無料レンタル FC2 Blog Ranking story(小さな物語) 大人の童話

プロフィール

kou1960

Author:kou1960
小説専門のブログです。
小説の形を借りて自分史も入れたりしています。
もとよりアマチュアですし、たいしたものは書けませんが、楽しんでいってくだされば幸いです。FC2 Blog Ranking


最近の記事


最近のコメント


最近のトラックバック


月別アーカイブ


カテゴリー


ブロとも申請フォーム


夏、雨の日の乗客

雨商大筋

まるで風呂屋の湯上がり場に居るような、蒸し暑い夏の夜、いつもの駅前から女性が乗ってきた。
年のころは20代の後半から30代半ばまで、ルームミラーで拝見する限りかなりの美人だ。

薄い茶系統のワンピースがことさらに彼女の色気を誘う。

「こんばんは、どちらまで参りましょうか」
後部ドアを閉じる操作をしながら、僕は訊ねた。
バタンとドアが閉まるその音で、彼女のか細い声がかき消されてしまう。

「え・・どちらまでですか?」
すると不機嫌そうな声が帰ってきた。
「だから、奥山峠、峠の所に友達がいますから、そこで降ろしてください」
「奥山峠・・ですか・・畏まりました」
僕はそう答えてクルマを出した。

奥山峠は僕が待機している駅から北へおよそ20分ほど、距離にして10キロ超、タクシーメーターなら3800円ほどのところだが、そこは人家もない本当の山の中で、狭い県道はSカーブが連続し、峠といっても巨大な雑木の森の中、単に道路が上り坂から下り坂に切り替わるだけで、見通しは全くできないところなのだ。

「窓を開けていいですか?」
女性が訊いてきた。
クルマの中はエアコンの冷気が心地よいはずだが、時にはエアコンを嫌う乗客もある。
「どうぞ、クーラーを切りましょうか」
「いえ、そこまでしてもらわなくても結構、わたしがエアコンを好きじゃないだけで、運転手さんは涼しいほうがいいでしょうから」
文字にするとさほどでもないが、その言葉にはやや棘があるような気がする。

彼女は後席の窓を開けた。
夏の澱んだ風が入ってくる。
だが、それも、数キロも走ると田園地帯の涼しい風になってくる気がしたが、その日はどこまで走っても、窓から入ってくる蒸し暑い風は変わらなかった。
運転席のベンチレータからエアコンの冷気は僕の顔にかかってくるけれど、功績の窓から入ってくる不快な風はその程度の冷気では抗えないほどの強烈さだ。

山間部の道路へクルマが入っていく。
目の前を動物が横切る。
「キツネですね・・」
乗客に言ったわけではなく、僕がつぶやいただけなのだが、彼女はちょっと大きな声でこう言った。
「キツネに気を付けてくださいね、よくクルマに轢かれますから・・」
まるで教えてやると言わんばかりの口調だ。

夜の峠道には明かりも少なく、対向車もほとんどない。
それでも、時折ヘッドライトの明かりでカーブの先に対向車があることが分かり、その都度減速する。
これが日中ならカーブではカーブミラーで慎重に判断、対向車があることを前提で走らねばならないのだから、僕たちプロドライバーには夜の道は走りやすいということになる。

「対向車はヘッドライトの明かりで予見できても、道路上を歩く動物、特にキツネやタヌキには十分気を付けてください」
件の女性の声がかぶさる。
「分かってるわい」と言いたそうになるが、そこは心の中で堪えた。
後席の窓から夏の夜の不快な空気が流れ込んでくる。
森の中に入っているのに、今夜は格別に暑い。
雨でも降るのだろうか。

くねくねした森の中の上り坂を上り、道が頂上にさしかかる。
といっても、別に展望が開けるわけでもない、大木に囲まれたところだ。
「ここで止めてください」
「ここで・・ですね・・」
「ええ、いくらになりますか?」
「3380円ですね、領収書はお入り用ですか?」
「いえ、けっこうです」
女性は一万円札を出して、お釣りを受け取った。
ドアを開ける。
更に外気が車内に入り込んでくるわけで、蒸し暑い。

女性客がクルマを降りてからこの山の中、どこへ向かうのかが気がかりだったが、それよりも高飛車な態度の客と離れることが僕をほっとさせる。
「ま、好きにせえよ、どこで降りようとあんたの勝手やさかい・・」
そう独り言が出てしまう。
女性客の姿を探してみるがクルマの周囲にはいないようだった。
それでも、万が一、クルマを降りた乗客に接触でもしたら大変なことになる・・僕はクルマを慎重に進める・・
女性客が開けた窓を、運転席手元のスイッチで閉じて、エアコンの冷気がようやく車内に満ちてくる。
その場所ではクルマをUターンさせる余裕がないので、僕はそこから数百メートル先へ走り、渓流にかかる橋のところで何度か切り返しをして方向を変えた。

先ほどの峠のところ、ヘッドライトに照らされて二頭の犬のようなものが浮かびあがる。
茶色の体毛、太い尻尾、尖った耳・・「キツネのカップルか・・」僕はそう独り言を言いながら、そういえばさっきのあの高飛車な女性客の顔といい、着ているものの色合いといい、いや、細身の体、釣り上った目・・
さほど詳しく観察したわけではなかったが、それでもあの乗客が「キツネに気を付けてください」といたこと・・もしかしたら、あの人はキツネだったんだろうか・・と思った。

そう思うと人間とは不安になるもので、まさかさっきの一万円札が葉っぱなのではと・・クルマを一旦、道の脇に止めてルームランプを付け、彼女がくれた一万円札を取り出してみる。
それは紛れもなく本物の、一万円札だった。
「まさか、おとぎ話じゃあるまいし・・」僕は自分で自分が可笑しくなった。

数日後、大雨の夜、僕はたまたま奥山峠の先のA市までのお客を送って折り返し帰ってくる道すがらだった。
峠の手前の渓流の橋にさしかかると、ヘッドライトに動物の姿が浮かび上がった。
「この間のキツネか…」
だが、キツネは一頭で、本来なら人やクルマを警戒して道路の端によけそうなものだが、大雨をまともに受けながら、道路上をなにか自分を捨てに行くかのように歩いている。
僕はクルマをとめた。
しばらくそのキツネの姿を目で追う。
ぶらぶらと、対向車線をまるでやさぐれているかのように、大雨に打たれながら歩いていく。
「あいつ、失恋でもしたのか・・」
キツネの姿が闇と雨に紛れて見えなくなり、またクルマを動かす。
「やさぐれぎつね・・ちょっとした童話には・・ならんわな・・」
自分の発想に苦笑しながら、カーブをいくつか曲がり峠に差し掛かる。

いきなり、峠のところで手を上げて走ってくる人が見える。
まさか、こんなところでお客があるはずがない・・だが、タクシードライバーの本能、クルマを停車させた。
それは雨に濡れた女性だった。
「濡れてしまったのですが、乗せてもらえませんか」
いずれ、今夜の仕事はこのあたりで終業にしようと思っていたので、「どうぞ!」と、その女性をクルマに招き入れた。
終業ではなくとも、まさか山の中に女性一人、置いておくわけにもいかないだろう。

ずぶ濡れのその女性は細身で茶系のワンピースを着ていた。
「あれ・・あなたは、先だってこの辺りまで乗っていただいたお客さんでは・・」
「あ・・同じドライバーさんですね、ちょうどよかった、駅まで送ってください」
それにしても、頭の先から足の先までずぶぬれで、ワンピースには下着の線がくっきりと浮かび上がっている。
雨が降っているからだろうか、彼女は「窓を開ける」とは言わない。

走り出してしばらくして、「く・・く・・く・・」と嗚咽のような声が聞こえてきた。
ルームミラーで後席を見ると、女性客は腰をかがめて濡れた髪を前に垂らしているようだった。
「お客さん、大丈夫ですか?」
そう伺うといきなり、「大丈夫じゃないわよ!」と大声が帰ってきた。
「はぁ・・」
「振られたのよ!何もかも賭けてきたあいつに振られたのよ!」
そう言い放つと、その女性客は今度は大声をあげて泣き出した。
こうなってはもう、乗客との会話どころではない。

彼女は泣き続けたが、それでも、クルマが山を降り、田園地帯の交差点で停止する頃には泣き声が聞こえなくなった。
僕は、自分のポーチにいつも用意している真新しいタオルを彼女にさし出した。
「せめて、これで濡れたお顔を拭いてください」
彼女は何も言わず、タオルを受け取った。

駅に着いた頃には雨が小降りになっていた。
「ありがとうございます、3380円です」
彼女は言葉を出さず、五千円札を出した。
釣りを渡そうとすると、手を振って、釣りはいらないという仕草をした。
「タオル、ありがとう」
かすれた声で、ようやくそれだけ言って、彼女はクルマを降り、終電車の行ってしまった駅の方へ歩いていく。
もう、あの茶色のワンピースはずいぶん乾いていたようで、後ろ姿のスカートがひらひら揺れる。
その女性の後ろ姿を見ていた僕は一瞬、彼女の尻に尻尾が生えているかのような錯覚を覚えた。
「まさか・・な・・」
そう思い直したとき、彼女の姿は僕の視界のどこからも、消えてなくなっていた。
「シートカバーを交換せんとアカンな・・」
そう思いながら、後席を見ると、後席は全く濡れていなかった。
「キツネにつままれたようなって・・」
もう一度、視界の中で彼女を探したけれど、茶色のワンピースはどこにも見えなかった。
スポンサーサイト

25年目のお前

寒い北風が吹く日、僕は大阪、京橋の京阪モールと環状線駅の間の通路を歩いていた。
この場所はビルの谷間にあたり、ことに風がきつい。
大勢の人がそれぞれの思う方向へ背を丸めて急ぎ足で通り過ぎていくが、僕もまたそのような大勢の一人なのだ。

大阪環状線の駅構内に足を踏み入れた僕は、売店で新聞を買っているらしい青年と何気なく・・本当に何気なく・・目が合った。
その瞬間、僕は声を上げそうになった。
良平・・
その青年はまさに良平だった。
僕は懐かしさのあまり、その青年に声をかけようとした。
けれども、すぐに思いとどまった。
良平は25年前のちょうど今頃の季節に、死んだのだ。

すると、あらぬことが起こった。

青年が僕に声をかけてきたのだ。

「大野君、久しぶりやん・・」
僕はたじろいだ。
そこにいる「良平」は、まさに25年前の風貌だ。
ありえないことだ。
「僕やん・・良平やで」

僕は、立ちすくんだ。
青年を見つめた。
「僕やん、良平やんか」

青年の声も風貌も喋り方もまさに25年前の良平そのままだった。
「信じられない・・」
僕は彼を見つめたまま、少し後ずさりした。
「逃げんでもええよ」
彼はやさしい表情で僕を諭す。
そして、僕の方に近づいてくる。
僕は動けなくなり、青年を見つめていた。

青年は表情もにこやかに、ゆっくりと僕に近づいてくる。
その表情こそ、まさに25年前の良平の姿だ。

京阪の高架を電車が通る音がする。
環状線の内回りと外回りの電車がすれ違う。
プラカードを持った男性が所在なげに佇んでいる。

僕は腹をくくった。
今の青年を受け止めようとだ・・
腹をくくれなかったことで良平を死に至らしめた過去を思い出したからだ。
「大野君、分かってくれたんや」
青年・・いや、もう良平と呼ぼう・・彼はほっとしたかのような表情で僕の手を握ってくれた。
「変やって・・思ったやろ・・」
彼は親しげにそう語りかけてくる。
「ああ・・だって、お前は・・」
「分かってるで・・死んだはずやって言いたいんやろ」
僕は心なしか、ほっとした。
それでも、今、目の前にいる良平が何者かは分かるはずもない。

「最初に言うておくわ・・僕は大野君がここに来ることが分かって、前世の思い絶ちがたく・・ってところやな」
彼は僕の方に手を置き、ゆっくりと喋った。
「今のお前は・・僕から見れば後世のってところか・・」
「そや!よう分かってくれたな。うれしいで」
「理屈では分かるが・・」
「理屈ちゃうねん・・もっと深い部分やねんな」
「深い部分・・」
「そや、思いの部分や」
「思いか・・分かるような分からんような・・」
良平はふっと、寂しげな表情をした。
「僕は途中で死んだやろ・・そやから、大野君にホンマの気持ちを伝えたたかったんや」

そこまで気いて僕は彼が本当に良平の後世なのか、確かめたくなった。
「なあ・・良平よ・・そやけど、お前がほんまに良平の後世か、僕には確かめる術がないのや」
「ああ・・それやったらなんでも質問してよ」
彼は屈託なく、軽い笑顔を見せながらそう言う。
「じゃ、お前が好きやった女の子は誰や」
一瞬、彼は考えるような表情を見せたがすぐに答えてくれた。
「ほんまに好きやったんは・・誰かな・・さつきちゃんか、それとも智子ちゃんか・・」
「さつきと違うんかいな」
「いやいや、あのころの僕は、女の子に恋することに憧れていたからなぁ」
この答えはなかなかのものだった。
僕はその頃の彼を見て、まさにそう感じていたからだ。
「大野君こそ、さつきちゃんと付き合っていたやんか」
「いや・・僕は、ただ文通だけや・・」
「いっぺんだけ、デートしてたよね」
「知っとるんか・・そやけど、僕はもう、舞い上がってしもて、デートにならへんかったわ」
「それも知ってるで・・」
「天国からみてたんか・・」
そう訊ねると彼は少し暗い表情になった。
「いや・・」
「ん?」
「さつきちゃん、死んでから会ったんや・・」
「え!彼女、死んだの・・」
良平は申し訳なさそうに頷いた。
「あれから4年ほどしてからかな・・自分で列車に飛び込んだ・・」
「ほんまか・・」
彼は黙って頷いた。

僕らは連れ立って京阪電車の高架下にある喫茶店に入った。
ウェイトレスが来ると、かれは僕を悪戯っぽく見つめて「レーコー」と言う。
ウェイトレスは怪訝な表情を見せる。
「アイスコーヒー、二つ」
僕はそう言いなおした。

アイスコーヒーにしたって、この冬の真っ只中に飲むのはおかしかろうと思ったが、なんだか良平の悪戯に乗りたくなったのだ。
「最近は、大阪でもレーコーは通じひんねん・・」
彼はそう言って苦笑する。
「そら、25年前なら通じたやろうけど」
僕たちは声を合わせて笑った。
なにか、打ち解けていく気がする。

「それで、さつきちゃんのこと・・」
「ああ、両親に勧められた結婚が彼女の本意じゃなくて、何もかも楽しくなくてと言うことやった」
「それだけで?」
「そう、それだけで、立派に理由になるやろ・・僕かって・・」
「ああ・・良平の真実か・・知りたいな・・」
「うん・・」

ウェイトレスがアイスコーヒーを運んでくる。
二人分をそれぞれの前に置き「ごゆっくりどうぞ」とお決まりの台詞を投げていく。
「僕はな・・」
「うん・・」
「女の子より、男の子に惚れる性質(たち)やった・・」
「どういうことや・・」
「だから、中村君に・・彼に冷たくされたことが引き金かな・・」
「中村に・・」
「そうや・・彼に冷たくされたことが人生で最大の悲しみやったんや」
僕はすごく不思議な気がした。
「僕よりも、さつきちゃんよりもか・・」
「そうやな・・大野君やさつきちゃんは大事な友達や・・中村君は一生を賭けても良いくらいの人やったな」
「僕には分からん・・」
「そやろな、僕にも分からんかったんやもん・・」

彼は美味そうにストローでコーヒーを飲む。
その姿はまさに25年前の良平そのものだ。
けれど、二人の間にある灰皿はきれいなままだ。
「タバコは吸わへんの?」
「ああ、今世では、タバコは吸ってへん・・前世では中学1年の時にはすでに吸っていたからな」
「ふうん・・」
「大野君はずっと吸わへんまんまか?」
「ああ・・喘息の持病もあるしな」
「吸わんほうがええ・・長生きできるよ」
「長生きか・・したほうがええのんか?」
「そらそうや!今の人生をできるだけ長く楽しむことやな」

僕はそうかと、頷きながらストローでコーヒーを吸う。
口中にコーヒーの味と香りが広がる。
「そう言えば・・良平と、よく・・こうしてコーヒー飲んだな・・」
「ああ・・」
「僕はコーヒーよりは酒が好きやけどな」
「昔からそうやったな・・酒飲んで、酔った勢いで僕のトラックを運転して・・」
「そんなこともあったな・・無免許でな・・」
「もう少しで駐車中の車にぶつかるところやった」
「ああ、あのとき、良平がサイドブレーキを引いてくれなかったら・・どうなっていたか」
「今の仕事はしてないやろ」
良平はそう言って笑った。
大笑いするのではなく、彼らしいにやりとした笑いだ。
「僕の仕事まで知ってるのん?」
「タクシーに乗ってるのやろ・・」
「そや!よう知ってるな!」

僕らはしばらく他愛のない昔話をしていた。
それが、片方は今世の、もう片方は前世の話だと言うのだから奇妙ではある。

話が一段落した頃、僕はさっき、気になっていたことを聞いた。
「僕は、良平が死ぬことになった要因は、失業やと思っていた」
良平はうつむいてグラスの中をストローで混ぜながら、つぶやくように言った。
「何もかも、上手く行かなくなったんや・・中村君に冷たくされてから・・」
「そやけど、あの前の晩、僕と二人で橘社長のところへ行って・・就職お願いできたやないか」
「自信がなかったんや・・販売の仕事やろ・・僕はずっと車の運転をしてたからな・・」

良平はあの日の数週間前に、ルート営業の仕事中、大幅な速度違反で警察に捕まり、車の運転が出来なくなっていた。
検挙された翌日から、早速仕事に困っていた彼は、あの日の前日、僕のところに電話をかけてきて、僕は買ったばかりの中古車で彼を迎えに行き、一緒に知り合いの橘社長に会いに行ったのだ。
橘社長は地元の名士で、すぐにあちらこちら当たってくれ、自分の系列の自動車部品販売業の店の店長から良平の就職の快諾を取ってくれた。

僕は、その日の遅く、彼を自宅まで送ったけれど、彼の表情は冴えなかった。
彼が車を降りるとき、彼の足に僕の車のサイドモールが引っかかり、外れた。
ステンレス製の曲線を描く長いそのモールを、彼は振りかざし、「なんちゅうクルマに乗ってるんや」と笑った。

翌日の朝、彼は約束した自動車販売業の店には行かず、自宅の納屋で灯油を被り、自ら火をつけた。

「仕事のことだけやったら・・そないに悩まへん・・やっぱり中村君や」
「男に惚れるってことが分からん・・」
「惚れるって、相手が異性の場合だけやない・・男の場合でもありうるな・・」
「なるほど・・」
「中村君が冷たくなってからスピード違反で免許は無くすわ・・いろいろ上手く行かんかったんや」
「なるほど・・」
僕は相槌を打つしかなかった。

「しかし、死ななくても・・」
僕は改めて問いかけた。
「あの頃の僕にはそれしかなかった・・」
「辛かったんやな」
「そらな・・しんどかったで・・」
そう言う彼の表情は屈託なく、苦しい過去を思い出しているような雰囲気は感じられない。
あくまでも淡々としているのだ。
所詮は前世の記憶、今の彼に直接の関係はないと言うことか・・

「熱くなかったか?」
「なにが?」
「灯油に火をつけたとき・・」
「熱かったように思うなぁ・・すごく苦しかった。体中が痛かったし、ものすごく喉が渇いた」
「悪かったな・・」
「なんで?」
「良平の心の苦しみを理解できなくて・・あの夜、僕がもっと良平の話を聞いてやれたら・・」
「いやいや、違うねん!」
「ん?」
「僕はな・・大野君がいまだに僕のことで責任を感じているみたいやったから・・会いにきたんや」
良平が笑みをたたえてそう語る姿が僕の目の中でぼやけていく。
そう、僕はあれから苦しみ続けてきた。
それは妻があり、子供がいる今の僕の心の奥で大きなしこりになって残っていたのだ。
頬を涙が零れ落ちる。
「大野君、大野君には感謝してる・・僕のことを邪魔に扱わなかった唯一の友達やもん・・」
僕はもう、彼を正視できない。

「ひとつだけ・・良いことあるねん・・」
僕の涙が少し収まってくるのを待ってたかのように彼がそう切り出した。
「良いこと?」
「うん・・」
「どんな?」
「あのね・・さつきちゃん・・今、僕の奥さんやねん・・」
「え?」
「5年遅れて生まれてきてくれて、だから5歳年下の、奥さんやねん」
彼の表情はあくまでも優しげで、落ちついていた。

「会いたいな・・」
僕がそうつぶやくと彼ははっきり言った。
「会えないよ・・彼女にはそこまでの思いは無いんや・・」
「そうか・・」
「僕だって、今の時間が終わったら、もう、大野君のことは忘れてしまうよ・・思いが消えるんやもん・・」
「思いが消える?」
「大野君が僕のことで責任を感じていて、それが本当に申し訳ないっていう思いや・・」
「そうか・・」

「大野君・・」
「うん?」
「僕のこと、忘れないでいてくれてありがとう・・」
「これからも忘れないよ」
「ありがとう・・でも、もう責任は感じなくて良いよ・・」
「うん、そうする・・」
「お互い、幸せな今世を生きようよ!」
「うん・・」

僕らは連れ立って店を出た。

僕は環状線の駅へ、彼は京阪電車の駅へそれぞれに向かう。
手を振った。
かれもまた、手を振ってくれた。

そして、僕は環状線の駅の方へ向かった。

数歩進んだとき、やはり彼に何か言いたくなった。
あわてて彼を追いかけた。
その人物に「良平!」と声をかけた。
振り向いた25年前の良平そっくりの、その青年は驚いたような表情で僕を見つめ、そして、無視するかのように足早に去って行ってしまった。

幽霊と出会った夜

「お客さん、こちらのマンションでよろしいですか?」
俺は、後ろのシートの乗客に声をかけた。
俺は、タクシードライバーだ。
自分で経営していた店を閉め、もう2年前からこうして、タクシーの仕事をしているのだ。

後席の客から返事はない。
若い女性だ。
「お嬢さん、こちらですね」
女性は返事をしない。
振り向くと、件の女性は後席に横になって寝息を立てている。

そろそろ夏も近く、Tシャツの胸元から白い肌が見える。
「お嬢さん、着きましたよ」
俺は少し大きめの声で、件の女性に到着を知らせる。

「あ・・」
女性はようやく気がついたようで、おもむろに身体を起こし、あたりを見回している。
「こちらのマンションでよろしいですか?」
もういちど、最初と同じ事を俺は訊ねた。
「はい・・」
「それでは、1540円になりますね」
俺はメーターの文字を指差して料金を伝える。
女性は、意識朦朧とした風で、それでも、千円札を2枚、俺に手渡してくれる。
「ありがとうございます。2000円、お預かりしますね。460円、お返しします」
俺は、彼女に釣り銭を手渡し、ドアを開けた。
女性は、おぼつかない足取りで、車の外に出て、目の前にあるマンションに、千鳥足で入っていく。

「本日最後のお客は可愛い酔っ払いか・・」
独り言が自然に出る。
誰も見ていない車内で苦笑している自分にもおかしさを感じる。

時刻は午前3時だ。
俺は自分の会社に戻ろうとした。
ただ、この場所からでは、幹線道路を走るより狭い路地を抜け、更にその先の広大な公園墓地の真ん中を貫いた方が早く帰社できる・・
俺はそう考えた。
そして、急斜面の路地へ入っていく。
すれ違いの際に対向車を交わす事が難しい路地ではあるが、深夜の事でもあり、対向してくるクルマはいない。
ゆっくりと1キロに渡る路地を抜けたあとは、里山をそのまま生かしている公園墓地の中央を貫く快適な2車線道路だ。
道が広くなり、加速する。
道の両側は山林だ。
ふと、ヘッドライトが白いものを映し出した。
「また出たか・・」
また独り言が漏れ、俺はゆっくりとクルマを停車させた。

深夜の公園墓地・・道路の中央に白いドレスの女性が立ち尽くしている。
俺は窓を開けて叫んだ。
「お里さん、邪魔せんといてか」
白いドレスの女性は俺に顔を向ける。
「邪魔やっても、そのまま通過できるやろ・・」
「あんたは、もう死んでるかも知れへんけど、一応、俺は人間らしきものにぶつかるわけにはいかんのや」
「ほな、そこにじっと停まっとき・・うちは、娘を待っているのや」
「娘さん・・今日は一緒とちがうんかいな」
「さっき、タヌキと一緒に何処かへ行きよりましてん」
「そら心配やな・・ってか・・幽霊を襲うやつはおらんやろう」
「そうと分かっていても、心配ですがな」

お里はこのあたりでは知る人ぞ知る幽霊だ。
始めて見た人は恐怖のあまり、立っていられないくらいのショックを受けるのだが、陽気な幽霊だ。
話をすれば、なかなか可愛いところもあり、仲良くなればのっぺらぼうも、ちょっと白すぎるがかなりの美人に見えてくる。
いつもは、同じ白い衣裳の10歳くらいの娘さんを連れて出没する。
お里の年の頃は30歳前後だろうか。
50年ほど前に娘さんと一緒に事故で亡くなったという。
以来、人の浮世に余りにも未練が多く、いまだにこうしてこの墓苑の主のようになって出没するらしい。

「そやけど、そこ、どいてや・・会社に帰りたいねん」
「そう言われると・・余計に通したくなくなるわよ」
幽霊は悪戯っぽく笑う。
笑うと言っても目に見えるのはのっぺらぼうの顔だけだ。
でも、不思議に笑っているように見えるのだ。

「お母さん!」
そのとき、子供の声がした。
お里と同じ衣裳を纏った子供の幽霊が宙を滑るように走ってくる。
「千香、心配してたんよ」
「タヌキのやつ、いきなり、猫と遊び出すねん・・うち、無視されてんで」
「タヌキなんか相手にしないで、勝手に遠いところへ行ったらあかんわよ」
千香と呼ばれる娘もまたのっぺらぼう・・なのだが、慣れてくるとこちらも愛らしい表情が見える気になる。
「お母さん、幽霊は誰にも襲われへんよ」
「でも、お母さんは心配なの!」

幽霊親子が会話しているのを見て、俺は思わず叫んだ。
「もう、ええやろ、通してくれや」
幽霊親子は顔を見合わせ、すっと宙に浮き上がる。
「迷惑かけたわね。ごめんね」
俺は、苦笑しながら空中の幽霊に手を振り、その足の下を通過した。

俺は会社に戻って、詰所で売り上げの集計をしていた。
バタバタと走り込んでくる足音がする。
詰所の扉が勢いよく開き、同僚の窪木が詰所に転がり込んできた。
「あ!中野さん、いはったんですか!」
窪木は息を切らせ、それでも、俺がいて良かったというように、いきなり、俺に抱き着いてきた。
「窪木さん、どうされたんです?」
「あかん!あきまへん!」
「だからどうされたんですか?」
「でたんや!」
「出たって・・なにがです?」
「お化けやねん!」
「お化けって・・幽霊ですか?」
「I町を走っていたら・・顔のない女がでたんや」
俺は抱き着いてきている窪木をゆっくり引き離してから・・こういった。
「幽霊なら僕もさっき、そこの墓苑で会いましたよ」
「わしが見たんは、ホンマもんなんや!」
「幽霊に贋物も本物もないでしょう」
「とにかく、わしが見たんはほんまもんなんや、I町で赤いワンピースののっぺらぼうの・・」
窪木は墓苑の幽霊を知らないらしい。
そう言えば、会社の同僚たちにも幽霊親子を知っている人は少なく、知っている人もたいていは恐怖の対象としてしか見ておらず、おまけに誰かに喋れば自分の寿命が短くなると信じているとあっては、幽霊親子を知らない人が多くなるのも致し方のない事だった。
俺は、しばらく、窪木の話を聞く事にした。

窪木は深夜の乗客がI町までと言ってくれたので「今夜は運がある」と喜んで向かったそうだ。
I町まではおよそ20キロ、深夜料金なら7000円ほども出る勘定になる。
水揚げが収入に直結するタクシードライバーにとっては当然の感覚だ。
お客を降ろして帰社しようとしたとき、深夜の百貨店前で、いきなり飛び出してきた人があったそうだ。
赤いワンピース、赤い帽子のその女性と思われる人物は、まるでクルマに突っ込んでくるかのように走ってきて、驚いてクルマを停めた窪木はその女に抗議しようと窓を開けた。
「危ないやないか!」
そう叫んだ窪木の目に映ったのは振りかえったその女の顔。
赤い帽子の下の顔はのっぺらぼうだったそうだ。
のっぺらぼうなのに、何故か、女が笑っているように見えたそうだ。

そこからどこをどう走ったか・・
窪木は覚えておらず、気がつけば会社の車庫にいたそうだ。

「ホンマに幽霊ですね」
俺は、話を聞き終わると納得したように頷いた。
「そんな、呑気な・・」
「でも、窪木さん、幽霊は何もしませんよ・・彼らは自分の意志でそこにいるだけですから」
「そやけど、あんな怖いもの、あらへん」
「怖くないですよ。幽霊になにか悪さをされた人って・・聞いた事ないでしょ」
「それもそうやけど」
「だったら、不用意に怖がらなくていいんじゃないですか」

一瞬、窪木は納得したかのように見えたけれども、すぐ真剣な表情になって迫ってきた。
「あのな・・中野さんはお化けを見てないからそんな事が言えるのや」
「いや・・だから・・僕はさっき、そこで幽霊に出会いましたよ・・今まで何度も幽霊に会っているのですけれど」
「そんなことが有るかい!」
窪木は真顔で怒っている。
俺は、彼をなだめるようにゆっくりと話した。
「いいですか・・窪木さん、僕は何度も幽霊に出会っているのですよ。もしかしたら幽霊に出会う感性を持っているのかもしれません。だから信じて下さい」
窪木はやや落ち着きを取り戻し、俺の目を見た。
俺は、噛んで含めるように・・更にゆっくりと話した。
「いいですか・・僕もそのI町の幽霊に会いに行きます。会えたらいろいろ話を聞いてみます」
窪木は頷いた。
「それまでは、誰にもこの事は言わないで下さいね」
窪木はもう一度大きく頷いた。

次の出勤日はその翌々日だ。
俺は一通りの仕事が終わってから、I町の方向へ向かうつもりだった。
けれども、深夜に不思議にもI町近くへ向かう乗客があり、この乗客を乗せて「正当に」I町へ向かう事が出来た。
I町唯一の百貨店前は深夜になれば昼間の喧燥も嘘のように静まり返っている。
俺は、自分のクルマを停めた。
窓を開け、初夏の夜のひんやりした空気を吸い込む。
ラジオを消した。

街灯に照らさせる夜の大通り・・
ライトアップされたかのようにその威容を誇る百貨店やその周囲のビル群。
点滅しているだけのいくつかの信号。
時折通過していくクルマ。
ハサードランプを点けて深夜の客待ちをする何台かのタクシー・・
そう言った物が俺の視界に入る。

俺もまた客待ちをしているタクシーに見えるだろう。

けれども、俺にとってはこれが唯一、この町にいる幽霊と出会える方法なのだ。

深夜と言うのに時折歩く人がいる。
けれども、客待ちのタクシーは動かない。
俺は百貨店の前を離れ、そのさきの少し暗くなっている場所へ移動した。

目の前には黄色の点滅信号がある。
やがて、紺のスーツに身を包んだ女性が俺の前を横切ろうとする。
女性にしては大柄で、それでも、膝あたりまでのスカートから伸びた脚は力強く、きれいなラインを描いている。
肩までの髪は手入れが行き届き、大きな耳たぶにはきれいない銀色のイヤリング。

その女性は俺の目の前で一旦振り返った。
顔には目も鼻も口もなかった。
のっぺらぼうなのだがつるつると言うのではなく、布を顔一面に貼り詰めたような質感だった。
女性は俺を睨み付けた。
女性の顔はのっぺらぼうなのだが俺にはそう見えるのだ。
俺は咄嗟に女性に声をかけた。
「幽霊ですか?」
女性は少し怯んだようだった。
「幽霊さんですよね」
女性は少し脅えた表情・・さっきの布の質感しかない顔なのだが、俺には明らかに脅えていると見える表情のまま俺を見詰めている。
「怖くないのですか?」
意外にも女性から出た声は男のそれだった。
「男か?」
俺が思わず呟くと、その女性?は更に驚いた様子だった。
「分かりますか?」
幽霊はそう訊ね返した。
「声は分かるよ」
「わたしが怖くないのですか?」
「なんで?怖がる必要がないやんか」
「そりゃ・・」
「心配しなくていいですよ。幽霊さんとはお付き合いがいくつか有りますから」
女装の男性で幽霊・・という不思議なその「人」は安心したかのように俺を真っ直ぐに見た。
のっぺらぼうなのだが、俺にはそう見えるのだ。
「私、死に損なったのですよね。もう20年もこうしてこの場に住んでいるのですよ。通りがかる人たちは私を見ると怖がるし、私もついには人を驚かして喜ぶだけの毎日になってしまったのです」
「でも・・女装しておられると言う事は・・元から・・人間だったころからそういう・・人を驚かす趣味がおありだったと言う事ちゃうかな・・」
「鋭いですね・・」
「普通に考えれば誰にでも分かる事でやろね」
「いや、そうなんですが、私は人を驚かす事が趣味で女装していたわけではないのです」
「じゃ・・どんな理由で・・」
「実は・・」
「実は?」
「私は、そこの山の上の女学校の教師だったのですよ」
「は?だから?」
「ですが・・趣味が女装と言う・・これまた非常に厄介なものでして・・」
俺は呆れた。
「ホンマに厄介ですよね」
「ある日、私の事が新聞記者の知るところとなり・・」
「大変なことやね・・」
「それを新聞に書かれると・・非常に困る・・でも彼はそれを書きたい・・」
「なるほど」
「前途を悲観して・・」
「そこから先は聞かなくてもええよ」
「ありがとうございます」

その後の会話によると幽霊氏は出来ればあの世に行きたがっている事が分かった。
けれども、その方法は俺には分からない。
なんでもタイミングを逃したものは、簡単にはあの世とやらには行けないらしい。
彼は、今の中途半端な状態にすっかり疲れているし、おまけにマトモに他人と話も出来ない現状では寂しさが募り、どうにもならないというのだ。

「今度、聞いておいてあげるよ」
俺はそう約束し、I町を離れた。
幽霊氏は高く百貨店の上まであがり、俺を見送ってくれた。

俺はその足で、会社近くの墓苑に向かった。
お里親子に会う為だ。
彼女たちなら、お墓の他の幽霊とも付き合いがあるだろうし、なにか知っているだろう・・
俺はそう思っていた。

墓苑に近づく。
道路の上空に、ぼんやりと白いドレスのようなモノが見えてきた。

切ない通り道


秋田栄一は、ふわふわした空間を歩いていた。
こんな空間が現実にあるはずはない。
これはきっと、夢なのだ・・そう自分に言い聞かせるのだが、夢は醒めそうもなく、覚めない夢なら現実として受け入れるしかないなあ・・ぼんやりと考えながら歩いていた。
彼が歩いているところは、やわらかな、暖かい空気に満たされているようで、その先がどこに通じるのかも、彼には分からなかった。
「たしか・・俺は・・」
栄一は自分がさっきまで何をどうしようとしていたのか・・考えようとしていた。
けれどもいくら考えても、肝心なところは思い出せないのだ。
彼は確かに、通勤のために自転車で駅へ向かい、間違いなく駅に着いたのだ。
彼の記憶はそこで止まってしまっていた。

無色、それは白とも灰色ともつかない、まさに無色としか言いようのない空間・・そこをゆっくり歩いていく。
歩いても息切れもしなければ、疲れることもなく、ただ、朝着たスーツのままの姿で、彼は歩いていく。
空間に少し色がついたような気がした。
青と言うのだろうか、それとも水色と言うべきか、そう言う系統の色だ。
それは、薄く、やがて濃く・・

気がつくと栄一は、木造の家屋に中にいた。
懐かしい匂いがする。
「栄ちゃん、ここにおったん?お父さんにお薬上げてきて・・」
割烹着の母親が台所で何やらせわしく働いている。
台所と言っても、昔の土間だ。石の流し、その脇に置かれた台の上に簡単なガスコンロ・・
「はーい」
栄一は、いつしか自分が11歳の自分に戻っていることに驚いたけれど、彼の口から出たのはごく普通の母親への返事だった。
お凡に医院で調合してもらった薬を数種類と水を入れたコップを載せ、父親が眠っている部屋に運び込んだ。
父親の部屋は台所から廊下を少し進んだその先にあった。
障子に手をかけ、開けると布団が敷いてあり、彼の父親はそこに眠っていた。
「栄一か?」
気配に目を覚ましたようだった。
「お父ちゃん、薬、ここに置いとくで・・」
「ああ・・薬か・・いややな・・」
父親は途切れ途切れに、そうつぶやいた。
「では、お酒でもお持ちしましょうか?」
栄一は、軽い気持ちで冗談を放った。
「こら・・こんなときに、冗談はやめてくれ・・」
父親は苦しそうにそう言うと咳き込んだ。
咳き込みながら体を起こし、さらに咳き込む。
栄一は体を支えてやり、背中をさすった。
「あれを・・」
父親が指差す方向に洗面器があった。
洗面器には新聞紙が敷き詰めてあった。
それを取って父親の手に渡してやると、抱え込むようにして、すぐに吐いた。
それはすべて血だった。
真っ赤になった洗面器を置いて、父親は、ほっとしたのか、また身体を横たえた。
栄一は薬の載ったお凡をそこにおいて、かわりに、血で一杯になった洗面器を持ち、台所の母親の元へ行った。
「お母ちゃん、お父ちゃん、また吐いたで・・」
「血いかいな・・」
「そや・・こんなにぎょうさん・・」
「アカンかもなあ・・」
「何が?」
「お父ちゃんや・・」
「いやや!僕、お父ちゃん、死ぬの、いやや!」
「そない言うたかてなあ・・」
栄一の父親は、酒がもとで体を壊し、ろくに病院にも行かず、入院しても帰ってきては酒を飲むと言う生き方をしていた。
腕の良い理髪職人であるにもかかわらず、いつまでも独立もかなわずに、流れて歩いてきたけれど、いつも酒がもとで客や店主、店のほかのものといざこざを起こしては店を変わっていくのだった。

ふと気がつくと、そこは栄一が住んでいた借家の前だった。
夏で暑い。
シキミの束が立てられている。
それらには送ってくれた人の名前や会社名が書いてある。
栄一父のの葬式の日だ。
あれから、いくらも経たないうちに彼の父親は38歳の短い生涯を閉じた。
栄一は母や祖母に言い含められ、棺の横にずっと正座を続けていた。けれども、さすがに、痺れがきて、席を立ったのだ。
親戚や参列する近所の人たちは奇異の目を向けたが、所詮小学生、放っておかれたようだ。

お経の声がする自分の家から外に出ると、担任の先生に連れられた小学生たちが並んでいた。
「あら・・秋田君、中にいないでいいの?」
担任の山口先生だ。
山口先生は若くてきれいな先生だ。
先生のすぐ後ろにコバンザメのように良一がくっついていた。
良一は栄一の手を取り「秋田君!かわいそうや・・」そう言ってくれた。
他のクラスメイトは奇異な目を向けながら、どんな表情をして良いか困っているようだ。
山口先生は他の先生数人と受付で香典を渡しているようだった。
「秋田君!」
突然、列の中からさつきが出てきた。
「頑張ってください!」
大声で彼女が叫ぶ。
「さつきちゃん!こう言うときは、しんみりするものなの・・」
山口先生がさつきを押さえ、小学生の一団はゆっくり去っていった。
良一が繰り返し後ろを振り向き、栄一を見る。
良一は今にも泣き出しそうな表情をしていた。

やわらかな、暖かい空間を栄一はゆっくりと歩いている。
かすかな青い色合いは、やがてはっきりとした色合いになってきた。
懐かしく、切ない風景に出会えたことを喜びながらも、その風景をなぜ自分が見ているのか、そこまでは考えない栄一だった。

中学校、秋の昼下がり・・
授業を終え、掃除も済んで、帰ろうとした栄一をさつきが呼び止めた。
「秋田くーん!」
さつきは、ずいぶん大人びて、肩までの髪、小粋に耳を出し、セーラー服が良く似合う美少女になっている。
「なんやねん・・俺、帰るとこやねんで・・」
さつきの後ろには数人の女子生徒がついている。
彼女は女子の間ではボス的な存在だ。
「知ってる?知ってる?」
「だから・・なんやねん・・」
「男と女が、仲良くなってすること・・」
「男と女?」
「そうそう・・秋田君やったら、知ってるやろうねえ・・」
「知らんわ・・」
「ええ!・・知らんのう?・・ホンマ?」
こいつ、何を言い出すのかと思えば・・悪戯好きのさつきだから油断は出来ない。
栄一はそう思いながらも、さつきには惹かれている自分もあり、向こうから声をかけてくれたら嬉しいとの思いもある。
「男と女やろ・・」
「そうそう・・」
さつきは悪戯っぽく笑う。
栄一は思い切ってこう言った。
「性交・・」
さつきは他の女子と一緒に大声で笑い出した。
「きゃあ!セイコーやて・・聞いたあ・・」
教室に残っていたほかのクラスメイトも笑い出した。
「じゃあ・・なんやねん・・」
「そんなん、デートに決まってるやんか・・いきなりセイコーはないわよ・・」
そう答えたあとで、また大騒ぎをしている。
栄一は、どう取り繕って言いか分からず、ふてくされて、教室を出ようとした。
「秋田くーん・・」
栄一は無言で教室を出る。
「秋田君!エッチやなあ・・」
後ろから女子のきゃあきゃあと笑う声が聞こえる。
栄一は自分でも分かるくらい、顔を赤くして廊下に出た。

廊下に出ると良一が待っていた。
良一とは小学校で同じクラスになって以来、中学では一度もクラスメイトになれなかった。
校舎から外に出て、歩道を歩きながら二人は並んで帰る。
「秋田君、ええなあ・・」
良一は突然、羨望のまなざしで栄一を見る。
「何がええんや?」
ほんの少し、間を置いてから、良一が答えた。
「さつきちゃんと仲が良くて・・」
そう言った良一の顔は少し赤くなっている。
「いや・・あんなオテンバ、ちっとも、ええことあらへん」
「でも、さつきちゃん、可愛いやんか・・」
「ま・・そらそうやな・・いえるわな・・」
「そやろ・・可愛いやろ・・」
「そやけど、性格に問題ありやぞ・・ほんまに・・」
「でも可愛い・・」
栄一は、良一がさつきにこだわるのを、少し、からかいたくなった。
「おまえ、さつきが好きなんか?」
「そうや!」
良一は臆面もなく答える。
栄一はその良一を羨ましく思った。

何だか胸が熱くなってきた。
心の一番奥で眠っていたものが目を覚ましてきたような気がする。
栄一はゆったりとした優しさと暖かさを感じながら、また、空間を歩いている。
空間の色は青からやや濃い群青色に変わりつつあった。
暖かさの中に切ない、しんみりとした空気が混じるような気がする。

夜、良一から呼び出しがあった。
栄一は二十歳、高校を卒業して地元に工場のある大手メーカーに勤めていた。
栄一は買ったばかりの中古自動車で、良一の自宅近くへ行った。
田圃の中に良一が立っている。
ヘッドライトで照らされた良一は、いつものように元気そうに見えた。
「どないしたんや・・急用って・・」
栄一は良一をクルマに乗せながら聞いた。
「僕、明日から仕事に行くねん・・」
「良かったなあ・・どんな仕事や」
栄一は適当にクルマを走らせながら、訊ねた。良一は数ヶ月、無職だったのだ。
「うん、カー用品の販売や・・」
「それは良かったなあ・・おまえ、クルマ好きやしなあ・・」
「うん・・」
「で、急用って・・そのこと?」
「そうやな・・それもある」
「今からどこかで奢るわ!就職祝や!」
「うん・・」
良一は何だか気乗りがしない風だった。
だけども、彼は普段からあまり大げさに喜ぶような男ではなかった。
いつも静かな、強いものを秘めているような男だった。
その日、栄一は良一にファミリーレストランで奢り、良一の家の前まで送ってきた。
「あんな・・秋田君」
「なんや・・」
「さつきちゃんのこと・・知らんか?」
ああ・・そのことか、栄一はそう思った。
良一はまだ初恋を抱いたままなのだ。
「さあ・・大阪の有名私立から帰ってきたという話は聞いたけど・・」
「家におるんか?」
さつきは、頭も良く、地元で一番の優秀な高校でさえも足元にも及ばない大阪の私立高校に入学していたのだ。
卒業は普通にしたはずだが、栄一の母親によると帰ってきたきり、自宅に閉じこもりっぱなしで出てこないと言う。
「家にはおるらしいな・・」
「電話・・してみようか・・」
「そうやな・・してもええかも知れへんぞ・・」
そう言い残して、栄一はクルマを走らせた。
クルマは夜の町を快調に走り、エンジンの伸びやかな音も心地よく、栄一は良一のことを忘れた。

翌日、栄一が会社から自宅へ戻り、夕刊を広げた。
「二十歳の男性、焼身自殺」小さな見出しが社会面の隅にあり、そこを良く見ると良一の名前があった。
栄一はそれを見たとたん、放心状態となり、そのまま、宙を睨み続けていた。
「どないしたん・・栄ちゃん・・」
母親の声に我に返った。
息を吸いすぎて、声がまともに出ず、やっとの思いで切れ切れにこう言った。
「お母ちゃん!良一が死んだ!」

暖かな道にも、時折、切なく、悲しいところがあるものやなあ・・栄一は、つぶやきながら空間を歩いていく。
群青色の空間はさらに濃さを増し、星がきらめき始めた。
星だと思っているだけで、実はそれが何だかわからない。
とにかく、ひたすら濃い色・・黒に近い色の中に無数のちりばめられた光がある。
寒くなってきた気がする。

「さつきさんが亡くなったよ」
栄一は仕事中に携帯電話へかけてきた母をたしなめようとしたけれども、母親の口から出た言葉はあまりにも冷たく響いた。
「なんで?」
「わからへん・・とにかく、今夜、お通夜やから・・」
栄一は工場の事務所で購買の仕事をしている。
仕事は、今日は7時過ぎまではかかりそうだった。
クルマを飛ばせば、お通夜の時間内に着けるだろう・・

お通夜は、彼が行った時には半ば終わっていた。
祭壇にあるさつきの顔は、彼が知っているさつきと目のあたりこそ似ているけれど別人のように見える。
けれども、棺の中を見せてもらったときには、その目元と鼻がきれいに化粧されていて、彼の知っているさつきに思えた。
ただ、彼には、目元と鼻だけが棺の中で花で一杯にされたところから出るようにしているのが、不思議な感じがした。
「秋田君・・」
さつきの声がした。
「来てくれたんやね・・」
栄一はあたりを見まわした。
そこは、暖かい通夜の会場ではなく、荒涼とした夕方の線路際だった。
そうだ、彼女は列車に身を投げたんだ・・
栄一はそのことを思い出した。
「秋田君!」
線路際にいたのはセーラー服姿のさつきだった。
「ごめんね・・仕事が忙しいでしょう・・でも、ありがとう・・」
踏み切りが鳴る。
列車が通過していく。
「寒いなあ・・」
「ホンマや・・寒い寒い・・あたし、中学生のころが一番楽しかったよ」
「そう言えば・・俺も、楽しかったなあ・・」
「あの頃のまま、大人になってたら・・そうね、良一君か秋田君と結婚してたら・・」
「もっと楽しかったか?」
「うん・・」
「喧嘩ばっかりしてたかもなあ・・俺と結婚してたら・・」
「あはは・・そうかも知れへん・・」
「その喧嘩もしてみたかったなあ・・そういや、良一が君のことが好きだったって・・知ってたか?」
「知ってるわ・・彼、亡くなる前の日に電話くれたもの・・」
「なんて?」
「明日会って欲しいって・・」
「どう返事したの?」
「いいわよって・・時間も決めてた」
栄一には意外なことだった。
栄一は今の今まで良一が自殺した原因は、さつきにふられたからかも知れないと思っていたからだ。
「じゃ、どうして、良一は死んだの?」
「彼に聞いたらね・・怖かったんだって・・」
「彼に聞いた?」
「うん・・あとでね・・」
「不思議なことを言うなあ・・」
「でもねえ・・秋田君・・」
「なんや?」
「まだ、こっちへ来たらあかんよ・・」
「こっちへ?」
「うん、秋田君のお父さんも、良一君もこっちにいるけど、あなたはまだ来たらアカンよ」
「そやけど・・俺は・・」
「まだまだ・・またずっと後で会おうよ・・」
さつきは、そういったかと思うと、走り去ってしまう。
追いかけようと栄一は走り出すのだが、身体がまったく動かない。
貨物列車がわずかに残る残照の彼方から走ってきた。

ピーーー・・電気機関車のけたたましい警笛が聞こえる。
踏み切りの警報音が鳴り続いている。
ブレーキの鈍い音が広がる・・長い時間・・・

さつきは、どうしてあんな苦しみ方を選んだのだろう・・
そこまでして彼女が捨てたかったのは何だったのだろう・・
栄一はしばらく考え込んでいた。

気がつけば彼はすっかり暗くなった空間を歩いている。
暖かさも優しさも消えた真っ暗な空間を歩いている。
突然、彼の前に男が現れた。
「来るな!」
男が叫ぶ。
聞いたことの有る声だ。
「兼子先輩!」
そうだ、彼の職場で、いつも彼を邪険に扱ってくれた、嫌いな先輩だ。
「秋田!こっちに来るな!」
「先輩!どうされたんですか?」
「秋田よ!おまえはこっちに来たらアカンのや!来るな!帰れ!」
「兼子先輩!」
「来るな!」
風が吹き始めた。冷たい風だ。
これ以上は進めない・・
そう思いながら、ふと、後ろを見ると、暖かそうな日向が広がっているのが見えた。
「パパ!」
叫ぶ声が聞こえる。
ああ・・あれは娘の響子の声だ・・
ふらふらと、彼はそちらへ向かって歩いていく。
見ると、良一とさつきが手をつないでいる。
「おまえら、結婚したんか?」
「まさか・・デートの途中やわ・・」
悪戯っぽくさつきが笑う。
良一が照れている。
「家族を大事に・・あまり酒を飲むな・・」
その声にびっくりした。
彼の父親の声だ。
優しい笑顔で、彼を見送ってくれている。
懐かしい、大切な人たち・・
「おい!来るなら、もっと準備して来いよ・・」
兼子先輩が笑っている。
ああ・・先輩、入社当事はこんなきれいな笑顔を見せてくれた人だったなあ・・
そう思う。
「お嬢さんによろしくね!」
さつきが叫ぶ。
「パパ!」
娘の声だ。

気がつくと彼はベッドの上でさまざまな機械や人々に囲まれて横たわっていた。
「涙を流しておられますよ!」
若い男の声がする。
手に力を入れた。
暖かく、柔らかい手が握り返してくれる。
「お父さん・・気がついたんだ・・」
ぼんやりと見える、それは、まさに彼の娘の輪郭だった。

秋田栄一はあとで、彼が、あの日の朝、駅のホームで電車を待っていて、誰かに後ろから突き飛ばされ、ちょうど入ってきた電車に接触し、瀕死の重傷を負ったことを知った。
けれども、彼は、そのことで、彼が会いたかった人たちに少しでも会えたことを、じっくりと味わうことのほうを喜んでいた。
彼は優しさと暖かさを知ったような気がしたのだ。

走れ!クジラ号


海が見える・・海には大きな橋がかかり、向こうには淡路島が見えている。
ここは神戸市の西郊、うすぼんやりした春・・
野田喜一は今日も黄色いバスを住宅地から駅へ、駅から大学のあるニュータウンへと路線バスを走らせている。
時折、さすがに眠くなるけれど、彼は52歳の今日まで一度も事故らしい事故を起こしたこともなく、事故に巻き込まれたこともなかった。
喜一の勤務する営業所には200人ほどのバス運転士がいるが、ほとんどのものは長い乗務生活の中で、何らかのアクシデントをいくつか経験しているから、彼のような幸運は珍しいと言えるだろう。
太陽バスの本社は、いまどき珍しい木造2階建てで、これはバス会社というものは乗客サービスに全てをかけるべきであるという社長の方針から、社屋は一番後回しにされた結果なのだった。

乗務員詰め所の掲示板にはいつも何らかのお知らせが貼ってあって、今日も1枚、新しいお知らせが増えていた。
『営業車の増車について』
「新車が入るのやなあ・・ええなあ・・会社のクルマはいつも新しくなって・・」
喜一は声を上げてその文書を読み始めた。
「おっさん・・読むんやったらやかましいさかい、声出さんと読んでか・・」
部屋の奥から誰かが叫ぶ。
「あほかいな・・きちんと声出して・・はっきりとおつむに入れとくんやないか・・」
そう言って・・喜一は声を出して読み進めていく。
「・・今年度の増車として以下の車両を営業車に加える・・2513号、2514号、3545号、4522号・・以上の内、2513号と2514号はノンステップタイプの新車、3545号はワンステップタイプの新車、4522号は他社からの譲渡車両である。配置路線は2513号、2514号は主にM線、3545号は主にT線、4522号は主にM線とするが、必ずしもこの通りではない」
「ほうーー」
さっき、奥から喜一をからかった男が、素っ頓狂な声を上げた。
「譲渡車両って・・中古車かいな・・」
「そうやろうなあ・・うちの会社で中古のバスは・・わしの知ってる限り、初めてやで・・」
「喜一はん・・運転士して、何年やったかいな?」
「わし、もう30年近いさかいなぁ・・そのわしが、中古車を見るのはホンマにはじめてや」
「ほなら・・何かい、この会社も新車が買えんくらい、厳しいなっとんかいなあ・・」
奥からその男も出てきて掲示板を見つめ始めた。
「あれやろか・・4台欲しかったけど、3台しか買う金が無うて・・1台は中古で我慢・・」
二人が顔を見合わせて、頷こうとしたとき、助役が彼らの肩を叩いた。
「あのな・・うちは関西では成績のええバス会社で通ってるんやで・・縁起でもないこと言わんといてや・・」
「ほな・・なんで・・中古なんでっか?」
「それはやな・・」助役はそこから先は答えずに、「ちょうど、さっき、納車されたさかい、見に行かへんか・・」そう言って二人を誘って建物の外に出た。

「なんや・・これ・・」
喜一は他の見慣れたバスの間に挟まっている真っ赤なバスを見て驚いた。
古いクルマではない・・最新型だろう・・やや小型だがいわゆるコミュニティバスというものよりは普通のバスに近い大きさだ。
喜一がビックリしたのは真っ赤な車体に、ブルーで鮮やかにクジラの絵が描いてあったことで、正面にはヘッドライト周りがクジラの目に見えるようにデザインされていた。
「紀州のリゾートホテルが倒産して、その送迎用のクルマやったのやけど、ま・・うちが競売で落としたと言うわけでな・・」
「競売って・・なんでっか・・あのオークションみたいなものでっか?」
「そやそや・・うちの社長が茶目っ気を出して、やってみたらと・・そういうわけやな」
「で・・このクルマ・・何に使うんでっか?」
「ま・・見てくれや・・」
助役が車の扉を開けて、中を見せてくれた。
路線バスにしては豪華なシートが並んでいる。
つり輪もついている。けれども、つり輪はハート型だ。
座席の表生地にも、クジラの愛らしい絵が印刷されていたし、天井は海の波の模様・・床は真っ青で黄色の魚のシルエットが浮き上がるようになっていた。
「このクルマ・・うちの路線で使えますのんか?」
もう一人の運転士が、不審気に助役に聞いた。
「うん・・いっそのこと、このまま塗装も変えないで、一般車に混ぜて走らせたらどうかと・・社長は言ってるンやけどな・・」
「うちの路線は・・混むときは思い切り混みますさかい、どないだっしゃろ・・」
確かに太陽バスの営業成績が良いというのはそれだけ混雑するバス路線だからと言う部分もあった。
「ラッシュ時には暇なC行きに使こて、昼間は宣伝がてら、そこらを走らせようと思っとるんやけどな」
C行きは朝から夜まで一日中30分ごとに走る路線だ。
終点のCが丘はかつては山の中腹、今はその山の山上は団地になっているが、中腹は相変わらずの田舎景色の、時代から取り残されたような路線だ。
どの便も10人以上の乗客があることはまずない、成績好調な太陽バスだからこそ維持できるような路線だった。
車内の奇妙にゆったりとした座席に腰掛けて、助役は喜一の顔を見た。
「それでな・・・喜一はん・・あんた・・このバスの担当をしてやって欲しいのや」
「担当って?」
バスに個別の運転士が担当につくなんて聞いた事がない・・田舎のタクシー会社に毛の生えたような会社ならともかく、少なくとも太陽バスは神戸のベッドタウンを走る大手バス会社だ。
「このクルマ・・癖があるらしいのや・・」
「癖でっか?」
「時々、調子が無茶苦茶良くなったり、反対に沈んでしもて全然走らへんようになったり・・」
「そんな程度の癖やったら、他のバスでもおまっせ・・そない言わはるんやったら、任せてもろてもよろしおまっさ」
助役はちょっと黙ってバスの天井を眺め回していた。
喜一も天井を見た。
もう一人の男も天井を見上げている。
「真っ赤なクジラ」
喜一がつぶやいた。
「それやな・・それでいこ・・」
「なにがでっか?」
「このクルマの名前や・・真っ赤なクジラ号・・髭面のオッサンが担当運転士や・・神戸の名物になるで・・」

[*真っ赤なクジラ号運転のお知らせ* このたび、太陽バスでは楽しくて可愛いバス「真っ赤なクジラ号」を運行することになりました。運行は毎週木曜・金曜以外の日で、運行時間帯は以下の通りです。当バス停発M駅行き11時20分、14時4分、17時34分。なお、運行の都合により他のバスで代替することもございますのでご了承ください。太陽バス株式会社M線営業所]

まもなく、主なバス停には貼り紙がされ、その頃には喜一が助役や社長をのせて試運転をして、お披露目をしていた。
はじめて喜一がこのバスに乗ったとき、何かバスから生き物の息吹のようなものが感じられ、喜一は思わず、敬礼をした。
「真っ赤なクジラ号どの!本日より常務させていただきます野田喜一でございます。よろしくお願いいたします。わたくしも無事故で頑張る所存でございます!」
そのときだ・・まだエンジンもかかっていないバスが、「ぷぷー」とクラクションを流した。
横にいた助役は飛び上がらんばかりに驚いていたが喜一は「おう!答えてくれますのんか・・たのんまっさ!」と意に介さず乗り込んでしまった。
整備士たちは別に何の変哲も無い、普通のバスだと言っていたし、音が勝手に出る仕掛けなどあるはずもなかったのだけれど・・
初めての試運転で、真っ赤なクジラ号はビックリするような加速を見せた。
「うわーーこんなに早いバスは、わし、初めてやわ」
喜一が嬉しそうに叫んだ。
するとエンジンはさらに軽やかになって、飛ぶように走った。
「どや・・このクルマ・・目えつけたワシの勘もなかなかのもんやろ・・」
嬉しそうに、子供のような表情をして社長が喜一に言った。
「そうですわな・・このクルマ・・しかし・・モノと言うよりは生き物みたいでんな」
坂を下りる道で、海が見えるとさらに喜ぶかのようにバスはエンジンの音も軽やかに乗り心地も心なしか良くなって、走っていく。
「ほんまに・・お前は生き物みたいなバスやな・・」
喜一は何度もバスに語りかけた。

沿線の道路沿いではちょうど子供たちが学校から帰る時刻だったらしく、歩道を歩く子供たちがこのバスを見てビックリして、信号待ちのときは傍でしげしげと眺めていたり、走っているバスにあわせて、競走でもするかのように走り出したりしていた。
バスはそう言うときはなぜか勝手にクラクションがなる。
それも間の抜けた「ぷぷー」という音だった。
「このクルマ・・勝手に喋りますのんや」
後ろに添乗している社長に喜一は語りかけた。
「そうやろ・・前の会社でも、気味が悪いっちゅう運転士と、楽しいクルマやっちゅう運転士がおったそうや・・気味悪がる運転士が乗務したら、てこでも動かんようになるらしい・・」
「ほな・・誰でも乗務させるっちゅう訳にはいきまへんなあ・・」
横にいた助役が心配そうに尋ねた。
「そやから・・ちゃんと担当の運転士を決めなあかんのや・・」
バスはやがて、営業中のクルマに近づいた。
営業車が客扱いで停車している横を、喜一は慎重に追い抜いた。
「ぷぷー」間の抜けたクラクションが鳴る。
真っ赤な車体に大きく描かれたブルーのクジラが、愛郷たっぷりに通過していくのを営業車の乗客が目を見張っている。

数日後、朝、C線の終点に向けて真っ赤なクジラ号は走り始めた。
朝の下り便のことで、乗客はいない。
喜一は朝の光の中をゆっくりと、アクセルを踏み込んだ。
誰も乗客のいない車内に、セットしたバス停の案内や沿線の商店の宣伝が流れる。
ふと、コンビニの横のバス停で、時間調整のために停車するとそれっきり動かなくなってしまった。
エンジンはかかっているのだが、全くギアが入らない。
「おお・・クジラ君よ・・ワシはお前のことは嫌いと違うさかい、動いてやってんか・・」
喜一はなだめるようにバスに語りかけた。
「ぷぷー」
バスは勝手にクラクションを鳴らして何か答えている。
「なんか用事があるのんやろか・・」
そう思って、喜一が道路の前方を見ると、年配の女性がバスに手を振っていた。
ドアを開けると、その女性は息を切らせて乗り込んできた。
「えらい・・待って貰ってすんません・・」女性が息を切らせて喜一に礼を言う。
喜一がギアを入れると、バスは簡単に動き始めた。
「助かりましたわ・・Cが丘の娘のところで、孫の面倒を一日頼まれてましてん・・」
女性は運転士席の近くに腰掛けて、そんな話をし始めた。
「それが・・運転士さん・・家を出たとこで忘れ物を思い出しましたんや・・孫の好きな、お結びですねん・・」
「おむすびでっか・・」
思わず喜一も話に乗ってしまった。
「そうですねん・・わてがつくるお結びは・・爆弾みたいなやつでんねん・・」
「ああ・・大きくて、ノリで真っ黒にしてある・・」
「そうそう・・わてら田舎もんやから、お結び言うたら爆弾ですわ・・いっぺん孫に作ってやったら、もうワテの顔見たら、ばっちゃん・・・爆弾作って・・でんがな・・それがあんた、可愛いてなあ・・」
「お孫さん・・おいくつでっか?」
「やっと4つになりましてんや・・」
「そりゃ、可愛いでんなあ・・」
バスは乗客一人だけを乗せて、細い路地のような坂を登っていく。
軽やかに回るエンジンは真っ赤なクジラ号が、快調であることを現しているようだ。
「運転士さん、このバス、えらい楽しいバスでんな・・」
女性はバスの車内を見渡しながらそう言った。
「そう言ってくれはったら、バスも喜びますわ・・今日から金曜と土曜以外は、毎日この時間に走りますさかい、よろしゅう頼んます」
「いやあ・・それやったら、孫にも見せてやらんと・・バスが好きな子ですねん」
バスは快調に坂道を登り、やがてCが丘に着いた。
女性はバス回転所のすぐ上にある小さな住宅に入っていった。
「乗せてくれはったお礼です」
そう言って女性がくれた爆弾ひとつ・・銀紙に包まれて喜一の手のひらにあった。

バスの向きを変え、発車まで、5分ほどあるからと、喜一は煙草に火をつけ、バスの外に出た。
このあたりは神戸とは思えない閑静な場所だ。
陽の光が暖かい。
「クジラのバスや!!」
上のほうから声が聞こえる。
見るとさっき、バスを降りた女性の腕に、小さな男の子が抱かれて手を振っていた。
「ぷぷー」
しまらないクラクションの音がする。
また勝手に音がでよる・・喜一は苦笑しながら、彼も子供に手を振った。
バスの中に戻ると、さっき、計器板の上に置いたお結びがない・・
「あれ・・どこへやったかな??」
喜一は運転席のあたりを探したけれど、出てきたのは銀紙だけだった。
「おい・・クジラ号・・おまえ・・おにぎり食ったんか?」
「ぷぷー」しまらないクラクションでバスが答えた。

真っ赤なクジラ号はその日一日だけでも充分、注目を集めていた。
沿線にある高校の生徒達も、学校帰りの時間にこのバスに乗り、女の子たちなど、素っ頓狂な叫び声を上げていた。
「めっちゃ・・可愛いバスやん!」
「何で、こんなのが走ってるのやろ」
「太陽バスの新サービスかな・・」
バスが喜んでいるのか、いくらたくさん乗車しても、加速も全く鈍らない。
ますます快調だ。
まだ日が暮れる前の大学前ニュータウンからM駅までの30分ほどが本日最後の運行だ。
「無事故で第1日終了まで、あともうちょっとやさかい、頑張ろうな!」
喜一が大学前ターミナルでバスに語りかける。
「ぷぷー」
嬉しそうにバスが答える。
最終運行で、乗客を乗せる。
女子大生の一群が後ろの方の座席に陣取る。
手に手にスナック菓子や、ジュースを持っていた。
「可愛いバスやなア・・」彼女達もバスを気に入ってくれたようだった。
ところがターミナルを出てしばらく走ると、女子大生達の喧嘩が始まった。
「あんた・・あたしのお菓子食べたでしょ!」
「何言ってるの!あんたこそ、私のジュース飲んだでしょ!」
喧嘩の声が大きくなり、喜一は思わず車内放送をした。
「お客様にお願いいたします。他のお客様にご迷惑になりますので、バスの中では大きな声は出さないで下さいませ・・」
けれども・・全く彼女達の声が小さくならない。
バスは大学前から山を越えて、町の中に入ってきていた。
「あ!あたしのお菓子もない!」
別の声も聞こえる。
喜一はもう一度マイクを取り出した。
「お客様にお願いいたします。バスがお菓子を食べることがございますので、車内でのご飲食はお断りさせていただきます」
「えーーバスが食べるの?」
「そういえば・・あたしもお菓子がない・・」
「私のジュースも減っているわ・・」
彼女達は今度は面白がってしまい、喧嘩は収まった。
「ぷぷー」
バスが返事をする。返事をしながら、愛嬌のあるクジラのおなかが少し膨らんだようで・・走りっぷりに元気がなくなってきた。
のんびり、ゆっくりと走る感じになった。
M駅に着いて、乗客を降ろし、車庫へ回送する為に発車しようとすると、今度は動かなくなった。
「ははーん」
なんとなく理由がわかった喜一はバスに語りかけた。
「おい・・クジラ号・・今日は車庫まで走れば終わりやさかい、もうちょっとだけ頑張ってくれるか・・車庫で燃料を入れてやるし、いくらでも昼寝ができるから・・」
すると、真っ赤なクジラ号はゆっくりと動き出し、よたよたという感じで車庫までの数分の道を走るのだった。

真っ赤なクジラ号の人気は上がり、神戸名物になってきた。
しかも、このクルマが勝手にクラクションを鳴らすことまで、どこかから話が漏れ、まさに子供たちのアイドルのようになってきた。
今日も、クジラ号は「可愛いね!」の女子高生の叫びに間の抜けた「ぷぷー」のクラクションを鳴らして走っている。
そんな真っ赤なクジラ号に幼稚園や保育所の団体申し込みが出るのはある意味、当然だった。
バスのダイヤが限定で固定されていることなどで、太陽バスとしては「真っ赤なクジラ号」の貸し切り運行を断っていたのだけれど、ついに、土曜日ならということで、地元保育園の貸切バスとして走ることになった。
土曜日は喜一は休みだ。
仕方なく、その日、別の運転士で、若くて優しそうな男に白羽の矢が立った。
「今から4522号に乗務します。運行は貸切で、青い海保育園、園児と保護者合わせて45名の乗車予定です。それじゃ・・行って参ります」
若い運転士、北良治は、勇んでで点呼を済ませ、バスに乗り込んだ。
心配して社長が彼についてきた。
「大丈夫やろうか・・このクルマ・・」
「大丈夫ですよ・・一度、試運転で乗務しましたし・・」
「ワシも一緒に乗り込むさかい・・」
「大丈夫ですのに・・」
良治が不機嫌そうに言うのを押さえながら、それでも社長は真っ赤なクジラ号の中に入って、運転席の後ろに立った。
「社長・・まるで僕が新入り運転士みたいですやン・・」
良治の抗議に、社長は少しはなれた座席に腰掛けた。

バスは何事もなかったかのように、普通に動き始めた。
若干加速がゆっくりはしていたけれど、気になるほどではなく、普通のバスの感じだ。
社長はほっとした。
やがて、海の見える丘の上にある「青い海保育園」についた。
園児と、母親や父親が嬉々として乗り込んでくる。
「真っ赤なクジラだ!」「ほんとに真っ赤なクジラだ!」
「立派なシートだね!」「きれいな天井!」子供たちが歓声を上げて乗車してくる。
社長は座席を園児に譲って、運転席脇で立っていた。
「発車します・・本日は太陽バス、真っ赤なクジラ号をご利用いただきありがとうございます」
良治が放送を流す。
「このバスは皆様とご一緒に離宮公園まで参ります・・座席が少々少なくなっていますので、なるべく譲り合ってご利用ください」
バスは何事もなく走っている。
「ねえ・・ママ・・このバス喋るんだよ」
「ええ・・そんなことはないわ。バスが喋るはずはないわよ」
「ほんとだってバ・・運転士さん・・そうだよね!」
園児たちの言葉に良治は「バスは喋らないと思うけど・・今日はみんなのために喋ってくれるかもね」といった。
そのとき・・「ぷぷー」とバスが返事をした。
「ほら!喋ったよ」園児たちが喜ぶのに気を良くしてか、真っ赤なクジラ号は「パンパン」いつもと違う音を出した。
良治は苦笑しながら、運転を続けている。
やがて、街中を進み、小さな団地の入り口でバスが停車した。
「あれ・・」
良治が不思議そうに首を振る。
「どないしたんや」社長が不審気に尋ねる。
「なんで・・こんなところに来とるんでしょ・・」
「は?」
「わたし・・高速道路の入り口を目指していたのですけれど・・」
「道を間違えたんかいな・・しゃなあない、高速を通らんでもいけるやろ」
二人はヒソヒソと会話を続ける。
「はあ・・あれ?」
「どないしたんや・・」
「動きません・・エンジンもかかって、ギアも入っているのに・・」
「アクセルを踏んでもアカンのか」
「アクセルが踏めません・・」
ちょうどそのとき、窓の向こうで手を振っている男がいた。
喜一だ。
「なんで・・ここに居られるんです?離宮公園やったら、高速に乗ればすぐですのに・・」
喜一はバスの外から運転席の良治に声をかけた。
「喜一はん・・あんたこそ、何でここに居るんや?」
社長が喜一の顔を見て尋ねた。
「なに言うてますのんや・・この団地・・わしの家がおますのやで・・」
そのとき「ぷぷー」真っ赤なクジラ号が情けない音を出した。
「またクジラ号が喋ったよ・・」園児たちが叫ぶ。
「でも・・どうして停車しているのかしら?」親が不審がる声も聞こえる。
喜一は理解したようだった。
「社長・・運転・・させてもらいますわ・・機嫌を損ねてるみたいでんな・・」
良治は意地でも自分が運転するのだと、アクセルを力一杯踏みつけようとした。アクセルは硬くはないのだが、彼の足が思うように動かない。
しかも、運転席横のドアが勝手に開いた。
「おお!真っ赤なクジラ号!何をそないに機嫌を損ねとるんや・・」
喜一が乗り込んでくるとエンジンの音が少し大きくなったようだ。
良治は何かに操られるかのように、席を立ち、社長と並んで立った。
喜一はごく自然に運転席に座った。
ドアが勝手に閉まる。
ギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。
真っ赤なクジラ号は何事もなく、走り始めた。
「すまんな・・クジラ号よ・・ワシは今日は休みやったんや・・ワシがちゃんとお前のことを、良治はんに言うてやらんさかい、機嫌を損ねたんやなぁ・・悪いのは良治はんと違うで・・ワシやさかいな・・勘弁してや・・」
「ぷぷー」間の抜けた返事が返ってきた。
「おお・・そうかいな・・勘弁してくれるか・・おおきになあ・・」
社長と良治は決まりが悪そうに立っていた。
「そうや・・」
つぶやくと社長は良治のかぶっている制帽を喜一の頭に載せた。
「運転士さん・・いつもの髭の運転士さんになったね」
子供の声がする。
「そうだよね・・髭の運転士さんだけが真っ赤なクジラ号と喋れるんだよね」
子供たちの会話は、どうやら子供たちの間で噂として流れている話らしい・・
「ぷぷー」
間の抜けたクラクションは真っ赤なクジラ号のご機嫌のしるし・・
「このクルマ・・会話が必要なんですね・・」
良治が感心したように、喜一の運転ぶりを見ている。
「このクルマの、前の会社の人たちの間でもそう言う評判やったそうや・・クルマとではなく、友達と会話するようにせなアカン言うて・・」
「社長・・僕にもそう言って教えてくれたら、よかったですのに・・」
「まあ・・ワシもまさかとは思っとったさかい・・」
二人は顔を見合わせた。
喜一は何事か喋りながら、真っ赤なクジラ号を走らせている。
園児たちやその保護者はすっかりバスになじんで、和やかな雰囲気だ。
「ぷぷー」
ご機嫌よく、真っ赤なクジラ号は公園の駐車場に入っていった。

Powered by FC2 Blog