無料レンタル FC2 Blog Ranking story(小さな物語)   那覇新一 通ってきた道

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母と船と新幹線

1104明石川N700A下り

春の夕暮れ、山陽電車の別府駅で降りた我が一家は、高架の上でさらに構内踏切のある不思議な駅から沿岸工業地帯に林立する無数の煙突からの激しいばい煙を眺めながら、なんとも遠くへ来てしまったものだと、それぞれが感じていた。

いや、その中にいた母こそ、十二歳の私を筆頭にした六人の子供に、いつ倒れるかわからない、酒で身体を壊した父という組み合わせで、本来は自分が生活の拠点にしていた神戸や大阪から遠く離れてしまったこともあわせ、最も大きな不安を持っていたはずだ。

その時、宙を切り裂く轟音が聞こえ、強烈なヘッドライトが迫ってきた。

山陽新幹線の、白い車体は十六両もの車両を連結しながら、八つのパンタグラフから派手にスパークを飛ばして目の前を通過していった。
それは、これまで身近だった南海電車や大阪市営地下鉄、阪神電車・・それに今しがた長時間ゆられてきた山陽電車などの縁の深かった鉄道と明らかに違う異世界の生き物のように見えたかもしれない。

乗ってきた電車が行ってしまった別府駅のプラットフォームに佇み、呆然と新幹線を見送る母。
春の夕暮れの切ない思い出でもある。
たぶん、それまで母は新幹線には乗ったことがなかったはずだ。

ただ、父がそれからわずか半年後に亡くなり、母は自分で子供六人を育てる決心をするのだが、それは貧しくても気負う必要のない世界とて、以後はしばらく母にとって平穏な日々が続くことになる。

乗り物が好きな人で、観光バスに乗ることも喜んだが、一番、心底から好きだったのは船だった。
母の実父が船乗りで、その頃、母は満州の長春に住んでいたらしく、数か月に一度、きれいな白い制服を着て帰ってくる父親が自慢で、その父親、私にとっての実の祖父は大変な美男子で乗っていた船は大きな白い船だったそうだ。

これまでは常に、少し歩くだけで船が見えるところで生活していた母にとって、加古川は一般人が立ち入れる浜や岸壁が遠く、その港に出ても工業地帯のための貨物船ばかりで華やかな客船は見られない。

父が亡くなったのが新幹線や山陽本線に面した病院だった。
そこから、母は泣くような思いでスパークを上げて突っ走る新幹線の列車を眺めたことだろう。

住んでいたのが社宅であり、一家全員で暮らすために、加古川市内でもずっと北のほうの住宅を借りた。
海から離れ、内陸部で生活する羽目になり、自宅そばの棚田から遠くを見れば、海はいつもきらきら光って見えるが船は芥子粒ほどにしか見えず、母から船が遠ざかる。
かわりに新幹線の白い車体が時折用事の合間に見られるようになる。

山陽本線の快速電車で神戸へ向かう際、魚住辺りで山陽新幹線が走っているのを見ると、「あれに乗ってどこかに行きたいな」と独り言を言う。
実際に何度か新幹線には乗車しているはずだ・・それが楽しい思い出かどうかは別にして。

二十八年前、脳内出血の大病を患い、あと何時間生きられるかと医師に言われたが、奇跡的に三か月で退院し勤めも再開した。
この頃、まだ健在だった父方の祖母から会津の親戚宅を訪問する旅行を提案され、しかし、時期は五月の連休・・私がそのためにやっととったチケットは「急行きたぐに」の寝台車で新津へ出て、磐越西線「急行あがの」で会津へ向かうというものだった。

「あんた、自分が好きな列車を選んだやろ」
と見透かされはしたが、それはそれなりに旅を楽しんだ様子だった。
今思えば嘗ての「つばめ」「はと」にも何度も乗車したという祖母と、あまり旅慣れしない母があの五八三系電車の三段寝台でどのように過ごしたか・・考えるだけでも少しおかしい。
もちろん、帰路には東京から新幹線に乗っているはずだし、もしかしたら私がまだ一度も乗車したことのない東北新幹線にも乗ったのかもしれない。

その旅行はことのほか楽しかったらしく、つい最近までもその話をしていたほどだった。
祖母と母は妙に気が合うようで、自分の実母より義母のほうを本当の母親と思うとよく言っていた。

祖母が亡くなったのは神戸の震災の年だった。
三月、未だJR線も灘と住吉の間で途切れていて、母と妻を連れての大阪行きは、私には厳しい案内となった。
まだ肌寒い早春の、電車・バス・電車と降りては並ぶ乗り継ぎで、やっと着いた大阪ミナミの葬祭場の一室で寝ている祖母の小さな体に母はしがみついて泣いた。

葬祭場は狭隘で宿泊できず、大阪市内では震災特需のおかげで宿をとることができず、やむなく南海電車の堺駅前のビジネスホテルを使ったが、その南海電車は母にとって苦しい思い出でしかなかった泉大津へ向かう電車だ。
夜の新今宮駅、緑ではなくなった南海電車を不思議そうに見ながら、それでも和歌山市行の急行に乗るとさほど変化のない車内に「懐かしいね」と言っていた。

祖母の葬式の帰路、母を連れての過酷な阪神間の基本ルートは難しいと判断した私は、大阪天保山から神戸中突堤への臨時航路を使った。
天保山は私たち一家が六年ほど住んだ思い出の町で、その頃は我が家が経済的にも豊かで、父が元気だった。

最初は船のターミナル脇の小さな二階建てのアパート、そして文化住宅、さらに当時は珍しかったエアコン完備のマンションへと移っていった。
その天保山を懐かしく見ながら、そこから船に乗った。
いつもは神戸港の遊覧に使っていそうな船だったが、快適に、あっという間に神戸港へ着いた。
母が、いつも船を見ていた天保山から、その船に乗れたのは後にも先にもこの時だけではなかっただろうか。

脳の病気をすると腎機能なども衰えることが多いといわれる。
その通りに母は腎不全を患い、やがて透析患者となった。
すでに加古川の家を出て神戸に住んで長く、しかも一昼夜勤務の私には、時折ある病院からの呼び出しに付き合うのは苦痛でしかなく、医師の勧めもあり、私の現住地の近くで母に生活してもらうことになった。
その場所は緑に囲まれたニュータウンで、部屋の真横に大きな桜の木があり、「なんてきれいなところ」と喜んでくれたが、海は母の足には遠い。

透析の病院も転院となり、最初はそこへ送迎車で通っていたが、やがて病状の悪化とともに、入退院を繰り返すことになる。
その病院というのが私の仕事場のすぐ近く、丘に広がるニュータウンの中にあり、デイルームからは明石海峡がよく見えた。
母が入院するたびに、私は病院の夕食時刻には食事介護に行き、母をデイルームに連れて行って食事をしてもらうようになった。

ちょうどその時刻は天津への国際航路や、新居浜や高松へのフェリーが通過する頃で、母と気がすむまで船を眺めたものだ。
思えば、母が好きな船をゆっくりと眺めることができたのはこの時だけだったのかもしれない。

別の拠点病院へ検査のために行くとき、介護タクシーが明石川を渡るときだ。
ちょうどすぐ南の新幹線橋梁をN七〇〇の真っ白な車体が流れていく。
速度があまり高くなく、たぶん西明石に停車する「ひかり」だろうか。
白く長い車体を見て母が感嘆の声を上げた。
「きれいな電車!あれに乗りたい!」

だがすでにその時は歩くのはおろか、身体を支えるのも困難になっていた。
出来れば、母と一緒に新幹線か船の旅がしたかった。

そういえば、父も大変、乗り物が好きで、母いわく「三ノ宮から大阪まで、汽車の時間調べてそれに乗りよんねん。乗ったら駅弁、恥ずかしかったわ」といったことがあった。
その頃は長距離の客車列車が走っていて、父はその時刻を知っていたということなのだろう。
それに、我が家が神戸駅の近くだった時、「今夜は駅弁にしよう」と父が言って、駅へ行って駅弁を買ってきたことが何度もあった。
父と天王寺近くを歩いていた時、関西本線の蒸気機関車牽引列車が発車するところに出くわし、しばらく親子で見つめていたことだ。
私の鉄道好きは突然変異でもなんでもなく、両親から引き継いだものかもしれない。

つい数日前、母が最後は一年三ケ月の入院の末に亡くなった。
最後の三か月ほどは病室から出ることもできず、好きな船を見ることもかなわなかった。
子供六人を生み、父亡き後、女手一つで必死に私たちを育ててくれた母。
だが、乗り物を見てそれに喜ぶ少女の気持ちのままの、純粋な女性だったのだと、いま改めて感じているところだ。

母と父はあちらの世界で今頃、船か汽車、あるいは新幹線の旅をしているところだろうか。
0529サンフラワー

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可部線太田川橋梁

可部線105系3ドア白イメージ


空は青く、五月の風が囁く
鶯が鳴き、雲雀が囀る
川の流れる音、遠くで気動車の走る音
ややあって、すぐ近くの鉄橋を走る電車の音がする

電車が遠くへ去り
また川音と鳥の囀りだけの静寂
小さな風の音のようなものが聞こえる
すうぅ、すうぅ、すうぅ

河原で僕の隣で横になっているあなたの寝息だ

すうぅ、すうぅ、すうぅ
疲れているのだろうな

「どっか、静かなところで横になりたいんよ」
あなたのリクエストに応じて
僕が広島駅からわざわざあなたを連れてきたのが
この場所だ

可部線の電車が鉄橋で川を渡るこの場所
鉄道ファンである僕が何度も通って
古めかしい電車をカメラで追ったこの場所だ

電車は新しくなり、鉄道ファンの姿が消えたこの河原で
僕は今、あなたと体を横たえて午後のひと時を過ごしている

深夜勤だったと言った
それが明け方のお産で病院を出るのが遅くなり
寝る暇なく待ち合わせの広島駅に現れたあなたの目は
赤く充血していた

「映画でも行こうか」
「だめ、寝てまうわ」
「散歩・・」
「歩けんほどえらいんじゃ」
「じゃ、どうする・・」
「静かな気持ちのええとこで寝る・・」
「寝る・・」
「どっか、静かなところで横になりたいんよ」
それならばと可部線の電車に乗り、ここにやってきたというわけだ

どれほど経ったろうか
可部線電車が鉄橋を渡る音で気がついた
僕も寝入ってしまっていたようだ

あなたを見るとまだ夢の中にいるようで
無防備な寝顔が可愛い

あなたの顔に僕は自分の顔を近づける
白い肌、整った目鼻、細い髪
薄い唇は清楚で
上唇には細い傷跡のようなものがある

もっとあなたの顔に近づこう・・
「キスしたらあかんよ」
いきなり出た言葉に僕は驚くが
あなたは目を開けているとは思えず
だが、口元が笑っている

またそのまま静寂の時間
遠くの芸備線気動車列車の音が
二つの大河が合わさる山の中にこだまする

それでも、目が覚めてしまった僕は
あなたの方に体をむけ
寝ているであろうあなたを見ている
小さな胸の丘が白いブラウスに包まれ
ひとつ余分にはずしたボタンが白い肌を見せ付ける
短いスカートから無防備に伸びた白い足が寛ぐ

「きれいだ」
思わずつぶやく
またいきなりあなたの唇が動く
「襲わんといてね」
フフっと笑ったあなたは、ゆっくりと体を起こす
「ほんまにのう、男っちゅうもんは・・」
あなたは笑いながら僕のほうを見る
「いや、そんなつもりやない・・」
「うそ、今でもウチがじっとしとったら、いきなり乗っかってきたでしょ」
「いやいや・・」
「ま・・ええわ・・」
そういってあなたは立ち上がり、スカートの尻を払う
鉄橋を四角い電車が1両で渡っていく
「ええとこ、知っとるんやね・・おかげでよう寝れたわ」
あなたの目の充血は取れ、いつもの茶色い瞳が戻ってきた

雲雀が囀る
鶯が鳴く
遠くで芸備線気動車列車のエンジンとレールジョイントの音
川の流れの水音

板宿、心の疼き

板宿駅南口木造当時

昭和51年の6月頃か・・

僕は、鉄道の実習を午前で終えた土曜日、定時制高校は土曜は休みなので加古川市内の自宅で週末を過ごすために戻るのだが、その日、国鉄ではなく山陽電車を使った。

当時は電鉄高砂駅から北条街道を走る路線バスがあって、それに乗れば自宅近くのバス停に到着したからだ。

(このバス路線は現在は本数を激減して、高砂からはわずかに一日一本だけの運行となっている)

ただ、当時は板宿駅には山陽電車の特急は停車せず、各駅停車に乗って須磨で特急に乗り換える必要があった。



未だ週休二日制など知らぬ時代、土曜日の昼下がりは開放感あふれる学生やサラ―リーマンで賑わうのだが、板宿は駅近くに高等学校が多く、通学の学生たちであふれていて。商店街入り口の幅の広い踏切は、ここから北へ数十メートルだけ自動車道路も兼ねていて、いつも人や車で賑わう・・というより混雑していた。

ホーム端で駅員がメガホンを持ち、遮断機が下りても渡ろうとする人や車をどやしつけているのも日常の光景だ。

それでも、降りかけた幅広の遮断機をくぐって特に高校生たちは我勝ちに踏切を渡っていく。

この路線には山陽電車だけではなく、阪急や阪神の電車も頻繁に乗り入れるのだが、運転士はそれぞれの所属会社のまま乗り入れてきて、板宿の喧騒に派手にタイフォン(電車の警笛)を鳴らす。

踏切を渡りかけている人があっても、電車は急制動などかけず、普通の減速の仕方でホームに入るが、山陽特急だけはこの駅が通過とあって、ゆっくりながらも止まることなく駅に入り込んでくる。

電車の本数は日中の片道方向で毎時14本という多さで、これが上下それぞれに来るのだから単純に1時間当たりの本数は28本、2分に一回は電車が来る計算になる。

つまり、閉塞区間に電車が入ることを考えると、日中ですらここの踏切は、上がっているより下がって閉じられている時間のほうが長くなる・・そんなところだった。



板宿駅は北側(上り線)には立派な母屋があり、定期券の発売所や電鉄系列の「山陽そば」の店などもあったが、南側(下り線)は掘っ建て小屋一つ、自動改札機が3台だけの質素な駅舎だった。

僕はその駅舎を目指して南から歩いている。

ちょうどその時、上りの、ブルーとクリームに塗られたツートンカラーの特急電車が通過し終え踏切が開いた。



どっとこちらへ向かってくる買い物客や学生、路線バスや一般のクルマ・・

そしてその中に、紛れもない、貴女を見たのだ。

グレーのスカート、白いブラウス、当時流行の狼カットにした髪、色白で可愛い貴女を見つけたのだ。

加古川の中学校であなたに惹かれてから、ずっと会うことを念願していた。

その貴女が突然、目の前に現れた。



数人の友達と一緒に、楽しそうに話をしながら貴女が歩いてくる。

貴女の方でも僕に気が付いたようで、一瞬、僕と貴女は立ち止まって、お互いを見つめあった。

僕の顔に血が上る。

自分の頬が紅潮していくのがわかる。

貴女も頬を赤らめ、そして、次の瞬間、友達と駅の改札へ吸い込まれていく。



会いたい人に会えた。

今の僕なら、追いかけていろいろ話をして、一気に和気藹々と持って行けただろう・・

だが、当時の僕にはそれができなかった。

やってきた山陽電車2010号のステンレスカーの、貴女は2両目に、僕は3両目に乗車してしまう。

貴女は当時は四駅先の須磨まで山陽電車に乗り、須磨から国鉄の快速に乗り換えて自宅近くの宝殿まで帰っていたはずだ。

早く隣の車両に行けば、貴女と話ができる・・・

そう思ったのはもちろんだが、当時の電車の多くがそうだった・・幅広の、ドアのない貫通路が恨めしく思うほどに僕は動けなかった。

東須磨、月見山、須磨寺と過ぎ、特急に乗り換えるために降りた須磨の駅のホームでもう一度、貴女とすれ違う、。

けれど、お互い俯いたままだ。

声をかけるなど、とても出来っこない。

僕らは成す術もなくすれ違って、そして貴女は盛り土の上にある電鉄須磨駅の、下へ降りる階段を下りて行った。



貴女と初めて出会ったのは、僕ら家族が父親を失い、当時の加古川市役所の方々の好意で加古川市の山の手の方向にある市営住宅に入居した時だ。

二軒隣の住人が貴女方家族だった。

何度か貴女が歩く姿、自転車で走る姿を見て、なんと可愛い子がいるものだと・・惹かれたのだ。

いちど、僕はその市営住宅の裏手の擁壁の上から自転車ごと転落、2メートルほど下の道路でしたたかに額を打って、かなりの出血があった。

ちょうど、庭で花壇の手入れをしていた貴女のお父様が、それを見て、すぐさま自家用車を出してくれ、知り合いのいるという病院へ連れて行ってくれたことがあった。

おかげで事なきを得、貴女のご両親とは打ち解けて話ができるようになったのだけれど、貴女とはまともに話などできなかった。

(余談だがこの時の傷跡は今も僕の額にわずかに残っている)

やがて貴女方ご家族は転居され、自転車で行かねばならない4キロほど先の、僕も通う生徒数1500人というマンモス中学校近くの戸建てに移った。

もう、貴女に会えなくなったと思った時、中学三年最初のクラス替えで貴女が同じクラスになった。

しかも、最初の教室での席はあなたが僕の隣に並んでくれた。

嬉しかったが、それを顔に出すこともできず、貴女に話しかけることもできず、貴重な一年は過ぎていく



不思議に、当時の僕には何人かのガールフレンドがあり、彼女たちとはずいぶん馬鹿げた遊びもできたのだけれど、貴女は僕の中では別格の存在だった。

趣味になりかけていたカメラで、貴女の姿を撮影したこともあったけれど、それはいつもあなたの横にいる、僕にとって気安い友達に声をかけて撮影出来たものばかりで、なぜかあなたには声をかけられない。

それでも、中学時代の僕のアルバムには何枚かのあなたの写真がある。

その写真の貴女は周囲の友達の様に笑ってはおらず、何かきつい目をして僕を睨んでいるようだ。



その頃の僕にはガールフレンドもいた・・当時の僕は「ウブ」というよりは、どちらかといえば女の子の友達が多く、しかも、転校前の学校でクラスメイトだった二人の女の子と文通もしていて、そのうちの一人とは結構、頻繁に会ってもいた。

だのに、貴女にはこの体たらくなのだ。



中学を卒業し、男ばかりの国鉄の寄宿舎に入り、なんとも味気ないことになったのだけれど、文通は続いていて、その相手と山陽電車で一緒に帰ったこともあった。

でも、貴女にだけ声がかけられない状況が、やがて、文通相手どころか、自分の従妹などにも声がかけられない、深刻な女性恐怖症の状態になってしまう。

周囲はこれまで経験したことのない男ばかりの世界になってしまっていて、好きな鉄道車両は常に身近にあっても、女っ気のない味気無さは変わらない。

いや、味気ないどころか、女性に声をかけられない深刻な状況はこの後、文通相手の女の子に振られ余計に度を増す。

(この女性恐怖症が完治?したのは二十三歳のころ、国鉄部内の配置転換で鷹取に転勤し、悪友たちと三宮で遊ぶようになってからだ)



国鉄の寄宿舎にいる間、土曜日の帰宅はほとんど山陽電車を使ったのは、やはり貴女に会いたい一心からだったと今ではいえるだろう。

だが、お互いが高校生の年頃の間は、時に貴女に出会えることはあっても、やがて、その時を過ぎ、以来全く貴女の姿を見ることはなくなった。

よく遊んだ共通の友達からは貴女の噂は聞いたけれど、それも、僕が国鉄にいる間までのことだ。

国鉄を辞め、やがて神戸での写真の仕事に入った僕は、また板宿に住み着いたけれど、もちろんそこに貴女の姿はなく、それでも、あのけたたましい踏切の風情を見るたびに、グレーのスカートの貴女が友達と談笑しながら歩いてくる姿を思い浮かべたものだ。



板宿もまた阪神淡路大震災で被災し、山陽電鉄では地上部の駅を建設中の地下駅に切り替え、地上線は放棄することになった。

電車が地下に潜った板宿の風景は変貌し、もはやここを貴女が歩いてくる姿を思い浮かべるのは難しくなった。

そして僕はその街で最初の独立に失敗したのだがそれはまた後の話だ。
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昨夜というか、今朝、夢を見たんだ。
白っぽくきれいな内装の建物の中、ショッピングセンターかホテル、あるいは病院といった感じのところだ。

僕は店のカウンターに立っていて、隣にはアルバイトの女の子がいる。
この雰囲気は、僕が阪急六甲の駅ビルの中の写真店にいた時を思い出すといえば、それはまさにそうなのだが、あの写真店はこんなに白っぽくはなかった。

そこへ思いがけず、なおちゃん、君がやってきて、「これ、頼むけん、あとでくるわ」と僕に何かを渡す。
あれはあの頃のフィルムではなかろうか。
六甲の写真店はスタジオだったが、系列のDPE店への取次で現像・プリントの受け付けも行っていた。

確か、当時は君の勤めている病院のすぐ近く・・といってもあのクラシカルな大病院から強烈な坂を下りてきた阪急御影駅前なのだが、そこには同じ系列のDPE店があって、週に一度、僕はその店へ応援に行っていたし、たしか、そこでは君がフィルムを持ってきてくれたことがあるから、夢の中では六甲と御影が同じ店になっているのかもしれない。
現実の君は、証明写真の撮影や仕上がりの受け取り、僕の仕事終わりを待ってくれるときには六甲の店にも顔を出してくれていたから、雰囲気的には六甲のスタジオだろうか。
・・いや、あの白っぽい雰囲気は、その後に僕が勤めた大阪のホテルに似ていたような気もする。

なおちゃん、夢の中で僕は君に「なおちゃん、いつもありがとう」と言ったと思う。
すると君はちょっときつい目をして、「気安く名前で呼ばんでくれる」と広島弁のイントネーションで僕をたしなめる。
横にいるアルバイトの女の子が気に障ったのだろうか。
僕は「あ、ごめんなさい、吉川さん、ありがとうございます」と君の名字を言い直す。

君は「後で来るけん、頼んだよ」と事務的な表情で念を押す。
なぜか、このシチュエーションは僕らが若いころの一シーンに近いのだけれど、僕は今の風貌だし、君は、小顔の美人はそのままに、今の年齢、五十歳台にふさわしい小皺と、髪には白髪が混じっていた。
もっとも当時の君は、僕のいる店で不機嫌に、きつく僕をたしなめるなんてことは全くなかったはずだ。

僕は、店を出る君を見ながら「なおちゃん、白髪、染めたらいいのに」と呟いたところで目が覚めた。

なおちゃん、情けないことに、いまだに僕が君のことを丸一日、忘れていられる日はそう多くないが、ここ数週間はそういえばほとんど君の事を思い出さなかった。
このまま、君と別れて二十六年の歳月が経ったいまだからこそ、ようやく僕の心の奥に居ついていた君の記憶が少し薄れる可能性があったそういう時に、この夢を見たのは何としても不思議なことだ。

目覚めたときは心がポカポカと暖かく、僕の眼には涙もたまっていた。
そして、この切なさは今日一日の僕を苦しめた。

僕が君と、いや、僕たちが君たちと出会ったのは、僕がまだ国鉄にいたころだ。
あの頃多かった大型の居酒屋、そこにはカラオケのお立ち台があって、お立ち台では音響はもちろん、照明も凝っていて、スター気取りで歌えるという店だった。
料理や酒を頼みながら、一曲か二曲、自分の自慢を披露するのが楽しみとされたころだ。
カラオケは今のように手元で操作する端末などなく、分厚い本の中から、自分の歌いたい曲の番号を探し出してそれを申し込みの用紙に書いて、店のウェイターに渡す・・
店の客は何十人もあるから、カラオケの順番まではかなり待ち時間があるが、自分の番になるとウェイターが知らせに来てくれる・・そういう店で「僕たち」は「君たち」と出会った。

僕たちのグループと君たちのグループの間には鉢植えの仕切りがあって、でも、それはあえて相手を遮らないように作られていて、隣の席との会話も可能だった。
僕たちは同期の国鉄マンばかり4人ほどか・・君たちも同じようにあの病院のナースばかり4人だった

最初に僕たちの仲間の神木君が、なおちゃん、君に声をかけてそこから始まった物語。
まだ、女の子と真っ当な会話ができなかった初心な僕は、君たちのグループのなかで一番大人しそうに見えていた「やっちゃん」と、「なんだか、みんなすごいよね・・とてもついていけない」なんて話をぼそぼそとしていた。

だのに、そのとき、一番君と話し込んでいた神木君はなぜか「やっちゃん」へと、僕と、別の友人友田君が君の横でいかにも大人の女性に見えた「みっちゃん」に向かったものだから不思議だ。
「誰も、うちのほうを向いてくれん」
君はそう思ったのかもしれないけれど、美人で頭の切れが良い君は、僕らにとっては高根の花に見えたのだろうか。
(全く余談だが、このとき、そこにいたもう一人、大山君はその後、僕の妹と結婚している)

結局、神木君はやっちゃんと結婚寸前まで行き破たん・・彼女から一方的に彼を切り捨てたことで、大人しく見えたやっちゃんの意外な一面に驚いたし、やっちゃんに捨てられた?神木君はのちに思い切って専門学校へ通い医療系へ転職、そこで出会った別の「やっちゃん」と結婚するという結末が付いた。

友田君と僕が自分の売込みに必死になった「みっちゃん」は、僕ら二人ともを見事に振ってくれたけれど、詳しく思い出せない紆余曲折があり、その後、しばらくは僕にとって「みっちゃん」が相談相手みたいになったのだからこれまた不思議だ。
(これまた余談だが、友田君はこの直後にやはりナースの女性と結婚している)

なおちゃんの横にいた「まきちゃん」も可愛く楽しい女性で、僕はこの後、しばらく彼女と何度かデートもすることになる。

だから・・僕にとって、なおちゃん、君は決して恋愛の相手ではなかったはずなのだ。
それが、あるとき、ふっと誘ったドライブのあと、須磨の海岸沿いのレストランへの入り口で、海からの陽光が君に降り注ぎ、一瞬、ドキリとなったことがあった。

それまでは僕にとって、「みっちゃん」にブッシュしたことを除けば、君たちはいずれも不思議な出会いによって得た大事な友達であり、将来をどうするとか考えたり、あるいは男女の仲になることを想像できたりする相手ではなかった。
それがその時から、なおちゃん、君は僕の片思いの相手となった。

このあと、僕と神木君は国鉄を退職して、彼は医療へ、僕は写真の世界へと道を替えることになるのだが、僕と彼女たちの縁はその後も続いた。

なぜに僕だけが彼女たちの友人となりえたのか、今もよくはわからないのだけれど、実のところ、三十年近くが経過した今も年賀状だけのお付き合いとはいえ、「やっちゃん」や、この後仲間に加わり、さらにその後、夫婦となった堀尾君と「ゆきちゃん」を通じて彼女たちとの縁が続いているのもこれも不思議なことだ。

思えば僕たち国鉄の同期生が二十三~四歳、君たちナースの卵たちが二十歳になったばかり、出会いといえばこれほどの出会いを用意してくれた天に、僕は今も深く感謝をしている。

さて、話が逸れた。
第一印象とは異なり、話をしてみると、なおちゃん、君の深い人間性、若くして苦労を重ねたその強さ、意外に感情的に脆い部分もありそこがまた可愛く見えることなど、僕はすっかり君の虜になった。

君には当時、付き合っていた男性があるようだったが、あるとき、どういういきさつか、君とその男性の縁が切れた。
君に言わせれば、その男性は「俺は男として、やはり家庭を持つことを捨てられない」と言ったそうだ。

そう、なおちゃん、君は結婚などを考えていない・・女性だった。
幼少期の苦労がそうさせたのか、それもも生来の開放的な性格によるものか、そこは僕ではわからない。

ただ、僕からの一方的な片思いとはいえ、君は僕の誘いにはよく乗ってくれた。
駆け出しカメラマンだった僕の要望に、喜んでモデルもしてくれたり、呑もうといえば一緒に呑んでくれたし、ドライブの助手席にも座ってくれた。
いつも屈託なく笑う君の表情はとてもきれいで、僕の気持ちはどんどんのめりこんでいく。

そんな時に、君はとんでもないことを僕や仲間の前で宣言する。
「広島へ帰る」という。
「田舎に帰って牧場を手伝うの?」
君の実家は比婆郡で牧場を経営していると聞いたことがあった。
「うううん、広島市内で尊敬する産科医の先生のところで仕事をしたいんじゃ」
「それは、広島へ帰るのではなく、広島市へ行くということやん・・」
「でも、神戸と違うて、言葉も広島弁じゃけ、私のまんまで居られそうな気、するし」
「その尊敬する先生の所へ行ける確証はあるの?」
「もう、連絡はとっとるんよ、いつでも来りゃあええがって・・」

僕は焦った。
なおちゃん、君が僕の前からいなくなる・・遠ざかっていく・・それは僕にとってはこの世の終わりともいえることだった。
ただ、僕は国鉄をやめたとはいえ、鉄道ファンであることは自認していた。
君が広島へ行ってなら行ったで、そこへ行く道は・・例えばお金のない時でも新幹線を使わず、鈍行や高速バスを乗り継ぐといった方法は熟知していたから広島へ行くのは苦ではない。
それに広島へ行けば、大好きな路面電車も見ることができる・・というか、路面電車を見に行くついでに君にも会うという口実にできた。

僕がとった行動は、君のいる広島に月に一~二度は通い続けるというものだった。
でも、それが僕の純粋な恋愛感情からだけなら、案外、ことはうまく運んだかもしれない。
君ははるばる神戸から訪ねていく僕を歓迎してくれたし、広島や宮島、岩国を君と二人で歩くのはとても楽しいものだった。

それをぶっ壊したのは僕自身だ。
浅はかな思想信条とやらに傾倒し、君との楽しい時間を第一義に考えられなくなっていった。
僕にとっては、将来を一緒に過ごしたい君との間だからこそ、その部分で共有したい思いというものがあったのだけれど、若気の至りとはこのことか、教条的なものに目を奪われ、君という大切な人との関係を優先できない浅はかさ・・

今思えば、思想というものと、人の感情をきちんと立て分けて考えられない己の幼稚さがゆえのこと、そしてその思想も今見れば、なんと自分勝手であやふやなものであったことか。

結局、広島での楽しい時間は短く、会えば君が泣くといった事態を繰り返してしまう。
それでも、君は僕が行くと会ってくれたし、見た目には恋人に見えないこともない関係にもなれたのではないだろうか。
繰り返しになるが、ぶっ壊したのは僕自身だ。

二人の関係はともかく、君は広島では著名な医師の元で、かなり頑張っていたようだ。
神戸の病院でも、優秀な産科ナースと言われていた君が、広島の専門病院で頭角を現すのに時間はかからなかったに違いない。
あるとき、「日経ウィメン」という雑誌がその病院の件の医師を特集した。

表紙には、美しく頭の切れそうな女医とともに、やはり美しく、賢そうな君がナースの白衣を着て写っていた。

だが、僕のこと以外で君が泣く日が来るのに時間はかからなかった。
「神戸に帰りたい」
何気なく、いつもの通りに電話をした僕は驚いて、なんとか、君が神戸に帰ってこられるようになればと思った。

病院で何があったかは僕にはわからない。
友人がたくさんいる神戸と、仕事で会う人ばかりの広島では寂しさを受け流す場所がないというのもあるかもしれない。
結局、元いた神戸の病院と広島の病院の話し合いだか何だかで君が神戸に帰ることになった。

ただ、そのころ、僕は自分の母が脳内出血で倒れて加古川市内の病院の集中治療室にいて二十四時間の付き添いが必要な状態となり、とても広島へ行く時間も君に連絡を取る時間もなくなっていた。
いや、神戸での写真の仕事ですら、何か月も休まざるを得なくなっていた。

母の病状がようやく快方に向かい、安心感から君に公衆電話をかけたとき、「お母さんのこと、よかったね・・んで、あのね、もうひとつ、ええこと、あるんじゃ、うち、神戸に帰るんじゃ」
やった!と思ったものだ。
「でも、あなたのことだけで帰るんやないからね、勘違いせんといてよ」
僕にしてみれば「あなたのことだけで帰るんやない」というのは、僕のためにという意味も多少は入っているということだという風に受け取った。

母の病状が安定し、二十四時間の付き添いが要らなくなり、そして君が帰ってくる情報・・その電話は秋の終わりごろだったと思うが、一気に春が来た気がしたものだ。

翌年、君が神戸に帰ってきてくれた。
君がアパートを選んだ場所は阪神御影駅のすぐ近く。
当時、僕が住んでいた板宿から、一本の電車で君のところに行けると喜んだけれど、会おうといってもいつもはかばかしくない返事しかくれない。
そして、君の誕生日に、連絡を入れずに君のアパートに行った僕は、玄関先で君の女としてのたくましい生きざまを見せられることになる。

いまも、夢に出てくる君が可愛く笑っている表情ではなく、ちょっと怒ったり、あるいは泣いたりしている表情なのは、あの、広島での僕自身の大失態のゆえなのかもしれない。
僕は今も、あの時の僕を責め続けているのかもしれない。

だから、ほかのこととは違って君のことが今も僕の心に住み着いたままになっているのかもしれない。
いや、それこそ、失礼な話じゃわ。

きちんと言おう、僕は今も君のことが好きであり、それが当時と何ら変わっていないということ、そして僕は今も君の姿を追い求めているということ、忘れようとした頃にそのことを、僕の深層心理が警告を発してくれたようにも感じるし、僕を君たちに出会わせてくれた天が僕に教えてくれたのかもしれない。

でもね・・なおちゃん、あかんよね・・いつまでも過去を引きずるの・・
「そがいにやねこいこと、言わんでよ」って声が神戸の東の方から聞こえてきそう。

お義父(とう)さん

部屋の広さは二十畳くらいだろうか
狭くはない部屋に蛍光灯の明かりが満たされる
座卓のふたつ、
その上には誰かがコンビニで買ってきた弁当や総菜、缶発泡酒

それらもすでにあらかた食べつくされ呑み尽され
僕は寝転がって天井を見る

二重窓の向こうから「ムーンムーンムーン」と聞こえる
ああ、今通過したのは短かったし速かったから
「さくら」か「みずほ」だろう
あの音が同じ速さで長かったら
「のぞみ」なのだ
あの音がやや遅くて短かったら「こだま」
やはり遅くて長く続いたら「ひかり」

僕は自分用に置いてもらった布団の上で身体を少し横に向ける
布団に入って横たわるのは
ついこの間までご機嫌に野球評論をしていた
義父(ちち)だ

お義父(とう)さん、僕はおとうさんの仕事の跡を継いで
タクシードライバーになっているけれど
なかなか、時代が難しいです
なかなか、おとうさんのようには稼げませんよ

義父(ちち)は何も言わず気持ちよさそうに寝ている
寝息が聞こえそうだが寝息があるはずもなく、義父が寝ている

また「ムーンムーンムーン」が聞こえる
こんどのは速くて長いから「のぞみ」だろうか

部屋の斜め上のほうから僕を見ているお義父(とう)さん
なんだか、あなたが悪戯でもして楽しんでいるかのような
この葬祭会場の決まり方
本当は安くて小さな葬儀ができる会場を探していたのに
なぜか話が進むと、お義父(とう)さんの自宅に一番近くて
一番新しくて立派で
なぜか鉄道ファンの僕が退屈しないような新幹線の線路のすぐわきの
JA(のうきょう)が運営しているこの会場に決まったのですけれど
案外ここが安くてサービスがいいと僕らも初めて知ったのです
それに
僕が一人であなたと三日を過ごす羽目になることも
多分、あなたは僕と呑み交わしたいのでしょうね
お正月などはよく二人でどちらかが潰れるまで呑んだものですね
まぁ僕はリラックスしていますよ
おとうさんと寝ていても怖くはなく
むしろ、今は自由の身になったお父さんに見つめられることを
喜んでいるくらいですから
おとうさん、でもね、でもです
いくら呑んでも酔わないんです
もう、発泡酒ロング缶五本と
焼酎の小ペットボトル五本をあけているんですけど
酔えなくて眠れないんです

義父(ちち)は「三日くらいはワシに付き合えよ」
そう言っているように思う
でも、義父(ちち)はずっと布団の中なんだ


(神戸市西区、山陽新幹線わきの葬祭会場にて)

銀河詩手帖267号掲載作品

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