無料レンタル FC2 Blog Ranking story(小さな物語)   那覇新一 短編

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kou1960

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ルミナリエ

1217ルミナリエ広場

冬の夕方になると、君は人通りの多いライトアップされた街中を避けるようになる。
陽の短い冬の午後、三時ころになると君は決まって「人が増える前に帰ろう」とか、あるいは「どこかに入ろうよ、寒いから」などという。
春から秋の初めまでは、君も夜の帳の下りた三宮で賑やかな夜を楽しむのだけれど、少なくとも僕と君が出会ってからの五年は・・ずっと冬の夜には街中に出ていかない君だ。

だが今夜は神戸では冬の風物詩として根付いている「神戸ルミナリエ」の最終日だ。
僕は「今夜だけはルミナリエを見に行こうよ」と少し強く君に押した。
君は心なしか悲しい表情をしながらも「うん」と頷いてくれた。

元町駅前からの長い行列は、車道を厳重に囲んだ専用通路で、道路わきの歩道とは確実に仕切られている。

それにしてもだ、この街の、冬の夜のライトアップは居並ぶビルや商店の全てであり、街路樹までもが無数の電球で飾られていて、美しい。
クリスマスのライトアップとしては、たぶん、関西ではここの右に出る街はないんじゃないかと思うくらいだ。
「きれいだね・・」
僕のふっと漏らしたつぶやきに君は「そう?」とだけ答えた。
「なんか、機嫌悪そうだな・・無理やり連れてきたからかい?」
「別に・・機嫌はいつも通りなんやけどね」
いつもの柔らかな関西弁のイントネーションで、それでも機嫌の悪そうな君の横顔は様々な人工の光の中で美しい。

車道幅いっぱいの大行列は、元町の大丸前から一旦、ずっと東の三宮神社の先まで行き、そこから一筋南の道路へ・・
今度は元町の大丸を目指して歩くという大迂回だ。
「寒くないか・・」
今年の冬は寒い、まだ十二月の半ばだというのに気温は零度近いのではないだろうか。
「別に…」また愛想もなく君が答える。
「やっぱり機嫌が悪いんだ・・」
「こうして一緒に歩いとるんやから、機嫌が悪うてもええやん・・」
大丸百貨店の東脇の樹々につけられたイルミネーションはことのほか鮮やかで、軽い音楽が流れてくる。
ここまですでに三十分以上、歩いたり止まったりしている。

そして大丸百貨店の南角を曲がり、旧居留地に入った途端、巨大な光の塔とその先の長い光の回廊が僕たちの目の前に現れる。
「すごい、すごいね」
僕は思わず叫んだ。
横の君を見ると、君は頬を紅潮させ、光を見つめている。

大勢の人がスマホで写真を撮影したり、中には大きなカメラ機材をもって撮影している人もある。
警備員や警官が「立ち止まらないでください」と叫ぶ。
荘厳な音楽が流れている。
だが、観客は皆、この景色を見に来たのであって、立ち止まらずになんていうのは無理だろう。
行列の進む速度は遅く、人々の表情は笑顔であふれている。

僕もあまりの美しさに頬が緩む。
だが、君はじっと前を強く見据えたまま、黙々と歩く。
僕が何か感嘆の言葉を発しても、無視するか、黙って頷くだけだ。

光の回廊を過ぎ、東遊園と言われる広い公園に入ると、そこには巨大な光のアーチと、その先の巨大な光の城があった。
ここには三宮から行列なしでも入れるためか、回廊を歩く人の数倍の人がいるように思える。
だが、それでも光の城に近づくとそれなりに空間もでき、僕は自分のスマホでゆっくりと写真を撮る。

その時だ、君が急に僕の手を握った。
「こっち」と言いながら僕を光の城の外側に連れていく。
「どこに行くの?」
「行かなアカンとこなんよ」
人の流れを横切り、タコ焼きやケパプや牛串の店が並んでいるその脇、ルミナリエの光がそこだけは届かない僅かの空間、屋台から食べ物の匂いが流れてくるその暗がり・・そこに人々が入れ代わり立ち代わり、やってきている場所があった。


1217ルミナリエ震災の火

そこにあったのはガラスケースに収められた小さな炎。
その前で君は立ち止まり手を合わせた。
「これは・・」
「知らんかったん?あの震災の時の炎・・」
ここは暗がりで君の表情がよく見えない、だが君は目に一杯涙をためているように見える。

僕もそこで手を合わせた。
そこだけは何か冒しがたい雰囲気があった。
そこに集まる人々の表情から明るさや楽しさは窺い知れない。

君は炎に何かを語りかけているようだった。
「もしかして・・君の関係する人が震災で亡くなられたの?」
恐る恐る、炎を見つめる君に訊いた。
「父と母と、何人もの友達と、近所のたくさんの人と・・」
小さな声で君はそう言った。
そしていきなり大声をあげて泣き出した。

******

あの日、須磨区で崩れた家の中から、子供たちの泣き声がした。
まだ夜の明けきらない真っ暗な中、周囲の人が必死になって瓦礫をどけて、その子供たちを救い出した。
小学生の兄と妹だった。
一階にお父さんとお母さんがいるという。
一階と言っても崩れてしまった家では二階が一階を押しつぶしたような格好になり、とても人力で瓦礫をどけられる状態ではない。
それでも、大人たちは必至で親の名前を呼びながら瓦礫を退けようとする。
やがて、布団が出てきて、すぐに人の足先が見えた。
だがそれ以上ではとても人力では、身体に乗りかかっている木材を動かくことができない。
朝から辺りには近所で発生した火事の煙が漂ってきたが、ついにその炎が家のあった場所にも近づく。
「逃げよう」
誰となくそういう声がした。
逃げなければ自分たちが炎にまかれるのだ。
消防のサイレンはすれど、一向に火が鎮まる様子はなく、むしろ火勢は勢いを増し、真っ黒な黒煙があたりを覆う。
小学生の兄と妹は、そこから大人たちに無理に引き離された。
「おかあさん、おとうさん」と泣き叫ぶ声に、大人たちはどうすることもできず、黙って兄と妹をその場所から近所の小学校へと連れて行った。

*****

「帰る」
泣きながらそういう君を手を取り、僕らはその場を離れることになった。
僕は君の生い立ちを詳しく訊いたことはなかったし、ご両親が亡くなられていることは知ってはいても、それが神戸の震災の故だとは気づきもしなかった。
ただ、唯一の身内としてお兄さんが一人あって、近くで家庭を持っているということだった。

人混みの中を、右に左に避けながら、それでも串に刺したリンゴ飴をかじりながら歩いている女性の集団や、焼き鳥の串を歩きながら齧っている家族連れなどに少し危険を感じながら、公園の北の端まで来た時、君が立ち止まった。
そこには女性の裸像があって、時計を抱いていた。

1217東遊園地震災彫刻加工

「あの娘、可愛そうやんな・・寒い冬でも裸やなんて」
「ああ」
まさかそんなものにそう言う感情を抱くのが僕には不思議だ。
「時計を見てよ」
その時計の針が五時四十七分を指している。
「めっちゃ肌も汚れて、だれも綺麗にしてあげたいとか、服を着させてあげたいとか思わへんのかな」

ルミナリエの光の祭典の脇で、君は立ちすくんで裸像を見る。
僕はやっと、君が、冬の夜の神戸を嫌う気持ちが理解できた瞬間だった。
イルミネーションを見に来るたくさんの人々は、寒くて真っ暗な明け方の、火が迫る中での恐怖に満ちた時間を、命を終えねばならなかった時間を、感じ取ることはあるのだろうか。

僕は普段の数倍の人であふれる三宮の、ライトアップされたビルのその前で、君を抱きしめた。
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風の中のあなた


(本作品は「秋色の貴女」を銀河詩手帖用にリファインしたものです。285号に掲載されました)
加古川西岸イメージ


土手の線路際、僕は三脚に望遠レンズ付きのニコンを載せ秋風を肌に受ける
線路は僕のいる場所から数百メートルで大きく湾曲し
その向こうに神の山が聳える

やがて、神の山のふもと、はるか遠くに紫煙があがる
ファインダーに注視して、風を受けながらシャッターレリーズを握る
大きく湾曲する軌道の先で、紅いディーゼル機関車が姿を現し
それはゆっくりと軌道をトレースしながらファインダーの中で大きくなっていく

続けてシャッターを押す
風音と機関車のエンジンの音、僕が切っているシャッターの音が耳に入るすべてだ
列車がファインダーいっぱいになって、やがて青い客車が次々と現れる
ファインダーから列車の姿が消える

ふっと、こういう秋の日、この場所ではあなたに会える・・そんな想いがわく

間髪を入れず、「わたしに会えると思ってくれた?」
懐かしく、優しい声がする
後ろを振り返ると、秋色とでもいうのか
オレンジや茶、深緑をパッチワークのように組み合わせたワンピース姿の
・・あなたが立っていた

「思ってたよ、なんとなく、気持ちの良い秋風の日だから・・」
「嬉しいな、そう言ってくれるの」
柔らかな秋の日差しを浴び、霞のように現れたあなたが優しく僕を見つめてくれる
ショートの髪、朱色の口紅、色白で頬のあたりが紅い、いつものあなただ

「ここに来るの、ずいぶん、久しぶりでしょう」
「うん、仕事と家事に忙殺されてね」
「いいなぁ、幸せな家庭があるの・・」
あなたはそういって神の山のほうを見る
「君にだってあったじゃないか」
「幸せ?ないよ、そんなもの」
「仕事のできるご主人と、可愛い子供さん二人と」
「見た目はね‥功徳とやらがいっぱいの家庭の演出」
「そうかなぁ・・取り方はいろいろだろうけど」

*****

あれはもう何年前になるだろうか
この線路が湾曲する少し先の、当時は田圃の真ん中だった細い道を
一人の主婦が所用のために北へ向かっていた
そこに人だけが通れる小さな踏切があった
この地方特有の大きな太陽が神の山の脇に沈むその頃だ

ちょうど踏切の警報音が鳴り、夕陽の下に強いヘッドライトが見えたことだろう
主婦は一瞬立ち止まり、そのヘッドライトを見つめ、意を決したかのように
降りている遮断桿を持ち上げて線路に入り込んだ

そして軌道敷に座り込み、ヘッドライトを浴びせる機関車を見つめる
電気機関車EF210の泣き叫ぶような警笛があたりに響く
ブレーキシューが車輪踏面を押さえつけ
車輪とシューの鉄粉が線路に飛び散り、その接触の金属音が激しく長くこだまする
主婦はじっと電気機関車をにらみつけていた
「わたしをきちんと轢きなさい」と命じるかのように・・

*****

その場所は今は住宅に覆われ、町の中で線路と細い街路が交差する目立たない踏切だ
僕は数度、そこへ祈りに訪れたけれどそこであなたに会うことはなかった
あなたに再開したのはその数年後の秋に、ここの土手に来た時
今日と同じように列車の撮影に来た時だ
 もちろん、僕は現れたあなたに対して、非常に驚いた
だけれど、もともとが僕にとって憧れの女性だ
中学生の頃の清楚な美しさが今も心から消えることはなく、
ほかの人ならたぶん驚いて恐怖のあまりその場から逃げ出したかもしれない
そのシチュエーションで親しくあなたと話をして
あなたの生前に聞けなかったことを伺うことで却って嬉しく思ったものだ
 
中学生時代はあなたから見て、僕がかなりガキに見えたこと
今でも中学生の頃と同じようにカメラをもって列車を追うことに
ちょっと呆れていること、でも、そんな僕が自由に見えて羨ましかったことなど

名門といわれる宗教系の高校に進んだあなたは
本来は凱旋して帰ってきたはずなのに、心を病んでいた
やがてお見合いで結婚し、幸せに見える家庭を築いたけれど
あなたが家庭の中で笑う姿を、あなたの夫は見たことがないという

「わたしはただの親の道具、幸せの演出も組織を守るため」
「そこのところは僕にはよくわからないけど、僕には十分、幸せに見えたよ」
「親の言うままに、教団の学校に行って、エリートとして帰ってきた時の、わたしの心はボロボロ、そこには人間らしいものは何もなかったわ」
「そうか、僕はその頃には中学校を出て、鉄工所で仕事をしながら夜間高校に通っていたから、名門の学校に進めた君がうらやましかった‥」
「わたしには、自分の力で社会で生きて、自分の力で切り開くチャンスを持ったあなたが羨ましかった」
「そうかぁ・・えげつないものだぞ・・あの年ごろで一人で生きるのは‥」
「でも、それって親の意思はないでしょう…自分で決められるでしょう‥」
「確かにね‥」
あなたは神の山のほうを向いて立ったままだ
気に入らない言葉を僕が発するとあなたは消えてしまうかもしれない
でも、僕はあなたとの今のこの時間を大事にしたい
あなたに恋した中学生時代には持てなかった時間だ
 
「ねえ、優子さん」
僕はあなたの名前を呼んだ
「今の君から、僕を見てどう?ちょっとは男として成長したかな」
あなたは振り向いた。
秋色のワンピースに包まれたその顔形は中学生時代の
あなたが幸せだった時代の姿だ
「成長?」
そういったかと思うと大きな声で笑いだした
「あなたが成長なんてしているはずないでしょ」
「そうかなぁ・・この頃、商売も手広くやっているんだけど」
「商売も何も、いまこうしてカメラを抱えて線路際に来ていること自体
あなたがあの頃のまんまってことよね」
そういってあなたはさらに声を上げて笑う
まるで中学生時代の天真爛漫なあなたを見ているようだ

遠くから機関車の警笛が聞こえ、僕はカメラのファインダーを覗く
ふと、横を見るとあなたが興味深そうに僕を見ている
「ほんとに列車が好きなのね・・」
「うん・・・」
やがてファインダーの中に沢山のコンテナ貨車を牽いたEF66形機関車が現れ
僕は夢中でシャッターを切る
列車が去ってまた秋風の吹く土手、オレンジの光が辺りを占め始めている

もう少しであなたを撥ねたあの貨物列車の時刻だ。

「一つだけ、わたし、あなたに謝らなきゃ・・」
「なにを??」
「あなたの好きな列車を傷つけたこと、列車に恨みはないからね」

 陽が沈む・・この列車の牽引機は、あの時と同じようにEF210のはずだ
遠くで踏切が鳴る
僕はカメラのファインダーを覗く
あなたが横で、カメラを扱う僕を見てくれているような気がする
呆れたような、不思議そうな表情で

その女(ひと)

よるイメージbw


「わたし、百人切りしちゃった」
可愛い顔して、ふっと悪戯っぽく、そんなことをいうあなたに僕は正直、驚いた。
「切るって・・・なにを?」
「決まってるじゃない、昨日でちょうど百人になったってこと」

細長い煙草をふかし、大きな瞳で少し笑みを漏らしながら僕を見る。
僕がその頃から、仕事帰りに通いだした、髭のマスターのいるショットバーでだ。

あなたは偶然、カウンターの僕の隣に腰掛けて、そしてマスターと数回、言葉を交わしてから僕に声をかけてきた。

「なにが・・」
そう言いかけて、鈍感な僕にも分かったのだ。
「もしかして・・セックスの相手?」
「そりゃそうよ、決まってるじゃない」
「すごいなぁ・・」
僕にはそれ以上の返答をすることができない。

あなたから見た僕は、たぶん、鶏が猫にでもいきなり出会ったかのような表情をしていたのではないだろうか。

見た目はとても清楚な女性だ。
若い女性ではなく、年のころは三十代後半くらいだろうか。
全体に身体が小さく、けれど華やかな雰囲気に満ちている。
しっかりコーディネートされた青を基調としたファッションはよく似合っているし、化粧も華やかでありながら、濃すぎるという印象も受けず、上等過ぎない淡い香水の香りが彼女を引き立て、品の良いイヤリングがきれいな耳たぶにぶら下がる。
細長い煙草をお洒落に咥え、ゆっくりとうまそうに煙を僕にかからいように、自分の上のほうにむける。
灰皿に置いた吸い殻には朱色の口紅が残る。

「とてもそんな風には見えないけど」
やっとのことで僕がそう言うと、あなたは眼を大きく見開き、さらに悪戯っぽく言う。
「じゃ、一度、やってみます?とても上手ですよ‥わたし」
「いやいや・・」
「あ、勘違いしないでね、わたしは、自分が気に入った男性としかそういう関係にならないから・・」
「はぁ・・」
僕はこの可愛い女性に圧倒されてしまい、ただ、まじまじとあなたのほうを見るだけだ。

「アナタ、今夜はお暇ですか?」
「いや、その・・」
「ちょっとあなたのこと、気になったのよ」

僕にはあなたがまるで異星から来た宇宙人のように見えた。
こんなことをいう女性には会ったことがないし、どう対応していいか全くつかめない。
その時、店のマスターがカウンターの向こうから声をかけてくれた。

「ジュンちゃん、彼はいたって真面目な人だからね・・あまり驚かせたらだめだよ」
ジュンちゃんと呼ばれたあなたはクスっと上品な笑みを漏らし「この人、なんだか気になるのよ~~」なんて言う。
「ダメダメ、今夜はきちんと帰りなさい、旦那さんと息子さんの待つご自宅へね」
マスターがしかめっ面をしてあなたを見据える。

「え~~、つまんないの・・旦那といるの」
「だめだよ!!」
あなたは助けを求めるかのように僕を見る。
「ね・・アナタだって、今夜は遊びたいよね」
返答に困っているとマスターが僕に目配せをした。
「いや、今夜はちょっと帰って仕事の続きするから・・」
マスターが大きく頷く。
「つまんない、遊びたいのに・・」

演技とも、本当にそう言っているともとれるあなたに、僕は少し興味を持ち始めていた。
「ところで、ご家庭がおありなんですか?」
あなたはまた細長い煙草を咥えなおして僕のほうをじっと見つめる。
「ありますよ・・仕事のできるイケメン主人と、可愛い息子があります」
「では、そのご家庭の中でうまくいっておられないんですか?」
「いえ、とてもうまくいっている、傍から見れば羨ましいような家庭です」
「では、ご主人がソチラのほうがあまりよくないとか・・」
「ソチラ?・・ああ・セックスのこと?」
「はい」
「主人はとても上手ですよ。私が求めていることをいつもよく分かってくれる」
「はぁ・・そしたら・・」
「なんですか?」
「なんで百人切りとか・・・」
「だって・・いろんな人と楽しみたいじゃないですか、人生は一度きりだし」
「確かにそういわれれば・・」
「でしょ、だから今から行きましょうよ、ホテル代だけ出してくれたらいいから」
また悪戯っぽく、あなたは僕を見つめる。

けれど、その日、僕は一人で帰宅した。
僕にも家庭があり、今、妻や娘を裏切ることは出来っこない。
そしてそう決心したはずなのに、その夜にあなたに付いていかなかったことを後悔している自分があった。
あの、きれいな黒い服の下はどうなっているんだろうとか、上手というのはどういうことをいうのだろうかとか、想像したらきりがなく、僕はしばらく妄想に取りつかれることになってしまった。

数週間してようやく妄想も溶け、またあのマスターの店に行き、誰かと話をするわけでもなく、ぼうっと飲んでいた。

「お久しぶり!」
あなたは、そうすることが当然であるという風に、僕の隣に座って身体を寄せてきた。
「覚えてます?わたしのこと」
「はい、もちろん・・」
その時のあなたは、黒のミニワンピースに身を包んでいた。
やはりきちんと上品に、そして清楚にまとめられている。
「今夜はどうかしら?」
「う~ん、僕には家庭もあるし」
「恋人になるんじゃないの、そういうことするお友達がいてもいいって思いません?」
そう言いながら細長い煙草に火をつける。
「はぁ・・」
確かにそれも一理あるかもしれない・・そう言う想いをすぐ自分で打ち消した。

そこへマスターが声をかけてくれた。
「ジュンちゃん、うちのお客に手を出すの勘弁してよ」
「手を出してなんかいないわ、手を出すのは殿方のほう・・」
そう言いかけて、あなたはハッと口元を抑えた。
「手じゃなく出すのは・・あっちのほうね~」
これには僕も笑ってしまった。
笑ってしまったらそのまま、あなたのペースに巻き込まれそうだが、もう仕方がない。
それにその日の僕はかなり酔っていた。
会社の上司と呑んだ後、上司を駅へ送り、その足で呑みなおしに来たのだ。

それから小一時間、その店にいて、僕はあなたと連れ立って店を出た。
「あまり、君が入れ込むべき女じゃないからね」
店を出るとき、マスターがそう囁いてくれた。

「まぁ、いろんな出会いがあってね・・わたしはその出会いを肌に残したいだけなのかもね」
歩きながらあなたはそんなことを言った。
「こう見えても、相手の人の本性は見抜いているはずなの。アナタをみて、この人は大丈夫ってね」
「はぁ・・」
答えに窮しながら僕はあなたが、凭れかかるのを支えながら、夜の街を歩いた。

「わたしね、結構苦労してるのよ、親とは今も断絶だし・・だから余計に人の裏側も見えてしまうの」
「はぁ」
「出会うだけじゃいや、繫がりたいって心底思うの」

そうなのか、そうかもしれない・・と思いながら、僕は自分の思考を停めることにした。

二人で歩く道の先にラブホテルの明るいネオンが見える。
「わたし、上手なのよ、期待していいよ」

はしゃぐあなたの声が、進んではいけない道へ僕の背中を押す。

汽車の女

C5644かわねじ号イメージ


「汽車が好きなの」と、その彼女は言った。
真夏なのに黒のワンピースを着た長い黒髪の女だ。
彼女とは、つい先ほど出会ったばかりだ。

真夏の太陽を浴びて山間の鉄橋を、黒い蒸気機関車が茶色の客車を率いて突っ切っていく。
列車が来るまでは聞こえていた川の水音や鳥のさえずり、セミの鳴き声は消え失せ、小型の機関車ゆえのささやかさだがそれでも蒸気機関車特有のドラフトを響かせ、列車は橋桁からあの重い金属音を湧き立たせながら通過していく。
機関車が去ったあとは何両も繋がった茶色い客車の、規則正しいレールジョイントの音が山間にこだまする。
堤防脇で三脚を立て、大仰な大口径レンズをデジタル一眼レフに装着した僕が、前を横切る観光用のSL列車のドラフトを聴きながら夢中でシャッターを切り、そして静寂が戻った夏の河原の風景を眺めた時、自分のすぐ傍、10メートルほどのところに立っている彼女に気が付いた。

彼女は首から大きなニコン製のデジタル一眼レフをぶら下げていた。
黒いワンピースの上の胸のふくらみのやや下あたりで、巨大なカメラが存在感を見せつける。
昨今では鉄道好きな女性が増え、その人たちを「鉄子」さんと呼んでいるが、ほとんどの場合、鉄子さんたちは列車そのものより旅の風景としての鉄道、旅のアイテムとしての鉄道を好むように感じていた。

僕は彼女に近寄り、話しかけた。
「あなたもSLがお好きなんですね」
彼女は夏の炎天に巨大なカメラをぶら下げているというのに汗も掻いているようには見えず、頭の上からの直射日光を浴びながらも笑顔を見せる。
セミロングの黒髪がかえって涼しげに見える。

「私、蒸機が大好きなんですよ」
SLという言葉で表現せずに、蒸機と言った彼女に僕は一瞬たじろいだ。
なぜならSLを蒸機と言うのは、ふつうは僕なんかよりずっと年配の鉄道ファンだからだ。

「今日はC56(シゴロク)にオハ35(サンゴ)でしたね。好きな組み合わせですが、ここはやはり架線があるのが今一つなんです・・それと蒸機はもう少し大きめな・・でも、D51(デコイチ)では大きすぎて、この風景だとC57(シゴナナ)あたりがいいですけどね」
次に彼女の口から出た言葉は、僕をさらに驚かせた。
とても昨今流行りの「鉄子」さんが俄仕込みで喋っていることとは思えない。
「お若いのに、とても詳しいんですね」思わず僕の口から出た言葉がこれだ。
彼女はふっと僕のほうを見て、不思議そうに小首をかしげる。
「あら、特に詳しいというほどのことはないと思います」
「そう・・そうですね・・」
僕は圧倒され、そのことについてそれ以上は言えなくなってしまった。
このあと、少し歩いた始発駅から、先ほどの列車の折り返しに乗車するのが僕の予定で、僕は三脚を片付け始めた。
「あら、この後の列車、緑のズームカーですよ。これも撮らないと」
彼女が僕の背に話しかける。
「いや・・上りのSL列車に乗るので・・」
「十分、乗れますよ。緑の中を薄緑の電車が走るのもいいと思いますけど」
「は・・はぁ・・」
「私も、上りの蒸機列車の切符を買っていますからよろしかったらご一緒にいかがですか」
美女にそう言われて悪い気はしない。
でも、僕はもう、十分、彼女に圧倒されてしまっている。
やがて、先ほどのSL列車が向かった方向から薄緑に濃緑の帯を締めた「ズームカー」がゆっくりとやってきた。
元は関西の私鉄で特急や急行として使った電車で、確かに鉄道ファンの中にはこの電車だけを見に来る人もいる。
僕と彼女は並んでこの電車を撮影したが、電車が鉄橋を渡るとき彼女は小さくつぶやいた。
「やっぱりここのシチュエーションではこの電車が似合うわね‥」

電車が去ってしまったあと、僕は彼女と並んで駅への道を歩いた。
これは自然の成り行きだ。
「電車もお好きなんですね」
「あの電車は、私の父が好きだった電車なんです。うちはあの電車の沿線で・・」
「そうなんですね・・とても普通の鉄子さんよりはお詳しいのでびっくりしました」
「そうかなぁ・・たぶん、父の教育ゆえですね・・」
そう言って彼女は明るく笑う。

いくら山の中でもさすがに真夏、駅までの1キロほどを歩くだけで僕は大汗を掻く。
けれど、並んで歩いている彼女は涼しげで、気持ちよさそうに山々の風景を楽しんでいるようだ。
「暑くないですか?」
「わたしは暑さには強いので‥」
淡々と彼女は山々を眺めながら答える。
駅に着くと、先ほどのSL列車が機関車の位置を前後に換え終わって列車が組成されていた。

ホームを歩きながら、彼女と僕のチケットに指定された号車・席番が異なることで、ちょうど通りがかりの車掌に尋ねてみた。
「いいですよ、座席はワンボックスごとに発売していますからお連れさんがなければお一人でワンボックスになっています。ですので、お二人でそのボックスに座られても全然、大丈夫ですよ」
愛想よく、車掌が答えてくれた。
僕と彼女はどちらのチケットの座席でもいいわけだ。

一両の古めかしい茶色の客車の中で、向かい合って僕らは座った。
彼女は嬉しそうに客車のあちらこちらの方向を眺め、ごついカメラのレンズを向ける。
「懐かしいなぁ‥オハ35(サンゴ)のこの雰囲気・・」
彼女の言葉に、僕はちょっと気になり、軽い気持ちで訊いた。
「オハ35が実際に営業列車として走っていた時代をご存じなんですか?」
彼女は天井のたぶん、照明器具にカメラを向けながら「昭和50年頃までかなぁ‥オハ35はその頃では割と多かった客車で‥」と呟く。
「え・・」
「よく乗りましたよ・・山陰本線とか・・・」
そのあとにさらに呟く。
「最初はシゴナナ、それがディーゼルになったときは悲しかったですね」
彼女は天井の次は窓周りにカメラを向け、ちょっ悪戯っぽく笑った。

僕は目の前の若い女性が、何かとんでもない怪物なのではと・・思い始めていた。

「女性にこういうことをお伺いするのは失礼ですけど・・お歳はおいくつ・・?」
一瞬、彼女の動きが止まった。
そして僕を見つめた。

しばしの沈黙の後、彼女はため息をついた。
「わたし、何か変なこと言いませんでしたか‥」
「いや、この客車が山陰本線で走っていた時代をご存じとか仰るものですから・・」
「ああ・・また・・」
「?」
「わたしは平成の生まれです。知っているはずないですよね」
「それはそうでしょうが・・失礼なこと、お伺いしました」
「ときどき、わたしの中の別の人格がでてしまう・・」
「別の人格ですか?」
「その人格のおかげか、どこで知ったかも記憶にない知識が飛び出してしまうんです」

車内放送があり、汽笛が鳴る。
ほかの乗客たちが嬉しそうにざわめく。

「さっきの・・いや、最初にお会いした時の蒸機という言葉や、シゴロクとかオハサンゴ・・」
僕が確かめるように彼女に聞いた途端、彼女はまた大きなため息をついた。

列車は先ほど僕たちがいた鉄橋を渡り、カーブの多い山間の路線をゆっくり進む。
「もうね・・わたしにはどの知識が私自身が得た知識で、どの知識が別の人格からもたらされたものなのか・・見当もつかなくなっているんです」
夏の大河の河原を見ながら、彼女は屈託のない表情になる。
開け放した窓から、さすがに都会では味わえない涼しい空気が流れ込んでくる。

「もしかしたら、その別の人格というのは‥お父様ですか?」
窓框に肘を置き、汽車の旅を楽しむ雰囲気そのままに、彼女は小さく頷いた。

「汽車が好きな人でね・・家族なんてほったらかし・・」
「でも、あなたも案外、鉄道がお好きだったのでは」
「そう、うちには弟もあるけど、なぜだか私だけが父の影響を受けて鉄道好きになったの」
「で・・今でも?」
「汽車が好き」

フフッと彼女は含み笑いをした。
「ビール、さっき買っておいたの」
手に持った買い物袋から取り出した缶ビールを二本、窓下のテーブルにおいてくれた。
先ほどの始発駅で、そういえばちょっと彼女と僕が離れた一瞬があった‥あの時に買ったものだろうか。
「どうぞ」
二人して缶ビールのプルタブを開け、缶を合わせて乾杯する。
「父は、わたしが二十歳の時に、撮影旅行に行く準備をしていて倒れてそのまま亡くなったのです」
「それは悔しかったでしょうね」
「どうかな・・いつも旅行に出かけるその前が一番楽しいって言ってましたから・・」
「あ、それは僕もわかります。時刻表を見たり、カメラを用意したりしているときってすごく楽しい」
「でしょう・・だから、案外、一番楽しい時に楽しいまま逝ったのではないかなぁ‥」
「でも、やっぱりその先の撮影ポイントにはいきたかったはずですよ」
うんうんと頷く彼女。
袋から新しい缶ビールを手に、「もう一本、飲みます?」と僕に聞いてくれた。


「父は列車に乗ってお酒を飲むのが好きでね・・時々、わたしを撮影旅行に連れて行ってくれて、その時によく呑んでいた・・」
「楽しそうですね」
「でも、母は、ひとっつも家族旅行に行かせてくれない父に腹を立てていたわね‥わたしだけ、鉄道好きの気持ちがわかるから、父によく連れて行ってもらったけど」

黒いワンピースの彼女は屈託なく窓の外を見る。
白い肌にセミロングの髪、軟らかそうに盛り上がる胸の膨らみ。
その風貌に似合わない巨大なニコンのデジタル一眼レフが膝の上にあり、窓框に肘を乗せたその手には缶ビール。
不思議な組み合わせの向かいの席の彼女に、僕は得難い出会いをしたかのような気持ちになる。

トンネルに入る。
冷気が飛び込んでくる。
来るときは冷房付きの電車だったから、このトンネルの冷気は初めて気が付いた。
「トンネル、涼しいね‥」
僕が思わずそういうと、彼女は「昔と違って石炭がいいから、トンネルでも窓を閉めずによくなったの」という。
「それはお父さんの知識?」
「いいえ、来るときに車掌さんから聞きました」
彼女はそう言って笑った。
白熱灯照明に照らされた白い顔が美しい。

長いトンネルだ。
「きみ・・」
彼女が僕のほうを向く。
「君は独りものかい?」
姿勢を正して、彼女の口から男性のような言葉が出る。
「はい」
僕は一瞬で撃ち止められた鳥のように素直に小さくなる。
「相手はあるのかい」
「いいえ、鉄道と結婚すると周りも自分も思っていました」
「そうか、では娘を頼むよ、君とならうまくやっていけそうだ」
「はい」
思わず僕がそう答えると、彼女はクスリと笑う。
「今の言葉はわたしの父ですか?」
列車がトンネルを抜け、セミの鳴き声が列車を囲む。
「さぁ、それは僕にはわからないけど、どっちでもいい」
僕の答えに彼女は缶ビールを一気に飲んで、そして嬉しそうな笑顔をくれた。

機関車が汽笛を鳴らす。

デッキ

デッキ

友人たちに会うために行った東京からの帰途、青春18きっぷ発売シーズンに運転される夜行臨時快速「ムーンライトながら」に乗った僕は、車内が暑いなと思いながらも、東京での二日間の趣味活動の疲れに、すぐに寝入ってしまった。

車両のモーターの音が控えめに車内に入り、レールジョイントの音が心地よく・・と言いたいところだが、真夏の列車の冷房を抑えてある車内の暑さは疲れた僕の身体に堪えてしまったようだ。

いきなり吐き気がした。

窓側の席に座っていた僕は、隣で寝ている男性の膝にあたらぬように通路に出て、小走りにトイレに向かう。

客室内とは比べ物にならないくらい、モーターの音が甲高く響くデッキからトイレに入り、客室内よりさらに冷房の効きが悪いトイレの、洋式の便座を上げ、一気に吐いた。

何度か嘔吐を繰り返し、やや落ち着いたので便器に水を流して、洗面所へ、ここで口を漱ぐ。 気持ちを取り直した僕は、自席へ帰ったが、また十分もしないうちに吐き気に襲われた。

また、隣席の人に気を遣って通路に出て、トイレへ向かう。

吐くと言っても、夕食に何かをたくさん食べたわけではないし、お酒を飲んだわけでもない。

列車待ちの東京駅のホームで、昼間の猛暑の余韻が肌にまつわりつき、いくら拭き取っても噴き出す汗に、ちょうど傍にあった自販機で冷たくて喉の渇きが取れそうなアイスコーヒーの缶を見つけ、それを飲んでホッとした…







だから僕の胃に入っているものといえば、その缶コーヒー位のはずだから、僕がトイレで吐くのも茶色の液体ばかりだ。それも、二度目とあっては吐き気だけで、出てくるのは胃液しかない。

「酒を呑んだわけでもない俺にこの仕打ちはないんじゃないの」

そう恨み言もでるが、自分の体調が悪く、やや熱中症気味の中、列車の暑さにやられたというのが正しい現状判断というものだろう。

二度あることは三度も四度もある・・僕は、また気分が悪くなって席を立つときに、隣席の人に迷惑をかけるといけないと思い、しばらくはデッキで過ごすことにした。

全席座席指定の臨時快速、デッキに出る人はまずいない。



列車はモーターのうなりを上げて突っ走る。それも驚くような高速でだ。

今や鉄道幹線の夜間は高速貨物列車で占められていて、それら貨物列車の筋を乱さないようなダイヤにせざるを得ず、本来はゆっくり走ってよいはずの夜行快速も時速百キロは出ているであろう高速運転を続けているのだろう。

デッキの床にしゃがみこんだり、時折立ったり、そして、時折襲ってくる吐き気に、トイレに行ったりしてすごす。雨が扉の窓にたたきつけられている。

深夜の通過駅は、明かりも消え、駅名も判然としない。

そういえば・・昔、このようなことがあったなと・・古い記憶が呼び起こされる。

ただ、そのころの僕は独りではなかった。



*****



あれは三十数年前、東京からの下り、銀河五十一号という列車だった。

東京駅の窓口、大阪行きの寝台急行「銀河」のチケットが取れず、窓口の駅員氏の勧めで後続の全車座席指定臨時急行「銀河五十一号」の存在を教えてもらい、僕らはその切符を手にした。

半分ほどの座席が埋まっている車内で、僕と君は並んで席をとることができたから幸運だったのかもしれない。

座席は青いリクライニングシートだったが、今の夜行バスや、今夜の「ムーンライトながら」の座席のように深くリクライニングする座席ではなく、わずかに少し傾く程度のシートだったが、それでも列車の座席といえばあの直角の椅子を連想する当時の僕らには高級な座席に見えたものだ。

列車がゆっくりと東京駅を滑りだし、窓を街の明かりが流れるようになって、君が僕にもたれかかってきた。

「ごめんね」君は囁くようにそういう。

「ええよ、べつに君が悪いわけやないし」

「うちの両親、特に母が曲者でさぁ・・もう、これ以上無理よね」

「いや、無理なんて言わず、認めてくれるまで頑張るしかないやろ」

僕たちはこの日、彼女の両親に結婚するつもりであることを報告し、その了承を得るために東京都内、根津にある君の実家を訪問したのだった。

ご両親のうち、君の父親は僕を見て案外気に入っていただいたようだったが、問題は君の母親だった。



しばらくは好意的に話す君の父親の話を聞いていた風だったが、突然頭を上げて、とんでもないことを言い出した。

「私は、人の将来を見る力があります」

「え??」

「あなたは、うちの娘の相手には不適格です」

「いや、お母さん、それはどのような理由で?」

「理由なんてありません、私は毎日、仏壇に祈っております。その答えが駄目ということです」



もはや、何を言っても無理だった。

君の父親がいくらなだめても、母親は頑として受け付けず、なだめるほどに感情的になってしまう。僕と君の結婚は認められなかった。



それでも僕らは諦めることはできなかった。

だからこの度の失敗はともかくとして次回を期すしかない。

尻尾を巻く猫のように、君の自宅を逃げ出した僕らは、そのまま都内をうろついて、結局は今夜中の列車で神戸に帰ることにしたのだった。



夏の暑い夜、東京駅から乗車した「銀河五十一号」の青い車体は、僕に東京での敗北を実感させてしまう。列車内は今夜の「ムーンライトながら」のようには暑くなく、冷房が程よく効いて心地よかったが、僕の心は塞いでいた。



列車は夜の東海道をひた走る・・

車内のほかの乗客が寝静まったころ、君が僕に更にしなだれかかり、君の息が僕に感じられるまで顔を近づけてきた。

「ごめんね・・」

息が熱い…

「デッキに行こうか」僕たちは座席を立ち、車両の端のデッキに向かった。



今宵の列車のようにモーターの音が聞こえた記憶はない。

ドアの形も平べったい一枚ものではなく、中折れ式の二枚ものだった。

それに、ドアの手前はステップになっていて、床が一段下がっていた。



「ごめんね」君がまたいう。

「ええよ・・また次、頑張るから」

君は僕の体をデッキの壁に押し付けるように、僕にもたれかかってきた。

僕たちは長い口づけを交わした。



列車は時折汽笛を鳴らしながら突っ走っている。

立ったまま、君を抱きしめながら、僕の指先は君のブラウスの中に入り込んでいく。

ため息とも叫び声ともとれる君の小さな声が、列車の音にかき消されていく。



あらわになった君の乳房を揉みながら、ぼくは破滅への道を進んでいるのかと暗澹たる思いだった。



結局、君と僕は分かれた。君は親を捨てる気などないし、僕もそれ以上のエネルギーを使いたくはなかった。

一度だけ君にこう聞いたことがある。あれは周囲が喧しい三宮の居酒屋だったか。

「親を捨てて、僕ら二人、一緒になる気はないか」

君は、言葉ではなく、かぶりを振ることで僕に答えた。

「NO」であると・・・・



*****



臨時夜行快速「ムーンライトながら」は、少し夜が白みかかっている東海道を走っていた。つい30分ほど前、浜松でしばらく停車し、ドアを開けてくれたおかげで僕は駅のホームに出てベンチでしばし休んだことで体調を回復させていた。



デッキの平べったい大きなドアの窓から見る空が、わずかに青味がかる。

通過する駅名が読み取れる。

座席に戻るつもりはなく、僕はあの夜のことを思い出しながら、まだデッキの壁にもたれている。



小柄な、色白の、少しやんちゃに見える君の、あの夜の姿や表情は、今の僕にとっては宝物の思い出だ。

そして列車の中で、立ちながらお互いの肌を合わせたあの不思議な時間。



もし、寝台列車である夜行急行「銀河」のベッドが確保できていれば、僕らはベッドで抱き合っただろうか?

いや、それはないだろうと、今は思う。

座席夜行の、何ともいえぬ怠惰な雰囲気が、僕らをあのような世界に導いてくれたのかもしれない。



トイレへ向かう人が多くなってきた。

夜は明けつつある。

名古屋到着の案内放送が流れ、列車はたくさんの線路が展開する都会の中に入っていく。

「名古屋からは関西線にしよう、そう、亀山からの気動車がいいな」

僕は気持ちを切り替え、あと少しの旅の余韻を味わうつもりになっていた。


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