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kou1960

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小説の形を借りて自分史も入れたりしています。
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汽車の女

C5644かわねじ号イメージ


「汽車が好きなの」と、その彼女は言った。
真夏なのに黒のワンピースを着た長い黒髪の女だ。
彼女とは、つい先ほど出会ったばかりだ。

真夏の太陽を浴びて山間の鉄橋を、黒い蒸気機関車が茶色の客車を率いて突っ切っていく。
列車が来るまでは聞こえていた川の水音や鳥のさえずり、セミの鳴き声は消え失せ、小型の機関車ゆえのささやかさだがそれでも蒸気機関車特有のドラフトを響かせ、列車は橋桁からあの重い金属音を湧き立たせながら通過していく。
機関車が去ったあとは何両も繋がった茶色い客車の、規則正しいレールジョイントの音が山間にこだまする。
堤防脇で三脚を立て、大仰な大口径レンズをデジタル一眼レフに装着した僕が、前を横切る観光用のSL列車のドラフトを聴きながら夢中でシャッターを切り、そして静寂が戻った夏の河原の風景を眺めた時、自分のすぐ傍、10メートルほどのところに立っている彼女に気が付いた。

彼女は首から大きなニコン製のデジタル一眼レフをぶら下げていた。
黒いワンピースの上の胸のふくらみのやや下あたりで、巨大なカメラが存在感を見せつける。
昨今では鉄道好きな女性が増え、その人たちを「鉄子」さんと呼んでいるが、ほとんどの場合、鉄子さんたちは列車そのものより旅の風景としての鉄道、旅のアイテムとしての鉄道を好むように感じていた。

僕は彼女に近寄り、話しかけた。
「あなたもSLがお好きなんですね」
彼女は夏の炎天に巨大なカメラをぶら下げているというのに汗も掻いているようには見えず、頭の上からの直射日光を浴びながらも笑顔を見せる。
セミロングの黒髪がかえって涼しげに見える。

「私、蒸機が大好きなんですよ」
SLという言葉で表現せずに、蒸機と言った彼女に僕は一瞬たじろいだ。
なぜならSLを蒸機と言うのは、ふつうは僕なんかよりずっと年配の鉄道ファンだからだ。

「今日はC56(シゴロク)にオハ35(サンゴ)でしたね。好きな組み合わせですが、ここはやはり架線があるのが今一つなんです・・それと蒸機はもう少し大きめな・・でも、D51(デコイチ)では大きすぎて、この風景だとC57(シゴナナ)あたりがいいですけどね」
次に彼女の口から出た言葉は、僕をさらに驚かせた。
とても昨今流行りの「鉄子」さんが俄仕込みで喋っていることとは思えない。
「お若いのに、とても詳しいんですね」思わず僕の口から出た言葉がこれだ。
彼女はふっと僕のほうを見て、不思議そうに小首をかしげる。
「あら、特に詳しいというほどのことはないと思います」
「そう・・そうですね・・」
僕は圧倒され、そのことについてそれ以上は言えなくなってしまった。
このあと、少し歩いた始発駅から、先ほどの列車の折り返しに乗車するのが僕の予定で、僕は三脚を片付け始めた。
「あら、この後の列車、緑のズームカーですよ。これも撮らないと」
彼女が僕の背に話しかける。
「いや・・上りのSL列車に乗るので・・」
「十分、乗れますよ。緑の中を薄緑の電車が走るのもいいと思いますけど」
「は・・はぁ・・」
「私も、上りの蒸機列車の切符を買っていますからよろしかったらご一緒にいかがですか」
美女にそう言われて悪い気はしない。
でも、僕はもう、十分、彼女に圧倒されてしまっている。
やがて、先ほどのSL列車が向かった方向から薄緑に濃緑の帯を締めた「ズームカー」がゆっくりとやってきた。
元は関西の私鉄で特急や急行として使った電車で、確かに鉄道ファンの中にはこの電車だけを見に来る人もいる。
僕と彼女は並んでこの電車を撮影したが、電車が鉄橋を渡るとき彼女は小さくつぶやいた。
「やっぱりここのシチュエーションではこの電車が似合うわね‥」

電車が去ってしまったあと、僕は彼女と並んで駅への道を歩いた。
これは自然の成り行きだ。
「電車もお好きなんですね」
「あの電車は、私の父が好きだった電車なんです。うちはあの電車の沿線で・・」
「そうなんですね・・とても普通の鉄子さんよりはお詳しいのでびっくりしました」
「そうかなぁ・・たぶん、父の教育ゆえですね・・」
そう言って彼女は明るく笑う。

いくら山の中でもさすがに真夏、駅までの1キロほどを歩くだけで僕は大汗を掻く。
けれど、並んで歩いている彼女は涼しげで、気持ちよさそうに山々の風景を楽しんでいるようだ。
「暑くないですか?」
「わたしは暑さには強いので‥」
淡々と彼女は山々を眺めながら答える。
駅に着くと、先ほどのSL列車が機関車の位置を前後に換え終わって列車が組成されていた。

ホームを歩きながら、彼女と僕のチケットに指定された号車・席番が異なることで、ちょうど通りがかりの車掌に尋ねてみた。
「いいですよ、座席はワンボックスごとに発売していますからお連れさんがなければお一人でワンボックスになっています。ですので、お二人でそのボックスに座られても全然、大丈夫ですよ」
愛想よく、車掌が答えてくれた。
僕と彼女はどちらのチケットの座席でもいいわけだ。

一両の古めかしい茶色の客車の中で、向かい合って僕らは座った。
彼女は嬉しそうに客車のあちらこちらの方向を眺め、ごついカメラのレンズを向ける。
「懐かしいなぁ‥オハ35(サンゴ)のこの雰囲気・・」
彼女の言葉に、僕はちょっと気になり、軽い気持ちで訊いた。
「オハ35が実際に営業列車として走っていた時代をご存じなんですか?」
彼女は天井のたぶん、照明器具にカメラを向けながら「昭和50年頃までかなぁ‥オハ35はその頃では割と多かった客車で‥」と呟く。
「え・・」
「よく乗りましたよ・・山陰本線とか・・・」
そのあとにさらに呟く。
「最初はシゴナナ、それがディーゼルになったときは悲しかったですね」
彼女は天井の次は窓周りにカメラを向け、ちょっ悪戯っぽく笑った。

僕は目の前の若い女性が、何かとんでもない怪物なのではと・・思い始めていた。

「女性にこういうことをお伺いするのは失礼ですけど・・お歳はおいくつ・・?」
一瞬、彼女の動きが止まった。
そして僕を見つめた。

しばしの沈黙の後、彼女はため息をついた。
「わたし、何か変なこと言いませんでしたか‥」
「いや、この客車が山陰本線で走っていた時代をご存じとか仰るものですから・・」
「ああ・・また・・」
「?」
「わたしは平成の生まれです。知っているはずないですよね」
「それはそうでしょうが・・失礼なこと、お伺いしました」
「ときどき、わたしの中の別の人格がでてしまう・・」
「別の人格ですか?」
「その人格のおかげか、どこで知ったかも記憶にない知識が飛び出してしまうんです」

車内放送があり、汽笛が鳴る。
ほかの乗客たちが嬉しそうにざわめく。

「さっきの・・いや、最初にお会いした時の蒸機という言葉や、シゴロクとかオハサンゴ・・」
僕が確かめるように彼女に聞いた途端、彼女はまた大きなため息をついた。

列車は先ほど僕たちがいた鉄橋を渡り、カーブの多い山間の路線をゆっくり進む。
「もうね・・わたしにはどの知識が私自身が得た知識で、どの知識が別の人格からもたらされたものなのか・・見当もつかなくなっているんです」
夏の大河の河原を見ながら、彼女は屈託のない表情になる。
開け放した窓から、さすがに都会では味わえない涼しい空気が流れ込んでくる。

「もしかしたら、その別の人格というのは‥お父様ですか?」
窓框に肘を置き、汽車の旅を楽しむ雰囲気そのままに、彼女は小さく頷いた。

「汽車が好きな人でね・・家族なんてほったらかし・・」
「でも、あなたも案外、鉄道がお好きだったのでは」
「そう、うちには弟もあるけど、なぜだか私だけが父の影響を受けて鉄道好きになったの」
「で・・今でも?」
「汽車が好き」

フフッと彼女は含み笑いをした。
「ビール、さっき買っておいたの」
手に持った買い物袋から取り出した缶ビールを二本、窓下のテーブルにおいてくれた。
先ほどの始発駅で、そういえばちょっと彼女と僕が離れた一瞬があった‥あの時に買ったものだろうか。
「どうぞ」
二人して缶ビールのプルタブを開け、缶を合わせて乾杯する。
「父は、わたしが二十歳の時に、撮影旅行に行く準備をしていて倒れてそのまま亡くなったのです」
「それは悔しかったでしょうね」
「どうかな・・いつも旅行に出かけるその前が一番楽しいって言ってましたから・・」
「あ、それは僕もわかります。時刻表を見たり、カメラを用意したりしているときってすごく楽しい」
「でしょう・・だから、案外、一番楽しい時に楽しいまま逝ったのではないかなぁ‥」
「でも、やっぱりその先の撮影ポイントにはいきたかったはずですよ」
うんうんと頷く彼女。
袋から新しい缶ビールを手に、「もう一本、飲みます?」と僕に聞いてくれた。


「父は列車に乗ってお酒を飲むのが好きでね・・時々、わたしを撮影旅行に連れて行ってくれて、その時によく呑んでいた・・」
「楽しそうですね」
「でも、母は、ひとっつも家族旅行に行かせてくれない父に腹を立てていたわね‥わたしだけ、鉄道好きの気持ちがわかるから、父によく連れて行ってもらったけど」

黒いワンピースの彼女は屈託なく窓の外を見る。
白い肌にセミロングの髪、軟らかそうに盛り上がる胸の膨らみ。
その風貌に似合わない巨大なニコンのデジタル一眼レフが膝の上にあり、窓框に肘を乗せたその手には缶ビール。
不思議な組み合わせの向かいの席の彼女に、僕は得難い出会いをしたかのような気持ちになる。

トンネルに入る。
冷気が飛び込んでくる。
来るときは冷房付きの電車だったから、このトンネルの冷気は初めて気が付いた。
「トンネル、涼しいね‥」
僕が思わずそういうと、彼女は「昔と違って石炭がいいから、トンネルでも窓を閉めずによくなったの」という。
「それはお父さんの知識?」
「いいえ、来るときに車掌さんから聞きました」
彼女はそう言って笑った。
白熱灯照明に照らされた白い顔が美しい。

長いトンネルだ。
「きみ・・」
彼女が僕のほうを向く。
「君は独りものかい?」
姿勢を正して、彼女の口から男性のような言葉が出る。
「はい」
僕は一瞬で撃ち止められた鳥のように素直に小さくなる。
「相手はあるのかい」
「いいえ、鉄道と結婚すると周りも自分も思っていました」
「そうか、では娘を頼むよ、君とならうまくやっていけそうだ」
「はい」
思わず僕がそう答えると、彼女はクスリと笑う。
「今の言葉はわたしの父ですか?」
列車がトンネルを抜け、セミの鳴き声が列車を囲む。
「さぁ、それは僕にはわからないけど、どっちでもいい」
僕の答えに彼女は缶ビールを一気に飲んで、そして嬉しそうな笑顔をくれた。

機関車が汽笛を鳴らす。

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デッキ

デッキ

友人たちに会うために行った東京からの帰途、青春18きっぷ発売シーズンに運転される夜行臨時快速「ムーンライトながら」に乗った僕は、車内が暑いなと思いながらも、東京での二日間の趣味活動の疲れに、すぐに寝入ってしまった。

車両のモーターの音が控えめに車内に入り、レールジョイントの音が心地よく・・と言いたいところだが、真夏の列車の冷房を抑えてある車内の暑さは疲れた僕の身体に堪えてしまったようだ。

いきなり吐き気がした。

窓側の席に座っていた僕は、隣で寝ている男性の膝にあたらぬように通路に出て、小走りにトイレに向かう。

客室内とは比べ物にならないくらい、モーターの音が甲高く響くデッキからトイレに入り、客室内よりさらに冷房の効きが悪いトイレの、洋式の便座を上げ、一気に吐いた。

何度か嘔吐を繰り返し、やや落ち着いたので便器に水を流して、洗面所へ、ここで口を漱ぐ。 気持ちを取り直した僕は、自席へ帰ったが、また十分もしないうちに吐き気に襲われた。

また、隣席の人に気を遣って通路に出て、トイレへ向かう。

吐くと言っても、夕食に何かをたくさん食べたわけではないし、お酒を飲んだわけでもない。

列車待ちの東京駅のホームで、昼間の猛暑の余韻が肌にまつわりつき、いくら拭き取っても噴き出す汗に、ちょうど傍にあった自販機で冷たくて喉の渇きが取れそうなアイスコーヒーの缶を見つけ、それを飲んでホッとした…







だから僕の胃に入っているものといえば、その缶コーヒー位のはずだから、僕がトイレで吐くのも茶色の液体ばかりだ。それも、二度目とあっては吐き気だけで、出てくるのは胃液しかない。

「酒を呑んだわけでもない俺にこの仕打ちはないんじゃないの」

そう恨み言もでるが、自分の体調が悪く、やや熱中症気味の中、列車の暑さにやられたというのが正しい現状判断というものだろう。

二度あることは三度も四度もある・・僕は、また気分が悪くなって席を立つときに、隣席の人に迷惑をかけるといけないと思い、しばらくはデッキで過ごすことにした。

全席座席指定の臨時快速、デッキに出る人はまずいない。



列車はモーターのうなりを上げて突っ走る。それも驚くような高速でだ。

今や鉄道幹線の夜間は高速貨物列車で占められていて、それら貨物列車の筋を乱さないようなダイヤにせざるを得ず、本来はゆっくり走ってよいはずの夜行快速も時速百キロは出ているであろう高速運転を続けているのだろう。

デッキの床にしゃがみこんだり、時折立ったり、そして、時折襲ってくる吐き気に、トイレに行ったりしてすごす。雨が扉の窓にたたきつけられている。

深夜の通過駅は、明かりも消え、駅名も判然としない。

そういえば・・昔、このようなことがあったなと・・古い記憶が呼び起こされる。

ただ、そのころの僕は独りではなかった。



*****



あれは三十数年前、東京からの下り、銀河五十一号という列車だった。

東京駅の窓口、大阪行きの寝台急行「銀河」のチケットが取れず、窓口の駅員氏の勧めで後続の全車座席指定臨時急行「銀河五十一号」の存在を教えてもらい、僕らはその切符を手にした。

半分ほどの座席が埋まっている車内で、僕と君は並んで席をとることができたから幸運だったのかもしれない。

座席は青いリクライニングシートだったが、今の夜行バスや、今夜の「ムーンライトながら」の座席のように深くリクライニングする座席ではなく、わずかに少し傾く程度のシートだったが、それでも列車の座席といえばあの直角の椅子を連想する当時の僕らには高級な座席に見えたものだ。

列車がゆっくりと東京駅を滑りだし、窓を街の明かりが流れるようになって、君が僕にもたれかかってきた。

「ごめんね」君は囁くようにそういう。

「ええよ、べつに君が悪いわけやないし」

「うちの両親、特に母が曲者でさぁ・・もう、これ以上無理よね」

「いや、無理なんて言わず、認めてくれるまで頑張るしかないやろ」

僕たちはこの日、彼女の両親に結婚するつもりであることを報告し、その了承を得るために東京都内、根津にある君の実家を訪問したのだった。

ご両親のうち、君の父親は僕を見て案外気に入っていただいたようだったが、問題は君の母親だった。



しばらくは好意的に話す君の父親の話を聞いていた風だったが、突然頭を上げて、とんでもないことを言い出した。

「私は、人の将来を見る力があります」

「え??」

「あなたは、うちの娘の相手には不適格です」

「いや、お母さん、それはどのような理由で?」

「理由なんてありません、私は毎日、仏壇に祈っております。その答えが駄目ということです」



もはや、何を言っても無理だった。

君の父親がいくらなだめても、母親は頑として受け付けず、なだめるほどに感情的になってしまう。僕と君の結婚は認められなかった。



それでも僕らは諦めることはできなかった。

だからこの度の失敗はともかくとして次回を期すしかない。

尻尾を巻く猫のように、君の自宅を逃げ出した僕らは、そのまま都内をうろついて、結局は今夜中の列車で神戸に帰ることにしたのだった。



夏の暑い夜、東京駅から乗車した「銀河五十一号」の青い車体は、僕に東京での敗北を実感させてしまう。列車内は今夜の「ムーンライトながら」のようには暑くなく、冷房が程よく効いて心地よかったが、僕の心は塞いでいた。



列車は夜の東海道をひた走る・・

車内のほかの乗客が寝静まったころ、君が僕に更にしなだれかかり、君の息が僕に感じられるまで顔を近づけてきた。

「ごめんね・・」

息が熱い…

「デッキに行こうか」僕たちは座席を立ち、車両の端のデッキに向かった。



今宵の列車のようにモーターの音が聞こえた記憶はない。

ドアの形も平べったい一枚ものではなく、中折れ式の二枚ものだった。

それに、ドアの手前はステップになっていて、床が一段下がっていた。



「ごめんね」君がまたいう。

「ええよ・・また次、頑張るから」

君は僕の体をデッキの壁に押し付けるように、僕にもたれかかってきた。

僕たちは長い口づけを交わした。



列車は時折汽笛を鳴らしながら突っ走っている。

立ったまま、君を抱きしめながら、僕の指先は君のブラウスの中に入り込んでいく。

ため息とも叫び声ともとれる君の小さな声が、列車の音にかき消されていく。



あらわになった君の乳房を揉みながら、ぼくは破滅への道を進んでいるのかと暗澹たる思いだった。



結局、君と僕は分かれた。君は親を捨てる気などないし、僕もそれ以上のエネルギーを使いたくはなかった。

一度だけ君にこう聞いたことがある。あれは周囲が喧しい三宮の居酒屋だったか。

「親を捨てて、僕ら二人、一緒になる気はないか」

君は、言葉ではなく、かぶりを振ることで僕に答えた。

「NO」であると・・・・



*****



臨時夜行快速「ムーンライトながら」は、少し夜が白みかかっている東海道を走っていた。つい30分ほど前、浜松でしばらく停車し、ドアを開けてくれたおかげで僕は駅のホームに出てベンチでしばし休んだことで体調を回復させていた。



デッキの平べったい大きなドアの窓から見る空が、わずかに青味がかる。

通過する駅名が読み取れる。

座席に戻るつもりはなく、僕はあの夜のことを思い出しながら、まだデッキの壁にもたれている。



小柄な、色白の、少しやんちゃに見える君の、あの夜の姿や表情は、今の僕にとっては宝物の思い出だ。

そして列車の中で、立ちながらお互いの肌を合わせたあの不思議な時間。



もし、寝台列車である夜行急行「銀河」のベッドが確保できていれば、僕らはベッドで抱き合っただろうか?

いや、それはないだろうと、今は思う。

座席夜行の、何ともいえぬ怠惰な雰囲気が、僕らをあのような世界に導いてくれたのかもしれない。



トイレへ向かう人が多くなってきた。

夜は明けつつある。

名古屋到着の案内放送が流れ、列車はたくさんの線路が展開する都会の中に入っていく。

「名古屋からは関西線にしよう、そう、亀山からの気動車がいいな」

僕は気持ちを切り替え、あと少しの旅の余韻を味わうつもりになっていた。

神有電車

303.jpg

昭和41年ごろの話だ。

半地下式、石垣の中の湊川駅から出る神有電車(すでにその頃は神戸電鉄という名称になっていたが)は、半地下からそのままトンネルに入り、長田区の北部で急勾配の地上線に出る。
そこは確かに港町神戸の山の手には違いないが、神有電車という親しみやすい愛称そのままの、坂道ばかりの下町という風情だ。

長田駅を出た電車はやはり1000分の50という勾配と急カーブに車輪をきしませ、モーターのうねりを上げながら鷹取山の裏側にある丸山駅にいたり、そこからやはりカーブと勾配の線路を上り、小さなトンネルを超えると鵯越だ。
どちらを向いても山の中、神戸市の都心ともいえた湊川からわずか10分ほどで到達できる深山の趣のある不思議な駅だが、この駅周辺にも古くから住宅は多く、山肌の斜面に張り付いたような住宅が密集するところもある。
電車はここから六甲山系のやや西を勾配とカーブを繰り返しながら、標高400メートルほどもある鈴蘭台へ向かう。

ルリ子は彼女の夫と5歳の長男、1歳の長女を連れてこの神有電車に乗っていた。
その電車といえば茶色一色の、外観こそ鋼鉄製だが内部は木材にニスを塗った、素人が見ても戦前生まれの古臭さだった。

モーターの音を低く唸らせながら、電車は車内を斜めにしながら勾配を上る。

「達夫、あんたのとこへ返すわ」
彼女の実母である鈴江から、電話が入ったのは一昨日のことだった。
電話といっても、当時はまだ呼び出しの時代、実母はアパートの大家のところへ電話をかけ、彼女を呼びだしたのだ。

「半年ほど預かってみたけど、我儘すぎるし、うちには則江がおるしな」
則江はルリ子の父親違いの妹だ。
ルリ子は今年26歳、妹の則江はまだ小学6年生になったばかりの歳の差が開いた姉妹だが、ルリ子には、則江を妹だとどうしても思えない感情もある。
若いころから奔放に生きて、何度も付き合う男を変え、戦前には妾として満州まで行き、そこでルリ子を産んだのだが、ろくに面倒も見ずに、生まれた娘をさっさと親戚に託して神戸へ送り、自分は全く育児にかかわらなかった実母が、世の中が落ち着いてきたときに誠実な男性と出会い、生まれた娘をことのほか大切に育てる様子は、ルリ子には苦々しく思えてならなかったというのもある。

ところが、どうも奔放さという面ではルリ子も母の影響を少しは受けたらしく、住み込みで働く理髪店の店員だった満寿夫と出会い、すぐに子供が出来てしまった。
子供は立て続けに5人もできたが、上の二人は生まれてすぐに亡くなり、彼女のもとには3人が残った。
長男の浩一、次男の達夫、長女の弘子だったが、このころすでに彼女のお腹には4番目の子供が宿っていた。
彼女の実母である鈴江は、3人の孫のうち、二番目の達夫の利発さを非常に可愛がり、ついに自らの養子とすることを宣言、その日のうちに鵯越の文化住宅である彼女の自宅へ連れ帰ったのが半年前というわけだ。

神有電車の古い普通電車が鵯越の駅に着き、咲き始めた桜の木の下のホームに彼女たち一行が降りたとき、明るいグレーとオレンジの有馬温泉からの急行電車が通過していった。
「おかあちゃん、あのきれいな電車、乗られへんの?」
「さぁ・・なんでやろうなぁ・・」
そう関心なく答えるルリ子に代わって、後ろに居た満寿夫が答えた。
「新型は急行だけや、急行は鈴蘭台まで停まれへんさかいな」
短いトンネルを颯爽と走り去る急行電車の明るさが浩一には眩しい。

踏切を越えて坂道を登るとルリ子の妹、則江が走ってきた。
手にした籠を見せる。
「お姉ちゃん、久しぶりやな!弘子ちゃんも!」
ルリ子の腕の中の弘子が嬉しそうに笑う。
「土筆、こんなに生えとるん??」
「うん、そこの田んぼの畦や」
屈託なく笑う小学生、ルリ子とて、妹の存在そのものは嫌いではない。
ただ、鈴江が自分にしでかした仕打ちと比べてみて、何もかもが恵まれていて、何も知らない則江の無邪気さに溜息が出るような思いがあるだけだ。

文化住宅の庭では達夫が立ちすくんでいた。
「おかあちゃん、迎えに来てくれたん?」
「ああ、あんたはやっぱり、うちの子や」
「もう、おばあちゃんをお母ちゃんって、呼ばんでええのん?」
「おばあちゃんはおばあちゃんや、お母ちゃんはお母ちゃんや」

「ほんまに、達夫に恨みはないんや、ただ、則江に力を入れたいさかいな」
そう淡々と言う鈴江をルリ子は何の感情もなく見ていた。
子供たちは満寿夫と土筆採りに出掛けたままで、弘子だけがルリ子の腕にある。
「おかんは、いっつもそうやな・・自分勝手に事を進めて、あかんかったら放り出し」
「いや、そんなんちゃうねんで・・ただ、則江のことがあるさかい・・それだけなんや」
「ま・・かまへんけどね・・ウチは元々、達夫を手放したくなかったさかい」
「そないゆうてくれたらこっちも助かる・・おおきにな」
「そやけど、礼だけやったらサルでも犬でもいえるわいな」
「なんやのん、あんた、なんか求めてるのん?」
「うちの家計は苦しいし、今度また子が出来るさかい・・」
「ああ・・・そのこと・・ここにちゃんと用意してるさかいな」
そう言って、鈴江は裸のままの一万円札を握らせた。
「一枚かいな」
「うちも苦しいんや」
「ふん・・」
「ルリ子、半年面倒見たったんや、礼ぐらいあってもええんちゃうか」
「ほう、そやな、ま・・おおきに」

烏原川の脇で土筆採りに興じている子供たちにルリ子が叫ぶ。
「浩一、達夫、帰るで!」
「え、もう、帰るの?」
浩一が不満そうに呟く。
川の脇を、グレーとオレンジに厚化粧された旧型電車が走る。
「お姉ちゃん、晩御飯、食べていかへんの?」
則江が何も知らぬ明るい表情で問いかけてくる。
「今日は達夫を迎えに来ただけや・・こんど、ゆっくりくるわ」
「うん、今度は一緒に遊ぼ!」

自分の妹とは言え、小学生には難しい大人の事情など分かるはずもない。
ルリ子は軽いため息をつきながら駅への坂道を下る。
「こんな山の中に線路を敷いた昔の人は偉いな」
満寿夫が感嘆したように線路を見る。
「それがどないしたん、こんな山ん中に線路を敷くから山の中にまで家が建つんよ」
不機嫌そうな妻の言葉に満寿夫も黙るしかない。

鵯越の駅に入ってきた湊川行は、旧型電車の2両連結だった。
乗車位置の微妙な違いから、家族は編成の前後の車両に分かれて乗ったけれど、この2両は幌で繋がれてはおらず、連結面から浩一と達夫が手を振りあうこととなった。
浩一から見た母や弟の乗っている車両は、上下左右に激しく揺れて今にも脱線しそうだ。

浩一の横に立っている満寿夫には、弘子を抱きながら達夫の肩に手をやるルリ子の憮然とした表情が、悲しく感じられた。
「結局は稼ぎの少ない俺が悪いのか」
満寿夫がつぶやくと浩一が不思議そうに振り返る。
「おとうちゃん、どないしたん?」
「いや、なんもないで・・この電車、変な電車やな」
2両連結の旧型電車は、恐ろしいような坂道を、鋳鉄制輪子のゆっくりと削られるような音を繋ぎながら、湊川に向けて降りていく。

雪の日の女性客

今冬は暖冬であると秋の終わりころにテレビニュースで気象予報士が言っていたように思うが、1月も半ばにさしかかり雪も時折ちらつき、氷点下の朝もあるなど普段温暖なこの土地には珍しい寒さで、最早テレビニュースでも誰も今冬が暖冬であるとは言わなくなったそんなある日、やはり当地、神戸の西郊でも大雪が降った。
雪が少し積もった事なら昨年も晩冬のころにあり、普段、雪の降らぬ当地では交通というものが全て破たんをきたし唯一の公共交通となった我がタクシー会社では、その日はてんやわんやしてタクシーの営業をしていたのだが、今回の大雪は違った。
思い出せばあれは平成に変わって数年経ったころだったか、大雪が何日も降り続き、当地においては何もかもがすべて停止してしまったようなことがあったのだけれど、今回の大雪はどうもそれに近いものらしい。

最初こそ無線配車も多忙を極め、一瞬の隙には道路端で手を上げる人がすぐに現れて繁忙の極みを呈していたのだけれど、やがて雪が深く、ほとんど町の動きが停止してしまってからは、かえって普段より暇を持て余すようにもなり、せっかくスタッドレスタイヤを履いて全車両を送り出したわが社の営業が事務所で売り上げの低迷に冷や汗をかいているだろう姿すら想像もできるようになった。

僕は日の落ちた道端、大きな交差点角にあるコンビニエンスストアの駐車場で休憩をとることにした。
トイレを借り、夜食を仕入れ、駐車場に止めた営業車の中でそれを貪っていると窓をたたく音がする。
乗客か・・
なんだか、仕事をするのが面倒になってきたころではあったけれど、それでも僕は反射的に車の自動ドアを開けた。
白い雪景色から冷たい風と大粒の雪が飛び込んできた。
誰も乗客はいない・・・錯覚だったか・・・
僕は扉を閉めた。

「あの・・加古川へお願いできますか?」
女性の声がして僕は驚いた。
確かに、誰もいないことを確認してドアを閉めたというのに、いきなり後部座席に座る女性の顔がルームミラーに映っているのだ。
驚いて振り返ると、その女性は細身の、20代に見える妙齢だが、目を引くような薄着、それも白っぽいワンピースを着ていた。
大きな瞳、非常に整った顔立ちの女性だ。
「加古川ですか・・」
それでも、そう反射的に答えたのは僕の職業人的本能のなせる業であるといってよい。
「はい、ちょっと遠いのですが、電車も止まってしまったみたいで」
「ですね・・料金は結構かかりますし、高速道路が通行止めですから時間も・・かなりかかるかと」
「御迷惑でなければお願いできますか?」
「わかりました、ゆっくり安全運転で参りましょう」
僕は料金メーターのスイッチを入れ、ゆっくりと車を走らせた。
コンビニの駐車場を出て、真っ白になった幹線道路に出、ゆるやかに加速する。
「お客さん・・寒くはないですか?」
「いえ、ちょっと暑いくらいです」
ルームミラーに映る彼女は少しはにかみながら、答えてくれる。
それにしてもだ・・薄いワンピース、今にも下着が透けそうな薄さの、夏にはこの手の洋服を着た女性は町中に溢れるけれども、今の時期にこういうスタイルは見たことがない。
「寒さにお強いのですね」
「はい、私は秋の終わりの生まれなので寒さには強いんですよ」
「ああ、そうなんですね・・それにしてもあまりにも薄着でびっくりしました」
「みなさん、そう言われますね。でも、ワンピースは長袖だし、下着は厚手のものですから結構暖かいのですよ」
「なるほど・・見た目とは違って温かいスタイルというわけですね」

彼女はそれには答えず、雪が降りしきるであるだけの窓の外を、時折、曇るガラスを手で拭きながら見つめている。
何やら窓の外に向かって手を合わせているかのようにも見えるが、僕が彼女の様子を見られるのは運転の一瞬の隙の、ルームミラーだけであることは言うまでもない。

雪の道を走ると、車は不思議に静かで乗り心地が良いし、スタッドレスタイヤのおかげで車の姿勢は安定しているが、フロントガラスには大粒の雪がこれでもかと迫り、車線も標識も信号も識別が難しくなってきた。
ルームミラーで時折見る女性の横顔は目が覚めるほどに白く、整っていて美しい。
明石市の中心部、すでに商店のほとんどが早仕舞いになって、雪にまみれる看板だけが明るく光る中を、僕は車を右折左折させ、歩行者の存在に気をつけながら、ゆっくりと通過していく。
「今日は殆んど、早仕舞いのようですね」
女性は答えない。
ルームミラーの彼女は一心に窓の外を見ている。
「こんな日は仕方ないですよね・・お店の方々も早く帰りたいだろうし」
やや間があって「え・・なにか、おっしゃいましたか?」と女性が訊いてきた。
「いえいえ、ひとり言のようなものですよ」
「ごめんなさい、雪があんまりきれいで、我を忘れるというか・」
女性はちょっと笑った。
その表情は可愛いのだが何故か冷たい風が女性の唇から噴き出てきたような気になった。

カーブをゆっくり曲がるとやがて山陽電鉄の線路の脇に出て、ここからしばらく、加古川市の手前まで道路と線路が並行する。
ゆっくりと反対方向への銀色の電車がすれ違う。
「電車、動いているみたいですね」
「でも、ずいぶんゆっくりでしたね」
「この辺りでは鉄道会社も雪には慣れてないですからね」

ラジオでは鉄道のダイヤも無茶苦茶だと報じていた。

クルマをゆっくりと転がせる。
真っ白になった道は時折、アイスバーンの様相を見せ、タイヤが滑るところもあるがこれくらいなら、予想の範囲内で淡々と進んでいく。
女性は相変わらず、窓の外を一心に見ている。

「運転手さん」
いきなり、女性が僕に声をかけてきた。
「はい・・」
「信じてもらえるかどうかなんですが・・」
「なんでしょう?」
彼女はちょっと息を飲み込んだようで、一瞬の間をおいて話し始めた。
「わたし、今日が命日なんです・・」

彼女はきっとふざけているのだろう・・僕はそう思い、こう返した。
「命日なんですか??だったら、今、乗車されているのは幽霊さんなんでしょうか」
すると、彼女はちょっと明るく返してくれる。
「幽霊・・似たようなものですが・・」
僕はおどけるように聞いてみた。
「じゃ、その幽霊さんがどうしてこんな雪に降る日に神戸の西から加古川までタクシーに乗車されているのですか?」
「不思議ですよね・・」
女性はまた悪戯っぽく笑う。
「不思議ですねぇ・・」
僕はまだこの時点では彼女を少しからかいながら、この、見た目からは窺えない冗談が好きな女性と楽しく会話してみようという意思があったのだ。

「運転手さん、さっき、わたしが乗ったコンビニのあの交差点、23年前の今日、大きな事故があったのを覚えておられますよね」

23年前の今日・・
僕は背中が一瞬で凍えるような寒さに襲われた気がしていた。

大雪の日、そう、確かに今コンビニがあるあの交差点、当時、あそこはちょっとしたドラッグストアがあり、確かにそのストアの前で、赤い乗用車が雪で滑ったのか、反対車線に飛び出し、電柱に突っ込んだ事故を目撃した。

「どうして、お客さんは、私があの事故を見たことを知っておられるのでしょう?23年も前の話ですが・・」
女性は何も答えないでルームミラーを通して僕を見つめている。
「私はあの頃は、写真関連の営業の仕事をしていて・・」
その言葉は僕の独り言のように消えていく。

ややあって、女性はこう切り出した。
「わたしが悪いんですよ・・いわば自業自得・・」
「は??自業自得ですか?」
「あの日、わたしに妹が出来たんです・・」

**********

お父さん、早く行こうよ・・
深雪(みゆき)、今日はやめておこう・・あまりに雪が強いから、明日にしようよ。
いやいや、絶対に今日じゃなければ嫌なの、赤ちゃんも早く来てほしいって、それにお母さんだって
いや、深雪、今日は下手に動いて事故でも起こしたら大変だよ
ゆっくり走ればいいじゃない・・事故なんてないって
ねぇ・・深雪、やめておこうよ・・
いや、絶対に行くの!!


母の実家近くの産婦人科病院、そこであの日、まさに赤ちゃんが生まれたんですよ。
だから私はどうしても、父にその病院へ連れて行ってもらいたかった。
本当は、子供心にも今日はやめておいて、雪が止んでからにした方が良いってことくらいはすぐに分かりました。
でも、自分を構うわけではないけれど、あの年頃・・五つか六つくらいの女の子って、全てが自分の思い通りにならないと機嫌が悪くなること・・ありますよね。
まさにその状態。

わたしがあんまり無理をいうものだから、父が根負けしたんですよね。
加古川の自宅から、雪の中をそれこそ慎重に、父はクルマを走らせてくれました。
わたしの名前、みゆきっていうのですけれど、深い雪と書くんですよ。
生まれたのは富山県の、石動と言うところで、当時、父が製薬会社の営業をしていて、おなかの大きな母を連れて転勤したその先で生まれたそうです。
冬の、ものすごい雪の日に生まれたから深雪・・深い雪とかいて「みゆき」と読む名前になったらしいのです。

名前がそうだからか、それとも生まれた土地が雪国だからか、私は雪の好きな子でした。
でも、加古川では雪は降ってもちらちらするだけ・・雪が積もるなんてこと、なかったものですから、あの日の雪は本当にうれしかったなぁ・・

父が一生懸命に運転するクルマから見る雪景色は本当にきれいで・・
見とれていました。
「深雪、あと少しで、お母さんの病院だぞ」
「うん!!」
「ね、・・お父さん、赤ちゃんは女の子でしょ、何て名前にするの?」
「まだ・・名前まではなぁ・・」
「じゃ、わたし、赤ちゃんの名前考えたんだ」
「ほう、どんな?」
「小雪、わたしが深雪だから、小雪・・」
「おいおい、みゆきとこゆきって、まるで漫才コンビみたいじゃないか」

そう、父が笑った時でした、青信号のはずのあの交差点、赤信号のはずの交差道路からバイクが飛び出してきたんです。
父はとっさの急ブレーキ、凍結している道路ですから、とても停まりきれるはずもありません。
クルマはスリップして操作不能になって電柱に突っ込んで行ったんですよ。

わたしが生きているときに見たのはその電柱が最後・・
赤ちゃんに会えなくなったことが残念で、それが本当に悲しくって、なんだか、抗えない力に抑えられたのか・・わたしはその交差点にずっと居たというわけなんです。

********

お客さん、あの時の女の子でしたか・・私はあの事故を反対車線から目撃してしいました。
赤い車が電柱に向かって突っ込んできて、大破でしたね・・
わたしはすぐに自分のクルマを降りて、走っていきましたよ。
あぁ・・そうなんですね、お客さんがあのとき、助手席に乗っておられて、フロントガラスに頭から突っ込んで亡くなってしまった、あの、白い洋服の、あの女の子だったんですか・・
じゃ、いましがた、お客さんのことを幽霊と言ったのは申し訳ございません・・幽霊ではない、あの時の女の子が今、どこか別の世界から大人になって乗ってくださった御縁あるお客様ということですね。

あの事故は悲しかったですよ。
私は一生懸命に、あの時の女の子、すなわち今のお客さんに声をかけたりゆすってみたりしたのですが、もう、びくとも動いておられなくて・・
今の私にも娘がありましてね・・ちょうどあの事故のちょっと後に生れたものですから・・あの時の女の子と重なってしまって・・
娘を見ると、あの事故で亡くなられた女の子を思い出すということが続きましたね。
そうそう、あの事故で大怪我をなされたお父様はどうなされたのですか?

********

幽霊には違いないですから、幽霊でいいですよ・・

運転手さんにもいろいろ影響を与えてしまったみたいですね。
ごめんなさい・・全てが我儘な私のしでかしたことで・・幽霊ながら反省しています。
父は、あの事故で大怪我をしましたが、二か月で職場に復帰して、あとは、定年まで勤め上げました。
長女、つまり・・わたしですが、わたしが死んだのを自分の責任のように自分で責めて苦しむのです。
わたしは時折、父の夢に出て、父を慰めようとしました。
でも、無理ですね。
所詮、夢だもの・・
わたしの夢を見て、かえって苦しむみたいで・・

でも、母には夢でこう言ってあげました。
「お父さんに罪はないよ、わたしが我儘を言って、お父さんが仕方なく付き合ってくれたのだから、お父さんを責めないで」
母は、たぶん、それから父を責めたことは一度もないはずです。
それに、妹の小雪に手がかかるし、その手がかかるのが還ってわたしを忘れることが出来て、母は嬉しいみたいでした。
もちろん、母も心の奥では、わたしのことでは苦しんでいましたが・・

********

クルマは雪の降りしきる旧街道をゆっくり走る。
横の線路上には電車が停止したままになっている。
雪はまだ止む気配を見せない。

「運転手さん・・」
「はい・・」
私はいつのまにか涙声になっていた。
「もうすぐです・・私の実家・・」
対向車も見当たらない。
雪の降らぬ国の大雪は人々を自分の家に閉じ込めてしまったようだ。
「ね・・お客さん・・」
「はい?」
「どうして今夜、この雪の中、ご実家のようですが、その加古川へ向かわれるのですか?」
「あぁ・・それは、やっとお許しが出たからなんです」
「お許し?誰に許してもらったのですか?」
「誰か・・ちょっと名前は存じ上げないのですけれど、大きなお方です。そのお方がわたしを許して、あの場所に居たままになったわたしを、わたしが帰りたい家族のもとへ行っていいよと・・」
「それは神様ですか?」
「そうかもしれません。よくわかりませんが、わたしはあの場所に留め置かれました・・その鎖が解けて、一番行きたい所へ行きなさいと」
「大雪の中ですか・・」
「わたしの心の奥には雪があります、やっと、この地にも雪が積もったのですから」
「なぜ今、ご実家なんですか?今度はそのご実家で住み着かれるわけですか?」
「いえ、やっと、その時が来たんですよ。妹が結婚したんです・・」

なんだかよく分からず、けれど、僕はクルマを彼女の言うままに走らせた。
加古川の臨海工業地帯ほど近く、新幹線の線路が通過する少し北側に彼女の、目的地があった。

「ここです・・ありがとう・・23年も一瞬出会っただけのわたしを覚えていてくれて・・ありがとう・・」
彼女の、幽霊が礼を言うのに、僕の口から出た言葉は、タクシードライバーの本能そのままの言葉だった。
「いえいえ、ですが、料金はいかがしましょう・・このおうちの方が下さるとは思えませんが」
そういう僕に、幽霊の彼女は悪戯っぽく笑った。
「きちんとお支払いしますよ、ありがとうございました・・このお札は消えたりはしませんから・・」
彼女は、幽霊は、そう言って紙幣を手渡してくれた。
「おつりはいいですから・・本当にありがとう、お嬢様に素敵なご縁がありますように・・」
女性はそう言って僕がドアを開ける前に姿を消した。

雪明かりに照らされる瀟洒な戸建て住宅の前だ。

ルームランプを付け、あの女性がくれた紙幣を手に取ってみると、それは聖徳太子の印刷された旧紙幣の一万円札二枚で、冷凍庫の中から取り出したかのように冷たかった。


それから10カ月以上経っただろうか・・
次の冬の初めだ。
僕は出勤前に妻・娘と朝食を摂っていて、何気なく地方新聞の記事を見ていた。
地域版の隅の方、「お誕生!!」のコーナーに目をやるとひときわ丸々と太った赤ちゃんが目に入った。

垂水区、Aさんの長女、深雪(みゆき)ちゃん、12月24日生まれ。

しげしげと、その写真を眺めた。
この大きな瞳はまさに深雪ちゃんやな・・

深雪ちゃん、教えてくれてありがとう・・
僕にはこの赤ちゃんが二十歳代になったときに、何処かで会えるような気がしていた。


夢想旅生

・・アーナンダよ・・ここはどこか・・
師よ・・ここはクシナーラーのマツバ族のウパヴァッタナです。
・・私は、どうしてここに居るのか・・
師よ、師は私たちがとめるのも聞かれず、ここを目指されました。
・・そうか、それはお前たちに迷惑をかけたかもしれない・・
いえ、師よ、そのようなことはありません、師の行く先についていくのが私たちの願いです。
・・花が咲いたな・・

今、師と呼ばれるシッダルタの目には美しい花が見えていた。
時ならぬ沙羅双樹の花が開きつつあった。

師よ、確かに、先ほどから沙羅双樹が咲き始めております。
・・そうか、お前たちにも見えるか・・
師よ、どうかされましたか?
・・アーナンダよ、弟子たちを集めてほしい・・
師よ、いま少し、お休みになられては如何でしょう?
・・アーナンダよ、頼む、弟子たちを集めてほしい・・
かしこまりました。

アーナンダが去っていくその後姿に花が重なって見えた。
・・この世は・・すべてが美しい・・

シッダルタは、ふっと呟いて涙を流した。

「上人様、お気づきですか?」
「うん、ここは何処だろう?」
「武蔵の国、私の先祖代々の土地です」
「そうか、宗仲どの・・あなたは私をずっとそうやって見ていてくれたのか・・」
「上人様、私一人ではありません・・御弟子僧の方々も、弟宗長も、四条の中務も控えております・・」
「そうか、皆で私を守ってくれたのだな」
「守っただなど、もったいないお言葉です」
「かたじけぬ・・私ごときのために・・」
「いえ、上人様は私たちの、いえ、日本の柱でございます・・」
「そう思ってくれるか・・私は果報者よ・・」
「ですので、早くご快癒され、またぜひご活躍を・・」

病床の日蓮は、宗仲に寂しい笑顔を見せる。
・・それは叶わぬ願いであろう・・

「夢を見た・・」
「上人様、どのような夢でございますか」
「うん、釈尊が息を引き取る前の夢だ」
「は・・」
「宗仲どの、集められる限りの弟子たちを集めてほしい・・ここ七日の内に・・」
「は!・・」
「桜が咲けば、私は皆と別れなければならぬ・・」
「桜でございますか・・しかし、さようなことは・・宗仲、信じられませぬ・・」
「案ずるな・・人は必ず死ぬ・・」

そのとき、宗仲はその言葉には返事をせずに、ただ俯いて泣いた。
それでも彼を動かしたのは、今はまだ桜の咲く季節ではないという常識だった。
つまり、上人は少なくとも春までは生きてくれる・・


なにやら、人の騒ぎ声が聞こえる。
押し問答をしているようだ。
・・アーナンダよ・・どうしたのか、なにかあったのか・・
師よ、今、地元のスパッダというものが来て、師の教えを請いたいと願うのです。
私は師が病床にあるからとお断りしたのですが・・
・・アーナンダよ、構わない、ここに招き入れてあげなさい・・
は、しかし、師は大変にお疲れになっておられます。
・・私は疲れてなどいない・・どうか、そのスパッダというものをここに招き入れてあげなさい・・
しかし・・
・・法を求めるものを拒んではならない、私の最後の弟子になるべき人を拒んではならないのだ・・
動かぬ身体を、無理に起こし、アーナンダに支えられるかのように、シッダルタは囲いの外に出た。
粗末な身なりの小男が平伏していた。
「これは、世尊・・お休みのところ、申し訳ございません」
・・スパッダどのか・・ようこそ、私のところへ来られましたね・・
「世尊・・早速ですが、教えていただきたいことがある・・」
小男は思いつめた表情でシッダルタに向かう。
・・なんなりと・・
シッダルタは優しく彼に応える。
雨季が終わる頃、咲き始めた多くの花に混じって時ならぬ沙羅双樹の花が目立ち始めていた。



なにやら人の騒ぎ声が聞こえる。
押し問答をしているようだ。
「宗仲どの、どうされた?何かあったのだろうか?」
「ただいま、伊勢法印と申すもの、部下数十騎ほか徒のものなど連れて上人様に法論を申し込んできております」
「なるほど、鎌倉の二階堂殿のご子息、出家して叡山にでたあの男であろう・・」
「は・・まさしく」
「世間知らず、怖いもの知らず、自分を大きく見せたいだけの若者に過ぎぬ・・」
「しかし、あまりにも大仰でございまして」
「ま・・鎌倉殿に仕える武士には、少々扱いにくい輩よのう・・」
「は・・」
「卿公・・を出せ・・それで十分だ」
「は・・されど・・」
「案ずるな、若い者には若い者が向かえばよい・・卿公ならば平然と片付けるだろう」

一刻もしないうちにあたりは静かになった。

「教主釈尊・・あなたは最後の時に弟子を得た・・私は最後のときに我が弟子の力を信じた・・」
日蓮は、呟くとまた深い眠りに入っていく。

秋が深まり、花の咲く気配はない。
だが、池のほとり、屋敷から程近いところで桜の蕾が膨らんだのを知っている人は居なかった。

歪みを持たない眼で物事を見、我欲を離れた心で思索し、素直で美しい言葉を語り、欲望の赴くままに物事を為すことせず、善い事を行い、冷静に自分を見据えて、雑念なく心を定めること・・
どこかの寺院で聞いたような説法が頭の中に広がる。
僅かにトンネルの出口のような光が見え、やがてその光が近づいてくる。

たとえ、一度であっても南無妙法蓮華経と唱えたものは未来にわたって幸せになれる・・
どこかの社会運動家のような男の声がする。
トンネルの先の光は大きくなり、俺を包み込んでいく。

だが・・俺は決して人に誉められるような生き方をしてきたわけではない。
経を唱えるようなことも全くなかったはずだ。
金も欲しかったし、女も、住む家も、世間の評判もそのすべてが欲しかったはずだ。
だのに、聖者たちよ、何故にあなた方は。、こんな俺にあなた方の臨終の際の夢を見せるのか・・
俺もまた、まもなく死ぬだろう。
だが、俺はあなた方とは違う。

欲望のままに生き、欲望のままに人を欺き、欲望のままに身体を使い、果てはたった一つの身体を壊してこうして死に行く場面にあるはずだ。

俺は聖者たちとはその生きる世界が違うのだ。

「あなたは、私の弟子です」
誰かのかすかな声が聞こえる。
会ったことはないが、この声は釈尊だろうか。
「貴殿の力を信じていますよ」
力強いがやや年配の男の声もする。
会ったことはないが、この声こそ、日蓮だろうか。

俺は別に仏教の信者ではないはずだ。
ましてや日蓮宗などではない。

ただ、ここに来る何日か前、いつも酒を舐めながら相手をしてくれる古本屋の親父に薦められた何冊かの本をドヤに持ちこみ・・そして、次の日もその次の日も雨だったから・・為すべきこともなくてひたすら貪るように、その本を読んだだけだ。
・・そういえば、その本の中に出てきた題目を一度、口に出したかもしれない。

そして雨が上がって・・
仕事にありついて・・

なぜか今はここにいる・・多分、病院だろうか・・
俺はまもなく死ぬのか・・

なにやら人の声がする。
「眼が覚めましたか?」
太い声がした。
だが、その顔は僧ではなく、白衣の医師だ。
「よくぞ助かりました・・」
助かった?
そんなはずはない。
俺は死んだはずだ。
だからこそ、聖者たちは俺に自らの死の直前の姿を見せてくれたのではないのか。

「素晴らしい生命力ですよ」
白衣の男が言う。
なにか、反論したい。
だが、声が出ない。

生きなければならないらしい・・
生きて、何かを語らなければならないらしい・・
何かをしなければならないらしい・・
それも、しんどいことではある・・

そのときの俺は、ふっとそう思ってまた眠りに入っていってしまったのだ。

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