本社スタジオの専務と意見が衝突してしまった。
専務は、たまたま、そこにあった私が撮影した写真を見て、ウェディングドレスの長い裾を全部入れて撮影するべきだと私に注意をしたのだ。
それだけならまだしも、私が後ろに流すようにしているヴェールを前に持ってきて、全部画面に入れろという。
「どうしてですか?」
私は挑戦でもするかの様に、60歳近い専務に訊ねた。
「ドレスを切ると・・切るってさ、縁起がよくないでしょ・・」
「はあ?縁起ですか?」
「結婚式の写真は、縁起物だから、切らないようにしないとね・・」
私は呆れた。
ドレスよりも花嫁が主人公のはずで、花嫁を美しく生かすには長いドレスを画面から外すことも必要になってくる・・私はそう訴えた。
「君はこの業界に何年居ると言うのだ?僕はこの業界に40年も居るのだぞ!この業界の怖さを君は知らなすぎる!」
専務はそう言って怒り始めた。
私はそのとき、素直に下がるべきだったかもしれない。
けれども、私はコンテストに入選したばかりで、今思えばつけ上がっていた。
「花嫁さんが主役でしょ!花嫁さんを引き立たせるためのドレスじゃないですか!」
私の反撃を、スタジオのチーフが腕を引っ張って止めようとしてくれたけれど、私はチーフの手も振り解いたのだ。
「君は何様のつもりだ?現実にドレスが全部、写真に入っていないというクレームがあったこともあるんだ。そういうクレームが来た時、君は責任を取れるのか?」
「責任くらいとりますよ!私は私の感性でこれがいいと思ってしているのですから!」
専務は、少し気持ちを落ち着けて、噛んで含めるように話してくれた。
「あのね・・責任なんか、君にとれっこないんだよ・・お客のクレームには、きちんとした立場の人でなければ対処できないんだ。君がいかに感性の優れた、優秀なカメラマンでも、うちの会社を代表することは出来ないんだ。それと、僕たちの仕事は、感性も大事だけれど、決められたことを決められたように実行できることが何より大切なんだよ。感性はその基本を押さえてから、基本の上に咲かせなきゃぁ・・」
私は素直に従うべきだった。
専務の言っていることは理に叶っていたのだから・・
「ですが、この作品は・・やはりドレスは切った方が・・」
専務は諦めたような表情になった。
「作品?この写真が君の作品だというのかな?君がライティングを決めたのか?君がバックを選択したのか?君がレンズを選択して、君が絞りを決めたというのか?フィルムを選択したのは君か?ポーズを決めたのは君かも知れないけれど、このポーズの何処が君のオリジナルなんだ?これは全てここに居るチーフが、長い経験から決めて撮影しているデータをそのまま使っただけだし、ポーズも猿真似に過ぎないのだ・・」
私は、怒った。
猿真似といわれて怒った。
けれども、言い返すすべはなかった。
専務はそんな私をじっと見つめ、チーフは困ったような顔をして、私の横に突っ立っていた。
「チーフ!彼女はカメラマンとしてはちょっと、どうだろうか?暫く助手をさせて基本をもう一度、一から学び直させる必要があるのではないか?」
「は!」チーフは立ったまま、なにも言い返さなかった。
「彼女は僕が良しとするまで、シャッターを持つことは禁じる。1ヶ月して、僕が今度来た時に、彼女の学習の成果を見て、シャッターの権利を戻すか考えよう・・」
専務はそう言いながら立ち上がり、私のほうを向いた。
「あのドレスは、切らなくても、きちんと枠に全部入れて、形よく決まるんだよ・・」

私は悔しかった。
見返してやろうと思った。
けれども、一度有頂天になった人間は、どうしようもない傲慢さをもつものだと、私は自分の心で思い知った。
私はホテルのスタジオに辞表を提出し、独立した。
仕事など、あるはずがなかった。
飛び出したスタジオには頭は下げられない。
必死で営業活動をしてみたけれど、どこでもこう言われたものだ。
「写真撮影?うちは自分でするからいいよ」
ちょっと気のありそうな会社ではこう聞かれた。
「カメラマンの方ですか?何が撮影できますか?」
「ブライダルとか・・」
「商品はどうですか?チラシや広告に使うものですが・・」
商品撮影など、やったことがない。
第一、私は露出というものが理解できていないのだ。
スタジオの外に出て、私は何も写真を知らない素人に過ぎなかったことが判ったわけだ。

スタジオに出入していたプロラボの人に連絡をとり、ホテルの結婚式スナップの仕事を貰った。
それは良いが、最初の仕事の時に、そこの責任者からメモ書きで「感度はISO320に設定してください。もしくはプラス0.7から1.0の露出補正をかけても構いません。絞り解放で被写界深度の浅さを生かしたポートレートを必ず数点入れて置いてください。今日の撮影は全卓撮影がありますのでよろしくお願いいたします」と書かれた指示を受け取ったけれど、私にはISO320も、露出補正も被写界深度も全卓撮影もわからなかった。
仕方なく、その責任者に色々質問したけれど、全卓撮影まで聞く余裕がなく、ただ、露出補正とは感度ISO400のフィルムで320に落とすということ、絞り解放とはレンズの絞り数値を最小で使うということだけは教えてもらった。
けれども、自分のカメラのどれを触れば絞りというものが動くのか、感度を変えるにはどうするのか、全くわからないまま撮影に望んでしまった。
撮影は全てフルオートのプログラムAEで、あとは、なるようになれと、私は結婚式や披露宴の進行に合わせてただ、シャッターを切っていった。

その仕事をこなし、自宅へ帰ると、そのホテルの責任者から電話がかかってきた。
「なんですか!この仕事は・・全部フラッシュを使っているから、写真が全て素人の撮るようなものになっていますし、露出の不足しているカットもあります。それに、何より許せないのは全卓撮影で御願いしたのに、お客さんのポートレートが一つもないじゃありませんか!」
私は、心の疼きを感じながら、それでもやっとのことで返事を探し出した。
「ええ!そうなっていますか?すみません・・気をつけたつもりだったのですけれど・・」
「つもりではダメなんです。あなたはラボの方が紹介してくださって、しかも前は別のホテルのスタジオにおられたから、そういわれたから安心して御願いしたのですよ!」
「すみません・・責任はとりますから・・」
「責任!なんですか!それは!あなたに取れるような責任なんてないのです。それとも、新郎新婦にもう一度結婚式をしてもらう費用や、列席のお客様の交通費、衣裳代、その全てをあなたが負担するとでも言うのですか?」
「え・・責任て・・そこまでしなくてはいけないのですか・・」
「あなた、今、責任を取るって言われましたよね!じゃあ、他にどんな責任のとり方があるのですか?」
「あ・・だから・・私が謝って・・」
「謝るのはうちのホテルの担当営業マンです。そのときに必ずこういわれますよ・・素人に仕事を任せたホテルの責任ってね!」
「あの・・私にも謝らせてください・・」
「お客様にとっては一生に一度の結婚式です。あなたは、それをぶち壊したわけです。営業マンが一生懸命に営業し、美容室が心を込めて美容着付けをし、宴会場ではスタッフが一生懸命にお客様にサービスをし、裏ではコックさんたちが汗をかきながら調理をしておられます。あなたは、その全ての方々の努力をぶち壊したわけです。もっとも、あなたをテストも得ずに使った私の責任はあなたよりも遥かに重いです」
「すぐに、お詫びに伺います・・」
「もう、結構です。今日の仕事はなかったことにしてください。お疲れ様でした!」
そう言って電話は一方的に切られた。

その婚礼の後始末を、あの責任者やあのホテルの営業マンがどのようにしたのか、私には判らない。
私は写真というものを甘く見ていたことを思い知った。
私が写真が撮れる気になっていた、そのバックには私が居たスタジオのチーフの技術があって、私はその上で偉そうにしていたに過ぎないのだ。

私は自分へ腹を立てた。
一度、徹底して基礎を学びなおそうと思った。
そこで、私は写真技術に関する本を読み漁り、自分のカメラを使って徹底的にテストを繰り返した。
友人や親戚の婚礼で撮影もさせてもらった。
私はカメラマンとしての道をきちんと進むために、自分にとっての師匠になるべき人物を探していて、そこで、自分が勤めていたスタジオの、あのチーフにお願いをしてみた。
結果的に私は、そのスタジオに頭を下げたのだ。
チーフは「他の写真家はよく知らない」といいながらも、自分も加盟する写真師の協会を教えてくれたのだ。

暫く海岸沿いを歩いていた私には、時間の感覚がなくなってしまっていたようだった。
気がつけば、あの男のマンションから随分はなれた、海峡大橋の近くの公園傍まで来ていた。
海はぼんやりと光をはねかえし、景色だけ見れば春先のような雰囲気だ。
「私は何をしに、こんなに自宅から遠いところまでやってきたのだろう・・」
そう思うと、苛立ちと哀しさがまた湧き上がってくる。

私は、公園の入り口近くに、ぽつんと立っている松の木を見つけた。
その松の木は、枝や葉が遥か上のほうにしかなく、細長い幹でひょろりと立っているように思えた。
その近くには他に松の木はなく、そこから少し離れた大橋の真下あたりから松林が始っているようだった。
私は、松の木を見上げていた。
なんともいえぬ親近感が湧いた。
海岸でひとりぼっちで頼りなげに立つ松の木は、写真業界でひとりぼっちとなり、それでも立っていこうとする自分の姿に重なって見えたのかもしれない。
私は、その妙な親近感を、もっと感じたかった。
周りを見渡すと、人は居ない。
国道にはクルマが並んでいるけれど、そのクルマたちはこちらを見ることはないだろう・・

私は松の木に触れてみた。
ゴワゴワの幹の表面は、心なしか暖かく感じた。
「お前は、いつからここに立っているの?」
松の木に語りかけてみた。
「もっと近くへ!」
誰かの声がした。
私はあたりを見回したけれど、誰も居ない。
「もっと近くへ!」
声は、上の方から聞こえた。
私は、木の上のほうを見た。
風にかすかに揺れる枝があるだけだ。
・・もしかしたら・・
私は、松の木が私に喋っているような気がした。
私は、松の木に身体をつけてみた。
抱きかかえるようにしようと思ったけれど、華奢に見えた幹は案外太くて、私が蝉のようにしがみつく格好となった。
暖かい・・松の木の肌は意外に暖かだった。
「教えてあげる・・あなたの事・・」
囁くような、声が聞こえた。
それは女でも男でもない中性的な優しさに満ちた甘い余韻を持っていた。
「私のこと・・」
そう聞き返す私の前に、いきなり広く豊かな砂浜と、青い海が広がった。
海には船はなく、砂浜には戯れる少女達がいた。
少女達は時代劇のような着物を着ていた。
いや、私がその少女のひとりになっていた。
私は、他の3人の少女達と砂浜で踊っていた。
海の香りが心地よい。
風が心地よい。
私は踊っていた。
手を繋ぎ、手を離し、くるりと回り、手を叩き、手を繋ぎ飛び上がりしゃがみこむ。

「子供らよ 子供らよ
花おりに ゆかん
花おりに 小米の花折りに」

「一本折りては 腰にさし 二本折りては 腰にさし
三本目に日がくれて 兄の紺屋に 泊ろうか」

指で数を出しながら少女達は歌う。
何処から声が出るのか、いつ覚えたのか私も歌っている。

「あすのさかなは なになに
どろ亀の吸物 へびの焼物
一口食うては ああうまし 二口食うては ああうまし
三口目に屁へこいて 大黒さまに聞こえて」

向かいの少女の表情が変わった。
笑いを堪えているのだ。

「大黒さまのいうには 一に俵ふまえて 二ににっこり笑うて
三に酒つくって 四に世の中よいように」

あはははは!
とうとう、その少女は堪えきれなくなったようだ。
「あかんやん・・はまちゃん・・いっつもここで笑うねんから・・」
別の少女がそう言って、けれども彼女も笑い出した。
私も何故か笑っている。
「だってえ・・さとちゃん、三口目に屁こいだら大黒さんが聞いてはんねんでぇ・・おもろいやんかあ・・」
はまちゃんがおどけて笑いながら応じている。
「まつちゃん、そやけど、へびの焼き物って・・食えるんかなあ?」
更に別の少女が私に向かって不思議そうな顔をする。
私はまつちゃんと言うらしい。
「ぎんちゃん、へびもそやけど、泥亀やで・・」
私は思っても居ないことを喋っている。
その少女はぎんちゃんというらしい。
みんなと笑う。
「変な歌やなぁ・・」誰かがそう言い、「ホンマに変やわぁ・・」皆が応じる。
「もいっぺんやるでえ・・」
さとちゃんがそう言いだし、また皆で手を繋ぐ。
「大黒さまののうには 一に俵ふまえて 二ににっこり笑うて
三に酒つくって 四に世の中よいように」
手を離し、お辞儀をし、手を叩き、また手を繋ぐ。
「五ついつもの如くに 六つ無病息災に
七つなにごとないように 八つ屋敷をひろめて」
踊りと歌が続いていく。
「九つ小倉を建てそめて 十でとんと納まった」

私は心の中に何かが広がっていく気がした。
自分の見たことのない景色・・見たことのない少女達・・
砂浜で輪を作りながら少女達が歌い踊り続けている。
けれども、それは紛れもなく私自身、私の姿・・
海岸の形は変われど、海の景色、海の向こうに見える島も、確かに私の知っている景色・・

はっとした。
私は木に抱きついていた。
木の暖かさが私を慰めてくれていた。
「ありがとう・・」
松の木に礼を言ったけれど、松の木は喋ってはくれなかった。

そう、確かに、私はあのあたりで踊っていた。
あの駐車場のあたりで・・
私は踊っていて、それはとても楽しく、穏やかな時間だった。
それはいつ頃なのだろう・・
戦前か・・それとももっと前か・・
あの着物はまるで時代劇のよう・・もしかしたら、明治より以前だったかも知れない。

私は木から離れた。
今日、ここに来ることは、私と木の約束事だったのかもしれない。
汚い世間、情けない自分・・疲れを引きずって生きてきた私。
前世かそれ以前か・・
優しい暖かさで心の中が満たされている。

「また、やり直してみよう・・」
ふと、そう思った。
くじけるかもしれない。
また失敗をするかもしれない・・
でも、私が私であるために、頑張ってみよう・・そう思った。
そうだ・・写真・・
私は、アルミバックの中からカメラを取り出し、松の木に向けた。
ひょろひょろとした松の木は、今にも折れそうでいて、でも、ずっとここに立っていた。
あの時からずっとここに立っていた。
シャッターを押した。
カシャン・・気持ちの良い音がする。
ふう・・溜息をついて、海を眺める。
少し波が出てきたようだ。

「あのう・・この木を写しておられましたよね?」
私と同年代の女性が私の近くで立っていた。
「はい・・」
「あなたも、ここで踊っておられた方ではありませんか?」
はいと、答える私の目に涙が溢れてきた。
その女性も、感慨深げに、私の方へ向かってきた。
「久しぶり・・はまちゃん」

私から、不思議な挨拶が出てきたけれど、その女性は「うん」と頷きながら、私の手をとった。
「まつちゃん、みんな・・ぎんちゃんも、さとちゃんも、もう集まっているから・・そこのマンションなんや・・」
「うん・・行く!はよう、みんなと会いたいなあ・・」
私は、その女性と連れ立って、道路を越えたマンションに向かっていった。



この作品は御伽噺です。
完全なフィクションであり、登場する人名や地名などは全て架空のものであり、歴史上、もしくは現在、存在する同名のものではありません。
また、時代考証も敢えて無視した作品ですので、ご了承くださればと思います。

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紀元前の日本、考霊天皇の御世といわれるころ・・
大和朝廷はいまだ、国内にいる他の民族との終わりのない戦いに苦しんでいた。
その頃の話である。

ヤマトの防人として、吉備の国の北端、山中に居を構えるイセリに赤子が生まれたのは、ようやく春になろうとする四月の始めのことだった。
春とはいえ、このあたりにはまだ雪も残り、山を超えて北から吹く風は寒く、冷たかった。
ここ数年の激戦で、ようやく出雲の者達も大人しくなったものと見え、今年は例年になく静かな春の始まりだった。
彼の仕事は、ニイミの村にいて、危急の時には狼煙を上げ急を知らせ、先ず何よりも手勢を引き連れ、敵に村へ来させぬようにすることだった。例年ならば春になると雪解けを待ちかねたかのようにイズモの軍勢がこのあたりにやってくるのだった。
元々、このあたりはイズモの領地だったと彼らはいう。
いつ頃からかヤマトがこのあたりに進出して、村を作り出したのだと言う。

赤ん坊の元気な泣き声が聞こえる。
イセリの妻、ヒトメは、まだ産後の肥立ちが悪く、臥したままになっていた。
赤ん坊は男の子だった。
イセリに良く似た眉の濃い、しっかりした顔立ちの、丸々太った男の子だ。
「よしよし、おしめを替えてやるぞ・・」
イセリは慣れぬ手つきで赤子の足を持ち上げ、尻を拭いてやる。
「ごめんなさい・・私が、弱いものだから・・」
ヒトメは哀しそうに詫びる。
「何を言うか・・お前はこんな立派な子を産んでくれたではないか・・」
イセリはそう妻をたしなめながら、おしめを替え終わる。
尻が気持ちよくなってご機嫌になったのか、赤子は手足をばたつかせて喜んでいる。
イセリは赤子に「イサセリ」と言う名をつけた。
イセリは五つの斧を持つほどの力持ち、イサセリは五十の斧を持つほどの力持ちと言う意味だ。

春が深まり、山野に山桜が可憐な花を咲かせる頃、望楼に居たイセリは遠くの山の上からの狼煙を目にした。
彼はすぐに、鉦を叩いて兵士を集めると同時に、村の裏山に登り狼煙を上げた。
「来たか・・イズモめ・・」
空はぼんやりと晴れている。
小鳥や蝶が舞い、花が咲き誇るこの季節に、今年もまた、ゆっくりと過ごすことを許さない軍隊がやってくる・・
幸い、彼はこれまでイズモに負けたことはなかった。
今年もまた、蹴散らしてくれる。
イセリは、こぶしを握り締めた。

翌朝、ようやく夜があける頃、イセリは武具を着けたままの姿勢でまどろんでいた。
いきなり、悲鳴が聞こえる。
幕舎の外へ飛び出すと、既に馬に乗った兵が、斬り込んでくるところだった。
イズモは馬には乗らないはずだ。
けれども明らかに、馬に乗って敵兵が攻めてきていた。
「迎えよ!迎えうて!」
イセリは大声で叫びながら、鉾を取った。
弓衆が敵に矢を射掛ける。
けれども、一人や二人倒れても、敵方の兵は減らない。
「石を飛ばせ!」
イセリは立ち木を弓のように曲げて、地面に打ち込んだくいにつなげ、石を満載した網をその上に載せて用意してあるその、縄を切るように命じた。
木は元に戻ろうとする力で勢いをつけ、驚くような大石を遥か遠くまで飛ばすことが出来た。
森の向こうから悲鳴が聞こえる。
けれども、敵方の人数は減らない。
ついに、イズモの射手が、火矢を射ち込み始めた。
火矢を番えた兵はいくらでも出てくる。
「石を全て飛ばせ!」
大石が空を舞う。
森の中へ飛んで行く。
悲鳴が上がる。
その石の雨の中を負けじとばかりに、馬に乗った兵が突進してくる。
こんな大人数の兵隊は見たことがなかった。
火矢が幕舎に幾つも命中する。
幕舎といっても竪穴式住居の少し大きめな建物だ。
火には弱い。
イセリの部下達が逃げ腰になってきた。
「逃げるな!ここを明渡せば我らの行く先はないのだぞ!」
イセリは叫んだ。
逆効果だった。
イセリの部下の兵たちは、浮き足立っていた。
「わあ!」
ひとりが気が狂ったかのように、大声をあげながら逃げ出した。
それを潮にいっせいに兵が逃げ始めた。

「これまでか・・」
イセリは向かってくる敵兵の大群を見て、彼の家族のことを思った。
まだ産後の肥立ちが思わしくない妻と生まれたばかりの息子だ。
先に逃げた兵士達を追って、彼もまた、村のほうへ走った。彼のすぐ脇を矢がかすめていく。
「逃げろ!」
兵士達は口々に叫びながら、村の中へ入っていった。
驚いた女や老人達が慌てて、とるものもとりあえず、走りはじめる。
「山へ回れ!」
誰かが叫ぶ・・
人々は大慌てで山の中へ分け入っていく・・
大勢の悲鳴があたりにこだました。
「山はダメだ!川へ行け!」
イズモは山の中を歩くのが巧みだ。
山には既にイズモの兵が潜んでいるに違いない。
悲鳴は大きくなり、そして一瞬にして消えた。
イセリは必死で走り、彼の家を目指した。
家から、ちょうど妻のヒトメが赤子を抱いて出てくるところだった。
「ヒトメ!大丈夫か!」
ヒトメはイセリを見るなり、その場に倒れこんだ。
「川に逃げよう!川に行けば舟があるかも知れぬ・・」
彼は妻を誘い、川に向かおうとしたが、妻は歩くのがやっとと言う状態だった。

村に火が上がる。
ついにイズモは村までやってきてしまった。
川は切り立った断崖に向かっている。
舟がなければ、この先には進めない。
村人が数人、困惑した表情で立ち竦んでいた。
「イセリ様・・これ以上は進めない・・」
老人が彼に諦めたように言う。
「ああ!神よ!」
イセリは思わず天を見上げた。
桃の花咲く川岸で、彼らは途方にくれた。
「あなた・・これ・・」
ヒトメが指差す方を見ると、そこには洗濯用の桶が放置してあった。
「これをどうするのだ・・こんなものでは人一人乗れないぞ」
「違うの・・イサセリを乗せるの・・」
「馬鹿な!途中でひっくり返ればそれまでだ・・魚の餌よ・・」
「でも、ここに居てもイズモに殺されるわ」
ヒトメが彼に抱きついて訴える。
村のほうからも悲鳴が聞こえる。
逃げ遅れた者が殺されているのだろうか・・
「わかった」
イセリは着物を脱いで、その桶の底に敷き詰めた。
ヒトメが赤子をそこに寝かせる。
赤子は何も知らずに眠っているようだった。
彼女も着物を脱いで、赤子の上にかぶせた。
「イサセリ・・お前に、神様が生きる運をくれますように・・」
彼女は拳を合わせて握り、祈った。
馬の蹄の音が聞こえる。
「居たぞ!ここにも居たぞ!」
イズモの兵たちが口々に叫びながら突進してくる。
「殺せ!殺せ!」
矢が飛んできて、イセリの横に居た老人に突き刺さる・・
「さようなら!」
腰から上をはだけたまま、ヒトメが赤子の乗った桶を、川の流れの方に押し出した。
川岸の桃の木から花びらが幾枚か落ちて桶の中に入っていく。
桶は静かに、川下へ流れていった。
イセリは鉾を持って、イズモの兵たちに立ち向かっていった。
彼の身体に何本もの矢が突き刺さり、彼はその場で息絶えた。

タカハシの村のはずれに、中年を過ぎた夫婦が住んでいた。
今日も夫は山へ獲物を取りに出かけていたし、妻は河原で衣類や野菜を洗っていた。
春ののどかな日だ。
風は柔らかく、川も穏やかに流れている。
けれども、河原で洗濯をしていると、川の水は、やはりまだ冷たく、時折、両手に息を吹きかけて暖めながらの作業だった。
遠くで鳥が鳴いている。
猫の声もする。
猫が泣きながら近づいてくる。
彼女は周りを見渡したけれど、猫の姿はない。
おかしいな・・そう思いながら、また洗濯を続ける。
また、猫の声がする。
それも声がどんどん大きくなる。
はて?立ち上がった彼女の目に入ったのは大きな桶が流れてくる様子だった。
猫の声がその桶から聞こえる。
彼女は、気になって、川の中に入り込んだ。
水の冷たい感触が、彼女の感覚を研ぎ澄ませる。
「もしかして・・」
猫の声だと思ったのが、実は人間の赤子の声ではないかと、気がついた。
彼女は流れてくる桶を、とにかく止めてみようと走り出した。
川の中に、腰までつかり、彼女は桶に向かっていった。
桶は意外に早く流れているようだった。
彼女は桶に向かっていく・・今は、赤子の泣き声だとはっきりわかる。
もう少しで取り損ないそうになりながらも、彼女はようやく、桶をつかまえることが出来た。
桶の中を覗いてみると、水に濡れた衣服の中から、大声で泣き続ける大きな赤子が顔を出していた。
彼女は桶をつかんで岸まで運び、ようやく、岸辺に上げた。
赤子が被っている衣服は大人の衣服だった。
その衣服の上に、桃の花びらが乗せられている。
「おお!よしよし!お前は何処からきたんだい・・」
彼女は赤子を抱き上げ、あやし始めた。
赤子はようやく、鳴き声を小さくし、それでも、うつろな目に涙を流して、周りを見ようとしているようだった。

彼女は、片手に自分の洗濯物や野菜の入った篭を担ぎ上げ、片手には赤子を抱いて、村へ向かった。
きっと、お腹が空いているのだね・・誰かにお乳を貰わなきゃね・・そう思いながら、今、村に赤子の居る女の内で、どの女に頼んでみようかと思案をめぐらせた。

彼女の家から村の中心へ少し歩いたところに四人の子持ちの女が居た。
その女の末の子は、まだ一つになっていないから、彼女はそこに頼んでみることにした。
「ちょっと!頼みがあるんだよ!ヒカメさん」
「なんだよ・・ああ・・サノメのおばさんか・・」
「そうだよ・・あんたのおっぱいを貸して欲しいんだ」
「おっぱい?おっぱいは貸せないよ・・あたしの身体についてるもの・・」
「そうじゃなくてよ・・赤ん坊におっぱいを飲ませてやりたいんだよ」
「赤ん坊?なんで?サノメのおばさん・・赤子など居なかっただろう・・」
「流れてきたんだよ・・川の上から・・頼むよ・・この子が飢え死にしちゃうよ」
「良く分からないが・・飢え死にされちゃいやだから、乳くらい飲ませてあげるよ・・ちょうど、おっぱいが張ってんのに、うちの子が飲んでくれなくて困ってたんだ・・」
ヒカメと呼ばれた女は、家の中に、サノメと呼ばれた女を招き入れた。
もう、衣服をはだけさせ、乳房を出していた。
「はいよ・・この子ね・・はい!ヒカメさんのおっぱいをたくさん飲んでくださいよ・・」
ヒカメは笑いながら、赤子を自分の胸に近づけた。
赤子は乳房の感触を感じたのか、乳首にむしゃぶりついて、乳を飲み始めた。
「わあ!すごい飲み方、この子、余程、腹が減ってたんだ・・」
ヒカメは目を丸くして、無心に自分の乳を飲んでいる赤子を見ていた。
「おお!良かったねえ・・おっぱいが貰えて・・」
サノメは、その様子を見ていたが、涙が出てきた。
ヒカメの子供達がからかう。
「サノメのおばさん、泣いているよ・・」
「いいんだよ・・この赤ちゃんが、どれだけお腹をすかせていたかと思うとね・・何があったんだろうって、考えただけで涙が出ちゃったんだ」
「ホントだよ・・この子の身体、すごく冷たいしねえ・・親はどうしたんだろうね・・」
ヒカメも目に涙をためていた。

その時、家の外で男達が騒ぐ声が聞こえた。
「ニイミの村がイズモにやられたそうだ!男で、手の空いているもの!すぐにムラオサのところへ行け!」
「ニイミがか!ニイミと言えばイセリがいただろう・・歴戦の勇士だ!あ奴はどうなったのだ!」
「判らん、全滅らしいぞ!」
「仕返しだ!」
「おう!イズモを皆殺しだ!」
騒ぎが大きくなっていく中、ヒカメの夫のカワヒコが家に入ってきた。
「おい!俺も戦に行くぞ!」
カワヒコはそう叫んですぐに用意を始めた。
「あんた・・いくのかい?」
「ああ・・行くしかないだろ・・」
そう言いながら、ふとヒカメの腕に抱かれている赤子と、脇にいるサノメを見た。
「あれ・・サノメのおばさん、どうしたの?・・この子は誰の子?」
「カワヒコさん、流されてきたんだよ・・桶に乗せられて、川の上のほうから・・」
「ほお・・」
そう言ってカワヒコは赤子を覗き込んだ。
「いい面だな・・こいつは強そうな男の子だ・・サノメのおばさんが拾ったのかい?」
「そうだよ、わたしが洗濯をしていたんだ・・すると流れてきたのさ・・」
「ふうん・・じゃあ、もしかしたら、イズモに襲われた村の人が、赤子だけを逃がしたのかもしれないなあ・・」
その時、家の外で大声が聞こえた。
「カワヒコ!行くぞ!」
「おう!今出るところだ!」
カワヒコは、そう答え、家を出て行く。
「あんた・・」
ヒカメが心配そうに言う。
「なんだ?」
「死なないでね!」
「おう!」
そう叫んで、カワヒコはすぐに、また家の中を覗きこみ、サノメに言った。
「おばさん、その子、大事にしてやりなよ・・なんだか凄いお人の子かもしれない、そんな気がしてきた」
そして、彼はもう一度、家の中を見回し、彼の子供達に声をかけた。
「お父さんが留守の間、仲良くするんだぞ」
はいっと、一番年長の男の子が叫ぶのを聞いて、彼は嬉しそうに、家を出て行った。
ヒカメと子供達、サノメも、彼の後姿を、家の外に出て見送っていた。

まもなく、キビの国の軍隊がこの村にやってきた。
村の者達が見たこともないような大勢の兵士達は、村の外で村から出て行く男達をその中に入れて、山の方向へと進んでいった。
男達の去った土煙のあとを、村の者達は総出で見送っていた。

夕方に、山へ獲物を追いに行っていたサノメの夫、ソラオトが帰ってきた。
「イズモが、ニイミの村を襲って、村は全滅したそうです・・」
「おお・・聞いたぞ・・山小屋に村の者が知らせに来てくれた」
「あなたは、戦に出なくても良いのですか?」
「うん、わしも、戦に出るつもりでいたがな・・このたびは村に残って、ムラオサを助けてくれといわれての・・」
座りかけて、ソラオトは寝かされている赤ん坊に気がついた。
「この赤子はどうした?」
「川で洗濯をしていたら、上のほうから桶に乗って流されてきたんですよ」
「ほう・・」
「身体」は冷えていたし、お腹も減っていたようだったのでヒカメさんにおっぱいを貰ったのですよ・・」
「ほお・・」
「この子が身に付けていたのがこれです」
サノメは、傍らにあった着物を指差した。
ソラオトは、その着物を手に取った。
桃の花びらが彼の手から落ちた。
「桃か・・」
彼は、花びらを拾って脇に置きながら、着物を調べている。
すでに外はうす暗く、家の中はさらに暗い。
土間の小さな炎だけが全ての明かりだった。
「これは・・役人の着物だ・・」
「お役人のですか?」
「そうだ・・こちらの女物の着物も、上等のものだ・・」
ソラオトは着物を眺めながら、考え事をしているようだった。
「この子は・・川上から流れてきたんだな・・」
「そうですが・・それがなにか・・」
「もしかして・・」
「そういえばカワヒコさんが、イズモに襲われた村の人が赤子だけを逃がしたのではって、言っていましたが・・」
「うん、きっとそうだ・・そうするとこの子は・・」
「この子は?」
「わしが、この間、ニイミの村に行ったときに、村の防人のイセリが赤ん坊が出来たと言ってなあ・・嬉しいからと色々ご馳走を出してくれたのだ・・・その子・・・そうだ、イセリは五つの斧という意味だそうだから、子供の名は五十の斧と言う意味にしたと言っていた。そうすると、この子はイセリの子、イサセリかも知れぬ」
「イサセリ・・でも、本当にこの子が、そのイサセリかどうか判らないじゃありませんか・・」
「そうだなあ・・証拠がないからな・・とりあえずこの子には別の名をつけよう・・神様がわしらに下さった子供として、育てよう・・」
「あらあら、私達で育てるのですね・・じゃ、大変ですよ」
「何が大変なのだ」
「おっぱいですよ・・」
「ヒカメに貰えばいいだろう・・」
「おっぱいがそんなに出るかしら・・」
「いつだったか、乳が張って仕方がないとか言ってたぞ・・あいつは、大きな胸をしているから、人一倍出るのだろう・・」
「でもねえ・・赤子って、夜中にお乳を欲しがったりするでしょう・・そんなときに、ヒカメささんの所まで行くのが大変ですし、あちらさんも夜中に起こされては迷惑でしょうし・・」
「それなら、わし達の家をヒカメの家の隣に移せばいい・・」
ソラオトはそう言って笑った。
自分で赤子のために家を移すと言う、そんな気持ちになったのが可笑しかったのだ。
「それと、あなた、この子の名前・・」
「おう・・そうだった・・」
ソラオトは、赤子が入れられていたと言う桶を見ていた。
すっかり暗くなり、土間の炎だけが明かりらしきものと言えるこの家の中で、桶に小さな白っぽいものがあるのを見つけた。
「桃の花びらか・・」
「そうなんですよ・・どういう訳か、桃の花びらが何枚も一緒に乗っていましたよ」
「わかった!」
「なにがですか?」
「名前だ!」
「あ・・はい・・」
「モモヒコでどうだ!」
「お花の名前ですか?男の子なのに・・」
「構わぬ・・それとも、もっといかつい名前にするか・・」
「いえいえ、モモヒコで結構ですよ」
二人は、暗くてあまり良く見えないお互いの顔を、それでも眺めながら笑っていた。

数日後、ソラオトとサノメ夫婦は拾った赤ん坊を連れて、ヒカメの家の隣に家を移した。
二人には子供ができす、それがずっと二人の心の中にわだかまりを作っていたから、突然の赤子は二人にとって願ってもないものだった。
竪穴式の家を解体し、その材料でまた同じような家を建て、僅かの生活道具を入れ、ようやく形が整った時、村に戦場から知らせが届いた。
イズモとの戦は大変な苦戦となり、たくさんの兵士が死んだ。
その死んだ兵士の中に、ヒカメの夫、カワヒコの名前もあった。
ヒカメは嘆き悲しんだ。
元々は美男美女の、とても仲の良い、人がうらやむような夫婦だった。
その夫が突然、戦で帰らぬ人となった。
ヒカメが嘆き悲しんでも、一番上の子がまだ四つ、一番下の子は生まれてどれほども経っておらず、子供達は無邪気に空腹を訴えた。
既に乳離れしている子供には、サノメが食べるものを作ってやったが、赤子二人、ヒカメの子供と、サノメが拾った子供・・モモヒコはそうは行かなかった。
嘆き悲しむ女の乳を無心に吸う二人の赤子の姿は、村人の涙を誘った。
ヒカメは、両方の乳を二人の赤子に飲ませながら、泣きじゃくっていた。

ヒカメの子供達は、一番上から三人目までが男の子、上の子がイヌノヒ、次の子がサルタヒ、三番目の子がキジノトと言った。
一番下、モモヒコと同じ年の子は女の子で、ユキメと言う。
モモヒコを含めて五人の子供達は、すくすくと大きくなっていった。
ヒカメの長男であるイヌノヒは、大きな体でありながら、おっとりした性格で、泣き虫だった。
次男のサルタヒはこずるく動き回るが、どちらかと言うと先頭立って走り回るような子ではなかった。
三男のキジノトは賢く、智恵が回り、勇気も人一倍あったが、体力がそれほど強くはなかった。
一番下の娘、ユキメは女の子らしい優しく、穏やかな性格だった。
ヒカメの子供達と、本物の兄弟のように育っていったモモヒコは、体が大きく、力もあり、智恵も人一倍回り、一番年下ながら、五つ頃からは子供達の中心的な存在になっていった。
「なるほど、この子はイセリの子に違いない・・体の大きさはどうだ・・智恵の良く回るさまはどうだ・・これなら、どんな若者になるか、本当に楽しみだ」
ソラオトは繰り返し、そんなことを言った。

さらに十数年後、タカハシの村にヤマトからの触れが届いた。
木簡を持った役人は、村の広場に村人を集め、こう叫んだ。
「間もなく、ヤマトはキビの国北部に兵を出し、イズモの連中に奪い取られたままになっているニイミの村を奪い返し、さらに進撃して、イズモを殲滅する。われと思わんもの、この戦に参加するように!」
十数年でヤマトはイズモを凌駕し、クマソやユラにも負けない軍隊を創り上げた。
今のヤマトはイズモ、クマソ、ユラに怯えていたころとは陣容が変わっていた。
その大きな力を持って、ヤマトは北部の山岳地帯をイズモに、南部の半島をユラとクマソに押さえられているキビの国の統一に乗り出したのだ。
モモヒコは戦に参加したいと願っていた。
彼の若く、はちきれんばかりな肉体は、暴れ回る場所を本能的に探していたのだ。
戦に出たいと言うモモヒコに、サノメは諭すように言った。
「いいかい、モモヒコ、お前のような暴れることだけが取り得の若いもんが行ったところで、敵の餌食になるだけだよ・・もうしばらく、体を鍛えてからにしなよ・・」
それに対し、モモヒコはあくまでも我を張った。
「いえ!母上!わたしは、これまでに散々修練を重ねてきました。このたびの戦で、必ず手柄を立てることが出来ます。ですのでお許しください!」
止めても行くと言う決意は変わらないようだった。
ソラオトが頷いて、モモヒコの顔をじっと見つめた。
「血は争えない・・」
ソラオトは呟いた。
「なんですか?父上!」
モモヒコが苛立って訊ねる。
「血は争えないと言ったのだ・・」
「どう言うことですか?」
「もう良いだろう・・はっきり言っておく。お前はわしらの子ではない」
サノメは心配そうに二人を見ていた。
「どういうことですか?では、わたしは誰の子なのです?」
「恐らく・・ニイミの村の兵士のまとめ役だった、イセリの子だろう」
口をぽかんと開けて、モモヒコはソラオトの顔をみていた。
「お前は、母様が川で洗濯をしていたときに、川上から桶に乗って流されてきたのだ・・ニイミの村のイセリと言う防人が、イズモに攻められて殺される直前に、赤子だけを逃がしたのではないかと、わしは見ている」
ソラオトはモモヒコからの反応がないのに、かまわずに話を続ける。
「わしは、イセリとは会ったことがある。赤子が生まれたと言って、嬉しいからと大いにご馳走をしてくれたものだ。そのときのイセリの面影に、おまえはそっくりになってきた」
「では・・では・・わたしは、イセリの子、モモヒコでございますか?」
モモヒコはようやく口を開いた。
汗が噴出していた。
「モモヒコという名はわしがつけたのよ・・イセリの子という確証がもてなかったからな・・だが、今のお前を見れば、イセリを知っていた人なれば、誰でもお前がイセリの子、イサセリと聞いても疑わないだろう・・それほどに良く似ておるよ」
「わたしは・・イサセリという名ですか!イサセリ・・五十の斧・・」
「そうだ・・」
「では、わたしが自分達の子でないのに、父上と母上はわたしを育ててくださったのですか?」
「そうだ・・それに、ヒカメものう、自分の赤子とお前を一緒にして乳を飲ませてくれたのだ」
「そうだったのですか・・わたしは母上がお乳が出ないから、ヒカメおばさんに分けてもらっていたと思いました」
「お前が来た時には、わしらはもう五十歳になるまえじゃ・・それにサノメは子供を生んだことがない・・乳など、出るはずもないのだ」
モモヒコは感極まって、泣いているようだった。
構わずにソラオトは続ける。
「ヒカメの夫、カワヒコはの、お前が来た時に、イズモとの戦に出て、殺されてしまったのだよ・・」
モモヒコは、それを聞いて、やおら立ち上がった。
「父上、母上、イヌノヒたちの父上殿も、イズモにやられたのですね!わたしは、行きます!行って、イズモを追い出してきます!」
そう叫ぶや否や、モモヒコは表に駆け出していった。
「命だけは大事にするんだよ!」
サノメは後姿に向かって叫んでいた。

ヤマトの総力を結集した軍隊は、ニイミの村に入る前に調練をした。
ここで鉾や矢の使い方を習い、ヤマトからきた兵は軍馬に乗って、各地で集めた兵は徒歩で、満を持して攻め込むことになっていた。
明日はいよいよ攻め込むと言う前の夜、真っ暗な夜半過ぎ・・雨が降る中、静かに眠っていたヤマトの軍勢は、いきなり攻撃を受けた。
おびただしい矢が飛んできて、幕舎に突き刺さる。
日のついている矢もあって、陣営はいきなり火事の対処に追われた。
そこへ、本来は騎馬に慣れていない筈のイズモの兵が馬に乗って飛び込んできた。
大勢のヤマトの兵は、寝ぼけ眼で何が起こったかの判断も出来ず、うろたえ、逃げ惑った。
火は天を焦がし、逃げ惑う兵士は馬の脚に踏みにじられ、そばの川へ飛び込んで逃げようとするものもいた。
モモヒコは、騒ぎに目が覚めた瞬間、敵が攻めてきたことを理解した。
騒ぎが大きくなるほど、彼の感性は研ぎ澄まされるようだった。
イヌノヒは既に腰を浮かせていた。
「逃げよう!モモヒコ!殺される!」
「まだまだ・・今は味方が騒いで、混乱しているだけだ・・ここでしばらく待て・・そのうちに奴らがやってくるだろう」
モモヒコは動じなかった。
「でも、おれ、怖いよ・・ちょっと怖い」
サルタヒも浮き足だつ。
二人をキジノトが小屋と小屋の間に押し込んだ。
「だいじょうぶ・・奴らは勝ったと思って浮かれてくるから、ここで鼻柱を叩き折れるって・・」
キジノトはそう言いながら、モモヒコを見た。
モモヒコは頷いて少し笑った。
そう言われると、イヌノヒもサルタヒも、少し安心したようだった。
火矢が飛んできて、彼らの後ろの建物に刺さった。
「いいものが飛んできたなあ・・」
モモヒコはその火矢を抜き、燃え始めた小屋の柱を引き抜いた。
小屋は倒れ、さらに火の手が大きくなった。
柱を炎で炙り、モモヒコはそれを手にとった。
小屋の柱だから、人間の背丈よりも長い。イヌノヒもサルタヒも火のついた柱を手に持った。
彼らが隠れているその脇を、味方の兵士が逃げ惑う・・・
そのとき、馬の駆ける音が聞こえた。
「おれが叫んだら、一斉に行くぞ!」
モモヒコは油断なく、物音を聞き分けていた。
火矢が宙を飛ぶ。
「行くぞ!」
モモヒコが小屋の陰から火のついた柱をいきなり突き出した。
馬が驚いて飛び上がる。
乗っていた敵兵が転げ落ちる。
モモヒコ、イヌノヒ、サルタヒは火のついた柱を持って暴れ回った。
転げ落ちた敵兵も柱で叩き潰す。
さらにキジノトが鉾を持って走り回る。
戦局は一変した。
敵兵は浮ついて逃げ腰になった。
「おりゃあ!」
モモヒコが叫びながら敵兵に向けて柱を振り下ろす。
逃げていた味方の兵も、戦局の変化に戻り始めた。
「今だ!一気に行け!」
モモヒコが叫んだ。
イズモの兵たちの恐怖に引きつった顔が、炎に照らされて見えていた。

ヤマトの軍隊は勢いを駆って、攻め続けた。
先頭には常にモモヒコと、イヌノヒたちの兄弟がいた。
彼らは所構わず暴れ回り、相手の出鼻を挫き、そこへ大軍が突進すると言う戦法を取るようになった。
そして、軍隊はついにニイミの村に着いた。
けれども、そこに村はなく、ただ、川岸に桃の木だけが、いくらか並んでいた。
田畑も住居も、何もかもがなくなって、深い草に覆われていた。

山に隠れていたイズモの兵隊が捕まえられた。
人生の皺を顔に刻んだその男は、みなの前に引き出された時に、諦めたような表情をしていた。
「早くおれを殺せ!」
男は叫んでいた。
「そんなに死にたいか・・それではすぐにでも殺してやる」
ヤマトの隊長がそう叫ぶと、それを遮って飛んでくるものがあった。
「待ってくれ!」
モモヒコだった。
「モモヒコ!なんだ!」
隊長が苛立ちを隠さずに叫ぶ。
「お待ちください!わたしは、この、ニイミの村で防人をしていたイセリの子です。わたしは、父や母の、最後の姿が知りたいのです。イズモの方、ご存知でしたら教えてください!」
男は何も言わずに、モモヒコを見ていた。
「ご存知ではありませんか?あなたくらいのお年の方なら、何かをご存知かと思いました」
モモヒコは男に必死で訴えている。
隊長が口をはさんだ。
「お前が、イセリの子だというのは本当か?」
「本当です。父、イセリはわたしをイズモの難から逃れさせるために桶に入れて川へ流したと聞きました。わたしの本当の名はイサセリとのことです」
「ほう・・お前がイセリの子だというのは本当らしいな。わしもイセリの最後は気になっておった。あれほどの男が易々と死ぬとは思えぬからのう・・」
「是非、父、イセリの最後を・・そして母のヒトメの最後を知りとうございます!」
モモヒコの訴えに隊長も気を変えたようだった。
イズモの男に向かいなおした。
「そのほう、察するところ、イズモでも名のあるものと見た。もしも、今の若者の言っているイセリの最後を知るなら教えて欲しい。教えてくれたなら、この場で離してやるから、イズモの国へ帰れば良い」
男はしばらく考えていたようだったが、やがて開き直った様子で口を開き始めた。
「いずれ、何を言っても殺されることは判っている。だが、聞けばその若者の思いも切実なものがあるようだ。わしの知っていることなら言うことが出来る」
「何でもいい!教えてくれ!」
モモヒコが哀願するように叫ぶ。
男は地面に座り込んで、ゆっくりと喋った。
「イセリとは、この村のモノノフの隊長だな・・そいつは、わしたちが明け方に攻撃を仕掛けた時、部下の者どもが不意を突かれて逃げるのに巻き込まれ、村のものと一緒に、そこの桃の木の下でいたところを射殺されたのだ」
「本当か!」
モモヒコが叫ぶ。
「本当だ・・矢を射たのは、わしだからな・・」
モモヒコは激情を押さえかねるように、顔面を真っ赤にして、仁王立ちになっていた。
「母も、ヒトメもそこで殺されたのか!」
男はちょっと考えているようだった。
そして、ふと、桃の木のほうを眺めた。
「あの時、不思議に着物を脱いで裸になっていた女がいた。そいつは、その場では殺さなかった。わしも戦人以外はやたらと殺しはしない・・」
男は続ける。
「女と子供は殺さなかった。わしはその女に、何故、裸なのか聞いて見たのだ。すると衣服は子供にかけて、そのまま流してやったと言うではないか・・流れていく桶を見つけたのだが、流れが速く、追いつけなかった」
モモヒコはようやく激情を飲み込んだと見えて、男のそばにきて座った。
「それでは、その流れていった桶の中におれが居たのか・・」
「ああ・・・そうだ・・」
「それで、母は何処へ行った」
「しばらくは我らの奴婢として使っておったが、ユラの連中と奴婢の交換をしたときに、こちらは女ばかりいたので、男の奴婢と換えてもらった中に入っていたと思う」
「何でそこまでお前が知っているのだ」
「あの女は美しい女だった。それに戦で攻められているときに、裸で居たから印象が強かったのだ。本当は手元においておきたいような女だった」
「ユラは、母を何処へ連れて行ったのだ?」
「それは知らぬ・・だが、ユラは最近はセノオあたりのずっと南、半島の先に大きな村を築いている。居るとすればそのあたりではないか・・」
男は、これ以上は知らぬと答え、神妙に座りなおした。
「さあ!斬れ!わしは、その若者の心に感じて喋ったまでよ・・命は惜しくはない」
そう叫んだが、隊長は彼の縄を解いてやるように命じた。
「お前がモモヒコにかけた情けは、お前に返すしかない・・行け!さっさと消えろ!」
モモヒコは男の体をもってやり、そのまま山のほうへ誘った。
「感謝する!ここは隊長の気持ちを汲んで帰ってくれ!」
男は、モモヒコの顔をみて、ふっと笑った。
「あれがおまえの親父なら、おまえは親父よりはるかに立派な戦人だ」
そう言ったかと思うと、鹿か兎のように飛び跳ねて消えていった。

数ヶ月に及ぶ長い戦が終わり、村へ帰ることが出来ることになった日、隊長はモモヒコを呼んだ。
「お前のお陰で、一気に風向きが変わった。この度の戦の勝利は、お前が切り開いたようなものだ。これで、オオキミにもよい報告が出来る。礼を言うぞ」
隊長は頭を下げた。
モモヒコは驚いたが、どのような顔をして良いかわからず、ただ、神妙にしていた。
「お前に、頼みたいことがある」
隊長が、改まって言う。
「なんでございましょうか?」
モモヒコは怪訝な顔で問い返す。
「ユラの連中がキビの国の南、ウノに、村を築いていると言う・・お前にこれの討伐の責任者をしてもらいたいのだ・・」
「は!わたしが・・責任者でございますか!」
「そうだ・・わしは、まだ少しこの方面の仕事が残っておるし、それが済めば一度ミヤコに戻らねばならない・・お前なら、ユラを相手の戦をさせても、大丈夫だと思うのだ」
「ユラですか!」
「そうだ・・お前の母もそこに居るやも知れぬ・・あまり手荒いことは出来ぬかも知れぬが・・どうだ・・」
モモヒコにとっては願ってもないことだった。
キビの国からユラを追い出し、もしかしたら母を迎えることが出来るかもしれない・・
「ありがとうございます!」
モモヒコは礼を言った。
隊長は、そんな彼を黙って見つめていた。

それからしばらくして、タカハシの村から戦に出る仕度をして数十人の若者が出発していった。
目指すはユラの居座る半島の先端だ。
出発していったのは、モモヒコ、イヌノヒ、サルタヒ、キジノトの四人に率いられた、戦巧者の若者ばかりだ。
彼らは、とびきりめでたい時に食べる唐黍の団子を腹いっぱい食べて出陣していった。
ソラオト、サノメ、ヒカメと、ヒカメの娘ユキメは、その様子を村人たちの中から見ていた。
ユキメはモモヒコが戦から帰ると、一緒になる約束をしていた。

天文九年秋、甲斐の国、古府中、躑躅ヶ崎館の、ずっと奥のほう、普段は出仕する武士の姿も稀な、その奥の薄暗い一室に、今、到着したばかりの数人の女性たちがあった。
既に今日の陽は翳り、暗い部屋は更に暗くなっていた。、
「姫・・お疲れはございませぬか?」
年配の女性が少女に声をかけている。
「艶殿・・そなたもお疲れでございましょう・・わたしの事はお気になさらず、まずはお休み下されば良いものを・・」
少女は十二、三歳であろうか・・
武家の娘であるかの証左にしっかりとした受け答えではある。
「姫・・おいたわしや・・姫をまさか、お人質になぞ・・」
艶と呼ばれた年配の女性は、少女の着物を着替える手伝いをしてやりながら涙を流している様子である。
「致し方ございませぬ・・こちら、武田の禰々姫も、ご当家にお嫁にいただいておりますれば・・」
少女は、薄暗い部屋から、さして広くない目の前の庭に目をやった。
「禰々様は、れっきとした御婚姻でございます。それも、お父上の御正室でございましょう・・ご自身の娘同然な姫を、人質になど・・信虎さまは・・」
艶がそこまで言うと、少女は少し声を大きくした。
「艶殿、いけませぬ・・・武家の家はどこにでも耳があるもの・・心してくだされませ・・」
少女は小さな身体で、艶をたしなめた。
少女の父のところに正室としてやってきたのは、少女といくらも年の変わらない武田の禰々姫だった。
少女は名を梅と言う。
梅姫は、自分にとってすぐ上の姉のように見える義母の優しく、暖かく、そして少し淋しい面影を暗くなり始めた庭の上に描いていた。

「失礼仕る!」
年配の男の声がした。
立派な武士だった。
縁側の端に威儀を正して端座し、きちんと礼を尽くしてから口上を述べる。
「お屋敷のことなどを司らせていただいております板垣と申します。陽が暮れきってしまう前に、ご挨拶など致さねばと、慌ててまかり越してござる・・何か御不自由がござりますれば、何なりと申し付けられますように・・」
「これはこれは・・ご丁寧なるご挨拶、いたみ入ります。こちらこそ、田舎者ゆえいろいろご教示いただかねばなりませぬ・・よろしくお願い申し上げます」
梅姫は静かに、凛とした挨拶を返した。
「ほう・・」
武士は感嘆したように顔をあげ、姫を見た。
「姫様には、随分お若くあらせられまするが、なかなかに見事なるご挨拶、板垣、誠に感嘆仕りもうした・・」
誉められると梅姫は、十二の少女らしく、頬を赤らめ、はにかんだ表情になった。
「また、随分、見目も良き姫様にてござりますな。当館もひときわ華やかになり申しましょう・・」
板垣と名乗った武士は、嬉しそうに立ち上がり、後ろを振り向いた。
「諏訪家のご息女様、御付きの方々に、夕餉の仕度を!」
大声でそう叫んでから、再度姫に向かい、にこやかに話し掛けた。
「御腹が空いておられましょう・・すぐに夕餉をお持ちしますゆえ、しばしお待ちくだされ・・」
「ありがたき、お心遣い、まことに嬉しく思います・・」
梅姫は板垣に礼を返しながら、張り詰めていた緊張が、この武士のお陰で解れていったことを感じていた。

よく晴れた翌日、躑躅ヶ崎館に程近い森の中で、まだ若い武士たちが剣の稽古をしていた。
稽古とは言っても実戦さながらの、武士の集まりを二組に分け、木刀で殴りあう凄まじいものだった。
武士たちは時の経つのも忘れて、傍から見ると集団の喧嘩にしか見えないような稽古に没頭している。
「晴信様!」
馬に乗った年配の武士が、集団に向かって声をかけた。
集団の中心は武田家の御曹司、武田晴信である。
武士たちは一斉に動きを止め、晴信を除いて、年配の武士に礼の体勢をとった。
「おう!板垣殿でござるか!」
板垣は下馬し、晴信の前で臣下の礼をとった。
「今より海ノ口討伐の軍議とのこと、信虎様より晴信様お呼びにございます」
晴信は稽古あとの爽やかな笑顔を一瞬にして曇らせた。
「父上が呼んでおられるか・・止むを得ぬわの・・」
投げ捨てるように晴信は言うと、板垣の馬に自分の馬を並べて、館へ向かった。
「晴信様・・・今、しばし、ご辛抱くだされませ・・」
板垣は晴信と馬を並べて進みながら、小さな声で語りかけた。
「分かっておるわ・・父上のあの御気性じゃ・・わし如きが逆ろうても、その刹那には首になっておろうよ・・」
「されど、家臣の者、大方は晴信様に期待を持っておりますゆえ、事あらば、必ずや御味方が大勢参りましょう・・」
「板垣殿・・そのようにわしに言ってくれるのは有難いが、人間など、余程でないと信じられぬもの・・下手をすると、味方かと思っておった者が、先鋒になって攻めてくるというのは、良くあることじゃ・・」
「晴信様・・されど・・拙者は晴信様の御味方にござります・・」
「左様なことは分かっておるわ・・板垣殿を疑ってしまえば、わしに味方など存在せぬわ」
「拙者のみにてはござらぬ・・馬場殿、小山田殿、穴山殿・・まだまだ晴信様の御味方をするものは・・」
「し!・・板垣殿、誰が聴いておるや分からぬ・・忍びの者も居るやも知れぬ・・」
晴信は板垣を制しておきながら、ふっと空を見上げた。
「諏訪の息女はどうだ・・美しいと聞いておったが・・」
晴信は話題を変えた。
「昨夜、着到致してござりますが、お年の割には大層、聡明な姫とお見受けしました。まだ子供の風もござりますが、いずれは素晴らしき美人に相成りましょうな・・」
「ほう・・姫はお幾つであったかな?」
「まだ十二歳とのことでござります・・」
晴信は、また空を見上げた。
「十二か・・今、しばし待たねばなるまい・・」
板垣は晴信が何を言っているか、ちょっと分からないようではある。
「何を待つのでござるか・・」
「わしが、貰うのよ・・」
晴信はそう言って大声で笑った。
板垣は苦笑し、この女好きの大将が!・・そう思った。
晴信には二人目の正室がいたし、愛妾も数人はあった。

翌年夏、諏訪と武田は連合して海ノ口城を攻めた。
両家の連携が功を奏したと言えそうだが、実際には苦戦極まる戦になり、まさに、いま少しで敗走というその段になって晴信を擁する家臣達が晴信に進言し、晴信手勢で明け方の急襲を行ない、ようやく勝ちを収めた戦となった。
この戦の功労者はまさしく晴信である。
躑躅ヶ崎に帰り、戦勝の祝宴で、信虎は珍しく上機嫌で晴信に声をかけた。
「晴信!まさに、この戦はお前によって勝てたようなものじゃ・・何か褒美をやろう!」
大杯を空けながら、濁って酔った目を晴信に向ける。
居並ぶ家臣たちも、晴信が何を言い出すか、興味を持って見ていた。
「父上!褒美は・・なんでも良うござるか・・」
「おうよ!何なりと申せ!」
しばらくの沈黙の後、晴信は思い切ったように言った。
「されば・・諏訪殿の息女・・梅姫を所望いたす・・」
祝宴の席はざわついた。
信虎の目は一瞬にして怒りに変わった。
「梅姫とな!お前には女以外の物は目に入らぬか!」
「何なりと申せとの、お言葉にてございましたので・・」
「馬鹿者!馬だとか、刀だとか、武士にとっての心がけの物を指すのが筋であろう!女だと!色呆けも程ほどにせよ!」
信虎に一喝され、晴信は黙り込んでしまった。
宴席はしらけた。

「晴信様・・何故に諏訪家の息女などを所望されたのでござるか・・」
宴席が終わり、皆が引き上げたあと、板垣は晴信に尋ねた。
「別に他意はないわ・・刀を所望しても頂けぬ事は分かりきっておる・・馬もそうじゃ・・父上は弟、信繁ならば手柄以上の褒美をお出しになるであろうが、わしには何も呉れぬで・・」
「今宵は何でも頂けそうな気配でござりましたが・・」
「そうよの・・されど、わしは、今、父上に恩を頂く気には、なれぬ・・」
「では、何故、梅姫でござるか?・・」
晴信は強張らせた表情を少し緩めた。
そして、かすかに笑顔を見せて板垣にこう言った。
「それはの・・梅姫が欲しいからよ・・美しいと言ったのは板垣殿ではないか」
そう言ったかと思うと耐え切れなかったかのように大声で笑い出した。

数日後、勝ち戦を得て安心したかのように信虎は駿河へ旅立った。
婚姻政策の一環として今川義元の嫁にやった娘に会うためであった。
「晴信、信繁、力をあわせて甲斐を守ってくれるように・・」
信虎は二人に念を押して旅に出た。
信虎が駿河へ向かい、国境を越えた日、晴信は駿河との国境を突然閉鎖した。
「今後、甲斐の国の領主はこの晴信が務める。父と共に居たい者は遠慮なく申し出るように・・」
その日、晴信は国中に触れを出させ、武田家家臣団の意思を問うた。
それと同時に信虎について駿河へ向かった家来達の家族を捕らえ、人質として、彼らを脅した。
信虎の下に残ったのはごく僅かの若い武士だけでしかなく、信虎は甲斐の支配者から一気に転落した。
手引きを進めたのは板垣、飯富といった、信虎が信頼する重臣達だったと言われている。
信虎が進めてきた諏訪との融和政策には実は家臣団の大半が反対をしていることを晴信は知っていた。
いずれ諏訪も、いや、信濃の国全ては、武田のものになるのだ・・
積極的な侵略方針は運気が上がりかけていた甲斐の国人たちの心をつかんでいた。
晴信は三日後には躑躅ヶ崎の主人であることを宣言、祝宴を開いた。

祝宴で賑わう表御殿とは同じ囲いの中にありながらも別世界の静けさを保つ違いを見せているのは人質達のいる奥の建物だった。
夜の帳が下りても灯明は少なく、月だけが煌々と明るい縁側に突然、大勢の人の気配がした。
梅姫は何事かと怯える心を押さえ、暗闇へ向けて目を凝らした。
「御館様の御成りにございます」
若い武士が、縁側の脇で端坐し、礼をする。
「御館さま?」
梅姫は躑躅ヶ崎で起こった異変の噂は聞いていた。
自分の父親をこともなく追放する非情の嫡子、晴信に彼女は会ったことはなかったが、良い印象は持っていなかった。
それは兎も角、彼女としてはこの家の新しい主人を迎えるために、褥を外し、平伏して待った。
「こちらが、諏訪家のご息女、梅姫であらせられるか・・」
若く、太い男の声がした。
「かような固い礼はいらぬ・・姫・・わしを見てくれ・・」
梅姫はその声に顔をあげ、晴信をみた。
「この度の御家督の御継承・・誠に祝着にて・・」
震える身体を押さえながら、それでもはっきりと言葉を出そうとする彼女を晴信は見つめていた。
「良いわ・・御同盟の諏訪家の姫君を人質になぞして、申し訳がなかった。晴信、父に代わりてお詫び申し上げる・・」
晴信はそう言って笑顔を見せた。
背の高い、大きな瞳の端整な顔立ちの武将の姿がそこにあった。
けれども、梅姫には晴信の視線が怖かった。
「美しい姫じゃ・・かような美しさは山国には勿体無い・・」
晴信は梅姫の全身を舐めるように見ていた。
梅姫は体が強張り、そのまま動けない。
生理的嫌悪感とでも言うのであろうか・・
「いずれ、きちんとした部屋に入っていただく。それまではしばし、ご辛抱あれ・・」
晴信は満足したように、そういうと部屋を出て行った。
梅姫は緊張の糸が解れたかのように、その場で崩れた。
「姫!」
侍女の一人が慌てて、梅姫の身体を揺すった。

翌年、夏、梅姫はとんでもない噂を聞いた。
「晴信殿が諏訪との戦火を開き、上原城へ向けて行軍をしている」
と言うものだった。
諏訪と武田は同盟の間柄のはずだ。
晴信の妹が梅姫の父に嫁いでいる。
「それは・・おかしな話・・諏訪には武田家への恨みもございませぬ・・きっと巷の悪い噂でしょう・・」
彼女はそう思い込もうとしていた。
けれども、現実に武田晴信は諏訪を攻めていた。
古府中の町には、戦場から怪我をして送り返されたものや死者の遺体が運び込まれていた。
噂が現実であることはすぐに知れ渡った。
古府中では、諏訪攻めは好意的に受け取られていた。

前年の秋、豪雨により川の堤防が決壊した。
甲斐の国は水利がさほど良くなく、元々、稲はいくらも取れない。
そこで蕎麦や黍と言った雑穀が植えられていたが、畑という畑は豪雨による洪水で荒地に変わってしまっていた。
この状況を打開するには、何処か他国を攻めて食い物を奪うのが手っ取り早かった。
諏訪も昨年は凶作であった。
けれども、諏訪は豊かな稲作地帯を有していた。
凶作であったと言うが、元々米のとれない甲斐から見れば、米が出来る平野を有する魅力は十分にある。
領民の政治への不信を除くには他国を攻め、領地を得ることが一番だと晴信は知っていた。

諏訪はすぐに陥ちた。
その噂もすぐに梅姫の元へ届いた。
さらに、こともあろうに父、頼重が古府中の寺院に人質として連れてこられたという。
同盟国を滅ぼし、その国主を人質とする非情さを彼女は憎んだ。
けれども、憎んだとて、彼女に為す術はなく、梅姫はじっと耐えるしかなかった。
十日ほど経った日、晴信からの伝言と称して、板垣が彼女の前にやってきた。
「昨日、姫様のお父上に置かれましては・・」
板垣は、そこまで言うと言葉を詰らせた。
「父上が・・・どうされたと言われるのでしょうか?」
不安が胸の中に広がり、気分が悪くなる。
「は・・お父上、諏訪頼重様に於かれましては、東光寺にて、御腹を召され・・」
梅姫はじっと板垣を見据えていた。
涙も出ない。
板垣の方が居た堪れぬ様子で、視線を反らしていた。
「姫様・・これは拙者よりのお願いにござる。この度、お父上のこと、諏訪の領民のことなど、様々に思い巡らせることもござりましょう・・されど、耐えなさいませ・・今はただ、耐えなさいませ・・」
板垣は視線をそらせたままで一気に言うと、振り切るように立ち上がり、出て行った。
梅姫は薄暗い部屋の中で、宙を睨んでいる。
白い肌、長い黒髪、あでやかな小袖の着物・・その中できちんと端坐したままの少女の目は瞋恚に燃えていた。

頼重の四十九日もようやく終わった頃、梅姫の哀しみは激情と言うような形ではなく、もっと深く、心の奥の錘のようになって残っていた。
秋の風が吹き始める夜、鈴虫の声に彼女はようやく自分を取り戻しつつあったその時、数人の武者達が縁側から駆け込んできた。
「梅姫!御館様がお呼びでございます」
武者の一人はそう言い、彼女は侍女とともに、不審気に武者についていった。
「侍女の方は、こちらよりお引き取りくだされ・・」
本館の奥の部屋の近くで、そこに居た別の武者が指図をする。
「は!されど・・・・」
侍女は武者の言葉に抗議をしようとしたが、その場の恐ろしげな雰囲気に飲まれ、おずおずと引き返していった。
「御館様!梅姫様がお見えでござります」
武者は部屋の中にいるらしい晴信に声をかけた。
「おう!遠慮なく入られよ!」
明るい声がした。
梅姫はゆっくりと晴信の前に伺候した。
「姫!晴信に堅苦しい礼儀はいらぬ・・お顔を上げてくれ・・」
梅姫は晴信の顔を見た。
「この度は、お父上、諏訪頼重殿にはお気の毒なことでござった・・されど、戦国の慣わしなれば、ご勘弁下され・・」
意外に明るく、晴信は言った。
「御館さま・・戦国の慣わし・・されど、されど、何故に父が御腹を召されたのか、わたしは未だに分かりませぬ・・」
「そうか・・そうよな・・お父上・・頼重殿に於かれては、残念ながら謀反を企てられたのよ・・」
嘘だ!
彼女はそう思った。
けれども、それをここで口に出すほど物分かりの悪い姫ではなかった。
今、彼女の前にいるのは、普通の男ではない。
彼に逆らうと言うことは、即ち死を意味した。
「この晴信も、命が惜しい・・やらねばやられる・・そこのところはご理解くだされよ」
彼女は平伏した。
「さて、今宵はそなたと、ゆるりと過ごそうと思う。近う寄れ・・」
梅姫ははっとした。
晴信が何を求めているか、はっきりと分かった。
「酒肴を持て!」
晴信が叫ぶと、他の部屋から大勢の返事が聞こえた。
やがて、酒肴が、少年達によって晴信の前に並べられる。
「注いでくれ」
晴信は杯を持ち、梅姫に近くへ来るように手招きをした。
彼女は逃げる方法が何もないことを知り、心を決めた。
本当はこのまま殺してくれた方が、ずっと楽かもしれない・・そんな思いを彼女はすぐに打ち消し、晴信の傍へ行った。
胸が高鳴り、心が重くなる。
晴信は少女の手をひいて、自分のほうへ引き寄せた。
ようやくふくらみ始めた小さな固い胸を、いかつい男の手がまさぐり始めた。

翌朝、梅姫は晴信の身の回りの世話をしている老婆に連れられて、自分の部屋に帰ってきた。
老婆は部屋に入るなり、声を大きく叫んだ。
「諏訪家の方々には、お喜びになられませ・・梅殿は昨夜、御館様のお手付きになられあそばれましたぞ」
艶はじめ、侍女たちは顔色を変えた。
もちろん、彼女達には分かっていたが、それでも、面と向かって言われてしまうと、戸惑いを隠せない。
「近々に側室に相応しい部屋に御移り頂きますゆえ、そのご用意の程を、早急になされますように」
老婆はそれだけ言うと、姫を置いてさっさと引き上げてしまった。
艶の顔を見ると、梅姫はその場に泣き崩れてしまった。
「姫様!おいたわしい・・」
侍女たちも泣き始めた。
朝の光に小鳥がさえずる中、女たちの声を押し殺したような泣き声が、低く垂れ込める雲のように部屋に満ちていた。

3年後、梅姫は懐妊し、諏訪に帰って男の子を産んだ。
丸々太った、いかにも強そうな男の子である。
彼女は十六歳になっていた。
白い肌は輝きを増し、引き締まった目鼻立ち、長い髪はあくまでも黒く、その美しさは古府中でも、諏訪でも評判になっていた。
彼女が男の子を産んだところで、正室の三条の方にも長男はじめ数人の男子があり、だから、梅姫が武田家の女の中で力を強くすることはありえなかった。
彼女の息子は四郎と称することになった。
彼女は古府中から離れ、諏訪にいることでようやく心が和むような日を過ごせるようになった。

晴信は信濃での戦の途中、諏訪に立ち寄り、息子の顔を見た。
「これは・・強そうな男の子だ・・四郎か・・」
諏訪湖を眺める館の中、上機嫌で酒盃を片手に赤子を抱く晴信に、梅姫は懇願した。
「御館様・・御願いがございます」
「何だ?」
「この子に、祖父諏訪頼重の名を継がせて下さいませ・・」
晴信は、必死で頭を下げる梅姫を見ながら、少し考え込んだ。
「諏訪の再興か・・」
そう呟いたけれども、しばらくはその後も無言だった。
ただ、腕に抱いた赤子の感触を楽しんでいるように見える。
晴信の頭にあったのは、武田の将来だった。
随分大人びてきた長男、義信がいる限り、この子は一家臣として仕えるしかない。
それならば、この子に諏訪のあとを継がせ、この地域の国人や領民を治めるためにも頼重の名を使うことは得策だと思えた。
けれども、彼は義信になんとなく不安感を感じてもいた。
もしも、義信に何かあれば・・
この子が諏訪の名を継いだ事はかえって武田の統率に障りにならないか・・

「御願いでございます」
そう、懇願を続ける梅姫の、肌の白さが気になった。
「痩せたな・・」
梅姫は顔をあげた。
「わたしでございますか?」
「そうだ・・美しくなったが、痩せた。身体に良いものを何でも食すようにしないとな・・」
晴信は彼女を見つめながらそういう。
梅姫は、晴信に優しい言葉をかけて貰ったのは、初めてのような気がした。
晴信は改めて梅姫を見た。
美しい・・あまりにも美しい・・けれどもそれは、この世のものと思われないほどに、美しすぎるのだ。
「分かった!」
晴信はいきなり叫んだ。
「四郎は諏訪の跡取よ!」
「はい!」梅姫も大きく頷いた。
「武田、諏訪四郎勝頼・・頼重に勝つのだ!頼重以上の武士になれ!」
晴信は赤子を抱き上げ、赤子に言い聞かせていた。
「ありがとうございます」
彼女は平伏する。
「わしに礼を尽くさずとも良いと言ったであろう・・」
晴信は苦笑しながら、それでも赤子を見ていた。

晴信が古府中へ向け出立したあと、梅姫は館で赤子を抱きながら諏訪湖を眺めていた。
「勝頼・・お前は、武田晴信より、もっと強い武者になっておくれ・・もっと大きな武者になっておくれ・・・」
勝頼は無邪気に母の顔を見て喜んでいる。
「わたしや、父上や、大勢の御家来衆や、大勢の領民たちが味わったような・・あんな苦しみは、もう御免・・」
晴信に似て大きな瞳の勝頼はそれでも無邪気に喜んでいる。
「武田なんかに負けないで!晴信なんかに、負けないで・・」
十六歳の少女は、諏訪湖を眺めながら、泣いていた。
自分を苦しめた男の子供を抱きしめながら・・泣いていた。

それを部屋の隅のほうからじっと見つめている老武者があった。
「梅姫・・良くぞ、良くぞ、耐えて下さいましたな・・」
武者は板垣だった。
彼もまた、少女の姿を見つめながら泣いていた。

うどん


昭和63年、大阪環状線、雨の朝、京橋駅。
プラットホームに溢れる乗客、ひっきりなしに出入するオレンジ色の電車・・
駅のスピーカーががなりたてる・・雨で電車は遅れている。
遅れていようがなんだろうが、電車はひっきりなしにやってきて、その都度ホームにいる乗客が入れ替わる。
電車が吐き出す大量の乗客は、殆どが駅の南北の出口へ向けて流れていくが、一つの電車で必ず数人だけが流れを横切り、ホームの壁の方へ向かう。
そこにはキオスクや飲み物の自動販売機、そして小さな喫茶店と並んでこじんまりとした小屋が作ってあって「大阪うどん」と大きくかかれた看板のうどん屋があった。
うどん屋といっても、駅のホームでのものだ。
立ち食いうどんである。

それらしいつくりの、開け放しの入り口を入ると、右手にチケットの自動販売機、左手にうどんを出すカウンターがあり、客はチケットを購入し、そのチケットをカウンターに出し、調理をしているうどん屋の店員から盆に載せられたうどん鉢を受け取り、こんどは、右手ずっと奥に広がる横並びのカウンターでそれを食べるシステムになっていた。
カウンターは立ち席だが、数脚だけ木のイスが置いてあり、必要な客が自由に使うことが出来た。
カウンター席からはホームの乗客の様子や電車が良く見えた。
電車といっても環状線は一日中オレンジ色の変わり映えのしないものばかりだけれども、それでも1時間に数本は奈良方面からの白い車体に朱色の帯が入った瀟洒な電車を見ることが出来た。

朝の通勤ラッシュはうどん屋にとっても一日で最も忙しい時間帯だ。
遠距離通勤のビジネスマン達は自宅では朝食は摂らない事が多いらしく、会社に近い駅で済ますようだった。
どういう訳かうどん屋で朝食を摂る人は、圧倒的に男性が多かった。

今も一人のビジネスマンが自販機でチケットを買って、受付カウンターにそれを出しているところだ。
「はいよ・・月見うどん一丁・・」
うどん屋の中年の男性店員は投げやりな調子で、チケットを見て、後ろの女性店員に声をかけた。
女性店員がうどん玉をさっと湯通しし、鉢に入れて彼に渡す。
彼はその鉢に、卵を割りいれて、ネギと天かすを入れ、汁を上からかける
生玉子を割る際に手が滑り、玉子の黄身が潰れて麺の上に載ってしまっていた。
「はいよ・・おまちどうさん・・」
彼が待っている客のビジネスマン風の男にその鉢を渡そうとすると、客の男は少しむっとしたようだった。
「おい・・おっさん・・」
客がやや俯き加減に睨んで言う。
「なんでっか?」
店員も横柄に答えた。
「卵が潰れとるやないけ!」
「卵みたいなもん、どうせかき回して食べるもんや・・かまいまへんやろ」
「阿呆か!おっさん、こないな、きちゃないもん、食えるかい!」
「きちゃないやと!人が一生懸命に作ってやってるのに、そういう言い方はないやろ!」
「作ってやるって・・お前、ホンマに商売人かい!わしは客やぞ!」
とうとう怒鳴りあいになってしまった。
顔を真っ赤にして怒鳴りあう店員とビジネスマン風の客、二人の周りには人垣が出来てきた。
「おっさん!どないでもええさかい、はよ、うどん作ってくれや!」
後ろに並ぶ別の客も声を荒げる。
「すみません!」
そう言って若い男が人垣の中に入ってきた。
「松井さん!何があったのです?」
若い男は作業用のガウンにネクタイを締めていた。
その男はうどん店の店員に向かってそう問いかけた。
松井と呼ばれた男は、答えず、憮然として客の男と睨みあっていた。
「お前、ここの責任者か!」
客の男は若い男にそう叫んだ。
「はい!私はレイルフーズサービスの山根と申します・・この者がお客様に何か、しましたのでしょうか?」
「何かしたも糞もあるかい!このおっさん、卵が潰れとるやないか・・そう言うただけで、食って掛かってきたんやぞ!」
客の男の言葉に、山根は松井の方を振り向いた。
環状線の電車が出て行く。
次の電車の行き先を告げるアナウンスがしつこく鳴り響く。
「松井さん!ホンマですか?」
憮然としていた松井は、ようやくポツリと答えた。
「卵みたいなもん、潰して食うもんやないけ・・」
「そやから、それがきちゃない言うてるのや!」
客の男がまた激昂して叫ぶ。
「見せてか・・」
山根はカウンターの上のうどん鉢を手にとって見た。
麺の上に潰れて、だらしなく黄身が広がっていた。
「お客様!申し訳ございません!すぐにお取替えさせていただきます!」
山根は慌てて客の男に頭を下げた。
「取替えだけかい!」
男は山根を睨みつけた。
「そうですね・・なにか、お詫びに他のものも・・ジュースかおにぎりはいかがですか?」
客の男は呆れたように溜息をついて、こう叫んだ。
「もうええわ!こんな気分でここで食えるかい!金返せ!」
「あ・・それでは、こちらへちょっと・・」
山根は、慌てたように男の手をとり、店の外へ連れ出した。
男も素直について店の外へ出た。
「松井さん!あとのお客様の仕事をお願いしますよ!」
山根はそう叫んでから店の外で、客の男と体を密着させて話をする。
「ちぇっ!」
松井は舌打ちし、投げやりな声で「どうぞ!」と叫んで他の客にカウンターへ並ぶよう促した。
「あほらし・・」
「このおっさん、国鉄の余剰人員ちゃうか・・」
「そうやろな・・組合のバッジがあるさかいな・・」
「クビにせなアカンわ・・」
何人かの客jはそう言い捨てて、店の外へ出てしまった。
それでも残った客たちはチケットを持って、大人しく松井の出すうどんの順番を待ってくれている。

うどんの麺に汁をかける松井の調理用の白衣にはJRUと書かれた労働組合のバッジが誇らしげに輝いていた。
松井は無言でうどんを出し続けていく。
ようやく静かになった店の中に山根が入ってきた。
「松井さん・・何度、こんな騒ぎを起こせば気が済むんですか?気をつけてください・・」
山根は松井にそう言った。
松井はそれには答えず、山根を睨みつけてこう言った。
「今の客には、なんぼ払てん?・・わしは、なんも悪うないさかいな!」
山根もさすがにこの言葉には切れたようだった。
「三千円ですわ!松井さん!これは給料日にあなたに支払っていただきますからね!」
「労働者が一生懸命仕事して、何で会社が勝手に詫びた金を払わなアカンねん・・」
「労働者の糞のは、どないでもええんですわ・・ええ加減にしてください!」
「わしは労働者や!一生懸命仕事をしてやってるのや・・」
「その、してやってるって意識、何とかなりませんか?少なくともお客には・・」
「うるさい奴っちゃのう、嫌やったら辞めてやるわい!」
山根は呆れたように、少し声のトーンを落として、言い聞かせ始めた。
「いいですか・・松井さん、あなたは、うちの会社への出向ですから、辞めるっていうことは出来まへんのやで・・2年間、うちでみっちり働いてもらわんと、鉄道の現場へは帰られへんってこと、よう、心に入れてくださいよ」
雨がきつくなってきた。
ホームのスレートの屋根は激しい雨の音を響かせる。
電車が停車する際にも、ブレーキの甲高い音がする。
「もういっぺん、心を入れ替えて、頑張らな・・行くところはおまへんのやで・・」
山根は、それだけを言うと、店から出て行った。
松井は憮然とした表情で、折から入ってきた客のチケットを受け取り、蚊の泣くような小さな声で「天ぷら蕎麦・・」という。
「はあ!?」
奥で麺をゆがく女性が聞こえないという苛立ちを声にした。
「天ぷら蕎麦や!」
松井は怒鳴り返しながら、やるせない怒りの持って行きようが、何処にもないことを実感として噛み締めていた。

その日は早番で朝の仕事をしていたので午後2時には彼は家路についた。
彼の自宅は操車場があった場所に程近い、かつては国鉄官舎と言われた社宅にあった。
午後の空いた電車で松井は、座ることもなく、ただ、電車の扉にもたれかかり、外の景色を眺めながら考えている。

松井は一昨年まで、国鉄の操車場で働いていた。
機関車が突放する貨車のステップに乗り、前に停車している別の貨物列車の後部に連結をする。
言葉で言えば簡単な仕事だが、ブレーキは自分の足でかけるしかなく、タイミングを間違うと連結どころか衝突してしまうし、前にいる列車にきちんと届かなくて途中で止まってしまうと,どうしようもない状態になる。
経験と勘の必要な仕事だった。
松井はこの仕事に自信をもっていた。
自分ならきちんと、突放された貨車を、ショックを誰よりも少なく連結できる・・そういう自信はあった。
彼は職場を愛し、線路を愛し、仕事に誇りをもっていた。
彼は他人が嫌がる組合の役員も喜んで引き受けた。

けれども、その職場は貨物列車の大合理化であっけなく廃止されてしまった。
松井は最後まで職場に残り、現場の管理者側との交渉ごとに力をつくした。
それは組合員一人ひとりの配置転換がほぼ目処がつくまで続いたのだ。
やがて、彼も職場を離れる日がきた。
彼は車掌区に回され、電車の車内でキップやプリペイドカードを販売する仕事についた。
客商売は生まれて初めてだ。
「ありがとうございます」がなかなか言えなかった。
そんな彼を車掌区の組合は暖かく受け入れてくれた。
けれども、彼は本職の車掌ではない・・いくら頑張っても給料は他の車掌のようには上がらない。
1年余りその仕事をしていて、ある日、車掌区の助役に呼ばれた。
行ってみると出向はどうかという。
彼は自分がいくら頑張っても、車掌区にとっては居ても居なくてもいい人間だったと気がついた。
出向先はいくつかあったけれど、一番、のんびりしていそうな子会社のうどん店に決めたのは、ほかならぬ彼自身だった。
けれども、国鉄から分割された民間会社がその系列で作った外食サービスの会社は、彼の予想以上に厳しかった。
マネージャーは国鉄職員だった過去を持たない、民間会社からの引き抜きで、会社は徹底して効率と売上を求めてきた。山根もそういうマネージャーの一人だった。
それでも、彼は労働組合役員の肩書きはそのままだったから、会社のマネージャーには「条件などで腑に落ちない面があるときは話し合いに応じる」という口約束を認めさせていた。
けれども、それは世間で就職を決めるときに交し合うごく当たり前のことで、ただの挨拶代わりにしかならないことも、ようやくわかるようになって来た。
それが分かっても、やはり「ありがとうございます」と大きな声ではなかなか言えなかった。
ただ、うどん店ということもあり「まいど!」「へい、おおきに!」といった程度の挨拶で済むこともあり、それが彼が今日まで堪えることの出来た部分であったわけだ。
これまでも小さなイザコザはたくさんあった。
注文の聞き間違い、汁の湯加減の間違い、麺のゆがきすぎ、反対に麺を殆どゆがかず出して客に怒鳴られたこともあった。
彼自身、生来は器用な方だ。
そのときは腹が立つが、すぐに二度といわれないよう気をつけて仕事をしていた。

けれども、今日のは違う・・松井はそう思っていた。
「あれは言いがかりや・・」
彼は思い返すたび、そう自分に言い聞かせていた。

電車が自宅の最寄り駅に着き、自宅への道をのんびり歩きながら彼は考える。
「いっそのこと、JRを辞めてしまおうか・・」・・思いは果てがなく、考えれば考えるほど、悪い方向に向かっていくような気がしている。
社宅の階段を上がり、3階の自分の部屋の扉を開けた。
「パパ!」
彼の気配を感じて一人娘が抱きついてきた。
まだ4歳になったばかりだ。
「おかえりなさい!」
この頃はハッキリした口調で喋るようになった娘・・
「あなた・・おかえりなさい・・」
妻の声も聞こえる。
うどん屋に出向に行く時、一番反対したのが彼の妻だった。
娘を抱き上げ、抱きしめていると、涙が出る。
「パパな・・会社は辞めへんからな・・」つぶやくと、「どうしたの?あなた・・」妻の不審気な声が聞こえてきた。
妻には泣き顔は見られたくない・・彼は咄嗟に涙を手のひらで拭った。

数日後、昼間の空いている店に、珍しく老婦人が小さな女の子を連れて入ってきた。
自動販売機でチケットを買うにも戸惑っているようだ。
「おばあちゃん、あたし、きつねうどん!」
女の子がせがむが、老婦人には数多いメニューの中から、目的のボタンを押すのが難しいようだった。
松井は思わず、カウンター下の木戸を開けてその二人の近くへ行った。
「きつねうどんでっか?」
「はい・・すみません・・」
老婦人は恐縮したように、そう答えた。
「ひとつで、ええか・」
「はい・・あ・・いえ・・ふたつ・・」
老婦人はしどろもどろになっている。
「おばあちゃん!おにぎりも!」
女の子がせがむ。
おかっぱにした髪が彼の娘を思い出させた。
彼の娘よりは一つか二つ年上だろうか・・
「おにぎりは・・ひとつでっか?」
松井は老婦人に問いかけた。
「あ・・あの私もですから・・ふたつ・・お願いしたいのですが・・目が見えにくくて・・すみません・・」
千円札を老婦人の手から預かり、自販機に入れ、きつねうどんとおにぎり二つずつを選択してやって、お釣を老婦人に手渡した。
「ありがとうございます・・すみません・・」
ひたすら頭を下げる婦人に彼は手で「いいよ」と合図をして、木戸をくぐり、中の女性店員に大きな声で言った。
「きつね2丁!おにぎり2個!」
「はいよ!」
元気な声が返ってくる。
「おばあちゃん!やさしいおじちゃんね・・」
女の子が老婦人に笑顔で話し掛けている。
「ほんとうね・・おばあちゃん、助かっちゃった」
婦人がそう答えている間に、うどんは出来上がった。
おにぎりも棚から取り出した。
盆にそれを載せ、老婦人に渡そうとした松井は思いとどまり「ちょっと待ってや・・」と言い、木戸をもう一度くぐり、その盆を自ら持った。
「熱いさかいな・・持っていったげるわ・・」
そう語りかけ、彼はその盆を客用のカウンターの奥に運んで、木の椅子を2脚、その前に置いた。
「ここで召し上がってか・・ゆっくりとどうぞ!」
老婦人は感激して何度も彼に頭を下げ、孫らしき女の子と並んで座った。
二人が並んで、うどんをすする後姿が、彼にはこの上ない大切なもののように思えてきた。
「おばあちゃん!ここのおうどん、すごく美味しいね!」
女の子が喜んで食べている。
「本当だね・・おじちゃんも親切でよかったねえ・・」
松井は少し照れくさくなって、余所見をしていたけれど、老婦人がきれいに食べ終えた二人分の食器を持ってきたとき、思わず「毎度あり!またどうぞ!」と叫んでいた。
二人が帰ったあと、松井は女性店員に「うどん屋って、ええもんやな・・」そう、ぽつりと言った。

その日の帰路、彼はいつも乗り換える駅のホーム脇にある立ち食いうどん店に立ち寄った。
他所の店がどの程度の味なのか、気になったのだ。
店は混んでいた。
湯気を立てて、うどんや蕎麦をすする客の雰囲気は、彼が居る店と大差はなかった。
その店は自動販売機はなく、受付の婦人が居て、そこでチケットを買うようだった。
メニューの豊富さに驚き、一瞬迷ったが、それでも彼は次の瞬間には「天ぷらうどんとおにぎり」と叫んでいた。
チケットを貰うと同時に、その女性が「うどん・天ぷら一丁!おにぎり一丁!」とマイクで叫んだ。
彼がチケットを持ってうどんを渡してくれるカウンターに行くと、もう、うどんは出来ていて「はい!こちら、天ぷらうどんとおにぎりです!ありがとうございます!」そう言って店の男性が盆に載せた二品を出してくれた。
その男性の声もマイクに載って店中に広がっている。
うどんを受け取り、いくつか作ってあるカウンターの一つにそれを置くと、割り箸や唐辛子と交ざって、テンカスが置いてあるのが目に入った。
周りの客を見ると、無造作にテンカスをうどんに入れているようだった。
彼も少しそれを取ってうどんに入れ、汁を少し飲んでみた。
「汁は・・うちのほうが美味いな・・」
そう感じた。
少し舌が痺れる感じがする。
麺を口に入れる。
腰はあるけれど、ぱさぱさしているように感じた。
おにぎりも一口頬張ってみた。
「おにぎりは・・美味いな・・」
ほんの少しの時間で彼は全て食べ終えた。
食後の後味はよく、満足な感じがしたけれど、自分の店のうどんの方が、より「うどん」らしい気がした。
店を出るとき、受付に座っている女性が「ありがとうございました!」と言う声がマイクを通して追いかけてきた。
「美味い・・っちゅのは・・味も大事やけど、雰囲気も大事なんかいな・・」
大勢の客で賑わう店を外から眺めながら、そう独り言を言ったけれど、彼は、初めてまともに今の仕事のことを考えている自分には、気が付かなかった。

「おい!松井やないか・・」
翌日の昼前のちょっと客の数が減る時間、チケットを買った運転士風の男が彼に声を掛けた。
「肉うどん一丁!」
心なしかいつもより元気よく後ろの女性店員に伝えながら、松井はその運転士風を見た。
「わしや・・福田や・・」
「おう!」
松井は驚いた。
操車場で一緒に仕事をしていたかつての仲間だった。
「お前、ここ出向か?」
福田は不躾に聞いてきた。
「おう!2年な!」
「ふうん・・」そう頷きながら、福田が、彼を見下げるような目で見ていることに、松井は気がついた。
「お前、まだその組合か?」
松井の胸のバッジを見て福田が問う。
「ああ・・」手短に答える
うどんに汁をかけ「お待ちどうさま!ごゆっくりどうぞ!」
そう言って、鉢の載った盆を差し出した。
福田は軽く頷きながら、盆を手に、客用のカウンターに進み、そこでうどんをすすっている。
やがて、うどんを食べ終えた福田は食器を返しながらこう言った。
「組合は、早うに辞めたほうがええで・・お前も線路に帰ってきたかったらな・・」
「お前は・・今は何をしとるんや・・?」
「運転士や・・見たら分かるやろ・・学研都市線に乗ってるのや・・」
「組合は?」
「とうに変わったわ・・いつまでも、あの組合におったら、花が咲かんさかいな・・」
別の客がチケットを持って入ってきた。
「天ぷら蕎麦一丁!」
気持ちよく叫び、福田を見ると福田は彼を哀れむような口調になった。
「まあ・・かつての組合の役員さんも・・うどん屋の親父になったのう・・」
福田は言い捨てて店を出て行った。
松井は聞かぬフリをして、それでも、心の底が抜けたような、苦しい気持ちになった自分を押さえていた。
「おまちどうさま!天ぷら蕎麦です!」
客に盆を渡しながら、松井は、ざわざわと心が揺れてくるのを感じている。
そのときだ。
マネージャーの山根が入ってきた。
「松井さん!今日はいい感じじゃないですか!その調子ですよ!」
機嫌よく山根は笑顔で言う。
松井は揺れ始めた気持ちを押さえ、山根に言った。
「山根さん!昨日、O駅のうどん屋に行きましたよ・・」
山根は一瞬、きょとんとして、すぐに興味深いような表情になった。
「O駅ですか・・どうでした?」
「はい・・うちのうどんのほうが、うどんらしい気がしましたんや・・」
「ほう・・それは・・・」
山根は松井の顔を見て、ちょっと言葉を呑んでから言った。
「とても、素敵な感想ですねえ・・実は、うちが目指しているのも、本物に近いうどんなんです」
「本物に近い?」
「そうです」
「ほなら・・・これは、ホンマもんとは違いますのんか?」
「うーんと、例えば手打ちの、きちんとしたうどんに出来るだけ近くなっていこうと、してはいるのですが・・」
「手打ち・・それがホンマもんでっか・・それは・・何処で食えますのや」
「大阪のうどんも美味いですけど、僕は讃岐が好きで・・」
「讃岐・・高松の・・」
「でも、立ち食いは時間勝負と値段勝負ですから・・今くらいが限度ですけどね・・」
そう笑いながら、山根は店を出て行った。
チケットを持った次の客が立っていた。
「はい!月見うどん一丁!」

開通して間もない瀬戸大橋を電車で渡り、松井が高松へ向かったのは、それからいくらも経たない彼の公休の日だった。
高松には操車場時代の友人、河合が住んでいて、彼は国鉄改革のときに、故郷へ帰りたいと上申し、それが認めらたのだった。
松井は讃岐うどんのことを、河合に電話で聞いたところ「うどんなら任せとけ・・」と言われ、好意に甘えて高松まで来たのだった。
マネージャーの山根が言った「讃岐」のうどんを本場で見たかったのだ。
高松駅に来るのは初めてだった。
電車を降りると、ホームの端に「讃岐うどん」と書いた暖簾が見つかった。
松井は、まず、そこに入ってみた。
「天ぷらうどん」注文し、代金と引き換えにうどんの鉢を渡してもらう。
一口、食べてみる。
麺には確かに腰はある。汁も彼の店で出すものより少し濃い。
美味いことは美味いが、彼の店に比べ、はるかに出来がいいとは感じなかった。
「こんなものか・・」
彼は腑に落ちない気持ちで、改札口を出た。
そこに河合が来ていた。
手を振り、近づき、大袈裟に抱き合う素振りで再開を喜んだ。
中年の男二人が大声で、大袈裟に語り合うのだから周りの人の目を引いた。
「待たせてすまん・・そこのうどん屋で、まず食ってみた」
「ほう・・どうじゃ?うまいか?」
「美味いとは思うが・・さして感動するほどではない」
その答えを聞いた河合は「上等な答えじゃ・・あそこは立ち食いじゃけん、仕方がないがの」そう言って笑った。

河合は彼を、市内のうどん専門店に連れて行った。
彼が始めてみるセルフサービスのやり方で、客はめいめいにうどんを取ったあと、上に載せる具を選んで、最後にはおでんまで置いてあり、それも殆どの客がとって行くようだった。
席につき、麺を一口すする・・
「これは!なんや!」
松井が叫ぶのを、河合はニヤニヤしながら見ている。
麺の感触がこれまでに彼が味わったことのないものだったのだ。
硬いとも、軟らかいともいえず、確かに腰はあるけれど、噛み切れない不快な硬さではなく、噛むことが快感になるような感触なのだ。
「これが・・讃岐か!」
「いや・・まだまだこんなもんじゃあ、ないけんね」
河合はそう言って、自分もうどん鉢に首を突っ込んでいた。

「このうどん、どうやって作るんや・・」
松井は食べ終わってから河合に訊ねた。
「どうやってって、言われてもなあ・・」
河合は店の天井を眺めながら、含み笑いをしている。
松井は、立ち上がると、調理場のほうに歩み寄った。
「すみません!このうどん、どないして作るんでっか?」
大声で調理場の女性に尋ねる。
女性は明るい声で笑っていたが、やがて「こっち、きんさい!」と彼を招いてくれた。
ちょうど、小麦粉を練ったものを伸ばしているところだった。
床に置いた広い板の上に練った小麦粉を載せ、それの上に大き目の布巾のようなものを乗せる。
その上から、女性の一人が踏み込んでいく。
ある程度踏み込んだら、今度は板状になったそれを両手で巻き取るように、棒状にする。
またそれを布巾を掛けて踏みこむ。
また、できたものを巻いていく。
また布巾を掛けて踏み込む・・それをまた巻いていく。
そこまですると、布巾を掛けたまま、台の上に持ち上げて置いた。
「これを切ると、うどんになりまんのか?」
女性はまた笑みを浮かべて「まだまだじゃわ・・これをしばらく寝かせて、へそ出しして、寝かせて、まるけして、寝かせて、また踏み込んで、また寝かせて、伸ばして伸ばして、そんで、やっと切ってうどんになるんじゃ」
はあ・・溜息をつきながら、松井は調理場の女性を見つめていた。
「いやあ・・よう、分からんが、とにかく大変やってことは分かりました。すみません・・ありがとうございます!」
彼は礼を言って、店を出た。
「また、おいでまいよ!」
機嫌よく店の人たちが送り出してくれた。

「讃岐は・・奥が深いなあ・・」
河合の運転するクルマに乗るなり、松井は溜息をつきながら言った。
「まだまだ・・奥が深いんじゃ・・もう一軒、行ってみようかい・・」
河合は、悪戯っぽく笑いながら、クルマを郊外へ向けて走らせた。
「もっと、すごい店があるのか?」
「店っちゅうか・・なんちゅうか、よう分からんがの・・」
「わからん?」
「行ってからのお楽しみじゃあ・・」
郊外に出ると田園の向こうに、奇妙な形をした小山が幾つも見える。
まるでお伽の国のようだ。
そのうち、河合は田圃の真ん中の、駐車場に見えなくもない場所にクルマを止めた。
「ここは・・店なんかあるんかいな?」
「じゃから、店っちゅうか・・」河合はブツブツ言いながら、それも、言葉の意味には要領を得ないで、あぜ道のようなところを歩き出した。
農家の納屋のような建物に、古い琺瑯の看板と、米穀店の文字が見える。
「これは、米屋やないけ・・」
不審がる松井をよそに、河合はつかつかと、その米穀店らしき建物に入っていった。
「おばちゃん!わしや!」
河合が店の入り口から叫ぶ。
「はいよ!河合はんかいね・・入りまいよ!」
うすくらい奥から年配らしい女性の声が聞こえる。
「うどん、もらうで!」
土間のような場所に簡単な机があり、その上に布巾を掛けたうどんが置いてあった。
横にどんぶりがある。
河合は「松井も食えよ・・」そう言って、うどんをどんぶりに入れ、そのまま、別の机の上にあった刻みネギと醤油をかけた。
松井は何がなにやら分からず、同じように真似をした。
割り箸でかき回して食う。
その瞬間、松井は驚いた表情になった。
驚いて麺を口に頬張ったまま、言葉が出ない。
美味いとかまずいとか言うのではなく、何か自分の知らない世界に足を踏み入れたような気になったのだ。
「これは・・うどんか?」
ようやく、うどんを飲み込んで、彼は河合の顔を見た。
「うどんじゃあ・・間違いはないがの・・」
河合はおかしくてたまらないと言う顔で答えた。
「どない?今日のは?」
奥からさっきから声だけだった女性が出てきた。
笑顔だが、そのまま農作業が出来るような格好だ。
「おう!まあまあじゃあ・・」
河合がそう答える。
松井は、言葉で表現の仕様がなく「すごい・・すごいですわ・・」と、同じことを3度も繰り返した。

田んぼの中を吹いてくる風が開け放しの窓から入ってくる。
「讃岐かぁ・・」
松井がポツリとつぶやいた。
「讃岐じゃあ・・」
河合もそう受ける。
「変な人らやね・・」
店の女性が屈託のない笑顔で見ている。

その日、遅く、自宅に帰った松井は、妻の顔を見るなり、こう言った。
「おい!わしは、わしはのう、うどん屋になるぞ!」
彼の妻は娘をあやしながら、きょとんとしている。
「うどんは、奥が深いぞ!貨車の入換よりも、組合の理念よりも、奥が深いぞ!」
上気した松井の顔は子供のように輝いていた。

羽衣秘話

この作品は8世紀頃の播磨の国、現在の加古川市東神吉町を舞台にしたフィクションであります。
時代考証などはあくまでも御伽噺として割り切った部分がありますので、ご了承くださればと思います。

******************

ハリマの国のカコの厩(後の宿場町)近く、厩からいくつかの小さな川筋を超えたところにイナヒトは住んでいた。
山の麓、洪水の心配のない段丘のうえに小さな集落があった。
カミキの村と人は呼ぶ。
イナヒトはこの村に生まれた時から住んでいた。
もうじき18歳になる。
彼はムラオサの子供だった。
そろそろ妻を娶らねばならぬが、あいにく村の中に彼に釣り合うような年頃の娘は居ない。

今は2月、春とは名ばかりの冷たい風が吹く中、野良仕事をしながら時折身体を休めて遠くを見る。
もう少し暖かくなったら、田植えをしなければならない。
今は、その為に田を耕さねばならないが、一度凍てついた地面は硬く、なかなか鍬が入らなかった。
村からは遠く海が見える。
海まではここから2里ほどである。
今日も良く晴れて輝く海面が眩しい。
沖には芥子粒のような船の姿もいくつか見える。
船のあたりが煙に覆われているようだ。

「海戦やな・・」
「うみいくさ?」
長老のマツバオがイナヒトの傍にやってきてそう呟く。
「ああ・・あれは・・ヤマトかナニワあたりへ行こうとしたものが海賊に襲われているのやろう・・」
海賊・・・そう聞いただけでなにやら恐ろしい鬼が迫ってくるような気がした。
「海賊に襲われたら、どうなるのや?」
「まずは・・皆殺しやろうな・・女なら,なぐさみものにするために生かしておくかも知れぬが、いずれ殺される・・」
「むごいなあ・・なんでそんなことを・・」
「船にもよるわい、魚釣船なら襲ったところでたいしたことはないわ・・襲われる船は、多分、新羅あたりからの使節やろうなあ・・」
「それは・・なんで、分かるのや?」
「よう見てみい・・船が何艘かつらなっとるやろ・・あれは船団を組んで遠くまで行くためなんや・・」
「何艘も連なるのやったら、やられるだけやのうて、やり返しもできるやろ・・」
「できるかい・・よう見てみんかい・・反対から突っかかっとるのが海賊や・・海賊の方が船も多いやろ・・」
「そんなん・・国司やヤマトの兵隊は追い払われへんのかいな・・」
「無理や・・あの感じやったら、海賊はイヨか、もしかしたらウサの、クマソの生き残りかも知れへん・・あんなんに勝てるかいな・・」
「クマソ・・怖いんか?」
「そらそうや・・ヤマトもクマソには手を焼いとるがな・・」
そう言いながら、マツバオは両こぶしを握り合わせ、祈り始めた。
イナヒトもつられて祈った。
少しでも船に乗っている人が助かりますように・・

翌日も良く晴れていた。
大体このあたりは一年を通じて晴れる日が多い。
晴れる日が多いのは良いが、時折、水が足らなくなる。
それで山の麓等に溜池をたくさん作ってあった。
イナヒトはムラオサである父に言われ、溜池の様子を見に緩やかな坂を登っていた。
振り向けば海が見え、彼はこの景色が好きで、時折振り向いては、海のほうを見ていた。
溜池は土手で囲まれ、坂を上り詰めないと様子はわからない。
草に埋もれて、きらりと光に反射するものがあった。
イナヒトはそれを手にとってみた。
彼が見たこともない、透明な珠で作った輪のようなものだった。
これは・・何をするモノやろう?・・不審に思いながら、彼は土手を上がり、池の水面が見えるところまで来た。
水嵩はまだしっかりしていた。
この池には山から僅かだが湧き水が流れるので、余程の日照りでもないと枯れることはないのだが、それでも数日に一度はこうして様子を見に来なければ何が起こるか分からない。
一度は池の中に鹿の死体があって、それがそのまま腐食し、水をすべて抜いて入れ替えたこともあった。

池の水面を見渡した彼は、水嵩に安心し、視線をやや池の端の方に移した。
「あ!」
彼は叫んで、次の瞬間、その方向に駆けていた。
そこは山の裾がそのまま池の護岸になっているような場所だった。
山から流れる水が小さな岸辺を作っていて、そこに馬が2頭、そして倒れている人が3人いた。
「大丈夫か!」
叫ぶと、馬が彼のほうを向いた。
倒れている人は見慣れない服装をしていた。
兵士のようだったが、イナヒトがこれまでに見た兵士とは着ているものが全く異なっていた。
「サラムサルリョジョ!」
一人の兵士は生きているようで、残った力で何かを必死で叫んでいる。
彼の背には大きく斬りつけられた跡があった。
血がたくさん流れ出ているようだった。
彼は何度も叫んでいるが、言葉は全く分からない。
「何が言いたのや!喋っている言葉がわからへんがな・・」
イナヒトは男の背を抱き上げながら、それでも男の言葉の意味を知ろうとした。
男はやがて、指をさして、その方向に何かがあることを悟らせようとした。
イナヒトは男の指す方向を見た。
赤い布をかぶせられて、何かがそこにあった。
男の体から手を離し、彼はその赤い布に近づいた。
見たこともない、美しい模様のはいった、軟らかな布だ。
布に手をかけ、中を見ようとした。
布はいきなり動いて、彼を驚かせた。
「サルリョジョ!サルリョジョ!」
女の声がして、布の反対側から髪の長い女が顔を出した。
恐怖におびえていた。
女も怪我をしているようだった。
紫に変色した唇、震えが止まらない身体・・
「怖がらんでええ!わしは何もせえへん!助けてやるから・・」
イナヒトは必死に説明しようとした。
彼は座り込んだまま、両手を広げ、大袈裟に大丈夫だと仕草で分かるようにしてみた。
女はようやく落ち着いて、身体を起こし、彼のほうを見た。

女の顔は青ざめている。
まだ2月だ。
昨夜からここに居たとすれば凍死するかも知れない。
凍死しなくても、間違いなく風病にかかるだろう・・
そうだ、まず火を起こしてやろう・・彼はそう考え、野焼きをするときの為に懐に入れていた火打石で火をおこした。
適当に枯れ枝を集め、火を少し大きくしてやり、女に手振で火に近づくように伝えた。
女はそれを理解したのか、何度も頭を下げて手のひらを合わせて彼を拝むようにした。
赤い着物は泥に汚れていて、すっかりはだけてしまい、着物としての用は成さなくなっていたが、女はその着物を布団のように被って、火に近づいた。
女は赤い着物の下にも、薄い色合いの、柔らかそうな着物を着ていた。

女を火にあたらせてから、先ほどの男を見ると、眠っているようだった。
イナヒトが男の身体を掴むと、その身体は既に冷たくなっていた。
もう一人、横たわっている男は肩を切り下げられたらしく、昨夜のうちに息絶えたものと思われた。
その男の周りに飛び散っている大量の血は既に黒くかたまっていた。

「何をしとるんや!」
イナヒトの父、ムラオサのイナオトだった。
池を見に出かけたイナヒトが何時までも帰らないので心配して見に来たようだ。
「そこに誰かおるのか?」
土手の上から叫んでいる。
「この女がまだ、生きてるんや・・」
イナヒトが叫ぶと、父は駆け寄ってきた。
「これは・・新羅の女人やないか・・」
「新羅?・・どこや?」
「・・海のずっと向こう・・そうやな・・船で一月ほどかかるところの国のお人や・・」
「父様・・なんで知ってるんや・・」
「わしは、若い頃、国司の役人やったさかいな・・」

風が冷たい。
イナオトは「しばし待っとれ!」と言い残して村へ戻った。
女は安心して気が緩んだのか、小刻みに震えていて、その震えが止まらないようだった。
「よし・・ワシがあっためてやろう・・」
イナヒトは女の身体を正面から抱きこんで、そのまま一緒に火にあたりながら、女をさすってやっていた。
女は震えが少し納まると涙を流し始めた。
何かを言おうとするが、やはり言葉はまったく分からない。
女や死んだ兵士が使ったであろう馬が2頭、所在なげに歩き回っている。

「イナヒト!」
父、イナオトが叫ぶ声が聞こえた。
火は殆ど消えかけていたが、女はイナヒトが体を抱きながら擦ってやった事もあって、すっかり落ち着いていた。
「厩の鍛冶職人や・・この男は新羅の言葉が判る・」
イナオトは職人風の男と、村の男女数人を連れてきていた。
「可哀想に・・これを飲んでや・・」
村の女の一人が、土器に入った飲み物を女に飲ませた。
女は飲み物を飲んで、また涙を流した。
とっておきの濁酒を飲ませたのだった。
「この女に、どこから来て、何があったか聞いてくれ・・」
イナオトが鍛冶職人にそう頼んだ。

新羅を出た遣日本使は、難波津までは船で行く。
厳冬期を避け、春の兆しが見えた頃、ようやく出発した船団は、順調に航海を続けていたが、播磨灘で海賊と出会ってしまった。
海賊の方は、その前から船団に目をつけてはいたが、近傍の海賊達と連絡を取り合い、それが集結したのが播磨灘だったわけだ。
海賊達の火攻めによる攻撃は船団をばらばらにした。
使節の乗った船は、真っ先に狙われ、放火、略奪、惨殺・・そして船は沈められたと言う。
女は新羅の高家の娘で、実は滅ぼされた百済の血をひいていた。

(ヤマトは白村江の戦で新羅に大敗してから朝鮮半島には不介入を決めていたが、この頃になると百済・任那の血をひくものは新羅の官僚としての出世を阻まれるようになってきていた。
百済の貴族だった女の実家は百済再興の夢をヤマトを頼って現実にしようとし、女はそのための貢物であったわけだ。
もちろん、新羅政府が送り出す使節に百済再興のための貢物を載せることなど出来ない・・そのため、百済再興の件は女の頭に記憶させるだけにして、只単にヤマトへの贈り物として船に乗せることに成功したのだ。)

何とか岸辺にたどり着いた女の乗った船から、全ての乗船者が陸地へ逃げ出したが、殆どが海賊達によって捕まった上、惨殺された。
かろうじて、女と彼女を守る兵士のみが囲いを抜け出し、逃げ切ることが出来たのだが、兵士二人は海賊との戦いで重傷を追っていた。
静かな池のほとりで、力尽きたのだった。

「国司に伝えんと・・」
イナオトがつぶやいた。
鍛冶職人がそれをそのまま女に訳して伝えている。
女は激しく首を横に振った。
国司の役人に連絡するのは止めて欲しいらしい・・
鍛冶職人は、少し困った表情でイナオトを見た。
「この村に居たいかどうか、聞いてくれ・・」
それを訳して伝えてやると女は頷いた。
「名前は・・?」
「テイヒ・・」
「テイヒか・・ここでは・・そうやな、おまえは遠い国・・天からやってきたことにしよう・・天からやってきたのやから、アマノヒメとでも名乗ってくれ・・」
イナオトはそう呟くと、イナヒトに声をかけた。
「これも縁やろ・・この女はおまえに預ける・・」
そう言って、今度は村の男たちにテイヒを守って死んだ兵士の死体を丁寧に葬るように指示を出した。
テイヒ改めアマノヒメは両手を合わせ、イナヒトを拝んだ。

イナヒトにとっては思いもかけないことだった。
彼は新たに家を作る必要に駆られた。
家といってもこの時代は竪穴式住居だ。
そしてその家は、村の者達が総出で作ってくれた。
イナヒトはアマノヒメと結婚した。
村の神に結婚を報告し、国司の役人には贈り物をしてごまかし、二人の結婚は成立した。
土地の言葉がまったく判らなかったアマノヒメは、人と会っては言葉を学び、おどろく速さで会話を身につけていった。

雨の日、二人は向かい合ってそれぞれに作業をしていた。
「ねえ・・イナヒトさん・・聞きたいこと、あるの・・」
アマノヒメが思いつめたようにイナヒトに語りかけた。
「なにや?」
「あたしが着ていた、着物・・どこにあるの?」
「着物?」
「そう・・あたしが助けて貰った時、着ていたの・・」
「ああ・・あれは・・どこにやったんやろう・・血が付いていたから・・片付けたのやけれど・・」
「探して欲しい・・あれがないと困ること、できる・・」
分かった・・イナヒトはそう答えながら、実はその着物は彼が両親の家に隠してあることを思い出した。
着物はハリマでは見られないような美しいものだったが、妻のアマノヒメがそれを見つけると故郷を懐かしんで、帰りたいと言い出さないか、それが心配だったのだ。
といっても、ハリマから海の遥か向こうの新羅などへ行ったことのあるものは居なかった。
遠くへ行くといっても、せいぜいアワジかアワ・・あるいはキビあたりが関の山で、役人にヤマトへ行ったことがあるものが居る程度だった。
新羅から流れてきた鍛冶職人はカコの厩に住んでいて商売をしていたけれど、彼はとうに故郷の国へ帰る気をなくしているようだった。
遠い国へはもう帰ることができるはずもなく、思い出させるだけ哀しみを増やすだけかもしれないと、これは彼の父、イナオトが言った言葉だった。

それからも時折、アマノヒメは着物の事を聞いた。
イナヒトはとぼけ続けていた。
やがて二人の間に子供が生まれた。
可愛い、丸々とした男の子だった。
イナマルと名づけられた。
イナマルは頭が良く、体も大きく、5歳頃には大人顔負けの弁舌をするようになっていった。

キビの国で反乱が起こったのはその頃だった。
山に隠れていたイズモの民が、失地回復を狙って、国府や町を攻撃したのだった。
ヤマトから大勢の兵隊がキビの国へ送られていくようになった。
カコの厩は毎日、兵隊達で賑わっていた。
そんなある日、立派な兵士がカミキの村にやってきた。
「ムラオサ・・お伺いしたいことがある・・」
イナオトは、兵士の身なりを見て、只者ではないと思い、丁重にもてなしていた。
「はい、私で分かることでしたら、何なりと・・・」
「わしは、ヤマトの天子様のご命令で、これから軍隊を率いてキビの国へ向かう途中であるが、どうしても知りたいことがあって、ここへ来させていただいたのだが・・」
「ほう・・天子様直々のご命令でございますが・・」
「うむ・・それで、訊きたいことというのはのう、6年程前、この近くで新羅の使節が乗った船が海賊に襲われた・・そのことはご存知かのう?」
「さて・・私どもは所詮、田舎者ゆえ、分かりかねますが・・」
兵士は、そうかと言ったまま、腕を組んで考え込んだ。
ややあって、口を開いた。
「実は、その船に、ワシの許婚が乗っておってのう・・もしやこのあたりに逃げ込んではおらぬかと・・そう思ったのだ。それにこの村に、異国からきた花嫁が居ると聞いてな・・」
「異国からきた花嫁でございますか・・」
「うむ・・居るであろう・・そのものに会わせてくれぬか・・」
異国からきた花嫁が居るということを兵士が聞いていたなら隠しとおせるものではない・・イナオトは一瞬、考え込んでしまった。
「はい、確かに、この村に異国からの花嫁は居りますが、今はそのものの夫と共に遠くへ狩りに行かせております。数日は帰らぬ見込みですので・・」
居ることは認めたけれども、狩りに行っていると嘘をついた。
時間を稼ぐしかない・・咄嗟の判断だった。
「狩りとな・・わしは、明日にはキビへ向けて発たねばならぬ・・」
兵士は心底残念そうに、溜息をついた。
「いや・・わしは何も、その花嫁がわしの探している女子だとしても、無理に連れて帰るようなことはしないつもりだ・・只、会って話がしたい・・」
兵士が嘘を言っているとは思えなかった。
けれども、イナオトは、嘘をつきとおすことに決めた。
「それならば、恐れ入りますが、ヤマトへの帰還の折に、今一度、お立ち寄りくだされば、いかがでしょうか?」
その言葉に、兵士はイナオトの顔をじっと見た。
「武士(モノノフ)たるもの、戦に行けば生きて帰れるかどうか・・分からぬではないか・・」
「それならば尚更のこと、必ず戦に勝って、生きてお帰りくださいませ・・その方が戦でも、力が出るかと思いますが・・」
そうか、そうよな・・兵士はそう言って、少し笑顔を見せた。
「折角でございます。酒肴もございますので、今宵はゆるりと、お休みください・・御伽の女人も呼んでおりますので・・」
「かたじけない・・されど、伽は要らぬ。酒だけ、存分に飲ませてくれればありがたい・・」
兵士は苦渋に満ちた表情でそう言ってから、ゆったりと座りなおした。

村の若い者に兵士の接待を言いつけてから、イナオトはイナヒトの家に出むいた。
「アマノヒメ・・アマノヒメは居るのか?」
小さな声でそう言いながら、薄暗い家の中に入っていった。
夫婦とも家に居た。
どうやら兵士がアマノヒメを探しているらしいとの噂で、家の中に隠れていたのだ。
「父様、やはりアマノヒメを探しとるんか?」
心配そうにイナオトが聴く。
「そうらしいのや・・アマノヒメ・・お前の許婚だといっているのや・・」
「許婚・・」イナヒトが絶句する。
「許婚・・それは違います。・・勝手に、父様が決めた。ヤマトに戦の加勢をしてもらうって・・」
アマノヒメは眠っている息子、イナマルの頭を擦りながら答えた。
「それは・・本当か?」
イナオトの声が厳しくなった。
「このままでは百済の人、新羅では奴婢と同じ・・だから、もう一度、百済の国を作りたいから・・」
ふう・・と溜息をつくイナオト、所在なげなイナヒト・・
「だから・・着物を返して欲しい・・着物に、ある・・その書状・・」
「着物?それだけで良いのか?相手はお前を許婚だと言っておる・・お前はその兵士の男に、会ったことはないんか?」
アマノヒメは無言だった。
「その男は、今宵は酒だけでよい、伽は要らぬと言うのや・・」
しばらく黙ったあと、アマノヒメは搾り出すように声を出した。
「会ったこと・・ある・・その人、使節の警備で新羅にきた・・」
「やはりな・・」
イナオトが考え込んでしまった。
「でも・・怖い人・・」
アマノヒメは声を震わせる。
「どういう怖さや・・?」
「なんとなく・・大きくて、声が大きい・・あたし、声が大きい人、怖い・・」
ふっ・・もういちど溜息をついたイナオトは「今日はここから出たらあかん・・あいつは戦のあとにまた立ち寄る。その時までに、心を決めるのや・・」
「心?」
「そうや・・お前がここにいるか、ヤマトへ行くか・・それを決めておくのや・・」
イナオトはそう言い捨てて竪穴式の質素な家を出た。
すぐに息子、イナヒトが追ってきて、父、イナオトを村のはずれへ手引きした。

村を見下ろす小高い場所には夕方の光が満ちていた。
タカミクラの神の山に夕日が沈む寸前だった。
イナヒトは、誰も回りにいないことを見渡し、イナオトを問い詰めた。
「父様、何で、アマノヒメが決めないかんのや・・」
父イナオトは、神の山を見ながらつぶやいた。
「お前にも、アマノヒメを諦めてもらわな、ならんかもな・・」
「父様、何でや?」
風が出てきた。遠くの海が輝いている。
「あの男は、アマノヒメに相当惚れてるのや・・見たらわかる・・」
「それが、どないしたのや・・・」
「あの男は、相当の官職にある。新羅までついていき、キビでの戦では兵隊をまとめる・・ヤマトでの地位は相当なものの筈や・・」
「わしらでは、その男には勝てんのか?」
「勝てるわけがない・・いや、勝とうと思えば勝てるやろう・・あかん、アマノヒメは渡さへん・・そういえば、あいつは諦めるやろ。そやけれど、ここは引いて、あの男に花を持たせたほうが、村の為かもしれん・・」
「アマノヒメは嫌がってるやないか・・」
「それはアマノヒメがあの男の真実を知らんからや・・わしは、相当の人間やと思った・・」
イナオトは人を見る目は確かだ。
イナオトがそう言うのだから、その兵士は多分立派な人間なのだろう・・けれども、イナヒトは自分の妻を兵士に渡す気にはなれなかった。
「父様・・わしは嫌や・・」
「アマノヒメは、ヤマトの都で華やかな生活をさせてやりたい・・わしは、今はそう思っているのやがな・・」
「嫌や・・嫌や・・」
イナヒトは地面にしゃがみこんで泣き始めた。
「一生この村に居て、田を耕し、子供を育てる女ではないと思うのやがな・・」
それだけ言うとイナオトは一人で村のほうへ向けて歩き始めた。
日が暮れかけた丘でイナヒトは何時までも泣き続けていた。

3ヶ月ほどした日の午後、カミキの村は突如、何千と言う兵隊に囲まれた。
異様な雰囲気になり、村の若い者も咄嗟に、イズモかクマソか・・そう思ってありったけの武器を取り出して、ムラオサの家の前に集まった。
しかし、村で唯一のきちんとした建築のムラオサの家では、ムラオサであるイナオトと、兵隊の指揮官のような人物が話をしていた。
「村の者を驚かせて申し訳ない、今宵はこのままカコの厩に兵を連れて行かねばならぬ・・兵は疲れておるがゆえ、早くヤマトへ戻さねばならぬ・・わしには時間がない・・約束どおり、異国からきた花嫁に会わせていただきたい」
「分かっております。ほんの少し、お待ちくださいませ・・」
イナオトはそう言い、兵士には休息の床机を与え、村の纏め役の女を呼んだ。
「アマノヒメをこれへ・・・かねてから申し付けてあるやろ・・そのとおりにしてや」
女は一瞬、驚き、戸惑う表情を見せたが、イナオトがきつく睨むと、腹を決めたように、走っていった。
アマノヒメは泣きながら、それでも、素直に纏め役の女に従ってついてきた。
「アマノヒメ・・これを・・」
イナオトは、自宅の奥からアマノヒメが助けられた時に着ていたふたつの着物を持ってきていた。
アマノヒメは兵士の前で跪き、その着物の赤い方の襟に手をかけた。
兵士はアマノヒメを見た瞬間、上気したような表情になった。
「おお!テイヒ!・・まさしく、テイヒではないか・・生きていてくれたか!」
アマノヒメは、少しだけ兵士の顔をみたが、一心に手に持った着物の襟元を解いていた。
村のものも、兵士の部下たちも遠巻きにしてみていた。
けれども、イナヒトだけはここに居なかった。
「これ・・これが・・あなたが・・要るもの・・」
アマノヒメは、兵士に皮で出来た書状のようなものを渡した。
兵士はそれを手にとって、一瞬、表情を厳しくし、けれどもすぐに書状を懐にしまいこみ、アマノヒメを見た。
アマノヒメは顔を兵士からそむけていた。
「これは、分かっている・・わしにはどうにも出来ぬ・・天子様が決めることだ・・」
兵士はそう呟いて、顔をそむけているアマノヒメに、意を決したように語り掛けた。
「わしの所へは来てくれぬか・・テイヒ・・」
アマノヒメは顔をそむけたまま、何も言わない。
やがて兵士は意を決したように立ち上がった。
「分かった・・お前にとっては今が幸せなのであろう・・」
そういい、あとの言葉を飲み込んで、身体の向きを変え、立ち去ろうとする。
「お待ちください!」
イナオトが叫ぶ。
「アマノヒメ・・テイヒを、あなたさまに、ヤマトへ連れて行って頂きます!」
兵士の男は一瞬、立ち止まった。
身体の向きは変えない。
「このものを、あなた様と共に、お連れ下さいますように・・」
今度は静かにイナオトは言った。
「良いのか・・それは本当に良いのか・・」
アマノヒメは何も言わないで、只、俯いている。
「テイヒ・・わしのところへ来てくれるのか・・」
兵士はようやくアマノヒメに向かい、優しく、静かにそう言った。
アマノヒメは軽く頷いて、それでも、顔を上げない。

「ムラオサ・・何か望みはあるか?」
兵士はイナオトにそう訊ねた。
「望みでございますか・・」
イナオトはさして気にせぬというような答え方をした。
「テイヒを助けていただき、これまでこの村に留めてくださり、しかも、わしに渡してくれた・・ひとつ、望みをかなえるように、ワシから国司に伝えるが・・」
「いえいえ・・別に何も望んではおりませぬ・・」
そう答えた時、子供が走って入ってきた。
「カカさま!カカさま!」
イナマルだった。
子供は泣きじゃくりながら、アマノヒメに抱きついてきた。
アマノヒメはイナマルを抱いた。
「お前の子か・・」
兵士が訊いた。
アマノヒメがきつくイナマルを抱きしめながら何度も頷く・・
兵士はしばらく呆然と母子を見つめていた。
やがて、大きく頷くと、大声でこう言った。
「わしは、この村のものに、最大の恩を授かった・・村のものよ・・礼は後程、沙汰する・・この子もわしが連れ帰り、都で役人になれるよう育て上げよう!皆のもの、わしが言ったことを覚えておいて欲しい・・」
兵士は宣言したあと、すぐに彼の軍に出発を命じた。
「ムラオサ!恩にきるぞ!」
アマノヒメとイナマルは彼の部下によって馬の背に乗せられ、そのまま連れられていった。
大勢の兵隊が一瞬にして去ってしまったあと、纏め役の女がイナオトに叫んだ。
「これで・・ええ筈、ないやんか・・」
女は大声で泣き喚いていた。
イナオトは女や、周りの村人を気にも留めず、去っていく軍馬を見送っていた。
・・これで、ええのや・・人にはそれぞれに相応しい場所があるのや・・
そう思った。

軍が川を渡るところにイナヒトは居た。
軍に立ち向かうかのように、彼は突っ立っていた。
「どけ!どかぬか!」
先頭の兵士が叫ぶ。
彼は、無視して立ち続けた。
怒った兵が、鉾を振り上げ、彼に迫ってきた。
「まって!」
軍の先頭から少し後ろに居たアマノヒメが叫んだ。
「止まれ!」
指揮官の兵士が叫ぶ。
軍は停止した。
「あたしの・・夫です!」
アマノヒメは兵士にそう叫んだ。
指揮官の兵士は馬を降り、前に進み出てイナヒトと向かい合った。
「お前が、テイヒを守ってくれた男か!」
イナヒトは、表情も変えず、礼もせず、兵士に向かってこう言った。
「テイヒではない・・今は、アマノヒメだ・・」
アマノヒメは愛する男を涙を流して見ている。
「そうか・・では、これから、テイヒではなく、アマノヒメと呼ぼう・・」
兵士はイナヒトの顔をみながら、軽く笑顔を見せた。
イナヒトは表情を変えず、兵士に向き合ったまま、叫んだ。
「兵隊さん!アマノヒメを頼む。息子のイナマルを頼む!」
「わかった。わしにはお前の気持ちがよく分かる。お前ほど立派なやつはいない・・いや、お前の村のもの、全てが立派で優しい・・」
イナヒトは初めて跪いた。
「男と男でよいではないか・・そのような礼は、お前とわしの間には似合わない・・」
優しく声をかけ、兵士はイナヒトの肩を抱き上げた。
「お前が愛する二人は、これからわしが命がけで守る・・それだけは信じてくれ・・」
二人は手を握り合った。
軍の他の兵士達は、指揮官が農民と手を握り合うのを見て不思議に思った。
けれども、それは声に出せない。
上官のすること、言うことは絶対なのだ。
「いくぞ!」
指揮官が叫び、兵士達は馬を、あるいは徒の者は自らを浅瀬に進ませた。
イナヒトは何も言えず、軍馬があげる水飛沫をみていた。
水飛沫で彼の目が霞んだように思った。
けれども、それは彼の涙だった。

村に残されたアマノヒメの着物はやがて、祠を作り、そこに祀られる事になった。
アマノヒメが去ってしばらくした頃、租税減免の通知が国司より知らされ、村の者達はアマノヒメに感謝の気持ちを抱いた。
やがて、それは天女が天から降りてきて、衣を村の樹に掛け、しばし村に滞在し、村を救った伝説として永く伝えられることになった。
この伝説は今も加古川市東神吉町天下原で伝えられ続けている。

夜景


島田和夫は仕事を終えた身体を引きずって日の暮れた三宮の町を歩いていた。
梅雨が明けたばかりのこの時期、昼間の灼熱の余韻がまだ都会のコンクリートには残り、けだるい不快感を醸し出していたし、商店などの明かりが消え、シャッターの下りた店先では、少年達が所構わずスケートボードを滑らせていて、黄色い歓声がアーケードにこだましていた。
疲れた身体を引きずって、郊外にある彼のマンションに帰れば、妻と高校生になったばかりの一人娘があった。

彼は大手写真問屋の営業所長だった。
この数年のデジタル化の嵐は彼の仕事に激変をもたらせた。
デジタルカメラの台頭は読めていた。
けれども、恐ろしいのがあの、カメラつき携帯電話だった。
カメラを使い、写真を写し、それを現像、プリントし、アルバムに貼ってもらえば、写真業界は安泰だったはずだ。
デジタルカメラになっても、フィルムの代わりに記録メディアは販売できるし、フィルムが不要になるということはカメラを使う人がより気軽にシャッターを押すということにつながり、それはプリント枚数の増加という形で業界に寄与するはずだった。
しかも、フィルムカメラからデジタルカメラへの買換え需要は大きな市場を形成し、彼の仕事の上でもプラスになるはずだった。
けれども、まさかのカメラつき携帯電話・・
これはデジタルカメラの普及を遅らせるばかりか、写真業界の重要顧客だった女子高生や女子大生からレンズつきフィルムの必要性をなくさせ、更にプリントなどしなくても、個別にメールで送るだけで充分楽しむことが出来る・・
恐ろしい商品は写真業界の全く知らないところで開発され、あっという間に消費者の手元に広がっていった。
大きな嵐を業界外部から受けた写真業界は喘いでいた。
和夫の取引先でも中堅どころの地元チェーン、甲南フォートが倒産し、彼の営業所は大きな影響を受けてしまった。

甲南フォートは神戸市内東部に10ほどの店舗を有していた。
最盛期にはどの店も客で溢れ、忙しさで手が足らない従業員達の鼻息は荒く、それでも、先代社長のしっかりとした方針の下、頻繁にセールを開催しては、さらに顧客を呼び込んでいた。
先代社長の突然の死は、求心力を失うかに見えた従業員達の一糸乱れぬ団結を呼び、代表を引き継いだ先代の息子によって一時は先代存命の時よりも店舗を増やし、売上を大幅にアップさせていた。
和夫はその様子を、危なげに見ていたことは確かだ。
先代社長は、息を抜くところを知っていた。
セールにも遊びの気持ちが必ず入っていた。
お客と女性アルバイトにじゃんけんをさせて、お客が勝てば半額などという冗談半分のセールなどは地域の話題をさらった。
写真の現像を出してくれたお客に、無償でインスタントラーメンを配ったり、年配のお客のところへは配達ルートを作ったりもしていた。
先代社長は戦力という言葉を使うことはなかった。
「お客さんが写真で使おうとしているお金を全部うちが貰う。それには、お客さんの心の中に飛び込むような仕事をしよう」
これが先代社長の口癖だった。

けれども、引き継いだ一人息子は徹頭徹尾、責めの経営を行なった。
営業戦略会議と称し、各店舗の責任者を集め、常に上昇思考で責任者達が自分を管理するように仕向けた。
精神的に社員を追い詰めることで営業成績を上げ、更には極端な能力給の実施で彼等同士がお互いをライバルとして認識し、他の者よりも一歩抜きん出るため、様々な店舗内での独自性を認めていった。
最初はそれでよかったのだ。
けれども、元々、地元住民との良い関係が、やんわりと売上に供するような業態である。
先鋭化した店舗責任者達は顧客に少しでも多くのものを売りつけようと、策に走ったのだ。
策に走るほどに、顧客と店スタッフとの冗談のような会話は影をひそめ、売らんかなのムードが各店舗に蔓延すると、顧客は少しずつ離れていった。
ちょうどその頃、大手全国チェーンの店が甲南フォートの地盤に進出してきた。
価格競争になれていない甲南フォートは、低価格競争への戦略を誤り、シェアだけを追っていた。
この頃から、従業員の給料もままならなくなっていた。
そして訪れたカメラつき携帯電話の時代・・女子大生が多い地域の店の営業成績が一気に低下したことから、会社全体に沈滞ムードが漂い始め、それから1年で倒産してしまった。
2代目社長は、会社の整理を決めたあと、心労から血を吐いて亡くなってしまった。

和夫は本社への報告書に今月もマイナスで書き込むしかない不甲斐なさを感じていた。
甲南フォートが廃業してからというもの、小さな店の廃業が続き、到底決められた予算など達成できるはずのない状況だったからだ・・
最も、和夫の営業所だけではなかった。
今や会社は青息吐息で、まだ、和夫の営業所よりも酷い所も幾つもあったのだ。

三宮の大型量販店の前を通り、彼は地下鉄の駅へ向かう。
今なら、まだ地下鉄から最終バスに接続できる時間帯だ・・
昨今の会社の不振ぶりに、タクシーを会社の経費で使うことも憚られ、彼の自前でタクシー代を出すにしても、彼の給料も大きく目減りをしている状態では、それもままならなかった。
量販店の建物は、すでに営業を終えた時間でひっそりとしていたけれども、派手な看板やネオンサイン、大きな垂れ幕・・その中にある「デジカメ買うならオーヤマ電子!」とのキャッチコピーがそこら中に溢れ出していた。
「こいつらのおかげで・・」
和夫は思わず恨み節を声に出したが、必ずしも、それだけではないのだと、自分に言い聞かせ、ビルの脇から地下鉄への階段を降りていった。

「島田さん!島田所長さん!」
女性の声が聞こえた。
振り向くとまだ少女といっても良いくらいの可愛い女性が立っていた。
「島田所長さん!お久しぶりです!」
「君は・・たしか・・」
「甲南フォート、東灘店の山名・・山名由紀子です!覚えておられませんか?」
思い出した。
甲南フォートでも1,2を争う店舗で何年かアルバイトを続けていた女性だった。
背が低く、童顔で、若く見られるけれど、実際はかなりの年だという噂を聞いたことがある。
由紀子は人懐こい性格で顧客から愛されていた。
和夫が時折、店を覗いた時でも、あどけない、裏表のない印象的な笑顔を見せる女性だった。

「思い出したよ。ユキちゃんって皆が言ってたよね・・で・・今、どうしているの?」
「覚えていてくださったのですか!嬉しいなあ!あたし、今、三宮のカメラ店にいるんです!」
由紀子は飛び上がりそうになりながら、嬉しくて仕方がないという表情をして見せた。
「三宮の・・何処のカメラ屋さん?」
「オダカメラです!」
地元の大手といわれるカメラ店だった。
和夫の取引先ではなかった。
それどころか、ライバル社の重要顧客だった。
「大きなところにいけたね!良かったじゃないか!」
由紀子が甲南フォート倒産後に、同じ業界の大手に勤めたことを、和夫は心底喜んだのだ。
「はい!」
由紀子はニコニコと笑っている。
「で・・今はアルバイト?それとも契約社員?」
「いえ!正社員なんです!」
「おお!それは本当に良かったなあ・・あそこは、今でも正社員を雇えるんだねえ・・」
「みんな正社員ですよ。女の子もみんなです・・」
ほう・・和夫は考え込んでしまった。
オダカメラも一時は経営危機が伝えられ、店舗の半分以上を閉めていたのだ。
「まえ・・少し前だけど、オダカメラさん、何店舗か閉めたことがあったけれどねえ・・」
「あ・・それは、当時の社長の方針で、危なくなる前に片付けようってことだったらしいですよ。そのときに、パートさんには辞めて貰って、正社員はあちらこちらの店へ振り分けたんですって・・」
「なるほどなあ・・オダさんの社長さんは賢かったわけだね・・」
「賢いかどうか知りませんけど・・でもとってもいい人ですよ」
ぺろっと舌を出しながら彼女はそう答えた。
和夫はそんな由紀子を可愛いと思った。
そういえば、甲南フォートで見るときには何時もエプロンをしていたから分からなかったけれど、気軽そうなTシャツと、身体にフィットするジーパンに身を包んだ彼女の姿は驚くほど、プロポーションが良かった。

「そうだ!ここで折角お会いしたんですから、ちょっと相談事を聞いて欲しいのですけど・・」
笑顔を少し硬くして由紀子は言った。
懇願するよう仕草もして見せた。
「なんだい?僕が聞いて意味があるようなことなら、何でもいいよ」
「嬉しい!」彼女はそう言ったかと思うと和夫の手を引いて歩き始めた。
「何処へ行くの?」
「ここでは申し訳ないですから・・そこの喫茶店でも・・いいですか?」
「ああ・・いいよ・・」
和夫には高校生の娘を思い浮かべていた。
まるで娘と話をしているような気分になったけれど、彼を誘う由紀子の全身からは、大人の女の香りがするような気もしていた。

「で・・相談って・・なんだい?」
深夜まで開いている喫茶店のゆったりとしたソファにもたれて、和夫は訊いた。
「いまの・・お店・・とても居心地がいいんですね」
由紀子はソファにもたれはしないで、背筋を伸ばして腰掛けていた。
「いいことじゃないか・・」
「そうなんです・・でも、あたし・・本当に申し訳ないのですけれど・・」
「だから何なんだい?」
アイスコーヒーが運ばれてきた。
和夫はシロップもミルクも入れずに、ストローも使わない。
由紀子はシロップをたっぷりと、ミルクも入れて、ストローでかき回している。
「ブラックがお好きなんですか?」
「ああ・・コーヒーに砂糖を入れると後味が悪くなるからね」
「島田さんて、やっぱり、大人ですよね」
「君も大人じゃないか・・」
由紀子はくすりと笑って「あたしが?大人?それは違いますよ・・本当に自分でも子供だって思ってしまうのですもの・・」と言う。
「で・・さっきの続きだ・・」
「あ・・すみません。本当に今の会社の社長さんや、専務さんにはお世話になっているし、甲南フォートに居た人たちにも、今みたいな立派なところに勤めているあたしが、こんなことを言えば叱られるとは思うのですけれど・・」
「だから、どうしたんだい?」
「あたし、撮影の仕事がしたいのです」
「撮影?」
「甲南フォートでは証明写真もありましたし、たまに、奥のスタジオで記念写真も撮影していましたよね。でも、今のお店には撮影の仕事が何もないのですよ・・」
和夫は由紀子が俯きながら言うのをじっと見ていた。
「撮影か・・カメラマンになりたいわけだね・・」
「そうなんです・・それで、誰かに相談しようって、ずっと思いつめていたら、さっき、島田さんに出会えたんですよ」
由紀子は俯いたまま黙ってしまった。
和夫も彼女を眺めながら、考えようとしていた。
考えなくても答えはすぐに出るのだ。
彼が本社に居た頃の取引先だった皐月スタジオに聞いてみれば、大きなスタジオだから、どこかのスタジオで一人や二人助手になる子を入れることくらい出来そうな気はしていた。
俯いた由紀子はまた、彼女が気がついていない香りを発散させているようだった。

「ユキちゃん、失礼なことを訊くけれど、今、幾つになったのかな?」
由紀子は顔を上げて、島田の顔をまっすぐに見た。
美しい、大きな瞳が少し輝いているように見える。
「24になりました」
「撮影はどの程度出来るのかな?」
「うーーん、ちょっとです。例えば・・」
「七五三とかくらいは・・」
「あの、甲南フォートでは店長について、撮影のときは助手をしていましたから・・」
「助手は出来るのかい?」
「少しなら・・でも、本当の助手がどんなものかはよく知らないのですけれど・・」
「わかったよ。でも、オダカメラはいつ退職するのかな?」
「それは・・撮影の仕事があって、それが決まってからでは遅いですか?」
遅くなんかはない・・そう言おうと思った。
ライバル社の取引先であるオダカメラから優秀な店員が一人いなくなっても、彼には何の義理もなかった。
むしろ、いい気味だと思うがそれは口に出せなかった。
「ユキちゃんにお願いがあるんだ・・」
「お願いですか?」
由紀子は怪訝な顔をした。
「今のユキちゃんの相談を僕は受けたよ。それでね・・その相談を他の人にはしないで欲しいと言うことと、僕が相談に乗っていると言うことは内緒にしていて欲しいんだ。もちろん、決まるまでの間だけね・・」
由紀子の表情が一気に明るくなった。
軽く頬に赤味もさしている。
「それから・・一つ、質問だけど、自宅から通えなければダメかな?」
「いいえ・・あたしは一人暮らしですし・・両親は四国ですし・・」
「四国?」
和夫が驚いた。
「四国から出てきて、甲南フォートに居たの?」
「いえ・・就職をしたんですけれど、うまく行かなくて・・すぐに辞めちゃったんですよ・・で・・アルバイト募集中の甲南フォートに・・」
「何年いたの?」
「4年近くです・・短大出てから、入った会社を3ヶ月で辞めましたから・・」
ふうん・・そう頷いて、彼はそれ以上の事は訊かないようにした。
「じゃあ、東京でもいいわけだ・・」
「はい!東京でも札幌でも構わないです!」
由紀子はきれいな笑顔を見せた。

翌日、和夫は早速、彼が東京の本社に居たときに取引のあった写真スタジオ「皐月スタジオ」の旧知の仲である専務に電話を入れた。
皐月スタジオは、東京オリンピックの時に東京で日本最初の高級シティホテルが出来た時から、そのホテルから請われてテナントに入った写真館で、その歴史は明治にまでさかのぼっていた。
和夫の依頼に、専務はちょっと答えに窮しながらも、そのチェーンホテルが神戸にもあり、そこに所用で来ることがあるので、そのときに面接をしようかといってくれた。
「いい人材ならいいんだけどねえ・・このところの不景気でうちも苦しいからなあ・・でも、島田さんの紹介だし・・」
専務はそういい残して電話を切った。
早速、由紀子に伝えてやろうと、彼女の携帯電話に電話を入れると、留守番電話になっていた。
あ・・仕事中か・・そう思い「島田です。ご都合のよろしい時に、折り返しお電話ください」とだけメッセージを入れた。

夕方、まだ営業所で書類の整理をしていたとき、由紀子から電話が入った。
「お電話ありがとうございました・・」
「ああ・・ユキちゃん・・ちょっと話があるから、あとで食事でもしようよ」
「え!お話ですか!何か、進展がありましたか?」
「それは会ってから話すよ」
「あ・・はい!」
待ち合わせを約束し、弾んだ声で彼女は電話を切った。
和夫は普段よりも少し気持ちが上ずっているのを自覚していたけれど、それが彼の中に芽生え始めたものだとはまだ、気がついてはいなかった。
若い女性に会う約束をすると、心が弾むものだなあ・・和夫はその程度の軽い気持ちで、事務所をあとにした。

阪急三宮駅北側の居酒屋に入った。
「島田さん!どんなお話なんですか?」
聞きたがる由紀子に「あとでゆっくり話すよ」そう言って笑う和夫は、自分が何でこんなにもったいぶるのかも不思議だった。
「お酒は飲めるの?」
「はい!いくらでも!」
由紀子は上機嫌で答えた。
生ビールのジョッキを合わせ、乾杯をする。
平日とあって、三宮の町はひっそりしていた。
「実はね・・東京に皐月スタジオってあるのだけれど・・」
「あ・・はい・・確か、ホテルオーサワに入っているスタジオですね」
「なんだ、知ってたのか?」
「いえ・・たまたま、求人情報誌にスタジオ・アシスタントの募集が出ていたのを見つけたんです」
「ああ・・そうなの・・で・・どうして応募しなかったの?」
「だって・・経験者優遇って書いてありましたし、あたし、経験者とまでは行かないし・・」
「自分のことはよく分かっているんだね」
「だって・・冷静に見つめないと、ダメだったら惨めじゃないですか・・」
そう呟きながら、彼女は遠慮なく出された串揚げを齧っている。
「そりゃそうだね・・」
「でも・・その皐月スタジオがどうしたんですか?」
「ああ・・実は皐月スタジオの専務さんが、昔からの知り合いでね・・君のことを話してみたんだ。ちょっと興味が沸いたらしくて、今度、専務さんが神戸のスタジオへ来られる時に面接をしてくれるそうなんだ」
由紀子の顔が見る見る赤くなっていった。
笑顔か泣き顔か分からないような複雑な表情を見せながら、目が潤んでいく。
両手で顔を覆い、彼女は涙が出てしまったようだった。
「どうしたの?」
和夫はさすがに心配になって訊いてみた。
由紀子は何も言わない。
言わないのではなく、いえないのだ。
「僕、何かしてはいけないことをしてしまったかな?」
彼女は首を横に振った。
「ちがうの・・」
かすかにそれだけ言った。
顔を覆ったそのままの姿勢で、由紀子はしばらくじっとしていた。
和夫はそれが、彼女が嬉しさのあまり、感情が押さえられなくなったのだと理解した。

しばらくして、ようやく彼女は顔を上げた。
「すみません・・あまりに嬉しかったものですから・・」
顔を上げた由紀子の目の回りはまだ赤く、少し腫れ上がっていた。
「いやいや・・いくら喜んでもらっても皐月スタジオに入社することが決まったわけではないからね・・面接を頑張ってよね」
由紀子はかすかに笑った。
「あたし・・これまで、一杯、夢を見てきたんですよ。でもね・・夢は見てはいけないんだって・・だって、あまりにも思ったことと反対のことばかりになるのですもの・・そう思っていたんですよ。でも、島田さんが現実に、私の願いを一つ聞いて下さったって・・それがすごく嬉しいんです」
「おやおや・・そんなに喜んでもらえたら、僕も嬉しいよ」
「あたし、面接、頑張ります!」
姿勢を正して彼女はそう言った。
そしてビールを飲み干して、追加を注文した。
「島田さんて・・お兄さんみたいですね」
まだ潤んでいる瞳で由紀子が言う。
「おいおい・・よせやい・・僕は45歳だぜ。お兄さんと言うよりお父さんだろう・・」
和夫はそう言って笑った。
「いいの・・あたしにとってはお兄さんです。優しくて頼りになるから・・」
喋りながら、由紀子は次のビールも飲み干していく。

酔った頭に、夏の蒸し暑さは苦しかった。
店を出た二人は、そのまま、方向も決めずに歩いていた。
「気持ちのよい風に当たりたいなあ・・」
和夫がそう言うと、由紀子は腕を組んできた。
「お兄さん・・海の近くにでも行きましょうか?」
おどけて答えてくれる。
数年、味わったことのない安堵感が和夫の心に満ちていた。
「海は遠いぞう!」
和夫が冗談っぽく応じる。
いかに海の近い神戸の町でも、三宮から海岸に出るには歩いて15分くらいはかかってしまう。
二人は、それでも酔った者同士の奇妙な連帯感からか、夜の町を南へと降りて行く。

「島田さん・・」
「なんだい?」
「あたし、撮影の仕事、できるかなあ?」
「出来ると思うよ・・何より撮影がしたいという気持ちで一歩先に進んでいるよ」
和夫は心底、そう思っていた。
仕事は世の中にたくさんある。
その中で、写真の仕事につく人はごく僅かだ。
その写真業界の中で、更に撮影と言う業種につく人は少ない。
撮影の仕事は労多く実りの少ない仕事ではある。
マスコミに登場する有名カメラマンのような人は、ほんの僅かで、残りの大半の人は夢を追い、夢と現実の狭間で格闘しながら、赤貧に甘んじていると言う方が正しいのかもしれない。
華やかな世界に見えて、実はその華やかさこそが、足元をすくわれる元だと言う部分は、似たようなほかの華やかな世界と同じだ。
「撮影の仕事に進むのは正しい選択ですか?」
由紀子が、甘えたような口調で訊いてくる。
すでに彼女は和夫の手を握り、もたれかかりながら歩いていた。
「今から先、DPE(現像・プリント・引伸ばし業務)やカメラ販売はますます厳しくなる。厳しくなっても、その先に光が見えればいいけれど、なかなか僕でもその光がいつ見えるか全く分からないんだ。そう言う面では、撮影の仕事だけはカメラやフィルムがデジタルに変わっても、残り続けると思う。将来のことを考えれば、しっかりした撮影の世界に入るのはとてもよい選択だと思う」
そう答えながら、けれども、和夫の営業所では撮影を主体にする店との関係を強化することが出来なかった・・そのことを彼は考えていた。
巨大な百貨店の趣向を凝らした外観が目に入ってきた。
ひと気のない交差点、明かりの消えたアーケードの前を中年男とその娘のような年頃の女の二人連れは、ゆっくりと歩いていく。
南京町の長安門が見える。
「あのね・・島田さん・・」
酔いが回ってきたのか、呂律が少し回らない口調で、由紀子は彼を責めるような表情をする。
「おや・・どうしたの?」
「あたしね!写真業界の今後とか、そんな話はどうでもいいのよ!あたしが知りたいのは、あたしと言う人間が撮影と言う世界に入ってもいいのかなってこと!」
由紀子は繋いでいた手を振り解き、和夫の正面で仁王立ちになった。
和夫は苦笑しながら答えた。
「いいよ・・多分。・・ユキちゃんがカメラマンになるってことはその世界にとって、すごく重要なことかもしれないよ!」
「どうして?」
「美人の女流カメラマン、一人誕生だよ!」
「いや!」
「どうして?」
「美人の女流ってのがいや!」
「美人を美人と言ってはいけないかな?」
「カメラマン山名由紀子になりたいの!」
ほう・・和夫は感心した。
これまでは小娘がと言う思いはあった。
だから、小娘の気まぐれの一つくらい、聞いてやっても悪くはないだろうとの思いもあった。
酔っているとはいえ、いや、酔っているからこそ、由紀子は本心で言っているのだと思う。

酔いが回ってきたかな・・小娘の言うことをマジで受け取ってしまっている俺がいるわい・・そう思った。
けれど、それは一瞬だった。
由紀子は解き放たれた鳥のように、自由に夜の町で自分を表現しているような気がした。

ようやく岸壁についた。
公園にも人は少なく、水銀灯の明かりが海に反射している。
船が見えるが動きはない。
波は黒く盛り上がっては、すうっと引き込まれるかのように下がっていく。
「島田さん!」
「なんだい?」
「あたし、いいよね!カメラマンの世界に入っていいよね!」
「何度同じことを訊くのかね?ダメな人間を大切な友人に紹介したりは出来ないだろう・・」
「本当にいいよね!」
「ああ・・面接も大丈夫だよ、きっと・・」
「島田さん!」
「なんだよ・・」
「お兄さんに、なってくれる?」
「ああ・・こんな年嵩のお兄さんでよければね!」
「本当?」
「本当だよ・・」
優しく、できるだけ優しく、そう言ってやった次の瞬間、由紀子は和夫に抱きついてきた。
和夫は一瞬、戸惑ったが、すぐに、彼女を抱きしめてやった。
「ありがとう・・ありがとう・・」
由紀子は和夫の腕の中で、泣きじゃくっていた。
和夫は、しばらくそのままの姿勢でいたけれど、泣く由紀子の顎を持って、自分のほうへ彼女の顔を向けた。
彼は由紀子の口元を見ながら、そのまま、唇を合わせた。

船の汽笛が聞こえる。
潮の香りがあたりを包んでいる。

翌日、彼のデスク傍の電話が鳴った。
「所長、東京の皐月スタジオの専務さんからです」
永年、ここで一緒に仕事をしている女性事務員が受話器を渡す。
「おお!島田さん!昨日の話だけどさ!」
「ああ・・専務、ありがとうございます。考えていただけましたか!」
由紀子の面接の件だ。
「うん、急なんだけどさ、明日、明後日と神戸のスタジオへ行く用事が出来たからさ・・その女の子、どちらかの日に会えないかな?」
「面接ですか?」
「そうだな・・面接の積りで来て頂いてもいいし、怖がるといけないから見学って形でもいいしさ・・」
和夫は昨日の由紀子の雰囲気から見て、一気に面接にまで持っていってやった方がよさそうだと思った。
「いや、もう、いきなり面接で・・頼みますよ」
「あ・・そう!面接でいいわけだね。じゃ、こっちも話が早いや!」
由紀子とは、昨夜、あの場所でしばらく抱擁しあっていた。
今もその感触が彼の中に残っていた。
出来れば、この状態でしばらく手元においておきたかった。
その思いが、言葉に出た。
「それでですね・・神戸のスタジオは空きはないのでしょうか?」
「神戸?勘弁してくれよ・・あそこは今の4人でも苦しいんだよ・・で・・千葉で欠員があるから、そこに入ってもらえればって思っているんだ」
「ああ・・もう、決まっているのですか・・」
「そりゃあ・・島田さんのご紹介じゃ断れねえだろう・・余程使い物にならない娘なら別として、島田さんの顔があるからさ、もう決まったも同然だよ」
「本人がどう言うか?」
「本人?スタジオに入れるなら文句はないだろう・・それとも、島田さん・・その子と何か有るのかい?」
「専務・・それはないですよ・・ただね・・ちょっと気になっただけで・・でも、もう決まっているのなら安心してお願いできますねえ・・」
心臓が飛び出すかと思ったとは、こういう事を言うのだろうか・・和夫は自分がおかしかった。
昨夜は小娘の気まぐれだよ・・そう自分に言い聞かせながら、適当に挨拶して電話を切った。
「千葉か・・」
思わずひとりごとが出る。
「千葉がどうかされましたか?」
女性事務員が怪訝な顔をして訊いてきたが「いや・・べつに・・」そう言って、彼はデスクの書類に目を通し始めた。
由紀子に伝えると喜ぶだろうなあ・・
そう言う単純な思いと、彼女の身体の感触が甦り、未練とが交叉する。
・・昨夜は服の上から、軽くまさぐっただけだった・・
窓の外を見ると、深い緑に覆われた六甲連山が見えた。
・・いちど、あの山から夜景でも眺めてみたいなあ・・彼は疲れている自分を感じていた。

大手のフィルムメーカーであり、業界の牽引力であった大日本フィルムが、突然、とんでもない発表をしたのは、それからまもなくだった。
これまでの5大特約店制度を廃止して、直販の販売専門会社を、既存の子会社を母体に発足させ、販売体制を一気に再編しようと言うものだった。
この話は噂には出ていたが、大日本フィルムの内部から情報が漏れだのだ。
リストラで、既にひどい目にあった社員達が、情報をインターネットの匿名掲示板に垂れ流してしまったのだ。
既に大手5大特約店と言われているうちの2社が、多額の負債を抱えていることも明るみになった。
急激なデジタル化の進展は、同時に他業種から、中でも家電業界からの総攻撃を受けた状態と重なり、写真用品の購買意欲の低下と共に、家電量販店や通販で販売されるデジタルカメラは写真業界の旨味を丸ごとさらっていったのだ。
カメラつき携帯電話は行き渡ったものの、それでは写真関係業種の売上は底を打たず、写真業界の苦戦は更にひどい状況になることは目に見えていた。
和夫の社は、その大手5大特約店の一角だった。
大日本フィルムの製品が売れなくなる・・
それは、会社の命脈が尽きる時を教えられたような気にさせてしまう。
「うちの会社から大日本フィルムさんの商品を外したら・・」
和夫の独り言に「売るものが何もない・・ですねえ・・」
女性事務員が勝手に答えた。
「所長!いっそのこと、たこ焼きでも売りましょうか!」
営業マンの一人がおどけて笑う。
「たこ焼きかぁ・・俺はスイカの方が好きやな!」
別の一人が応酬する。
冗談が飛び交う心の向こうは、既に冬の嵐だ。
「ああ・・所長!ラコー社がアナログカメラから撤退するそうです」
パソコンの画面を見ていた別の男が静かに言う。
・・カメラ業界7位か8位のラコー社が撤退したところで、うちの仕事に影響は少ないが・・写真業界全体に与えるインパクトは相当なものがあるだろうなあ・・
誰に言うでもなく、独り言のように喋る和夫の言葉に、営業所は静かになった。

冬の嵐は早そうだな・・季節は夏だと言うのに・・和夫は言葉を飲み込んだ。

数日を経ず、和夫の営業所は閉鎖が決まった。
大日本フィルムの商品を販売できない以上、会社がこれまでの経営規模で営業を継続できるわけがなかった。
大日本フィルムからは営業権買取と、一部若手営業マンの大日本フィルム子会社への移籍の話が出てきていた。
顧客である写真店、カメラ店からの問い合わせや不安の声は毎日、事務所の電話に届いていた。
ラコー社に続いて、カメラ5大メーカーの一つ、オルパス社もフィルムカメラからの撤退を表明した。
オルパス社の場合、ハイ・アマチュアやプロが愛用する膨大なカメラシステムが存在し、これの去就が注目されていたが、半年の猶予を経た後、全面撤退ということが決まった。

営業所の女性事務員には辞めて貰うしかない・・営業マン5人のうち、3人には退職を、2人には移籍をさせなければならない。
顧客を大日本フィルム子会社へスムーズに移さなければならない・・
「俺はどうなる・・」
そう考えたところで、和夫は今、目の前にある仕事の山を片付けることしか見ないようにしていた。
そんな時、電話が入り、事務員が彼を呼んだ。
電話を変わると、皐月スタジオの専務だった。
「ああ・・島田さん!この間はいい子を紹介してくれてありがとう!それでね・・彼女、東京の中野に叔母さんが住んでいるらしいので、しばらくそこに住ませて貰って、千葉のホテルのスタジオで働いてもらうことになったよ。中野から千葉までちょっと遠いけどさ、通えない距離じゃないし、ラッシュ時にはラッシュの反対向きだしさ・・」
「専務!お世話をおかけしました。せいぜい可愛がってやってください」
そう言いながら、折角つかんだ小鳥を逃す無念のようなものも沸いてきていた。
「いやあ・・お礼を言うのはこっちの方だよ・・あんなにしっかりした子は近頃では珍しいからね・・」
「おほめいただき恐縮です。ですが、まだ、実際に仕事を始めてから、もう一度、誉めてあげてください」
「ははは・・僕の目に狂いはないから、大丈夫だよ・・で、来月お盆明けから、こっちで頑張ってもらうことになったから・・ご報告まで・・」
「わざわざ、ご丁寧にありがとうございます」
「うん、それはそうと、島田さんの会社さあ・・どうなの?大丈夫なの?」
「うーん、大丈夫じゃ・・ないですよね。神戸は来月一杯で閉鎖ですよ・・」
「ああ・・そうなんだ・・それは大変だねえ・・島田さんはどうなるの?」
「私ですか?自分のことよりも、部下のことで頭が一杯で・・」
「ご苦労さんだね。でもさ、自分のこともしっかり考えないといけないよ・・奥さんと娘さんを悲しませないようにさ・・」
「そうですね・・いざとなったら、私も専務に頼りますから・・」
専務は大声で笑ってから「そのときは、何なりと言ってよ!」と言って電話を切った。
「俺はあんたに頼れないよ・・」独り言を言った。
「皐月スタジオさんに頼るのですか?」
事務員が不思議な顔をしていた。
「まさか・・」
「でも・・私もどなたかに、再就職を頼んでいただけませんか?」
「そうだなあ・・」
事務員にも夫と息子がいる。
彼らの今後の生活のことを会社が面倒を見ることができないのなら、俺が何とかしたい・・そう思ってはいる。
「いろいろ当たってみるよ・・」
そう言い捨て、和夫は得意先への事情説明に営業所を出て行った。

その日の夜、由紀子から和夫の携帯電話に電話があった。
和夫はまた帰宅が遅くなり、地下鉄の駅からの最終バスに乗れずに、数キロの道を歩いているところだった。
「島田所長さん!ありがとうございました!あたし、来月、お盆明けから皐月スタジオの千葉のホテルで働かせていただくことになりました!」
「ユキちゃん!良かったね!で・・・向こうにはいつ発つの?」
「お盆の前には、行くつもりです。向こうでも準備とか、色々あるし・・」
「そうか・・よかった。でね・・その前にでも、一度会いたいのだけれど・・」
「あ・・はい・・あたしもお礼をしなくちゃ・・」
「お礼なんて・・どうでもいいよ。一度、ゆっくりと会おうよ」
「わかりました・・でも・・しばらく忙しいのです。夏のセールの間、あたし、最後の仕事を頑張ることにしたので・・」
「わかった・・時間が空く日があったら、連絡をくれたらいいから・・」
由紀子は自分を避けているのだろうか・・
いや・・彼女から連絡をくれたのだから、避けてはいないだろうとも思う。
あの夜・・抱き合ったと言っても、夜の公園だ。
文字通り、抱き合っただけで、そこから先へは進めなかった。
だが、一度は本当に抱き合ってみたい・・彼女と夜を共にしたかった。
自分の年齢も、考えている。
只の夢想でしかないかもしれない・・それでも、その思いは強くなる。
「いや・・ここは・・落とし穴にはまってはダメだ・・ユキちゃんのために・・」
彼はそう言い聞かせながら、自宅への道を汗をかきながら歩いていた。

結局、由紀子は時間が調整できなかったらしく、やっと二人が会えたのは今から東京へ旅立つと言う日だった。
「本当に、夜行バスで行くの?」
待ち合わせの居酒屋に大きな荷物を持って現れた由紀子に、笑顔で和夫は問いかけた。
「だって・・荷物はあるし、乗り換えは辛いし、バスなら新幹線の半額でいけるんですもの・・」
和夫は苦笑しながら訊いた。
「バスは何時にでるの?」
「22時30分なんですよ・・」
今からなら3時間もない。
その3時間が、かけがえのない時間なのだ。そう思うことにした。
「でも・・本当に、島田所長さん、ありがとうございました・・」
「お礼はさ、向こうである程度頑張ってからでいいよ・・本当に頑張ってよね・・」
「はい!頑張ります!やっと、本当にしたい仕事につけるんですもの・・」
和夫は聞きながらビールのジョッキを空けた。
由紀子は今夜はあまり飲まない。
少しずつ飲んでいる感じだ。
「どうしたの?今日は飲まないの?」
由紀子は少し顔を赤らめて答えた。
「今からバスに乗るでしょ・・おしっこがしたくなったら・・困るじゃないですか・・」
「ああ・・でも、バスにトイレはあるだろう・・」
「島田さん・・夜行バスのトイレって、行くとすごく目立つんですよ・・」
「それなら、途中のサービスエリアもあるだろう・・」
「ええ・・そうですけど・・」
そう言って、悪戯っぽく和夫を睨んだ。
けれども彼女は積極的にジョッキを口に運ぶことはしなかった。
ジョッキには少し口をつけるだけで、あとは料理を食べる方に専念しているようだった。

「島田さんの会社、色々お聞きしていますけれど・・どうなっちゃうのですか?」
由紀子が話題を変えた。
あまり和夫が話したくない話題だった。
「うん・・神戸は今月一杯で閉めちゃうんだ・・」
「えー!ホントだったんですね。じゃ・・島田さんはどうされるのですか?」
「あまりまだ、考えていないんだ。今は、他の部下たちの今後を考えないといけないしね・・」
「でも・・島田さんもきちんと考えないと、奥さんが悲しまれるでしょ・・」
奥さんと言う言葉を出す由紀子が妻と同じような大人の女に見えた。
「うん・・まだ、表沙汰に出来ない話だけれど・・」
「ちょっとは考えておられるんですか?」
「うん・・実は、うちの子会社がチェーン展開しているDPEショップのオーナーをしないかと言われているんだ・・」
その話は現実になりつつあった。
会社からは退職金もある程度は出すという。
その退職金の一部を使って、DPEチェーンの店をどこかに出してはと、これは会社の上層部からいわれている話だ。
いまどきDPEなんてと思う。
けれども、最初から完全にデジタル・プリントショップとして完成した店を作り、コストを下げればある程度の波に乗れる自信はあった。
DPEの仕事は減るのは目に見えている。
だが、完全になくなりはしない・・
残るほうにかければ、彼の経験と感覚があればやっていける・・
だが、そのためには、これまでの顧客だった店のいくつかを敵に回すかもしれない・・それは彼にとっては苦渋の決断だった。
出来れば波風を立てず、隙間に入り込みたかったが、それは出来ない相談だった。
年老いた夫婦で経営し、デジタル化の波にも乗れていない前時代の遺物のような写真店は、彼が出なくともいずれ撤退せざるを得ないのだ。
「ええ!それじゃ、お店のオーナーになられるのですか!すごいですね!」
由紀子は飛び上がらんばかりに言う。
「おいおい、まだ決まったわけじゃないし、それに大きな声を出すと、誰が聞いているか分からないよ」
苦笑しながら、それでも、由紀子が喜んでくれたことで、新しい道への幾分かの安心感を持てたような気になった。
「すみません・・小さな声にします」
彼女は囁くように言って、悪戯っぽい笑顔を見せた。
「でも・・ユキちゃんに喜んでもらったから、踏ん切りがついたよ」
「よかったー!島田さんも、新しい人生の始まりですね!」
小さな声にすると言っていたすぐそのあとで、彼女はまた弾んだ声で言う。
和夫は一瞬、由紀子の胸元を見ながら、そこを開けてみたい衝動に駆られた。
服の上からの感触は、びっくりするほど豊かで、張りのあるふくらみが、そこにあることを確信させていた。
けれども、それは幻想でしかないのだ・・
「どうされたのですか?島田さん、黙ってしまって」
「あ・・いや・・何でもないよ・・」
時間は思うよりはるかに早く過ぎていく。

二人はJRの高架下にある小さなバスターミナルヘ向かった。
時刻はもう10時半近い。
居酒屋で思わず長居をしてしまった。
高架下のバス乗り場には、見慣れない塗装の大型バスが止まっていた。
フロントに「新宿」と書いてあった。
「ありがとうございました!あたし、頑張りますね!」
「ああ・・僕も頑張るし、お互い、張り切っていこうね!」
礼を言って、バスに乗ろうとする由紀子の肩を和夫は、突然、後ろから掴んだ。
「君を見送るのは辛いんだ・・」
由紀子は肩を掴まれたまま、俯いていたが、ややあってから振り向いた。
「島田さん・・ありがとうございました。あたしにとって、お兄さんでいてください。お願いします」
和夫は手を離して「すまない」と詫びた。
「いいえ・・ありがとうございます。でも、その方がずっといい感じでいられると思うんです」
「そうだよね・・僕は自分を強く持つよ」
「じゃ!行きますね!」
そう言ったかと思うと由紀子は、バスの入り口めがけて駆けていった。
運転士にチケットを見せ、彼女は振り向いて和夫に手を振った。
そしてそのまま、バスの中へ消えていった。
和夫はしばらくその場所に立っていた。
バスの窓にはカーテンが引かれ、車内の様子は窺い知ることが出来ない。
やがて、新宿行きの、関東の電鉄会社のバスはゆっくりと発車した。
高架下の車庫から、直角に道路に出る。和夫は、待合所向かいの道路からバスを見送った。
一番後ろの窓のカーテンが開いていた。
見ると、そこから由紀子が笑顔で手を振っていた。
和夫も手を振り返した。
バスはそのまま先の交差点を左折し、すぐに見えなくなってしまった。

今からすぐに地下鉄に乗れば、彼の自宅への最終路線バスに間に合う。
彼は地下鉄への道を歩き始めたが、走っているタクシーを見て考えが変わった。
財布に3万円くらいはあるだろう・・
そう思うと、彼はタクシーを止めた。
「すまん、神戸の夜景を山の上から眺めたいんだ。往復してくれるかな?」
「夜景ですか?」
運転士は怪訝な顔をして言う。
「そうだ・・何処でもいい、見終わったら、また三宮に帰ってくれれば、それでいいんだ」
「分かりました・・天覧台でいいですか?」
「天覧台?」
「六甲山上ですよ」
「何処でもいい、そこがよければ、そこでいいよ」
タクシーは神戸の町を東へ走り始めた。
「お客さん・・何かあったのですか?」
「何か?」
「ええ・・お気に触りましたら、ごめんなさい・・一人で夜景を見に行かれる方って・・その・・失恋した女の子とか、そう言う人が多いんで・・」
「ああ・・・そうだな・・言ってしまおうか・・女に逃げられたんだよ・・」
運転士はちらりと後ろを見て「了解です・・最高の夜景をご覧いただきましょう・・」そういって、スピードを上げた。

由紀子の乗ったバスは空いていた。
バスの車内は独立した座席が3列に並んでいたが、その半分も埋まっていなかった。
最後尾の座席で、シートを倒し、横に人がいないのを良いことに、カーテンを少し開けて外の景色を眺めていた。
景色とはいっても、高速道路の防音壁越しに町の明かりが少し見えるだけだ。
バスが名神高速に入ってまもなく、速度は落ちて、やがて停まってしまった。
渋滞に飲み込まれたようだが、そのまま、1時間ほどバスは動かなかった。
由紀子は和夫との、先ほどまでのやり取りを思い起こしていた。
・・島田さんも、男の嫌いな部分をもっている・・そう思った。
彼と飲んだあの夜、由紀子はわざと彼に甘えて見せた。
別に酔っているわけではなかった。
由紀子は父親を中学生に時に亡くしていた。
だから、大人の男性に知らず知らずに甘えてしまうのだったけれど、男たちは例外なく、甘えてきた彼女を女として扱った。
彼女が心を許して、男たちの前で、甘えると男たちは大抵、その彼女を自分のものにしようとした。
それは、4年近く彼女が勤めていた、甲南フォートの店長も同じだった。
店長は仕事が終わると、彼女を自分のアパートに呼び込もうとし、実際に、彼女は何度も、彼のアパートへ連れて行かれた。
断るに断れない雰囲気のようなものがあったのだ。

けれども、和夫がこれまでの男たちと例外的に違うのは、下心は持っていたけれど、それを彼も押さえようと努力していた点だった。
和夫は彼女を抱擁したけれど、その日も、それ以上には誘ってこなかった。
今日も、一瞬だけ彼女を不快にさせたけれど、彼女がたしなめると彼はすぐに手を引いた。
両肩には彼の手で掴まれた感触が残っていた・・それは、今は不快なものではなくなっていた。
・・東京では、気をつけないと・・あたしは、どうしてこんなに弱いのだろう・・
冷房が程よく効いた車内で、由紀子は久々に味わうゆったりした時間を楽しんでいた。
やがて、バスはゆっくりと動き始めた。
停まっては動きを、それから30分ほど繰り返し、バスは本来の速度を取り戻した。
由紀子はカーテンを閉め、少し眠ろうと思った。

天覧台の展望台に上がった和夫は思わず歓声を上げた。
それは夜景などと言う生易しいものではなかった。
巨大な光の生き物が、地面一杯に広がっているように思えた。
大きな光の渦は、そのまま彼に迫ってきそうだった。
「どうです?ここはいいでしょう・・」
運転士が煙草をくゆらせながら、自慢げに言う。
「素晴らしいなあ・・言葉がないとはこのことだね・・」
「関東の方から来られたのですか?」
「いや・・関東の人間だけど、もう6年も神戸に住んでいるよ」
「六甲の夜景は初めてですか・・」
「そうなんだ・・いつか見てみたいと思いながら、忙しくて見る機会がなかったんだ・・」
和夫は驚いた気持ちをゆっくりと整え、光の中にある真実を見極めようと思った。
さすがに山上で、蒸し暑い都心とは違い、涼しい風が吹いていた。
小さな光が、無数に集まって、巨大な銀河を形成している。
その小さな光は、庶民の家だったり、道路の街灯だったり、商店や会社の看板だったりした。
あの一つ一つの小さな光の中に、それぞれに物語がある・・例えば、俺と由紀子のように・・あるいは俺や、妻や娘のそれぞれが、小さな光ひとつの中で自分の人生を生きているように・・
無数の光の集合体は無数の人生の集合体だ。
俺がいくら頑張っても、その光の渦から逃れるすべはないのだ・・
つまりは、それが俺と言う、あるいはそれぞれの人々の命の輝きのようなものだ・・

やろう・・もう一度、全力で、生きて小さな光を一つ、この中につくってやろう・・
そう思った。
道は開けているはずだ・・自分を信じてやってみよう・・
かれは、ここで由紀子にその決意を聞かせたいと思ったけれど、すぐに首を振り、その考えを打ち消した。
「小娘・・また会える気がするよ・・君に教えられたことは大きかったような気がする・・」
和夫は夜景に向かってつぶやいた。

由紀子の乗ったバスは快調に走っていた。
1時間半ほどの遅れは出ているはずだが、バスは、快調に、そして坦々と走っていた。
道路工事でもしているのか、ひどく乗り心地が悪いところがあった。
突き上げ、しゃくりあげるような乗り心地で、由紀子はうたた寝から醒めた。
「何処だろう・・」
そう思って窓のカーテンを開けた。
「あ・・」
歓声が大きな声となって出そうなのを、彼女は堪えた。
彼女の目の前に広がっているのは、夜明けにまだ時間がかかる、空の色がほんの少し青みを帯びたその空の下・・町の明かりに囲まれたさして大きくない湖だった。
「銀の湖・・」
小さな声で彼女はつぶやいた。
高速道路の遥か下、湖は水面を鏡のように輝かせていた。
それは光が反射するような輝きではなく、湖自体が自分の意思で生きていることを示しているかのような、鈍い輝き方だった。
バスは、お構いなしに、高速を飛ばしているけれど、湖の景色はしばらく続いた。
・・もしかしたら、この湖には湖の神様がいるのかもしれない・・
あまりの神秘さに、彼女はそう感じた。
この時刻は、湖の神様と、空の神様がお互いに話をしているような気がする・・
しゃくりあげるような乗り心地は続いた。
自分が少なくとも、神様には守ってもらっているような気がした。
手のひらを合わせ、彼女は湖に向かって祈った。
「どうか、どうか、島田さんのお店が成功しますように、そして、あたしの人生が、いい人生でありますように・・」

心の奥にあるもの


この作品は、少しは鉄道と関係のある人生を生きている僕にとっての、尼崎脱線事故へのレクイエムです。
公開することにためらいはあるのですが、鉄道の安全を願い、亡くなられた方々へのご冥福をお祈りするとともに、事故により様々な影響を受けられた全ての方々の一日も早い回復を祈念し、あえて公開させていだくくことにしました。

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4月25日 
美奈子は勤め先の神戸メリケンパークにあるホテルに居た。
彼女の仕事は、このホテルでの介添係だ。
46歳、和服を着ると、もともと美しい彼女だが、それでも一層華やかな風が彼女の周りを舞うようだ。
和服とは言っても派手なものではない。
あくまでも接客のための、萌黄色の特に派手な柄もない色無地の、ホテルの制服の一種ではある。

今日は月曜日だが、婚礼が一件だけあった。
理髪店を営む家同士の婚礼で、月曜日でないと家族も、親族も仕事関係者も集まることの出来ない人たちだった。
花嫁はまだ二十歳すぎたばかりの初々しさ、新郎は背の高い、おしゃれな青年だった。
美奈子は今、花嫁を案内して、写真室に送り込んだところだった。
しばらく、ここで待っていれば撮影はすぐに終了するだろう・・

写真室前の通路に、大きな窓から外の明るい光が差し込んでいる。
普段はじっと待機している彼女だったけれど、今日の婚礼はこれ1件だけ、平日とあって、ホテルの中も閑散としていた。
美奈子は、明かりに誘われるように、窓辺に近づいた。
海が輝いている。
風はあまりないようだ。

クルーズ船が係留されているその脇をタグボートが小波を立てて進んでいく。
海・・どうしてか、海を見ると懐かしい思いがする。
優しい、暖かさがとてつもなくいとおしく、子供の頃に帰ったような気がする。
けれども、彼女にはある程度から以前の幼少の記憶がないのだ。
出生地は神奈川県であることは知っていたけれど、それは知識としてだけで、実際にその町の記憶は彼女にはなかった。
ただ、海、それも港の景色を見ると、何故だかとても懐かしく思えるあたりに自分自身でも分からない不思議なポイントがあるような気がしていた。

新郎新婦の撮影には結構手間取っているようだった。
まだ写真室の扉は開かない。
海の輝き、そして、係留されているクルーズ船の窓が陽の光を反射したそのとき、心の奥で何かが沈んでいくような恐怖感が襲ってきた。
何だろう・・そう思うまもなく、恐怖感は苦しみに、そして得体の知れない大きな哀しさに変わっていく。
窓の外は明るい港の景色・・
怖くなり、哀しくなるようなものは何も存在しない。
「どうしたのかしら・・」
小さな声で独り言を呟いてみる。
心臓の底が抜けたような、足元が抜けたような、宙に立つような不思議な気持ちになる。
哀しくて、涙がまさに流れ出るそのとき、写真室の扉が開いた。
「お疲れ様でございました。行ってらっしゃいませ」
写真室の助手の男性が元気よく、新郎新婦を送り出している。
「お疲れ様でございましたわね・・それではお控え室に参りましょう・・」
美奈子は姿勢を正し、きちんとお辞儀をして二人を誘う。
涙は流れる時を失ったようだ。

美奈子は今朝の婚礼の開始時間が早く、朝7時にはホテルに出勤していたので、婚礼が終了した午後3時には退社時刻となった。
ロッカールームで、和服を脱ぎ、いつもの長い目のスカートとブラウスに着替え、さっぱりとした風で、彼女はホテルの従業員出口から外に出た。
「おつかれさん!」ちょうど料飲部の部長が入れ違いに入ってくるところだった。
「お先に失礼しますわね・・」
美奈子が軽く礼をし、出ようとすると部長は立ち止まってこう言った。
「えらい事故があったね・・知らない?」
「ええ・・」
「尼崎で大事故だよ・・」
大事故・・胸騒ぎがした。

元町駅からの電車はひどく遅れていた。
それでも、彼女は数分待って電車に乗り込んで、自宅を目指した。
町を抜けると海が見える。
やはり哀しさが少し湧き上がってくる。
「宝塚線事故のため、電車に遅れが出ております。誠に申し訳ございません」
車掌のアナウンスが時折流れる。
事故という言葉を聞く度に胸の奥が抜けたような気持ちになる。
彼女の自宅は、塩屋駅から山の手に10分ほど歩いたところの小さなマンションだ。
美奈子には、お見合いで結婚した三つ年上の夫と一人の娘があった。
夫は小さな商社に勤めており、娘、美香は大学生になっていた。
「まだ、誰も帰っていないでしょうね・・」
そう思い、自宅の扉を開けた。
明かりをつけ、何気なくテレビのスイッチを入れる。
購入したばかりの、大き目のテレビの画面に、くしゃくしゃになった電車が映し出されていた。
「あ・・この電車・・」
美奈子はその画面を見つめた。
涙が溢れ出る。
自分でもなぜかわからない。
くしゃくしゃになった銀色の車体、忙しく動き回る大勢の人々、いくつもの電車が線路を外れ、重なっているようにも見える。
「これ、なに?・・・」
自分でも思いもよらぬ感情が湧き出る。
胸が痛い。
今朝の事故は彼女にとって知らない町での話だ。
けれども、彼女は、この映像を見たことがある・・
銀の電車・・違う・・銀ではなく、しろっぽい車体・・いや、白だけでもなく濃い色もあった・・ツートンカラーのスマートな電車・・
彼女の頭の中で何か開けてはいけない扉が開けられていくような、そしてそれは入っていってはいけない世界のような気がした。
美奈子はテレビの前に座り込んで、声を上げて泣きはじめた。
涙が止まらない。
自分が何故泣くのかが、よく分からない。
「助けて・・助けてあげて・・」
嗚咽が止まらない。

しばらくして扉が開く音がし、娘の美香が返ってきた。
「お母さん!どうしたの?」
美香は、泣いている彼女を見て驚いている。
「だめ・・だめ・・・助けてあげて・・」
泣きじゃくる美奈子の前のテレビ画面では繰り返し、電車の脱線事故の映像が流れている。

夕食の用意は娘の美香がした。
美奈子はあのまま寝込んでしまった。
時折、すすり泣く声が聞こえる。
「どうして、自分と関係のない事故が、あんなに悲しいのだろう・・」
美香には理解できなかった。
リビングのテレビは消してしまった。
変わりに、穏やかなフォークソングのCDが流れている。
美奈子の好きな歌手で、少しでも母の心を楽にさせようと、美香がそうした。

夫の雄二が帰ってきた。
彼はクルマでの通勤で、電車は使っていない。
「今日の電車の事故、すごいことになったなあ・・」
そう言いながらリビングに入ってきた雄二に、美香は静かにというしぐさをして見せた。
「どうしたんだい?」
声をひそめて雄二が訊く。
「お母さん、あの事故の報道を見てから変なの・・」
「何でだろう・・・知り合いの人が乗ってたのかな?」
「そうじゃないみたいよ・・」

夕食の支度が出来たので、美香は母が寝ている部屋を覗いた。
美奈子は布団の上に座っていた。
「お母さん、もう大丈夫?」
美香の問いに美奈子は軽く頷く。
「じゃあ・・ご飯にしようか・・」
「ありがとう・・音楽まで流してもらって、すっかり気持ちが落ち着いたわ」
「よかった・・」
美奈子は案外、毅然と立ち上がり、リビングへ入っていった。
「どうしたんだい?何かあったの?」
雄二が訊く。
「おかえりなさい・・もう大丈夫よ・・だけど・・」
「だけど?」
「そうね・・テレビをつけてくれる?」
美香が慌てて遮った。
「お母さん、今はまだ、見ないほうが良いの・・」
「もう大丈夫だから・・」
雄二がテレビのリモコンを操作した。画面に明かりがともる。
バラエティ番組が流れている。
「ニュースにして」
美奈子の言うままに、雄二はこの時間にニュースをしているNHKに変えた。
電車事故の映像が流れている。

昼間にヘリから撮影したらしい上空からの映像・・
建物に張り付くようになって、折れ曲がっている銀色の車体。その脇に大破した別の車体。
いくつもの電車が、模型の箱をひっくり返したようになって、散らばっている。
「あたしね・・この映像と同じような映像を、ずっと昔に見たような気がするの・・」
「この映像・・」
雄二が少し好奇心を掻き立てられたようだった。
美香は母がまた泣き出さないか、気が気ではない。
「電車は銀色ではなかったわ・・スマートな、白と、何か濃い色の電車・・」
「なにか、そういう写真をどこかで見ただけなのではないかい?」
雄二が訊く。
「うううん・・それが、あたしにはどうもすごく、辛い映像だったように思うの」
「辛い映像・・」雄二が腕を組んで考え始めた。

「ご飯食べようよ!折角作ったんだからさ・・」
美香が話題を遮るように、テーブルに食事を並べ始めた。
雄二の手元においていたテレビのリモコンを取って、さっとチャンネルを変えてしまった。
「美香ちゃん、あとでインターネットで調べてくれないかな?」
美奈子は落ち着いた口調で美香に訊く。
「何を調べるの?」
「だからさ・・昔にあった電車の事故・・」
美香は返事に困り、そのまま食事を始めた。
家族三人の言葉のない食事になった。
テレビにはお笑い芸人の馬鹿笑いだけが映っていた。

食事の後片付けをして、美香は自分の部屋に入った。
母、美奈子もついて入ってきた。
「本当に見るの?」
母は頷いた。きれいな瞳をしている。
パソコンのスイッチを入れ、立ち上がったパソコンでインターネットに接続し、検索欄に「電車 事故」と打ち込んだ。
項目はいろいろ出てくる。
もう、今日の記事が出ているものもある。
けれども、的を得ない。
「鉄道事故としたらどうかしら・・」横から美奈子が口をはさむ。
「鉄道 事故」と打ち込んでみた。
鉄道事故史のようなページがたくさん出てくる。
そのうちの一つを開けてみた。
「三河島事故」「桜木町事故」「八高線事故」「鶴見事故」
「事故が多かったのねえ・・」美香が思わず溜息をつきながら、その画面を見ている。
再度、検索欄に「三河島事故」と打ち込んでみた。
ヒットした記事がこれも多い。
そのうちの最初の方の一つを開けてみた。
「あ・・」美奈子が声を出す。
モノクロ写真で、濃い色の電車が折り重なり、あるいは線路から大きくはみ出した上空からの写真が出てきた。
「これ?」
美香が美奈子に訊く。
「こんな感じよ・・かすかに覚えているの・・でも・・」
「でも?」
「電車がもっとスマートなの・・」
続いて検索エンジンに「鶴見事故」と打ち込んでみた。
やはり、たくさんのページが出てくる。
一つのページを開けた。
「あ・・これ・・」
電車が折り重なり、先ほどの写真と似た写真だが、電車の車体がツートンカラーになっている。
モノクロだから色は分からない。
「この写真・・もっと大きく見たい・・」
美奈子の求めに他のページを開ける。
画面いっぱいの事故の写真と、詳しい解説が出ていた。
そのページには、他の角度から撮影した様々な写真が詳しく出ていた。
美奈子は食い入るように見つめている。
「昭和38年11月9日、21時50分、東海道線、鶴見・新子安間で貨物線を走行中の貨物列車が突然脱線し、となりの東海道線上り線を支障した。折り悪く、上りの普通電車がこれに接触、先頭車両がちょうど通りがかった下り普通電車に突っ込んだ」
そのページの解説はその先、詳細に渡り、破壊された電車の様々な角度からの写真も添えられている。
美奈子も美香も食い入るようにパソコンの画面を見つめている。

「鶴見・・鶴見って・・・」美奈子は呆然とした表情で美香に聞いた。
「横浜みたいね・・お母さん、神奈川でしょ・・生まれたの」
「うん・・でも・・住んでいたのは・・鎌倉の方だったらしい」
「お母さんが五歳の頃ね・・」
五歳、鎌倉、横浜・・鶴見・・ツートンカラーの電車・・
美奈子の頭の中で何かが回り始めた。
「東海道線を走行していた下り横須賀線電車・・意味がわからない・・」美香がパソコンの画面に向かってつぶやく。

「何してるの・・何か分かったかい?」
雄二が様子を見に来た。
「お父さん、東海道線を走行していた下り横須賀線電車って・・」
「ああ・・お父さんが高校の頃までは、東海道線と横須賀線が同じ線路を走っていたんだ」
そう雄二が答えて二人の後ろからパソコンの画面を見つめた。
雄二も神奈川の出身だった。大学を卒業し、神戸で就職した。一人暮らしで頑張っている雄二に上司が勧めたお見合いの相手が美奈子だったのだ。
回りのほとんどが関西弁を使う中で、同じイントネーションで喋ることの出来る美奈子を、雄二は一目で気に入ったものだ。
「これ、昔のスカ線電車じゃないか・・」
「知ってるの?」
「ああ・・子供の頃に見たことがあるなあ・・これは・・鶴見事故か・・大きな事故があったそうだよ」
スカ線?横須賀線?鎌倉?鶴見?横浜?
美奈子の頭の中で、回り始めた何かは、少しずつ、その回転を大きくしていくようだった。
「ありがとう・・あたし、気分が悪いから、先に休むわね」
美奈子はそう言って美香の部屋を出て、夫婦の寝室へ入った。
頭がくらくらする。頭の芯が痛い。胸の奥に、穴があいたような気がする。
横須賀線、鶴見、鎌倉・・

4月27日
美奈子はあれ以来、出てきたキーワードを手がかりに記憶を探ろうとするけれども、どうも先に進めないで居た。
進めないというよりも、進みたくない美奈子の本能がそうさせるのかもしれなかった。
彼女は知りたかった。
誰でも、40代後半にもなると幼少の頃の記憶はあいまいになってくる。
だから、彼女も5歳以前の記憶がないことが不思議ではなかったけれど、他の人はもう少し小さな頃の記憶がおぼろげながらにはあるようだった。
自分の消えた記憶の場所へ・・そこへ入り込んでいくのには勇気の居ることだった。
けれども、電車事故の映像を見て、どうして自分の心に悲しみが湧きあがってきたのか、いや、それ以前に、あの日の仕事中、どうして悲しい気持ちになってしまったか・・
また、どうして、港の海が輝く景色を見ると妙な懐かしさを覚えるのか、そのあたりのことが知りたかった。

今日は休みだ。
思い余った彼女は、今は東灘区で暮らしている彼女の母親に電話をしてみた。
「どうしたの?私のことはもう忘れたかと思っていたよ」
母の、ちくりと刺す嫌味も、それほど気にせず、美奈子は訊いた。
「お母さん、あたし、五歳の頃、何があったの?」
「どうしてそんなことを訊くの?」
「この間ね・・電車の事故があったでしょう・・あの事故のニュースで、なんだかとても悲しくて怖くなったの・・」
「ほう・・それはどうしてだろうね」
「でね・・そのときのニュースの映像が、昔にも見たことがあるような気がして、美香に調べてもらったのよ・・」
母は黙って聞いている。
「鶴見事故・・横須賀線電車の事故らしいのだけど、このときの写真が見たことがある気がして仕方がないの」
母はまだ黙っている。
「昭和38年11月・・何があったの?」
「思い出してしまったかい・・」
やっと母が搾り出すように言う。
「思い出すも何も、悲しくて怖いだけ、何がなんだか分からない」
「おまえの、お父さんが亡くなった日だよ」
「お父さんが?」
「そう・・鶴見の事故で亡くなったんだ」
「病気だって言ってたじゃない」
「おまえが、お父さんが帰らないといって泣きじゃくってね・・遠くの病院に居ることにしたんだよ」

母、鈴江は明日にでも、家に来て、全部話してあげるからと、電話を一方的に切った。
「お父さんが亡くなった日・・」
美奈子は、そう聞かされても判然としない。
何も思い出さないのだ。
電車の事故で亡くなったのなら、そう言ってくれれば良いじゃないの・・彼女の心に残ったものはそれだけだった。
父の顔は覚えていない。
写真が僅かに残るけれども、それは自分にとって知らない人だった。

テレビニュースで事故で亡くなった人の数が100人を超えたという報道がされた。
彼女の胸の奥がぐっと痛くなった。

4月28日

美奈子の母、鈴江は美奈子が今日は出勤だったので夜にやってきた。
70歳を超え、一人暮らしをしているが、新興宗教に凝っていて、結構にぎやかに暮らしている。
美奈子は母の賑やかさが、疎ましくもあり、仏典だ経典だとの話を聞かされるのも嫌で、自分の母ながら、あまり頻繁に行き来をしているわけではない。
雄二・美香もある面では鈴江を疎ましく思ってはいるけれど、宗教の勧誘以外ではお人よしの、孫をやたら可愛がる、良いおばあちゃんには違いなく、ある面では鈴江が来るのを心待ちにしている部分もあった。
みなが揃って食事をする、そのとき、美奈子が切り出した。
「おばあちゃん、教えて・・」
美奈子は美香が居る前では鈴江を「おばあちゃん」と呼ぶ。
「ご飯が美味しくなくなるから・・あとで・・」
「大丈夫・・ちゃんと聞けるから、今教えてよ」
「おいおい、おばあちゃんの言うとおりだ・・あとにしようよ」
雄二もそう言ったけれど、美奈子は譲らない
「早く聞きたいの!」
「仕方がないわね・・」

美奈子の父、昌平は、東京、日本橋近くの小さな商事会社で働いていた。
昌平の仕事はいつも手一杯で帰りが遅く、帰宅をするのに、東京駅で毎日9時過ぎの電車に乗るのがやっとだった。
それでも、娘を、妻を愛した昌平は、休みの日にはよく港へ海の景色を見せに家族を連れ立って出かけていた。

その日も昌平は帰宅が遅くなった。
時折乗る時間の電車に乗った。
座っていたのか、立っていたのか、何処に乗っていたのか、全く分からない。
けれども、間違いなく昌平はあの電車に乗って、自宅を目指していた。

横須賀線で事故があったことを知った鈴江は、帰宅しない夫の安否をあちらこちら尋ねたけれども、友人のところにも、会社にも、もちろん居るわけがなかった。
翌日、警察から知らされ、現場近くの寺院に遺体を見に行った。
大勢の遺体の中に、彼女の夫の変わり果てた姿があった。
まだ5歳だった娘、美奈子は、親戚に面倒を見てもらっていたが、父親が帰らず、母親もまた出かけていったまま、周囲の異様な雰囲気から、泣いてやまなかった。
結局、父親は遠くで病院に入っているということにして、そのまま自然に受け入れるように周囲が決めたのだったが、たまたまその家にやってきた近所の男性が、新聞の写真を美奈子に見せて「お父さん、これで亡くなったんだね」と言ったことがきっかけとなり、美奈子はその新聞を離さず、しばらく凝視したあと、火がついたように泣き出した。
彼女にとって、父の乗る横須賀線は、何処の電車よりえらい電車だった。
色も茶色ではなく、白とブルーの塗りわけで、東京という大きな町へ仕事に行く父のようなえらい人をたくさん乗せる電車だった。
その横須賀線に乗って、父が亡くなった・・五歳といえど、頭の回転の速く、機転が効く少女には、厳しすぎる現実だった。
美奈子はその日から1週間以上、高熱を発して寝込んでしまった。
やっと起きて、ものが言えるようになったとき、すこし、性格が変わってしまったように、鈴江は感じた。
事故の記憶はきれいに消え去り、それは少女が生きるための本能だったかもしれない。
人はあまりにも辛い記憶は消すことが出来るという・・
少女の父は病気で亡くなった事になった。

「思い出したかい?」
話し終わった後、鈴江が美奈子に訊いた。
「うううん・・でも、少しは分かったわ・・」
「それは・・辛いことでしたね・・」
雄二が鈴江に同情するように言う。
「辛いといってもねえ・・辛さを感じることも、泣きたくなっても泣く暇もなかったからね。それからは必死だったよ・・」
鈴江が屈託ない表情でそう言う。
美香が泣いていた。
「どうしたの?」
美奈子が尋ねる。
「お母さんとおばあちゃんが可哀想・・」
泣きながら美香がつぶやいた。
「いいのよ・・私はそのことがきっかけで、今の生き方を見つけたんだから・・」
鈴江の宗教の話が始まった。

6月10日

美奈子は東京駅に居た。
あれから甦るかに見えた幼少の記憶はかえって遠ざかり、事故の映像を見ても、胸の痛みは日に日に小さくなっているように感じた。
なぜか、彼女は、その記憶を取り戻したかった。
そこで、横須賀線に乗って、どういうものか引っかかる横浜の町へ行ってみようと思い立ったのだ。
けれども、婚礼シーズンの真っ只中でチーフである彼女が、関東への旅行をする時間を生み出すのには思いのほかに時間がかかってしまった。
新幹線で東京に行き、横須賀線で横浜に行く。出来ればその後、自分が生まれ育った鎌倉の町を見てみたいと思った。
日帰りで出来ない旅行ではなかったけれど、慌しい時間の流れの中では、何かを見つけ出せるかどうかは分からなかった。
美香も雄二も付き合ってくれるということだったけれど、彼女は自分ひとりで行ってみたかった。
自分の心と、何かをぶつけてみたかった。

東京駅で新幹線を降りたときは既に昼前になっていた。
美奈子は忙しそうな駅員に聞いた。
「横須賀線で横浜に行きたいのですが・・」
駅員は気もせくという感じで、早口でこたえた。
「横浜なら、湘南電車・・東海道線が速いです、7番8番乗り場へどうぞ」
「いえ、あの、横須賀線で行きたいのですけれど・・」
「横須賀線・・戸塚の方ですか?」
「ええ・・」
戸塚がどこか知らなかったけれど、彼女はそう答えた。
「じゃあ、地下の総武線横須賀線乗り場へどうぞ・・」
「地下ですか?」
「ええ・・何か?」
駅員は不思議そうな表情をしたまま、そっぽを向いてしまった。
人込みの中で美奈子は地下への道を探した。

通路を歩き、エスカレータを乗り継ぎ、地下鉄の駅のようなプラットホームについた。
しばらくしてやってきた逗子行き電車の銀色の車体や、中ほどの2階建ての車両を見ても何も感慨が湧かない。
電車に乗り込んでみたものの、長いシートが壁にそって置かれているだけの、普通の電車の車内からは、彼女が小さな頃にえらい電車だと思っていたという面影は全く湧かなかった。
美奈子はドアのところで立って、外の景色を見ることにした。

電車は地下を走る。
やがて地上に出て、品川駅に停車し、電車は速度を上げる。
新川崎という駅に停車した。
ここまでの窓の外は新幹線の線路やら、普通の住宅地やらで、やはり何の感慨も沸かない。
新川崎を出た電車は、次が横浜だという。
カーブを曲がる感触、たくさんの線路が入り乱れる鉄道の風景、すれ違う様々な色の電車・・
そのとき、一瞬だけ、胸が痛くなった。
「ここ?」
そう思ったものの、慌しい走り方をする電車の車窓からの眺めは、すぐに胸の痛みを薄くしてしまう。
あっという間に電車は横浜駅に着いてしまった。
鶴見がどこかほとんど分からなかった。
けれども、多分、ほんの一瞬だけ胸が痛くなったあたりのような気がした。

仕方がなく、美奈子は改札を出た。
出るときに、脇の窓口に居た駅員に横浜港への道を尋ねた。
「横浜港ですか・・港のどのあたりへいかれますか?」
「公園かそう言うものがあるところ・・」
父が彼女を連れてよく港の公園で遊ばせたという話を思い出した。
「じゃあ、山下公園ですかね?」
「さあ・・」
「だったら、その先の、みなとみらい線で、元町・中華街駅で降りたら分かりますけれど」
彼女は礼を言って駅員が指差した方向へ向かう。
表示に従って階段を下りる。
渋谷方面と書いてあるのが違和感を覚える。
全く知らない外国を歩くようだ。

銀色の、いかにも都会の電車という感じの電車に乗って、終点で下車した。
「元町・中華街」という、聞きなれない駅名・・
人の流れに沿い、山下公園の表示のあるほうへ向かう。
長い通路を歩き、ようやく外に出た。
潮の香りがする。
蒸し暑く、けれども軟らかい風が吹いている。
観光客らしい人の群れについて、歩いていく。
潮の香りが強くなった。
目の前に、いかにも海辺の公園という感じの公園が現れた。

道路を横断し、平日なのに人がたくさん居るその公園に入っていった。
海がある。港が有る。
大きな船が係留されている。
神戸港を良く見ている彼女でも見たことのない大きな客船だ。
岸壁の、柵にもたれかかり、ぼんやりと白くかすむ空の下、やわらかい光をはねかえす波を眺める。
白い、きれいな客船が沖に浮かんでいる。
小さなボートが勢いよくその前を横切る。

潮の香り、海の風・・
涙が突然出てきた。
公園の芝のうえで走り回る自分が居る。
小さな小さな、4,5歳ころの自分がはしゃいでいる。
父と母が、おろおろしながら見守ってくれる。
大きな船がゆっくりと動いているのを見て、「ふね!ふね!」と叫ぶ。
母が作ってくれたおにぎりを頬張る
父は屈託なく、芝生に座り込んで笑っている。
「お父さん!」
叫んだ。
海は穏やかで、蒸し暑さも軟らかい風が流してくれる。
父の顔がはっきりと瞼に浮かんだ。
笑顔だった。
横須賀線の電車の駅から出てくる父の姿・・
母と、よく駅まで父を迎えに行ったことまで思い返される。
涙でかすんだ美奈子の目には、横浜港の景色が優しかった。

酔歌


今日も呑んだわ・・ちょっとお客がうるさくてね・・
なんだか身体中に今日のお客の臭いがしみ付いている気がするのよ・・
それにしても寒いわ・・
これで、酔いが醒めたらもっと寒くなるんだろうね・・嫌だね・・

あたし?
そこのスナックのねえちゃんよ・・
え?OLに見えた?
そりゃ良かったわ・・なんでいいのか良く分からないけどさ・・
関東弁やねって・・だって、生まれは埼玉よ。
学校はトーキョーの女子高!それから短大ね。
一旦就職したんだけどさ、なんだかうまく行かなくてね・・
普通の商事会社だったんだけど、そこの上司が変なおやじでね・・
あの目・・今思い出してもぞっとするわ・・・
「きみ、今日は色っぽいね・・・彼氏といいことあったの?」
ああああ・・やだやだ。
職場の飲み会で、酔った振りして思い切り股を蹴り上げてやったのよ。
まるで犬が逃げるときみたい・・キャンキャン言いながら、隅っこで怖がってたわ。

そしたらさ、仕返しだよね・・神戸へ転勤を命じるってさ・・
「女の子は転勤がなかったはずですよね」って人事に喧嘩腰で乗り込んでやったの。
「いや、そんなことはない。君は優秀な人材で、神戸支社の方で欲しがっているのだ」
スケベおやじと仕事する気にもなれないし、ま、神戸もいいかって思って、来てみたらさ・・
うそばっかり・・その支社で誰もあたしのこと、本社から連れてこようとした人なんかいなかったわ・・
会社の雰囲気って、本社がダメなら支社も同じね。

あたしって、その頃からよく呑む方だったのよね。
で、歓迎会されて、ちょっといい気分になってたらさ・・
あたしが酔ってるって思ったんだろうね・・支社のおっさん・・「送ってあげる」って言いながら、一緒にアパートの近くまで来たらさ、公園の影でいきなり抱きついてくるんだよ・・
びっくりしてね・・
「止めて下さい!」って叫んだらさ、なんて言ったと思う?
「バージンか?」だってよ・・
もう、情けなくて、馬鹿馬鹿しくて、思い切り殴りとばしてやったんだ。
そしたらその男、鼻血出してね「俺に逆らうと、会社に居辛くなるぞ!」
もう、ダメ・・そいつも思い切り股ぐら、蹴りこんでやった。
泣いたよ・・大のオトコガさ・・
あたし・・・次の日、電話で辞めるって叫んでやったわよ。
そりゃ、悔しいけどさ・・
何でこっちが、辞めなきゃいけないのって思うけどさ・・
辞めて良かったんだよ・・・あの会社・・
きっと社長からしてスケベおやじばかりなんだよ・・きっとそうだよ。

あ・・それで?
何で今の仕事してるかって?
あまり込み入ったこと、聞かないでよ。
別にドラマみたいな恋愛の話もないわ。

ちょっと、煙草くれる?
ふう・・
おいしいね。
どうも今夜は呑みすぎちゃったのかな?
酔いが醒めないわ。
今日は風が少し強いわね。波が随分立ってるみたい・・
夜の海って、本当に黒よね。
黒よ、黒。
水が真っ黒なのよね。
夜の空って、黒いって思ってたけれど、海に比べたら明るいものね・・
あたし、埼玉でしょ。
だから、あまり海って見たことなかったのよね。
千葉のほうへ海水浴とか、東京のお台場とか、横浜とか行ったことあるけどさ、海の傍で暮らすの、初めてなんだよね。
埼玉へ帰らなかったのも、海から離れたくなかったからって・・気持ちが大きかったな。

え?
あたしの親?
心配してるよ。
でも・・いいじゃない、いずれ帰るかも知んないし・・
ここにもスケベおやじはいたけど、海があるだけマシだったかな・・トーキョーよりさ・・
あたしってね・・見た感じ、どう思う?
うん、そうなのよね・・自分で言うのもヘンだけど、スタイルには自信あるんだ。
しかも酒飲みときてるでしょ・・だからさ、すぐに「出来る女」って思われちゃうみたいなんだ。
え?酒飲みが何が出来るって・・あなた、ウブねえ・・
それとも酔ってらっしゃるのかしら?
可愛い人だわ・・この人。
あら・・可愛いって言われて照れてるのかしら・・

あたし・・嫌なのよね。
愛がないのって・・・愛がないのにやっちゃうのってさ・・
信じられないの。
自分の上に乗っかる人が、自分を愛してないって・・考えただけで寒気がするわ。
男の人は、平気なんだよね。
平気で出来ちゃうんだよね。
それって・・哀しいよね・・哀しすぎるよね・・
でも・・
本当、寒くなってきたね。

ほら・・あそこ・・船の横、明かりがついてるね。
今何時?3時になっちゃったかな・・
もう、漁師さんの出る時間なのよね。
えらいよね・・真っ暗なうちから寒い寒い海の上で仕事をするんだよ。
冷暖房完備で、ネクタイ締めて、戯言ばかり言ってる仕事と違うよね。
憧れるな・・男の世界の仕事って・・
あら・・ごめんなさい、あなたもネクタイしてたわね。
あなたが悪いのじゃなくてよ・・あたしのいた会社のようなところにいる男たちのことよ・・

ちょっと寒すぎるわね。
いいもの出してあげる。
ほら・・ポケットウィスキー
よくお父さんが呑んでいたな。
家族で遊園地に行くでしょ・・必ず、お父さん、ズボンのポケットにこれを入れて、ちびちび呑むんだよ・・おかしいよね・・
そうだね・・今思えば、しがない男のみみっちい楽しみかな?
あたし、その頃はお父さんが汚らしくて大嫌いだったよ。
ちびちびしてるのも嫌いだったな・・
でもねえ・・駅の売店でこれを見つけたとき、お父さんを思い出しちゃってさ、思わず買っちゃったんだ。
あたし、やっぱり変な女だよね・・
ふつう、女の子がこんなの買わないよね・・
でもさ・・これ、便利なんだよね・・何処にでも持っていけるしさ・・

どうぞ・・いいじゃない、お互い酔っているんだし、そのまま口飲みしなよ。
あら・・それだけでいいの?
じゃ、貸して・・
ああ!おいしい!
お酒って、どうしてこんなに美味しいんだろうね!
いくらでも飲めちゃう・・
ん?
なに?
あたしの顔に何かついてるかしら?
え?
お酒、飲んでる顔が・・きれいなの?
変なことを言う人ね・・もしかして・・あなたも下心があるの?
だいたいそう言うことを言う男って、下心むんむんって感じよね・・
誉めて誉めて褒め上げておいて、隙間を狙って、抱きついてきたりさ・・
ま・・・あなたなら別にいいけど・・だって、少しは、あたしに愛があるでしょ・・
たった今、出会ったばかりでもさ・・
うんって、頷いているじゃない・・変な人ね。

あら・・・出て行く船があるわ・・
きれいね・・勇ましいね・・
今の時代でもあんな仕事をしている人がいるんだよね。
いいなあ・・あたし、今度生まれ変われたら、男に生まれて漁師になりたいなあ・・
・・なによ・・随分なことを言ってくれるじゃない・・今でも充分、漁師くらいは出来そうだって・・
でもねえ・・女でも雇ってくれるなら、それもいいかもね・・
辛いこと、たくさんあるんだろうな・・
仕事ってさ、何でも見ているよりはしんどいものね・・

ちょっと歩こうか・・
砂浜って歩きにくいよね。
ハイヒールなんて誰が考えたんだろう?
こんなに歩きにくいもの・・
ちょっと手をとって欲しいの・・なかなか進まないね・・
夜の波・・白いね。
怖いぐらいに白いね。
黒い海が、どうして白い波を作れるのだろうね・・
変だと思わない?
海も空も黒なのよ・・変よね・・ゼッタイ・・
あ・・そういえば・・この真っ黒な空が朝になると赤くなって青くなる・・これって変じゃない?
ね・・笑ってばかりいないで、何か答えてよ。
へ?可愛いって・・あたしが?
今のあたし、可愛いの?
じゃ・・今の感じを覚えていて、いいオトコをゲットしようか!
あたしの言ういいオトコ?
うーん・・まず、スケベおやじじゃないこと・・それからお金を持ってること・・それからあたしだけを愛してくれること・・
それさえ叶えば禿げでもデブでもいいけどさ・・
それから考えれば、あなたって、男前よね。
お金持ってないか・・そりゃダメだ・・お金がなくて苦労するの、嫌だもん。

夜・・もう明け方ね。
こんな時間でも船がたくさん通るんだね。
何処へ行くんだろう?
みんな何処へ行くんだろう・・
そういえばさ・・あたし・・何処へ行くんだろうね・・
あたし・・何がしたいんだろうね?
あたし・・本当に何してるんだろう?
何で生まれてきたの?
何で、生きてるの?
教えてよ!

なんだか哀しくなってきた。
あたし・・何してんだろう?
お店のママさんはいい人よ。
すごくいい人よ・・でも・・ずっとこのままかな?
あたし・・ずっとこのままかな?
なんだか怖くなってきちゃった・・
酔ってないわよ・・酔ってなんかないわよ・・絶対、酔ってないんだからね!
でも・・哀しいの・・あたし・・何処へ行けばいいの?
教えてよ・・立ち竦んでないで教えてよ・・
ごめんなさい・・
ちょっと変だよね・・
あたしのこと・・嫌いになった?
嫌いになったでしょ・・・素直に言ってよ・・
ね・・嫌いになったって・・言ってよ・・

そうして、そんな戸惑うような目をするの?
ねえ・・
あたし・・何処へ行けばいいの?
ねえ・・
さむいね・・さむいね・・
お酒飲んでもちっとも暖まらないよ・・さむいね・・

あたしに春が来るって思う?
え?
「春は待つものではなくて掴むものだ・・」
いい事を言うわね。誰かえらい人の言葉?
ちがうの?
へえ・・あなたって、苦労してるのね・・
あなたは、いま、自分を信じて頑張っているんだね。
あたしだって頑張っているよ・・一生懸命だよ・・
でもね、でもね、哀しいの・・
これ以上、どれだけ頑張るってことをすれば春が来るの?
おしえて・・お願い・・

***************

おはよう!
ゆうべね・・夢を見たのよ。
あなたと出会った寒い夜の夢・・
あなたの言葉もわたしの言葉もそのままでね・・
まるで映画を見ているようだったわ・・
今日はきれいな光がたくさんあるね・・
朝日って・・本当にきれいね・・

ブルートレイン

僕は巨大なターミナルの隅で空を眺めていた。
ホームの端に立ち尽くし、暮れてしまった空を眺めていた。
通勤列車の長い編成が、家路につく乗客を満載して、車窓からの明かりも眩しく走り去っていく。
子供のころ、ここで親父から借りたカメラを使って、特急列車の写真を何度も撮ったことがあったな・・・
あのころは何も知らず、何でも出来ると思い込んでいたし、何より幸せだった・・
無邪気な頃が懐かしく、何故、人は大人になると無邪気ではいられないのだろうかなどと、意味のない思いが頭をよぎる。
複々線を並んでライトを照らし、競うように特急列車と快速電車が入線してきた。
出る列車、入る列車の窓は明るく、車内は暖かそうだ。

あの頃のように、また電車でも好きになろうか・・
めまぐるしく変化した自分の生き方に、半ば嘲笑を覚えているぐらいだ。
新天地とは言っても、何か全く新しい全てが待っているわけではないさ・・
・・ただ違うのは僕にとって、この町は故郷であり、これまで永く住んだ町ではあるけれど、次の町は全く知らない、ただ・・シゴトという生きるためのものに引きずられるだけのことだ。
ピークを過ぎているとはいえ、夜のラッシュ時の余韻がまだ残り、ホームの中ほどは人で混雑していた。
だが、僕のいるホームの端は、明かりも少なく、人もおらず、後ろからかすかに喧騒が聞こえるだけの、置き去りにされたかのような空間だ。

この町に言いたいことは山ほどある。
この町の人への未練もある。
もしも、僕がこの町に残ったとして、どんな仕事の進め方ができるだろうかという思いもある。
けれども、もう、先方の、かの地の会社へは返事をしたのだ。
何が何でも、僕は新天地で頑張り続けなくてはならない。
だけれども・・正直疲れた。
鋼のように硬くなった肩は、僕に休養を求めていた。

やがて、遠くのほうから甲高い警笛とともに、電気機関車が客車を従えてやってくるのが見えた。
ヘッドライトの明かりで、よくは分からないけれど、それは・・
僕は列車がホームの明かりに照らされた時、思わず歓声を挙げた。
僕が子供の頃に、憧れた、乗りたくて乗りたくて、乗れなかったそのままの列車が・・今、僕の前に姿を現したからだ。
その時、僕の前に、子供の頃の僕が現れた。
一心に機関車を見て、機関車のヘッドマークを大きな目をさらに大きくして追っていた。
後ろに続く青い客車の銀の帯と、窓からこぼれる明るい輝きと・・そして、列車の全てが自分の前から通り過ぎると、今度は最後尾の車両のテールマークを、感動の面持ちで追っていく。

僕は走り出した。
いや、子供の頃の僕が走り出したというわけか・・最後尾の車両にはエンジンが積んであり、列車の照明や冷暖房をまかなうのだとは、その頃に聞いた話だ。
そのエンジンの音が、ホームの中ほどに停車した列車から響いてくる。
僕はホームの一番端にいたので、列車の停車したところまではかなりの距離があった。
スーツケースをかかえて、なぜかネクタイを締めて、今の僕が走っている。
カメラをぶら下げて、小脇には鉄道雑誌を抱えて、子供時代の僕が走っている。

ブルーの車体は近づけば傷まみれに見えた。
あちらこちらがへこんでいたし、それが為か疲れているように見えた。
それでも、折りたたみ式のドアの上のB寝台の文字と、その脇の星が三つのマークは輝かしく見える。
ドアが開き、いくらもいない乗客とともに、僕も始めて、かつての憧れだった列車に乗り込んだ。
明るい車内、出入り口と客室を分ける軽いアルミ製の開き戸、そこはまばゆいばかりの憧れの空間・・
子供時代の僕も一緒に乗り込んでいるようだ。
僕は指定された寝台を探した。
そこは客室のちょうど真ん中あたり、2段ベッドが向かい合うコンパ-トメントには誰も相席はいなかった。

指定されたベッドは下段だった。
僕は、ベッドに上着やら荷物を投げ出し、少し身軽になって、酒を取り出した。
そのままベッドで飲む気になれず、通路の腰掛を下ろして、そこに腰掛け、カップ酒の栓を開けた。
列車は衝撃とともに出発した。

僕は、思いもかけず、今の僕と一緒に乗り込んできた子供時代の僕に語りかけている。
「ぼくは、自分がこんな人生を歩くとは思わなかった・・」
「どうしたの?列車の運転士には、なれなかったの?」
「列車の運転士?」
「そうだよ・・特急列車に乗るのが夢なんだ」
「そうだったかなあ・・そうかもしれないなあ・・」
「今、何やってんの?」
「いまか・・」
「うん・・運転士じゃなければ・・駅員?、それとも車掌?」
「いやあ・・鉄道じゃないよ・・・」
「え?どうして?」
「僕が学校を卒業する頃には、鉄道に入社する試験がなかったんだ・・」
「どうして・・・?」
「国鉄改革の時だったからね・・」
「ふーん・・よくわかんないや・・で・・今、何をやってるのさ?」
「デザイナーだよ・・商店や事務所の・・」
「よくわかんないな・・」
「そうだよね・・」
子供の頃の僕には想像もできない仕事だろう。。

列車は速度を上げて走っていた。
複々線区間で、快速電車が並んで走っている。
僕は一つ目のカップ酒を飲んでしまい、二つ目にかかろうとして、窓の外を見ると、つり革にぶら下がった快速電車の乗客と目があった。
彼は初老の紳士だった。
うらやましそうに僕のほうを見ている。
つり革にぶら下がった彼と、寝台特急でゆったりとカップ酒を飲んでいる僕とでは、列車に乗るということに関しては僕のほうが幸せな感じだろう・・
「でもね・・僕は、あんたのほうがうらやましいんだよ・・多分家庭も持っておられることでしょう・・通勤地獄も家に帰れば奥さんと、そして多分、子供さんもおられるでしょうね・・僕には自分を癒してくれるものが何もないのですよ・・」
併走していた快速電車は急に速度を落とし、その男性は遠ざかってしまった。
まもなく大きな明るい駅を通過する。
ホームには仕事帰りの人らしい姿があふれている。
「ねえ・・結婚もしていないの?」
子供時代の僕が尋ねる。
「いや・・結婚はしたよ」
「じゃ、どうして、あの人に子供さんがあるのが、うらやましいの?」
「それはね・・結婚はしたし、子供も出来たけど、別れちゃったんだ・・」
「ふーん・・離婚ってやつか・・」
「そうだな・・まさか、自分が離婚するなんて、思わなかっただろう?」
「うん・・思わなかった・・でもさ・・離婚したならしたで、次の奥さんを探せばいいじゃん・・」
「簡単に言うなよ・・結構難しいぞ・・」
「僕が運動会のリレーで転んで泣いていた時、お父さんが言ってたよ・・今度頑張ればいいって・・」
「親父の言葉かぁ・・久しく思い出すこともなかったなあ・・」
「いい言葉だよね・・」
「そうだね・・でも、思い通りに行かない時もあるさ・・」
「そのときはまた頑張ればいいよ・・今も、好きなブルトレに乗ってるじゃない・・」
好きなブルトレ・・
どうして列車が好きだったのだろう・・少し酔いが回ってきたようだ。
それより、どうして僕はかの地へ行くのに、酔狂にも夜行列車を選んだのだろう・・
心の奥に憧れが残っていたのだろうか・・

遠くに並んで、私鉄の列車が同じ方向へ向けて走っている。
向こうからこの列車を見ればどう見えるのだろう・・
夜汽車はきっと、明かりを長くつなげて、遠くへ向かっているように見えるのだろうか?
あの列車の中にも人がいる。
そういえば、列車の中だけでなく、もっとたくさんの人が通過する沿線の住宅に住んでいる。
それぞれに人生があり、それぞれに悲哀や喜びがあるはずだ・・
「ね・・自分だけが苦しいのじゃないよ・・きっと・・」
子供時代の僕が慰めてくれている。
「そうだよな・・人生だもん、たまには転ぶこともあるよね」
「僕だって、リレーで転ぶなんて、予想できなかったよ」
「そうだったよなあ・・あれは、僕が第3走者で、山野君がトップでバトンを渡してくれたんだ・・でも、僕が受け損なって転んでしまった。結局、僕で4位にまで落ちて、最終走者の清水君が頑張ってくれてやっと3位に入ったんだったよな・・」
「みんなは慰めてくれたけど、悔しくてさ・・・・」
「でも、その悔しさの向こうに本当の勝利があるって・・」
「担任の山岡先生だ・・」
「みんなで泣いたね・・」
「だからね・・離婚したのなら、また結婚すればいいじゃない!」
「出来るかな?」
「出来るよ・・人類の半分は・・」
「女の子だ」
「頑張ろうよ!」
「そうだね・・頑張ろうか・・」

列車は大きなヤードの中を走っている。
明かりの消えた通勤電車が並ぶ。また朝になれば走り出す電車たち・・
毎日、毎日、同じことの繰り返し・・人生とはそう言うものではなかったか・・
僕は、何かを捨てるような気で、この列車に乗ったはずだった。
何かを捨てて、人間であることも捨てて、シゴトを機械的にこなしていく動物になろうとしていたのかもしれない。
だが、人間は機械にも、人間以外の動物にもなれない。

「チャンスは何回でもある・・山岡先生の口癖だよね・・覚えている?」
子供時代の僕が語りかけてくれる。
酒は3本目に入った。
「思い出したな・・おかげで、思い出したよ・・」
「チャンスは何回でもある・・何度失敗しても構わない・・でもどんな時も、絶対大丈夫だっていう気持ちを持とうってね・・」
「そうだよね・・」
「もっと良いこと言ってるよ・・どんな苦難も乗り越えられない苦難はありえない」
「ああ、そうだった・・そう言ってくれたね」
「頑張ろうよ・・きっとチャンスがやってくるから・・」
「そうだね・・そうだよ・・がんばらなくちゃ・・」

列車は最初の停車駅に滑り込んでいく。
すでに深夜時間帯となりひっそりとしたホームとホームの間に、明日の始発に使われるのだろうか・・普通電車が明かりを消して休んでいる。
「チャンスだよ・・きっと・・」
子供時代の僕がそう耳元で言う。
そのとき、乗車してきた若い女性が、大きな荷物を引きずるようにして、僕のとなりのコンパートメントに入ってきた。
荷物を上の棚に上げようとしているが、重くて出来ないらしい・・
「あ・・僕が上げましょう・・」
「ありがとう・・助かります・・」
笑顔のきれいな女性だ。

ブルートレインは、走る。
明かりを、闇に染まった町に、一瞬だけ撒き散らしながら・・

走れ!クジラ号


海が見える・・海には大きな橋がかかり、向こうには淡路島が見えている。
ここは神戸市の西郊、うすぼんやりした春・・
野田喜一は今日も黄色いバスを住宅地から駅へ、駅から大学のあるニュータウンへと路線バスを走らせている。
時折、さすがに眠くなるけれど、彼は52歳の今日まで一度も事故らしい事故を起こしたこともなく、事故に巻き込まれたこともなかった。
喜一の勤務する営業所には200人ほどのバス運転士がいるが、ほとんどのものは長い乗務生活の中で、何らかのアクシデントをいくつか経験しているから、彼のような幸運は珍しいと言えるだろう。
太陽バスの本社は、いまどき珍しい木造2階建てで、これはバス会社というものは乗客サービスに全てをかけるべきであるという社長の方針から、社屋は一番後回しにされた結果なのだった。

乗務員詰め所の掲示板にはいつも何らかのお知らせが貼ってあって、今日も1枚、新しいお知らせが増えていた。
『営業車の増車について』
「新車が入るのやなあ・・ええなあ・・会社のクルマはいつも新しくなって・・」
喜一は声を上げてその文書を読み始めた。
「おっさん・・読むんやったらやかましいさかい、声出さんと読んでか・・」
部屋の奥から誰かが叫ぶ。
「あほかいな・・きちんと声出して・・はっきりとおつむに入れとくんやないか・・」
そう言って・・喜一は声を出して読み進めていく。
「・・今年度の増車として以下の車両を営業車に加える・・2513号、2514号、3545号、4522号・・以上の内、2513号と2514号はノンステップタイプの新車、3545号はワンステップタイプの新車、4522号は他社からの譲渡車両である。配置路線は2513号、2514号は主にM線、3545号は主にT線、4522号は主にM線とするが、必ずしもこの通りではない」
「ほうーー」
さっき、奥から喜一をからかった男が、素っ頓狂な声を上げた。
「譲渡車両って・・中古車かいな・・」
「そうやろうなあ・・うちの会社で中古のバスは・・わしの知ってる限り、初めてやで・・」
「喜一はん・・運転士して、何年やったかいな?」
「わし、もう30年近いさかいなぁ・・そのわしが、中古車を見るのはホンマにはじめてや」
「ほなら・・何かい、この会社も新車が買えんくらい、厳しいなっとんかいなあ・・」
奥からその男も出てきて掲示板を見つめ始めた。
「あれやろか・・4台欲しかったけど、3台しか買う金が無うて・・1台は中古で我慢・・」
二人が顔を見合わせて、頷こうとしたとき、助役が彼らの肩を叩いた。
「あのな・・うちは関西では成績のええバス会社で通ってるんやで・・縁起でもないこと言わんといてや・・」
「ほな・・なんで・・中古なんでっか?」
「それはやな・・」助役はそこから先は答えずに、「ちょうど、さっき、納車されたさかい、見に行かへんか・・」そう言って二人を誘って建物の外に出た。

「なんや・・これ・・」
喜一は他の見慣れたバスの間に挟まっている真っ赤なバスを見て驚いた。
古いクルマではない・・最新型だろう・・やや小型だがいわゆるコミュニティバスというものよりは普通のバスに近い大きさだ。
喜一がビックリしたのは真っ赤な車体に、ブルーで鮮やかにクジラの絵が描いてあったことで、正面にはヘッドライト周りがクジラの目に見えるようにデザインされていた。
「紀州のリゾートホテルが倒産して、その送迎用のクルマやったのやけど、ま・・うちが競売で落としたと言うわけでな・・」
「競売って・・なんでっか・・あのオークションみたいなものでっか?」
「そやそや・・うちの社長が茶目っ気を出して、やってみたらと・・そういうわけやな」
「で・・このクルマ・・何に使うんでっか?」
「ま・・見てくれや・・」
助役が車の扉を開けて、中を見せてくれた。
路線バスにしては豪華なシートが並んでいる。
つり輪もついている。けれども、つり輪はハート型だ。
座席の表生地にも、クジラの愛らしい絵が印刷されていたし、天井は海の波の模様・・床は真っ青で黄色の魚のシルエットが浮き上がるようになっていた。
「このクルマ・・うちの路線で使えますのんか?」
もう一人の運転士が、不審気に助役に聞いた。
「うん・・いっそのこと、このまま塗装も変えないで、一般車に混ぜて走らせたらどうかと・・社長は言ってるンやけどな・・」
「うちの路線は・・混むときは思い切り混みますさかい、どないだっしゃろ・・」
確かに太陽バスの営業成績が良いというのはそれだけ混雑するバス路線だからと言う部分もあった。
「ラッシュ時には暇なC行きに使こて、昼間は宣伝がてら、そこらを走らせようと思っとるんやけどな」
C行きは朝から夜まで一日中30分ごとに走る路線だ。
終点のCが丘はかつては山の中腹、今はその山の山上は団地になっているが、中腹は相変わらずの田舎景色の、時代から取り残されたような路線だ。
どの便も10人以上の乗客があることはまずない、成績好調な太陽バスだからこそ維持できるような路線だった。
車内の奇妙にゆったりとした座席に腰掛けて、助役は喜一の顔を見た。
「それでな・・・喜一はん・・あんた・・このバスの担当をしてやって欲しいのや」
「担当って?」
バスに個別の運転士が担当につくなんて聞いた事がない・・田舎のタクシー会社に毛の生えたような会社ならともかく、少なくとも太陽バスは神戸のベッドタウンを走る大手バス会社だ。
「このクルマ・・癖があるらしいのや・・」
「癖でっか?」
「時々、調子が無茶苦茶良くなったり、反対に沈んでしもて全然走らへんようになったり・・」
「そんな程度の癖やったら、他のバスでもおまっせ・・そない言わはるんやったら、任せてもろてもよろしおまっさ」
助役はちょっと黙ってバスの天井を眺め回していた。
喜一も天井を見た。
もう一人の男も天井を見上げている。
「真っ赤なクジラ」
喜一がつぶやいた。
「それやな・・それでいこ・・」
「なにがでっか?」
「このクルマの名前や・・真っ赤なクジラ号・・髭面のオッサンが担当運転士や・・神戸の名物になるで・・」

[*真っ赤なクジラ号運転のお知らせ* このたび、太陽バスでは楽しくて可愛いバス「真っ赤なクジラ号」を運行することになりました。運行は毎週木曜・金曜以外の日で、運行時間帯は以下の通りです。当バス停発M駅行き11時20分、14時4分、17時34分。なお、運行の都合により他のバスで代替することもございますのでご了承ください。太陽バス株式会社M線営業所]

まもなく、主なバス停には貼り紙がされ、その頃には喜一が助役や社長をのせて試運転をして、お披露目をしていた。
はじめて喜一がこのバスに乗ったとき、何かバスから生き物の息吹のようなものが感じられ、喜一は思わず、敬礼をした。
「真っ赤なクジラ号どの!本日より常務させていただきます野田喜一でございます。よろしくお願いいたします。わたくしも無事故で頑張る所存でございます!」
そのときだ・・まだエンジンもかかっていないバスが、「ぷぷー」とクラクションを流した。
横にいた助役は飛び上がらんばかりに驚いていたが喜一は「おう!答えてくれますのんか・・たのんまっさ!」と意に介さず乗り込んでしまった。
整備士たちは別に何の変哲も無い、普通のバスだと言っていたし、音が勝手に出る仕掛けなどあるはずもなかったのだけれど・・
初めての試運転で、真っ赤なクジラ号はビックリするような加速を見せた。
「うわーーこんなに早いバスは、わし、初めてやわ」
喜一が嬉しそうに叫んだ。
するとエンジンはさらに軽やかになって、飛ぶように走った。
「どや・・このクルマ・・目えつけたワシの勘もなかなかのもんやろ・・」
嬉しそうに、子供のような表情をして社長が喜一に言った。
「そうですわな・・このクルマ・・しかし・・モノと言うよりは生き物みたいでんな」
坂を下りる道で、海が見えるとさらに喜ぶかのようにバスはエンジンの音も軽やかに乗り心地も心なしか良くなって、走っていく。
「ほんまに・・お前は生き物みたいなバスやな・・」
喜一は何度もバスに語りかけた。

沿線の道路沿いではちょうど子供たちが学校から帰る時刻だったらしく、歩道を歩く子供たちがこのバスを見てビックリして、信号待ちのときは傍でしげしげと眺めていたり、走っているバスにあわせて、競走でもするかのように走り出したりしていた。
バスはそう言うときはなぜか勝手にクラクションがなる。
それも間の抜けた「ぷぷー」という音だった。
「このクルマ・・勝手に喋りますのんや」
後ろに添乗している社長に喜一は語りかけた。
「そうやろ・・前の会社でも、気味が悪いっちゅう運転士と、楽しいクルマやっちゅう運転士がおったそうや・・気味悪がる運転士が乗務したら、てこでも動かんようになるらしい・・」
「ほな・・誰でも乗務させるっちゅう訳にはいきまへんなあ・・」
横にいた助役が心配そうに尋ねた。
「そやから・・ちゃんと担当の運転士を決めなあかんのや・・」
バスはやがて、営業中のクルマに近づいた。
営業車が客扱いで停車している横を、喜一は慎重に追い抜いた。
「ぷぷー」間の抜けたクラクションが鳴る。
真っ赤な車体に大きく描かれたブルーのクジラが、愛郷たっぷりに通過していくのを営業車の乗客が目を見張っている。

数日後、朝、C線の終点に向けて真っ赤なクジラ号は走り始めた。
朝の下り便のことで、乗客はいない。
喜一は朝の光の中をゆっくりと、アクセルを踏み込んだ。
誰も乗客のいない車内に、セットしたバス停の案内や沿線の商店の宣伝が流れる。
ふと、コンビニの横のバス停で、時間調整のために停車するとそれっきり動かなくなってしまった。
エンジンはかかっているのだが、全くギアが入らない。
「おお・・クジラ君よ・・ワシはお前のことは嫌いと違うさかい、動いてやってんか・・」
喜一はなだめるようにバスに語りかけた。
「ぷぷー」
バスは勝手にクラクションを鳴らして何か答えている。
「なんか用事があるのんやろか・・」
そう思って、喜一が道路の前方を見ると、年配の女性がバスに手を振っていた。
ドアを開けると、その女性は息を切らせて乗り込んできた。
「えらい・・待って貰ってすんません・・」女性が息を切らせて喜一に礼を言う。
喜一がギアを入れると、バスは簡単に動き始めた。
「助かりましたわ・・Cが丘の娘のところで、孫の面倒を一日頼まれてましてん・・」
女性は運転士席の近くに腰掛けて、そんな話をし始めた。
「それが・・運転士さん・・家を出たとこで忘れ物を思い出しましたんや・・孫の好きな、お結びですねん・・」
「おむすびでっか・・」
思わず喜一も話に乗ってしまった。
「そうですねん・・わてがつくるお結びは・・爆弾みたいなやつでんねん・・」
「ああ・・大きくて、ノリで真っ黒にしてある・・」
「そうそう・・わてら田舎もんやから、お結び言うたら爆弾ですわ・・いっぺん孫に作ってやったら、もうワテの顔見たら、ばっちゃん・・・爆弾作って・・でんがな・・それがあんた、可愛いてなあ・・」
「お孫さん・・おいくつでっか?」
「やっと4つになりましてんや・・」
「そりゃ、可愛いでんなあ・・」
バスは乗客一人だけを乗せて、細い路地のような坂を登っていく。
軽やかに回るエンジンは真っ赤なクジラ号が、快調であることを現しているようだ。
「運転士さん、このバス、えらい楽しいバスでんな・・」
女性はバスの車内を見渡しながらそう言った。
「そう言ってくれはったら、バスも喜びますわ・・今日から金曜と土曜以外は、毎日この時間に走りますさかい、よろしゅう頼んます」
「いやあ・・それやったら、孫にも見せてやらんと・・バスが好きな子ですねん」
バスは快調に坂道を登り、やがてCが丘に着いた。
女性はバス回転所のすぐ上にある小さな住宅に入っていった。
「乗せてくれはったお礼です」
そう言って女性がくれた爆弾ひとつ・・銀紙に包まれて喜一の手のひらにあった。

バスの向きを変え、発車まで、5分ほどあるからと、喜一は煙草に火をつけ、バスの外に出た。
このあたりは神戸とは思えない閑静な場所だ。
陽の光が暖かい。
「クジラのバスや!!」
上のほうから声が聞こえる。
見るとさっき、バスを降りた女性の腕に、小さな男の子が抱かれて手を振っていた。
「ぷぷー」
しまらないクラクションの音がする。
また勝手に音がでよる・・喜一は苦笑しながら、彼も子供に手を振った。
バスの中に戻ると、さっき、計器板の上に置いたお結びがない・・
「あれ・・どこへやったかな??」
喜一は運転席のあたりを探したけれど、出てきたのは銀紙だけだった。
「おい・・クジラ号・・おまえ・・おにぎり食ったんか?」
「ぷぷー」しまらないクラクションでバスが答えた。

真っ赤なクジラ号はその日一日だけでも充分、注目を集めていた。
沿線にある高校の生徒達も、学校帰りの時間にこのバスに乗り、女の子たちなど、素っ頓狂な叫び声を上げていた。
「めっちゃ・・可愛いバスやん!」
「何で、こんなのが走ってるのやろ」
「太陽バスの新サービスかな・・」
バスが喜んでいるのか、いくらたくさん乗車しても、加速も全く鈍らない。
ますます快調だ。
まだ日が暮れる前の大学前ニュータウンからM駅までの30分ほどが本日最後の運行だ。
「無事故で第1日終了まで、あともうちょっとやさかい、頑張ろうな!」
喜一が大学前ターミナルでバスに語りかける。
「ぷぷー」
嬉しそうにバスが答える。
最終運行で、乗客を乗せる。
女子大生の一群が後ろの方の座席に陣取る。
手に手にスナック菓子や、ジュースを持っていた。
「可愛いバスやなア・・」彼女達もバスを気に入ってくれたようだった。
ところがターミナルを出てしばらく走ると、女子大生達の喧嘩が始まった。
「あんた・・あたしのお菓子食べたでしょ!」
「何言ってるの!あんたこそ、私のジュース飲んだでしょ!」
喧嘩の声が大きくなり、喜一は思わず車内放送をした。
「お客様にお願いいたします。他のお客様にご迷惑になりますので、バスの中では大きな声は出さないで下さいませ・・」
けれども・・全く彼女達の声が小さくならない。
バスは大学前から山を越えて、町の中に入ってきていた。
「あ!あたしのお菓子もない!」
別の声も聞こえる。
喜一はもう一度マイクを取り出した。
「お客様にお願いいたします。バスがお菓子を食べることがございますので、車内でのご飲食はお断りさせていただきます」
「えーーバスが食べるの?」
「そういえば・・あたしもお菓子がない・・」
「私のジュースも減っているわ・・」
彼女達は今度は面白がってしまい、喧嘩は収まった。
「ぷぷー」
バスが返事をする。返事をしながら、愛嬌のあるクジラのおなかが少し膨らんだようで・・走りっぷりに元気がなくなってきた。
のんびり、ゆっくりと走る感じになった。
M駅に着いて、乗客を降ろし、車庫へ回送する為に発車しようとすると、今度は動かなくなった。
「ははーん」
なんとなく理由がわかった喜一はバスに語りかけた。
「おい・・クジラ号・・今日は車庫まで走れば終わりやさかい、もうちょっとだけ頑張ってくれるか・・車庫で燃料を入れてやるし、いくらでも昼寝ができるから・・」
すると、真っ赤なクジラ号はゆっくりと動き出し、よたよたという感じで車庫までの数分の道を走るのだった。

真っ赤なクジラ号の人気は上がり、神戸名物になってきた。
しかも、このクルマが勝手にクラクションを鳴らすことまで、どこかから話が漏れ、まさに子供たちのアイドルのようになってきた。
今日も、クジラ号は「可愛いね!」の女子高生の叫びに間の抜けた「ぷぷー」のクラクションを鳴らして走っている。
そんな真っ赤なクジラ号に幼稚園や保育所の団体申し込みが出るのはある意味、当然だった。
バスのダイヤが限定で固定されていることなどで、太陽バスとしては「真っ赤なクジラ号」の貸し切り運行を断っていたのだけれど、ついに、土曜日ならということで、地元保育園の貸切バスとして走ることになった。
土曜日は喜一は休みだ。
仕方なく、その日、別の運転士で、若くて優しそうな男に白羽の矢が立った。
「今から4522号に乗務します。運行は貸切で、青い海保育園、園児と保護者合わせて45名の乗車予定です。それじゃ・・行って参ります」
若い運転士、北良治は、勇んでで点呼を済ませ、バスに乗り込んだ。
心配して社長が彼についてきた。
「大丈夫やろうか・・このクルマ・・」
「大丈夫ですよ・・一度、試運転で乗務しましたし・・」
「ワシも一緒に乗り込むさかい・・」
「大丈夫ですのに・・」
良治が不機嫌そうに言うのを押さえながら、それでも社長は真っ赤なクジラ号の中に入って、運転席の後ろに立った。
「社長・・まるで僕が新入り運転士みたいですやン・・」
良治の抗議に、社長は少しはなれた座席に腰掛けた。

バスは何事もなかったかのように、普通に動き始めた。
若干加速がゆっくりはしていたけれど、気になるほどではなく、普通のバスの感じだ。
社長はほっとした。
やがて、海の見える丘の上にある「青い海保育園」についた。
園児と、母親や父親が嬉々として乗り込んでくる。
「真っ赤なクジラだ!」「ほんとに真っ赤なクジラだ!」
「立派なシートだね!」「きれいな天井!」子供たちが歓声を上げて乗車してくる。
社長は座席を園児に譲って、運転席脇で立っていた。
「発車します・・本日は太陽バス、真っ赤なクジラ号をご利用いただきありがとうございます」
良治が放送を流す。
「このバスは皆様とご一緒に離宮公園まで参ります・・座席が少々少なくなっていますので、なるべく譲り合ってご利用ください」
バスは何事もなく走っている。
「ねえ・・ママ・・このバス喋るんだよ」
「ええ・・そんなことはないわ。バスが喋るはずはないわよ」
「ほんとだってバ・・運転士さん・・そうだよね!」
園児たちの言葉に良治は「バスは喋らないと思うけど・・今日はみんなのために喋ってくれるかもね」といった。
そのとき・・「ぷぷー」とバスが返事をした。
「ほら!喋ったよ」園児たちが喜ぶのに気を良くしてか、真っ赤なクジラ号は「パンパン」いつもと違う音を出した。
良治は苦笑しながら、運転を続けている。
やがて、街中を進み、小さな団地の入り口でバスが停車した。
「あれ・・」
良治が不思議そうに首を振る。
「どないしたんや」社長が不審気に尋ねる。
「なんで・・こんなところに来とるんでしょ・・」
「は?」
「わたし・・高速道路の入り口を目指していたのですけれど・・」
「道を間違えたんかいな・・しゃなあない、高速を通らんでもいけるやろ」
二人はヒソヒソと会話を続ける。
「はあ・・あれ?」
「どないしたんや・・」
「動きません・・エンジンもかかって、ギアも入っているのに・・」
「アクセルを踏んでもアカンのか」
「アクセルが踏めません・・」
ちょうどそのとき、窓の向こうで手を振っている男がいた。
喜一だ。
「なんで・・ここに居られるんです?離宮公園やったら、高速に乗ればすぐですのに・・」
喜一はバスの外から運転席の良治に声をかけた。
「喜一はん・・あんたこそ、何でここに居るんや?」
社長が喜一の顔を見て尋ねた。
「なに言うてますのんや・・この団地・・わしの家がおますのやで・・」
そのとき「ぷぷー」真っ赤なクジラ号が情けない音を出した。
「またクジラ号が喋ったよ・・」園児たちが叫ぶ。
「でも・・どうして停車しているのかしら?」親が不審がる声も聞こえる。
喜一は理解したようだった。
「社長・・運転・・させてもらいますわ・・機嫌を損ねてるみたいでんな・・」
良治は意地でも自分が運転するのだと、アクセルを力一杯踏みつけようとした。アクセルは硬くはないのだが、彼の足が思うように動かない。
しかも、運転席横のドアが勝手に開いた。
「おお!真っ赤なクジラ号!何をそないに機嫌を損ねとるんや・・」
喜一が乗り込んでくるとエンジンの音が少し大きくなったようだ。
良治は何かに操られるかのように、席を立ち、社長と並んで立った。
喜一はごく自然に運転席に座った。
ドアが勝手に閉まる。
ギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。
真っ赤なクジラ号は何事もなく、走り始めた。
「すまんな・・クジラ号よ・・ワシは今日は休みやったんや・・ワシがちゃんとお前のことを、良治はんに言うてやらんさかい、機嫌を損ねたんやなぁ・・悪いのは良治はんと違うで・・ワシやさかいな・・勘弁してや・・」
「ぷぷー」間の抜けた返事が返ってきた。
「おお・・そうかいな・・勘弁してくれるか・・おおきになあ・・」
社長と良治は決まりが悪そうに立っていた。
「そうや・・」
つぶやくと社長は良治のかぶっている制帽を喜一の頭に載せた。
「運転士さん・・いつもの髭の運転士さんになったね」
子供の声がする。
「そうだよね・・髭の運転士さんだけが真っ赤なクジラ号と喋れるんだよね」
子供たちの会話は、どうやら子供たちの間で噂として流れている話らしい・・
「ぷぷー」
間の抜けたクラクションは真っ赤なクジラ号のご機嫌のしるし・・
「このクルマ・・会話が必要なんですね・・」
良治が感心したように、喜一の運転ぶりを見ている。
「このクルマの、前の会社の人たちの間でもそう言う評判やったそうや・・クルマとではなく、友達と会話するようにせなアカン言うて・・」
「社長・・僕にもそう言って教えてくれたら、よかったですのに・・」
「まあ・・ワシもまさかとは思っとったさかい・・」
二人は顔を見合わせた。
喜一は何事か喋りながら、真っ赤なクジラ号を走らせている。
園児たちやその保護者はすっかりバスになじんで、和やかな雰囲気だ。
「ぷぷー」
ご機嫌よく、真っ赤なクジラ号は公園の駐車場に入っていった。

偶然


俺はその日の午後、友人達と飲み会をするために垂水駅から大阪への快速電車に乗っていた。
電車は混んでいると言うほどではなかったけれど、二人がけの座席はどこにも先客があり、一番先頭の車両に乗った俺は、他人の横に腰掛ける気にもなれず、天気がよく、気分もすっきりとした状態だったので、運転室の後ろに立って、大きな窓から運転台越しに前方の景色を見ることにした。
そういえば、昔は電車が好きで、鉄道マニアの端くれだったことを思い出した。
子供の頃はここに、こうして立つと胸がときめいたものだった。
電車はゆっくりと加速し、春のぼんやりと霞のかかった街を走り始めた。
「閉塞よし!」
運転士が信号を指差し、大声で確認している。
しばらく走ると、横の線路を新快速電車が追いついてきた。
新快速電車は俺の乗っている快速電車を追い越しにかかったけれど、こちらの電車もそれなりにスピードが出てきたので、一気に抜き去るというのではなく、少しずつ、余分に前に進んでいく感じだ。
そのうち、新快速電車は一段高いところを走るようになるので、見えなくなってしまった。
海が見える。
霞がかかり、遠くの景色は見えない。
けれども明るく、ぼんやりとした雰囲気の海だ。
普通電車とすれ違う・・国道は相変わらず渋滞している。
快速電車は順調に速度を上げて、気持ちよく走っている。

「塩屋通過!場内進行!」
運転士の声が響く。
一段上の線路を走っていた新快速電車がまた、塩屋駅通過中に横に並ぶ。
国道のガードをくぐる。
いつのまにか新快速電車は、その電車の長い編成の後ろの方の車両が並んでいた。
ゆっくりと俺の乗っている快速電車を抜き去っていく。前のほうから貨物列車がやってきた。
甲高い警笛を鳴らしながら、過ぎていく。
新快速との間の線路を反対側へ向かう・・

貨物列車のすれ違いが終わって、新快速電車の後ろの車両が俺の乗った快速電車から見えるようになって、少しずつ遠ざかっていく・・
まさにその時だ。線路の上に女の子がビックリしたような顔で、こちらを見て立っていた。
「わーー!」
俺が叫ぶのと、電車に非常ブレーキがかかるのと、運転士が叫ぶのが同時だった。
衝撃で俺は運転室との仕切りに身体を押し付けられた。
そして、その次の瞬間、俺は、電車に前方へ跳ね飛ばされて、さらに落ちてきたところをフロントガラスに叩きつけられた少女と目があった。少女は高校の制服のようなものを着て、両手を大きく開いた状態でフロントガラスに一瞬貼り付いたかに見えた。
きれいな、大きな瞳が一瞬だけそこにいて、俺を見ていたけれど、すぐに電車の横へ飛んでいってしまった。

電車はなかなか停車しなかった。
停まってくれ・・そう願いながらも、俺は床にしゃがみこんでしまった。
大きく目を見開いた表情の少女の顔が目に焼きついてしまった。
「なんや!事故か!」
「人をはねたんか?」
他の乗客の声が聞こえる。電車はなかなか停まってくれない。
「わーーー!」運転士は、電車が減速する間、ずっと叫び続けている。

やっと電車が停車した。俺は停車した感触を確かめて、ゆっくりと立ち上がった。
運転士も立ち上がって、呆然としていたが、すぐに思い直したように電話機をとって何やら話をしているようだった。
乗客がざわついている。
「飛び込みかいな・・」
「マグロやな・・」
「えらいこっちゃ・・仕事に遅れるがな・・」
「こら・・ちょっと停まるなあ・・」
「かないませんわ・・急いでいるのに・・」
がやがやと、乗客たちの声が聞こえる。
少女は海のほうへ飛んでいったように思えた。
俺は、海のほうを見た。
松の木が頼りなく1本だけ立っていて、向こうにはぼんやりと海が広がっていた。
この電車の窓は開かない。後ろの方を見ることは出来ない。
運転士と俺は目があった。彼は俺と同じか少し若いくらいの気の弱そうな男だった。
運転士は一瞬、俺の顔をまじまじと見つめていたけれど、気を取り直したように運転室の中の戸棚を開け、何かを探し始めた。
彼はそこから何やら道具を取り出して、ちょっと戸惑うような表情を見せた後、それでも責任感からか、凛々しく外へ出て行った。
反対行きの快速電車が、すれ違う直前で停車していた。
「お客様にお知らせします。ただいま、この電車で人身事故があった模様です。しばらく停車いたします。そのままでお待ちください。なお、絶対に線路には降りられないように、お願いいたします」
車内放送が響く。
車掌も声を震わせているようだった。

海は相変わらず、ぼんやりと輝いている。
波がゆらゆら動いている。沖の船がかすんでいる。

「あんた・・今の見たんと違うの・・」
中年の女が俺に声を掛けてきた。
答えようにも、声も出ない。やっと、無理やり頷くことが出来た。
頷いた途端、大きく目を見開いた少女の顔が頭の中一杯に広がった。
「う・・うう・・」
やっと出た声は思いもよらぬ嗚咽になった。
俺はその場で声を上げて泣き出してしまった。
運転士が電車から外へ出て行ったあと、残された乗客たちは興奮したように喋りあっている。
けれども、俺は涙と嗚咽が停まらず、またしゃがみこんで泣き続けた。
「かわいそうに・・えらいもん、見てもたなあ」誰かがそんなことを言っていた。

電車は1時間ほどして動き出した。
車内にほっとした空気が流れたけれど、俺はもう、この電車に乗り続けることが出来なくなっていた。
須磨駅で、扉が開くと同時に、俺はホームへ転がり出て行った。
ホームには電車が1時間も停まっていたわりに、待っている乗客は少なかった。
まだ、涙が出る。
ホームにいた人が怪訝な顔で、俺を見る。
電車はすぐに発車していった。
俺はホームのベンチに腰掛けて、建物の間から見える海を眺めていた。
さすがに声は出なくなってきたけれど、涙が止まらない。
遅れていた電車が次から次へと入ってくる。
新快速電車も後ろを通過していく。
携帯電話を取り出し、今日、飲む約束をしていた友人に連絡を入れた。
「今日はすごく気分が悪い・・またにしてくれ・・」それだけ言って電話を切った。
友人の心配そうな声が、頭の中を回る。
それと同時に、さっきの電車の運転士の声が回る。
少女の顔が頭の中に広がる。
俺はようやく立ち上がり、ゆっくりと、階段を上がって、改札口を抜け、砂浜の方へ向かった。

海は穏やかで、風は少し冷たいものの、春の陽射しが暖かだった。
砂浜から海に突き出たコンクリートの上で、俺は海を眺めるしか、自分がなすべきことが思い浮かばなかった。
けれども一時間もすると寒くなってきた。
随分と太陽も傾いている。
俺は、駅へ戻ろうとした。
その時、突然、冷たい風が吹いた。風が来る方向を見ると、空はかすんだまま、少しオレンジ色に変わりつつあるようだった。
俺はふと、さっきの場所に行かなければならない気がした。
さっきの少女が呼んでいる気がしたのだ。

砂浜から踏み切りを渡り、線路の山側に出た。
何かに導かれるように、俺は歩いた。
「早くしないと日が暮れてしまう・・」
日が暮れてもよさそうなものだったけれど、何故だか急いでいかなければならない気がしていた。
住宅を抜け、国道に出、西へ向かうと線路に沿うようになる。

さっき、停車した電車の窓から松の木が1本だけ立っていたことを思い出した。
俺は松の木を探してあるいた。
すると、やがて、海釣り公園の近くに松の木が数本、間隔をあけて頼りなく立っているのを見つけた。
そのあたりには何も痕跡がない。
線路を貨物列車が突っ走っていく・・それを追う様に快速電車が走っていく。
そういえば、先ほどは停車に時間がかかった・・
・・もう少し先だ!・・
俺はそう叫んで、また歩き始めた。足元を見ながら歩いた。
何かがありそうな気がした。
パトカーが2台停車していた。さっきの事故の調べをしているのだろうか?
けれども、俺が近づいていくとパトカーは発車してしまった。
俺はパトカーのいたあたりで海のほうを眺めた。
海もオレンジ色に染まりつつあった。もう少し、先へあるいてみた。
線路に入ることが、簡単に出来るような、それほど線路と道路が近い場所で、ここには高さの違いもなく、ひしゃげた金網が張ってあるだけの場所だ。
このあたりだろう・・そう思った俺の足に何かが当たった。
それを拾い上げてみた。
使いきりの、カメラだった。よくカメラ店やスーパーで売っている品物だ。
手にとって見てみた。少し土が付いているが、古いものではないようだ。
カメラの後ろに白いマジックで「みかこ」と書いてある。カメラには黄色の紙カバーがついている。
誰が落としたモノなのか分からなかったけれど、俺はそれはきっと少女が持っていたものに違いないと確信した。
それ以外にはこれといって落ちているものはなく、俺はそのカメラを持ったまま、そこからぼんやりと西へ向かって歩いた。
空全体が夕日を受けて赤くなった。けれどかすんでいるので、夕日を見ることは出来ない。
海も濃いオレンジ色に染まった。
悲しいと言うのか、苦しいと言うのか、とにかくすっきりと美しい色合いの海ではなく、少女が別れの挨拶をしているのだろうか・・それとも、いきなり見えないところへ言ってしまった彼女が戸惑っているのだろうか?俺はそう思った。
何事もなく電車が行き交い、その横でクルマが渋滞する道路の歩道を俺は、ただ、ぼんやりと歩いていった。

俺は翌日も気分がすぐれず、会社を休んだ。
昼頃まで布団に入っていたけれど、母があまりに心配するので、それがやかましく、昼過ぎに家を出た。
母には昨日のことは何も言っていなかった。
けれども俺は昨日、早くに自宅へ帰ってから、ずっと塞ぎこんでいた。
母が心配して当たり前だった。
食事も喉を通らず、いくらも食べることが出来なかった。

俺は昨日、家に帰るまでの道で、カメラ店に立ち寄って、拾ったカメラを現像に出していた。
俺はまず、そのカメラ店に向かった。
「こちらですね」
店の主人らしい人が写真を広げて見せてくれたけれど、もとより俺の記憶にない写真だ。
「ああ・・」そう言って、受け取りカネを支払った。
ふと気がついた。
「あの・・このときのカメラ・・返してもらえませんか?」
店主はちょっと不機嫌な表情になった。
「カメラ?ああ・・使い捨ての・・あれはお返しできませんよ」
「どうして?」
「お渡しするのは中身のフィルムだけですから・・」
「いや・・特別に事情があるんだ。ある人の形見でね・・」
そう言うと、店主は困ったような表情で店の奥から箱を出してきた。
小さめの段ボール箱だ。中にはフィルムを抜かれた使いきりのカメラがたくさん入っている。
「昨日だけで、これだけあるんですよ・・どれだか分かりますか?」
俺は「みかこ」の文字が入った黄色のカメラを探した。
そのカメラはすぐに見つかった。
「これです」
「よかった!・・じゃあ、それ持っていってください」
店主は愛想よくそう言って、そのカメラだけを取り出して、あとは箱を大事そうに奥にしまった。

俺は喫茶店に入った。
コーヒーを注文して、さっきの写真を改めて見た。
何人かの女の子が写っている写真ばかりだ。最初の数枚の写真は何処で撮影したのか分からない。
昨日の少女がどの子なのか、はじめは全く、分からなかった。
人物以外の写真は、写っているかどうか分からない夜景らしい写真、そして遊園地のキャラクターと仲良く写っている写真が数枚出てきた。
カラフルな洋服を着て、思い切りのお洒落をして、屈託のない笑顔の少女達・・どの子なんだろう・・
そう思って写真をめくっていくと、高校の制服らしい写真が出てきた。
その中のひとり、髪を肩のところで切りそろえた少女の顔に目が行った。
その写真は珍しく一人で写っていて、戸惑ったような、不思議な表情をしていた。
・・君か・・そうつぶやいた時、昨日の悲しみが襲ってきた。
涙が出てきた。どうしようもない悲しみに、肩が震える。
「お待たせしました」
ウェイトレスがコーヒーカップを置いてくれる。俺は顔をそむけて、頷いた。
コーヒーに手を付ける気になれない。
写真を改めて見直すと、遊園地での写真でも、どの子かわかるようになって来た。
「みかこさんかい・・」俺は写真の少女に語りかけた。
周りの客や店の人が怪訝な顔をして俺のほうを見ていることには気がついていたけれど、どうでも良かった。
愛らしい、素直そうな女の子だ。
最後の方に、彼氏らしい男の子と写っている写真もあった。
制服姿で・・後ろは・・・線路のようだった。二人でカメラを持った手を先に伸ばして顔を近づけて撮影したものだろう・・
「これは・・最後の・・彼女の最後の・・」
俺は、それがわかると、すぐに行かなければならない気がした。
この写真を届けなければならない・・そうは思ってみても、何処へ届ければいいのだろう?
とりあえず、俺はその写真を入れた袋と中身のないカメラを持って、昨日の現場へ行ってみることにした。
もしも、わからなければ現場に供えてこよう・・そう考えた。
けれども、供えたところで、誰かがいたずらで持っていってしまえば何の意味もなくなる・・
そう思い直したけれど、現場に行けば何かが分かる気がした。

電車に乗った。
普通電車だったが、先頭の車両には乗らなかった。怖いのだ。
昨日と同じ経験をまた、してしまうような気がして・・俺は3両目の車両に乗った。
乗ってすぐに座って、目を瞑った。
昨日の景色を同じ条件で見たくなかった。

昨日は夕方だったが、今日は昼間だ。
明るい国道を現場に向かった。
「すみません!」
後ろから声をかけられた。
「貴方は、昨日の方ではないですか?」
振り向くと、俺と同じ年くらいの、いや、少し若い年頃の男がたっていた。
「昨日の?」
「はい・・昨日の、事故を目撃された・・」
「あなたは・・」
「電車の運転士です」
彼は、手に花をもっていた。
昨日、警察と会社の幹部が立ち会う現場検証でここには来たけれど、花を供えたくなったのだと言う。
「大丈夫ですか・・随分ショックを受けておられたようですが・・」
彼は俺にそんなことを聞いてきた。
「ええ・・あまり大丈夫じゃないみたいですが・・私はこう言う経験は初めてでして・・」
「私もですよ・・運転士の中のほとんどのものは、こう言う経験をしないのでしょうけれど、私は運が悪かった」
「ほとんどの方は経験されないのですか・・」
「ええ、今日は、本当に彼女に会いたくて、会って、慰めてやりたくてね・・」
「みかこさんにですか?」
「御存知だったのですか・・彼女の名前を?」
「はい、ちょっとね・・」
俺は写真を持っていることは言わなかった。

現場には先客がいた。
制服の少年だった。じっと立って、線路のほうを見ていた。
新快速電車が恐ろしいスピードで通過していく。
「ちょっといいですか?」
運転士君が少年に声をかけた。
少年は、はいと小さく頷いて、少し横に寄ってくれた。
少年の顔を見て、俺は写真の少年と似ていることに気がついた。
彼が横へ退いたあとに、たんぽぽの花がそこに植えるかのように置かれていた。
たんぽぽを見て、俺は少年に語りかけた。
「みかこさんの彼氏かな?」
少年は俺のほうを見たまま立ち尽くした。何かを言おうとしている。言葉が出ないようだ。
「え・・」運転士君が少年を見た。

運転士君は花束をそこの金網に立てかけて、ポケットから数珠を出して手を合わせていた。しばらくその場で何かを祈っているようだった。
俺も、彼の横で手を合わせて、心の中で空に語りかけた。
「来たよ・・この写真・・誰に届けようか・・」
少年は俺達が祈っている間、じっと突っ立っていた。
貨物列車がゆっくり通過していく。列車の音が聞こえなくなったのを引き際にしたのか、運転士君は祈りの姿勢を解いた。
「君は・・彼女とここにいたのかい?」
運転士君が少年に質問をするが、まるで尋問のように聞こえた。
「昨日、何故、彼女がここを無理に横断したかが、分からないんだよ」
少年はうつむいて、黙ったままだ。
「貨物列車の機関士が、直前に線路を横切った人影を見ているんだ」
俺はやっと運転士君が何を言っているのかが理解できた。
少女が電車に刎ねられる直前に、先に誰かが線路を渡って、彼女はその誰かを追いかけていたのだと・・
普通電車が走りすぎる。
国道を大型トラックがそれに負けないスピードで過ぎていく。

「僕が悪いんです・・!」
少年はそう言った地面にしゃがみこんでしまった。
「わかったよ・・今日、ここへ来てよかった。今から、警察で事情を話してやってくれないかな?」
運転士君が少年に今度は少し優しく諭すようにいう。
俺はさっき見た写真を出して、写っている少年と今、目の前にいる少年が同一人物か、どうか、確かめようと思ったけれど、それをすると写真が証拠として警察に取られるおそれがあった。
俺は写真のことは黙ったまま、誰かにきちんと写真を渡すことを考えるようになっていた。
「彼女の自宅は知っているかい?」
今度は俺が質問した。
少年はしゃがみこんだまま、頷いた。
「今夜は、お通夜でしょう・・たぶん・・」
運転士君が言った。
「お通夜ですか・・一緒に行きませんか?」
「私は・・ちょっと出にくいです。何か言われると嫌ですし・・」
俺は彼に少し傲慢なものを感じたけれど、仕方のない面もあるだろう・・
「私は、行ってやりますよ・・お通夜よりも、先に彼女のご両親に会ってやりたい」
「なにか・・ご両親に伝えることでも、おありですか?」
「いいえ・・ただ、彼女の視線が最後は、私に向いていましたから・・」
「お葬式は、こころ会館とのことですよ・・ですからお通夜もたぶんそこで・・」
運転士君が教えてくれた。
こころ会館なら、俺の自宅にも近い。

運転士君が何かを探して国道の車を見ている。
「何を探しておられるんですか?」
「タクシーです。警察署に行きたいので・・」
「彼とですか?」
「ええ・・あ・・来ました」
運転士君は手を上げてタクシーを止めようとした。
タクシーはまさかこんなところで人が乗ってくるわけがないと思っていたのか、少し行き過ぎてから停車した。
少年をタクシーに乗せ、運転士君があとから乗り込んでいる。
「あ・・お客さん・・」
「あ・・私ですか?」
運転士君が俺をそう言って呼んだ。
そう呼ぶしかないだろうな・・俺はそれでも彼が表情を変えていないことに少し腹が立っていた。
「どうして、少女の名前を・・みかこさんだと、知っておられるのですか?」
「たいしたことじゃありません・・ちょっとね・・偶然ですよ・・」
運転士君はその答えに満足したように、タクシードライバーに行き先を告げて、走り去っていった。
一緒にいた少年が引きつったままの表情だったのが気の毒になった。
・・あいつは、刑事にでもなった気分だろうか・・
俺は少し苛立ちを覚えたけれど、すぐに線路の横の花束とたんぽぽに改めて気がついた。
少年はどうしてたんぽぽを持って来たのだろう・・
祈るといっても、何の呪文を唱えればいいか分からない。
仕方なく改めて手を合わせて、「なんみょーほーれんげきょー」と何度か口にした。俺の母が時折やっているお題目だ。
空を見るとよく晴れている。
昨日のような霞もなく、遠くまで海が見渡せる。
「みかこさん・・今から、持っていくね」
俺は空に語りかけた。
こころ会館に行けば彼女の関係者が誰か来ているだろう・・
俺は偶然に君と最後に目があった人間だ。
俺は偶然に君と出会ってしまった。けれども、もう二度と会うことの出来ない出会いだった。

俺は海に語りかけた。
「きみは、たんぽぽが好きなのかな?」
午後の光を反射して海が輝いている。
銀色の快速電車が、ゆっくりと俺の前を通り過ぎていく。
ファン!・・電車はなぜか軽く警笛を鳴らして過ぎていった。

テールライト

僕はイライラしていた。
やっと買った中古のスプリンタークーペを真っ赤に塗装し、太いタイヤをはめ込んで、仕事が終わると意味もなくエンジンをふかして突っ走っていた。
カセットデッキをつけ、スピーカーを増やし、気に入っていたバラードを大音量でかけていつも突っ走っていた。
ここは昭和58年の播州・加古川の町外れだった。

昨日、年下の友人、中村が同じような仲間がたむろする喫茶店に現れて、僕と村下の前にマッチ箱を投げてよこした。
村下は火のついていない煙草をくわえていたから「サンキュー」と言いつつ、そのマッチを取って火をつけ、改めてマッチ箱を見ていた。
村下の顔色が変わった。
「なんや・・」
僕は気になって村下の持っているマッチ箱を覗き込んだ。
・・ホテルテキサス・・
「おう・・中村・・このマッチは?」
村下の横に腰掛けた中村は「行ってきましてん」
そう答えてにやりと笑った。
「おうおう・・ええなあ・・」
そう言ったまま、村下は黙り込んでしまった。
僕は何のことか分からず・・「行ってきたって・・?」
「あほやなあ・・彼女とええことしてきたんやんけ・・」そう言って村下は煙草の煙をプウっと思い切り吐き出した。
「よかったでっせ・・」
中村がさらにそう言う。
「ふうん・・」僕はまだ何が何やら分からずに、相槌を打っていた。
中村が来る前、僕と村下の話題はトヨタがいいか、ニッサンか・・お互いのクルマをまるでその二つのメーカーの代表であるかのように会話をしていたのだ。
けれども・・どちらも中古車だった。
村下はニッサン・ローレルのクーペタイプで、大きくて堂々とした車だったし、僕のは当時としては小型スポーツの一つだったけれどもいずれも4年落ちの古いクルマだ。
「ほんまに良かったですわ・・」
「なにが?」僕の質問に、中村はビックリするようなことをいった。
「チチでんがな・・オナゴはよろしいで・・」
僕がビックリして、中村をまじまじと見ていると村下が「そらそうや・・!あれはええもんやからなあ・・」
いきなりそう言って相槌を打った。

僕たちはクルマを走らせ、ほとんど意味のない会話をし、時として「女欲しい」と叫ぶことはあっても、そこから出ることのない遊びが長く続いていたのだった。
僕と村下は同い年で二十歳、中村は二つ年下で18だった。
・・先を越された・・それは屈辱だった。
中村はクルマもトヨタクレスタの最上級車種の1年落ちを免許を取得してすぐに無茶なローンを組んで購入し、それで遊びまわっていた。

今日はその中村が彼女を連れてくるという。
いつもの喫茶店ではなく、居酒屋で会うことにした。
僕は居酒屋への道をぶっ飛ばしていた。
エンジンを思い切り回転させて、いきなりローギヤに放り込む・・クラッチペダルを離すその前にクルマの後輪は勢い良く回転し、派手な音を立ててスリップする。
信号がまだ青になる直前、クルマは一気に飛び出した。
2車線しかない道路を思い切り限りなく加速する。
2速3速そして5速・・加速はすさまじく、一気に時速100キロにもなる。
次の信号が見える。赤だ・・ここは小さな道路との交差点・・僕は思い切りクラクションを鳴らし、減速することなく一気にそこも通過する。
狭い道だ。景色が流れるというよりも飛んで行く。自転車が走っている横をさっと通過し、前のクルマを堂々と反対車線に出てごぼう抜きをする。
既に時速120キロ・・さすがに怖くなって、ゆっくりと速度を落とした。
恐怖感がイライラを収めていた。

居酒屋に着くと、中村はもう来ていた。
「ああ・・山田さん!」
中村はなぜか僕や村下には敬語を使う。年上を一応、立ててくれているのだ。
彼の横には胸の大きな可愛い女性が座っていた。
「はじめまして・・智子です」
女性はそう言って軽く微笑んだ。僕は彼女の胸を想像しながら「ああ・・よろしく」できるだけ気さくに明るく答えたやった。
暫くして、村下が入ってきた。
「おう!」
尊大ぶって入ってきた次の瞬間に彼は「あ・・はじめまして」おどけてわざと笑いを誘う。
笑うと智子はさらに可愛い。
八重歯がちらりと見える。
村下は僕のほうを見て「おまえなあ!もっとましな運転しろよ!」
そう叫んだ。
「見てたんかいな・・」
「見とったわい・・おまえ、あれは120キロくらい出とったやろ!」
「そうか・・そないには出とらんとおもうが・・」
「うそつけ!まるで暴走族やぞ・・」
そう言いながら笑った。
僕は少し鼻が高かった。智子が尊敬の眼差しで見ている気がしたのだ。

そのまま、たらふくそこで飲んで食べた。
店の外に出たときは酔いが回って、足元もおぼつかなくなっていた。
「大丈夫う?」
智子の甘ったるい声は誰に向けられているのだろう・・
僕は「風にあたろうや・・」そう提案した。
「ええなあ・・」「いやあ・・こんだけ酔っ払うと・・ええやないですかぁ・・」
二人も賛成し、「ええ!だいじょうぶなん?」智子もそう言ったものの、結構乗り気なようだ。
「ほなら・・六甲でも行くか・・」
そう言ってそのまま、村下を先頭に中村が2番、僕が3番で、列を作りクルマを走らせる。
酔っているからか、村下も中村も荒い。
秋の終わり、窓を開け、風を入れ、加古川から第二神明道路を神戸へ向けて突っ走る。
お互いの連絡をとる手段はない。
何かあればハサードランプの点滅で知らせることになっていた。

飲酒運転が危険なのは飲んだ直後ではない。
むしろ、呑んで暫くしてからのほうが判断力が鈍るため、まともな運転が出来なくなることがある。
僕は暫く走ってそれを実感した。
前を行く中村のクルマのテールランプが左右に揺れる。
道路のラインも判然としない・・それでも村下は、高速道路を時速100キロ以上の高速でぐいぐい引っ張っていく・・
僕はあくびをわざと繰り返した。
冷たい空気を出来るだけ腹に入れなければならない・・六甲へ行こうと提案したことを後悔した。
明石市内をしばらく走っていると、いきなり中村のクルマが左のウィンカーを出した。僕も左のウィンカーを出し、そのままそこのインターから高速道路を降りた。

「あかん!」
3台のクルマを並んで停車させて、村下がクルマから降りるなりそう言った。
「呑みすぎや!前が見えへん!」
「ちゃんと、運転してはりましたやン」
中村が村下にいう。
「そうそう・・全然普通やったやン・・」智子もそう言う。
「いや!このままでは六甲までは無理や!どっかで休憩しよう・・」
僕は助かったと思った。
村下がここで高速を降りてくれなければ、僕が事故を起こしたのかもしれない。
「とりあえず・・ここは通過するクルマも多いから、ファミレスにでも行こうや・・」
僕の提案に、揃ってファミリーレストランに入ることになった。
まだコンビニも、たくさんない時代だ。
夜といえばゲーム喫茶かファミリーレストランだった。

僕たちは明け方にようやく、その場から折り返してそれぞれの自宅に帰った。
「午前様なん?」
母が僕を問い詰めた。
一晩中、起きていたようだった。
すまないと思った。けれども出てきた言葉は全然別の言葉だった。
「うるさい!ほっとけや!」
2階に上がる階段で、僕は母の視線を感じた。
部屋に入ると、布団が敷いてあった。職場へ向かうまでの、ほんのひと時の眠りを、僕は貪った。

数日後、仲間がたむろする喫茶店で僕はコーヒーを飲んでいた。
先日来のイライラもようやく納まり、ゆったりとした気分で、新聞に目を通していた。
「あ!山田さん!」
中村が店に入ってきた。
僕は軽く頷いて彼を自分の居るボックスに迎え入れた。
中村の後ろから智子が入ってきた。
「クルマを変えようと思うんですわ・・」
中村がそう切り出した。
「君のクルマは・・僕のよりずっと新しいやんか・・なんで?」
「今やったら・・高く引き取ってくれるんですわ。それで、この際、クラウンに乗り換えようと思うんです」
「クラウン!」
僕は驚いた。
中村は、小売店に勤めている。
僕よりも給料が多いのだろうか?そう思ったけれど、それは口に出さなかった。
「こいつも賛成してくれるしね!」
智子が横でニコニコしている。
「だって・・クラウンって・・カッコいいでしょ」
僕は頷くだけで見ていた。
「クラウンの2,8ロイヤルサルーンですねん」
「今やったらクレスタの下取りが100万出るんですわ・・それでクラウンが頑張ってもらって、350万ほどやから、新車が今くらいの払いで買えるんです」
「へ!シンシャ!ちょっとやりすぎと違うのん・・」
「同じ乗るんやったら、気持ちがええ方がよろしいがな・・」
「そやけど・・今のローンも終わってないねんで・・」
さすがに僕は彼を止める気になってきた。
「ローンなんか・・銀行がなんぼでも貸してくれまっさ!」
いや・・それはちがう・・そう言いたかった。けれども僕には声が出ない。
「山田さんも、いつまでも中古に乗っとらんと、レビンかセリカの新車でも買いはったらええですのんや」
「いや・・僕はええわ・・」
バブルの絶頂期だ。
今から思えば馬鹿みたいな話が実際にあった。
けれども僕は、月々のガソリンスタンドからの請求すらしんどい状況で、中古とはいえ、クルマのローンもまだ残っていた。
僕には借金の上に借金を重ねる勇気はなかった。
その時、村下が店に入ってきた。
「おうおう!」
元気良く入ってきた村下は、中村の新車購入の話を聞いて、「ええのんちゃうのん・・新車はええで」それだけ言って、話題を変えてしまった。

中村はしばらく、とりとめのない話をしたあと智子と先に出て行った。
「おい山田よ・・中村・・あいつ・・大丈夫か」
喫茶店のマスターが話を聞いていたらしく、僕にそう言った。
「知らん・・好きにさせたれや・・」
村下がそう答えて「中村はあほか」と、小さくつぶやいた。

僕が自宅に帰って、自分の部屋で音楽を聴いていると、中村の母親が訪ねてきたと母が言ってきた。
僕に会いたいという。
答える前に中村の母は僕の部屋に入り込んできていた。
「お願いです・・山田さん・・息子に、もう少し、家にお金を入れるように伝えてください・・」
中村の家も僕の家も母子家庭だ。
僕も自分をどら息子だと思ってはいるけれど、毎月の給料の半分は母に手渡していた。
「中村君、お金を入れないんですか?」
「そうですねん・・今月は車を買いなおすから、家には入れへんって・・言いますねん」
「そら、えらいことですやん・・」
中村にはまだ小さな弟妹がある。
彼が家に金を入れなければ、母親のパートだけでは到底生活できないことくらいは僕にでもわかる。
「山田さん・・クルマって、そないに買い替えなあきまへんのんか?」
「いや・・僕なんか古いクルマに乗ってるし・・」
「そうですやん・・クルマみたいなもん、ええのんに乗ってもご飯食べられしまへん」
「今のクルマも十分ええクルマやけどな」
「そうですやろ・・私ら、乗せてもらったこともおまへんのや」
中村の母は涙を流して僕に訴えかける。
「健ちゃん、中村君にちゃんと話をしたりや・・」
僕の母もそばに来てそう言った。
僕には自信に溢れた中村を説得する自信はなかった。
「わかりました。お母さん、何とか言うては見ますけど、あいつ頑固やさかい・・」
やっとそれだけ言って、僕はその話を終えた。
中村の母は何度も頭を下げて出て行った。

しばらくすると中村から電話がかかった。
「山田さん・・今からドライブしますんやけど、付き合いまへんか?今日でクレスタも終わりやし・・」
オーケイ!と電話を切ってすぐに、彼がやってきた。
「今日は智子さんは?」
「会社の用事があるらしいんで・・」
僕は彼のクルマの助手席に乗り、中村はクルマを走らせた。
「やっぱり、あきまへんわ・・」
「なにが?」
「クルマですわ・・このクルマも可愛がってやったんですけど、やっぱり安もんですわ・・」
「安もんには思えへんけどなあ・・」
僕は僕のクルマとは比べ物にならない丁寧なつくりの車内を見てそう言った。
外の音もほとんど聞こえない。
軽くエンジンの音がするくらいだ。
「ちゃいまっせ・・クラウンロイヤルサルーンはよろしいで・・」
「そら、そうやろうけど・・僕のクルマよりはよっぽど上等やけどな・・このクルマ・・」
「山田さんのはスポーツタイプですがな・・僕のはサルーンですから・・やっぱりサルーンはクラウンですわ・・」
「ふうん・・それで、そのクラウン・・買うのん?」
「明日、納車ですねん・・これでやっと、誰にも馬鹿にされんと走れますわ・・」
「誰も馬鹿にはしてないと思うけど・・」
「いやあ・・やっぱり、クラウンとクレスタは違いますわ・・」
中村はそういいながら、クルマを高速道路につながるバイパスへ乗り入れさせた。
アクセルを踏み込む。
クルマは滑らかに加速する。オートマチックだ。僕のクルマのようなクラッチはこのクルマにはない。
「家にはお金を入れてるんか?」
僕はさっきの中村の母親の顔を思い浮かべながら訊いた。
「うちのおかん(母)がなんか言いに行きましたか?」
「ああ・・家にはきちんと、お金を入れてやらんと・・」
「なに言うてますねん・・お金はこれまで十分入れてきましたわ・・もうよろしいやろ・・僕は高校も行かんと働きましてんで、もう勘弁や・・」
中村は吐き捨てるように行った。
「そやけど・・家族にも生活があるやろし・・」
僕の言葉への答えはなかった。
クルマは夜のバイパスを疾走する。雨が降ってきた。光がにじんでいる。
前の車のテールランプがにじみながら、かすかに左右に揺れている。

それからしばらくして、中村の家族は居なくなった。
僕の母によると親戚を頼って、大阪へ行ったという。
中村は家族の居なくなった市営住宅を一人で使い、納車されたクラウンを大事に乗る毎日だった。
僕は心なしか、クルマに乗ることが楽しくは、なくなっていた。
月々のローン3万円少々も、これがあれば何が食べられるだろうかとか、中村の家族何日分の食費になるだろうかと考えるようになっていた。

翌年、春、中村からの電話は、僕を驚かせた。
朝、まだ夜が明ける前、甲高い音で鳴き続ける電話を、僕は朦朧とした意識で取り上げた。
「山田さぁん・・えらいこっちゃぁ・・事故ですねん」
「事故?・・どこで?」
「バイパスの出口ですねん・・今、警察に見てもろてますねん・・」
「何処の出口や?」
「加古川インターですねん・・」
すぐに行く・・僕はそう言って電話を切って、自分のクルマを走らせた。
加古川インターには何もなかった。もしかして・・そう思い、インターチェンジを迂回して、側道から反対側の出口へ回ってみた。
パトカーや救急車のものらしいパトランプがたくさん点滅し、4~5台のトラックや乗用車が停車していた。
側道から見ると停車しているだけに見えたけれども、インターの出口へ回るとそれらの車はすべて重なり合い、押しつぶしあった格好になっていた。
警察官や救急隊員が忙しく立ち働く中、呆然と立ち尽くしている中村を見つけた。
「おう!中村!大丈夫か!」
中村は案外しっかりした顔つきで、それでも腰が浮いたように僕のほうを見た。
「あきまへんのや・・あれですわ・・」
見ると、大型トラックの下に、彼の自慢のクラウン・・その白い車体が見えていた。
「よう助かったな・・」
「僕は、クルマから降りてましてん・・ここで脇にクルマ寄せて、友達、待ってましてん・・」
ここで・・?
ここはバイパスの出口だ。クルマが停車できるような場所ではない。
「なんで・・こんな場所で停まったんや・・?」
「友達が遅れたんですわ・・一緒に神戸へいってましてん・・」
「誰か怪我した人はあるのん?」
「ああ・・追突したトラックの運転士が、足をはさまれたみたいですわ・・」
あたりにはクルマの燃料やオイルが流れ出して、油の強い匂いが漂っている。
ガラスがそこら中に散らばっていた。
中村がクルマを止めて、後ろから来るはずの友人を待つ間、彼はクルマの外に出ていたという。
ここで待っていたのは、バイパス本線を友人がそのまま走行してきても見つけられるようにとの配慮からだったという。
トラックはここでバイパスを降りて、県道へ向かう予定だった。
まさか左に寄ったそのすぐ先で停車しているクルマがあることなぞ、考えもしなかっただろう・・
「もう少しや!」
人々の叫び声、トラックの運転台に閉じ込められた運転士の救出をしているところだった。
運転士は痛みからか表情をゆがめて、時折、窓の外を見ていた。
夜が明け始めていた。
あたりが少しずつ明るくなってきた。
「この車の運転手は?」
警察官が、トラックの下になった中村のクルマを指差している。
「僕です・・」中村が叫んだ。
「ちょっと来てもらおうか・・」
そのまま、彼は警察の車に乗せられていってしまった。
僕はしばらく、その現場を見ていた。
トラックの運転士が救出され、担架に載せられて、すぐに救急車に積み込まれた。
レッカー車がやってきて、トラックをゆっくりと動かし、中村のクルマが出てくる。
哀れにも中村のクルマは屋根がなくなっていた。
ここに彼が乗ったままだったら・・そのまま死んでいただろう・・そう考えると彼にも運があったというべきか・・それともその反対か・・?
僕はこれ以上、ここに居ても仕方がないので、自分のクルマに戻ることにした。バイパス出口と側道が合流するところに小さなタバコ屋があって、そこに公衆電話があった。
中村は先刻、ここから電話をかけて来たに違いない。
僕もその公衆電話を手にとって智子に電話を入れた。
幸い、すぐに智子本人が出てくれた。
「中村・・・えらいこっちゃで・・」
「え?信ちゃんが?」
僕は事故のいきさつを話して、電話を切った。電話なぞしないほうが良かったのではと思ったけれど、してしまった以上、後の祭りだ。
智子は泣き声はださなかったけれども、ショックを受けたようだった。

警察へ連れていかれた中村は、その日のうちに戻ってきたけれど、中村が失踪したのはそれからまもなくだった。
彼は友人のクルマを借りて、そのまま、借りたクルマごと失踪してしまった。
僕にも、村下にも、智子にも行き先を告げずに、消えてしまった。
一度だけ、智子がその後嫁いだ先の家に、現れたそうだ。
智子が玄関に出ると「元気か?」と訊いたと言う。
「元気よ・・・信ちゃん、元気なの?」
「いや・・あまり元気とちゃうねん・・幸せか?」
智子は彼の方になだれかかりそうになる気持ちをぐっと押さえて、こう言ったそうだ。
「めっちゃ・・シアワセやねん」
そうかと、彼は頷いて、そのまま消えてしまった。

一度、彼の名前がそのまま新聞に出ていたことがある。
自動車泥棒が逮捕されたという記事だった。けれども、その記事も年齢が違っていて、彼かどうかを確かめる術はなかった。

僕はその後、仕事を神戸の都心に変えてから、クルマを手放した。
クルマを手放すと、何の不自由もなく、むしろ、車に使っていたお金が少し、余るようになった。
そのお金で僕は一人暮らしをはじめ、やがて、結婚した。

僕は中村が高級車を買うといったその時に、何故、止めてやれなかったのか・・その思いをずっと抱いて生きている。
中村の家族も何処へ消えてしまったか全く分からない。
世の中は確かにバブルの絶頂期であったけれども、返す当てのないカネを平気で、18歳19歳頃の若者に貸し付けていた銀行系のローン会社は、既に潰れてしまって今はなく、一瞬でも夢を見、それによって人生を狂わせた若者の青春は帰ってこない。
今日も、僕が歩く道を、若者達が高価なサルーンや四輪駆動車に乗って過ぎていく。
願わくば、彼らには、中村のような不運が待っていないことを・・そう願いながら走り去るそれらのクルマのテールライトを眺めるのだ。

夢追い娘


南真吾は神戸駅で電車を降り、彼の恋人、清水絵里との待ち合わせ場所である地下街へ行こうとしていた。
ホームから階段を下り、改札を抜けるのももどかしく、既に待ち合わせの時間を10分ほどオーバーしているのだ。
焦らなければならない・・
「すみません!」
後ろから誰かが呼ぶ声が聞こえる。
自分には関係がないだろうと、彼はそのまま小走りに進む。
「すみません!待って下さい!」
え?・・俺か?・・そう思い立ち止まった。
息を切らせた小柄な女性がそこに立っていた。
「なんだよ・・俺は急いでいるんだ」
「ごめんなさい・・どうしても・・・」女性はそう言って、肩で息をしている。
「何かの勧誘かい?お断りだよ!」
真吾は投げ捨てるように言って、先へ進もうとしていた。
「勧誘じゃありません・・待って下さい!あなたにお願いがあるのです」
「願い・・なんだよ・・手短に頼むよ」
必死の女性の表情に負けた気がした。
女性は息を飲み込んで、姿勢を正して彼に正対した。
「あなたは私の理想の人です!お付き合いしてください!」
「は?」
「ずっと夢に見てきたんです。お付き合いしてください!」
真吾はまじまじと女性の姿を見た。
どこかに異常な感じがあるようには見えない・・けれども・・いったい何を言ってるのだ・・こいつ・・
「きみ・・いきなり何を言い出すんだ・・ちょっとへんだよ・・頭を冷やして休んだ方がいいよ」
「変じゃありません!あなたが理想の人なんです!」
「俺は今から彼女とデートだよ!じゃあな・・」
真吾はそう言い捨てて女性を振り切った。
そのままエスカレーターに乗った・・女性は今度はついては来なかった。
・・しかし・・小柄で、可愛い子だったな・・
そう思ったあと、慌ててそれを打ち消した。回りを見回した。彼の恋人になったはずの、清水絵里に見られていないか気になった。

エスカレーターを降りた先で絵里が立っていた。
携帯電話で話をしている。
「遅くなっちゃって・・ごめんね!」
真吾は出来る限りの笑顔を作って絵里に声をかけた。絵里は彼のほうをちらりと見たけれど、電話を手放さない。
彼は仕方がなく、所在なげに立っていた。
散々待たされた後、絵里は真吾に向かい、それまで笑顔で電話をかけていた表情を一変させて怒り出した。
「なによ!女の子を待たせるなんて!サイテー!」
「ごめんよ・・ちょっと仕事が・・」
「仕事?仕事のためにあたしとのデートに遅れてくるなんて、今までの男であんたが一番サイテーよ!」
「ごめん・・本当にごめん!今日は全部おごるから」
絵里はそれを聞くとさらに表情を怖くした。
「なに言ってるの!デートだと男がおごるの当たり前でしょ!もう許せない!今日は今からデパートで何か買ってもらうわ!」
絵里はそう言うと、いきなり歩き出した。
ハーバーランドのデパートへ・・その中のブランドショップへ入っていった。
真吾も仕方がなく、あとをついて入っていった。
「これを買って!」
2万3千円の値札がついている。
「分かったよ・・買ってあげるよ・・」
「何を言ってるの?買うのは当たり前でしょ・・あんたが怒らせたんだから」
絵里は店員を呼んでいる。
真吾の財布には今日は3万円が入っている。
「こちらでございますね。在庫はございませんから、現品でよろしいでしょうか?そのかわり少しお安くしておきますが・・」
「ええ!これだけなの!傷はないでしょうねえ・・で・・いくらになるの?」
絵里の問いかけに店員は真吾のほうを見て、とんでもないことを言った。
「そうですね・・1割引かせて頂いて、20万7千円でいかがでしょう?」
真吾は心臓が飛び出しそうになった。
無頓着に絵里が答える。
「展示品でしょ・・もう少し安くならないの?20万でどう!」
店員は一瞬たじろいだように、それでも笑顔を作って答えなおす。
「かしこまりました。20万円ちょうどですね。はい・・それで結構でございます」
そのまま店員は奥のレジへ言ってしまった。
「何してるの?」
絵里は今度は真吾に問う。
「いや・・絵里・・あの・・おれ、そんなに持っていないよ・・」
「カードがあるじゃない!」
絵里はこともなげに言い放つと、知らん顔をして、他の商品を見ていた。
真吾は仕方なく、財布からクレジットカードを出して、レジに行った。

奥で包んでもらったバックをかかえ、真吾が出てくると、絵里は嬉しそうな表情で、けれどもこう言う。
「ふん・・・私が安くなるよう、交渉したんだからね。感謝しなさいよ」
それから彼女は真吾の腕に自分の腕を回し、彼にくっつくように歩き始めた。
真吾の頭の中には支払いの20万円が重くのしかかり、普通に物事を考えられなくなっていた。
彼女はそのまま真吾を、ハーバーランドの入り口にあるホテルに向かわせた。
「ホテルで・・どうするの?」
ぼうっとした頭で真吾が問いただすと・・
「どうするって・・ご飯食べるのに決まっているでしょ!あなた!変なこと考えてるの!サイテー!」
「ごめん・・そう言うわけじゃなくて・・ご飯ね・・分かった」
ホテルに入るとそのまま、彼女は慣れた手つきでエレベーターに乗り込んで、18階のボタンを押した。
彼女が真吾を押し込むように入った店は鉄板焼きの店だった。
「いらっしゃいませ」
和服を着た女性が応対してくれる。
鉄板の向こうには調理師の格好をした男性が笑顔で立っていた。
その向こうは見事な神戸の景色が大きな窓一杯に広がっている。
「お任せでお願いね」
絵里が店の女性に注文をする。
いきなり、材料が並べられ、鉄板焼きが始まる。
「しまった・・」
この店はいったい、いくらするのだろう・・真吾にはそればかりが気になってきた。
高級そうなエビや魚や牛肉が惜しげもなく焼かれ、目の前に出てくる。
「おいしいねえ!」絵里はご機嫌だ。
真吾は味も分からない。心臓が重い気がする。

数時間後、疲れ果てた真吾は、絵里と別れて神戸駅の改札口を入っていこうとしていた。
結局、鉄板焼きで25000円、お茶代が2000円・・真吾が支払った。
「私もおごるわ!」
そう言って、絵里が唯一、今日お金を出してくれたのはスタンドのアイスクリームで、これは一つ200円ほどのものだった。
真吾は改札を抜けて、下り電車のホームへ行く階段を上がろうとしていた。
全身に疲労がたまっている。
カードの支払いの目処は立っていない。
絵里とはこれで3回目のデートだったけれど、ずっと金を使うことばかりしていた気がする。
遊園地や映画館では真吾がお金を出してもごく普通の気分でいられたし、そんなに高いものではなかったし・・だからその時には分からなかっただけなのだった。
「そういえば・・・いつも圧倒されて・・」
放心状態の真吾は、絵里とうまくやっていける自信をなくしつつあった。
真吾から見て絵里は憧れのタイプだった。きれいで明るくて、垢抜けていて、絵に書いたような美人に見えた。
友人が主催するコンパで出会い、一番目立ったのが彼女だったけれど、その彼女が付き合う相手として真吾を選んだ。
今までの2回のデートは映画と遊園地で、今日のように絵里が金を使わせることはなかった。
彼女は市内の女子大に通っているという。
真吾にはブランドのことは分からなかったけれど、たぶん絵里はブランド物しか身につけていないのではと、勘ぐってみたりもする。

「すみません!」
階段を上る真吾は後ろから声をかけられた。
「今まで待っていました!お願いです!お付き合いしてください!」
さっきのの女性が泣きそうな顔で立っていた。
「あの・・困るんだよね。いきなり・・」
真吾は呆れてそう言ったけれど、飾り気のない女性が必死で頼み込んでいる・・少し話を聞いても良いような気がした。
「おねがいです!あなたをずっと待っていました。おねがいです!」
真吾は息を飲み込んで、気持ちを落ち着かせた。
「なんだか知らないけれど、話だけは聞いてもいい・・」
「ほんとですか!ありがとうございます!わたし、実はずっと・・」
「あの・・ここでは人がたくさん見ているから、ホームの端に行こうよ」
真吾は彼女をプラットホームの先、長い編成の電車が来る時にしか、乗客がここまでは、やって来ないようなところへ彼女を連れて行った。
北風が吹いて寒い。
夜の暗がりの中、彼がさっき、馬鹿高い夕食をさせられたホテルも見えている。
電車がヘッドライトを照らして、こちらへ向かってくる。
「何で、俺をつけまわすのかな?」
真吾は女性に尋ねた。
「すみません・・でも・・でも・・信じてください。あなたじゃなきゃダメなんです」
「だから・・どうしてだよ・・」
「夢なんです」
「夢?」
女性は必死に彼にすがり付いてくる。
可愛い子だし、変な勧誘じゃなければいいんだけど・・さっきまでいたホテルの鉄板焼きは、あの建物のどのあたりだろう・・そんなことを思いながら、それでも必死の表情で迫る彼女をからかいたくなってきた。
「あんたの目的は?」
出来るだけ、意地が悪そうに聞いてみた。警察が尋問する時のように・・
「幸せです!」
「??・・俺と付き合えば幸せになれるの?」
「はい!」
「どうして?」
「夢です!昨日の夢なんです!」
「夢ねえ・・」
「わたし、夢の通りにしたら、絶対いい方向に行くんです。ゆうべ、あなたがそのままの格好で、夢にでてきたんです!だからわたし、今日は絶対あなたに会えると思ったんです!」
真吾は女性の目を見て立ち尽くしてしまった。
・・この子・・変なのか?・・
「わたし・・変じゃありません!夢の通りにすることだけなんです!」
「そんなことが今までにもあったの?」
「はい・・会社も夢で見た百貨店になったし、売り場も夢の通り、夢の通りなんです」
「百貨店にいるの?」
「はい・・あ・・ごめんなさい!わたし、キタノブコです。東西南北の北、信じるに子で・・北信子です。お願いです、お願いです・・私と付き合ってください!」
真吾は少し、落ち着いてきた。
言っていることは無茶苦茶な信子の、しかしそれでも何か納得するようなものを感じてはきた。
「僕には彼女がいるんだ。・・だから君とは付き合えないよ」
「大丈夫です!あなたは彼女と別れます。っていうか、そのうちに連絡もなくなります」
「勝手にきめるなよ・・折角、今、あいつに22万7千円使ったばかりだよ。そんなに急には別れられないよ」
そう答えながら、もう自分が絵里と別れることを考えていることに驚いた。
その時、真吾の携帯電話が鳴った。
「はーい!真吾!私よ・・絵里!今日は楽しかったね!また遊ぼうね!」
一方的にそう言うと、電話は向こうからきれた。
「彼女でしょ・・」
信子が訊く。
「ああ・・」
「もう電話はありませんよ・・たぶん・・」
「どうしてそれが分かるの?」
「さあ・・なんとなく・・」
真吾は頭に来て、電話を彼から絵里にかけた。
留守番電話になって、出てはくれない。
「ね・・気にしなくていいんですよ・・」
満面の笑顔を作って信子が真吾を見る。

真吾は溜息をつきながら、もう一つ、意地悪な質問をしてやろうと思った。
「じゃあ・・君と付き合うって、どんな風に付き合うんだい?」
信子はきょとんとして彼を見ている。
「俺は今すぐにでも、セックスの出来る付き合いがいいんだ」
信子は表情を変えない。
「無理してはいけません・・」
「え?無理?」
「あなたはまだ、女の子を知らないでしょ・・そんな無理をしては疲れるだけです」
真吾は一瞬、後ずさりしそうになった。何でこの子はそんなことまで分かるんだ・・
「何を言う・・女の子なんて何人も知っているさ・・」
「ダメですって・・あなたは全く知らないはずです・・無理をした青春は疲れますよ」
「じゃあ・・君は男なら手玉にとるような女なんだ」
信子は頬を赤らめた。
「そんなことないです・・私だって・・知らないのですもの・・」
真吾はそれを見て笑った。信子も照れたように笑った。

「君は面白いなあ・・俺はミナミシンゴ・・方角の南に真剣の真、吾は漢数字の五の下に口だ」
名前を教えてやると、信子の表情が感動の表情になってしまった。
「やっぱり・・やっぱりそうだったのですね!北と南、シンゴと・・私の名前もシンコって読めるでしょ・・やっぱりそうだったのです」
真吾が見ると信子は感極まって涙を流していた。
・・俺のところに来る女は・・変なのばかりだなあ・・真吾は妙に納得しながら、どういう訳かやってきた新快速電車に二人で乗り込んでしまった。
次の停車駅は明石であるという車内放送が流れる。
「え・・なんで・・俺・・この電車に乗っているの?」
「今から、明石に行くの!船を見に行くの!」
信子は混んだ電車の中でいたずらっぽく笑った。まだ、涙は乾いていなかった。

明石駅で電車を降りて、信子はゆっくりと、時折、真吾のほうを見ながら歩いている。
商店街を抜け、漁船が係留されている運河にかかった橋を渡る。
「信子さん・・」真吾は信子に声をかけた。
「はい・・ノブコって呼んで下さい」
「じゃ、信子・・君はいつも絶対に夢の通りにするわけ?」
「いつもじゃないんです」
「夢は絶対なんだろ?」
「いいえ・・目覚めた時に、なんだか暖かい気持ちになるのが、いい夢で、寒い気持ちになるのが悪い夢で・・」
「いい夢だとその通りにすれば良いのかい?」
「そうなんです・・悪い夢の時は・・こうしちゃいけないって言う・・神様からの御言付けだと思っています」
神様・・新興宗教かな?真吾はちょっと身構えた。
フェリー乗り場にはちょうど船が一艘入っていて、クルマが乗り込んでいくところだった。
二人は乗り場の右側の、店や住宅が並んでいるあたりに立った。
「信子・・君は何か宗教をしているの?」
「宗教?」
「さっき・・神様って言ったじゃないか・・」
信子はここに来てから、ちょっと楽になったようだった。
おっとりとした喋り方になっていた。
「宗教は、特にはもっていないのですけど、私には、私の神様が、宇宙から見てくれているって・・勝手にそう信じています」
港の波はやんわりと上下し、船もかすかに揺れる程度だ。
港といっても、さして大きくなく、周りの明かりも少ない。
遠くに明石海峡大橋のライトアップされた姿が見える。
「宗教を持っていないのに・・神様か・・面白いね」
「本当は神様って、宇宙そのものじゃないかって思うんですよ。それを人間が色々な形に考えただけじゃないかって・・変ですか?こんな風に思っているの・・」
信子は屈託なく、真吾を見ていた。
「変じゃないし・・とても素敵だと思う」
「素敵?本当ですか?」
「本当だよ」
二人はのんびりと歩き始めていた。駅のほうへ向かう道をゆっくりと歩く。
「君はどこに住んでいるの?」
「西明石でお母さんと住んでいます」
「ふうん・・僕は垂水駅からちょっと歩いたところのマンションだ」
そう真吾が言うと、信子は頷きながら「やっぱり・・」という。
「やっぱりって・・知っているの?」
「夢の中に、垂水駅から二人で歩くシーンが出てくるんです」
「なるほど・・」
もう、真吾は素直に信子の夢を信じるようになっていた。二人は運河にかかる橋の欄干に身体をもたらせて係留する船を見ている。
船はひっそりと静まり返っている。時折、車が橋を通過していく。
「あの・・」
信子が真吾のほうを向いた。
真吾は黙って信子の身体を引き寄せて、唇を合わせた。
ぺったりと唇が合わさる感触が不思議だった。
「やっぱり・・」真吾が信子の肩から手を離すと、信子の目が潤んでいるのが分かった。
「神様の言うとおりにして・・よかった・・」
「キスも夢に見たの?」真吾は少し頬に血が上ってくる感触を味わいながら、信子を見ている。
「はい・・ゆうべです・・」
嬉しそうに、信子は答えていた。

翌朝、真吾は絵里の携帯電話に電話をかけてみた。
「おかけになった番号は・・」味気のない機械の女性の声が聞こえる。
諦めた。
・・あの女、ああやって、男を漁っては何かをせびり倒すんだろうなあ・・
そう思った。腹が立つよりも、乗せられた自分が情けなかった。
しかし、昨日、信子と不思議な出会いをした。
夢がどうのと言うのは、正直言って合点が行かないが、信子本人は可愛くて、女の子らしい性格で、かえって良かったような気がした。
初めてのキスが新鮮だった。ペたっという感触が、あんなものだろうかと不思議な気もした。
昨夜は明石駅で別れた。
お互いに電話番号を交換したし、信子は彼の家の場所も詳しく訊きだしてきた。
今日は彼は休みだった。
出かけようにも小遣いを使いきってしまっているから、どうしようもなく、射し込む朝日に、このまま寝ていようと腹をきめた。
昼まで眠った。
けれども、昨日会った信子に会いたくなってきた。
彼女は三宮の百貨店にいるという。

三宮駅前の老舗百貨店の地下、お菓子売り場に信子はいた。
売っているものが、結構、高級志向のお菓子で、販売と同時にほとんど必ず熨斗紙をつけ、表書きをしなければならない。
何人かのお客が続いて、ようやく一息ついたとき「信子さん」彼女を呼ぶ声が聞こえた。
真吾が照れたような笑顔で立っていた。
「来て下さったんですか!」
照れた表情を隠せず、うんと頷いて「今日は何時まで?」と真吾は訊いた。
「今日は早番で、4時までなんです!」
嬉しそうに彼女が答えた。
「もう少しだね・・阪神の改札前で待っているから・・」
真吾はそれだけを言うと軽く手を振ってそこを離れた。
信子の同僚が彼女をからかう様子が見えるような気がした。
信子は、嬉しかった。
正直、昨日必死で彼を射止めたものの、本当に続いてくれるかは不安だったのだ。

「今日は、俺が来る夢は見たかい?」
三宮の歩道橋で真吾は信子に訊いた。
「それが・・」
「見なかったのかい?」
「はい・・」
「じゃ・・どうしよう?」
「きっと大丈夫です・・一緒にご飯食べましょう!」
信子は頬を赤くして、きれいな笑顔を見せた。
三ノ宮駅の売店の横を通り過ぎた時、真吾は見たことのある顔を見つけた。
売店に売り子の格好をして立っているのは・・間違いない・・絵里だ。
「ちょっと待ってね・・」
信子にそういい、彼は売店に向かった。
「すみません!缶コーヒー!」
忙しく立ち働く絵里にそう声をかけた。
「そこの扉、開けてとってくれる!」
つっけんどんに叫ばれる。
「分かりました・・絵里さん!」
え・・絵里はまじまじと真吾の顔を見た。
「こんなに目立つ場所で働いているのなら、あまり悪いことはしない方が良いよ」
「あの・・」
真吾は缶コーヒーのケースから自分で商品を取り出して120円を置いた。
「アルバイト?」
「いえ・・」
「社員なんだ・・もう少し愛想を良くしないと会社の評判が落ちるぞ!」
絵里は凍りついたように立ちすくんだまま、それでも真吾が差し出した小銭をレジに入れていた。
「じゃあな!いいオトコ、見つけろよ!」
真吾は大声で叫んでやった。
そのままそこを立ち去ろうとすると、絵里が叫んだ。
「バック・・ありがとうね!」
真吾は軽く手をあげて分かったよと、合図をしてやった。
なぜか憎めないな・・あいつは・・
そう思った。
信子が待っていた。
「彼女だった・・人?」
「うん・・」
「彼女のことが好き?」
不安そうに訊く信子に、真吾は大きく首を振って答えた。
「まさか・・」

その日、帰りの電車の中で、二人は前向きのシートに並んで座れた。
今日は真吾は彼女の家まで送るつもりでいた。
電車が発車してまもなく、信子が真吾にもたれかかってきた。
見ると、眠ってしまっている。
・・安心したのかな・・昨日も必死だったんだろうなあ・・
真吾は少しおかしくなった。

西明石駅で降りて、彼女の家へ向かう道、駅を出て暫くして彼女はこう言った。
「今ね・・今さっき・・夢の中で、ラーメンを食べて、ぶらぶら歩いて、電車に乗ったの・・」
「今日の行動パターンそのものじゃないか・・」
「そう・・夢の方があとからきたみたいです。・・神様も真吾さんのスピードにはついていけなかったみたい・・」
二人は顔を見合わせて笑った。
お金がないから、ラーメンにしたけれど、美味しかったし、神様も認めてくれた・・真吾はそう思った。
肩を寄せ合って、ゆっくり歩いて、もう少しで信子の家に着くというとき、信子が急に思い立ったように言う。
「あのね・・ちょっと・・お顔を貸してください」
ん?真吾は信子のほうを見た。
信子はあたりを見回してから、真吾に抱きついてきた。
いきなり口を寄せてきた。
「本当のキスって・・こうするんですって・・」

1995年1月17日、僕は神戸市垂水区の自宅であの大地震に出会った。
ちょうど連休の忙しさがあけて、やっと休みになった最初の日だった。
疲れからか、なぜか深い眠りにならず、切れ切れの夢の中で、いきなり、身体が宙に浮いたような気がした。
そこから先はまさに数十秒の地獄というべきか・・寝室の中のものが全て倒れ、壊れ、僕の身体に降りかかってきた。
揺れが収まって、人心地がついた頃、あちらこちらから女性の悲鳴が聞こえ、それはすぐに小さくなっていった。
別の部屋で寝ていた妻と娘は倒れる家具の間に入って、奇跡的に傷一つおわなかった。

僕は、独身時代に永く須磨区に住んでいた。
須磨区の中でも、山陽電車の南側、板宿、東須磨、両方の駅へいずれも歩いて5分程度でいける交通至便な下町に住んでいた。
この街には古きよき下町の風情がまだ残っていて、粗末なアパートで一人暮らしをしている僕をそれこそ町中の人たちが色々な応援をしてくれたものだった。
垂水区の僕の自宅では何枚かの窓ガラスが割れて、食器類が壊れ、僕の本棚が崩壊して本がすべて部屋中に散乱したくらいで実質的な被害は小さかった。
けれども、夜が明けてから、団地の近隣の友人、数人で裏山に登り、そこから見た、須磨方面から昇る真っ黒な煙は全てを飲み込む絶望に見えたものだ。
午後には電気が通じ、いきなりスイッチが入ったテレビ画面の想像を絶する事態・・
まず、当日と翌日、家族のための水と食料、赤ん坊のミルクとおむつをなんとか数日分、近くのスーパーで並んで確保し、その翌々日、僕は単線で板宿まで再開した市営地下鉄に乗って、板宿へ出むいた。
須磨区在住時、僕をこの街で守ってくれた大切な人や、気の置けない友人達の行方がどうにもわからなかったからだ。

学園都市駅へ出ると地下鉄はほぼ二十分ごとに出ている様子だった。
やってきた電車の車内は、汗と体臭ですえた臭いがした。
人々は顔も黒く、一様にリュックを背負っていた。
「これが、あのお洒落で誇り高い神戸市民か・・」
僅か数日で何もかもがかわってしまった。電車は、ゆっくりと進む。
時折、駅ではない場所で止まっていたりする。
名谷駅手前の下り線の高架橋が崩れそうになっているのが分かった。これを避けるために、単線運転になっていたのだ。
名谷駅では電車の入れ替わりがあるようだった。
隣のホームの電車に乗り換えると、ゆっくりと動き始めた。

板宿駅は普段とさして変わらない雰囲気で、エスカレーターも動いていたし、照明も全てついていた。
けれども駅は人で溢れていた。
僕は懐かしい駅から、外に出た。
山陽電車の南側は何もかもが崩れて傾いて、眩暈がした。
大火はほぼ押さえたものの、まだ火事の煙がくすぶって、あたりを覆っていた。
傾いたビルのいくつかを見て、絶望感を覚える・・これらのビルには知り合いが住んでいるのだ。
そんなビルの下で、今、同じ町に住んでいる西本さんと出会った。
「こんなところでどうされたのですか?」
訊ねると、「僕の会社の横まで火が来てるんや・・大事な書類やらを持ち出してきたところや・・」
西本さんは、靴の町、長田でブランド物の靴をデザインする仕事をしている。昨年に独立して、新長田駅近くのビルに事務所を借りたけれど、そこまで火が来ていると言う。
「仕方ないわい・・燃えたら燃えたまでや・・」
すすけて黒い顔に笑顔を作って「君も、気をつけて歩けよ・・」そい言ってくれて別れた。

大黒小学校を覗いてみた。
入り口でたまたま、知り合いの一川さんのご主人と出会う。
板宿駅前の、倒壊したビルに住んでいた人だ。
「大丈夫だったのですか!よかった・・」
ご主人に案内され、奥さんのいる部屋へ・・教室の奥のほうで、奥さんは窮屈そうに座っていた。

・・ドカーンと揺れたでしょ・・そうしたら、床が抜けたみたいに下へ落ちてね・・部屋が斜めになっているの・・箪笥も食器棚もひっくり返ってね・・それでもなんとか二人は無事だったのだけれど、あたりは真っ暗だし、どうすればいいか分からないし・・この人ったら、落ち着こうやって言いながら煙草に火をつけようとするねんで・・信じられへんやろ。わたし、思わず殴ったがな・・あんた!このガスの匂い、分からへんのかいなって・・

まるで漫才のように、笑いながら語ってくれる。
僕のほうが逆に元気を貰った感じだ。リュックの中からおにぎりとお茶を出して渡すと「ありがとう・・ご飯が少ないの・・」そう言って、手を合わせてくれた。
小学校の玄関へ戻ろうとすると、ここに住んでいたころの悪友、中松君がこちらへやってくるのに出くわした。
二人で再開を喜んで思わず彼の手を握り締めた。
「車が壊れてしもてん」彼の第一声はそれだった。クルマの好きな青年で、特にトヨタの小型スポーツカー・レビンの大ファンだった。
少し以前に新型を購入したと電話をくれていたので、そのときの彼の喜びを思うにつけ、気の毒になってきた。
なんでも立体駐車場に入れていたのだが、その駐車場が倒壊し、クルマはそこから放り出され、外の電柱に串刺しになってしまったと言う。
諦めたように、けれど妙に明るく彼は語ってくれた。
彼に案内されて、グランドへ・・懐かしい顔がたくさん集まっていた。
湯を沸かしているようだった。
「川で水をくみ上げてな・・湯でも沸かせば、なんかに使えるやろ・・」
川の水であり、飲める水ではないけれど、身体をふくことくらいは出来る・・それと校舎の中では暖房がなく、外で、壊れた住宅の残骸を集めて焚き火をしていたほうが暖がとれるのだという。
内装工事の会社をしている林さん一族が中心になってやっていた。
「あれ・・社長さんは?」僕が尋ねると、「マンションの横で警察に付き合っている・・」とのことだった。
ここでは何人かの消息がつかめた。

自動車販売会社に勤めていた下川君一家の状況は大変だった。
彼には二人の子供がいた。上の子は女の子で5歳になったばかり、下の子は男の子でまだ1歳だけれども、生まれてすぐに心臓の病気があることが分かり、最近手術をしたそうだ。
手術は神戸市の中央市民病院で、手術そのものは上手くいったけれども、術後の管理が予断を許さない状況で、母である彼の妻は病院で付っきり、の看護をしていた。
上のお嬢ちゃんは、彼の母親・・お婆ちゃんの家に預けられ、長田区の山の手にいた。
彼一人、自宅にいて、毎日仕事に出かけていたそうだ。
そこにおきた大地震、中央市民病院は停電となり、手術後の息子さんの生命維持が極めて危うい中、医師や看護婦、それに彼の妻も加わって、人工呼吸器を手動で動かし続ける事態となった。
上のお嬢ちゃんがいた長田のお婆ちゃんの家は、崩壊し、崩れた住宅の下敷きになって、お嬢ちゃんは亡くなってしまった。
可愛い、おしゃまなお嬢ちゃんだった。
夜にお邪魔すると、良くお母さんと台所のカウンターで何かをしていた姿が思い出される。
洗い物の仕方を教わっていたのかな?
下川君の会社の建物も危なく、商品も被害にあい、彼の自宅は激震のど真ん中でありながら、頑丈に残ったのに、人生の苦しみが一気に攻めてきてしまった。

僕がこの町にいる頃、隣保に住む不動産屋さんん、桑田さんの奥さんがいつも、様々に気を配って、おかずや、おやつの差し入れをしてくれた。
桑田さんの住んでいた住宅も古い木造住宅だった。
揺れ始めてすぐに、住宅は倒壊してしまった。ご主人は難を逃れたけれど、奥さんは天井の梁の下敷きになってしまった。即死だったそうだ。顔も身体もきれいで、ご主人はいつまで寝ているのかと思ったそうだ。
奥さんの遺体はなんとか隣保の人たちが外に出したけれど安置するところがない。
仕方がなく、解体予定で誰もすんでいなかった市営住宅の一室に安置したそうだ。そこには隣保で亡くなったほかの方の遺体も運び込まれていた。
数時間してそこを見てみると遺体がない・・
他の方の遺体はあるのに、奥さんの遺体だけがない・・
その場にいた誰もが、息を呑んで、顔を見合わせたとき、ご主人がぽつりとこう言った。
「歩いて行ったんとちゃうか・・」
緊迫した空気が一気に溶けた。
結局、奥さんの遺体は市の職員が気を使って、区の総合安置所になっている区民センターに運んでくれていたそうだ。

校庭の中で竹山さんの奥さんと出会った。
この人のお嬢さん・・妙齢の美人で気さくな人だったけれど、この方が亡くなったことだけは知っていた。
テレビの画面で亡くなった方の名前が報道されたけれど、そのごく最初の頃に名前が出ていた人だった。お名前に変わった字が使ってあったのですぐに分かったのだけれども、テレビ局のアナウンサーはそれぞれ勝手な呼び方をしていた。
ちょうど、僕が住んでいたアパートの川向にあたる場所で、このお宅も古い木造住宅だった。
竹山さんとはその後も、妙な縁があって、僕が板宿で、震災後に商売を始めた時、すぐ近くで、おいしいお惣菜のお店をしておられ、よくお世話になったものだ。
そのときに、お嬢さんの成人式の記念撮影のネガフィルムが僕の知り合いのスタジオにあったので、スタジオにお願いしてお店にお届けしたこともあった。
改めてその写真を見ると、やはり気品の漂う、きれいなお嬢さんだった。

僕は大黒小学校の方々にお礼を言い、それぞれに少しずつ、飲み物とおにぎりを手渡して、そこをあとにした。
内装工事会社の林さんのご主人とも会いたいし、自分の住んでいたアパートのことも心配だった。
まず、妙法寺川公園前の自分が住んでいたアパートを見に行った。
なんと、2車線の道路の真ん中、アパートの2階が放り出されて鎮座していた。
隣にあった喫茶店は影もなくただの瓦礫と化し、店の看板が道路に転がっている。
アパートの隣には1階が駐車場になったマンションがあったけれども、駐車場はなく、マンションの2階がそのまま1階になってしまっている。

僕の住んでいた部屋にあとで入った人は、隣のマンションで娘家族と一緒に生活をしていた婦人だった。
孫も大きくなり、部屋が手狭になったことから、すぐ隣のアパートの、しかも前居住者が自分も良く知る青年・・つまり僕だが・・だった部屋を借りて一人で住んでいた。
地震の当日、この婦人は友人と九州旅行中で、それを家族に知らせずに行っていたものだから、地震の日、アパートの前で、息子さん、娘さんが泣いていたそうだ。
けれども、命からがら逃げ出した同じアパートの方が「奥さん、九州旅行中やで」と、泣いている家族に伝えたものだから、息子さんも娘さんも喜んでいいのか怒っていいのか判らず、不思議な気持ちになったそうだ。
これはもちろん後で聞いた話で、このときの僕は、ひたすら心配するだけで、何も知らなかったのだけれども・・

隣のマンションにはこの頃、アメリカへ家族で長期出張に行っている大石君の部屋もあった。
大石君はアメリカから電話をくれ「部屋は諦めているから、近隣の方々の消息を出来るだけ詳しく教えて欲しい」と言って来ていた。
大石君の奥さんは美香ちゃんといって、美人で可愛くて、僕たち地元青年達の憧れの的だった。けれど、どういう訳かその中でも一番さえなく見える大石君と結婚したものだから、その頃は皆、大石君を見直したり、悔しがったり、美香ちゃんの視力を心配したりしていた。
その大石君の奥さん、美香ちゃんも、実家の様子がわからずに、苦しんでいた。
あとで、彼女のご両親は命に別状はなかったけれども、怪我をして入院していることがわかった。

内装工事会社社長の林さんのマンションに行くと、建物は壁にひびが入っているものの、壊れてはいなかった。
けれど隣の薬局は倒壊し、商品が道路に散乱している。
「社長さん!」
向かいの焼け焦げた住宅の屋根の上に林さんの姿があった。
「おう!お前は助かったのか!」
「僕もそっちへ行きます!」
焼けた住宅に行こうとすると「来るな!この家の人の焼死体があるんや・・いま、警察に見てもらっているところや・・」
そう叫ばれた。
「俺は亡くなった人をたくさん見たけれど、お前はまだ見ていないやろ・・見るものじゃあない・・来るなよ・・」
そう言って、しばらくしてから林さんが降りてきた。
警察官も二人、林さんのいた所から這い出てきた。
見舞いを言おうとしたが、僕はすでに見舞いの言葉も出なくなっていた。
女性が崩れた薬局を見ている。何かが欲しいようだ。
「何かいるものがありますか?」林さんが声をかけた。
見ていた人はビックリしたように、それでも「子供のおむつがあれば・・」と言う。
「待ってや・・」林さんはそう言って、覗き込んでいた人と店の中に入っていった。
おむつの袋をいくらか取り出し「要る物があるときはワシに声をかけてくれたらええからな・・」そう言っていた。
「この店の番もされているのですか?」
「番やないけど、放っておいたらいくらでも持っていかれるやろ・・それでは泥棒やからなあ・・」
「この店の人は?」
「怪我をして、病院に運ばれていってしもてな・・」
長田から始まった大火は、このマンションの壁でとまった。
僕はその様子をテレビで見ていて、このマンションも焼けてしまったかと思っていたのだが、煤で多少黒くはなっても厳然とそこにある姿に安堵した。
けれども、地元の住民達は、この町内で唯一ともいえる鉄筋コンクリート5階建てのこの建物で火を止めないと、町が全て焼けてしまうと必死で消火にあたったそうだ。
妙法寺川から水をくみ上げ、人海戦術でバケツリレーをしたそうだ。つまり建物は偶然、残ったわけではなく、町内の方々が守った結果なのだと分かった。

僕はまだ、今日中に行きたいところもあるし、捜索の邪魔も出来ないのですぐにそこを離れた。
大通りに出ると福田君の実家があった。
外から見ても何も変わったようには見えない。少し離れてよく見てみると、屋根の三角がなくなっていることに気がついた。
福田君は僕と同い年の学校の先生だった。彼は結婚して実家を離れていたけれど、実家には妹さんとお母さんが残っていた。お母さんは2階で寝ていた。
地震の揺れで、こともあろうに屋根が抜け落ちて、お母さんを直撃したそうだ。即死だっただろうとのこと。
けれども顔はとてもきれいだったそうだ。
この人も、明るく、いかにも下町の人と言う感じの人だった。
僕は福田君の実家の前で手を合わせた。

西へ進む。
12階建ての市営住宅がある。そこの前は通行止めになって、自衛隊の人がそこで案内をしていた。
「ここは通れません・・大回りしてください」
そういわれた。
見ると住宅がほとんど倒れる寸前まで傾いている。
・・ここを通れないと遠回りだ・・そう思いながら、しばらく立ち尽くしていると、地面が揺れた。
余震だ。
みしみしと建物の方から不気味な音も聞こえる。
自衛隊員の顔色も変わっていた。
仕方がなく、やや山の手方向へ、先ほどの小学校の前を歩いて、板宿駅に出た。道路は建物が倒壊し、瓦礫が散らばり、その脇ではクルマが渋滞していて、歩きにくい・・
山陽電車の駅は上りのホームも、上屋も完全に崩壊してただの瓦礫になってしまっていた。
下りのホームは地下工事のために仮設状態だったが、こちらはなんともない感じだった。けれども、線路の先を見ると沿線の建物がたくさん崩れて線路に入り込んでいた。
僕は線路を西代まで歩くことにした。ここが多分、歩くには一番安全だろう・・すぐに放置されている4両編成の電車があった。
脱線はしていないけれど、乗客が逃げるのに使ったのか、電車の長いシートが散乱していた。
西代駅まで線路を歩いて、そこから怖い道路を歩く。
上沢通りに入って、僕の母の友人、高地さんの家をたずねる。
夢の台高校近くの高層市営住宅だった。
ここは数棟、同じような住宅が建つ団地だった。
けれども、何棟かの建物は下の階が押しつぶされ、その瓦礫の上に建物がかろうじて乗っかかり、傾いていた。
いったい・・どれくらいの方が亡くなったのだろう・・
高地さんの無事も確かめたわけではない。

この団地は二棟で一つのエレベーターを作ってあって、その二棟の間は各階の橋で連絡されていた。
けれども、高地さんの部屋はエレベーターのない側にあって、エレベーターのある側の建物は完全に倒壊してしまっていた。
僕はまるでバイオレンス映画のような景色を見ながら、階段を昇った。
八階の通路に出ると、高地さんのご主人が盆栽の手入れをしていた。
「大丈夫だったんですか!」
叫ぶと「おお!」と声を上げて招いてくれた。
騒ぎに奥さんも中から出てきた。
家の中はすっかり片付いて、地震などどこであったのかというくらい小奇麗にしてあった。
「すっかり片付いていますね!」
「近所の人たちが、よってたかって直してくれてん」
もう、箪笥の上にも荷物が積んである。
「あんな地震はもう来えへんさかいな・・こうやって積み上げてあるんや」
腹が据わっている人は強い。
それでも、この付近の被害の話になると、奥さんは涙をこぼした。
「あそこでも友達が亡くなって、ここでは、若い人が亡くなって・・こんなに哀しいことは今までにあらへんかった」
長田生まれの長田育ち、戦争も見てきた人だ。
部屋の中は電気がなく薄くらい。

部屋を出るときにおにぎりのパックを貰った。
「たくさんは食べられないから、途中で食べて・・」
ボランティアの人が配ってくれたと言う。重なって余ってしまったけれど、捨てるのがもったいないと言うのだ。
礼を言って、団地を出た。
歩きながらさっきのおにぎりを食べてみた。
僕も、朝、自宅を出てから昼は食べていなかった。
ご飯に芯があって、かみにくい。とてもおにぎりとは思えない。まるで生米を固めたものを齧っているようだ。
パックは二つあって、それぞれに小さなおにぎりが二つ入れてあった。
もう一つのパックはご飯は柔らかだった。でも、味がついていなかった。

僕は兵庫区の平野に向かった。
連絡の取れない妻の親友がいたからだ。
クルマが数珠繋ぎになり、満員のバスが止まったまま動けない道を、ひたすら歩いた。
平野に着いた時はすっかり日が暮れていた。
五宮小学校に入って訊ねてみた。
ここはすでにボランティアの組織が出来上がっているようで、校内もきちんと整頓され、人々の顔もきれいだった。
ボランティアのリーダー格の人が出てきてくれた。
「あ!」「おう!」
僕が板宿に住んでいた時、近隣にいて、よく一緒に飲んだ仲の人だった。
檀上さんと言う。
「檀上さん、どないしたんや・・」
「こっちに越してきて、いくらも、たたんうちにこの地震でなあ・・折角の家も潰れたわ・・」
「で・・今リーダーをしているの?」
「仕事も潰れたし、することないしなぁ・・」檀上さんはそう言って笑った。
そのとき、高校生くらいの女の子が二人、檀上さんに声をかけてきた。
「すみません・・今日の晩御飯・・あたってないのですけど・・」
檀上さんはうんと頷いたあと「僕も食べてないねん・・今日の晩御飯はちょっとしか来なかったんや・・わるい・・明日の朝まで我慢してくれ・・」そう言って少女達に頭を下げた。
「大変やな・・」僕は彼にそう言うのがやっとだった。
「ここは西からも東からも一番遠いから、食料が来ないのや・・そのかわり水はあるし、商店街の一部は明かりも点くんやけどな・・」
「水が出るの?」
「うん・・浄水場が近いからな・・」
それで、この学校には清潔感が漂っていたのか・・僕は納得したけれど、食べ盛りの少女に食べ物があたらないのは辛いだろうと思う。ボランティアも、教師も、今日は何も食べることが出来ず、水ばかり飲んでいたそうだ。
捜していた妻の友人の消息は判らず、僕は自宅まで行ってみることにした。

平野の商店街はもう営業している店まであった。
ここは祇園さんの門前町、古くからの商店街だ。僕が生まれたのもこの近くで、この町の不思議な平静さはこれまで瓦礫ばかり見てきた目にはほっとさせる何かがあった。
妻のメモを頼りに商店街の裏側に入ってみた。
二階建ての文化住宅はひっそりとしていたけれど、意外にも何軒か明かりが点いていた。
妻の友人、沢井さんのお宅にも明かりが点いていた。
玄関の扉をノックすると、見覚えのある、可愛い女性が顔を出した。
妻からのお見舞いと、最後に残ったお茶と果物をリュックから取り出して手渡した。彼女は泣いていた。
「避難所に行っても余りにも人が多くて、居場所がなくて、それでお父さんが、自分の家に戻ろうって・・」
奥からご両親も出てこられた。
「この家、ちょっと傾いとるけど、まあ、どこも壊れてへんしな・・」
お父さんが大声で明るく笑った。僕も釣られて笑った。

僕はそれからすっかり日の暮れた町をひたすら歩いた。
バスも板宿まで長田の山の手を回る便が運行していたけれど、歩くよりも遅かったし、混雑もひどそうだった。
僕自身、平野までの道で、何台、バスを抜いたか分からないほどだった。
途中、湊川公園近くの公衆電話ボックスから会社に電話を入れた。
「いつから出て来れる?」
「宿さえ手配していただければ、明日にでもそちらへ向かいますが・・」
「宿は手配できない。君は大阪に親戚がないのか?」
「親戚と言っても、僕が泊まれるほどのおうちはありませんし、どなたか会社の方のご自宅でも使わせていただければ・・」
「馬鹿なことをいうな!とにかく、出てくる日が決まるまでは毎日、連絡をくれ」
僕が勤めていた会社の部長だった。
どうしろと言うのや!そう叫びたい気持ちを、ぐっと堪えた。
僕の会社は大阪のOBPにあった。
見舞いの連絡一つなく、やっと連絡がついたら出てこいの一点張りだった。けれど宿も誰かの家に転がり込むことも出来ない・・
鉄道はまだ開通していなかった。
会社に行くにはなんとか大阪につながる鉄道の駅まで出る必要があった。
「バイクで西宮まで出てくれば電車で来られるだろう」
そんなことも言われたけれど、西宮までは僕の自宅からは軽く30キロはあった。
原付でこの距離を、それも瓦礫ばかりの渋滞道路を、毎日通うなど、ほとんど不可能だし、ガソリンスタンドすらも僕の住む地域ではまだ復旧していなかった。

腹立たしさと、情けなさと、哀しさが一度に襲ってきた。
僕は疲れた身体を引きずるように、寒く、暗い夜の街を歩いていた。
知り合いの人が一人亡くなっても普段なら、辛さを喪服に着替えて、お悔やみに列することも出来る。
けれど、今回、僕はいったい、何人の大切な人を亡くしてしまったのだろう・・
知り合いの一人の家が、例えば火事で焼けたなら、友人達は集まって彼を激励することも出来る。
けれど、今回、僕の友人の何人が家を失ったのだろう・・

全身を襲う脱力感は、ちょっとやそっとでは取れそうになかった。
西代駅付近からまた、山陽電車の線路上を歩いた。
真っ暗な線路の上、ただの黒い塊になって放置されている電車の向こうには、皮肉ともとれるきれいな星空が広がっている。
・・僕が原付バイクで山越えを敢行し、神戸電鉄の鈴蘭台を経て大阪への通勤を始めたのはそれから四日後のことだった。

おやじ

私は冬の寒い夜、自宅で焼酎のお湯割などを軽くやっているといつも、ほぼきまって、おやじのことを思い出すのだ。
おやじとは、他の誰でもない、私の、自分の父のことである。

おやじは私とは違ってウィスキーのお湯割が好きだった。
ウィスキーのお湯割を機嫌よく飲みながら、目の前にいる私達兄弟姉妹にさして面白くもない冗談を飛ばして無理に笑わせるのが好きだった・・おやじ。
私の家庭は、私が覚えている限りにおいては、ずっと貧乏だった。
時には生活保護を受けなければならない状況に追い込まれたりもしていた。
それは、みさかいなしと言っていいだろう、たくさんの子供と、おやじ自身の無計画な相次ぐ転職によるものであったけれども・・

おやじ・・満男は、昭和12年1月、東京本郷の一角で生まれた。
母親、静江と、本来の父親精一は、将来を約しあって栃木・佐野で暮らしていたが「女は若いうちは稼ぐもの」という静江の母、フデによって別れさせられていた。
静江は泣く泣く故郷を捨て、身重の身体を引きずって東京へやってきた。
大きなお腹ではいくらも働けない・・けれども静江は持ち前の明るさと、頑張りとで華やいだ世界の中でめきめき頭角をあらわし、満男の出産で数日休んだ以外は、お座敷の仕事も欠かしたことがなかった。
満男が生まれると、生まれたばかりの子供は貰い乳に出され、静江はすぐにお座敷に戻ったばかりか、当時、急速に発展しているかのように見えた満州へ稼ぎに行かされる事になった。
このときの、満州への出稼ぎがどこぞのお大尽による勧めか、それとも静江の母フデによる勧めか、はたまた静江自身の希望だったのかは、私には分からない。
とにかく、生まれてすぐ、東京の本郷で満男は祖母と二人きりになってしまったことだけは確かであった。

静江は気になるのか、満州からでも母と息子の下へ時折、仕送りもしていたし、息子が好きそうなおもちゃや着物なども送ってよこしたりはしていた。
昭和も16年ごろになると満州では時局に敏感な者は、戦争の匂いをかぎだしていた。
静江も、あるお大尽から「国へ帰るなら早めに帰ったほうがよい・・」そう忠告されたという。
そうでなくとも、彼女にも、きな臭さは伝わっていた。
静江は意を決して、満州から帰国した。
ただし、日本に帰ってきただけであって、彼女が居着いた先は息子のいる東京から遠くはなれた神戸であった。
神戸の店でお大尽に可愛がられ、けれども神戸のあまりの埃っぽさに嫌気がさし、彼女は大阪へやってきた。
当時、彼女を可愛がってくれたお大尽の一人に、高名な画家がいて、その人が大阪へ移る手助けをしてくれたそうだ。
ここで、当時鉄道マンだった草野と出会う。
草野は野心の多い人物で、鉄道に勤める傍ら、戦時で不足しがちな物資を闇に流しては金を溜め込んでいた。
けれど、商売のあくどさ以前に草野は静江には優しかった。
彼にはすでに妻もあり、小さな娘も二人あったものの、やがて、草野は妻と別れ、静江と暮らすようになる。

戦争の風は、静江の心に不安をもたらした。
大阪の町もきな臭くなっていく。
静江は息子、満男を東京から呼び、共に暮らすことにした。草野の快諾があってのことだ。
満男、まだ五歳・・甘えたい盛りの小さな息子は、母と共に暮らせることに期待を抱いて、祖母に連れられ、東海道線の長旅をして大阪にやってきた。
やっと母と共に暮らせる・・大阪駅で「お母ちゃん」と抱きついたのも、その時限り、彼には突然、二人の妹が出来ていた。
静江は優しくしたい息子には厳しかった。あえて厳しくしていた。
それは草野の二人の娘を満男よりも可愛がることで、戦時の大阪で、生き抜こうとした本能であったに違いない。
満男まだ五歳・・大阪で、ひとりぼっちだった。
甘えは許されず、母は厳しく、義父は容赦がなかった。
自分だけが妹達とは違うものを食べさせられた。
「おまえは、男だから、これくらいは我慢しなさい」母、静江のいつもの言葉だった。
草野の一家は大阪、道頓堀の片隅で生活をしていた。
鉄道を辞め、折角建てた八百屋が、空襲で跡形もなく消えてしまった。
空襲の中、満男は妹二人の手を引いて必死で逃げた。
義父や母を見失わないように必死で逃げた。
赤い空・・空襲とは、戦争とは空が赤くなること・・
一家はその後、奈良に逃れて終戦を迎えた。

戦争が終わって、平和な暮らしが帰ってきた。
食料難は草野の器用さで乗り切っていった。草野は始めは八百屋をバラックではじめ、やがて、食堂を建てた。
みどり食堂はミナミでは芸人達に愛される有名な食堂になっていった。
それは、草野よりも静江の働きが大きかった。
ある日、草野が機嫌よく外出から帰ってきた。
「みやげや!」そう言って投げてよこした風呂敷にはどこぞで貰った饅頭があった。
「おい・・食べろよ・・」草野は娘二人に饅頭を与えた。
饅頭はまだ残っている。
「僕も!」
満男が伸ばした手を、草野は振り払い、残った饅頭は自分が食ってしまった。

満男は優秀な子供だった。
勉強も良く出来たし、弁も立った。
母、静江はろくに学校も出ていなかったけれど、お座敷ではお大尽も舌を巻くほどの時勢感を持っていたが、満男もまた、静江譲りの頭の良さを持っていたのだ。
けれど、弁がたつぶん、義父草野に逆らうことも増えてくる。
如何なる場合も草野に逆らうということは、静江には許容できず、その都度、息子を思い切り叱り飛ばしていた。
満男は家を出ることを考えるようになっていった。

中学を卒業すると、満男は家を出た。
神戸の理髪店に住み込みで働きながら、理容学校へ通ったのだ。
この理髪店で、満男は同じように住み込みで働いている留美子に恋をした。二人は二十歳前にすでに結ばれていた。
やがて留美子のお腹に子供が出来る。こうなると住み込みで働くわけにも行かず、神戸、湊川のはずれ、バラック立ての二階の部屋を借りた。
小便の匂いが立ち込める、廊下には砂が散らばるアパートだったが、二人には希望の家だった。
留美子のお腹の子供は二人目まで流産した。三人目が私だ。
場所柄、アパートにはやくざ者も住んでいた。時折聞こえるピストルの音、誰も珍しく思わない血まみれの怪我人・・神戸の闇の部分を凝縮した様な場所で、二人は三人まで子供をもうけた。
生活は苦しく、それでも夢があった。
この時期、満男は様々な人間関係を作っていった。警察官、やくざの親分さん・・

理髪店では生活が成り立たなくなり、満男は転職を決意する。
神戸らしい、港湾荷役の仕事だ。
知り合ったやくざものからの勧めもあったのかもしれない。
仕事はいくらでもあった時代だ。男一人、身体一つあれば、食うには困らないはずだった。
ここで、満男は組合運動に傾倒していく。
自分が貧しいのも、不幸も全ては帝国資本主義のせいである・・満男は社会主義運動にのめりこんでいった。仕事をそっちののけで街宣車に乗り込み、街を走った。
社会主義革命目前にあり・・そう信じて走り回った。
走っても走っても革命は近づいてこず、時代は彼の思いの反対へ、帝国資本主義の方向へ進んでいく・・少なくとも満男にはそう思えた。
始めはその憂さを晴らす酒だった。
革命が、呑めば近くなる気もした。
革命が出来れば、俺達労働者の時代だ。俺達の階級の時代だ。
本気でそう考えたけれど、労働者の時代は遠のくばかり・・思いは夢に、夢は幻に、・・幻は追いかけても近づけない・・そのことには気がつかなかった。
革命はともかく、満男は子沢山になった。
4人目の子供が生まれた。続いて5人目、5人目の子供はすぐに死んでしまう。
そのあと、会社の人事異動で満男は大阪へ転勤になった。
またあの町・・少年時代に苦しんだ大阪へ行くのは気が引けたが、会社の命令とあればやむをえない。一家は神戸から大阪・築港へ引越しをした。

大阪での生活にも慣れたある日、満男の職場の同僚が自殺した。
なんと、満男の引き出しに入っていた判を使って、多額の借金を残していた。満男は会社を退職し、退職金で友人の借金を支払った。
このとき、満男は神戸、新開地で親しくなった親分さんに頼ろうかとも考えたが、まだ、その時ではないと思い直したという。
一家は路頭に迷うかに見えたけれども、誘ってくれる人もあり、以前の会社のライバル会社に入ることが出来た。
けれども、人間関係でつまづいた。
酒の量が増え、昼間から酔っ払っていることもあるようになった。
仕事は半年ももたなかった。
6人目の子供も生まれて、しばらくして死んだ。
何かが狂い始めていた。それが何かわからなかった。
自分の力を信じたかった。けれども自分には何の力もなかった。
頭のよい男だから、自分の力を、冷静に見つめることは出来た。
けれどもそれを受け入れることは出来なかった。
自分の力のなさを、思い通りに行かない人生への思いを、安物のウィスキーで紛らわせるようになったのもこの頃だ。
その会社では半年持たず、満男は流れるように、泉州の製鉄会社の下請けへ、親戚を頼って入っていった。
けれども、親戚とはいえ・・親戚であるからこそかもしれないが、人は冷たく、給料は生活することも出来ない安さだった。
酒は増える・・しまいに呑まないと仕事に行かなくなった。
酒は彼に酔いは与えたけれど、確実に彼の体を蝕んでゆき、彼の人生を狂わせて行った。
時々、血を吐くようになった。
ある日、いつものように晩酌をしていた満男のこめかみから、急に血が流れ出した。
「あれ・・あれれ・・」満男は体調の異変に気がついたが、だからといって酒の量が減ることはなく、むしろ増えていった。
そんな中で、また続けて子供が生まれた。
7人目、8人目の子供は、親の苦労があっても、すくすくと育っていった。
ある日、草野に会って欲しいと、静江が満男に伝えてきた。
草野には、もう15年も会っていなかった。
満男は、長男を連れ、入院していた草野に会いに行った。草野はすでに脳軟化症で、ものをまともに言うことが出来なくなっていた。
病床の草野に、満男は「息子です・・」そう言って、長男を見せた。
長男をしばらく見ていた草野は、突然泣き出した。
「遅いよう・・遅いよう・・ごめんよう・・ごめんよう・・」回らぬ舌で、必死にそう言いながら、大泣きしていた。

それからまもなく、昭和48年1月、満男をかつて苦しめた草野が死去した。
草野は、退院してからも、脳軟化症が良くなるわけもなく、自宅で横になりながら、時折、散歩をすることが日課になっていた。この日も、ふらりと杖をついて、いつもの散歩に出かけたのだが、道頓堀のほとりの橋の袂で、石に腰掛け、休んだ姿勢のまま亡くなっていた。
その頃には「みどり食堂」は、すっかり、静江の店になっていた。
静江の、いかにも関東者といったキップのいい人当たりと明るさは、自然に道頓堀の中で、彼女の存在を大きなものにしていった。
草野が病床にある間も、亡くなってからも、みどり食堂の経営には全く差し障りはなかった。
満男は葬式のあと、何を思ったか、彼が会いたい人々に全て会いに行くための旅をした。
名古屋、東京、佐野、会津若松・・彼は義父の死を見て、自らも死期の近いことを悟ったのだろうか?

旅行から帰ると唐突に満男は会社を辞めた。親戚がやっていた会社だ。辞めるに辞められない状況で無理に辞めた。
就職活動を始めた。けれども、郵便物を止められてしまい、連絡が来ない。
そうこうしているうちに、時間は過ぎる。
今なら、いくら会社の経営者といえど、郵便物を止めるようなことをすれば世間からの指弾もあると思うが、当時は、どうしようもない状況だった。満男は困り果てて、昔知り合った、新開地の親分さんを頼ってみることにした。

親分さんは満男を見て泣いた。
手が震え、アルコール中毒の様相を呈し、顔色は黄色く青く、肝臓がすでに、かなり悪くなったことを示していたからだ。
「ミツオ・・お前、何でもっと、早ようにワシの所へ来んかったんや・・」
泣きながら、かつての盟友の肩を自らなでた。
満男の横にはもう小学校を卒業するかという長男が(つまり私が)いた。
「子供は何人おるんや」
「この子を頭に6人です」
「あほやなあ・・お前は・・ホンマに阿呆や・・こないになるまで・・エライ目してからに」
親分さんは涙を隠さず、そばにいた私にも、いくばくかの小遣いを持たしてくれ、その場で、加古川の会社へ満男の就職を斡旋した。

加古川・・満男が留美子と暮らし始めた頃、人の勧めで、この町の片隅に小さな理髪店を出したことがあった。
けれど所詮田舎ではあるし、余所者である。
店は続かず、満男には借金だけが残った、苦い思い出のある町だった。

春の花が曇り空に揺れる加古川・別府の駅に降り立った大家族を待ち受けていたものは、満男の急激な体調の悪化だった。
苦しく、腹と胸が痛む満男は、きついウィスキーでその痛みを紛らわせた。
紛らわせてはそのまま仕事に出かけていったけれども、そんな状態でいつまでも続く筈がなかった。
4月に加古川に移り、7月を待たずに満男は倒れてしまった。
病院には行くが、入院の必要を医師から聞かされても満男は拒み続けた。
薬と酒を一緒に飲む日が続いて・・ついに大出血を起こした。
満男は救急車で姫路市の病院に運ばれ、そこで1週間ほど入院した後、この世を去った。
入院後は苦しくて暴れるか、意識が泣く昏睡しているかのどちらになってしまった。
緊急で手術をすることになったが、担当の医師は「この人は生きようとする生命力がまったくない・・まるで死に急ぐかのようだ」とつぶやいた。
亡くなる前の日、一瞬、目が醒めた満男は、見守る妻に長男はどうしているか訊いた。
「あなたの病気平癒祈願に、堺の神社へやっています」
妻がやっとそう答えると「可哀想になあ・・」そう言って、また目を閉じたという。

私はおやじの死に目には会っていない。
病気平癒祈願を済ませて、ようやく親戚と共に病室に入った私を待っていたのは、母の泣き声と、おやじの名を呼ぶ親戚の声だった。
タッチの差で、私は間に合わなかったわけだ。
それからが大変だった。
とにかく子沢山で、子供達は親戚の家に分けて預けようと、親戚達が話し合ったそうだが、私の母、留美子がそれを拒み、結局家族一同、そのままで暮らすことになったのだが、それからの母の苦労話はまたの機会に譲ろうと思う。

私もおやじに似て、酒飲みの部類に入るようになってしまった。
こうしてほぼ毎日、焼酎のお湯割などを舐めてはいるけれど、おやじのよく飲んでいた安物のウィスキーには手をつける気になれないのだ。
少なくともそれくらいは、おやじが身体を張って教えてくれているのだと自分に言い聞かせ、酔いが過ぎるほど呑むこともないように気をつけている。
おやじは確かに酒が元で、身体を壊したのだけれど、その酒は何が元であったのか・・
戦争か、戦後の不安定な時期か、それとも、なるはずのない革命か、あるいは沢山の子供か・・
子供が多いのが嫌なら、いくらでも子供をつくらずにすむ方法もあったろう・・それにおやじは心底、小さな子供に接している時が嬉しそうだったように思う。
子供は本当に沢山欲しかったのかもしれない。
それは自らが、かなえることが出来なかった人生を泳ぎきる可能性を、沢山の子供に託したかったのではないだろうか・・

何かを見つけた日


冬の夜・・須磨から塩屋への国道を、エクゾーストノートも高らかに一台のスポーツカーが疾走していた。
車体は黒、それもつや消しの、いかにも自分で塗った色という感じの、荒れ果てたクルマだった。タイヤは異常に太く、クルマの窓は全てスモークフィルムで覆われていた。
国道もこの付近では片側1車線の普通の道だ。
スポーツカーは前の車には異常に接近し、恐怖感を与え、反対側の車線が空いた瞬間に抜きさっていく・・
JRの快速電車が国道と並行する線路に姿を現した。
黒いスポーツカーは、快速電車と競走でもするかのように、速度をあげ、反対車線にクルマがいようがお構いなしにはみ出しては、電車と併走していく。
恐怖心からか、このクルマに抜かれたクルマが、ハンドル操作を誤り、道路脇のガードレールに車体をぶつけ、横転した。
黒いスポーツカーはお構いなしに電車との競走を楽しんでいるかのように、走り去っていく。

国道を少し先に走ったところにコンビニエンスストアがあった。
駐車場にスピンして、先ほどのスポーツカーが入ってくる。駐車場でたむろしていた少年達が驚いて逃げる。
駐車場の枠など構わずに、そのクルマは斜めに停車した。
逃げた少年達が近づいてくる。
「われ!どこのもんじゃ!」
少年の一人がスポーツカーからゆっくりと降りてきた男に、怒りをぶちまけた。
「ケン、やめとけよ・・そいつにかかわるな・・」
別の少年が怯えた口調で、たしなめる。
黒い皮ジャンパー、サングラス、金髪に髪を染めた男はクルマから出ると、少年には構わずに店に入ろうとする。
「待たんかい!先に詫びろや!」
少年は男を追いながら、それでも声を荒げる。
「ケン・・やめろ・・そいつはあぶない!」
別の少年の声が上ずり、泣き声のようになる。
男が振り向いた。次の瞬間、少年の身体が吹っ飛んだ。
少年は店の前で倒れこんだが、男は意に介さず、店に入っていく。

コンビニエンスストアで男は缶ビールを数本、抱え込んだ。
レジには先客が二人、並んでいた。
男は無視して、自分の買い物をレジのカウンターに載せ、さっさと金を払っていく。誰も何も言わない、いや、言えない雰囲気のようなものが全身から溢れ出ている。
そのとき、店のドアを開けて、先ほど殴り飛ばされた少年が入って来た。
手にバールのようなものを持っている。「殺してやる!」少年は男めがけてバールを振り下ろした。
男はさっと身をよけた。
カウンター横の肉まんのケースが木っ端微塵に割れた。少年は次の瞬間には男に首を前から押さえ込まれ、店のウィンドウに押し付けられた。
「いま・・なんと・・言ったかな?」
少年はのどが押さえられ、声がでない。
「殺してやる・・か・・あまり残酷なことは言わない方が・・良いと思うよ・・」
男は少年をウィンドウに押し付けたまま低い声でそう言う。
少年はいったん、男の方に引き寄せられ、次の瞬間、思い切り、ウィンドウに叩きつけられた。
ガラスが割れる。血が吹き出る。
少年の身体が店の外にガラスまみれとなって倒れたのを見届けてから、男はレジの方を振り向いた。
レジにいたアルバイトの少女は怯えて声もでない。
「悪かったな・・救急車を呼んでやってくれ・・」
男はそのまま店を出て行ってしまった。
すぐに黒いスポーツカーが、国道の車の流れを無視して、スピンして駐車場から出て行った。
割り込まれた、国道を走っていたクルマが、慌ててハンドルを切って、反対側の歩道に飛び込んだ。

疾走するスポーツカー
クーペであることだけは判断できるが、ほとんど原形が残っていないそのクルマは、トヨタスープラを改造したものだった。
彼は、走るクルマから携帯電話をかけた。
「おう・・親父よう・・またやっちまったよ・・ちょっとコンビニで、ガキに怪我をさせてしまった・・また・・頼むよ」
「お前は!今通報が入った事件はお前か!これ以上どうしろというのだ・・」
男は電話を切った。
男の名は甲斐正志、23歳だ。
仕事はしていない。
彼の父、甲斐康正は、地元警察署の所長だった。

クルマは夜の街を疾走する。
ほとんど信号は守らない。
先ほど買い込んだ缶ビールを飲みながら、酔いが少しはいるのか正志の運転はさらに、荒く、危険極まりないものになっていく。
30分も走っただろうか・・お気に入りの漁港に着いた。
播磨灘が遠くまで見渡せる。
冬の月が澄んだ光を海面に投げかけている。
正志はさらにビールを飲んだ。
「助けてくれ・・」
そう呟く。
「助けてくれ・・何かが・・何かがしたい・・」
正志は月に語りかけている。
自分にはすることがない・・進むべき道がない・・未来が全く見えなかった。
彼とて、今のような生活で人生を終えるつもりはなく、何かが、何かがしたかった・・
涙が溢れる。今夜は海に浮かぶ船も少ない。風がなく、ちゃぷちゃぷと波が頼りなく防波堤に打ち寄せる。
つながれた漁船がゆらゆらと波に乗って動いている。

彼は優秀な子供だった。
中学での成績は抜群で、県下最高の進学校に入学した。
スポーツも万能で、背が高く、ルックスも良く、世界の全てが自分を中心に回っていると思えたほどだった。
・・けれど、どういう訳か大学受験でつまづき始めた。
一流の国立大学への受験に失敗した。
そのあと、考えうる全ての学校の受験に失敗した。
それからは成すことすべてがうまくいかず、卒業式から少しして、同級生のほとんどが進路を決めた後、彼は自分のいた学校へ出かけていった。
学校は3年生がいない分、静かで、ひっそりとしていた。
職員室へ乗り込んでいった彼を見た教師達は驚いた。
真面目で、優等生だった面影はどこにもなく、僅か数週間で彼の表情からは穏やかさは消えていた。
髪も金に染めていた。
煙草をくわえたまま、担任だった教師に近づいた。
そのとき、彼の心を占めていたものは、自分をだめにした教師や親への憎しみだった。
彼はそれまで、教師や親の言うとおりにしてきたつもりだった。特に進路には担任や指導教師のアドバイスにきちんと従ってやってきたつもりだった。
「どないしたんや・・甲斐、煙草はまだアカンで・・二十歳までは・・」
そう彼に言った教師は一瞬にして吹っ飛ばされた。
学年主任の教師が止めに入った。
すでに定年近い老教師にも、彼の一撃は容赦がなかった・・
二人を殴り飛ばしたあと、驚いて呆然としている教頭の頭をわしづかみにし、机に叩きつけた。
女性教師の叫び声が響いた。
彼は、叫んでいる女性教師にも近づいたけれど、彼女の口を手で押さえただけで、職員室から出て行った。

それからは、何があっても、彼の父親が警察幹部としてもみ消してくれた。
むしゃくしゃいている彼の気分を押さえるには、世間からごみのように思われている不良少年達を相手にすることが一番だった。
気が晴れるし、本人以外からは苦情はこない・・
彼は夜な夜な、不良少年達を探すようになった。
もっとも、彼は暴力だけで生きていた訳ではなかった。
何かが欲しい時に、金を払わずに奪うといったことは、したことがなかった。

海岸で、散々泣いた正志は、少し気分が楽になったのか、クルマに戻って、エンジンをかけた。
彼の自宅のある、神戸の郊外へとクルマを走らせた。心が穏やかになったのか、車はごく普通に、彼にしては控えめに走っていく。
先ほど、少年を殴り倒した店の近くで、山手へと道をかえた。
自転車が前を走っているのが見えた。女だ。
彼は自転車を避けようと、少しハンドルを切った。
自転車を追い越してから、ルームミラーで見ると自転車が見えない・・胸騒ぎがして車を停めた。
自転車が転倒していた。
女が倒れている。
「大丈夫か!」
女に近づいた。
気を失っている・・
「しっかりしろ!」
高校のものらしい制服の少女だった。
彼は少女を抱えて、歩道におろした。自転車も歩道に寄せた。
「大丈夫か!」
また声をかける・・少女は目を見開いた・・
「すみません・・眩暈がしてたので・・」そう言った少女は彼の顔を見ると震え出した。
「あのときの・・」
彼は少女の背を抱え、抱き起こそうとした。
少女の震えが止まらない。
「どうした?」
「怖い!」「何もしないで・・助けて!」
少女は震えている・・
「俺は何もしない・・どうして怖がるのだ・・」
「だって・・あなたは・・さっきの・・犯人・・」
正志は、ようやく理解できた。この少女は先ほど彼が暴れたコンビニエンスストアの、レジにいたあの娘だ。
「さっきはすまなかった・・驚かして悪かった。でも・・悪いのはあっちの方で、オレではない」
しばらく、少女は彼を見たままだった。
「それより、眩暈は大丈夫か?」
彼自身、他人に何年振りかで優しい声をかけていることに気がついた。
「オレのクルマがあたって倒れたのか?」
少女は首を横に振った。
「もしそうなら、怖がらずに、そうだといってくれ・・」
彼はサングラスを外し、少女の目を見た。
優しい、穏やかな目だ。
少女は少し安心したかのようだった。
「いえ・・違います。怖がって、そう言っているわけではありません・・本当に眩暈がして・・」
そう言いながら、少女は立とうとした。
「あ・・」立てなかった。膝にけがをしているらしい。何度か少女は立とうと試みたけれど、結局そのまま歩道に座り込んでしまった。
「どうしよう・・」
「俺が送るよ・・家はどこ?」
そう言ったかと思うと、正志は少女の身体を抱き上げて、彼の車の助手席に乗せた。
ハッチバックをあけて、そこに少女の自転車を積み込んだ。けれども自転車がクルマの車体からはみ出して、ハッチバックドアが閉まらなかったので、軽く上にドアを乗せるだけにした。
「ゆっくり走れば大丈夫だろう・・」
正志は運転席に乗り込みながら、少女にそう言った。
「あの・・」
「なんだ?」
「本当に送ってくださるのですか・」
「うん・・俺を信じろ・・信じろといっても無理かも知れんが・・」
彼はそう言って軽い笑みを見せた。少女は少し安心したようだった。

少女の家はそこから1キロほど山手の公営住宅だった。
「どうしてこんなに夜遅くまで、アルバイトをしているのだ?」
正志は少女に聞いた。
「大学にいきたいのです。大学にいって、幼稚園の先生になりたいのです・・私、子供の姿を見るのが好きなんです」
「大学なら、勉強さえ出来ればいけるだろう・・」
彼は心の中で舌打ちをしながら、投げるように言った。大学という言葉に彼の心は少し過敏になっている。
「うち、母子家庭でお金がないんです。大学の試験を受けるのにもお金がいります。入学前にもお金を納めなければならないでしょう・・」
「そんなに金が必要なのか・・家にその金はないのか?」
「ないんです・・お母さんも、パート、二つもしているけど、生活で一杯一杯なんです」
「そうか・・だけど、女の子が遅くまでアルバイトするのは、危ないからな・・」
公営住宅に着いた。
正志は少女をおぶって、三階の彼女の部屋まで連れて行った。
少女の母親が、驚いて、彼に何度も頭を下げた。
気の弱そうな、質素な感じの母親だった。

正志は自分の家に帰る道で、少女と自分を思い合わせていた。
大学に行くには、お金が、かかる・・自分はそんな事を考えもしなかった・・
「オレは・・何のために大学へ行こうとしていたんだろう?」
始めて考えたことだった。
ただ・・いい学校へ行きたい・・行けばいい人生がおくれる・・それがつまづいて、自分はおかしくなった。
いい人生とはなんだったのだろう・・
彼は、ぼんやりと月夜の道でクルマを走らせた。

翌朝、彼は、自宅近くの幼稚園を園庭の外から眺めていた。
小さな、四,五歳の子供たちが、若い女の先生について楽しそうにはしゃいでいる。
先生の笑顔も作ったものではなかった。
ふと、思い出した。
自分が幼稚園の頃を・・
カトリック系の幼稚園で、園長先生はシスターだった。
彼のクラスはひまわり組、きれいで、優しくて、けれど声の大きな、怒ると怖い秋子先生を思い出した。
その瞬間、当時の友達の姿をいっぺんに思い出した。
シンジ、タロウ、ケンタ、ショウちゃん、まりちゃん、ゆりちゃん・・
仲良く、園庭で、暖かい陽の光に包まれて、かけっこをしていた自分の姿が、浮かび上がった。
一輪車では誰にも負けなかった・・竹馬では女の子だのに、まりちゃんが一番上手だった・・
きらきらした陽の光に浮かび上がる秋子先生・・本当にきれいな先生だった・・
正志には、前が見えなくなった。
涙が溢れ、その場でうずくまってしまった。
「なんで・・なんで・・おれは、こんなになってしまったんだ・・」
歩道を通る人が怪訝な面持ちで、彼を眺めていく。

数日後、T警察署に正志が入っていった。
金髪、黒の皮ジャンはいつものままで、つかつかと当たり前のように警察署に入って来た彼を見て、驚いた署員が、彼に何かを聞き出そうとしたが、横にいた別の署員が耳打ちをすると、その署員は知らぬ顔で彼を通してくれた。
署長室の扉をいきなり開けた。
そこには少し驚いた表情の彼の父、康正の制服姿があった。
「どうした、正志、警察には来るなといっただろ・・」
「親父・・教えて欲しいことがある・・」
「なんだ・・珍しいじゃないか・・どうせろくでもないことだろう・・」
正志は父の前の椅子に座り込んだ。
「ろくでもないこと・・かもしれないなあ・・幼稚園の先生になるにはどうすればいいんだ?」
父、康正はしばらくそのまま黙っていた。
思いもよらぬ相談だからだ。息子が本気だとはとても思えなかった。
「しかるべき大学にいって、免許をとって、それから就職させてくれる幼稚園があればなれる」
「男でもなれるのか?」
「いまは、なれるはずだ・・雇用機会均等法というのがあっただろう・・しかし・・何故そんなことを聞くのだ?」
「その大学は、オレには入れるか?」
息子は父の顔をじっと見つめている。
「お前が、昔のような頭を、今も持っていたら・・お前なら入れるだろう・・」
「金はかかるか?金がかかるのだったら、それは出してくれるか?」
父は黙ってしまった。
二人の間に見つめあう時間だけが過ぎる。
「金は出してくれるのか?」
「なんだ・・やはり金の無心か・・」
「違う!」正志は父を睨みつけた。
「本気だ・・金は出してくれるか?」
少し間をおいてから、康正は答えた。
「お前がまともに生きていくための金なら、いくらでも出そう・・」
「本当か!親父・・ついでにもう一つ頼みだ!」
父、康正は息子を見つめた。
「二人分出してくれ!俺の友達に金がなくて、試験のためにアルバイトしているやつがいる!そいつの分も出してくれ!」
「お前の言っていることが本当で、お前が真剣にそれを考えているのなら、それくらいは訳のないことだ」
「本当か!」
「本当だ・・お前の言っていることが本当ならば・・だ」
「ありがとう!親父!」
正志は署長室を飛び出した。
車のエンジンをかけ、いつものように一気に発進させようとして、気がついた。
署長である父の顔に泥を塗ってはいけないと・・
これまで、父親の顔は泥を塗り、踏みつけるためにあったといっても良かった。
父親の言うように勉強をし、父親の言うように身体を鍛えた。
父親の言うようにして・・受験に失敗した。
彼自身の油断や、不運を考えたことはなかった。
彼は、ゆっくりと、静かに、警察署の駐車場を出て行った。
父、康正は、その頃、署長室でひとり泣いていた。男泣きに泣いていた。

警察署近くの高校
学生達が一日の授業を終えて、校門から出て行く。
正志はそれを眺めている。
生徒達は学校前に突然、現れた不気味な男に、声をひそめ、刺激しないよいうに気をつけて、ひっそりと通り過ぎていく。
やがて、松葉杖をついた少女が現れた。
「やあ!」正志が声をかけた。
先日の少女だった。
「あ・・この間は本当にありがとうございました・・お母さんがお名前も聞かずにって・・」
「いいよ・・今日もアルバイトにいくのかい?」
「いえ・・この足では自転車はこげないし、しばらくお休みさせてもらうのです」
「それは仕方がないなあ・・」
彼は少女には軽く笑みを見せた。
「送るよ・・歩くの大変だろ・・」
彼はそう言って、少女を自分のクルマに案内した。

「由香ちゃん!」
少女が振り向いた。教師が彼女を呼んでいる。
「その人は?」
「この間、助けていただいた方です!」
そう・・気をつけてね・・教師はそう言ったあとも、彼の車が動き出すまでそこで見ていた。
メモをとっているようだ。
「ナンバーをひかえているみたいだな・・あの先生」
「そりゃあ・・怖いお兄さんが迎えに来たんじゃあねえ・・」
少女はそう言ってくすくすと笑った。
「俺は怖いか?」
「怖いですよ・・ぱっと見たら・・でも本当はすごく優しい・・」
正志は少女に軽く笑みを見せた。
「もう・・バイトに行かなくていいよ」
正志が突然、何の脈絡もなく、そう言う。
「ダメですよ・・私、お金を作らないと・・」
「俺も大学を受ける・・君の分も資金を出してもらう・・俺の親父から・・」
少女は訳がわからないという顔をした。
「俺も幼稚園の先生になってみたくなった・・だから俺も君と同じ大学を受ける・・構わないだろ?」
「はあ・・」
「今から、俺も勉強する・・大丈夫だと親父も言ってくれた・・」
「はあ・・でも・・」
「なんだ?」
「私の受験するところは女子大ですから・・男の人は・・」
彼が笑い出した。
笑いながら、こんなに大声で笑うのは何年ぶりだろうと思った。
「じゃあ・・オレは別のところを受験する・・それでも君の費用は出すから・・」
「はぁ・・」
少女は怪訝な表情で運転する彼の横顔を見ている。
「今日は暇か・」
「はい・・バイトがないですから・・でも・・勉強をこんなときにしておかないと・・」
「ちょっと付き合え・・」
正志はクルマを海岸に向けて走らせた。

「由香って言うのか?」
「あ・・はい・・下村由香です」
「俺は甲斐正志ってんだ・・よろしく」
彼がいつもやってくる漁港近くの駐車場に車をとめた。
「きれいな海岸ですね・・」
「来たことがなかったのか?こんなに近くなのに・・」
「はい・・噂には聞いていましたけど・・ここに来たのは初めてです」
「降りるか?」
正志はそう言って由香を抱き上げ、外に出した。由香は、慣れない松葉杖を扱いかねるように、そろりと歩いている。
岸壁に降りそそぐ冬の日差しは、暖かく、気持ちがいい。
すでに夕方近く、短い冬の太陽はかなり水平線に近いところまで降りてきていた。

「俺・・幼稚園の先生になれるだろうか?」
くすくすと由香が笑っている。
「何が可笑しい?」
「だって・・勉強はすれば大学には入れるでしょうけれど・・」
「じゃあ・・いいじゃないか・・」
太陽の色がオレンジ色に染まり始める。
空の色が少し深くなる。
「そんなに・・怖い格好をしていたら・・子供たちが寄り付かないですよ」
そう言って由香は声を上げて笑った。
正志は始めて自分の風貌を思い浮かべてみた。
「なるほど・・そうかもしれない・・」
そう言って彼も笑った。

「正志だ!」
少年らしい声が聞こえる。
正志が振り向いた。
いつも、見かけるたびにいじめ回している少年たちだった。
少年たちは3人連れだった。
「来い!」
正志が叫んだ。
「やめて!」由香が正志の足にしがみついた。
由香の手をそっと外して、正志は猛然と少年達の方へ走った。
「俺から逃げられるはずがないだろ!」
少年達は逃げようとするが、そのうちのひとりが正志に首根っこを押さえられた。
捕まえた少年を正志は地面に押し倒した。
「やめて!」
由香の叫びが聞こえる。
正志は少年を睨みつけた。少年は勘弁したように目を瞑っていた。
あと二人は遠くから見ているだけだ。
「俺の前に、姿を見せるな・・オレはもう、お前達には構わない・・」そう言って、少年から手を放した。
少年は引きつったような表情で、正志を睨んでいる。
「消えろ!」
次の瞬間、少年は正志の足を蹴り上げた。
正志が倒れた。少年が正志に馬乗りになり、正志の顔を殴った。
少年の仲間もやってきた。
彼らは3人で、散々に正志を殴りつけ、蹴った。
正志は何もしなかった。殴られるに任せていた。
やがて、やおら立ち上がり、少年のひとりの胸倉を掴んだ。
そのまま少年の体を持ち上げる。
「もう・・気が済んだろう・・これ以上はオレは我慢しないぜ・・」
そう言って少年を睨みつけた。
正志が手を離した。
少年達は次の瞬間には走って逃げていた。

正志は少しよろけながら、由香のところへ戻った。
「大丈夫ですか・・怪我が・・」
顔中傷だらけだ。血も出ている。
「いいよ・・これぐらい・・あいつらも、いつも殴られるより、たまに俺を殴った方が気も晴れるだろ」
正志はそう言って笑った。
「あ・・その顔なら、子供がついてくるかも!」
由香が笑った。
「なんだよ・・子供は不細工な顔の方がいいってことかい・・」
正志もそう言って笑った。
ちょうど夕日が沈む頃だ。
正志は由香の顔を見た。
きれいな瞳をしている・・おれも、あんな瞳ができるようになるだろうか・・
少し風が出てきた。
「あの・・ひとつだけ・・いいですか?」
由香が正志に少し言葉を選びながら訊く。
「なんだ?」
「私・・学校に入るためのお金は自分で、用意したいんです・・」
ああ・・そのことか・・変わった娘だなぁ・・
そう思いながら、正志はかつてなかった穏やかな気持ちで、海を眺めていた。

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