無料レンタル FC2 Blog Ranking story(小さな物語)   那覇新一 通ってきた道
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kou1960

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天保山渡船

人生とは挫折の連続である。
自分の人生で一度も挫折を経験したような人はおそらくいないか、いたとしたらその人はよほどの幸運に恵まれているのだろうとは思う。
かくいう僕の来し方も挫折の連続であったことは間違いがない。

最初に断っておくが、この一文は自分が過去に挫折するに至ったその際のきっかけになったであろう人たちを否定するものではなく、あくまでも自分の歴史として淡々と振り返り、これから老境に至る自分への戒めとするものである。

僕は神戸・湊川で長男として生まれ、最初は貧しくとも世の中全てが貧しかった時代、それを特に気にすることなく幼少期を過ごしていたのだけれど、我が家では次々に子供が生まれ、生活が苦しくなるにつれて父は酒におぼれ、身体を壊していく。

定職に就くこともできず、同じ仕事を2年以上は勤めることのできなくなった父は家族を引き連れ、まるで彷徨うかのように大阪・兵庫を転々とする・・
そしてある頃からいろんなものが狂い始めた。
神戸湊川、神戸東川崎、大阪天保山、大阪朝潮橋、また天保山、そして泉大津・・転々としながら、兄弟姉妹は六人になっていた。
(ほかに死産も二人あった)

******

最初の挫折は自分の記憶にある限り、中学校への入学だろうか。
昭和四十八年、泉大津市に居たわけで、小学校を卒業すると、必然的に泉大津市立中学校への入学である。
ところが、父母は僕が中学に入るための用意を一切しない。

それはすでに、我が家が海岸近くの社宅から退出することが決まっていて、父母ともにこの街にはいたくないと考えていたからだった。
春には新しい街で、中学校に入学する・・

だが、三月になっても、父の次の仕事は決まらず社宅の退出期限が迫る。
ここに至って父母は僕と弟を遠く、会津若松の親戚に預けるという手段に出た。

電車が好きで、それゆえ、祖母に連れられての会津への道中も楽しいものだったし、会津の親戚は滞在中はずっと歓待してくれた。
けれど、その間に中学校の入学のための説明会も、そして制服や教材の購入日も過ぎていく。
結局、父が僕たち兄弟を呼び戻したのは、新学期も始まって2週間ほどたってからだった。
帰路は親戚に東京駅まで送ってもらい、そこからは小学生の弟と二人で大阪に戻る。

会津若松から泉大津に帰ってすぐに、トラックに同乗して先に出発した父以外の、母と僕たち兄弟姉妹は、これが家族と乗る最後となるだろう南海電車と、大阪市営地下鉄と阪神電車と、そしてこれからお世話になり続けるだろう山陽電車を乗り継いで加古川の別府へ着いたというわけだ。

泉大津の中学校から転校という形ではあったが、僕は一度もその中学には行ったことがなく、中学生活は加古川市の閑静な松林の中の、ただっ広い学校から始まったがその時はすでに授業は三週間ほど先へ進んでいた。
つまり僕は小学校卒業→中学校入学というプロセスにおいて挫折したことになる。
結果的には播州加古川の明るく屈託のない地域性が、自分にとって大きな宝となったわけであり、そこで得た生涯の友人たちは今も大きな宝になっている。

ただ、影響は残った。
三週間の学習の遅れは、先に教科書を用意することもできなかったことから、そのまま学業成績の不調となってしばらく苦しんだ。

*****

父は、新天地での仕事もむなしく、それから半年ほどで亡くなり、我が兄弟姉妹は分裂の危機になった。
いくらなんでも母の手一つで六人の子供は育てられない・・
親戚たちがそういう意見に纏まるのは当然だった。

けれど、母は頑として子供たちを手放さなかった。
行政に相談し、生活保護の手続きを進め、加古川市の山の手にある借家へ移り住んだ。
僕も半年だけ通った中学校から、加古川市と高砂市の境界上にある中学への転校も余儀なくされた。
加古川市は海岸近くと山の手では大きく気風の異なる面がある。
山の手の神吉あたりは、海岸沿いの別府あたりよりも、さらに人は明るく、人懐っこく、そしてよそ者にも全く昔からの住民と同じように接してくれるという、田舎にはあり勝ちな排他的な空気の全くないところだった。

ここの気質は自分には本当に合い、転校した学校ではさらに良い友人たちに出会たこと、これもまた自分にはかけがえのない宝である。

これで当面は良かったのだが、僕の進路を決める際に、このことが大きな足かせとなった。

中学三年、僕は自分の進路を「教育」の道へ進むと、これは小学生時代から決めていたのだが、そこで大きな問題が生じた。
入学遅れによる成績不振はこの頃にはずいぶんと改善し、進学校である公立高校への入学は全く問題がないレベルになっていた。

ところが・・我が家が生活保護を受けていたことがここにきて大きな障害となってしまった。
加古川市の担当者は「君が高校に進学することは素晴らしいことでぜひ頑張ってもらいたい、だが、君が十六歳になったその日で生活保護費の支給が、君の分だけ打ち切られるというのも現実だ」と伝えてくれた。
高校に行ったら、その分、家族が苦しむわけだ。

そこで母は僕を、父がその下請けで勤めていた製鋼所の養成工にすることを決めた。
養成工なら定時制高校にも会社が通わせてくれるというものだ。
これは僕にとっては寝耳に水で、中学の教師が他の就職先の資料も持って来てくれてはいたが、自分としては納得できない。
「進学できる高校に行きたいと」いう願いはむなしく、大人の事情で取り消さざるを得ない。

ここに至って、どうにもならない事情に中学三年の僕は苦しんだ。

この当時、虫歯が多かった僕は、歯の治療に、市から紹介された歯科医院へ通っていた。
あるとき、いつものように治療の継続のために予約してあった歯科医院を訪れ、窓口で母子家庭の保険証を見せた。
とたん、受付の女性は奥に入り、いつもの歯科医が出てきた。
「うちはもう、これは扱わないので帰ってください」という。
歯のいくつかは削ったままで、この先の治療は必要な状況でだ。
「あの、では、どこの歯医者さんへ行けばいいんですか?」
突然言われたことで混乱しながらも、やっとそれは問えた。
「うちは知りません、もう関係ないですから」
歯科医のあの傲慢な姿を思い出すたび、今も虫唾が走る。

自転車で仕方なく家に帰る道、頭の中が混乱していたんだろう、前をよく見なかった。
気が付けば自分は水の中にいた。
道路わきの水路に自転車もろとも飛び込んだのだ。
幸い、田圃のある所だから水路の水はきれいで、底にヘドロもたまっていなかった。
ずぶぬれになって家に帰り、母に顛末を説明すると、母も悔しそうに口を結んだまま、何も言わなかった。
歯科での治療は、今の場所に住む限り、クルマでもないと通えないところばかりで、あきらめざるを得ない。
(僕が国鉄に入社し、その自前の保険証でようやく、国鉄寮の近くにあった板宿の親切な歯科医と出会ったのは翌年の話だ。)

そして、進路については僕は二の手を打つことにした。
大学への進学校に行けないなら、自分の好きなことにチャレンジするというものだ。
加古川市の担当者から「国鉄も養成工をしていたはずだ」とアドバイスをもらった。
担任の教師に相談し、国鉄の募集要項を取り寄せてもらった。
母に黙って入試の申し込みをし、家に来た入試のための葉書も母に見せない。

そして、国鉄の試験を、自転車で八キロ先にある工場まで受けに行った。

結果は見事合格、3倍の難関を突破して、家に合格通知が来た。
「これ・・なに?」
母は不思議がって僕に尋ねる。
「ああ・・国鉄に行くねん、製鋼所にはいかへん」
悔しがるかと思った母は素直に喜んでくれた。
「あんた、そんな話を進めてたんか・・」そうしみじみ呟いた。

だが、それでも進学できない辛さは僕を苦しめる。
この頃から僕は、一番行きたい道がだめなら、その次に行きたい道を歩くことを覚えたのかもしれない。

この時、希望する高校への進学に挫折し、ついでに歯の治療にも挫折した。

だが、国鉄でのほかに代えられない体験ができ、さらに多くの親友に恵まれ、それは今に至るもとてつもない大きな宝だ。
僕は今も国鉄を悪しざまに言う言葉に強い反感を覚えるのは、この時の国鉄への深い感謝があるからだ。

だが、治療を放置せざるを得なかった歯は、間違いなく悪化した。

ここから先はまた機会があれば書きたいと思う。
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阪急御影


阪急7006御影

マルーン色の電車が山々や邸宅、公園などの緑の中を行く阪急御影駅
その風情は今も変わることはないが
駅北には立派なロータリーがあり
駅南には再開発ビルが並ぶ

この話は今からおよそ三十年も前のことになるだろうか

その頃のこの駅は郊外の住宅地への入り口
あるいは六甲連山への登山口といった風情で
駅前からのバス路線は駅にロータリーがないものだから
駅すぐ東のガードを潜り抜けた先
深田池のほとりに小さなバス停が拵えてあり
すぐ傍の山の中腹の
大声を出せば声がそこまで届きそうな距離にあるあの病院まで
殆どの人が十九系統の市バスに乗っていた

バスは小さなバス停を出ると
いきなり急カーブと急勾配という厳しい道を
まるで何処かの山の上の観光地へ向かうかのように
エンジンの音を低く篭もらせながら低速で登っていく

もし、この病院までの道のりを歩く場合は
深田池の反対側のほとりから
目の先の道が壁に見えるような石畳の激しい斜めの道を
高級住宅街の中から六甲や反対側の海が見える景色を愉しむ余裕もなく
殆ど登山者のように黙々と歩くしかなかった

僕はいつも坂を登るときはこの路線バスを使い
病院の前のバス停で首を長くして君を待ち続けて
やがて君が病院の職員出入り口から
息を切らせて走ってくるのを
見つけるその瞬間が好きだった
バス停は病院より少し高い場所にあり
そして今日も
君はバス停への階段を小走りに駆け上がってくる

「すまんねぇ・・待ったんじゃろ」
「いや、今、来たとこやねん」
「急に仕事が入ってしもうて」
「仕事は分かっとるし」
「わやじゃ・・・」
そういって君は笑う
何十分待とうが、最初の会話はいつも同じだったし
君が時間通りに現れたことはなかったのではないかと思う

慌てたり、気持ちが昂ったりすると広島弁丸出しで喋る君は
小柄で痩せぎすの体型とともに可愛く見えてしまう
もしかしたら僕は
この階段を上がってくる君を見て
だんだん君に惹かれていったのかもしれない

「バスに乗らんで歩こうよ」
汗を拭き
病院の建物脇から見える
神戸の街や海の方を眺めながら君がそう言う
君は歩きだし、僕はずっと背の低い君の後を追う

なんだか今日の君は苛ついて見える
女性ばかりの一族の中で育った僕には
女性の苛ついた表情が怖い
それは本能的なものだ
「あの・・なおちゃん・・何か怒ってる?」
ふっと、君は振り向いた
「ん?怒っちょらいませんけど」
不思議そうに僕を見る。
可愛いいつもの笑顔だ。
「うち、怒っちょるように見えた?」
「うん、なんでか・・」
君は歩くのを止めて、海の方を見たまま立ち止まった
「不思議じゃのぅ、そがぁなふうに見えるん」
「やっぱり、怒っとったんかいな・・」
「ぷちじゃけどね・・」
「職場で何かあったとか‥」
「済んだことじゃ、もうええがの・・すまんわね、気にさして悪かったね」
一瞬僕を見つめて、そういったかと思うと君は坂道を早歩きで下りだした
「はよ行こうよ、今日は三宮で行きたゅお店があるんよ」

高級住宅街の急な坂道。
君はさっさと肩で風を切って歩いていく
僕は必死で後を追う
邸宅や街路、小さな公園、あるいは里山のままの空き地
それらの初夏の緑の向こうに
マルーン色の阪急電車が見えてきた

君は薄いスカートをひらひらさせながら
まるでスキップを踏むかのように坂を下りていく
僕は自分よりずっと背の低い君の脚力に感心しながら
そういえばこの娘は
広島は広島でも
備北の農家の育ちだったなと改めて思う
ファーン・・電車の警笛が後ろの山にこだまする
青空の彼方では雲雀が囀る

こうして二人で並んで歩くのがとても幸せに感じ
君を抱きたいなどとは、とても思えなかったあの頃ではある

母と船と新幹線

1104明石川N700A下り

春の夕暮れ、山陽電車の別府駅で降りた我が一家は、高架の上でさらに構内踏切のある不思議な駅から沿岸工業地帯に林立する無数の煙突からの激しいばい煙を眺めながら、なんとも遠くへ来てしまったものだと、それぞれが感じていた。

いや、その中にいた母こそ、十二歳の私を筆頭にした六人の子供に、いつ倒れるかわからない、酒で身体を壊した父という組み合わせで、本来は自分が生活の拠点にしていた神戸や大阪から遠く離れてしまったこともあわせ、最も大きな不安を持っていたはずだ。

その時、宙を切り裂く轟音が聞こえ、強烈なヘッドライトが迫ってきた。

山陽新幹線の、白い車体は十六両もの車両を連結しながら、八つのパンタグラフから派手にスパークを飛ばして目の前を通過していった。
それは、これまで身近だった南海電車や大阪市営地下鉄、阪神電車・・それに今しがた長時間ゆられてきた山陽電車などの縁の深かった鉄道と明らかに違う異世界の生き物のように見えたかもしれない。

乗ってきた電車が行ってしまった別府駅のプラットフォームに佇み、呆然と新幹線を見送る母。
春の夕暮れの切ない思い出でもある。
たぶん、それまで母は新幹線には乗ったことがなかったはずだ。

ただ、父がそれからわずか半年後に亡くなり、母は自分で子供六人を育てる決心をするのだが、それは貧しくても気負う必要のない世界とて、以後はしばらく母にとって平穏な日々が続くことになる。

乗り物が好きな人で、観光バスに乗ることも喜んだが、一番、心底から好きだったのは船だった。
母の実父が船乗りで、その頃、母は満州の長春に住んでいたらしく、数か月に一度、きれいな白い制服を着て帰ってくる父親が自慢で、その父親、私にとっての実の祖父は大変な美男子で乗っていた船は大きな白い船だったそうだ。

これまでは常に、少し歩くだけで船が見えるところで生活していた母にとって、加古川は一般人が立ち入れる浜や岸壁が遠く、その港に出ても工業地帯のための貨物船ばかりで華やかな客船は見られない。

父が亡くなったのが新幹線や山陽本線に面した病院だった。
そこから、母は泣くような思いでスパークを上げて突っ走る新幹線の列車を眺めたことだろう。

住んでいたのが社宅であり、一家全員で暮らすために、加古川市内でもずっと北のほうの住宅を借りた。
海から離れ、内陸部で生活する羽目になり、自宅そばの棚田から遠くを見れば、海はいつもきらきら光って見えるが船は芥子粒ほどにしか見えず、母から船が遠ざかる。
かわりに新幹線の白い車体が時折用事の合間に見られるようになる。

山陽本線の快速電車で神戸へ向かう際、魚住辺りで山陽新幹線が走っているのを見ると、「あれに乗ってどこかに行きたいな」と独り言を言う。
実際に何度か新幹線には乗車しているはずだ・・それが楽しい思い出かどうかは別にして。

二十八年前、脳内出血の大病を患い、あと何時間生きられるかと医師に言われたが、奇跡的に三か月で退院し勤めも再開した。
この頃、まだ健在だった父方の祖母から会津の親戚宅を訪問する旅行を提案され、しかし、時期は五月の連休・・私がそのためにやっととったチケットは「急行きたぐに」の寝台車で新津へ出て、磐越西線「急行あがの」で会津へ向かうというものだった。

「あんた、自分が好きな列車を選んだやろ」
と見透かされはしたが、それはそれなりに旅を楽しんだ様子だった。
今思えば嘗ての「つばめ」「はと」にも何度も乗車したという祖母と、あまり旅慣れしない母があの五八三系電車の三段寝台でどのように過ごしたか・・考えるだけでも少しおかしい。
もちろん、帰路には東京から新幹線に乗っているはずだし、もしかしたら私がまだ一度も乗車したことのない東北新幹線にも乗ったのかもしれない。

その旅行はことのほか楽しかったらしく、つい最近までもその話をしていたほどだった。
祖母と母は妙に気が合うようで、自分の実母より義母のほうを本当の母親と思うとよく言っていた。

祖母が亡くなったのは神戸の震災の年だった。
三月、未だJR線も灘と住吉の間で途切れていて、母と妻を連れての大阪行きは、私には厳しい案内となった。
まだ肌寒い早春の、電車・バス・電車と降りては並ぶ乗り継ぎで、やっと着いた大阪ミナミの葬祭場の一室で寝ている祖母の小さな体に母はしがみついて泣いた。

葬祭場は狭隘で宿泊できず、大阪市内では震災特需のおかげで宿をとることができず、やむなく南海電車の堺駅前のビジネスホテルを使ったが、その南海電車は母にとって苦しい思い出でしかなかった泉大津へ向かう電車だ。
夜の新今宮駅、緑ではなくなった南海電車を不思議そうに見ながら、それでも和歌山市行の急行に乗るとさほど変化のない車内に「懐かしいね」と言っていた。

祖母の葬式の帰路、母を連れての過酷な阪神間の基本ルートは難しいと判断した私は、大阪天保山から神戸中突堤への臨時航路を使った。
天保山は私たち一家が六年ほど住んだ思い出の町で、その頃は我が家が経済的にも豊かで、父が元気だった。

最初は船のターミナル脇の小さな二階建てのアパート、そして文化住宅、さらに当時は珍しかったエアコン完備のマンションへと移っていった。
その天保山を懐かしく見ながら、そこから船に乗った。
いつもは神戸港の遊覧に使っていそうな船だったが、快適に、あっという間に神戸港へ着いた。
母が、いつも船を見ていた天保山から、その船に乗れたのは後にも先にもこの時だけではなかっただろうか。

脳の病気をすると腎機能なども衰えることが多いといわれる。
その通りに母は腎不全を患い、やがて透析患者となった。
すでに加古川の家を出て神戸に住んで長く、しかも一昼夜勤務の私には、時折ある病院からの呼び出しに付き合うのは苦痛でしかなく、医師の勧めもあり、私の現住地の近くで母に生活してもらうことになった。
その場所は緑に囲まれたニュータウンで、部屋の真横に大きな桜の木があり、「なんてきれいなところ」と喜んでくれたが、海は母の足には遠い。

透析の病院も転院となり、最初はそこへ送迎車で通っていたが、やがて病状の悪化とともに、入退院を繰り返すことになる。
その病院というのが私の仕事場のすぐ近く、丘に広がるニュータウンの中にあり、デイルームからは明石海峡がよく見えた。
母が入院するたびに、私は病院の夕食時刻には食事介護に行き、母をデイルームに連れて行って食事をしてもらうようになった。

ちょうどその時刻は天津への国際航路や、新居浜や高松へのフェリーが通過する頃で、母と気がすむまで船を眺めたものだ。
思えば、母が好きな船をゆっくりと眺めることができたのはこの時だけだったのかもしれない。

別の拠点病院へ検査のために行くとき、介護タクシーが明石川を渡るときだ。
ちょうどすぐ南の新幹線橋梁をN七〇〇の真っ白な車体が流れていく。
速度があまり高くなく、たぶん西明石に停車する「ひかり」だろうか。
白く長い車体を見て母が感嘆の声を上げた。
「きれいな電車!あれに乗りたい!」

だがすでにその時は歩くのはおろか、身体を支えるのも困難になっていた。
出来れば、母と一緒に新幹線か船の旅がしたかった。

そういえば、父も大変、乗り物が好きで、母いわく「三ノ宮から大阪まで、汽車の時間調べてそれに乗りよんねん。乗ったら駅弁、恥ずかしかったわ」といったことがあった。
その頃は長距離の客車列車が走っていて、父はその時刻を知っていたということなのだろう。
それに、我が家が神戸駅の近くだった時、「今夜は駅弁にしよう」と父が言って、駅へ行って駅弁を買ってきたことが何度もあった。
父と天王寺近くを歩いていた時、関西本線の蒸気機関車牽引列車が発車するところに出くわし、しばらく親子で見つめていたことだ。
私の鉄道好きは突然変異でもなんでもなく、両親から引き継いだものかもしれない。

つい数日前、母が最後は一年三ケ月の入院の末に亡くなった。
最後の三か月ほどは病室から出ることもできず、好きな船を見ることもかなわなかった。
子供六人を生み、父亡き後、女手一つで必死に私たちを育ててくれた母。
だが、乗り物を見てそれに喜ぶ少女の気持ちのままの、純粋な女性だったのだと、いま改めて感じているところだ。

母と父はあちらの世界で今頃、船か汽車、あるいは新幹線の旅をしているところだろうか。
0529サンフラワー

可部線太田川橋梁

可部線105系3ドア白イメージ


空は青く、五月の風が囁く
鶯が鳴き、雲雀が囀る
川の流れる音、遠くで気動車の走る音
ややあって、すぐ近くの鉄橋を走る電車の音がする

電車が遠くへ去り
また川音と鳥の囀りだけの静寂
小さな風の音のようなものが聞こえる
すうぅ、すうぅ、すうぅ

河原で僕の隣で横になっているあなたの寝息だ

すうぅ、すうぅ、すうぅ
疲れているのだろうな

「どっか、静かなところで横になりたいんよ」
あなたのリクエストに応じて
僕が広島駅からわざわざあなたを連れてきたのが
この場所だ

可部線の電車が鉄橋で川を渡るこの場所
鉄道ファンである僕が何度も通って
古めかしい電車をカメラで追ったこの場所だ

電車は新しくなり、鉄道ファンの姿が消えたこの河原で
僕は今、あなたと体を横たえて午後のひと時を過ごしている

深夜勤だったと言った
それが明け方のお産で病院を出るのが遅くなり
寝る暇なく待ち合わせの広島駅に現れたあなたの目は
赤く充血していた

「映画でも行こうか」
「だめ、寝てまうわ」
「散歩・・」
「歩けんほどえらいんじゃ」
「じゃ、どうする・・」
「静かな気持ちのええとこで寝る・・」
「寝る・・」
「どっか、静かなところで横になりたいんよ」
それならばと可部線の電車に乗り、ここにやってきたというわけだ

どれほど経ったろうか
可部線電車が鉄橋を渡る音で気がついた
僕も寝入ってしまっていたようだ

あなたを見るとまだ夢の中にいるようで
無防備な寝顔が可愛い

あなたの顔に僕は自分の顔を近づける
白い肌、整った目鼻、細い髪
薄い唇は清楚で
上唇には細い傷跡のようなものがある

もっとあなたの顔に近づこう・・
「キスしたらあかんよ」
いきなり出た言葉に僕は驚くが
あなたは目を開けているとは思えず
だが、口元が笑っている

またそのまま静寂の時間
遠くの芸備線気動車列車の音が
二つの大河が合わさる山の中にこだまする

それでも、目が覚めてしまった僕は
あなたの方に体をむけ
寝ているであろうあなたを見ている
小さな胸の丘が白いブラウスに包まれ
ひとつ余分にはずしたボタンが白い肌を見せ付ける
短いスカートから無防備に伸びた白い足が寛ぐ

「きれいだ」
思わずつぶやく
またいきなりあなたの唇が動く
「襲わんといてね」
フフっと笑ったあなたは、ゆっくりと体を起こす
「ほんまにのう、男っちゅうもんは・・」
あなたは笑いながら僕のほうを見る
「いや、そんなつもりやない・・」
「うそ、今でもウチがじっとしとったら、いきなり乗っかってきたでしょ」
「いやいや・・」
「ま・・ええわ・・」
そういってあなたは立ち上がり、スカートの尻を払う
鉄橋を四角い電車が1両で渡っていく
「ええとこ、知っとるんやね・・おかげでよう寝れたわ」
あなたの目の充血は取れ、いつもの茶色い瞳が戻ってきた

雲雀が囀る
鶯が鳴く
遠くで芸備線気動車列車のエンジンとレールジョイントの音
川の流れの水音

板宿、心の疼き

板宿駅南口木造当時

昭和51年の6月頃か・・

僕は、鉄道の実習を午前で終えた土曜日、定時制高校は土曜は休みなので加古川市内の自宅で週末を過ごすために戻るのだが、その日、国鉄ではなく山陽電車を使った。

当時は電鉄高砂駅から北条街道を走る路線バスがあって、それに乗れば自宅近くのバス停に到着したからだ。

(このバス路線は現在は本数を激減して、高砂からはわずかに一日一本だけの運行となっている)

ただ、当時は板宿駅には山陽電車の特急は停車せず、各駅停車に乗って須磨で特急に乗り換える必要があった。



未だ週休二日制など知らぬ時代、土曜日の昼下がりは開放感あふれる学生やサラ―リーマンで賑わうのだが、板宿は駅近くに高等学校が多く、通学の学生たちであふれていて。商店街入り口の幅の広い踏切は、ここから北へ数十メートルだけ自動車道路も兼ねていて、いつも人や車で賑わう・・というより混雑していた。

ホーム端で駅員がメガホンを持ち、遮断機が下りても渡ろうとする人や車をどやしつけているのも日常の光景だ。

それでも、降りかけた幅広の遮断機をくぐって特に高校生たちは我勝ちに踏切を渡っていく。

この路線には山陽電車だけではなく、阪急や阪神の電車も頻繁に乗り入れるのだが、運転士はそれぞれの所属会社のまま乗り入れてきて、板宿の喧騒に派手にタイフォン(電車の警笛)を鳴らす。

踏切を渡りかけている人があっても、電車は急制動などかけず、普通の減速の仕方でホームに入るが、山陽特急だけはこの駅が通過とあって、ゆっくりながらも止まることなく駅に入り込んでくる。

電車の本数は日中の片道方向で毎時14本という多さで、これが上下それぞれに来るのだから単純に1時間当たりの本数は28本、2分に一回は電車が来る計算になる。

つまり、閉塞区間に電車が入ることを考えると、日中ですらここの踏切は、上がっているより下がって閉じられている時間のほうが長くなる・・そんなところだった。



板宿駅は北側(上り線)には立派な母屋があり、定期券の発売所や電鉄系列の「山陽そば」の店などもあったが、南側(下り線)は掘っ建て小屋一つ、自動改札機が3台だけの質素な駅舎だった。

僕はその駅舎を目指して南から歩いている。

ちょうどその時、上りの、ブルーとクリームに塗られたツートンカラーの特急電車が通過し終え踏切が開いた。



どっとこちらへ向かってくる買い物客や学生、路線バスや一般のクルマ・・

そしてその中に、紛れもない、貴女を見たのだ。

グレーのスカート、白いブラウス、当時流行の狼カットにした髪、色白で可愛い貴女を見つけたのだ。

加古川の中学校であなたに惹かれてから、ずっと会うことを念願していた。

その貴女が突然、目の前に現れた。



数人の友達と一緒に、楽しそうに話をしながら貴女が歩いてくる。

貴女の方でも僕に気が付いたようで、一瞬、僕と貴女は立ち止まって、お互いを見つめあった。

僕の顔に血が上る。

自分の頬が紅潮していくのがわかる。

貴女も頬を赤らめ、そして、次の瞬間、友達と駅の改札へ吸い込まれていく。



会いたい人に会えた。

今の僕なら、追いかけていろいろ話をして、一気に和気藹々と持って行けただろう・・

だが、当時の僕にはそれができなかった。

やってきた山陽電車2010号のステンレスカーの、貴女は2両目に、僕は3両目に乗車してしまう。

貴女は当時は四駅先の須磨まで山陽電車に乗り、須磨から国鉄の快速に乗り換えて自宅近くの宝殿まで帰っていたはずだ。

早く隣の車両に行けば、貴女と話ができる・・・

そう思ったのはもちろんだが、当時の電車の多くがそうだった・・幅広の、ドアのない貫通路が恨めしく思うほどに僕は動けなかった。

東須磨、月見山、須磨寺と過ぎ、特急に乗り換えるために降りた須磨の駅のホームでもう一度、貴女とすれ違う、。

けれど、お互い俯いたままだ。

声をかけるなど、とても出来っこない。

僕らは成す術もなくすれ違って、そして貴女は盛り土の上にある電鉄須磨駅の、下へ降りる階段を下りて行った。



貴女と初めて出会ったのは、僕ら家族が父親を失い、当時の加古川市役所の方々の好意で加古川市の山の手の方向にある市営住宅に入居した時だ。

二軒隣の住人が貴女方家族だった。

何度か貴女が歩く姿、自転車で走る姿を見て、なんと可愛い子がいるものだと・・惹かれたのだ。

いちど、僕はその市営住宅の裏手の擁壁の上から自転車ごと転落、2メートルほど下の道路でしたたかに額を打って、かなりの出血があった。

ちょうど、庭で花壇の手入れをしていた貴女のお父様が、それを見て、すぐさま自家用車を出してくれ、知り合いのいるという病院へ連れて行ってくれたことがあった。

おかげで事なきを得、貴女のご両親とは打ち解けて話ができるようになったのだけれど、貴女とはまともに話などできなかった。

(余談だがこの時の傷跡は今も僕の額にわずかに残っている)

やがて貴女方ご家族は転居され、自転車で行かねばならない4キロほど先の、僕も通う生徒数1500人というマンモス中学校近くの戸建てに移った。

もう、貴女に会えなくなったと思った時、中学三年最初のクラス替えで貴女が同じクラスになった。

しかも、最初の教室での席はあなたが僕の隣に並んでくれた。

嬉しかったが、それを顔に出すこともできず、貴女に話しかけることもできず、貴重な一年は過ぎていく



不思議に、当時の僕には何人かのガールフレンドがあり、彼女たちとはずいぶん馬鹿げた遊びもできたのだけれど、貴女は僕の中では別格の存在だった。

趣味になりかけていたカメラで、貴女の姿を撮影したこともあったけれど、それはいつもあなたの横にいる、僕にとって気安い友達に声をかけて撮影出来たものばかりで、なぜかあなたには声をかけられない。

それでも、中学時代の僕のアルバムには何枚かのあなたの写真がある。

その写真の貴女は周囲の友達の様に笑ってはおらず、何かきつい目をして僕を睨んでいるようだ。



その頃の僕にはガールフレンドもいた・・当時の僕は「ウブ」というよりは、どちらかといえば女の子の友達が多く、しかも、転校前の学校でクラスメイトだった二人の女の子と文通もしていて、そのうちの一人とは結構、頻繁に会ってもいた。

だのに、貴女にはこの体たらくなのだ。



中学を卒業し、男ばかりの国鉄の寄宿舎に入り、なんとも味気ないことになったのだけれど、文通は続いていて、その相手と山陽電車で一緒に帰ったこともあった。

でも、貴女にだけ声がかけられない状況が、やがて、文通相手どころか、自分の従妹などにも声がかけられない、深刻な女性恐怖症の状態になってしまう。

周囲はこれまで経験したことのない男ばかりの世界になってしまっていて、好きな鉄道車両は常に身近にあっても、女っ気のない味気無さは変わらない。

いや、味気ないどころか、女性に声をかけられない深刻な状況はこの後、文通相手の女の子に振られ余計に度を増す。

(この女性恐怖症が完治?したのは二十三歳のころ、国鉄部内の配置転換で鷹取に転勤し、悪友たちと三宮で遊ぶようになってからだ)



国鉄の寄宿舎にいる間、土曜日の帰宅はほとんど山陽電車を使ったのは、やはり貴女に会いたい一心からだったと今ではいえるだろう。

だが、お互いが高校生の年頃の間は、時に貴女に出会えることはあっても、やがて、その時を過ぎ、以来全く貴女の姿を見ることはなくなった。

よく遊んだ共通の友達からは貴女の噂は聞いたけれど、それも、僕が国鉄にいる間までのことだ。

国鉄を辞め、やがて神戸での写真の仕事に入った僕は、また板宿に住み着いたけれど、もちろんそこに貴女の姿はなく、それでも、あのけたたましい踏切の風情を見るたびに、グレーのスカートの貴女が友達と談笑しながら歩いてくる姿を思い浮かべたものだ。



板宿もまた阪神淡路大震災で被災し、山陽電鉄では地上部の駅を建設中の地下駅に切り替え、地上線は放棄することになった。

電車が地下に潜った板宿の風景は変貌し、もはやここを貴女が歩いてくる姿を思い浮かべるのは難しくなった。

そして僕はその街で最初の独立に失敗したのだがそれはまた後の話だ。

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