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kou1960

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名鉄7507河和線



その女(ひと)は、見る限り、紅い色合いがこのほか好きなようだった。
紅いワンピース、紅いパンプス、紅い腕時計のベルト、深紅の口紅、セミロングの髪を紅いカチューシャで止め、そしてメガネのフレームも赤だった。
「わたしの時代が終わるの」
ふっと漏らしたその言葉に僕は背筋が寒くなるのを感じた。

美しい女性だ。
スリムな長身、豊かな胸、長く美しい脚をもつ美貌に恵まれながら、人懐っこい笑顔で何故かことのほか下町が好きらしく、お洒落な山の手よりは庶民の中に交じっている・・そんな人だ。

僕がその人と出会ったのは、もう三十年以上前の、名古屋に近い、決して都会とは言えない地方都市の、駅前にある居酒屋だった。
名古屋市内で数日の仕事をせねばならないが、どうもこの時は名古屋市内中心部で宿の確保ができず、やむなく、名鉄電車で少し乗ったこの町の、駅前の安ホテルを確保したのだった。

仕事を終えたのは遅く、空腹を抱えてこの居酒屋の扉を開けた僕の目の中に飛び込んできたのは、煙草の煙が充満する安酒場の中で、数人と楽しそうに酒を飲むその人のひときわ目立つ姿だった。

少し離れたところに僕は座り、ちょっと遠くから気になるその人を見ていた。
空腹に酒が入ったからか、普段の僕では絶対にしないようなこと・・女性に声をかけたのはその少し後だ。

トイレに立ったその人が自席に戻るときだった。
「お洋服、とてもいい雰囲気の色合いですね」
その人は何の警戒もなく、僕を笑顔で見つめてくれた。
「ありがと、ええ気色や」
見れば見るほどに美しい人なのだが、なんと名古屋弁のイントネーションで答えてくれた。
ふわりと温かな風が吹くような気がした。

そしてその人は一旦、自席に戻り、仲間に何やらちょっとだけ話をして僕のところ来てくれた。
一人客ゆえ、前の席は空いている。
その人は僕の前に座り、お店の人に「わっちの、こっちね」と、かわいい声で叫ぶ。
「ここ、座っていいですよね」
座ってしまってから僕に聞く。
「もちろん、美女が来ると嬉しいですから。でも・・」
「でも?なんでゃあも??」
「は??」
「ああ・・でもって、どうゆうことですかって‥」
僕を見つめてフフッと笑う。
整った顔立ちはテレビに出てくる女優でも、なかなかここまでも人はいないだろうと思えるほどだ。
「いや、お連れさんに失礼かなと」
「ああ、でゃーじょーぶ・・あのじんたち、ここで会ったばかりやから」
「は・・・」
「あ、ごめんなさい、あの人たちとはここでお会いしたばかりなのよ」
その人はそういったかと思うと大きく笑った。
真っ赤なカチューシャが店の照明に照らされて光る。
大きく開いた口元から見えた白い歯がきれいだ。
「すごく仲がよさそうでしたけど」
「そう?お酒とドラゴンズが好きな人に悪い人はいないわ」
「なんだか・・」
「な~に?」
「今日は何か嬉しいことがありましたか?」
「そりゃあ、ドラゴンズの圧勝じゃない、大量二十二点よ」
「あ・・そうなんですね」
「ホームラン八本、こんなの初めて!!」
「すごいですね・・」
「なんだ、あなた、テレビも見てなかったの??」
「仕事でして・関西から仕事に来ているんで」
「関西だったらタイガースでしょ!!今調子いいですよね」
「いや、ワタシは野球は全くダメでして・・」
「な~~んだ、面白くないヤツ・・」
その人は僕をちょっと蔑むように見て、そしてすぐに笑顔になった。
「まぁ、人それぞれそやから」
「はぁ」
「赤い電車は好き?」
いきなり、話のスジを変えられたので面食らった。
「赤い電車ですか?」
「ほら、そこにたくさん走っているでしょ」
そういえば・・ここに来るときに乗った電車も真っ赤だった。

真っ赤な名鉄の色合いがとても好きなの、ちょうど、わたしが生まれた年に「パノラマカー」ができたの。だから、真っ赤はわたしの色、その中でパノラマカーが一番好き・・
彼女は酒の酔いでか頬を赤く染めながら話してくれる。
赤い電車が紅い彼女の色彩と相まって、僕の視界も赤くなっていくような気がする。
彼女の紅いワンピースから露出している白い肌が赤みを帯びてくる。
だが、ドラゴンズのチームカラーは真っ赤ではなく、青ではなかったか‥
ふっとそういう疑問が沸き上がったけれど、ずっとしゃべりつ続ける彼女を見ていてそのことは言い出せなかった。
酔いが回り、そろそろ宿へ帰らねば明日の仕事に差し支える。

店を出ると彼女もついてきた。
「どこに泊まっているの?」
「そこのビジネスホテル・・」
「部屋が空いていたらわたしも泊まろうかな」
えっ・・僕は後ろからついてくる彼女を見つめた。
「あら、嫌なの?」
「嫌ではないけど、あなたも家に帰らないと・・」
「どうせ一人暮らし、どのようにもでもなるのよ」
達観しているかのようにつぶやく彼女のほうから、女の香りのようなものが飛んでくる気がする。
もしかして僕は今から未だ知ることがなかった「女」を知ることができるのだろうか。

歩いている二人の横の線路を名鉄の電車が突っ走る。
夜の闇でも真っ赤な電車は紅い。

踏切が鳴り、また電車が突っ走ってくる。
「パノラマカー!」
彼女が嬉しそうに叫ぶ。
大きな展望窓から室内灯の明かりをまき散らし、轟音とともに電車が走っていく。
「女性で電車が好きって、珍しいですよね」
「電車が好きなのじゃないの、パノラマカーが好きなの」

また踏切が鳴り、反対方向への電車が通る。
「またパノラマカーだ・・」僕の驚いた声に彼女はこう教えてくれる。
「たくさん走っているわよ、わが世の春、十分に一回くらい走ってる・・」

******

粗末なビジネスホテルの、足元灯だけが鈍く光る部屋。
大きく身体をのけぞらせ、彼女は喘ぐ。
僕はその喘ぎの大きさに戸惑いながら、女とはこういうものかと、自分の非力を思い知りながら、それでも精いっぱい攻めていく。
喘ぐ声の大きさに、隣室の人に聞こえやしないかとか・・明日の朝、仕事に間に合うように起きられるかとか、そんなことばかり頭の中に浮かび上がっては消えていく。

わずかの明かりに照らされた彼女の身体は、ほの赤く染まり、息遣いは一定のリズムを持ち、攻めているであろうはずの僕を逆に攻め落としにかかるようだ。
汗と体液の甘い香りが部屋に充満し、暗い部屋の中が僕たち二人の巨大な宇宙に思えてくる。

「はぁ、はぁ、はぁ、」
一定のリズムの声が僕をさらに掻き立たせるが、「もっと、もっと・・」の切ない願いにも似た叫びはますます自分の非力さを思い知らされる。

そして自分のすべてを出し切ってしまった僕は、彼女と抱き合ったまま、眠りに落ちたようだ。

気が付けばカーテンの隙間から朝の光が漏れている。
「あ・・起きねば・・」
僕は立ち上がりカーテンを少し広げた。
自分が下着もつけていない裸身なのが昨夜の出来事を思い起こさせる。
夏至過ぎの夜明けの光が差し込んでくる。

眠っているかと思った彼女が目を瞑ったまま「まだ大丈夫、今は夏至の後だから夜明けが早いの、まだ五時過ぎよ」と呟く。
彼女は肩のところまで布団をかぶり、気持ちよさそうに目を瞑って寛いでいるようだ。
「おはようございます」
「あら、よそよそしいのね・・おはよ」
片手で布団を胸のあたりに持ったまま、彼女はゆっくりと起き上がり、髪をもう片方の手で軽く整える。
朝の柔らかい光の中で、布団を胸のあたりの持った彼女は美しい。

「見せてほしい」
僕の口から自分でも意外な言葉が出た。
「なにを?」
「むね・・」
「恥ずかしい」
「昨夜は暗くてよく見えなかった・・」
彼女は頬を少し赤らめ、そっと布団を抑えている手を放す。
白い、形の良い胸のふくらみ。
思わず僕はそれを撫でる・・「あ・・」
僕たちはまた、二人の肌を合わせた。
白い乳房が僕の手によって柔らかくひしゃげ、彼女の息が荒くなる…

*****

七時すぎになってようやく僕らは起きだし、服装を整える。
「仕事はどこまで行くの?」
彼女が昨夜からのことを吹っ切るかのような素っ気なさで尋ねてきた。
「うん、名古屋の南のほう、名鉄でここから三十分ほど」
「わたしも仕事場は名古屋市内だから・・一緒に行く?」
「うん」

二人して小さな駅に入り朝の通勤の人たちが電車を待つ集団に加わる。
警笛というのではない、音楽の旋律のような音がした。
真っ赤なパノラマカーが目の前を轟音とともに通過していく。
そしてすぐに反対方向へのパノラマカーも通過する。

「かっこいいでしょ」
彼女が嬉しそうに言う。
「真っ赤ってすごく名古屋的だわ」
愛おしいものを追うように彼女の瞳は去っていった電車の方向を見つめている。

そしてしばらくすると、また音楽のような警笛を鳴らし、パノラマカーがやってきた。
今度の電車は真っ赤ではあるが白い帯を巻いていた。
通過する紅い車体の真ん中に描かれた白い帯が僕の目を引く。
「あれ、最近、特急専用になったパノラマ、あの白い帯もいいよね」
「特急って専用車両なの?」
「最近ね・・だから、わたしも白いベルトを買いたいなって思うのよ」
なるほど、いま彼女が着ている真っ赤なワンピースに白いアクセントはいいだろうし、プロポーションの良い彼女の腰のあたりを引き締めてやれば、それだけで今の倍くらいの魅力ができるだろうな、などと考えていた。

数分後にやってきた準急電車は色こそ赤だったが、パノラマカーとは比べるべくもない古い電車だった。
冷房もなく、窓を開け放している。
古い電車のモーターの音が車内に入り込む。
満員の乗客はみな汗をかく。
「パノラマカーとえらい違いだね」
僕が思わず口にすると彼女は諦めたように溜息をつきながら言う。
「名鉄は特急が中心だから通勤電車は後回しなんだわ」
「しかし、いくら何でも大手だろうに・・」
僕もため息をつきながら、ぐるぐる首を振る天井の扇風機を眺めた。
「あら、扇風機があるだけ、この電車はマシやわ」
「はぁ・・・」
暑い古い電車は途中で真っ赤なパノラマカーに抜かれ、それからいくつかの駅を通過して名古屋の地下に入っていった。
地下に入ると古い電車の騒音は窓を開け放していることでさらに増幅され、話などできなくなってしまう。

彼女とはその夜にも、あの店で会う約束をして僕は一日の仕事をする。
今度の名古屋での仕事はいわば、これからお付き合いができるかどうかという初めての取引先で、緊張しながらの作業であるはずだが、彼女と出会ったことで僕の心に少し余裕が生まれていた。
「これから長いお付き合いになるね」
一日の作業を終えて、担当のエライサンに挨拶に行くとそういわれた。
これから名古屋に来ることが増える・・そう思うと僕は嬉しく、そしてそれは彼女に会いに来られるという単純な思いだった。

そしてその夜も、彼女はあの店にやってきた。
「今日も勝った!」
「大洋なんて竜の餌よ!」
すでに数人の居合わせた客の中で出来上がっているらしい彼女は、僕の顔を見るなり大げさに手を振ってそう叫び、笑った。

「彼氏かいな?」
彼女と野球談議に夢中になっていたらしい年配の男性がそう揶揄う。
「うん、ゆうべ、彼氏になったの」
「あんたはホンマに、よーやるわ」
「今度は逃がしたらアカンでな」
「男前やのう」
仲間らしい人たちが一度にいろんなことを言って笑う。
僕もその人たちの輪に加えさせられたが、残念ながら僕は野球はほとんどわからない。
中日ドラゴンズの選手といえば田尾と宇野くらいしか知らず、それもただ、テレビニュースによく出てくるからというだけだった。

わからないといえば、彼女が夢中になっている名鉄のパノラマカーも僕にはほとんど興味がなかった。
ただ、こちらのほうは少し野球よりは親近感が湧き始めていた。

店を出て自分のホテルへ向かう道中、彼女もついてきた。
「今夜も泊まるの?」
彼女は首を振った。
「いくらビジネスホテルでも毎夜はエライ・・高うつく」
「じゃ、自宅に帰るんだ…」
一瞬間をおいて、彼女が僕を見つめた。
「ここにいつまでおるん?」
「たぶん、明日の仕事が終わったら大阪へ帰る」
「ね、それまで、うちへ来ん?」
「でも、会社の経費で泊っているから・・ホテルに泊まらないと問題がありそうで」
「そっかぁ・・」
「そうだ、今夜、もう一泊、あのホテルで泊まろうよ、宿代は僕が持つから・・明日の夜は君のところへ泊る、そして明後日は休みだからどこかへ行こう」
「ええの?」
「うん、そうしてくれたら嬉しい・・」

結局、僕らはその通りに、その夜も昨夜よりもっと激しく抱き合った。
翌日は仕事をすべて予定通りに終え、満足な達成感をもってあの居酒屋へ行き、その日もドラゴンズが勝ったようで大騒ぎしている彼女の仲間たちとの中に無理やり入れられ、そしてその賑やかな食事は済むと、約束通り彼女のアパートに入れてもらった。
小洒落たハイツの二階、いかにも女性らしい可愛い部屋の机の上に赤いパノラマカーの模型、壁には野球選手何人かのポスターが貼られていて、それが誰なのか僕にはわからない。

******

彼女に言われるままに、さんざんに彼女を舐め尽くした。
柔らかな白い肌は、豆電球の下で赤く染まる。
荒い息を繰り返し、もっと、もっとと僕に要求してくる。
必死に置いてけぼりにされぬように、立ち向かう僕はやはり自分の力の限界を知る。

身体中から自分の精気というものを放出してしまった僕は力尽きて彼女の横にて動かぬ体を横たえるしかない。
「ねぇ、上手になったね」
呼吸の荒さがまだ残り、それでも満たされたような表情の彼女が僕の顔を覗き込む。
「そうなんか・・」
上手かどうかは僕にはわからず、それでもこの三日間のうちでは最大の力を出し切ったはずだ。
「もうちょっとだけ・・」
僕は女性がこんなにも性欲を持て余していることを初めて知った。
そして、それはいわば男にとっては強烈な試練であることも。

*****

「あの・・」
僕は思い始めていたことを彼女に聞く気になった。
「なぁに・・」
僕の胸のところで頭をうずめている彼女は小さな声で返事をする。
「僕と結婚してください」
しばらく沈黙が続いた。
そして出た言葉だ。
「ごめんなさい、無理なの、特定の人だけのものになるの・・」


あれから三十年近く、僕は彼女のことを忘れたことは一日たりともないと断言できる。
だが、僕はやはり世間一般の男の常識の中で生きていた。
彼女からは少しずつ疎遠になり、名古屋の仕事が、ある程度から先の進展がなくなってからは、名古屋へ行くことも減った。
二年ほどして、やはり彼女のあの風貌が忘れえず、名古屋へ出かけたけれども、その時の彼女は僕とお茶を飲んだだけで、まともに話には乗ってこなかった。
そして走り始めたパノラマスーパーなる、赤よりもクリームの色彩の多い電車を彼女と駅で見た時、彼女は言った。
「わたしの時代が終わるの」
そのあとに普通電車にパノラマカーが使われてやってきた。

やがて僕は会社の上司の勧めで、取引先の専務のお嬢さんと結婚した。
妻になった女性は彼女にも負けないほど美しく、僕は妻を十分に愛しているのだが、それでも時によっては妻を飛び越えて彼女が僕の頭の中に現れるときもある。
やがて、僕は娘を得た。

いまなら、彼女の気持ちがわかる。
僕は彼女の何人かいるであろう男友達の一人になって、彼女が気まぐれで誘ってくれれば、喜んで出かけていく・・
そんな関係が僕と彼女には幸福だったのではということを‥
僕には彼女の情報をどうしても得ることができず、会うことは夢か幻かと思っていたものだ。

二十一世紀になってしばらくして、名鉄からあの「パノラマカー」が引退したことを新聞で知った。
それこそ全国から鉄道ファンが押し寄せたらしい。

そのころまだ、僕は彼女の面影をあの真っ赤な列車に求めていた。
パノラマカーの引退は僕と彼女の縁が切れたことを僕に突き付けられたような気がしたものだ。
だが、いつの間にか、彼女との連絡が取れない状態になっていた。
連絡が取れなくても、彼女が僕の最初の女性だったことは間違いのない事実であり、僕にとって最初にまともに惚れた相手であることも消えることがなく、それゆえ、僕の脳裏から彼女の面影が消えることもなかったが、自分の娘は成長していった。
いつしか、自分の娘もよい人を見つけて結婚し、その少し後に妻が思いもせぬ病で先に逝った
僕はまた一人になったが、会社では定年を超えて嘱託として使ってもらえ、食うのには困らない。

今年、ひょんなことから名古屋へ行く仕事ができた。
懐かしいあの町のどこかに彼女がいるかもしれないとは思ったが、彼女に会えるとは夢にも思えない。

だが、昼までの仕事を終えてから、やはり自分の意志の向くままにあの名鉄駅に降りた僕は、町のあまりの変わりように言葉を失った。
あの、居酒屋もビジネスホテルも、そして彼女のいたハイツも、どこにも面影を見出すことができなかった。
そして名鉄の線路を走るのは赤い色に塗られたごく普通の通勤電車や、いや、もはや色合いすら赤ではなくなった銀色の車両、そして特急ですらクリーム色の面積が幅を利かせる車両ばかりになっていたことも僕の心の中のイメージを覆すには十分だった。
僕は疲れた。

駅近くの暇そうなコンビニに入って飲み物を求めた。
店は閑散としていて、店員は手持ち無沙汰に見えた。
レジでの支払いの時に店員に聞いてみた。
「そこの名鉄電車の、パノラマカーっていうのは、もう、どこでも見ることができないのでしょうか」
店員はちょっと考えてから意外なことを言った。
「競馬場の奥のほうに、電車が置かれていて、中を見ることもできますよ」

そう聞くと、もうそこに行かねばならなくなる。
その足で名鉄電車に乗り、競馬場を訪れた。
駅から歩いて十五分はかかっただろうか。

競馬場ではその日はレースはなく、場外馬券だけが発売されていた。
レースのある日のような喧騒は今はないのだろう、それでも、警備員が囲む道を僕はゆっくり歩く。
窓口のかわいいお嬢さんに教えられたとおり、さらに広大な競馬場を奥に進むと、まさにその電車があった。
三両編成に組まれた電車は、家族連れのための公園の、芝生の向こうに鎮座している。

芝生広場では幾組かの家族がそこで休日を楽しんでいた。
子供たちが電車の周りを走り回り、真っ赤な電車が屈託なくそれを見ているように見える。

車内を見ると座席もきちんと残してあって、あの頃のパノラマカーそのものだ。
座席に座ると、彼女と出会ったあの頃を思い出さずにはいられない。
「会えたなぁ‥やっぱり久々の紅いパノラマはいいな・・」何気なく独り言が出る。
「だけど、僕が会いたいのは君を大好きだった彼女なんや」パノラマカーに語り掛けるが、電車は何も言わない。
「彼女に会いたいなぁ」
すでに、線路は名鉄と繋がっておはおらず、この電車はいわばパノラマの生き残りの仙人のような存在だ。

三~四歳の数人の子供たちが僕の座っている座席の周りを駆け巡る。
「こら、ほかの方にご迷惑でしょ・・」
女性が子供たちを叱る声がする。
懐かしい声だ、
忘れるはずなんてない声だ。
聴いた途端、涙があふれる。

驚いて振り返った。
座席の間の通路で中年の女性が僕のほうを見て「ごめんなさい、煩かったでしょ」という。
赤いジャケットにクリームのブラウス、紅いスカート、そして赤いカチューシャ、紅いメガネフレーム。
ああ、まさしく・・
女性の着ているものはワンピースでこそないが、間違いがない。
僕は涙を抑えられない。
女性は僕を見てちょっと驚いて、そして深々とお辞儀をした。
「今日、パノラマカーに誘われてここに来ました。お変わりありませんか」
お変わりはあるよ‥それもたくさん・・
そう言おうとしている僕は、声が詰まって出てこない。
「会いたかった」やっと、絞り出すようにそう言った。
少しふっくらとして、それでもあの頃の色香を残す彼女は、ゆっくりと僕の手を取った。
「わたしの孫たちです」そういうと彼女もまた涙を拭おうともせず、僕を見つめる。
「僕は昨年、妻を亡くしました」彼女にそう言うと彼女も言った。
「わたしも・・」

僕たちは競馬場の遊園地に置かれている、真っ赤なパノラマカーの中でお互いを見つめあったまま、動けなくなっていた。

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夏、雨の日の乗客

雨商大筋

まるで風呂屋の湯上がり場に居るような、蒸し暑い夏の夜、いつもの駅前から女性が乗ってきた。
年のころは20代の後半から30代半ばまで、ルームミラーで拝見する限りかなりの美人だ。

薄い茶系統のワンピースがことさらに彼女の色気を誘う。

「こんばんは、どちらまで参りましょうか」
後部ドアを閉じる操作をしながら、僕は訊ねた。
バタンとドアが閉まるその音で、彼女のか細い声がかき消されてしまう。

「え・・どちらまでですか?」
すると不機嫌そうな声が帰ってきた。
「だから、奥山峠、峠の所に友達がいますから、そこで降ろしてください」
「奥山峠・・ですか・・畏まりました」
僕はそう答えてクルマを出した。

奥山峠は僕が待機している駅から北へおよそ20分ほど、距離にして10キロ超、タクシーメーターなら3800円ほどのところだが、そこは人家もない本当の山の中で、狭い県道はSカーブが連続し、峠といっても巨大な雑木の森の中、単に道路が上り坂から下り坂に切り替わるだけで、見通しは全くできないところなのだ。

「窓を開けていいですか?」
女性が訊いてきた。
クルマの中はエアコンの冷気が心地よいはずだが、時にはエアコンを嫌う乗客もある。
「どうぞ、クーラーを切りましょうか」
「いえ、そこまでしてもらわなくても結構、わたしがエアコンを好きじゃないだけで、運転手さんは涼しいほうがいいでしょうから」
文字にするとさほどでもないが、その言葉にはやや棘があるような気がする。

彼女は後席の窓を開けた。
夏の澱んだ風が入ってくる。
だが、それも、数キロも走ると田園地帯の涼しい風になってくる気がしたが、その日はどこまで走っても、窓から入ってくる蒸し暑い風は変わらなかった。
運転席のベンチレータからエアコンの冷気は僕の顔にかかってくるけれど、功績の窓から入ってくる不快な風はその程度の冷気では抗えないほどの強烈さだ。

山間部の道路へクルマが入っていく。
目の前を動物が横切る。
「キツネですね・・」
乗客に言ったわけではなく、僕がつぶやいただけなのだが、彼女はちょっと大きな声でこう言った。
「キツネに気を付けてくださいね、よくクルマに轢かれますから・・」
まるで教えてやると言わんばかりの口調だ。

夜の峠道には明かりも少なく、対向車もほとんどない。
それでも、時折ヘッドライトの明かりでカーブの先に対向車があることが分かり、その都度減速する。
これが日中ならカーブではカーブミラーで慎重に判断、対向車があることを前提で走らねばならないのだから、僕たちプロドライバーには夜の道は走りやすいということになる。

「対向車はヘッドライトの明かりで予見できても、道路上を歩く動物、特にキツネやタヌキには十分気を付けてください」
件の女性の声がかぶさる。
「分かってるわい」と言いたそうになるが、そこは心の中で堪えた。
後席の窓から夏の夜の不快な空気が流れ込んでくる。
森の中に入っているのに、今夜は格別に暑い。
雨でも降るのだろうか。

くねくねした森の中の上り坂を上り、道が頂上にさしかかる。
といっても、別に展望が開けるわけでもない、大木に囲まれたところだ。
「ここで止めてください」
「ここで・・ですね・・」
「ええ、いくらになりますか?」
「3380円ですね、領収書はお入り用ですか?」
「いえ、けっこうです」
女性は一万円札を出して、お釣りを受け取った。
ドアを開ける。
更に外気が車内に入り込んでくるわけで、蒸し暑い。

女性客がクルマを降りてからこの山の中、どこへ向かうのかが気がかりだったが、それよりも高飛車な態度の客と離れることが僕をほっとさせる。
「ま、好きにせえよ、どこで降りようとあんたの勝手やさかい・・」
そう独り言が出てしまう。
女性客の姿を探してみるがクルマの周囲にはいないようだった。
それでも、万が一、クルマを降りた乗客に接触でもしたら大変なことになる・・僕はクルマを慎重に進める・・
女性客が開けた窓を、運転席手元のスイッチで閉じて、エアコンの冷気がようやく車内に満ちてくる。
その場所ではクルマをUターンさせる余裕がないので、僕はそこから数百メートル先へ走り、渓流にかかる橋のところで何度か切り返しをして方向を変えた。

先ほどの峠のところ、ヘッドライトに照らされて二頭の犬のようなものが浮かびあがる。
茶色の体毛、太い尻尾、尖った耳・・「キツネのカップルか・・」僕はそう独り言を言いながら、そういえばさっきのあの高飛車な女性客の顔といい、着ているものの色合いといい、いや、細身の体、釣り上った目・・
さほど詳しく観察したわけではなかったが、それでもあの乗客が「キツネに気を付けてください」といたこと・・もしかしたら、あの人はキツネだったんだろうか・・と思った。

そう思うと人間とは不安になるもので、まさかさっきの一万円札が葉っぱなのではと・・クルマを一旦、道の脇に止めてルームランプを付け、彼女がくれた一万円札を取り出してみる。
それは紛れもなく本物の、一万円札だった。
「まさか、おとぎ話じゃあるまいし・・」僕は自分で自分が可笑しくなった。

数日後、大雨の夜、僕はたまたま奥山峠の先のA市までのお客を送って折り返し帰ってくる道すがらだった。
峠の手前の渓流の橋にさしかかると、ヘッドライトに動物の姿が浮かび上がった。
「この間のキツネか…」
だが、キツネは一頭で、本来なら人やクルマを警戒して道路の端によけそうなものだが、大雨をまともに受けながら、道路上をなにか自分を捨てに行くかのように歩いている。
僕はクルマをとめた。
しばらくそのキツネの姿を目で追う。
ぶらぶらと、対向車線をまるでやさぐれているかのように、大雨に打たれながら歩いていく。
「あいつ、失恋でもしたのか・・」
キツネの姿が闇と雨に紛れて見えなくなり、またクルマを動かす。
「やさぐれぎつね・・ちょっとした童話には・・ならんわな・・」
自分の発想に苦笑しながら、カーブをいくつか曲がり峠に差し掛かる。

いきなり、峠のところで手を上げて走ってくる人が見える。
まさか、こんなところでお客があるはずがない・・だが、タクシードライバーの本能、クルマを停車させた。
それは雨に濡れた女性だった。
「濡れてしまったのですが、乗せてもらえませんか」
いずれ、今夜の仕事はこのあたりで終業にしようと思っていたので、「どうぞ!」と、その女性をクルマに招き入れた。
終業ではなくとも、まさか山の中に女性一人、置いておくわけにもいかないだろう。

ずぶ濡れのその女性は細身で茶系のワンピースを着ていた。
「あれ・・あなたは、先だってこの辺りまで乗っていただいたお客さんでは・・」
「あ・・同じドライバーさんですね、ちょうどよかった、駅まで送ってください」
それにしても、頭の先から足の先までずぶぬれで、ワンピースには下着の線がくっきりと浮かび上がっている。
雨が降っているからだろうか、彼女は「窓を開ける」とは言わない。

走り出してしばらくして、「く・・く・・く・・」と嗚咽のような声が聞こえてきた。
ルームミラーで後席を見ると、女性客は腰をかがめて濡れた髪を前に垂らしているようだった。
「お客さん、大丈夫ですか?」
そう伺うといきなり、「大丈夫じゃないわよ!」と大声が帰ってきた。
「はぁ・・」
「振られたのよ!何もかも賭けてきたあいつに振られたのよ!」
そう言い放つと、その女性客は今度は大声をあげて泣き出した。
こうなってはもう、乗客との会話どころではない。

彼女は泣き続けたが、それでも、クルマが山を降り、田園地帯の交差点で停止する頃には泣き声が聞こえなくなった。
僕は、自分のポーチにいつも用意している真新しいタオルを彼女にさし出した。
「せめて、これで濡れたお顔を拭いてください」
彼女は何も言わず、タオルを受け取った。

駅に着いた頃には雨が小降りになっていた。
「ありがとうございます、3380円です」
彼女は言葉を出さず、五千円札を出した。
釣りを渡そうとすると、手を振って、釣りはいらないという仕草をした。
「タオル、ありがとう」
かすれた声で、ようやくそれだけ言って、彼女はクルマを降り、終電車の行ってしまった駅の方へ歩いていく。
もう、あの茶色のワンピースはずいぶん乾いていたようで、後ろ姿のスカートがひらひら揺れる。
その女性の後ろ姿を見ていた僕は一瞬、彼女の尻に尻尾が生えているかのような錯覚を覚えた。
「まさか・・な・・」
そう思い直したとき、彼女の姿は僕の視界のどこからも、消えてなくなっていた。
「シートカバーを交換せんとアカンな・・」
そう思いながら、後席を見ると、後席は全く濡れていなかった。
「キツネにつままれたようなって・・」
もう一度、視界の中で彼女を探したけれど、茶色のワンピースはどこにも見えなかった。

25年目のお前

寒い北風が吹く日、僕は大阪、京橋の京阪モールと環状線駅の間の通路を歩いていた。
この場所はビルの谷間にあたり、ことに風がきつい。
大勢の人がそれぞれの思う方向へ背を丸めて急ぎ足で通り過ぎていくが、僕もまたそのような大勢の一人なのだ。

大阪環状線の駅構内に足を踏み入れた僕は、売店で新聞を買っているらしい青年と何気なく・・本当に何気なく・・目が合った。
その瞬間、僕は声を上げそうになった。
良平・・
その青年はまさに良平だった。
僕は懐かしさのあまり、その青年に声をかけようとした。
けれども、すぐに思いとどまった。
良平は25年前のちょうど今頃の季節に、死んだのだ。

すると、あらぬことが起こった。

青年が僕に声をかけてきたのだ。

「大野君、久しぶりやん・・」
僕はたじろいだ。
そこにいる「良平」は、まさに25年前の風貌だ。
ありえないことだ。
「僕やん・・良平やで」

僕は、立ちすくんだ。
青年を見つめた。
「僕やん、良平やんか」

青年の声も風貌も喋り方もまさに25年前の良平そのままだった。
「信じられない・・」
僕は彼を見つめたまま、少し後ずさりした。
「逃げんでもええよ」
彼はやさしい表情で僕を諭す。
そして、僕の方に近づいてくる。
僕は動けなくなり、青年を見つめていた。

青年は表情もにこやかに、ゆっくりと僕に近づいてくる。
その表情こそ、まさに25年前の良平の姿だ。

京阪の高架を電車が通る音がする。
環状線の内回りと外回りの電車がすれ違う。
プラカードを持った男性が所在なげに佇んでいる。

僕は腹をくくった。
今の青年を受け止めようとだ・・
腹をくくれなかったことで良平を死に至らしめた過去を思い出したからだ。
「大野君、分かってくれたんや」
青年・・いや、もう良平と呼ぼう・・彼はほっとしたかのような表情で僕の手を握ってくれた。
「変やって・・思ったやろ・・」
彼は親しげにそう語りかけてくる。
「ああ・・だって、お前は・・」
「分かってるで・・死んだはずやって言いたいんやろ」
僕は心なしか、ほっとした。
それでも、今、目の前にいる良平が何者かは分かるはずもない。

「最初に言うておくわ・・僕は大野君がここに来ることが分かって、前世の思い絶ちがたく・・ってところやな」
彼は僕の方に手を置き、ゆっくりと喋った。
「今のお前は・・僕から見れば後世のってところか・・」
「そや!よう分かってくれたな。うれしいで」
「理屈では分かるが・・」
「理屈ちゃうねん・・もっと深い部分やねんな」
「深い部分・・」
「そや、思いの部分や」
「思いか・・分かるような分からんような・・」
良平はふっと、寂しげな表情をした。
「僕は途中で死んだやろ・・そやから、大野君にホンマの気持ちを伝えたたかったんや」

そこまで気いて僕は彼が本当に良平の後世なのか、確かめたくなった。
「なあ・・良平よ・・そやけど、お前がほんまに良平の後世か、僕には確かめる術がないのや」
「ああ・・それやったらなんでも質問してよ」
彼は屈託なく、軽い笑顔を見せながらそう言う。
「じゃ、お前が好きやった女の子は誰や」
一瞬、彼は考えるような表情を見せたがすぐに答えてくれた。
「ほんまに好きやったんは・・誰かな・・さつきちゃんか、それとも智子ちゃんか・・」
「さつきと違うんかいな」
「いやいや、あのころの僕は、女の子に恋することに憧れていたからなぁ」
この答えはなかなかのものだった。
僕はその頃の彼を見て、まさにそう感じていたからだ。
「大野君こそ、さつきちゃんと付き合っていたやんか」
「いや・・僕は、ただ文通だけや・・」
「いっぺんだけ、デートしてたよね」
「知っとるんか・・そやけど、僕はもう、舞い上がってしもて、デートにならへんかったわ」
「それも知ってるで・・」
「天国からみてたんか・・」
そう訊ねると彼は少し暗い表情になった。
「いや・・」
「ん?」
「さつきちゃん、死んでから会ったんや・・」
「え!彼女、死んだの・・」
良平は申し訳なさそうに頷いた。
「あれから4年ほどしてからかな・・自分で列車に飛び込んだ・・」
「ほんまか・・」
彼は黙って頷いた。

僕らは連れ立って京阪電車の高架下にある喫茶店に入った。
ウェイトレスが来ると、かれは僕を悪戯っぽく見つめて「レーコー」と言う。
ウェイトレスは怪訝な表情を見せる。
「アイスコーヒー、二つ」
僕はそう言いなおした。

アイスコーヒーにしたって、この冬の真っ只中に飲むのはおかしかろうと思ったが、なんだか良平の悪戯に乗りたくなったのだ。
「最近は、大阪でもレーコーは通じひんねん・・」
彼はそう言って苦笑する。
「そら、25年前なら通じたやろうけど」
僕たちは声を合わせて笑った。
なにか、打ち解けていく気がする。

「それで、さつきちゃんのこと・・」
「ああ、両親に勧められた結婚が彼女の本意じゃなくて、何もかも楽しくなくてと言うことやった」
「それだけで?」
「そう、それだけで、立派に理由になるやろ・・僕かって・・」
「ああ・・良平の真実か・・知りたいな・・」
「うん・・」

ウェイトレスがアイスコーヒーを運んでくる。
二人分をそれぞれの前に置き「ごゆっくりどうぞ」とお決まりの台詞を投げていく。
「僕はな・・」
「うん・・」
「女の子より、男の子に惚れる性質(たち)やった・・」
「どういうことや・・」
「だから、中村君に・・彼に冷たくされたことが引き金かな・・」
「中村に・・」
「そうや・・彼に冷たくされたことが人生で最大の悲しみやったんや」
僕はすごく不思議な気がした。
「僕よりも、さつきちゃんよりもか・・」
「そうやな・・大野君やさつきちゃんは大事な友達や・・中村君は一生を賭けても良いくらいの人やったな」
「僕には分からん・・」
「そやろな、僕にも分からんかったんやもん・・」

彼は美味そうにストローでコーヒーを飲む。
その姿はまさに25年前の良平そのものだ。
けれど、二人の間にある灰皿はきれいなままだ。
「タバコは吸わへんの?」
「ああ、今世では、タバコは吸ってへん・・前世では中学1年の時にはすでに吸っていたからな」
「ふうん・・」
「大野君はずっと吸わへんまんまか?」
「ああ・・喘息の持病もあるしな」
「吸わんほうがええ・・長生きできるよ」
「長生きか・・したほうがええのんか?」
「そらそうや!今の人生をできるだけ長く楽しむことやな」

僕はそうかと、頷きながらストローでコーヒーを吸う。
口中にコーヒーの味と香りが広がる。
「そう言えば・・良平と、よく・・こうしてコーヒー飲んだな・・」
「ああ・・」
「僕はコーヒーよりは酒が好きやけどな」
「昔からそうやったな・・酒飲んで、酔った勢いで僕のトラックを運転して・・」
「そんなこともあったな・・無免許でな・・」
「もう少しで駐車中の車にぶつかるところやった」
「ああ、あのとき、良平がサイドブレーキを引いてくれなかったら・・どうなっていたか」
「今の仕事はしてないやろ」
良平はそう言って笑った。
大笑いするのではなく、彼らしいにやりとした笑いだ。
「僕の仕事まで知ってるのん?」
「タクシーに乗ってるのやろ・・」
「そや!よう知ってるな!」

僕らはしばらく他愛のない昔話をしていた。
それが、片方は今世の、もう片方は前世の話だと言うのだから奇妙ではある。

話が一段落した頃、僕はさっき、気になっていたことを聞いた。
「僕は、良平が死ぬことになった要因は、失業やと思っていた」
良平はうつむいてグラスの中をストローで混ぜながら、つぶやくように言った。
「何もかも、上手く行かなくなったんや・・中村君に冷たくされてから・・」
「そやけど、あの前の晩、僕と二人で橘社長のところへ行って・・就職お願いできたやないか」
「自信がなかったんや・・販売の仕事やろ・・僕はずっと車の運転をしてたからな・・」

良平はあの日の数週間前に、ルート営業の仕事中、大幅な速度違反で警察に捕まり、車の運転が出来なくなっていた。
検挙された翌日から、早速仕事に困っていた彼は、あの日の前日、僕のところに電話をかけてきて、僕は買ったばかりの中古車で彼を迎えに行き、一緒に知り合いの橘社長に会いに行ったのだ。
橘社長は地元の名士で、すぐにあちらこちら当たってくれ、自分の系列の自動車部品販売業の店の店長から良平の就職の快諾を取ってくれた。

僕は、その日の遅く、彼を自宅まで送ったけれど、彼の表情は冴えなかった。
彼が車を降りるとき、彼の足に僕の車のサイドモールが引っかかり、外れた。
ステンレス製の曲線を描く長いそのモールを、彼は振りかざし、「なんちゅうクルマに乗ってるんや」と笑った。

翌日の朝、彼は約束した自動車販売業の店には行かず、自宅の納屋で灯油を被り、自ら火をつけた。

「仕事のことだけやったら・・そないに悩まへん・・やっぱり中村君や」
「男に惚れるってことが分からん・・」
「惚れるって、相手が異性の場合だけやない・・男の場合でもありうるな・・」
「なるほど・・」
「中村君が冷たくなってからスピード違反で免許は無くすわ・・いろいろ上手く行かんかったんや」
「なるほど・・」
僕は相槌を打つしかなかった。

「しかし、死ななくても・・」
僕は改めて問いかけた。
「あの頃の僕にはそれしかなかった・・」
「辛かったんやな」
「そらな・・しんどかったで・・」
そう言う彼の表情は屈託なく、苦しい過去を思い出しているような雰囲気は感じられない。
あくまでも淡々としているのだ。
所詮は前世の記憶、今の彼に直接の関係はないと言うことか・・

「熱くなかったか?」
「なにが?」
「灯油に火をつけたとき・・」
「熱かったように思うなぁ・・すごく苦しかった。体中が痛かったし、ものすごく喉が渇いた」
「悪かったな・・」
「なんで?」
「良平の心の苦しみを理解できなくて・・あの夜、僕がもっと良平の話を聞いてやれたら・・」
「いやいや、違うねん!」
「ん?」
「僕はな・・大野君がいまだに僕のことで責任を感じているみたいやったから・・会いにきたんや」
良平が笑みをたたえてそう語る姿が僕の目の中でぼやけていく。
そう、僕はあれから苦しみ続けてきた。
それは妻があり、子供がいる今の僕の心の奥で大きなしこりになって残っていたのだ。
頬を涙が零れ落ちる。
「大野君、大野君には感謝してる・・僕のことを邪魔に扱わなかった唯一の友達やもん・・」
僕はもう、彼を正視できない。

「ひとつだけ・・良いことあるねん・・」
僕の涙が少し収まってくるのを待ってたかのように彼がそう切り出した。
「良いこと?」
「うん・・」
「どんな?」
「あのね・・さつきちゃん・・今、僕の奥さんやねん・・」
「え?」
「5年遅れて生まれてきてくれて、だから5歳年下の、奥さんやねん」
彼の表情はあくまでも優しげで、落ちついていた。

「会いたいな・・」
僕がそうつぶやくと彼ははっきり言った。
「会えないよ・・彼女にはそこまでの思いは無いんや・・」
「そうか・・」
「僕だって、今の時間が終わったら、もう、大野君のことは忘れてしまうよ・・思いが消えるんやもん・・」
「思いが消える?」
「大野君が僕のことで責任を感じていて、それが本当に申し訳ないっていう思いや・・」
「そうか・・」

「大野君・・」
「うん?」
「僕のこと、忘れないでいてくれてありがとう・・」
「これからも忘れないよ」
「ありがとう・・でも、もう責任は感じなくて良いよ・・」
「うん、そうする・・」
「お互い、幸せな今世を生きようよ!」
「うん・・」

僕らは連れ立って店を出た。

僕は環状線の駅へ、彼は京阪電車の駅へそれぞれに向かう。
手を振った。
かれもまた、手を振ってくれた。

そして、僕は環状線の駅の方へ向かった。

数歩進んだとき、やはり彼に何か言いたくなった。
あわてて彼を追いかけた。
その人物に「良平!」と声をかけた。
振り向いた25年前の良平そっくりの、その青年は驚いたような表情で僕を見つめ、そして、無視するかのように足早に去って行ってしまった。

幽霊と出会った夜

「お客さん、こちらのマンションでよろしいですか?」
俺は、後ろのシートの乗客に声をかけた。
俺は、タクシードライバーだ。
自分で経営していた店を閉め、もう2年前からこうして、タクシーの仕事をしているのだ。

後席の客から返事はない。
若い女性だ。
「お嬢さん、こちらですね」
女性は返事をしない。
振り向くと、件の女性は後席に横になって寝息を立てている。

そろそろ夏も近く、Tシャツの胸元から白い肌が見える。
「お嬢さん、着きましたよ」
俺は少し大きめの声で、件の女性に到着を知らせる。

「あ・・」
女性はようやく気がついたようで、おもむろに身体を起こし、あたりを見回している。
「こちらのマンションでよろしいですか?」
もういちど、最初と同じ事を俺は訊ねた。
「はい・・」
「それでは、1540円になりますね」
俺はメーターの文字を指差して料金を伝える。
女性は、意識朦朧とした風で、それでも、千円札を2枚、俺に手渡してくれる。
「ありがとうございます。2000円、お預かりしますね。460円、お返しします」
俺は、彼女に釣り銭を手渡し、ドアを開けた。
女性は、おぼつかない足取りで、車の外に出て、目の前にあるマンションに、千鳥足で入っていく。

「本日最後のお客は可愛い酔っ払いか・・」
独り言が自然に出る。
誰も見ていない車内で苦笑している自分にもおかしさを感じる。

時刻は午前3時だ。
俺は自分の会社に戻ろうとした。
ただ、この場所からでは、幹線道路を走るより狭い路地を抜け、更にその先の広大な公園墓地の真ん中を貫いた方が早く帰社できる・・
俺はそう考えた。
そして、急斜面の路地へ入っていく。
すれ違いの際に対向車を交わす事が難しい路地ではあるが、深夜の事でもあり、対向してくるクルマはいない。
ゆっくりと1キロに渡る路地を抜けたあとは、里山をそのまま生かしている公園墓地の中央を貫く快適な2車線道路だ。
道が広くなり、加速する。
道の両側は山林だ。
ふと、ヘッドライトが白いものを映し出した。
「また出たか・・」
また独り言が漏れ、俺はゆっくりとクルマを停車させた。

深夜の公園墓地・・道路の中央に白いドレスの女性が立ち尽くしている。
俺は窓を開けて叫んだ。
「お里さん、邪魔せんといてか」
白いドレスの女性は俺に顔を向ける。
「邪魔やっても、そのまま通過できるやろ・・」
「あんたは、もう死んでるかも知れへんけど、一応、俺は人間らしきものにぶつかるわけにはいかんのや」
「ほな、そこにじっと停まっとき・・うちは、娘を待っているのや」
「娘さん・・今日は一緒とちがうんかいな」
「さっき、タヌキと一緒に何処かへ行きよりましてん」
「そら心配やな・・ってか・・幽霊を襲うやつはおらんやろう」
「そうと分かっていても、心配ですがな」

お里はこのあたりでは知る人ぞ知る幽霊だ。
始めて見た人は恐怖のあまり、立っていられないくらいのショックを受けるのだが、陽気な幽霊だ。
話をすれば、なかなか可愛いところもあり、仲良くなればのっぺらぼうも、ちょっと白すぎるがかなりの美人に見えてくる。
いつもは、同じ白い衣裳の10歳くらいの娘さんを連れて出没する。
お里の年の頃は30歳前後だろうか。
50年ほど前に娘さんと一緒に事故で亡くなったという。
以来、人の浮世に余りにも未練が多く、いまだにこうしてこの墓苑の主のようになって出没するらしい。

「そやけど、そこ、どいてや・・会社に帰りたいねん」
「そう言われると・・余計に通したくなくなるわよ」
幽霊は悪戯っぽく笑う。
笑うと言っても目に見えるのはのっぺらぼうの顔だけだ。
でも、不思議に笑っているように見えるのだ。

「お母さん!」
そのとき、子供の声がした。
お里と同じ衣裳を纏った子供の幽霊が宙を滑るように走ってくる。
「千香、心配してたんよ」
「タヌキのやつ、いきなり、猫と遊び出すねん・・うち、無視されてんで」
「タヌキなんか相手にしないで、勝手に遠いところへ行ったらあかんわよ」
千香と呼ばれる娘もまたのっぺらぼう・・なのだが、慣れてくるとこちらも愛らしい表情が見える気になる。
「お母さん、幽霊は誰にも襲われへんよ」
「でも、お母さんは心配なの!」

幽霊親子が会話しているのを見て、俺は思わず叫んだ。
「もう、ええやろ、通してくれや」
幽霊親子は顔を見合わせ、すっと宙に浮き上がる。
「迷惑かけたわね。ごめんね」
俺は、苦笑しながら空中の幽霊に手を振り、その足の下を通過した。

俺は会社に戻って、詰所で売り上げの集計をしていた。
バタバタと走り込んでくる足音がする。
詰所の扉が勢いよく開き、同僚の窪木が詰所に転がり込んできた。
「あ!中野さん、いはったんですか!」
窪木は息を切らせ、それでも、俺がいて良かったというように、いきなり、俺に抱き着いてきた。
「窪木さん、どうされたんです?」
「あかん!あきまへん!」
「だからどうされたんですか?」
「でたんや!」
「出たって・・なにがです?」
「お化けやねん!」
「お化けって・・幽霊ですか?」
「I町を走っていたら・・顔のない女がでたんや」
俺は抱き着いてきている窪木をゆっくり引き離してから・・こういった。
「幽霊なら僕もさっき、そこの墓苑で会いましたよ」
「わしが見たんは、ホンマもんなんや!」
「幽霊に贋物も本物もないでしょう」
「とにかく、わしが見たんはほんまもんなんや、I町で赤いワンピースののっぺらぼうの・・」
窪木は墓苑の幽霊を知らないらしい。
そう言えば、会社の同僚たちにも幽霊親子を知っている人は少なく、知っている人もたいていは恐怖の対象としてしか見ておらず、おまけに誰かに喋れば自分の寿命が短くなると信じているとあっては、幽霊親子を知らない人が多くなるのも致し方のない事だった。
俺は、しばらく、窪木の話を聞く事にした。

窪木は深夜の乗客がI町までと言ってくれたので「今夜は運がある」と喜んで向かったそうだ。
I町まではおよそ20キロ、深夜料金なら7000円ほども出る勘定になる。
水揚げが収入に直結するタクシードライバーにとっては当然の感覚だ。
お客を降ろして帰社しようとしたとき、深夜の百貨店前で、いきなり飛び出してきた人があったそうだ。
赤いワンピース、赤い帽子のその女性と思われる人物は、まるでクルマに突っ込んでくるかのように走ってきて、驚いてクルマを停めた窪木はその女に抗議しようと窓を開けた。
「危ないやないか!」
そう叫んだ窪木の目に映ったのは振りかえったその女の顔。
赤い帽子の下の顔はのっぺらぼうだったそうだ。
のっぺらぼうなのに、何故か、女が笑っているように見えたそうだ。

そこからどこをどう走ったか・・
窪木は覚えておらず、気がつけば会社の車庫にいたそうだ。

「ホンマに幽霊ですね」
俺は、話を聞き終わると納得したように頷いた。
「そんな、呑気な・・」
「でも、窪木さん、幽霊は何もしませんよ・・彼らは自分の意志でそこにいるだけですから」
「そやけど、あんな怖いもの、あらへん」
「怖くないですよ。幽霊になにか悪さをされた人って・・聞いた事ないでしょ」
「それもそうやけど」
「だったら、不用意に怖がらなくていいんじゃないですか」

一瞬、窪木は納得したかのように見えたけれども、すぐ真剣な表情になって迫ってきた。
「あのな・・中野さんはお化けを見てないからそんな事が言えるのや」
「いや・・だから・・僕はさっき、そこで幽霊に出会いましたよ・・今まで何度も幽霊に会っているのですけれど」
「そんなことが有るかい!」
窪木は真顔で怒っている。
俺は、彼をなだめるようにゆっくりと話した。
「いいですか・・窪木さん、僕は何度も幽霊に出会っているのですよ。もしかしたら幽霊に出会う感性を持っているのかもしれません。だから信じて下さい」
窪木はやや落ち着きを取り戻し、俺の目を見た。
俺は、噛んで含めるように・・更にゆっくりと話した。
「いいですか・・僕もそのI町の幽霊に会いに行きます。会えたらいろいろ話を聞いてみます」
窪木は頷いた。
「それまでは、誰にもこの事は言わないで下さいね」
窪木はもう一度大きく頷いた。

次の出勤日はその翌々日だ。
俺は一通りの仕事が終わってから、I町の方向へ向かうつもりだった。
けれども、深夜に不思議にもI町近くへ向かう乗客があり、この乗客を乗せて「正当に」I町へ向かう事が出来た。
I町唯一の百貨店前は深夜になれば昼間の喧燥も嘘のように静まり返っている。
俺は、自分のクルマを停めた。
窓を開け、初夏の夜のひんやりした空気を吸い込む。
ラジオを消した。

街灯に照らさせる夜の大通り・・
ライトアップされたかのようにその威容を誇る百貨店やその周囲のビル群。
点滅しているだけのいくつかの信号。
時折通過していくクルマ。
ハサードランプを点けて深夜の客待ちをする何台かのタクシー・・
そう言った物が俺の視界に入る。

俺もまた客待ちをしているタクシーに見えるだろう。

けれども、俺にとってはこれが唯一、この町にいる幽霊と出会える方法なのだ。

深夜と言うのに時折歩く人がいる。
けれども、客待ちのタクシーは動かない。
俺は百貨店の前を離れ、そのさきの少し暗くなっている場所へ移動した。

目の前には黄色の点滅信号がある。
やがて、紺のスーツに身を包んだ女性が俺の前を横切ろうとする。
女性にしては大柄で、それでも、膝あたりまでのスカートから伸びた脚は力強く、きれいなラインを描いている。
肩までの髪は手入れが行き届き、大きな耳たぶにはきれいない銀色のイヤリング。

その女性は俺の目の前で一旦振り返った。
顔には目も鼻も口もなかった。
のっぺらぼうなのだがつるつると言うのではなく、布を顔一面に貼り詰めたような質感だった。
女性は俺を睨み付けた。
女性の顔はのっぺらぼうなのだが俺にはそう見えるのだ。
俺は咄嗟に女性に声をかけた。
「幽霊ですか?」
女性は少し怯んだようだった。
「幽霊さんですよね」
女性は少し脅えた表情・・さっきの布の質感しかない顔なのだが、俺には明らかに脅えていると見える表情のまま俺を見詰めている。
「怖くないのですか?」
意外にも女性から出た声は男のそれだった。
「男か?」
俺が思わず呟くと、その女性?は更に驚いた様子だった。
「分かりますか?」
幽霊はそう訊ね返した。
「声は分かるよ」
「わたしが怖くないのですか?」
「なんで?怖がる必要がないやんか」
「そりゃ・・」
「心配しなくていいですよ。幽霊さんとはお付き合いがいくつか有りますから」
女装の男性で幽霊・・という不思議なその「人」は安心したかのように俺を真っ直ぐに見た。
のっぺらぼうなのだが、俺にはそう見えるのだ。
「私、死に損なったのですよね。もう20年もこうしてこの場に住んでいるのですよ。通りがかる人たちは私を見ると怖がるし、私もついには人を驚かして喜ぶだけの毎日になってしまったのです」
「でも・・女装しておられると言う事は・・元から・・人間だったころからそういう・・人を驚かす趣味がおありだったと言う事ちゃうかな・・」
「鋭いですね・・」
「普通に考えれば誰にでも分かる事でやろね」
「いや、そうなんですが、私は人を驚かす事が趣味で女装していたわけではないのです」
「じゃ・・どんな理由で・・」
「実は・・」
「実は?」
「私は、そこの山の上の女学校の教師だったのですよ」
「は?だから?」
「ですが・・趣味が女装と言う・・これまた非常に厄介なものでして・・」
俺は呆れた。
「ホンマに厄介ですよね」
「ある日、私の事が新聞記者の知るところとなり・・」
「大変なことやね・・」
「それを新聞に書かれると・・非常に困る・・でも彼はそれを書きたい・・」
「なるほど」
「前途を悲観して・・」
「そこから先は聞かなくてもええよ」
「ありがとうございます」

その後の会話によると幽霊氏は出来ればあの世に行きたがっている事が分かった。
けれども、その方法は俺には分からない。
なんでもタイミングを逃したものは、簡単にはあの世とやらには行けないらしい。
彼は、今の中途半端な状態にすっかり疲れているし、おまけにマトモに他人と話も出来ない現状では寂しさが募り、どうにもならないというのだ。

「今度、聞いておいてあげるよ」
俺はそう約束し、I町を離れた。
幽霊氏は高く百貨店の上まであがり、俺を見送ってくれた。

俺はその足で、会社近くの墓苑に向かった。
お里親子に会う為だ。
彼女たちなら、お墓の他の幽霊とも付き合いがあるだろうし、なにか知っているだろう・・
俺はそう思っていた。

墓苑に近づく。
道路の上空に、ぼんやりと白いドレスのようなモノが見えてきた。

切ない通り道


秋田栄一は、ふわふわした空間を歩いていた。
こんな空間が現実にあるはずはない。
これはきっと、夢なのだ・・そう自分に言い聞かせるのだが、夢は醒めそうもなく、覚めない夢なら現実として受け入れるしかないなあ・・ぼんやりと考えながら歩いていた。
彼が歩いているところは、やわらかな、暖かい空気に満たされているようで、その先がどこに通じるのかも、彼には分からなかった。
「たしか・・俺は・・」
栄一は自分がさっきまで何をどうしようとしていたのか・・考えようとしていた。
けれどもいくら考えても、肝心なところは思い出せないのだ。
彼は確かに、通勤のために自転車で駅へ向かい、間違いなく駅に着いたのだ。
彼の記憶はそこで止まってしまっていた。

無色、それは白とも灰色ともつかない、まさに無色としか言いようのない空間・・そこをゆっくり歩いていく。
歩いても息切れもしなければ、疲れることもなく、ただ、朝着たスーツのままの姿で、彼は歩いていく。
空間に少し色がついたような気がした。
青と言うのだろうか、それとも水色と言うべきか、そう言う系統の色だ。
それは、薄く、やがて濃く・・

気がつくと栄一は、木造の家屋に中にいた。
懐かしい匂いがする。
「栄ちゃん、ここにおったん?お父さんにお薬上げてきて・・」
割烹着の母親が台所で何やらせわしく働いている。
台所と言っても、昔の土間だ。石の流し、その脇に置かれた台の上に簡単なガスコンロ・・
「はーい」
栄一は、いつしか自分が11歳の自分に戻っていることに驚いたけれど、彼の口から出たのはごく普通の母親への返事だった。
お凡に医院で調合してもらった薬を数種類と水を入れたコップを載せ、父親が眠っている部屋に運び込んだ。
父親の部屋は台所から廊下を少し進んだその先にあった。
障子に手をかけ、開けると布団が敷いてあり、彼の父親はそこに眠っていた。
「栄一か?」
気配に目を覚ましたようだった。
「お父ちゃん、薬、ここに置いとくで・・」
「ああ・・薬か・・いややな・・」
父親は途切れ途切れに、そうつぶやいた。
「では、お酒でもお持ちしましょうか?」
栄一は、軽い気持ちで冗談を放った。
「こら・・こんなときに、冗談はやめてくれ・・」
父親は苦しそうにそう言うと咳き込んだ。
咳き込みながら体を起こし、さらに咳き込む。
栄一は体を支えてやり、背中をさすった。
「あれを・・」
父親が指差す方向に洗面器があった。
洗面器には新聞紙が敷き詰めてあった。
それを取って父親の手に渡してやると、抱え込むようにして、すぐに吐いた。
それはすべて血だった。
真っ赤になった洗面器を置いて、父親は、ほっとしたのか、また身体を横たえた。
栄一は薬の載ったお凡をそこにおいて、かわりに、血で一杯になった洗面器を持ち、台所の母親の元へ行った。
「お母ちゃん、お父ちゃん、また吐いたで・・」
「血いかいな・・」
「そや・・こんなにぎょうさん・・」
「アカンかもなあ・・」
「何が?」
「お父ちゃんや・・」
「いやや!僕、お父ちゃん、死ぬの、いやや!」
「そない言うたかてなあ・・」
栄一の父親は、酒がもとで体を壊し、ろくに病院にも行かず、入院しても帰ってきては酒を飲むと言う生き方をしていた。
腕の良い理髪職人であるにもかかわらず、いつまでも独立もかなわずに、流れて歩いてきたけれど、いつも酒がもとで客や店主、店のほかのものといざこざを起こしては店を変わっていくのだった。

ふと気がつくと、そこは栄一が住んでいた借家の前だった。
夏で暑い。
シキミの束が立てられている。
それらには送ってくれた人の名前や会社名が書いてある。
栄一父のの葬式の日だ。
あれから、いくらも経たないうちに彼の父親は38歳の短い生涯を閉じた。
栄一は母や祖母に言い含められ、棺の横にずっと正座を続けていた。けれども、さすがに、痺れがきて、席を立ったのだ。
親戚や参列する近所の人たちは奇異の目を向けたが、所詮小学生、放っておかれたようだ。

お経の声がする自分の家から外に出ると、担任の先生に連れられた小学生たちが並んでいた。
「あら・・秋田君、中にいないでいいの?」
担任の山口先生だ。
山口先生は若くてきれいな先生だ。
先生のすぐ後ろにコバンザメのように良一がくっついていた。
良一は栄一の手を取り「秋田君!かわいそうや・・」そう言ってくれた。
他のクラスメイトは奇異な目を向けながら、どんな表情をして良いか困っているようだ。
山口先生は他の先生数人と受付で香典を渡しているようだった。
「秋田君!」
突然、列の中からさつきが出てきた。
「頑張ってください!」
大声で彼女が叫ぶ。
「さつきちゃん!こう言うときは、しんみりするものなの・・」
山口先生がさつきを押さえ、小学生の一団はゆっくり去っていった。
良一が繰り返し後ろを振り向き、栄一を見る。
良一は今にも泣き出しそうな表情をしていた。

やわらかな、暖かい空間を栄一はゆっくりと歩いている。
かすかな青い色合いは、やがてはっきりとした色合いになってきた。
懐かしく、切ない風景に出会えたことを喜びながらも、その風景をなぜ自分が見ているのか、そこまでは考えない栄一だった。

中学校、秋の昼下がり・・
授業を終え、掃除も済んで、帰ろうとした栄一をさつきが呼び止めた。
「秋田くーん!」
さつきは、ずいぶん大人びて、肩までの髪、小粋に耳を出し、セーラー服が良く似合う美少女になっている。
「なんやねん・・俺、帰るとこやねんで・・」
さつきの後ろには数人の女子生徒がついている。
彼女は女子の間ではボス的な存在だ。
「知ってる?知ってる?」
「だから・・なんやねん・・」
「男と女が、仲良くなってすること・・」
「男と女?」
「そうそう・・秋田君やったら、知ってるやろうねえ・・」
「知らんわ・・」
「ええ!・・知らんのう?・・ホンマ?」
こいつ、何を言い出すのかと思えば・・悪戯好きのさつきだから油断は出来ない。
栄一はそう思いながらも、さつきには惹かれている自分もあり、向こうから声をかけてくれたら嬉しいとの思いもある。
「男と女やろ・・」
「そうそう・・」
さつきは悪戯っぽく笑う。
栄一は思い切ってこう言った。
「性交・・」
さつきは他の女子と一緒に大声で笑い出した。
「きゃあ!セイコーやて・・聞いたあ・・」
教室に残っていたほかのクラスメイトも笑い出した。
「じゃあ・・なんやねん・・」
「そんなん、デートに決まってるやんか・・いきなりセイコーはないわよ・・」
そう答えたあとで、また大騒ぎをしている。
栄一は、どう取り繕って言いか分からず、ふてくされて、教室を出ようとした。
「秋田くーん・・」
栄一は無言で教室を出る。
「秋田君!エッチやなあ・・」
後ろから女子のきゃあきゃあと笑う声が聞こえる。
栄一は自分でも分かるくらい、顔を赤くして廊下に出た。

廊下に出ると良一が待っていた。
良一とは小学校で同じクラスになって以来、中学では一度もクラスメイトになれなかった。
校舎から外に出て、歩道を歩きながら二人は並んで帰る。
「秋田君、ええなあ・・」
良一は突然、羨望のまなざしで栄一を見る。
「何がええんや?」
ほんの少し、間を置いてから、良一が答えた。
「さつきちゃんと仲が良くて・・」
そう言った良一の顔は少し赤くなっている。
「いや・・あんなオテンバ、ちっとも、ええことあらへん」
「でも、さつきちゃん、可愛いやんか・・」
「ま・・そらそうやな・・いえるわな・・」
「そやろ・・可愛いやろ・・」
「そやけど、性格に問題ありやぞ・・ほんまに・・」
「でも可愛い・・」
栄一は、良一がさつきにこだわるのを、少し、からかいたくなった。
「おまえ、さつきが好きなんか?」
「そうや!」
良一は臆面もなく答える。
栄一はその良一を羨ましく思った。

何だか胸が熱くなってきた。
心の一番奥で眠っていたものが目を覚ましてきたような気がする。
栄一はゆったりとした優しさと暖かさを感じながら、また、空間を歩いている。
空間の色は青からやや濃い群青色に変わりつつあった。
暖かさの中に切ない、しんみりとした空気が混じるような気がする。

夜、良一から呼び出しがあった。
栄一は二十歳、高校を卒業して地元に工場のある大手メーカーに勤めていた。
栄一は買ったばかりの中古自動車で、良一の自宅近くへ行った。
田圃の中に良一が立っている。
ヘッドライトで照らされた良一は、いつものように元気そうに見えた。
「どないしたんや・・急用って・・」
栄一は良一をクルマに乗せながら聞いた。
「僕、明日から仕事に行くねん・・」
「良かったなあ・・どんな仕事や」
栄一は適当にクルマを走らせながら、訊ねた。良一は数ヶ月、無職だったのだ。
「うん、カー用品の販売や・・」
「それは良かったなあ・・おまえ、クルマ好きやしなあ・・」
「うん・・」
「で、急用って・・そのこと?」
「そうやな・・それもある」
「今からどこかで奢るわ!就職祝や!」
「うん・・」
良一は何だか気乗りがしない風だった。
だけども、彼は普段からあまり大げさに喜ぶような男ではなかった。
いつも静かな、強いものを秘めているような男だった。
その日、栄一は良一にファミリーレストランで奢り、良一の家の前まで送ってきた。
「あんな・・秋田君」
「なんや・・」
「さつきちゃんのこと・・知らんか?」
ああ・・そのことか、栄一はそう思った。
良一はまだ初恋を抱いたままなのだ。
「さあ・・大阪の有名私立から帰ってきたという話は聞いたけど・・」
「家におるんか?」
さつきは、頭も良く、地元で一番の優秀な高校でさえも足元にも及ばない大阪の私立高校に入学していたのだ。
卒業は普通にしたはずだが、栄一の母親によると帰ってきたきり、自宅に閉じこもりっぱなしで出てこないと言う。
「家にはおるらしいな・・」
「電話・・してみようか・・」
「そうやな・・してもええかも知れへんぞ・・」
そう言い残して、栄一はクルマを走らせた。
クルマは夜の町を快調に走り、エンジンの伸びやかな音も心地よく、栄一は良一のことを忘れた。

翌日、栄一が会社から自宅へ戻り、夕刊を広げた。
「二十歳の男性、焼身自殺」小さな見出しが社会面の隅にあり、そこを良く見ると良一の名前があった。
栄一はそれを見たとたん、放心状態となり、そのまま、宙を睨み続けていた。
「どないしたん・・栄ちゃん・・」
母親の声に我に返った。
息を吸いすぎて、声がまともに出ず、やっとの思いで切れ切れにこう言った。
「お母ちゃん!良一が死んだ!」

暖かな道にも、時折、切なく、悲しいところがあるものやなあ・・栄一は、つぶやきながら空間を歩いていく。
群青色の空間はさらに濃さを増し、星がきらめき始めた。
星だと思っているだけで、実はそれが何だかわからない。
とにかく、ひたすら濃い色・・黒に近い色の中に無数のちりばめられた光がある。
寒くなってきた気がする。

「さつきさんが亡くなったよ」
栄一は仕事中に携帯電話へかけてきた母をたしなめようとしたけれども、母親の口から出た言葉はあまりにも冷たく響いた。
「なんで?」
「わからへん・・とにかく、今夜、お通夜やから・・」
栄一は工場の事務所で購買の仕事をしている。
仕事は、今日は7時過ぎまではかかりそうだった。
クルマを飛ばせば、お通夜の時間内に着けるだろう・・

お通夜は、彼が行った時には半ば終わっていた。
祭壇にあるさつきの顔は、彼が知っているさつきと目のあたりこそ似ているけれど別人のように見える。
けれども、棺の中を見せてもらったときには、その目元と鼻がきれいに化粧されていて、彼の知っているさつきに思えた。
ただ、彼には、目元と鼻だけが棺の中で花で一杯にされたところから出るようにしているのが、不思議な感じがした。
「秋田君・・」
さつきの声がした。
「来てくれたんやね・・」
栄一はあたりを見まわした。
そこは、暖かい通夜の会場ではなく、荒涼とした夕方の線路際だった。
そうだ、彼女は列車に身を投げたんだ・・
栄一はそのことを思い出した。
「秋田君!」
線路際にいたのはセーラー服姿のさつきだった。
「ごめんね・・仕事が忙しいでしょう・・でも、ありがとう・・」
踏み切りが鳴る。
列車が通過していく。
「寒いなあ・・」
「ホンマや・・寒い寒い・・あたし、中学生のころが一番楽しかったよ」
「そう言えば・・俺も、楽しかったなあ・・」
「あの頃のまま、大人になってたら・・そうね、良一君か秋田君と結婚してたら・・」
「もっと楽しかったか?」
「うん・・」
「喧嘩ばっかりしてたかもなあ・・俺と結婚してたら・・」
「あはは・・そうかも知れへん・・」
「その喧嘩もしてみたかったなあ・・そういや、良一が君のことが好きだったって・・知ってたか?」
「知ってるわ・・彼、亡くなる前の日に電話くれたもの・・」
「なんて?」
「明日会って欲しいって・・」
「どう返事したの?」
「いいわよって・・時間も決めてた」
栄一には意外なことだった。
栄一は今の今まで良一が自殺した原因は、さつきにふられたからかも知れないと思っていたからだ。
「じゃ、どうして、良一は死んだの?」
「彼に聞いたらね・・怖かったんだって・・」
「彼に聞いた?」
「うん・・あとでね・・」
「不思議なことを言うなあ・・」
「でもねえ・・秋田君・・」
「なんや?」
「まだ、こっちへ来たらあかんよ・・」
「こっちへ?」
「うん、秋田君のお父さんも、良一君もこっちにいるけど、あなたはまだ来たらアカンよ」
「そやけど・・俺は・・」
「まだまだ・・またずっと後で会おうよ・・」
さつきは、そういったかと思うと、走り去ってしまう。
追いかけようと栄一は走り出すのだが、身体がまったく動かない。
貨物列車がわずかに残る残照の彼方から走ってきた。

ピーーー・・電気機関車のけたたましい警笛が聞こえる。
踏み切りの警報音が鳴り続いている。
ブレーキの鈍い音が広がる・・長い時間・・・

さつきは、どうしてあんな苦しみ方を選んだのだろう・・
そこまでして彼女が捨てたかったのは何だったのだろう・・
栄一はしばらく考え込んでいた。

気がつけば彼はすっかり暗くなった空間を歩いている。
暖かさも優しさも消えた真っ暗な空間を歩いている。
突然、彼の前に男が現れた。
「来るな!」
男が叫ぶ。
聞いたことの有る声だ。
「兼子先輩!」
そうだ、彼の職場で、いつも彼を邪険に扱ってくれた、嫌いな先輩だ。
「秋田!こっちに来るな!」
「先輩!どうされたんですか?」
「秋田よ!おまえはこっちに来たらアカンのや!来るな!帰れ!」
「兼子先輩!」
「来るな!」
風が吹き始めた。冷たい風だ。
これ以上は進めない・・
そう思いながら、ふと、後ろを見ると、暖かそうな日向が広がっているのが見えた。
「パパ!」
叫ぶ声が聞こえる。
ああ・・あれは娘の響子の声だ・・
ふらふらと、彼はそちらへ向かって歩いていく。
見ると、良一とさつきが手をつないでいる。
「おまえら、結婚したんか?」
「まさか・・デートの途中やわ・・」
悪戯っぽくさつきが笑う。
良一が照れている。
「家族を大事に・・あまり酒を飲むな・・」
その声にびっくりした。
彼の父親の声だ。
優しい笑顔で、彼を見送ってくれている。
懐かしい、大切な人たち・・
「おい!来るなら、もっと準備して来いよ・・」
兼子先輩が笑っている。
ああ・・先輩、入社当事はこんなきれいな笑顔を見せてくれた人だったなあ・・
そう思う。
「お嬢さんによろしくね!」
さつきが叫ぶ。
「パパ!」
娘の声だ。

気がつくと彼はベッドの上でさまざまな機械や人々に囲まれて横たわっていた。
「涙を流しておられますよ!」
若い男の声がする。
手に力を入れた。
暖かく、柔らかい手が握り返してくれる。
「お父さん・・気がついたんだ・・」
ぼんやりと見える、それは、まさに彼の娘の輪郭だった。

秋田栄一はあとで、彼が、あの日の朝、駅のホームで電車を待っていて、誰かに後ろから突き飛ばされ、ちょうど入ってきた電車に接触し、瀕死の重傷を負ったことを知った。
けれども、彼は、そのことで、彼が会いたかった人たちに少しでも会えたことを、じっくりと味わうことのほうを喜んでいた。
彼は優しさと暖かさを知ったような気がしたのだ。

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