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板宿、心の疼き

板宿駅南口木造当時

昭和51年の6月頃か・・

僕は、鉄道の実習を午前で終えた土曜日、定時制高校は土曜は休みなので加古川市内の自宅で週末を過ごすために戻るのだが、その日、国鉄ではなく山陽電車を使った。

当時は電鉄高砂駅から北条街道を走る路線バスがあって、それに乗れば自宅近くのバス停に到着したからだ。

(このバス路線は現在は本数を激減して、高砂からはわずかに一日一本だけの運行となっている)

ただ、当時は板宿駅には山陽電車の特急は停車せず、各駅停車に乗って須磨で特急に乗り換える必要があった。



未だ週休二日制など知らぬ時代、土曜日の昼下がりは開放感あふれる学生やサラ―リーマンで賑わうのだが、板宿は駅近くに高等学校が多く、通学の学生たちであふれていて。商店街入り口の幅の広い踏切は、ここから北へ数十メートルだけ自動車道路も兼ねていて、いつも人や車で賑わう・・というより混雑していた。

ホーム端で駅員がメガホンを持ち、遮断機が下りても渡ろうとする人や車をどやしつけているのも日常の光景だ。

それでも、降りかけた幅広の遮断機をくぐって特に高校生たちは我勝ちに踏切を渡っていく。

この路線には山陽電車だけではなく、阪急や阪神の電車も頻繁に乗り入れるのだが、運転士はそれぞれの所属会社のまま乗り入れてきて、板宿の喧騒に派手にタイフォン(電車の警笛)を鳴らす。

踏切を渡りかけている人があっても、電車は急制動などかけず、普通の減速の仕方でホームに入るが、山陽特急だけはこの駅が通過とあって、ゆっくりながらも止まることなく駅に入り込んでくる。

電車の本数は日中の片道方向で毎時14本という多さで、これが上下それぞれに来るのだから単純に1時間当たりの本数は28本、2分に一回は電車が来る計算になる。

つまり、閉塞区間に電車が入ることを考えると、日中ですらここの踏切は、上がっているより下がって閉じられている時間のほうが長くなる・・そんなところだった。



板宿駅は北側(上り線)には立派な母屋があり、定期券の発売所や電鉄系列の「山陽そば」の店などもあったが、南側(下り線)は掘っ建て小屋一つ、自動改札機が3台だけの質素な駅舎だった。

僕はその駅舎を目指して南から歩いている。

ちょうどその時、上りの、ブルーとクリームに塗られたツートンカラーの特急電車が通過し終え踏切が開いた。



どっとこちらへ向かってくる買い物客や学生、路線バスや一般のクルマ・・

そしてその中に、紛れもない、貴女を見たのだ。

グレーのスカート、白いブラウス、当時流行の狼カットにした髪、色白で可愛い貴女を見つけたのだ。

加古川の中学校であなたに惹かれてから、ずっと会うことを念願していた。

その貴女が突然、目の前に現れた。



数人の友達と一緒に、楽しそうに話をしながら貴女が歩いてくる。

貴女の方でも僕に気が付いたようで、一瞬、僕と貴女は立ち止まって、お互いを見つめあった。

僕の顔に血が上る。

自分の頬が紅潮していくのがわかる。

貴女も頬を赤らめ、そして、次の瞬間、友達と駅の改札へ吸い込まれていく。



会いたい人に会えた。

今の僕なら、追いかけていろいろ話をして、一気に和気藹々と持って行けただろう・・

だが、当時の僕にはそれができなかった。

やってきた山陽電車2010号のステンレスカーの、貴女は2両目に、僕は3両目に乗車してしまう。

貴女は当時は四駅先の須磨まで山陽電車に乗り、須磨から国鉄の快速に乗り換えて自宅近くの宝殿まで帰っていたはずだ。

早く隣の車両に行けば、貴女と話ができる・・・

そう思ったのはもちろんだが、当時の電車の多くがそうだった・・幅広の、ドアのない貫通路が恨めしく思うほどに僕は動けなかった。

東須磨、月見山、須磨寺と過ぎ、特急に乗り換えるために降りた須磨の駅のホームでもう一度、貴女とすれ違う、。

けれど、お互い俯いたままだ。

声をかけるなど、とても出来っこない。

僕らは成す術もなくすれ違って、そして貴女は盛り土の上にある電鉄須磨駅の、下へ降りる階段を下りて行った。



貴女と初めて出会ったのは、僕ら家族が父親を失い、当時の加古川市役所の方々の好意で加古川市の山の手の方向にある市営住宅に入居した時だ。

二軒隣の住人が貴女方家族だった。

何度か貴女が歩く姿、自転車で走る姿を見て、なんと可愛い子がいるものだと・・惹かれたのだ。

いちど、僕はその市営住宅の裏手の擁壁の上から自転車ごと転落、2メートルほど下の道路でしたたかに額を打って、かなりの出血があった。

ちょうど、庭で花壇の手入れをしていた貴女のお父様が、それを見て、すぐさま自家用車を出してくれ、知り合いのいるという病院へ連れて行ってくれたことがあった。

おかげで事なきを得、貴女のご両親とは打ち解けて話ができるようになったのだけれど、貴女とはまともに話などできなかった。

(余談だがこの時の傷跡は今も僕の額にわずかに残っている)

やがて貴女方ご家族は転居され、自転車で行かねばならない4キロほど先の、僕も通う生徒数1500人というマンモス中学校近くの戸建てに移った。

もう、貴女に会えなくなったと思った時、中学三年最初のクラス替えで貴女が同じクラスになった。

しかも、最初の教室での席はあなたが僕の隣に並んでくれた。

嬉しかったが、それを顔に出すこともできず、貴女に話しかけることもできず、貴重な一年は過ぎていく



不思議に、当時の僕には何人かのガールフレンドがあり、彼女たちとはずいぶん馬鹿げた遊びもできたのだけれど、貴女は僕の中では別格の存在だった。

趣味になりかけていたカメラで、貴女の姿を撮影したこともあったけれど、それはいつもあなたの横にいる、僕にとって気安い友達に声をかけて撮影出来たものばかりで、なぜかあなたには声をかけられない。

それでも、中学時代の僕のアルバムには何枚かのあなたの写真がある。

その写真の貴女は周囲の友達の様に笑ってはおらず、何かきつい目をして僕を睨んでいるようだ。



その頃の僕にはガールフレンドもいた・・当時の僕は「ウブ」というよりは、どちらかといえば女の子の友達が多く、しかも、転校前の学校でクラスメイトだった二人の女の子と文通もしていて、そのうちの一人とは結構、頻繁に会ってもいた。

だのに、貴女にはこの体たらくなのだ。



中学を卒業し、男ばかりの国鉄の寄宿舎に入り、なんとも味気ないことになったのだけれど、文通は続いていて、その相手と山陽電車で一緒に帰ったこともあった。

でも、貴女にだけ声がかけられない状況が、やがて、文通相手どころか、自分の従妹などにも声がかけられない、深刻な女性恐怖症の状態になってしまう。

周囲はこれまで経験したことのない男ばかりの世界になってしまっていて、好きな鉄道車両は常に身近にあっても、女っ気のない味気無さは変わらない。

いや、味気ないどころか、女性に声をかけられない深刻な状況はこの後、文通相手の女の子に振られ余計に度を増す。

(この女性恐怖症が完治?したのは二十三歳のころ、国鉄部内の配置転換で鷹取に転勤し、悪友たちと三宮で遊ぶようになってからだ)



国鉄の寄宿舎にいる間、土曜日の帰宅はほとんど山陽電車を使ったのは、やはり貴女に会いたい一心からだったと今ではいえるだろう。

だが、お互いが高校生の年頃の間は、時に貴女に出会えることはあっても、やがて、その時を過ぎ、以来全く貴女の姿を見ることはなくなった。

よく遊んだ共通の友達からは貴女の噂は聞いたけれど、それも、僕が国鉄にいる間までのことだ。

国鉄を辞め、やがて神戸での写真の仕事に入った僕は、また板宿に住み着いたけれど、もちろんそこに貴女の姿はなく、それでも、あのけたたましい踏切の風情を見るたびに、グレーのスカートの貴女が友達と談笑しながら歩いてくる姿を思い浮かべたものだ。



板宿もまた阪神淡路大震災で被災し、山陽電鉄では地上部の駅を建設中の地下駅に切り替え、地上線は放棄することになった。

電車が地下に潜った板宿の風景は変貌し、もはやここを貴女が歩いてくる姿を思い浮かべるのは難しくなった。

そして僕はその街で最初の独立に失敗したのだがそれはまた後の話だ。
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昨夜というか、今朝、夢を見たんだ。
白っぽくきれいな内装の建物の中、ショッピングセンターかホテル、あるいは病院といった感じのところだ。

僕は店のカウンターに立っていて、隣にはアルバイトの女の子がいる。
この雰囲気は、僕が阪急六甲の駅ビルの中の写真店にいた時を思い出すといえば、それはまさにそうなのだが、あの写真店はこんなに白っぽくはなかった。

そこへ思いがけず、なおちゃん、君がやってきて、「これ、頼むけん、あとでくるわ」と僕に何かを渡す。
あれはあの頃のフィルムではなかろうか。
六甲の写真店はスタジオだったが、系列のDPE店への取次で現像・プリントの受け付けも行っていた。

確か、当時は君の勤めている病院のすぐ近く・・といってもあのクラシカルな大病院から強烈な坂を下りてきた阪急御影駅前なのだが、そこには同じ系列のDPE店があって、週に一度、僕はその店へ応援に行っていたし、たしか、そこでは君がフィルムを持ってきてくれたことがあるから、夢の中では六甲と御影が同じ店になっているのかもしれない。
現実の君は、証明写真の撮影や仕上がりの受け取り、僕の仕事終わりを待ってくれるときには六甲の店にも顔を出してくれていたから、雰囲気的には六甲のスタジオだろうか。
・・いや、あの白っぽい雰囲気は、その後に僕が勤めた大阪のホテルに似ていたような気もする。

なおちゃん、夢の中で僕は君に「なおちゃん、いつもありがとう」と言ったと思う。
すると君はちょっときつい目をして、「気安く名前で呼ばんでくれる」と広島弁のイントネーションで僕をたしなめる。
横にいるアルバイトの女の子が気に障ったのだろうか。
僕は「あ、ごめんなさい、吉川さん、ありがとうございます」と君の名字を言い直す。

君は「後で来るけん、頼んだよ」と事務的な表情で念を押す。
なぜか、このシチュエーションは僕らが若いころの一シーンに近いのだけれど、僕は今の風貌だし、君は、小顔の美人はそのままに、今の年齢、五十歳台にふさわしい小皺と、髪には白髪が混じっていた。
もっとも当時の君は、僕のいる店で不機嫌に、きつく僕をたしなめるなんてことは全くなかったはずだ。

僕は、店を出る君を見ながら「なおちゃん、白髪、染めたらいいのに」と呟いたところで目が覚めた。

なおちゃん、情けないことに、いまだに僕が君のことを丸一日、忘れていられる日はそう多くないが、ここ数週間はそういえばほとんど君の事を思い出さなかった。
このまま、君と別れて二十六年の歳月が経ったいまだからこそ、ようやく僕の心の奥に居ついていた君の記憶が少し薄れる可能性があったそういう時に、この夢を見たのは何としても不思議なことだ。

目覚めたときは心がポカポカと暖かく、僕の眼には涙もたまっていた。
そして、この切なさは今日一日の僕を苦しめた。

僕が君と、いや、僕たちが君たちと出会ったのは、僕がまだ国鉄にいたころだ。
あの頃多かった大型の居酒屋、そこにはカラオケのお立ち台があって、お立ち台では音響はもちろん、照明も凝っていて、スター気取りで歌えるという店だった。
料理や酒を頼みながら、一曲か二曲、自分の自慢を披露するのが楽しみとされたころだ。
カラオケは今のように手元で操作する端末などなく、分厚い本の中から、自分の歌いたい曲の番号を探し出してそれを申し込みの用紙に書いて、店のウェイターに渡す・・
店の客は何十人もあるから、カラオケの順番まではかなり待ち時間があるが、自分の番になるとウェイターが知らせに来てくれる・・そういう店で「僕たち」は「君たち」と出会った。

僕たちのグループと君たちのグループの間には鉢植えの仕切りがあって、でも、それはあえて相手を遮らないように作られていて、隣の席との会話も可能だった。
僕たちは同期の国鉄マンばかり4人ほどか・・君たちも同じようにあの病院のナースばかり4人だった

最初に僕たちの仲間の神木君が、なおちゃん、君に声をかけてそこから始まった物語。
まだ、女の子と真っ当な会話ができなかった初心な僕は、君たちのグループのなかで一番大人しそうに見えていた「やっちゃん」と、「なんだか、みんなすごいよね・・とてもついていけない」なんて話をぼそぼそとしていた。

だのに、そのとき、一番君と話し込んでいた神木君はなぜか「やっちゃん」へと、僕と、別の友人友田君が君の横でいかにも大人の女性に見えた「みっちゃん」に向かったものだから不思議だ。
「誰も、うちのほうを向いてくれん」
君はそう思ったのかもしれないけれど、美人で頭の切れが良い君は、僕らにとっては高根の花に見えたのだろうか。
(全く余談だが、このとき、そこにいたもう一人、大山君はその後、僕の妹と結婚している)

結局、神木君はやっちゃんと結婚寸前まで行き破たん・・彼女から一方的に彼を切り捨てたことで、大人しく見えたやっちゃんの意外な一面に驚いたし、やっちゃんに捨てられた?神木君はのちに思い切って専門学校へ通い医療系へ転職、そこで出会った別の「やっちゃん」と結婚するという結末が付いた。

友田君と僕が自分の売込みに必死になった「みっちゃん」は、僕ら二人ともを見事に振ってくれたけれど、詳しく思い出せない紆余曲折があり、その後、しばらくは僕にとって「みっちゃん」が相談相手みたいになったのだからこれまた不思議だ。
(これまた余談だが、友田君はこの直後にやはりナースの女性と結婚している)

なおちゃんの横にいた「まきちゃん」も可愛く楽しい女性で、僕はこの後、しばらく彼女と何度かデートもすることになる。

だから・・僕にとって、なおちゃん、君は決して恋愛の相手ではなかったはずなのだ。
それが、あるとき、ふっと誘ったドライブのあと、須磨の海岸沿いのレストランへの入り口で、海からの陽光が君に降り注ぎ、一瞬、ドキリとなったことがあった。

それまでは僕にとって、「みっちゃん」にブッシュしたことを除けば、君たちはいずれも不思議な出会いによって得た大事な友達であり、将来をどうするとか考えたり、あるいは男女の仲になることを想像できたりする相手ではなかった。
それがその時から、なおちゃん、君は僕の片思いの相手となった。

このあと、僕と神木君は国鉄を退職して、彼は医療へ、僕は写真の世界へと道を替えることになるのだが、僕と彼女たちの縁はその後も続いた。

なぜに僕だけが彼女たちの友人となりえたのか、今もよくはわからないのだけれど、実のところ、三十年近くが経過した今も年賀状だけのお付き合いとはいえ、「やっちゃん」や、この後仲間に加わり、さらにその後、夫婦となった堀尾君と「ゆきちゃん」を通じて彼女たちとの縁が続いているのもこれも不思議なことだ。

思えば僕たち国鉄の同期生が二十三~四歳、君たちナースの卵たちが二十歳になったばかり、出会いといえばこれほどの出会いを用意してくれた天に、僕は今も深く感謝をしている。

さて、話が逸れた。
第一印象とは異なり、話をしてみると、なおちゃん、君の深い人間性、若くして苦労を重ねたその強さ、意外に感情的に脆い部分もありそこがまた可愛く見えることなど、僕はすっかり君の虜になった。

君には当時、付き合っていた男性があるようだったが、あるとき、どういういきさつか、君とその男性の縁が切れた。
君に言わせれば、その男性は「俺は男として、やはり家庭を持つことを捨てられない」と言ったそうだ。

そう、なおちゃん、君は結婚などを考えていない・・女性だった。
幼少期の苦労がそうさせたのか、それもも生来の開放的な性格によるものか、そこは僕ではわからない。

ただ、僕からの一方的な片思いとはいえ、君は僕の誘いにはよく乗ってくれた。
駆け出しカメラマンだった僕の要望に、喜んでモデルもしてくれたり、呑もうといえば一緒に呑んでくれたし、ドライブの助手席にも座ってくれた。
いつも屈託なく笑う君の表情はとてもきれいで、僕の気持ちはどんどんのめりこんでいく。

そんな時に、君はとんでもないことを僕や仲間の前で宣言する。
「広島へ帰る」という。
「田舎に帰って牧場を手伝うの?」
君の実家は比婆郡で牧場を経営していると聞いたことがあった。
「うううん、広島市内で尊敬する産科医の先生のところで仕事をしたいんじゃ」
「それは、広島へ帰るのではなく、広島市へ行くということやん・・」
「でも、神戸と違うて、言葉も広島弁じゃけ、私のまんまで居られそうな気、するし」
「その尊敬する先生の所へ行ける確証はあるの?」
「もう、連絡はとっとるんよ、いつでも来りゃあええがって・・」

僕は焦った。
なおちゃん、君が僕の前からいなくなる・・遠ざかっていく・・それは僕にとってはこの世の終わりともいえることだった。
ただ、僕は国鉄をやめたとはいえ、鉄道ファンであることは自認していた。
君が広島へ行ってなら行ったで、そこへ行く道は・・例えばお金のない時でも新幹線を使わず、鈍行や高速バスを乗り継ぐといった方法は熟知していたから広島へ行くのは苦ではない。
それに広島へ行けば、大好きな路面電車も見ることができる・・というか、路面電車を見に行くついでに君にも会うという口実にできた。

僕がとった行動は、君のいる広島に月に一~二度は通い続けるというものだった。
でも、それが僕の純粋な恋愛感情からだけなら、案外、ことはうまく運んだかもしれない。
君ははるばる神戸から訪ねていく僕を歓迎してくれたし、広島や宮島、岩国を君と二人で歩くのはとても楽しいものだった。

それをぶっ壊したのは僕自身だ。
浅はかな思想信条とやらに傾倒し、君との楽しい時間を第一義に考えられなくなっていった。
僕にとっては、将来を一緒に過ごしたい君との間だからこそ、その部分で共有したい思いというものがあったのだけれど、若気の至りとはこのことか、教条的なものに目を奪われ、君という大切な人との関係を優先できない浅はかさ・・

今思えば、思想というものと、人の感情をきちんと立て分けて考えられない己の幼稚さがゆえのこと、そしてその思想も今見れば、なんと自分勝手であやふやなものであったことか。

結局、広島での楽しい時間は短く、会えば君が泣くといった事態を繰り返してしまう。
それでも、君は僕が行くと会ってくれたし、見た目には恋人に見えないこともない関係にもなれたのではないだろうか。
繰り返しになるが、ぶっ壊したのは僕自身だ。

二人の関係はともかく、君は広島では著名な医師の元で、かなり頑張っていたようだ。
神戸の病院でも、優秀な産科ナースと言われていた君が、広島の専門病院で頭角を現すのに時間はかからなかったに違いない。
あるとき、「日経ウィメン」という雑誌がその病院の件の医師を特集した。

表紙には、美しく頭の切れそうな女医とともに、やはり美しく、賢そうな君がナースの白衣を着て写っていた。

だが、僕のこと以外で君が泣く日が来るのに時間はかからなかった。
「神戸に帰りたい」
何気なく、いつもの通りに電話をした僕は驚いて、なんとか、君が神戸に帰ってこられるようになればと思った。

病院で何があったかは僕にはわからない。
友人がたくさんいる神戸と、仕事で会う人ばかりの広島では寂しさを受け流す場所がないというのもあるかもしれない。
結局、元いた神戸の病院と広島の病院の話し合いだか何だかで君が神戸に帰ることになった。

ただ、そのころ、僕は自分の母が脳内出血で倒れて加古川市内の病院の集中治療室にいて二十四時間の付き添いが必要な状態となり、とても広島へ行く時間も君に連絡を取る時間もなくなっていた。
いや、神戸での写真の仕事ですら、何か月も休まざるを得なくなっていた。

母の病状がようやく快方に向かい、安心感から君に公衆電話をかけたとき、「お母さんのこと、よかったね・・んで、あのね、もうひとつ、ええこと、あるんじゃ、うち、神戸に帰るんじゃ」
やった!と思ったものだ。
「でも、あなたのことだけで帰るんやないからね、勘違いせんといてよ」
僕にしてみれば「あなたのことだけで帰るんやない」というのは、僕のためにという意味も多少は入っているということだという風に受け取った。

母の病状が安定し、二十四時間の付き添いが要らなくなり、そして君が帰ってくる情報・・その電話は秋の終わりごろだったと思うが、一気に春が来た気がしたものだ。

翌年、君が神戸に帰ってきてくれた。
君がアパートを選んだ場所は阪神御影駅のすぐ近く。
当時、僕が住んでいた板宿から、一本の電車で君のところに行けると喜んだけれど、会おうといってもいつもはかばかしくない返事しかくれない。
そして、君の誕生日に、連絡を入れずに君のアパートに行った僕は、玄関先で君の女としてのたくましい生きざまを見せられることになる。

いまも、夢に出てくる君が可愛く笑っている表情ではなく、ちょっと怒ったり、あるいは泣いたりしている表情なのは、あの、広島での僕自身の大失態のゆえなのかもしれない。
僕は今も、あの時の僕を責め続けているのかもしれない。

だから、ほかのこととは違って君のことが今も僕の心に住み着いたままになっているのかもしれない。
いや、それこそ、失礼な話じゃわ。

きちんと言おう、僕は今も君のことが好きであり、それが当時と何ら変わっていないということ、そして僕は今も君の姿を追い求めているということ、忘れようとした頃にそのことを、僕の深層心理が警告を発してくれたようにも感じるし、僕を君たちに出会わせてくれた天が僕に教えてくれたのかもしれない。

でもね・・なおちゃん、あかんよね・・いつまでも過去を引きずるの・・
「そがいにやねこいこと、言わんでよ」って声が神戸の東の方から聞こえてきそう。

親父の葬式

   (本作は本小説サイト「おやじ」「あの夏を」「姫路から加古川へ」の関連作です。)

祈祷をしてもらいに行った大阪の神社から、姫路市の東方にある病院に叔母のクルマで送ってもらった私が到着したのは八月二十六日の午後のことだった。
病室に入るなり、「あんた・・・」と悔しそうに声を抑えて泣く母親が見えた。
「いまさっき、ほんのちょっと前やで・・・」
祖母が私に耳打ちする。
それでも、私には目の前にいる親父が死んだなどとは思えないでいた。

親父はといえば、ベッドの上で丸裸にされてはいたが、この病院で見せていた苦しげな表情ではなく、口を軽くあけて薄目を開いて宙を見る表情は穏やかで、いい夢でも見ていそうだ。
私はその前日、好転しない親父の病状に、祖母からの発案で大阪・堺にある神社への特別な祈祷への使いとされていた。
親父はかつて社会運動家だったけれども、折伏に来た友人に理論武装で負けて、S会の信者になっていたし、母は親父よりは信心が厚く、日ごろの活動にも積極的だった。
余談だが、親父がこの信仰で本人が望むような幸せを得られたとは私には思えない。
私はS会を全否定も全肯定もしないが、信仰と言うものは、それがあるから幸せになれるものではなく、幸せへの努力のそのバックボーンとして存在するのではなかろうか。

だのに、今思えばこのS会には神社を否定する「神天上」という考え方があるにもかかわらず、祖母・・つまりは親父の母親が発案した神社への参拝と言う・・まさに藁にもすがると言うか、あるいは困ったときの神頼みと言うか、そういう方法を私の親族たちは選んでいた。
あるいは、母が祖母の意見に反対を唱えることが出来なかったからかもしれない。
けれど、そのことで長男である私が親父の死に目に逢えないとは、その場の大人たちの誰もが思いもしなかったことなのだろう。

だからといって、私は親父の死に目に逢えなかったことを恨むものではない。
息が詰まるような病室で親族が集まり数日、緊張感あふれる時間を過ごしてきたわけだから、まだ中学生になったばかりの私には、そこから離れる用事を作ってくれたことはむしろ、肩の荷が下りたように思えたことだった。
病院から歩いて三十分はかかる国鉄の曽根駅から山陽本線の快速電車に乗り、まだ、冷房などなかった時代、クロスシートの進行方向に落ち着いて、大きな窓を全開して夏の田園や海岸沿い、都会を突っ走る電車の旅は不謹慎にも結構楽しめたのだ。
今、山陽本線に「はりま別所」と言う駅があるあの辺りである。

大阪では叔母一家が居候していた祖母の家に泊まり、そこからクルマで神社へ、そして、そのクルマですぐに姫路まで送ってもらったと言うわけだ。
当時、開通したばかりの高速道路を走っていると、田園のはるか向こう、海岸沿いに建つ重化学工業地帯が見える。

その中でひときわ多くの赤や白の煙突が並ぶ一帯を私は指差し「お父ちゃんの会社、あれやねん」と叔母や義理の叔父に教えたものだ。
その直後、親父が息を引き取ったところに私が病室に入ったものだから、叔母や義理の叔父は「悲しみを新たにした」と言うことだろうか。

親父・満男は大阪、泉大津で身体を壊した。
理想を追い求め、労働者のユートピアを本気で信じた親父の人生は、ユートピアと裏腹の悲しみに満ちたものであったことは確かだろう。
東京・本郷で生まれながら、まだ乳飲み子の頃に母親・静江と別れ、以後、祖母・・つまりは私にとっては見たことのない曾祖母に育てられ、若き母は満州に行ったまま帰らない。
その母親がこともあろうに東京から遠く離れた大阪で、彼を迎えたのは彼がもう小学校に入る前だったとか。
母親の横には見知らぬ男性がいて、その男性が母親の再婚相手で国鉄マンだった。

だが、その国鉄マン・草野は素直に鷹取工場で労働しているだけでは終わらぬ野心家で、戦前からさまざまな闇物資を仕入れてきてはあちらこちらに売りさばく商才をもっていた。
戦争が激しくなるころ、国鉄マンであった義理の父親は独立し、道頓堀に商店を開く。
それは八百屋で、頼まれれば野菜や食料以外のものも仕入れて販売した。

私の親父、満男は自分の母親と義理の父親が経営する店の二階に、他の家族と寝起きする毎日だった。
他の家族とは、満男の母、静江が再婚した満男の義理の父、草野の連れ子で、いずれも女の子だった。
だが、その暮らしは満男にとって楽しいものではなく、草野による今で言えば虐待までも日常だったようだ。

戦争が終わり、世の中が落ち着き、草野の商売も軌道に乗ると、満男は草野に願い出て神戸の理容専門学校へと進む形で家を出る。
当時の草野には経済的な余裕は充分にあったから、厄介者が家を出てくれることこそ幸いとばかりに満男の願いを聞き入れた。

理容師になり、新開地の店で腕を振るうようになった満男は、そこで私の母のルミ子と出会い、やがて同棲を始める。
労働者の町、新開地でさまざまな人との友情を深くするにつけ、社会運動に傾倒していきながら、当時左翼やくざの異名を持つ組織とも関わりを持つようになる。
結局、この組織とのかかわりが、満男が全てを失敗し最後の賭けに大阪・泉大津で親族が経営する会社に入社しながらもさらにそこで親族に裏切られ、失意のもとでも再出発として加古川市にいたるその遠因ともなるものであり、満男はその組織のさる親方に深い感謝の念を抱いていたようだ。

子供は多かった。
避妊というものをせず、出来た子は必ず産むという信念というか、ある意味では計画性のなさに、結局は自分で自分を苦しめながら私を筆頭に六人の兄弟姉妹が出来てしまう有様だったし、これは生きて生まれた子だけの数字で、実際には流産二回、死産二回の合わせて十人の子供を自分の妻に身ごもらせた。
労働者の革命は必ず為る・・はずだったのに、革命からどんどん世の中は遠のき、自分の経済も自己責任とはいえ一向に良くならない。
憂さを酒で晴らすのがいつしかアルコール依存症となり、肝臓、十二指腸はとうに破壊され、血を吐きながらも酒を飲み続けた。

如何に恩義のある親方の勧めで入った会社とはいえ、数ヶ月でまともに出勤すら出来なくなる状況に、本人としても情けなかったろうとは思う。

親父が亡くなって、親族でいろいろ難しそうな話をしている団になると、私はその場にいたたまれなく、病室を抜け出した。
病院の脇から夏の盛りで濃い緑に輝く田圃の向こうに走っている山陽本線と、開業したばかりの山陽新幹線を眺めて時間をつぶす。

白い車体がたくさん連なり派手にスパークを上げる新幹線、オレンジと緑に塗られた快速電車の長い編成、黒い電気機関車がこれまた黒い貨車をたくさん連ねてガチャガチャと走り行く様子・・
子供の頃から電車が大好きだった私だったが、これだけ満足に電車が眺められる場所と言うのは経験になかった。
時を忘れ、電車を眺めていた私を叔母が呼びに来たのはもう夕刻に近かった。

加古川・別府の社宅は、かつてここが海岸だった頃の名残としてその頃はまだたくさんあった松林の一角だ。
社宅とはいっても鉄筋コンクリートの立派なものではなく、木造の平屋を二軒、背中合わせにくっつけたもので広い庭があった。
この会社には鉄筋の社宅もあったが、我が家が子沢山なために会社側の配慮で古いが広い木造の社宅を宛がってくれたものだった。
台所や風呂はまさに戦後そのもので、風呂は当時とて珍しい五右衛門風呂、オガライトというオガクズを集めて固めたマキを燃料として使った。

その社宅に私が着いたのは夜だった。
家には五人の弟妹と共に、母方の祖母と叔母が来ていた。
この叔母は母の妹で私とは四才しか離れておらず、その頃はまだ女子高生だった。

弟妹たちは泣き腫らした顔をしていた。
だが、私には涙は出ない。
こういうときの悲しみ方が分からなかったのかもしれない。

暗くなる大きな古いその社宅で、五右衛門風呂を沸かし、おにぎりを食って親父の遺体が到着するのを待つ。
やがて、親父が運び込まれてきた。
当時、ほとんどがそうであったように、親父の葬儀はこの自宅で行われることになった。

翌朝、その日の通夜、翌日の葬儀の段取りを決め、近所の主婦たちが応援に来て炊き出しをしてくれる・・忙しいことになったけれど、中学生の私には何も為すことがない。
近所の溜池の亀や鮒を眺めて過ごすしかないが、それも何か用事があれば「どこにいるの」とばかりに母や叔母が探しに来る。
そしてその用事といえば「誰某が来たから挨拶しなさい」とか「早く食事をしてしまいなさい」とかいった類の他愛のないものだった。

この日も食事は塩の効いていないゴマまぶしの巨大なおにぎりだけで、この頃は炊き出しと言えばこういうものだったのかもしれない。
おかずに少しだけ何かの煮つけと、ぶった切った沢庵をを貰ったような気がする。

通夜と葬儀の受付は女子高生だった母方の叔母に決まった。
町内会からトレニア机を借りてきて、部屋だけではなく庭にも折りたたみ椅子を用意して準備が整う。
当時、通夜は今のように大勢で囲むものではなく、親族や町内のごく親しい人だけの内輪の儀式と言う印象が強かったけれど、葬式は違った。
狭い社宅内の通路は人や車であふれ、慣れぬ母方の叔母では誰かから教授してもらった受付の作法ではうまく行かない。

葬儀の少し前、大勢の男性がぞろぞろやってきた。
葬儀だから当然だが黒尽くめの、それに如何にも強面風の集団だった。
母が飛んでいく。
なにやら話をしている。
「姐さん、ここは我々に任せていただけませんか」
そんな太い声が聞こえる。
姐さんが母のことだとはすぐに分かった。

やがて、受付をしていた女子高制服の叔母が泣きながら入ってきた。
訊くと「怖い男の人たちがたくさん来た」とのこと。
表を見ると母が強面風の男性と話をしていて、男性がしきりに頭を下げている。
母はと言えば「ほな、よろしゅう、頼みましたさかい」といいながら、これまた深々と頭を下げている。

やがて、社宅の周囲は強面風で埋め尽くされた。
私が転校してきてまだ間もないのに、地元中学の同級生の集団も見えるが、強面風の集団にちょっと訝しんでいる様子だ。
やがて、薄墨の法衣をまとった僧侶がやってきて、読経が始まる。
夏の真っ青な空、蝉の鳴き声、松林を抜ける風・・
読経の唱和、線香の香り、すすり泣く人たち・・

焼香が始まると庭に設けられた焼香台あたりで憚りなく泣き叫ぶ太い声も聞こえる。
「兄さん、兄さんに先に逝かれてしもたら、わし、どないしたらええのんや!」
兄さんとは親父のことだろうか・・ぼんやり考えながら私の時間は過ぎていく。
悲しくはなかった。
涙は出ない。
だが、不安はすごいものがあった。
親父がたとえ病気だとしても生きていると言うことと、親父が存在しないということの違いは漠然とながらも私には理解できていた。

昨夜の親族の話し合いでは、私たち兄弟姉妹を分けて親族で面倒を見ることも話し合われた。
親族の一人は母に向かって「あんたもまだ若い、もう一回、人生をやりなおせるやろ」と言う。
当時三十六歳の母は唇を結んだまま、何も言わなかった。

たとえば・・会津の親戚宅へ預けてもらったら・・・電車に長い時間乗車できる・・・
そんなことを、私は本気で考えていた。
でも、それはある意味、自分が乖離状態にあるからそう思えるわけであり、弟妹と離れるのは嫌だったというのが私の本音だろう。

我が家は加古川市には縁者がなく、社宅はいずれ出て行かねばならない。
これから先、何がどう転んでいくか、その想像だに出来なかった十二歳の夏、昭和四十八年の加古川でのふっとした思い出である。

山陽電車

別府駅の270形

神戸市の西郊を都心へむけて走る山陽電車の普通車・・鈍行に乗っていたのは、これは僕の趣味でもなんでもなく、ただ、特急が混んでいたから・・
そして僕は別に急がなければならぬほどの所用であるわけでもなく、座って移動できればそれに越したことはないという理由からだ。

その山陽電車3000形の妙に深々とした座席に腰掛け、向かいの窓から見える景色を見るともなくただ目を時折、向かいの窓の外に向ければそれはそれで海が見えるし、淡路島も見える・・絶景といえるかもしれないけれど、それを絶景というにはあまりにも身近な電車であるのは確かだ。

よせばいいのに過ごしすぎた昼酒の、重い余韻が胃のあたりに蹲る。
景色を見ているのか、それとも眠っているのか、自分でも判然とせず、ただ、長い座席の真ん中のあたりにだらしなく足を投げ出して腰を掛けていた。

電車は板宿駅の手前から地下に入り、トンネル特有の轟音が響く。
停車した駅から賑やかな一団が乗車してきたけれど、煩いとは思いながらも既に目を瞑った僕は、遠くの世界で煩い音を聞きながら異次元の世界へ向かっていたのかもしれない。

一瞬、眼を覚ました僕に飛び込んできたのは、母親らしき中年の女性と、彼女に引き連れられた四人の子供たち。
女性はたぶん、きちんと化粧をすればそれなりの美しさは出せるようにみえるけれども、長い髪をバンドで止め、けれども、その髪は何日も洗っていないかのごとく、不潔に満ちている。
子供たちはといえば、一番上の男の子は利発そうな眼をしたくりくり頭で、その次が女の子だろうおかっぱ頭は母親と同じく何日も洗っていないかのよう、その二人は多分、小学校高学年か。
そして双子だろうか・・幼稚園に入るかはいらないかの年頃の小さな女の子が二人。
さすがにこの双子だけは愛らしい洋服を着せてもらって、髪にも飾りがついている。

そのうち、双子が喧嘩をし始めた。
それを上の女の子がたしなめるのだけれど、双子は言うことを訊かないどころか、お姉ちゃんを罵倒し始める。
上の女の子がかえって半泣きになると、今度は利発そうな長男が双子をたしなめるのだけれど、既にいきり立っている小さな意地っ張りはそんなことでは収まらない。

母親が一喝する。
「静かにせなアカンやろ!」
だが、騒ぎたい盛りの双子がそんな言葉を聞くはずもない。
余計に相手やお姉ちゃんやお兄ちゃん、そしてお母さんさえも罵倒の中に入れ、騒ぎは大きくなる。
「他の人に怒られるで!あの怖そうなおっちゃんにも」
母親はこともあろうに、僕を指差した。
怖いおっちゃん・・そうかもしれない・・
無精ひげを伸ばし、つっかけを履いてだらしなくロングシートに座る僕は「怖いおっちゃん」の部類かも知れない。
僕はちょっとしたサービスのつもりで双子を睨みつけてやった。
睨まれた双子は、一瞬にして黙り込んで俯いてしまう。

やがて、小さな声で「あっこちゃんが悪いんやもん」と呟くのが聞こえる。
「ちがう、よっこちゃんやもん」「あっこちゃんやもん」「よっこちゃんやって・・悪いの」
母親はその二人に「シー!」と人差し指を口に当て、そして、僕のほうを見るしぐさをした。
僕は仕方ないからじっと双子を見詰めてやる。

新開地の駅が近づくと、その家族の一団は立ち上がり、ドアの前に勢ぞろいする。
電車が停車する直前、母親であるらしいその女性が僕に近寄ってきた。
「ごめんなさいね・・煩かったでしょう」
そういって、僕の手に握らせてくれたのは新しいマイルドセブン、煙草だった。
「いえいえ、気にしてないですよ・・」
そう言って僕は煙草を返そうとした。
僕は煙草は吸わない。
「ごめんなさい・・」
頭を下げながら、無理に僕に煙草の箱を渡して開いたドアから出ていく女性の洗濯ずれした洋服の後姿に、僕は見てはならないもの、思い出してはならないものを見たような気がした。

電車がまた走り始め、トンネルの轟音が車内に響き渡ると忘れていた記憶が呼び起こされ、僕の眼が霞んでいく。
涙がこぼれ始め、僕はもうその電車に乗り続けることが出来なくなった。
高速神戸駅で電車を降り、涙を他人に見られていないか気にしながら、僕はホームの端の階段を上り、改札を抜ける。
・・この上に神社があった・・
そう思い出すと、地下街の通路から地上に出て、湊川神社境内の楠木の大木を目指した。

楠木の根元のベンチでようやく一息ついた。
まだ涙が止まらない。
秋の風がひんやりと頬をなでてくれる。

僕は神戸の湊川で生まれた。
当時、両親は新開地の理髪店で働いていて、湊川商店街近くのバラックのようなアパートの二階、4畳半一間の部屋に住んでいた。
父は大阪の商家を飛び出して、親と絶縁し、神戸の店に住み込みで来ていた。
母は、その店で住み込みの手伝いをしながら、理容師の免許を取得したという。
それはともかく、僕が最初に眼にした鉄道は、自宅のすぐ近くを走っていた神戸市電であったのは間違いがなく、その次はどこだろうか。
上沢通りの湊川トンネル脇の、石垣作りの築堤の地下から出ていた神戸電鉄だろうか。
あるいは、母方の祖母が再婚した相手と住んでいた須佐野通り近くの路上を走っていた山陽電鉄だろうか。
いずれにせよ、山陽電車との付き合いは僕が実際に沿線に住むずっと以前から始まっていた。

母方の祖母は、須佐野通り・・今の駅前通りになるのだが・・に移る前、神戸電鉄の鵯越駅近くの文化住宅に住んでいて、だからか、この二つの電車に乗る機会は多かった。

当時の山陽電車といえば、決して綺麗ではないうす汚れた電車が、兵庫駅のこれまた綺麗ではないターミナルを出ると、さして幅の広くない道路の上を路面電車よろしくゴロゴロと転がっていき、市電と道路上で平面交差し、今の長田警察辺りにあった長田駅の、吹けば飛ぶような小さな駅へ吸い込まれていくのだった。
町のど真ん中を、路面電車の数倍はあろうかという大きな電車が、二両や三両で転がっていく・・
それは子供心にも何やらとんでもなく時代がかった風景というようにしか見えなかった。

その山陽電車は僕の思い出の中に幾度となく登場するのだけれども、後に大阪へ転居し、大阪で六年の辛酸を嘗め尽くした父は、やがて家族を連れて兵庫県の加古川市、山陽電車沿線の別府(べふ)へ行き、そこで鉄鋼所の仕事をすることになるのだけれど、半年ももたずに亡くなった。

僕が突然に思い出した風景とは、別府に住んでいた頃の、まだ父が体調を崩さなかったごく短い時期からの山陽電車の中での風景だ。
父は春に加古川に家族を連れて来て、秋になる前に亡くなった。
だから、最初の思い出は夏になる前の頃ではなかろうか・

その日、懐具合が多少は良かったのだろう。
父は家族全員を新開地へ連れて行ってくれた。
新開地には、理容をしていた頃からの馴染みの中華料理店があって、そこへ家族を引き連れて食事をしようというものだった。
別府駅から普通電車に乗り、東二見で特急に乗り換える。
当時の特急電車はすべて3000形で、空いている夕方の上り電車の中、家族で長いシートを占拠し、並んで座った。
一番下の妹はまだひとつにならず、母は電車の中というのに、赤子に乳をやる。
今のように、駅などに授乳室があったりするわけではないし、母は母乳が非常に良く出たから、粉ミルクを買うこともなく・・けれども外出時に堂々と乳を出して赤子に与えるのは・・さすがに中学生になった僕には恥ずかしかった。

我が家の家族は両親、男の子二人、女の子四人の八人家族で当時といえど子沢山だった。
長男が僕で、当時中学生、その次が弟で小学校5年生、その次からが女の子で小学校三年生、一年生と、三歳、それに乳児で六人きょうだいだ。

その日の新開地で、僕たち家族は新開地で今も理髪店に勤めている父の親友と偶然に再会する。
既に中華料理をたらふく食べた後だったが、父の友人の誘いでもう一軒行ったか・・
帰路にはその友人を加古川・別府の我が家といっても、古い平屋の社宅だが・・そこに呼ぶことになり、さらに賑やかに山陽電車に乗り込むことになった。
つり革に摑まりながら、楽しげに話をする父とその友人、そして赤子を抱きながら相槌を打つ母。
ほかの子供たちはそれぞれが買ってもらった漫画や小学生向けの雑誌などを眺めながら、あるいは、きょうだいの見ているものを横から覗きながら、時にはページをめくるのが速いとか、付録が欲しいとか喧嘩のようなことになりながら別府駅まで帰ってきたことだった。
片側にドアが二枚の、大きなモーター音を立てる旧型電車、その明るくない車内での我が家全員と父の親友とのひとコマの残像である。

もう一つ、山陽電車の記憶といえば、その父が亡くなってまもなく、六人の子供をばらばらに親戚に分けて、母の自立を促そうという親族たちの方針が決まりつつあった頃、何の用事でかは知らないが、母が子供たち全部を引き連れて、その頃は地下化された大開駅近く、須佐野通りの母方の祖母宅へ行ったときの残像。
母は楽しげではなく、子供たちにも重い空気が漂っていた。
赤子はともかく、三歳の妹はぐずるし、僕は弟と言い合いになるし・・
その言い合いの中身は忘れてしまったけれども、それは僅か数か月前の幸せな家族の風景とは一変したけれど、ほとんど子供を注意するとき以外は口を開かぬ母の、悲壮なまでの強い決意だけは僕にも感じることができた。

母の決意は「子供は絶対にバラバラにしない、どんなに苦しくとも自分がすべて育てる」というものだった。
山陽電車は地下に入り、トンネルの轟音が不安を掻き立てる。
そのときの母の決意がその後、幸いしたかどうかは今もって僕にはわからないのだが、少なくとも兄弟姉妹、寂しさだけは感じずに育ったのは確かだ。
夜の帰宅電車。
ロングシートで眠りこけるちいさな妹たちを、僕はただ不安な気持ちで見ていた。
いくらなんでも、六人の子供を派は一人で育てるというようなことができるのだろうか。
多少は世間を見るようになった中学生であるが故の不安だった。

別府駅で降りたとき、新幹線の派手なスパークがすぐ傍を通過していく。
あの「ひかり号」はどこか怖いところへ向かうのではないか・・泣きそうになるのは兄弟姉妹の中で僕だけだった。
いや、母は本当は泣きたかっただろう。
まだ三十代中ばの若い女性だった母が、僕たちのために自分の青春を犠牲にしてくれたこと、これは今の僕だからこそ、申し訳ないと思えるものでもある。

思い出さず封印してきた風景を呼び出し、ようやく僕の心は落ち着いてきた。
秋の空が楠の大木の上に広がる。
僕は今日の三宮での買い物をやめて、馴染みの立ち呑み屋に向かうことにした。
新開地駅の構内、地下にあるその店で、馴染みとは言ってもほとんど店の人と会話らしい会話をしたことのないところだったが、なぜか、雑踏の横の暖簾をくぐっただけというあの空間が好きで、時々立ち寄るのだ。

焼酎を何杯もあおり、何十年かの苦い思い出を一気に呑み込んでいく。
けれど、思い出などは酒で呑みこめるほどに薄いものではなく、酒の力は思い出にはるかに及ばない。
やがて、その反動は悪酔いとなって僕に襲い掛かる。

既に頭の中まで回り始めてから勘定を済ませ、店の暖簾を出る。
地下通路の喧騒の中、改札口へ入って階段を下り、停まっていた電車に乗り込んだ。
山陽電車の普通電車だ。

座って前を見ると、先ほど見かけた親子が同じように座っている。
子供たちは疲れたのか無言で、母親は暗い表情をしてあたりを見回している。
僕はやおら立ち上がり、その母親の前に立った。
「あの・・さきほどの・・」
母親は一瞬、怪訝な表情になったがすぐに思い出してくれたのか、すこし笑顔になった。
「さきほどはすみませんでした」
そういってきちんと頭をを下げてくれる。
先ほども思ったけれど、きちんと化粧して髪を手入れすれば年齢相応、あるいはそれ以上の美しい女性になりそうな人だ。
「いえいえ・・」
酔っている僕は自分の動きが大仰になるのに自分でもおかしく感じながら、彼女に先ほどの煙草を差し出した。
「これ、僕は吸わないのでお返しします・・」
「あら、そうでしたか・・失礼しました・・」
「煙草・・お吸いになるのですか?」
「いえ、これは主人が好きだった煙草で・・ちょうど墓参りにいくのでお供えに持っていたものです」
電車は発車した。
3000形の普通電車は、モーターの音こそあの頃の電車のように激しくはないが、それでもトンネルの轟音が車内に広がる。
「ご主人・・亡くなられたのですか?」
「ええ・・春に・・」
「すこし、お話・・よろしいですか?実は、僕もあなた方を見て思い出してしまったことがあるんです」
警戒するかと思っていたその女性は、意外にも自分の席の横をすこし空けて、僕が座るようにしてくれた。
電車は大開駅を過ぎ、高速長田駅へのトンネルをやはり轟音を車内に閉じ込めながら走っていく。

いよいよ九州新幹線が全線開業し、「さくら」「みずほ」という直通列車が新大阪と鹿児島中央を結ぶことが鉄道会社から発表されている。
「さくら」という名称とともに、ふっと思い出した若き日の焦燥や諦め、それになんとしてもと自分を鼓舞したあのころの思い出が蘇る。

昭和63年、深夜の広島駅、時刻はそう、23時半ごろだったのではないだろうか。
僕はホームに入ってきた青い車体の寝台特急の中ほどあたりで、ホームを監視している乗客専務車掌を見つけて声をかけた。
「大阪まで乗りたいのですが」
すると、車掌はすぐに「わかりました。列車が発車してからご案内しますので、中に入ってお待ちください」と慇懃に返事をくれた。

僕は幅の狭いステップつきのドアから車内に入り、開き戸を開けて2段ベッドの並んでいる客室に入る。
通路の折りたたみ式の椅子を出してそこに座って車掌を待った。

列車は軽いショックとともに走り出す。
ホームの照明がゆっくりと流れていく。
東京行きの寝台特急「さくら」が広島駅を発車する。

2段ベッドのほとんどは乗客で埋まっているようで、いずれの乗客もカーテンを引いて僅かな安息の空間を味わっているのだろうか。
ときおり、寝息がレールジョンとに混じりながら聞こえる。
列車は広島駅を出てすぐに右に左にカーブを繰り返しながら加速していく。

「お待たせしました」
声を抑え、先ほどの専務車掌が客室に入ってきた。
「5号車の12番、下のベッドにてお休みいただけますか」
車掌はそういいながら、切符を切ってくれる。
いくらだったか思い出せないが、当時の新幹線の特急料金よりは相当高かったと記憶している。
「この区画は空いておりますので、ゆっくりとお寛ぎください」
僕は「あの、大阪までなんですが・・起きる自身がなくて」と不安をそのまま車掌にぶつけた。
「畏まりました。大阪駅到着の10分前くらいに私が起こして差し上げますからご安心ください」
車掌はそう言うと、僕をその5号車に連れて行ってくれた。

列車は揺れて歩きづらい。
深夜とあって通路の補助椅子を使っている乗客は一人もなく、ベッドはどれもカーテンで仕切られた闇の世界だ。

案内されたのは4人分の2段ベッドが向かい合わせで並ぶコンパートメントだ。
ほかのベッドがカーテンで仕切られているのに、このコンパートメントではどのベッドもカーテンを開けて乗客を待っているようだった。
「こちらのベッドでお休みください」

車掌がそう指差したベッドには、きちんと糊付けで畳まれた浴衣とハンガーが置いてあった。

時折汽笛を鳴らしながら列車は快走する。
意外にカーブが多い。
車体がカーブの度にきしむ。

この列車を教えてくれたのは広島駅の駅員だった。
新幹線の最終、21時過ぎの「ウェストひかり」に乗り損ね、それでも何らかの希望はあるかもと、広島駅の窓口に向かった僕はそこの駅員にこう伝えた。
「明日の朝、早くに大阪に着きたいのです」
すると駅員はしばらく考えてから「ホテルに泊まって朝一番の新幹線に乗車するよりも、安くて早い方法がありますよ」という。
「寝台特急ですか?」
僕は鉄道ファンだし、ずっと以前には鉄道で仕事をしていたから内情はある程度はわかる。
だが、その当時、東京と九州を結ぶ寝台特急は人気が高く、寝台券など取れないという噂だった。
「大阪に明朝4時29分に到着する“さくら”という列車があります。もう、寝台券は売り切れているのですが、車掌さん手持ちのベッドが残っているかもしれません。お客様の乗車券の有効期間はまだありますので、一度、その列車の車掌さんに交渉して見られたらいかがでしょう?」
「“さくら”ですか・・」
「ええ、東京行きの寝台特急です」
「もしも、その列車に空席がなかったら・・」
「そのときは、またここでご相談ください・・駅前のホテルと朝一番の新幹線をご案内します」

新幹線の特急券はもう、時間が過ぎて無効だとのことだけれど、乗車券の有効期間は確かにまだ数日はある。

僕はダメモトで、寝台特急の車掌さんに交渉した。
そして、その交渉は成功し、僕は「さくら」に乗車できたわけだ。


浴衣に着替えるほど永い時間乗車するわけではない。
高々5時間ほどである。
僕は着替えずに、ジーンズとTシャツという着たまんまの身なりで、ベッドに横たわり、毛布を被った。

君が泣いている。
君は今さっき、泣き止んだではないか・・
泣いているのはお前か・・

そうだという・・
あんたが悪いのという・・
僕は何も悪いことはしていない・・
いえいえ、あんたが悪いという・・
僕は君に神戸の戻って欲しくていろいろ動いているじゃないか・・
動いてくれたのは感謝するわ・・でも、あんたは私を抱いた・・
あれは、君のほうから・・
男はみんなそういう・・ただ抱きたくて一生懸命になっただけ・・
違う違う・・そんなんじゃない・抱いたのは本当に君を愛しているから・・・
愛しているって、軽々しく言わないで・・
軽くない、本気なんだ・・
本気って言葉自体が軽いのよ・・

意地悪な表情で僕を攻め立てる君だけれども、実物の君はこんなに意地悪ではない。
確かに人一倍華やいで見える君だけれども、僕にはおとなしくて優しい。
だが、今の君は僕を攻め立てる。
僕は詫びるしかない。

君を抱いたのが悪かったのか?・・
違うわ・・
じゃ、何がダメなのだ・・
きついんよ・・もう、えろう、きついんよ・・

急に君は広島弁になった。
泣きながら意地悪な表情をしながら笑う。

時折、カーブで車体がきしむ音、電気機関車の加速や減速によるショックが伝わってくる。
頭のほうへ、時には足のほうへ、応力が伝わってくる。
そう、僕は寝台特急に乗っているはずなのだ。

君が泣き笑いの顔で見送ってくれた電車道。
僕は手を振りながら、もう、路面電車の営業が終わったその道路を歩いていた。
駅までは歩いてどれくらいだろうか・・
いずれにせよ、新幹線は明朝までないだろう、明日朝の仕事をどうしよう・・
それが現実だった。

もしかすると、僕が神戸へ帰らないと・・そう言ったなら君は僕ともう一夜を過ごしてくれたかもしれない。
だが、現実の仕事という興ざめのするものが目の前にある以上、僕には今夜をずっと君と過ごすということを言い出せなかったのだ。

新幹線の始発まででいいじゃないか・・
そう思う。
でも、今夜中に移動できるならそれに越したことはない。

だからこそ、僕は広島駅の駅員に相談したわけだ。

君よりも仕事を取った僕は確かに君に攻め立てられて仕方のない存在なのかもしれない。

ねえ・・
なんだ・・
次はいつくるの・・
それを言えば迎えてくれるのかい?
仕方ないじゃない・・来たいんでしょ・・
そりゃ、そうだ・・
私に会いたい?
会いたいよ・・毎日でも・・
ふふっ・・

君は悪戯っぽく笑う。
僕は体の芯まで温まるのを感じている。


「お客様、まもなく大阪です」
男性の声に我に還った。
車掌が起こしてくれたのだ。
音から察するに列車は大きな川を渡っている。
「淀川ですか?」
「今のは・・神崎川ではないでしょうか・・あと5分です」
「ありがとう」

僕は起き上がり、通路側の窓のブラインドを開けた。
ほんの僅か、暗闇ばかりの空に青みが差している。

早朝、午前4時半過ぎの大阪駅は冷たい光がホームに注ぐだけの、静かな駅だった。
今、乗車してきた寝台特急は、青く長い車体をホームにつけている。

僕はしばらくその場に佇み、やがて発車する列車を見送った。
甲高い汽笛のあと、軽いショックを経て、案内放送もなく列車はゆっぐりと動き出していく。
何両もの客車が僕の前を通り過ぎていく。
車掌が窓から敬礼の姿勢で僕を見てくれた。

客車最後尾の列車のテールマークが揺れて、遠ざかる・・

僕は改札へ降りた。
あの巨大な改札口で、一人しかいない改札係が切符を受け取ってくれた。

その足で阪急電車のターミナルへと向かう。
始発電車は5時ちょうど発車のはずだ。

大阪のビル街は少し夜明けが進んだその僅かな光の中で紫に染まっていた。
ちょうど、「パープルタウン」という唄が流行っていたその頃だ。

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