無料レンタル FC2 Blog Ranking story(小さな物語)   那覇新一 短編

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kou1960

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別府のべんとばこ

14別府鉄道キハ2別府口入構


山陽電車別府(べふ)駅の築堤下に見える、少し離れた二つの線路
それが「別府鉄道」という現役の鉄道路線であると、気が付いたのは引っ越しも済んで数週間が経つ頃だった。
というのは、僕はテレビニュースなどで地方の私鉄がどんどん廃止になっていく様子を見ていてそれが記憶に残っていたものだから、この路線もそういった廃線跡なのだろうと勝手に想像してしまっていたわけだ。

ある時、神戸へ行く母に同行していて、山陽電車のホームの下を緑とクリームに塗られた可愛い単行列車が走っているのを見た。

その山陽電車の別府駅ホームというのは不思議なところで、神戸と姫路を結ぶ私鉄である山陽電鉄と、その並びに当時、岡山まで開通していた山陽新幹線、そして山陽電車を潜っていたのが、昭和48年当時とて時の流れから置いてけぼりにされたようなクラシックなローカル私鉄という、今思えば鉄道ファンには堪らない場所だったのだ。

その時に見た小さな気動車は、これまたテレビか学校の掲示板に貼られていたニュース写真で見たことのある「マッチ箱電車」をイメージさせてくれた。
だが、どう見てもマッチ箱というより少し大きそうだ。

翌日、転校したばかりの中学校で仲良くなっていた隣席の「さつき」さんに小さな列車のことを訊いてみた。
「あんた、別府鉄(べふてつ)も知らんの??小学校の時、遠足で乗ったわよ」
あっけらかんとそう教えてくれた、肩までのきれいな黒髪のさつきさんに見とれ、それでも僕はこう聞いたものだ。
「マッチ箱電車って感じやんな」
すると、さつきさんはニコッと笑顔を大きくして楽しそうに言う。
「あれ、マッチ箱言うにはちょっと大きいやろ、わたしら、別府の弁当箱(べんとばこ)ゆうてるねんよ」
「へえ・・べんとばこ、うまい事言うなぁ」
「別府のガッタンとか、ケーベンっていう人もあるわ」

その時はそれで別府鉄に関しての会話は終わったけれど、この鉄道にぜひとも乗りたくなるのは鉄道ファンの卵として当然だった。

かつて海辺だったころは見事な白砂青松の景勝の地だったろうと思われる別府の、松林の中にある古臭い社宅では、母はいつも誰かとしゃべっていて、弟妹達も線路際で電車を眺める僕の趣味は理解できない。
ある日、日曜だったと思うが、まだ田畑が広がり、畦脇にはにはきれいな水が流れる別府の街を散歩していた。
田圃の向こうに新幹線と山陽電車が一緒に見られるのは嬉しく、引っ越す前に2年住んでいた大阪・泉大津では南海電車にも家からは遠かったし、4年住んだ天保山では地下鉄は高架の高いところを走っていたから、今ここで疾走する山陽電車の特急を眺め、その上に覆いかぶさるように、走るというよりも飛んでいるかのような新幹線の丸い電車を眺めるのは、楽しいことだった。

そのとき、田圃でなにやら探していたらしい女の子が僕の方を見た。
さつきさんだった。

「井野田くん、どこ行くん??」
甘い声で人懐っこく近寄ってくる。
この人懐っこさというのは、僕が泉大津にいた頃の僕の周囲ではなかなか感じられなく、天保山にいた頃には、僕はその真っただ中にあったように思う感触だ。
加古川の人は人懐っこく、屈託がない・・
そして、それがまたクラス一番の美少女と来ているから、これまた僕には嬉しいことだ。

「うん、することないから散歩・・さつきさんは、何を見てるの??」
「レンゲ摘んでるの、髪飾り!」
彼女はレンゲで作った輪を頭の上にのせて楽しそうに笑った。
その時、山陽電車の特急と新幹線の列車が並んで突っ走った。

僕は一瞬、我を忘れてそれを見ていたようだ。
「井野田君、電車がすきなんやね」
「あ・・うん」
僕の頬は少し紅くなっていたかもしれない。
「こないだ、別府鉄のこと、聞いてきたもんね」
「うん・・・」
頭にレンゲの花輪を載せてさつきさんは近づいてきた。
「ね、乗りたい??」
「なにに?」
「別府鉄よ、別府のべんとばこ、別府のガッタン」
美少女が自分に迫る。
こういう時の女の子というのは、どういして小悪魔的な雰囲気なんだろうと、僕はこれを書いている今でもそう思う。
「そりゃぁ」
「ね、100円持ってる??」
「それくらいあるけど・・」
「じゃ、乗りに行こうよ」
思い切り笑顔でそう誘ってくれる彼女にちょっと気おくれして後ずさりする僕。
「なんや、乗りたくないんや」
「いや、そんなことあらへん・・連れてってよ」
これは当時の僕としてはかなり勇気の必要な発言だった。
女の子と一緒に歩くなんて、天保山時代の小学校3~4年くらいのことだろうか。


楽しそうに花輪を頭に被せたまま、さつきさんは歩く。
僕は彼女の友達の話などを聞きながらついていく。
「とんび!」
彼女が指さした空に立派な鳶がゆったりと舞っている。

15分ほども歩いただろうか、大阪港を思い起こさせる倉庫や工場が集まっている一角の中ほどに小さな駅舎があった。
だが、そこが大阪とは違うのは、駅のすぐ近くに田圃があったことだ。
別府港駅と、簡単で分かりやすい看板が駅舎にかかる。

駅舎の中へ入っていって二人で時刻表を見上げる。
「土山行きと野口行き、二つあるんやね・・」
「うん、土山に行ったら帰れなくなるから野口行きや」
その野口行きはちょうど20分ほどで次の列車が出る時刻だ。
「野口まで大人二枚」
さつきさんは、「大人」にウェイトをかけてそう言う。
(僕たちはつい先月まで小学生だったのだ。)
小さな駅なのに、帽子に赤線が入っている駅員さんが苦笑しながら、鋏を入れた固い切符を出してくれた。
確か、80円くらいだったように思うが、僕は普段、私鉄しか使わなかったので関西ではこういう硬券は珍しく、自分で買ったのは初めてだった。

ホームに出ると目の前に停まっていたのは、先日、山陽電車のホームから見たあの可愛い緑とクリームの単行列車だった。
ガランガランとエンジンの鳴る音、まるで臨港線の機関車みたいだと思いながら、案外広い構内を見渡すと、確かに臨港線のような機関車やたくさんの貨車も見える。
時折、青い機関車が貨車を繋いだり外したりしながら行ったり来たりする。
「これこれ!」
僕らはまだ誰も乗っていない車両に乗り込み、油引きの匂いのする木の床を歩き、深緑のビニールレザーの座席に腰掛ける。
床は中央で盛り上がり、木材が器用に曲げられて微妙な曲線を描く。

別府鉄道野口線の単行気動車列車の発車時刻近くになると運転士が物憂げに乗り込んできて、後ろのドアからはネクタイを締めていない車掌が乗り込む。

いや、当時の僕には「気動車」などという言葉はなかったはずだ。
すべて都会生まれの僕には「電車」だった。


単行の古びた気動車列車は、やがてゆっくりと発車するが、当時のバスのようにクラッチを切り替える。
やがて速度が出た列車の、あけ放たれた窓から春の匂いも小さな昆虫も飛び込んでくる。
ガタガタと揺れて、ポイントを渡る。
「あははは」
さつきさんは、屈託なく、遠慮なく、座席に座りながら足をバタバタと上げ下げして、スカートをひらひらさせ、そしてその横の僕は心の底ではとても驚いていながらも、たぶん周りから見れば難しい顔をして、ビニールレザーのロングシートに座っていたのだろう。

今の加古川市別府町、野口町あたりを列車は走るのだが、今では考えられないほど外の景色は長閑で、明るい播磨の風情そのものだった。
エンジンの音を立てる割には大したスピードは出ず、激しく揺れて吊り輪が荷物棚にぶつかってカッチャカッチャという音が絶え間なくする。
別府鉄道野口キハ2進入


駅と駅の間隔は短くて、走りだしても1~2分で次の駅に着いてしまう繰り返しなのだが、始発の別府港からは僕らのほかには誰も乗らなかったのに、一駅ごとに乗客が増えていく。
10分ほど走る終点までにはお客は10人以上になっていた。

「着いたで」
さつきさんに促されて、ホームに降りる。
車掌に切符を渡そうとすると「加古川駅で」などという。

着いた駅はこれまた田圃の中の茫洋とした景色の中、でも線路の外側には巨大な市役所の建物が見える。
やがて、国鉄の気動車が2両連結でやってきた。

別府鉄に乗ってきたほかの乗客は皆、国鉄の気動車に乗り換える。
田圃の中の、茫洋とした乗換駅に二つの列車が停車し、その間を何人もの乗客が行きかい、そして片方の国鉄列車が発車していく不思議な景色を僕は驚愕の想いで見ていた。

さつきさんは、「ふ~ん」というような表情で列車を見送る。

「あれ、国鉄に乗らへんかったんか?」
別府鉄の車掌が怪訝な顔をして僕らに向かってくる。
「うん、歩いて帰るねん」
「ほう・・そうか、ほなら切符は返してもらうわな」
車掌はそういって切符を出せとばかりに掌を向ける。
「うん、おおけにな」
さつきさんは手慣れたようで、車掌の手のひらに切符を載せ、僕にもそれを促す。
僕は別府港の駅で買ったかっこいい固い切符を取られてしまうのが少し悲しい。

「気ぃつけて、いねよ」
車掌がそう言うのを「うん」と元気よく返事をしてさつきさんは僕の手を引いて改札も何もない駅から外の道路に出た。

「なぁ、ここから歩いて帰るん??」
僕は少し不安になって、さつきさんに訊いた。
「ここ、まっすぐ下りたら尾上やねん、ほな、そっからやったら、左に歩いたら浜の宮やろ、すぐやん」
彼女はいかにも大丈夫なように言う。
けれど僕には右も左も、下りるといっても坂道らしいものもない平坦な道の何処を下りるのか、不安なままで彼女の後をついていくしかない。
(下りるというのは南へ向かうこと、上るというのは北へ向かうことというのは後になって知った)

今思えば、旧野口駅から山陽電車の尾上の松駅までは1キロ半で、歩いても20分ほどだったのだろう。
だが、高砂線の廃線跡が道路として整備されている現在とは違い、ときに曲がりくねりながら、見知らぬ道を歩く20分はきつい。
最初は持っていたレンゲの花輪をかぶり元気にしていた彼女も、やがて無口になってきた。
僕もさすがに「この道でホンマに帰れるんか」と心配になったころ、山陽電車の踏切が見えた。
「ほら、ここ、尾上やん」
彼女はやっと明るくそういうが、それでもそこから学校のある浜の宮、さらにその先の別府町まで行かねばならない。

やがて、空が暗くなってきた。
学校近くの神社の松林が見えた頃には二人とも口もきかず、ただ黙々と歩く。
学校を通り過ぎ、小さなアパートの前で彼女はふっと振り向いた。
「うちとこ、ここやねん、またな!」
「ああ・・ここなんや」
「今日のことはみんなには内緒やで・・うちら付き合ってるって言われるさかいな」
「あ・・ああ・・」
「楽しかったわ、井野田君!!」
そういって彼女にアパートの玄関先で手を振られると、そこからは僕一人だ。
さすがに自宅までは歩いて10分ほど、迷子になることもなかったが帰宅したころには日が暮れていた。

古臭い社宅の引き戸を開ける。
「ただいまぁ」
「こうちゃんか!どこいっとってん!ほんまに・・」
母の甲高い、イラついた声が台所の方から聞こえた。
「いや、あの・・別府のべんとばこ・・」
「べんとばこに乗って、帰りの電車賃がなくなって歩いて帰ってきたんか!」
すっかり見透かされた僕は、母の洞察力に恐れ入ったが、ただ、さつきさんと一緒だったことだけは言わなかった。
「ふろ、沸かしてんか!」
母は台所に立ったままそこから大声で僕に命じる。

僕は五右衛門風呂の焚き付け場で、マッチと新聞紙、オガライトを無造作につかんでしゃがみ込んだ。
さつきさん、可愛いなぁ‥
叱られたのに嬉しい夕方だった。
別府鉄道野口ホームとキハ2

(本作は作者の思い出を繋ぎ合わせたフィクションです)


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ルミナリエ

1217ルミナリエ広場

冬の夕方になると、君は人通りの多いライトアップされた街中を避けるようになる。
陽の短い冬の午後、三時ころになると君は決まって「人が増える前に帰ろう」とか、あるいは「どこかに入ろうよ、寒いから」などという。
春から秋の初めまでは、君も夜の帳の下りた三宮で賑やかな夜を楽しむのだけれど、少なくとも僕と君が出会ってからの五年は・・ずっと冬の夜には街中に出ていかない君だ。

だが今夜は神戸では冬の風物詩として根付いている「神戸ルミナリエ」の最終日だ。
僕は「今夜だけはルミナリエを見に行こうよ」と少し強く君に押した。
君は心なしか悲しい表情をしながらも「うん」と頷いてくれた。

元町駅前からの長い行列は、車道を厳重に囲んだ専用通路で、道路わきの歩道とは確実に仕切られている。

それにしてもだ、この街の、冬の夜のライトアップは居並ぶビルや商店の全てであり、街路樹までもが無数の電球で飾られていて、美しい。
クリスマスのライトアップとしては、たぶん、関西ではここの右に出る街はないんじゃないかと思うくらいだ。
「きれいだね・・」
僕のふっと漏らしたつぶやきに君は「そう?」とだけ答えた。
「なんか、機嫌悪そうだな・・無理やり連れてきたからかい?」
「別に・・機嫌はいつも通りなんやけどね」
いつもの柔らかな関西弁のイントネーションで、それでも機嫌の悪そうな君の横顔は様々な人工の光の中で美しい。

車道幅いっぱいの大行列は、元町の大丸前から一旦、ずっと東の三宮神社の先まで行き、そこから一筋南の道路へ・・
今度は元町の大丸を目指して歩くという大迂回だ。
「寒くないか・・」
今年の冬は寒い、まだ十二月の半ばだというのに気温は零度近いのではないだろうか。
「別に…」また愛想もなく君が答える。
「やっぱり機嫌が悪いんだ・・」
「こうして一緒に歩いとるんやから、機嫌が悪うてもええやん・・」
大丸百貨店の東脇の樹々につけられたイルミネーションはことのほか鮮やかで、軽い音楽が流れてくる。
ここまですでに三十分以上、歩いたり止まったりしている。

そして大丸百貨店の南角を曲がり、旧居留地に入った途端、巨大な光の塔とその先の長い光の回廊が僕たちの目の前に現れる。
「すごい、すごいね」
僕は思わず叫んだ。
横の君を見ると、君は頬を紅潮させ、光を見つめている。

大勢の人がスマホで写真を撮影したり、中には大きなカメラ機材をもって撮影している人もある。
警備員や警官が「立ち止まらないでください」と叫ぶ。
荘厳な音楽が流れている。
だが、観客は皆、この景色を見に来たのであって、立ち止まらずになんていうのは無理だろう。
行列の進む速度は遅く、人々の表情は笑顔であふれている。

僕もあまりの美しさに頬が緩む。
だが、君はじっと前を強く見据えたまま、黙々と歩く。
僕が何か感嘆の言葉を発しても、無視するか、黙って頷くだけだ。

光の回廊を過ぎ、東遊園と言われる広い公園に入ると、そこには巨大な光のアーチと、その先の巨大な光の城があった。
ここには三宮から行列なしでも入れるためか、回廊を歩く人の数倍の人がいるように思える。
だが、それでも光の城に近づくとそれなりに空間もでき、僕は自分のスマホでゆっくりと写真を撮る。

その時だ、君が急に僕の手を握った。
「こっち」と言いながら僕を光の城の外側に連れていく。
「どこに行くの?」
「行かなアカンとこなんよ」
人の流れを横切り、タコ焼きやケパプや牛串の店が並んでいるその脇、ルミナリエの光がそこだけは届かない僅かの空間、屋台から食べ物の匂いが流れてくるその暗がり・・そこに人々が入れ代わり立ち代わり、やってきている場所があった。


1217ルミナリエ震災の火

そこにあったのはガラスケースに収められた小さな炎。
その前で君は立ち止まり手を合わせた。
「これは・・」
「知らんかったん?あの震災の時の炎・・」
ここは暗がりで君の表情がよく見えない、だが君は目に一杯涙をためているように見える。

僕もそこで手を合わせた。
そこだけは何か冒しがたい雰囲気があった。
そこに集まる人々の表情から明るさや楽しさは窺い知れない。

君は炎に何かを語りかけているようだった。
「もしかして・・君の関係する人が震災で亡くなられたの?」
恐る恐る、炎を見つめる君に訊いた。
「父と母と、何人もの友達と、近所のたくさんの人と・・」
小さな声で君はそう言った。
そしていきなり大声をあげて泣き出した。

******

あの日、須磨区で崩れた家の中から、子供たちの泣き声がした。
まだ夜の明けきらない真っ暗な中、周囲の人が必死になって瓦礫をどけて、その子供たちを救い出した。
小学生の兄と妹だった。
一階にお父さんとお母さんがいるという。
一階と言っても崩れてしまった家では二階が一階を押しつぶしたような格好になり、とても人力で瓦礫をどけられる状態ではない。
それでも、大人たちは必至で親の名前を呼びながら瓦礫を退けようとする。
やがて、布団が出てきて、すぐに人の足先が見えた。
だがそれ以上ではとても人力では、身体に乗りかかっている木材を動かくことができない。
朝から辺りには近所で発生した火事の煙が漂ってきたが、ついにその炎が家のあった場所にも近づく。
「逃げよう」
誰となくそういう声がした。
逃げなければ自分たちが炎にまかれるのだ。
消防のサイレンはすれど、一向に火が鎮まる様子はなく、むしろ火勢は勢いを増し、真っ黒な黒煙があたりを覆う。
小学生の兄と妹は、そこから大人たちに無理に引き離された。
「おかあさん、おとうさん」と泣き叫ぶ声に、大人たちはどうすることもできず、黙って兄と妹をその場所から近所の小学校へと連れて行った。

*****

「帰る」
泣きながらそういう君を手を取り、僕らはその場を離れることになった。
僕は君の生い立ちを詳しく訊いたことはなかったし、ご両親が亡くなられていることは知ってはいても、それが神戸の震災の故だとは気づきもしなかった。
ただ、唯一の身内としてお兄さんが一人あって、近くで家庭を持っているということだった。

人混みの中を、右に左に避けながら、それでも串に刺したリンゴ飴をかじりながら歩いている女性の集団や、焼き鳥の串を歩きながら齧っている家族連れなどに少し危険を感じながら、公園の北の端まで来た時、君が立ち止まった。
そこには女性の裸像があって、時計を抱いていた。

1217東遊園地震災彫刻加工

「あの娘、可愛そうやんな・・寒い冬でも裸やなんて」
「ああ」
まさかそんなものにそう言う感情を抱くのが僕には不思議だ。
「時計を見てよ」
その時計の針が五時四十七分を指している。
「めっちゃ肌も汚れて、だれも綺麗にしてあげたいとか、服を着させてあげたいとか思わへんのかな」

ルミナリエの光の祭典の脇で、君は立ちすくんで裸像を見る。
僕はやっと、君が、冬の夜の神戸を嫌う気持ちが理解できた瞬間だった。
イルミネーションを見に来るたくさんの人々は、寒くて真っ暗な明け方の、火が迫る中での恐怖に満ちた時間を、命を終えねばならなかった時間を、感じ取ることはあるのだろうか。

僕は普段の数倍の人であふれる三宮の、ライトアップされたビルのその前で、君を抱きしめた。

風の中のあなた


(本作品は「秋色の貴女」を銀河詩手帖用にリファインしたものです。285号に掲載されました)
加古川西岸イメージ


土手の線路際、僕は三脚に望遠レンズ付きのニコンを載せ秋風を肌に受ける
線路は僕のいる場所から数百メートルで大きく湾曲し
その向こうに神の山が聳える

やがて、神の山のふもと、はるか遠くに紫煙があがる
ファインダーに注視して、風を受けながらシャッターレリーズを握る
大きく湾曲する軌道の先で、紅いディーゼル機関車が姿を現し
それはゆっくりと軌道をトレースしながらファインダーの中で大きくなっていく

続けてシャッターを押す
風音と機関車のエンジンの音、僕が切っているシャッターの音が耳に入るすべてだ
列車がファインダーいっぱいになって、やがて青い客車が次々と現れる
ファインダーから列車の姿が消える

ふっと、こういう秋の日、この場所ではあなたに会える・・そんな想いがわく

間髪を入れず、「わたしに会えると思ってくれた?」
懐かしく、優しい声がする
後ろを振り返ると、秋色とでもいうのか
オレンジや茶、深緑をパッチワークのように組み合わせたワンピース姿の
・・あなたが立っていた

「思ってたよ、なんとなく、気持ちの良い秋風の日だから・・」
「嬉しいな、そう言ってくれるの」
柔らかな秋の日差しを浴び、霞のように現れたあなたが優しく僕を見つめてくれる
ショートの髪、朱色の口紅、色白で頬のあたりが紅い、いつものあなただ

「ここに来るの、ずいぶん、久しぶりでしょう」
「うん、仕事と家事に忙殺されてね」
「いいなぁ、幸せな家庭があるの・・」
あなたはそういって神の山のほうを見る
「君にだってあったじゃないか」
「幸せ?ないよ、そんなもの」
「仕事のできるご主人と、可愛い子供さん二人と」
「見た目はね‥功徳とやらがいっぱいの家庭の演出」
「そうかなぁ・・取り方はいろいろだろうけど」

*****

あれはもう何年前になるだろうか
この線路が湾曲する少し先の、当時は田圃の真ん中だった細い道を
一人の主婦が所用のために北へ向かっていた
そこに人だけが通れる小さな踏切があった
この地方特有の大きな太陽が神の山の脇に沈むその頃だ

ちょうど踏切の警報音が鳴り、夕陽の下に強いヘッドライトが見えたことだろう
主婦は一瞬立ち止まり、そのヘッドライトを見つめ、意を決したかのように
降りている遮断桿を持ち上げて線路に入り込んだ

そして軌道敷に座り込み、ヘッドライトを浴びせる機関車を見つめる
電気機関車EF210の泣き叫ぶような警笛があたりに響く
ブレーキシューが車輪踏面を押さえつけ
車輪とシューの鉄粉が線路に飛び散り、その接触の金属音が激しく長くこだまする
主婦はじっと電気機関車をにらみつけていた
「わたしをきちんと轢きなさい」と命じるかのように・・

*****

その場所は今は住宅に覆われ、町の中で線路と細い街路が交差する目立たない踏切だ
僕は数度、そこへ祈りに訪れたけれどそこであなたに会うことはなかった
あなたに再開したのはその数年後の秋に、ここの土手に来た時
今日と同じように列車の撮影に来た時だ
 もちろん、僕は現れたあなたに対して、非常に驚いた
だけれど、もともとが僕にとって憧れの女性だ
中学生の頃の清楚な美しさが今も心から消えることはなく、
ほかの人ならたぶん驚いて恐怖のあまりその場から逃げ出したかもしれない
そのシチュエーションで親しくあなたと話をして
あなたの生前に聞けなかったことを伺うことで却って嬉しく思ったものだ
 
中学生時代はあなたから見て、僕がかなりガキに見えたこと
今でも中学生の頃と同じようにカメラをもって列車を追うことに
ちょっと呆れていること、でも、そんな僕が自由に見えて羨ましかったことなど

名門といわれる宗教系の高校に進んだあなたは
本来は凱旋して帰ってきたはずなのに、心を病んでいた
やがてお見合いで結婚し、幸せに見える家庭を築いたけれど
あなたが家庭の中で笑う姿を、あなたの夫は見たことがないという

「わたしはただの親の道具、幸せの演出も組織を守るため」
「そこのところは僕にはよくわからないけど、僕には十分、幸せに見えたよ」
「親の言うままに、教団の学校に行って、エリートとして帰ってきた時の、わたしの心はボロボロ、そこには人間らしいものは何もなかったわ」
「そうか、僕はその頃には中学校を出て、鉄工所で仕事をしながら夜間高校に通っていたから、名門の学校に進めた君がうらやましかった‥」
「わたしには、自分の力で社会で生きて、自分の力で切り開くチャンスを持ったあなたが羨ましかった」
「そうかぁ・・えげつないものだぞ・・あの年ごろで一人で生きるのは‥」
「でも、それって親の意思はないでしょう…自分で決められるでしょう‥」
「確かにね‥」
あなたは神の山のほうを向いて立ったままだ
気に入らない言葉を僕が発するとあなたは消えてしまうかもしれない
でも、僕はあなたとの今のこの時間を大事にしたい
あなたに恋した中学生時代には持てなかった時間だ
 
「ねえ、優子さん」
僕はあなたの名前を呼んだ
「今の君から、僕を見てどう?ちょっとは男として成長したかな」
あなたは振り向いた。
秋色のワンピースに包まれたその顔形は中学生時代の
あなたが幸せだった時代の姿だ
「成長?」
そういったかと思うと大きな声で笑いだした
「あなたが成長なんてしているはずないでしょ」
「そうかなぁ・・この頃、商売も手広くやっているんだけど」
「商売も何も、いまこうしてカメラを抱えて線路際に来ていること自体
あなたがあの頃のまんまってことよね」
そういってあなたはさらに声を上げて笑う
まるで中学生時代の天真爛漫なあなたを見ているようだ

遠くから機関車の警笛が聞こえ、僕はカメラのファインダーを覗く
ふと、横を見るとあなたが興味深そうに僕を見ている
「ほんとに列車が好きなのね・・」
「うん・・・」
やがてファインダーの中に沢山のコンテナ貨車を牽いたEF66形機関車が現れ
僕は夢中でシャッターを切る
列車が去ってまた秋風の吹く土手、オレンジの光が辺りを占め始めている

もう少しであなたを撥ねたあの貨物列車の時刻だ。

「一つだけ、わたし、あなたに謝らなきゃ・・」
「なにを??」
「あなたの好きな列車を傷つけたこと、列車に恨みはないからね」

 陽が沈む・・この列車の牽引機は、あの時と同じようにEF210のはずだ
遠くで踏切が鳴る
僕はカメラのファインダーを覗く
あなたが横で、カメラを扱う僕を見てくれているような気がする
呆れたような、不思議そうな表情で

その女(ひと)

よるイメージbw


「わたし、百人切りしちゃった」
可愛い顔して、ふっと悪戯っぽく、そんなことをいうあなたに僕は正直、驚いた。
「切るって・・・なにを?」
「決まってるじゃない、昨日でちょうど百人になったってこと」

細長い煙草をふかし、大きな瞳で少し笑みを漏らしながら僕を見る。
僕がその頃から、仕事帰りに通いだした、髭のマスターのいるショットバーでだ。

あなたは偶然、カウンターの僕の隣に腰掛けて、そしてマスターと数回、言葉を交わしてから僕に声をかけてきた。

「なにが・・」
そう言いかけて、鈍感な僕にも分かったのだ。
「もしかして・・セックスの相手?」
「そりゃそうよ、決まってるじゃない」
「すごいなぁ・・」
僕にはそれ以上の返答をすることができない。

あなたから見た僕は、たぶん、鶏が猫にでもいきなり出会ったかのような表情をしていたのではないだろうか。

見た目はとても清楚な女性だ。
若い女性ではなく、年のころは三十代後半くらいだろうか。
全体に身体が小さく、けれど華やかな雰囲気に満ちている。
しっかりコーディネートされた青を基調としたファッションはよく似合っているし、化粧も華やかでありながら、濃すぎるという印象も受けず、上等過ぎない淡い香水の香りが彼女を引き立て、品の良いイヤリングがきれいな耳たぶにぶら下がる。
細長い煙草をお洒落に咥え、ゆっくりとうまそうに煙を僕にかからいように、自分の上のほうにむける。
灰皿に置いた吸い殻には朱色の口紅が残る。

「とてもそんな風には見えないけど」
やっとのことで僕がそう言うと、あなたは眼を大きく見開き、さらに悪戯っぽく言う。
「じゃ、一度、やってみます?とても上手ですよ‥わたし」
「いやいや・・」
「あ、勘違いしないでね、わたしは、自分が気に入った男性としかそういう関係にならないから・・」
「はぁ・・」
僕はこの可愛い女性に圧倒されてしまい、ただ、まじまじとあなたのほうを見るだけだ。

「アナタ、今夜はお暇ですか?」
「いや、その・・」
「ちょっとあなたのこと、気になったのよ」

僕にはあなたがまるで異星から来た宇宙人のように見えた。
こんなことをいう女性には会ったことがないし、どう対応していいか全くつかめない。
その時、店のマスターがカウンターの向こうから声をかけてくれた。

「ジュンちゃん、彼はいたって真面目な人だからね・・あまり驚かせたらだめだよ」
ジュンちゃんと呼ばれたあなたはクスっと上品な笑みを漏らし「この人、なんだか気になるのよ~~」なんて言う。
「ダメダメ、今夜はきちんと帰りなさい、旦那さんと息子さんの待つご自宅へね」
マスターがしかめっ面をしてあなたを見据える。

「え~~、つまんないの・・旦那といるの」
「だめだよ!!」
あなたは助けを求めるかのように僕を見る。
「ね・・アナタだって、今夜は遊びたいよね」
返答に困っているとマスターが僕に目配せをした。
「いや、今夜はちょっと帰って仕事の続きするから・・」
マスターが大きく頷く。
「つまんない、遊びたいのに・・」

演技とも、本当にそう言っているともとれるあなたに、僕は少し興味を持ち始めていた。
「ところで、ご家庭がおありなんですか?」
あなたはまた細長い煙草を咥えなおして僕のほうをじっと見つめる。
「ありますよ・・仕事のできるイケメン主人と、可愛い息子があります」
「では、そのご家庭の中でうまくいっておられないんですか?」
「いえ、とてもうまくいっている、傍から見れば羨ましいような家庭です」
「では、ご主人がソチラのほうがあまりよくないとか・・」
「ソチラ?・・ああ・セックスのこと?」
「はい」
「主人はとても上手ですよ。私が求めていることをいつもよく分かってくれる」
「はぁ・・そしたら・・」
「なんですか?」
「なんで百人切りとか・・・」
「だって・・いろんな人と楽しみたいじゃないですか、人生は一度きりだし」
「確かにそういわれれば・・」
「でしょ、だから今から行きましょうよ、ホテル代だけ出してくれたらいいから」
また悪戯っぽく、あなたは僕を見つめる。

けれど、その日、僕は一人で帰宅した。
僕にも家庭があり、今、妻や娘を裏切ることは出来っこない。
そしてそう決心したはずなのに、その夜にあなたに付いていかなかったことを後悔している自分があった。
あの、きれいな黒い服の下はどうなっているんだろうとか、上手というのはどういうことをいうのだろうかとか、想像したらきりがなく、僕はしばらく妄想に取りつかれることになってしまった。

数週間してようやく妄想も溶け、またあのマスターの店に行き、誰かと話をするわけでもなく、ぼうっと飲んでいた。

「お久しぶり!」
あなたは、そうすることが当然であるという風に、僕の隣に座って身体を寄せてきた。
「覚えてます?わたしのこと」
「はい、もちろん・・」
その時のあなたは、黒のミニワンピースに身を包んでいた。
やはりきちんと上品に、そして清楚にまとめられている。
「今夜はどうかしら?」
「う~ん、僕には家庭もあるし」
「恋人になるんじゃないの、そういうことするお友達がいてもいいって思いません?」
そう言いながら細長い煙草に火をつける。
「はぁ・・」
確かにそれも一理あるかもしれない・・そう言う想いをすぐ自分で打ち消した。

そこへマスターが声をかけてくれた。
「ジュンちゃん、うちのお客に手を出すの勘弁してよ」
「手を出してなんかいないわ、手を出すのは殿方のほう・・」
そう言いかけて、あなたはハッと口元を抑えた。
「手じゃなく出すのは・・あっちのほうね~」
これには僕も笑ってしまった。
笑ってしまったらそのまま、あなたのペースに巻き込まれそうだが、もう仕方がない。
それにその日の僕はかなり酔っていた。
会社の上司と呑んだ後、上司を駅へ送り、その足で呑みなおしに来たのだ。

それから小一時間、その店にいて、僕はあなたと連れ立って店を出た。
「あまり、君が入れ込むべき女じゃないからね」
店を出るとき、マスターがそう囁いてくれた。

「まぁ、いろんな出会いがあってね・・わたしはその出会いを肌に残したいだけなのかもね」
歩きながらあなたはそんなことを言った。
「こう見えても、相手の人の本性は見抜いているはずなの。アナタをみて、この人は大丈夫ってね」
「はぁ・・」
答えに窮しながら僕はあなたが、凭れかかるのを支えながら、夜の街を歩いた。

「わたしね、結構苦労してるのよ、親とは今も断絶だし・・だから余計に人の裏側も見えてしまうの」
「はぁ」
「出会うだけじゃいや、繫がりたいって心底思うの」

そうなのか、そうかもしれない・・と思いながら、僕は自分の思考を停めることにした。

二人で歩く道の先にラブホテルの明るいネオンが見える。
「わたし、上手なのよ、期待していいよ」

はしゃぐあなたの声が、進んではいけない道へ僕の背中を押す。

汽車の女

C5644かわねじ号イメージ


「汽車が好きなの」と、その彼女は言った。
真夏なのに黒のワンピースを着た長い黒髪の女だ。
彼女とは、つい先ほど出会ったばかりだ。

真夏の太陽を浴びて山間の鉄橋を、黒い蒸気機関車が茶色の客車を率いて突っ切っていく。
列車が来るまでは聞こえていた川の水音や鳥のさえずり、セミの鳴き声は消え失せ、小型の機関車ゆえのささやかさだがそれでも蒸気機関車特有のドラフトを響かせ、列車は橋桁からあの重い金属音を湧き立たせながら通過していく。
機関車が去ったあとは何両も繋がった茶色い客車の、規則正しいレールジョイントの音が山間にこだまする。
堤防脇で三脚を立て、大仰な大口径レンズをデジタル一眼レフに装着した僕が、前を横切る観光用のSL列車のドラフトを聴きながら夢中でシャッターを切り、そして静寂が戻った夏の河原の風景を眺めた時、自分のすぐ傍、10メートルほどのところに立っている彼女に気が付いた。

彼女は首から大きなニコン製のデジタル一眼レフをぶら下げていた。
黒いワンピースの上の胸のふくらみのやや下あたりで、巨大なカメラが存在感を見せつける。
昨今では鉄道好きな女性が増え、その人たちを「鉄子」さんと呼んでいるが、ほとんどの場合、鉄子さんたちは列車そのものより旅の風景としての鉄道、旅のアイテムとしての鉄道を好むように感じていた。

僕は彼女に近寄り、話しかけた。
「あなたもSLがお好きなんですね」
彼女は夏の炎天に巨大なカメラをぶら下げているというのに汗も掻いているようには見えず、頭の上からの直射日光を浴びながらも笑顔を見せる。
セミロングの黒髪がかえって涼しげに見える。

「私、蒸機が大好きなんですよ」
SLという言葉で表現せずに、蒸機と言った彼女に僕は一瞬たじろいだ。
なぜならSLを蒸機と言うのは、ふつうは僕なんかよりずっと年配の鉄道ファンだからだ。

「今日はC56(シゴロク)にオハ35(サンゴ)でしたね。好きな組み合わせですが、ここはやはり架線があるのが今一つなんです・・それと蒸機はもう少し大きめな・・でも、D51(デコイチ)では大きすぎて、この風景だとC57(シゴナナ)あたりがいいですけどね」
次に彼女の口から出た言葉は、僕をさらに驚かせた。
とても昨今流行りの「鉄子」さんが俄仕込みで喋っていることとは思えない。
「お若いのに、とても詳しいんですね」思わず僕の口から出た言葉がこれだ。
彼女はふっと僕のほうを見て、不思議そうに小首をかしげる。
「あら、特に詳しいというほどのことはないと思います」
「そう・・そうですね・・」
僕は圧倒され、そのことについてそれ以上は言えなくなってしまった。
このあと、少し歩いた始発駅から、先ほどの列車の折り返しに乗車するのが僕の予定で、僕は三脚を片付け始めた。
「あら、この後の列車、緑のズームカーですよ。これも撮らないと」
彼女が僕の背に話しかける。
「いや・・上りのSL列車に乗るので・・」
「十分、乗れますよ。緑の中を薄緑の電車が走るのもいいと思いますけど」
「は・・はぁ・・」
「私も、上りの蒸機列車の切符を買っていますからよろしかったらご一緒にいかがですか」
美女にそう言われて悪い気はしない。
でも、僕はもう、十分、彼女に圧倒されてしまっている。
やがて、先ほどのSL列車が向かった方向から薄緑に濃緑の帯を締めた「ズームカー」がゆっくりとやってきた。
元は関西の私鉄で特急や急行として使った電車で、確かに鉄道ファンの中にはこの電車だけを見に来る人もいる。
僕と彼女は並んでこの電車を撮影したが、電車が鉄橋を渡るとき彼女は小さくつぶやいた。
「やっぱりここのシチュエーションではこの電車が似合うわね‥」

電車が去ってしまったあと、僕は彼女と並んで駅への道を歩いた。
これは自然の成り行きだ。
「電車もお好きなんですね」
「あの電車は、私の父が好きだった電車なんです。うちはあの電車の沿線で・・」
「そうなんですね・・とても普通の鉄子さんよりはお詳しいのでびっくりしました」
「そうかなぁ・・たぶん、父の教育ゆえですね・・」
そう言って彼女は明るく笑う。

いくら山の中でもさすがに真夏、駅までの1キロほどを歩くだけで僕は大汗を掻く。
けれど、並んで歩いている彼女は涼しげで、気持ちよさそうに山々の風景を楽しんでいるようだ。
「暑くないですか?」
「わたしは暑さには強いので‥」
淡々と彼女は山々を眺めながら答える。
駅に着くと、先ほどのSL列車が機関車の位置を前後に換え終わって列車が組成されていた。

ホームを歩きながら、彼女と僕のチケットに指定された号車・席番が異なることで、ちょうど通りがかりの車掌に尋ねてみた。
「いいですよ、座席はワンボックスごとに発売していますからお連れさんがなければお一人でワンボックスになっています。ですので、お二人でそのボックスに座られても全然、大丈夫ですよ」
愛想よく、車掌が答えてくれた。
僕と彼女はどちらのチケットの座席でもいいわけだ。

一両の古めかしい茶色の客車の中で、向かい合って僕らは座った。
彼女は嬉しそうに客車のあちらこちらの方向を眺め、ごついカメラのレンズを向ける。
「懐かしいなぁ‥オハ35(サンゴ)のこの雰囲気・・」
彼女の言葉に、僕はちょっと気になり、軽い気持ちで訊いた。
「オハ35が実際に営業列車として走っていた時代をご存じなんですか?」
彼女は天井のたぶん、照明器具にカメラを向けながら「昭和50年頃までかなぁ‥オハ35はその頃では割と多かった客車で‥」と呟く。
「え・・」
「よく乗りましたよ・・山陰本線とか・・・」
そのあとにさらに呟く。
「最初はシゴナナ、それがディーゼルになったときは悲しかったですね」
彼女は天井の次は窓周りにカメラを向け、ちょっ悪戯っぽく笑った。

僕は目の前の若い女性が、何かとんでもない怪物なのではと・・思い始めていた。

「女性にこういうことをお伺いするのは失礼ですけど・・お歳はおいくつ・・?」
一瞬、彼女の動きが止まった。
そして僕を見つめた。

しばしの沈黙の後、彼女はため息をついた。
「わたし、何か変なこと言いませんでしたか‥」
「いや、この客車が山陰本線で走っていた時代をご存じとか仰るものですから・・」
「ああ・・また・・」
「?」
「わたしは平成の生まれです。知っているはずないですよね」
「それはそうでしょうが・・失礼なこと、お伺いしました」
「ときどき、わたしの中の別の人格がでてしまう・・」
「別の人格ですか?」
「その人格のおかげか、どこで知ったかも記憶にない知識が飛び出してしまうんです」

車内放送があり、汽笛が鳴る。
ほかの乗客たちが嬉しそうにざわめく。

「さっきの・・いや、最初にお会いした時の蒸機という言葉や、シゴロクとかオハサンゴ・・」
僕が確かめるように彼女に聞いた途端、彼女はまた大きなため息をついた。

列車は先ほど僕たちがいた鉄橋を渡り、カーブの多い山間の路線をゆっくり進む。
「もうね・・わたしにはどの知識が私自身が得た知識で、どの知識が別の人格からもたらされたものなのか・・見当もつかなくなっているんです」
夏の大河の河原を見ながら、彼女は屈託のない表情になる。
開け放した窓から、さすがに都会では味わえない涼しい空気が流れ込んでくる。

「もしかしたら、その別の人格というのは‥お父様ですか?」
窓框に肘を置き、汽車の旅を楽しむ雰囲気そのままに、彼女は小さく頷いた。

「汽車が好きな人でね・・家族なんてほったらかし・・」
「でも、あなたも案外、鉄道がお好きだったのでは」
「そう、うちには弟もあるけど、なぜだか私だけが父の影響を受けて鉄道好きになったの」
「で・・今でも?」
「汽車が好き」

フフッと彼女は含み笑いをした。
「ビール、さっき買っておいたの」
手に持った買い物袋から取り出した缶ビールを二本、窓下のテーブルにおいてくれた。
先ほどの始発駅で、そういえばちょっと彼女と僕が離れた一瞬があった‥あの時に買ったものだろうか。
「どうぞ」
二人して缶ビールのプルタブを開け、缶を合わせて乾杯する。
「父は、わたしが二十歳の時に、撮影旅行に行く準備をしていて倒れてそのまま亡くなったのです」
「それは悔しかったでしょうね」
「どうかな・・いつも旅行に出かけるその前が一番楽しいって言ってましたから・・」
「あ、それは僕もわかります。時刻表を見たり、カメラを用意したりしているときってすごく楽しい」
「でしょう・・だから、案外、一番楽しい時に楽しいまま逝ったのではないかなぁ‥」
「でも、やっぱりその先の撮影ポイントにはいきたかったはずですよ」
うんうんと頷く彼女。
袋から新しい缶ビールを手に、「もう一本、飲みます?」と僕に聞いてくれた。


「父は列車に乗ってお酒を飲むのが好きでね・・時々、わたしを撮影旅行に連れて行ってくれて、その時によく呑んでいた・・」
「楽しそうですね」
「でも、母は、ひとっつも家族旅行に行かせてくれない父に腹を立てていたわね‥わたしだけ、鉄道好きの気持ちがわかるから、父によく連れて行ってもらったけど」

黒いワンピースの彼女は屈託なく窓の外を見る。
白い肌にセミロングの髪、軟らかそうに盛り上がる胸の膨らみ。
その風貌に似合わない巨大なニコンのデジタル一眼レフが膝の上にあり、窓框に肘を乗せたその手には缶ビール。
不思議な組み合わせの向かいの席の彼女に、僕は得難い出会いをしたかのような気持ちになる。

トンネルに入る。
冷気が飛び込んでくる。
来るときは冷房付きの電車だったから、このトンネルの冷気は初めて気が付いた。
「トンネル、涼しいね‥」
僕が思わずそういうと、彼女は「昔と違って石炭がいいから、トンネルでも窓を閉めずによくなったの」という。
「それはお父さんの知識?」
「いいえ、来るときに車掌さんから聞きました」
彼女はそう言って笑った。
白熱灯照明に照らされた白い顔が美しい。

長いトンネルだ。
「きみ・・」
彼女が僕のほうを向く。
「君は独りものかい?」
姿勢を正して、彼女の口から男性のような言葉が出る。
「はい」
僕は一瞬で撃ち止められた鳥のように素直に小さくなる。
「相手はあるのかい」
「いいえ、鉄道と結婚すると周りも自分も思っていました」
「そうか、では娘を頼むよ、君とならうまくやっていけそうだ」
「はい」
思わず僕がそう答えると、彼女はクスリと笑う。
「今の言葉はわたしの父ですか?」
列車がトンネルを抜け、セミの鳴き声が列車を囲む。
「さぁ、それは僕にはわからないけど、どっちでもいい」
僕の答えに彼女は缶ビールを一気に飲んで、そして嬉しそうな笑顔をくれた。

機関車が汽笛を鳴らす。


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