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明けぬ冬

2008年1月、大阪市浪速区恵比須東・・通称新世界・・路地裏、ようやく辺りが薄明るくなった時刻、薬屋のシャッターの前に、今朝も古毛布がうずくまっている。
明るい色合いの毛布は、よく見れば泥がついていて、所々、その泥が乾いてこびりついている。

毛布は時折小刻みに震える。
「こんなとこ居ったら死ぬぞ!駅へ行こうや」
毛布の横を通り過ぎようとしたリヤカーの男が、その毛布に声をかける。
毛布から初老の男が顔を出す。
「ああ・・そやけど、身体が動かへん・・あとで行く・・」
毛布から顔を出した男の顔は無精ひげに覆われ、顔色は黒ずんでいる
「外で一日寝たら、三日ほどは寿命が縮まるさかい・・風のあたらんトコで、休まんと・・」

始発電車が走る時刻になると地下鉄駅のシャッターが開くのだ。
そこでなら、風を避けて休む事が出来る。

リヤカーの男はそう言い残し、何かを毛布に向かって放り投げた。
・・わかっとるんや・・そやけど、身体がまだ動いてくれへんねん・・
毛布の男はそう呟いて、寒さで強張った体を毛布で包み直した。

その通りの少し先に、通天閣が彼を見下ろしているかのように立っていた。

・・会いたい・・
毛布に包まっている男、徳田誠一は心底、そう思う。
自分が裏切ってしまった人たち、なかでも、自分の息子である誠夫・・いやいや、息子以上に今年小学校に入る筈の彼の孫の真一に会いたい・・いやいや、それよりも、彼のかつての女だった由美子に会いたい。
しばらくは抑えていた煩悩が彼を苦しめる。

息子の怖い顔、孫の可愛い顔、そして、彼の女の眉を寄せた表情と、その女の豊かな乳房が、思い起こされる。
こんな時に、俺は女の乳房を思い出すようでは・・彼は自分自身に苦笑した。

ここに来たのは、人間のしがらみから逃れ、彼自身が生きていく上での罪を重ねる事から逃れたいからではなかったか・・
彼はけれども、世間に対して顔向けが出来ないような事をしたつもりはまったくなかった。
ただ、運が少し悪く、ただ、出会った人の中に悪人がすこし居ただけだ。
彼はその悪人たちに騙され、彼にとって味方であるべき人たちを裏切ってしまった。
裏切りたくはなかったが、結果的に裏切る形になってしまった。
もう、迷惑はかけられない・・
彼がこの町へやってきたのはその思いからであった筈だ。

苦しい・・
思わず寝返りを打ったとき、彼の脇腹に挟まるものを感じた。
さっきの、リヤカーの男、「リヤカーの太郎」が投げてよこしたものだ・・
「なんやろ・・」
毛布から腕だけ伸ばして筒のような冷たい感蝕のものを取り上げた。

それは、ワンカップの日本酒だった。
リヤカーの太郎は、駅や公園のごみ箱などで捨てられた雑誌を古本屋に売って暮らしている。
だから日に千円ほどの収入はある筈で、彼がそこから買っておいたとっておきの酒だったにちがいない。

ワンカップを眺めていると、余計に苦しくなった。
彼はようやく身体を起した。
明け方の風が刺すように痛い。
蓋を開け、カップ酒を一気にのみほす。
体の芯が、ぼうっと暖かくなるにつれて、涙が出てくる。
「俺は、ここでも、誰かに迷惑をかけて生きているのだ・・」
そう思うと悔しくなる。

あんなに冷たい体だったのに、涙は温かく、彼の頬を濡らしていく。
・・由美子、会いたい・・

いつも説教染みた話ばかりしてくれていた彼の女の名を、おもわず、口に出している。
別れたつもりもないし、由美子にここに居ると連絡を取ったこともない。
ただ、彼とつきあうことで、由美子は夫に黙って家庭の金を差し出してくれている・・その事だけが申し訳なく、黙って彼女の前から姿を消したのだ。

神戸の市営住宅を、家賃滞納で追い出されたとき、彼は身の回りのものだけを持って、放浪を開始した。
本来、入ってくる筈の年金は借金のカタにとられ、彼のもとには一円の金も入ってこない。
そんな彼が最初に連絡を取ったのは、やはり由美子で、その日、由美子は彼に居酒屋で飲食をおごってくれ、そのあと、一晩を町中のラブホテルで過ごさせてくれた。
由美子はいつも眉間に皺を寄せて彼に説教じみた話をしてくれるが、それは彼への思いからだという事は彼には痛いほどよく分かる。

その翌日、由美子は別れぎわに彼に封筒を手渡した。
「ごめんね・・今、これだけしか持ち合わせがないの・・居所が決まったら必ず連絡ちょうだいね・・」
由美子が今にも泣き出しそうな表情でくれた封筒には10万円が入っていた。

あの日の、最後の夜に見た由美子のあの乳房が思い出され、彼は今、煩悩に苦しんでいる。

酒で体が温まってきたからか、ようやく、誠一はそこから起き出すつもりになった。
ようやく明るくなった町の風景であるが、人影はまだない。
誠一は胸のポケットから手帳を出して開いた。

写真が2枚、その手帳に挟んである。
1枚はあどけない顔をした彼の孫、真一の3歳の姿・・
そしてもう1枚は、鮮やかなワンピースに身を包んだ由美子の姿。

「会いたいよ・・」
そう呟いたとき、「嫁はんと息子か?いや、孫かな」という声が耳元から聞こえた。
驚いて振り返ると「リヤカーの太郎」が、リヤカーを引かずにそこに立って、彼の手元を覗き込んでいた。
「びっくりしたやんけ・・太郎はんかいな」
「いやいや、心配してるねんで・・他の奴等も心配しとるさかいに、わしが代表で見にきたんや」
「おおきにな・・心配は要らんで・・」
「誠一さん・・あんた、顔が黒いな・・どこぞ、内臓が悪いんとちゃうか・・」
「顔が黒いんは、みんな一緒やろ」
そうやり返されると「リヤカーの太郎」は笑みを浮かべたが、すぐに「あんたの顔の黒いんは、病的なものなんや」と小さく呟いた。

「そらそうと、孫と嫁はんか?」
「うん・・こっちは孫や、こっちは嫁と違おて・・女や・・」
「嫁と別に女がおるんかいな・・なかなか捨ておけんやつやな」
「長い事、会うてないんやな・・なんや、急に会いとうなった」
「ふ~ん・・」
リヤカーの太郎は腕組みをして、誠一を見つめ続けた。

「なんや・・わしの顔になんかついとるか?」
誠一はまり長い事見つめられるので、不審に思った。
「太郎はん、なんかあんのか」
リヤカーの太郎は、しばらく考え込んだあとで、思いきったように言った。
「誠一はん、そのお孫さんはどこに居てはりまんのや」
「孫でっか?神戸やけどな」
一瞬、また太郎は考え込んだ。
そして思い切ったようにこう言った。

「誠一はん、あんた、いっぺん、神戸に帰りなはれ!お孫さんに会ってきなはれ!」
「帰るっちゅうても、電車賃もあらへんし・・」
「電車賃くらい、みなでなんとかするわいな!」

2008年2月初旬、神戸市垂水区。
人工の砂浜の、夏にしか使わない海水浴休憩所の建物の影で誠一は一人、ダンボールに包って苦しんでいた。
体が重い。
海から吹き付ける風の強さに、早くここを出て行かなければとは思うのだが、新世界とは異なり、ここでは野宿生活者が生きていけるような条件は何も存在しない。
大阪の都心部とはことなり、冬の季節風は自然のままに容赦なく彼の体から体温を奪う。
暖かいものがほしい・・

孫に会いたく、彼は息子の住んでいた筈の辺りを捜しまわった。
息子は既に何年も前に、住居を変更していて、どこへ行ったのか、まったく分からなかった。
しかたなく、海岸の公園でしばらく落ち着くつもりでいたけれども、この町では飲み水以外のものは、何も手に入らない。
駅やコンビニのごみ箱を漁る日が続いた。
「大阪へ戻ろうか・・」
そう思っても、孫の顔を見なければ大阪に戻りたくはない気持ちが強い。

健康で文化的な生活を営めない人間は・・日本国民失格やの・・そう呟きながら、行政から見放された日の事を昨日の事のように思い出す。
「家賃の滞納が半年にもなりますので強制退去していただきます」
玄関に現れた公務員は彼にそう宣言した。
「ここを追い出されたら、わしはどこで暮らしますのや」
「そんな事は、神戸市の知った事ではありません」
何も滞納したくて滞納したのではない。
年金が入らなくなり、収入がほとんどなくなってしまった彼には払いたくても払えないのだ。
区役所の窓口でも相談をしてみたが、窓口の職員はまるで邪魔者を追い出すかのような対応だった。
・・あんたらは、ええわな・・そこに居るだけで収入が充分にあるのやから・・
その悔しさは、彼が神戸を離れる大きな要因のひとつだった。

公園の目の前を大阪へ向かう電車が走っていく。

「どこか、ガードの下ででも、当面の棲み家を探し直そう」
彼は、ようやくそう決心し、立ち上がろうとした。
立ち上がった瞬間、崩れるように倒れた。
「このままでは、凍死やないか・・」
彼は精一杯の力を使って立ち上がった。
体が重く、腰から下が自分のものではないようだ。

強風に松の木が揺れ、海に白波が立ち、淡路島がくすんで見える。
風に雪が交じり、何箇月も洗濯をしていない衣服の隙間から、塩水と雪を含んだ風が容赦なく襲いかかる。

大事にしていたダンボールを捨て、誠一は身体ひとつで歩き始めた。
一歩、また一歩・・
重い体を引きずるように、海からの風から逃げるように彼は歩いていく。

こじんまりとした建物のかげて、ようやく誠一は一息つく事が出来た。
けれども、休んでしまえばもう、歩き始める事が難しい。
彼は建物の壁にもたれながらポケットから手帳を取り出した。
2枚の写真。
そして、そのページに書かれている彼の息子と、由美子の住所、電話番号。
せめて、息子の居所ではなく、最初に由美子のところへ連絡が出来たなら・・
そう思ったが、由美子がかつての面影もなく落ちぶれた彼の姿を見れば、どう思った事だろう。

会いたい・・
今となっては由美子の肌は恋しくも遠い存在だ。

やがて、その建物から女性が出てきた。
「どうされたのです?しっかりなさって!」
誠一にはもう、言葉を出す力もない。
「とりあえず、今からここへお泊まりなさい!」
彼は首を振った。
恩を受ける理由などない。
「ここは教会が作ったユースホステルです。安心して、泊まって下さい」
女性はそういうと、建物の中へ人を呼びに行った。

数日後、由美子は神戸市内の救急病院へ走っていた。
昨日、病院から誠一が危篤だという連絡を貰った。
誠一が看護士に渡した手帳に由美子の連絡先が書いてあったというのだ。

仕事も休み、急いで病院へと由美子は向かう。
連絡が携帯電話にあったので、家族に知られる恐れはない。

由美子は必死で急いだ。
駅からタクシーに・・クルマの中でも走り出したい気持ちを抑え、病室の扉をようやく開けると、看護士が一人、ベッドの傍に佇んでいる。
「ご家族の方ですか?」
それには答えず、「連絡を頂いたものですから」とだけ看護士に言う。

看護士は気を利かせて出ていった。
誠一らしき人物はベッドに横たわっている。
痩せた頬、無精ひげは、かつての精力的な誠一を思い起こさせないほどだったが、それでもそこに横たわっているのは紛う事なく誠一その人だ。

「どこへ・・どこへ行ってたのよ・・」
思わず思いが口を衝いて出る。
「連絡もくれなくってさ・・」
その時、かすかに誠一の目が見開いた。
「誠さん、あたし・・分かる?」
誠一がじっと彼女を見ている。
「あたし、由美子・・」
「ユミちゃんか・・会いたかった・・」
誠一はゆっくりと腕を動かし、由美子の頬を撫でた。
「会いたかった・・」
彼の手はゆっくりと由美子の胸のところへ向かい、彼女の乳房の辺りをまさぐる。
彼女は、求められるままに、衣服のボタンを外し、彼の手を受け入れた。
「会いたかった・・」
そう、呟いて、誠一は目を閉じた。
彼の手から力が抜け、彼の腕は静かにベッドの上に落ちていく。

「誠さん!」
由美子は必死に彼の名を呼ぶ。
彼に一瞬だけ触られた胸に残った感覚が離れない。
由美子の声に、看護士が二人、ドアを開けて入ってきた。

由美子が連絡を取った誠一の息子、誠夫とその妻、そして誠一の唯一の孫、真一が連れだって病室に入ってきたのはそれから、数分あとの事だった。
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心の奥にあるもの


この作品は、少しは鉄道と関係のある人生を生きている僕にとっての、尼崎脱線事故へのレクイエムです。
公開することにためらいはあるのですが、鉄道の安全を願い、亡くなられた方々へのご冥福をお祈りするとともに、事故により様々な影響を受けられた全ての方々の一日も早い回復を祈念し、あえて公開させていだくくことにしました。

************************

4月25日 
美奈子は勤め先の神戸メリケンパークにあるホテルに居た。
彼女の仕事は、このホテルでの介添係だ。
46歳、和服を着ると、もともと美しい彼女だが、それでも一層華やかな風が彼女の周りを舞うようだ。
和服とは言っても派手なものではない。
あくまでも接客のための、萌黄色の特に派手な柄もない色無地の、ホテルの制服の一種ではある。

今日は月曜日だが、婚礼が一件だけあった。
理髪店を営む家同士の婚礼で、月曜日でないと家族も、親族も仕事関係者も集まることの出来ない人たちだった。
花嫁はまだ二十歳すぎたばかりの初々しさ、新郎は背の高い、おしゃれな青年だった。
美奈子は今、花嫁を案内して、写真室に送り込んだところだった。
しばらく、ここで待っていれば撮影はすぐに終了するだろう・・

写真室前の通路に、大きな窓から外の明るい光が差し込んでいる。
普段はじっと待機している彼女だったけれど、今日の婚礼はこれ1件だけ、平日とあって、ホテルの中も閑散としていた。
美奈子は、明かりに誘われるように、窓辺に近づいた。
海が輝いている。
風はあまりないようだ。

クルーズ船が係留されているその脇をタグボートが小波を立てて進んでいく。
海・・どうしてか、海を見ると懐かしい思いがする。
優しい、暖かさがとてつもなくいとおしく、子供の頃に帰ったような気がする。
けれども、彼女にはある程度から以前の幼少の記憶がないのだ。
出生地は神奈川県であることは知っていたけれど、それは知識としてだけで、実際にその町の記憶は彼女にはなかった。
ただ、海、それも港の景色を見ると、何故だかとても懐かしく思えるあたりに自分自身でも分からない不思議なポイントがあるような気がしていた。

新郎新婦の撮影には結構手間取っているようだった。
まだ写真室の扉は開かない。
海の輝き、そして、係留されているクルーズ船の窓が陽の光を反射したそのとき、心の奥で何かが沈んでいくような恐怖感が襲ってきた。
何だろう・・そう思うまもなく、恐怖感は苦しみに、そして得体の知れない大きな哀しさに変わっていく。
窓の外は明るい港の景色・・
怖くなり、哀しくなるようなものは何も存在しない。
「どうしたのかしら・・」
小さな声で独り言を呟いてみる。
心臓の底が抜けたような、足元が抜けたような、宙に立つような不思議な気持ちになる。
哀しくて、涙がまさに流れ出るそのとき、写真室の扉が開いた。
「お疲れ様でございました。行ってらっしゃいませ」
写真室の助手の男性が元気よく、新郎新婦を送り出している。
「お疲れ様でございましたわね・・それではお控え室に参りましょう・・」
美奈子は姿勢を正し、きちんとお辞儀をして二人を誘う。
涙は流れる時を失ったようだ。

美奈子は今朝の婚礼の開始時間が早く、朝7時にはホテルに出勤していたので、婚礼が終了した午後3時には退社時刻となった。
ロッカールームで、和服を脱ぎ、いつもの長い目のスカートとブラウスに着替え、さっぱりとした風で、彼女はホテルの従業員出口から外に出た。
「おつかれさん!」ちょうど料飲部の部長が入れ違いに入ってくるところだった。
「お先に失礼しますわね・・」
美奈子が軽く礼をし、出ようとすると部長は立ち止まってこう言った。
「えらい事故があったね・・知らない?」
「ええ・・」
「尼崎で大事故だよ・・」
大事故・・胸騒ぎがした。

元町駅からの電車はひどく遅れていた。
それでも、彼女は数分待って電車に乗り込んで、自宅を目指した。
町を抜けると海が見える。
やはり哀しさが少し湧き上がってくる。
「宝塚線事故のため、電車に遅れが出ております。誠に申し訳ございません」
車掌のアナウンスが時折流れる。
事故という言葉を聞く度に胸の奥が抜けたような気持ちになる。
彼女の自宅は、塩屋駅から山の手に10分ほど歩いたところの小さなマンションだ。
美奈子には、お見合いで結婚した三つ年上の夫と一人の娘があった。
夫は小さな商社に勤めており、娘、美香は大学生になっていた。
「まだ、誰も帰っていないでしょうね・・」
そう思い、自宅の扉を開けた。
明かりをつけ、何気なくテレビのスイッチを入れる。
購入したばかりの、大き目のテレビの画面に、くしゃくしゃになった電車が映し出されていた。
「あ・・この電車・・」
美奈子はその画面を見つめた。
涙が溢れ出る。
自分でもなぜかわからない。
くしゃくしゃになった銀色の車体、忙しく動き回る大勢の人々、いくつもの電車が線路を外れ、重なっているようにも見える。
「これ、なに?・・・」
自分でも思いもよらぬ感情が湧き出る。
胸が痛い。
今朝の事故は彼女にとって知らない町での話だ。
けれども、彼女は、この映像を見たことがある・・
銀の電車・・違う・・銀ではなく、しろっぽい車体・・いや、白だけでもなく濃い色もあった・・ツートンカラーのスマートな電車・・
彼女の頭の中で何か開けてはいけない扉が開けられていくような、そしてそれは入っていってはいけない世界のような気がした。
美奈子はテレビの前に座り込んで、声を上げて泣きはじめた。
涙が止まらない。
自分が何故泣くのかが、よく分からない。
「助けて・・助けてあげて・・」
嗚咽が止まらない。

しばらくして扉が開く音がし、娘の美香が返ってきた。
「お母さん!どうしたの?」
美香は、泣いている彼女を見て驚いている。
「だめ・・だめ・・・助けてあげて・・」
泣きじゃくる美奈子の前のテレビ画面では繰り返し、電車の脱線事故の映像が流れている。

夕食の用意は娘の美香がした。
美奈子はあのまま寝込んでしまった。
時折、すすり泣く声が聞こえる。
「どうして、自分と関係のない事故が、あんなに悲しいのだろう・・」
美香には理解できなかった。
リビングのテレビは消してしまった。
変わりに、穏やかなフォークソングのCDが流れている。
美奈子の好きな歌手で、少しでも母の心を楽にさせようと、美香がそうした。

夫の雄二が帰ってきた。
彼はクルマでの通勤で、電車は使っていない。
「今日の電車の事故、すごいことになったなあ・・」
そう言いながらリビングに入ってきた雄二に、美香は静かにというしぐさをして見せた。
「どうしたんだい?」
声をひそめて雄二が訊く。
「お母さん、あの事故の報道を見てから変なの・・」
「何でだろう・・・知り合いの人が乗ってたのかな?」
「そうじゃないみたいよ・・」

夕食の支度が出来たので、美香は母が寝ている部屋を覗いた。
美奈子は布団の上に座っていた。
「お母さん、もう大丈夫?」
美香の問いに美奈子は軽く頷く。
「じゃあ・・ご飯にしようか・・」
「ありがとう・・音楽まで流してもらって、すっかり気持ちが落ち着いたわ」
「よかった・・」
美奈子は案外、毅然と立ち上がり、リビングへ入っていった。
「どうしたんだい?何かあったの?」
雄二が訊く。
「おかえりなさい・・もう大丈夫よ・・だけど・・」
「だけど?」
「そうね・・テレビをつけてくれる?」
美香が慌てて遮った。
「お母さん、今はまだ、見ないほうが良いの・・」
「もう大丈夫だから・・」
雄二がテレビのリモコンを操作した。画面に明かりがともる。
バラエティ番組が流れている。
「ニュースにして」
美奈子の言うままに、雄二はこの時間にニュースをしているNHKに変えた。
電車事故の映像が流れている。

昼間にヘリから撮影したらしい上空からの映像・・
建物に張り付くようになって、折れ曲がっている銀色の車体。その脇に大破した別の車体。
いくつもの電車が、模型の箱をひっくり返したようになって、散らばっている。
「あたしね・・この映像と同じような映像を、ずっと昔に見たような気がするの・・」
「この映像・・」
雄二が少し好奇心を掻き立てられたようだった。
美香は母がまた泣き出さないか、気が気ではない。
「電車は銀色ではなかったわ・・スマートな、白と、何か濃い色の電車・・」
「なにか、そういう写真をどこかで見ただけなのではないかい?」
雄二が訊く。
「うううん・・それが、あたしにはどうもすごく、辛い映像だったように思うの」
「辛い映像・・」雄二が腕を組んで考え始めた。

「ご飯食べようよ!折角作ったんだからさ・・」
美香が話題を遮るように、テーブルに食事を並べ始めた。
雄二の手元においていたテレビのリモコンを取って、さっとチャンネルを変えてしまった。
「美香ちゃん、あとでインターネットで調べてくれないかな?」
美奈子は落ち着いた口調で美香に訊く。
「何を調べるの?」
「だからさ・・昔にあった電車の事故・・」
美香は返事に困り、そのまま食事を始めた。
家族三人の言葉のない食事になった。
テレビにはお笑い芸人の馬鹿笑いだけが映っていた。

食事の後片付けをして、美香は自分の部屋に入った。
母、美奈子もついて入ってきた。
「本当に見るの?」
母は頷いた。きれいな瞳をしている。
パソコンのスイッチを入れ、立ち上がったパソコンでインターネットに接続し、検索欄に「電車 事故」と打ち込んだ。
項目はいろいろ出てくる。
もう、今日の記事が出ているものもある。
けれども、的を得ない。
「鉄道事故としたらどうかしら・・」横から美奈子が口をはさむ。
「鉄道 事故」と打ち込んでみた。
鉄道事故史のようなページがたくさん出てくる。
そのうちの一つを開けてみた。
「三河島事故」「桜木町事故」「八高線事故」「鶴見事故」
「事故が多かったのねえ・・」美香が思わず溜息をつきながら、その画面を見ている。
再度、検索欄に「三河島事故」と打ち込んでみた。
ヒットした記事がこれも多い。
そのうちの最初の方の一つを開けてみた。
「あ・・」美奈子が声を出す。
モノクロ写真で、濃い色の電車が折り重なり、あるいは線路から大きくはみ出した上空からの写真が出てきた。
「これ?」
美香が美奈子に訊く。
「こんな感じよ・・かすかに覚えているの・・でも・・」
「でも?」
「電車がもっとスマートなの・・」
続いて検索エンジンに「鶴見事故」と打ち込んでみた。
やはり、たくさんのページが出てくる。
一つのページを開けた。
「あ・・これ・・」
電車が折り重なり、先ほどの写真と似た写真だが、電車の車体がツートンカラーになっている。
モノクロだから色は分からない。
「この写真・・もっと大きく見たい・・」
美奈子の求めに他のページを開ける。
画面いっぱいの事故の写真と、詳しい解説が出ていた。
そのページには、他の角度から撮影した様々な写真が詳しく出ていた。
美奈子は食い入るように見つめている。
「昭和38年11月9日、21時50分、東海道線、鶴見・新子安間で貨物線を走行中の貨物列車が突然脱線し、となりの東海道線上り線を支障した。折り悪く、上りの普通電車がこれに接触、先頭車両がちょうど通りがかった下り普通電車に突っ込んだ」
そのページの解説はその先、詳細に渡り、破壊された電車の様々な角度からの写真も添えられている。
美奈子も美香も食い入るようにパソコンの画面を見つめている。

「鶴見・・鶴見って・・・」美奈子は呆然とした表情で美香に聞いた。
「横浜みたいね・・お母さん、神奈川でしょ・・生まれたの」
「うん・・でも・・住んでいたのは・・鎌倉の方だったらしい」
「お母さんが五歳の頃ね・・」
五歳、鎌倉、横浜・・鶴見・・ツートンカラーの電車・・
美奈子の頭の中で何かが回り始めた。
「東海道線を走行していた下り横須賀線電車・・意味がわからない・・」美香がパソコンの画面に向かってつぶやく。

「何してるの・・何か分かったかい?」
雄二が様子を見に来た。
「お父さん、東海道線を走行していた下り横須賀線電車って・・」
「ああ・・お父さんが高校の頃までは、東海道線と横須賀線が同じ線路を走っていたんだ」
そう雄二が答えて二人の後ろからパソコンの画面を見つめた。
雄二も神奈川の出身だった。大学を卒業し、神戸で就職した。一人暮らしで頑張っている雄二に上司が勧めたお見合いの相手が美奈子だったのだ。
回りのほとんどが関西弁を使う中で、同じイントネーションで喋ることの出来る美奈子を、雄二は一目で気に入ったものだ。
「これ、昔のスカ線電車じゃないか・・」
「知ってるの?」
「ああ・・子供の頃に見たことがあるなあ・・これは・・鶴見事故か・・大きな事故があったそうだよ」
スカ線?横須賀線?鎌倉?鶴見?横浜?
美奈子の頭の中で、回り始めた何かは、少しずつ、その回転を大きくしていくようだった。
「ありがとう・・あたし、気分が悪いから、先に休むわね」
美奈子はそう言って美香の部屋を出て、夫婦の寝室へ入った。
頭がくらくらする。頭の芯が痛い。胸の奥に、穴があいたような気がする。
横須賀線、鶴見、鎌倉・・

4月27日
美奈子はあれ以来、出てきたキーワードを手がかりに記憶を探ろうとするけれども、どうも先に進めないで居た。
進めないというよりも、進みたくない美奈子の本能がそうさせるのかもしれなかった。
彼女は知りたかった。
誰でも、40代後半にもなると幼少の頃の記憶はあいまいになってくる。
だから、彼女も5歳以前の記憶がないことが不思議ではなかったけれど、他の人はもう少し小さな頃の記憶がおぼろげながらにはあるようだった。
自分の消えた記憶の場所へ・・そこへ入り込んでいくのには勇気の居ることだった。
けれども、電車事故の映像を見て、どうして自分の心に悲しみが湧きあがってきたのか、いや、それ以前に、あの日の仕事中、どうして悲しい気持ちになってしまったか・・
また、どうして、港の海が輝く景色を見ると妙な懐かしさを覚えるのか、そのあたりのことが知りたかった。

今日は休みだ。
思い余った彼女は、今は東灘区で暮らしている彼女の母親に電話をしてみた。
「どうしたの?私のことはもう忘れたかと思っていたよ」
母の、ちくりと刺す嫌味も、それほど気にせず、美奈子は訊いた。
「お母さん、あたし、五歳の頃、何があったの?」
「どうしてそんなことを訊くの?」
「この間ね・・電車の事故があったでしょう・・あの事故のニュースで、なんだかとても悲しくて怖くなったの・・」
「ほう・・それはどうしてだろうね」
「でね・・そのときのニュースの映像が、昔にも見たことがあるような気がして、美香に調べてもらったのよ・・」
母は黙って聞いている。
「鶴見事故・・横須賀線電車の事故らしいのだけど、このときの写真が見たことがある気がして仕方がないの」
母はまだ黙っている。
「昭和38年11月・・何があったの?」
「思い出してしまったかい・・」
やっと母が搾り出すように言う。
「思い出すも何も、悲しくて怖いだけ、何がなんだか分からない」
「おまえの、お父さんが亡くなった日だよ」
「お父さんが?」
「そう・・鶴見の事故で亡くなったんだ」
「病気だって言ってたじゃない」
「おまえが、お父さんが帰らないといって泣きじゃくってね・・遠くの病院に居ることにしたんだよ」

母、鈴江は明日にでも、家に来て、全部話してあげるからと、電話を一方的に切った。
「お父さんが亡くなった日・・」
美奈子は、そう聞かされても判然としない。
何も思い出さないのだ。
電車の事故で亡くなったのなら、そう言ってくれれば良いじゃないの・・彼女の心に残ったものはそれだけだった。
父の顔は覚えていない。
写真が僅かに残るけれども、それは自分にとって知らない人だった。

テレビニュースで事故で亡くなった人の数が100人を超えたという報道がされた。
彼女の胸の奥がぐっと痛くなった。

4月28日

美奈子の母、鈴江は美奈子が今日は出勤だったので夜にやってきた。
70歳を超え、一人暮らしをしているが、新興宗教に凝っていて、結構にぎやかに暮らしている。
美奈子は母の賑やかさが、疎ましくもあり、仏典だ経典だとの話を聞かされるのも嫌で、自分の母ながら、あまり頻繁に行き来をしているわけではない。
雄二・美香もある面では鈴江を疎ましく思ってはいるけれど、宗教の勧誘以外ではお人よしの、孫をやたら可愛がる、良いおばあちゃんには違いなく、ある面では鈴江が来るのを心待ちにしている部分もあった。
みなが揃って食事をする、そのとき、美奈子が切り出した。
「おばあちゃん、教えて・・」
美奈子は美香が居る前では鈴江を「おばあちゃん」と呼ぶ。
「ご飯が美味しくなくなるから・・あとで・・」
「大丈夫・・ちゃんと聞けるから、今教えてよ」
「おいおい、おばあちゃんの言うとおりだ・・あとにしようよ」
雄二もそう言ったけれど、美奈子は譲らない
「早く聞きたいの!」
「仕方がないわね・・」

美奈子の父、昌平は、東京、日本橋近くの小さな商事会社で働いていた。
昌平の仕事はいつも手一杯で帰りが遅く、帰宅をするのに、東京駅で毎日9時過ぎの電車に乗るのがやっとだった。
それでも、娘を、妻を愛した昌平は、休みの日にはよく港へ海の景色を見せに家族を連れ立って出かけていた。

その日も昌平は帰宅が遅くなった。
時折乗る時間の電車に乗った。
座っていたのか、立っていたのか、何処に乗っていたのか、全く分からない。
けれども、間違いなく昌平はあの電車に乗って、自宅を目指していた。

横須賀線で事故があったことを知った鈴江は、帰宅しない夫の安否をあちらこちら尋ねたけれども、友人のところにも、会社にも、もちろん居るわけがなかった。
翌日、警察から知らされ、現場近くの寺院に遺体を見に行った。
大勢の遺体の中に、彼女の夫の変わり果てた姿があった。
まだ5歳だった娘、美奈子は、親戚に面倒を見てもらっていたが、父親が帰らず、母親もまた出かけていったまま、周囲の異様な雰囲気から、泣いてやまなかった。
結局、父親は遠くで病院に入っているということにして、そのまま自然に受け入れるように周囲が決めたのだったが、たまたまその家にやってきた近所の男性が、新聞の写真を美奈子に見せて「お父さん、これで亡くなったんだね」と言ったことがきっかけとなり、美奈子はその新聞を離さず、しばらく凝視したあと、火がついたように泣き出した。
彼女にとって、父の乗る横須賀線は、何処の電車よりえらい電車だった。
色も茶色ではなく、白とブルーの塗りわけで、東京という大きな町へ仕事に行く父のようなえらい人をたくさん乗せる電車だった。
その横須賀線に乗って、父が亡くなった・・五歳といえど、頭の回転の速く、機転が効く少女には、厳しすぎる現実だった。
美奈子はその日から1週間以上、高熱を発して寝込んでしまった。
やっと起きて、ものが言えるようになったとき、すこし、性格が変わってしまったように、鈴江は感じた。
事故の記憶はきれいに消え去り、それは少女が生きるための本能だったかもしれない。
人はあまりにも辛い記憶は消すことが出来るという・・
少女の父は病気で亡くなった事になった。

「思い出したかい?」
話し終わった後、鈴江が美奈子に訊いた。
「うううん・・でも、少しは分かったわ・・」
「それは・・辛いことでしたね・・」
雄二が鈴江に同情するように言う。
「辛いといってもねえ・・辛さを感じることも、泣きたくなっても泣く暇もなかったからね。それからは必死だったよ・・」
鈴江が屈託ない表情でそう言う。
美香が泣いていた。
「どうしたの?」
美奈子が尋ねる。
「お母さんとおばあちゃんが可哀想・・」
泣きながら美香がつぶやいた。
「いいのよ・・私はそのことがきっかけで、今の生き方を見つけたんだから・・」
鈴江の宗教の話が始まった。

6月10日

美奈子は東京駅に居た。
あれから甦るかに見えた幼少の記憶はかえって遠ざかり、事故の映像を見ても、胸の痛みは日に日に小さくなっているように感じた。
なぜか、彼女は、その記憶を取り戻したかった。
そこで、横須賀線に乗って、どういうものか引っかかる横浜の町へ行ってみようと思い立ったのだ。
けれども、婚礼シーズンの真っ只中でチーフである彼女が、関東への旅行をする時間を生み出すのには思いのほかに時間がかかってしまった。
新幹線で東京に行き、横須賀線で横浜に行く。出来ればその後、自分が生まれ育った鎌倉の町を見てみたいと思った。
日帰りで出来ない旅行ではなかったけれど、慌しい時間の流れの中では、何かを見つけ出せるかどうかは分からなかった。
美香も雄二も付き合ってくれるということだったけれど、彼女は自分ひとりで行ってみたかった。
自分の心と、何かをぶつけてみたかった。

東京駅で新幹線を降りたときは既に昼前になっていた。
美奈子は忙しそうな駅員に聞いた。
「横須賀線で横浜に行きたいのですが・・」
駅員は気もせくという感じで、早口でこたえた。
「横浜なら、湘南電車・・東海道線が速いです、7番8番乗り場へどうぞ」
「いえ、あの、横須賀線で行きたいのですけれど・・」
「横須賀線・・戸塚の方ですか?」
「ええ・・」
戸塚がどこか知らなかったけれど、彼女はそう答えた。
「じゃあ、地下の総武線横須賀線乗り場へどうぞ・・」
「地下ですか?」
「ええ・・何か?」
駅員は不思議そうな表情をしたまま、そっぽを向いてしまった。
人込みの中で美奈子は地下への道を探した。

通路を歩き、エスカレータを乗り継ぎ、地下鉄の駅のようなプラットホームについた。
しばらくしてやってきた逗子行き電車の銀色の車体や、中ほどの2階建ての車両を見ても何も感慨が湧かない。
電車に乗り込んでみたものの、長いシートが壁にそって置かれているだけの、普通の電車の車内からは、彼女が小さな頃にえらい電車だと思っていたという面影は全く湧かなかった。
美奈子はドアのところで立って、外の景色を見ることにした。

電車は地下を走る。
やがて地上に出て、品川駅に停車し、電車は速度を上げる。
新川崎という駅に停車した。
ここまでの窓の外は新幹線の線路やら、普通の住宅地やらで、やはり何の感慨も沸かない。
新川崎を出た電車は、次が横浜だという。
カーブを曲がる感触、たくさんの線路が入り乱れる鉄道の風景、すれ違う様々な色の電車・・
そのとき、一瞬だけ、胸が痛くなった。
「ここ?」
そう思ったものの、慌しい走り方をする電車の車窓からの眺めは、すぐに胸の痛みを薄くしてしまう。
あっという間に電車は横浜駅に着いてしまった。
鶴見がどこかほとんど分からなかった。
けれども、多分、ほんの一瞬だけ胸が痛くなったあたりのような気がした。

仕方がなく、美奈子は改札を出た。
出るときに、脇の窓口に居た駅員に横浜港への道を尋ねた。
「横浜港ですか・・港のどのあたりへいかれますか?」
「公園かそう言うものがあるところ・・」
父が彼女を連れてよく港の公園で遊ばせたという話を思い出した。
「じゃあ、山下公園ですかね?」
「さあ・・」
「だったら、その先の、みなとみらい線で、元町・中華街駅で降りたら分かりますけれど」
彼女は礼を言って駅員が指差した方向へ向かう。
表示に従って階段を下りる。
渋谷方面と書いてあるのが違和感を覚える。
全く知らない外国を歩くようだ。

銀色の、いかにも都会の電車という感じの電車に乗って、終点で下車した。
「元町・中華街」という、聞きなれない駅名・・
人の流れに沿い、山下公園の表示のあるほうへ向かう。
長い通路を歩き、ようやく外に出た。
潮の香りがする。
蒸し暑く、けれども軟らかい風が吹いている。
観光客らしい人の群れについて、歩いていく。
潮の香りが強くなった。
目の前に、いかにも海辺の公園という感じの公園が現れた。

道路を横断し、平日なのに人がたくさん居るその公園に入っていった。
海がある。港が有る。
大きな船が係留されている。
神戸港を良く見ている彼女でも見たことのない大きな客船だ。
岸壁の、柵にもたれかかり、ぼんやりと白くかすむ空の下、やわらかい光をはねかえす波を眺める。
白い、きれいな客船が沖に浮かんでいる。
小さなボートが勢いよくその前を横切る。

潮の香り、海の風・・
涙が突然出てきた。
公園の芝のうえで走り回る自分が居る。
小さな小さな、4,5歳ころの自分がはしゃいでいる。
父と母が、おろおろしながら見守ってくれる。
大きな船がゆっくりと動いているのを見て、「ふね!ふね!」と叫ぶ。
母が作ってくれたおにぎりを頬張る
父は屈託なく、芝生に座り込んで笑っている。
「お父さん!」
叫んだ。
海は穏やかで、蒸し暑さも軟らかい風が流してくれる。
父の顔がはっきりと瞼に浮かんだ。
笑顔だった。
横須賀線の電車の駅から出てくる父の姿・・
母と、よく駅まで父を迎えに行ったことまで思い返される。
涙でかすんだ美奈子の目には、横浜港の景色が優しかった。

さつきは10歳


(憲法九条の危機に怒りを覚えて書いてしまいました)

さつきは10歳、神戸の西の新興住宅地にある小学校にに通う毎日。
さつきは10歳、5年生。
今日はみんなで遠足で、水族館へ行くところ。
バスの中でも子供達は大騒ぎ・・時々道路が混んでちょっと時間がかかったけれど、
でもなんとかバスは水族館へついた。

水族館では始めに写真屋さんが記念撮影・・ここでも大騒ぎ。
みんな今日の遠足が嬉しくて仕方がないのだ。
記念撮影は大きな水槽をバックにして、クラス一番のフザケモノ健太がはしゃぎまわるから、
しまいに写真屋さんが怒ってしまった。
「こらあ!」
ひたすら謝るのはさつきの担任の順子先生だ。
5年2組29人!
男子16人女子13人・・元気ばかり良くて学校一の困ったクラス。
今日は校長先生もついてきてくれた。きっとこのクラスが心配だったのだろう・・
やっとフラッシュがビッカ!健太はビックリしたような顔をして写ってしまった。
後ろで水槽をエイやサメが泳いでいた。

ラッコを見て、イルカショーを見て、楽しいお弁当タイム。
さつきは由香と瑞穂とお弁当。
突然横から手が伸びて、さつきのお弁当箱から卵焼きが消えてしまった。
健太だ・・「ベエーー」さつきは舌を出して、仕返しを誓う。
いきなり空に黒いヘリコプター・・それも随分低く飛んでいる。
うるさくておしゃべりが出来ないよ・・
健太が叫ぶ「こらあ!ヘリコプター!うるさいぞ!」
男子がみんな真似して叫ぶ。「うるさいぞ!あっちへいけ!」
「聞こえるわけないでしょ・・早くお弁当を食べなさい!」
優しい順子先生もちょっとイライラしている。

お弁当食べて、さつきは由香、瑞穂とちょっと散歩。
集合時間まで1時間・・自由時間だ。
みんなは遊園地の乗り物に夢中。
でもさつきたちはもう一度、魚がたくさん泳ぐところを見たかった。
さっき入った、大きな水槽のあった建物にまた入って、エイやサメ、いっぱいの魚たちが泳いでいるのを見る。
ここは一番のお気に入り、前にも何度も父さん、母さんと来たところ。
「エイが可愛いね!」さつきが言うと「うっそー・・ブキミだわ」由香が言う。
「でも・・校長先生に似ている・・」瑞穂がちょっとませて言う。
3人大笑い・・「なにを笑っているのかな?楽しそうだね・・」
振り返るとそこに校長先生・・
余計に大笑い・・校長先生、意味がわからずポカーンとしてた。

その時、どーんと大きな音、何かが割れる音。
真っ暗になって、水が押し寄せてきた。
助けて!どんどん流される。
息が出来ないの・・助けて!
魚も水も水槽も、見ていた人間もいっしょになって流された。

気がつけば、さつきはビショビショになって倒れていた。
周りにはさっきまで泳いでいたエイやサメがまだ生きていて刎ねている。
水槽の前にいた人たちが横たわっている。
何が起こったの?由香は?瑞穂は?
そこは水族館の建物の前だった。
いろいろなものが壊れ、水浸しで魚が刎ねて、人が倒れていて・・
さつきが建物を見ると、
そこにあったはずの大きな建物は、ぐちゃぐちゃに壊れてる。
「さつきちゃん!」
順子先生が皐月を見つけて走ってきた。
助かったのね!」
さつきは友達が気になって、「先生、由香は?瑞穂は?」
先生は悲しい顔をした。
飛行機が飛んできた。
黒い飛行機だ。どんどん近づいて、何かを落としていった。
飛行機が山の方へ飛んでいくと後を追っかけるように別の飛行機が飛んでいった。
空のその部分でピカピカって二回光って、飛行機は山の方へ落ちていった。
その時、水族館の目の前の町が、町中がピカと光った。
大きな音がした。順子先生がさつきをかばってくれた。
地面が揺れていろいろなものが降ってきた。風が吹いた。
風が収まって順子先生が身体をどけてくれて、さつきはそっと目を開けて町を見た。
町中が火の中にあって、全部が燃えていた。
家もビルも、車も、バスも、街路樹も・・
「先生・・怖い!」さつきが叫んだ。順子先生は立ち上がって、さつきの手を引いて、歩き始めた。
女の子の泣き声がした。
「怖いよう・・怖いよう・・」
見ると由香と瑞穂が地べたに座り込んで泣いていた。
手を握り合って泣いていた。
「由香ちゃん!瑞穂ちゃん!」
二人は顔を上げた。ビックリしたようで、さつきと先生の顔を交互に見て、それから泣きながら走って抱きついてきた。
二人がいたところに男の人が倒れていた。
「あの人は?」順子先生が二人に聞いた。
「校長先生・・動かないの」
順子先生はその人に近づいて、声をかけている。
動かない。
「校長先生!」
順子先生が叫んでいる。それでも校長先生は動かない。
周りには何人もの人が倒れていた。血を流している人もいた。
「先生・・暑い・・」
瑞穂が言う。暑い風が吹いてきた。
町の火がどんどん大きくなっていく。
「海岸へ逃げよう!」誰かが叫んだ。
同じ学校の生徒で、壊れた建物に入っていた人は少なかったみたいだった。みんなは外の遊園地にいたらしい。
遊園地のところではみんなが心配そうに待っていてくれた。
ここも熱い風が吹いている。
1組の松田先生が順子先生の姿を見て「良かった!助かったのですね!」と叫んだ。
「松田先生!校長先生が・・」順子先生はそう言って、松田先生にしがみついて泣き出してしまった。
「健太がいない」
さつきたちを見たクラスメイト達がそう叫んでいる。

轟音だ。また飛行機だ!
それも真っ黒な飛行機だ。みんなが不安だ。
また別のところから今度は緑色の飛行機だ。
黒い飛行機が何かを落とす。凄い音・・今度は水族館のすっと向こう・・東の方だ。
大きなキノコ雲が上がる。
「おりられないよーー!」
誰かが泣く声が聞こえる。
みんながそっちを見ると、壊れた建物の屋根の残骸に健太が乗っかって泣いていた。
「健太がいたよーー!」
すぐに松田先生があちらこちら探りながら、屋根の上に上がって、健太を下ろしに行った。
健太は一人で屋上の亀を見ていた。亀を見ていたら突然、何かが落て建物が壊れて、気がついたら屋根の端っこにいたそうだ。
壊れた建物には何人かの人も挟まったままだ。
松田先生は他の人と力をあわせて挟まった人を助けに行った。
白い雪のようなものが降ってきた。
けがをした子供を見ていた順子先生がぽつりと言った。
「震災の時も灰が降っていたわね・・」
「これ・・灰なの?」
順子先生はウン・・と頷いた。
「これ・・夢じゃあないよね・・」順子先生の後ろでは町が燃えている。

生徒達は砂浜でじっとしていることになった。
携帯電話を触っていた順子先生が、やっとつながった電話の声を聞いて泣き出していた。
「戦争?本当に?どうして?」
順子先生は大きな声で泣きながら喋っている。
さつきも由香も瑞穂も泣いてしまった。みんなが泣いてしまった。
海の上にも飛行機がたくさん飛んでいる。船が煙を上げて燃えている。
「ここにいたんですか・・すぐに帰りましょう」
みんなを連れてきてくれたバスの運転士さんが心配して探しに来てくれた。
「生徒さんは揃ってますか?」
「生徒は揃ってますけれど、校長先生が・・」
運転士さんはちょっと考えていたけれど「すぐに出発しましょう・・」そう言って順子先生を見つめた。

みんなを乗せてバスは動き始めた。
でも・・ちっとも前に進めない。そこら中で火事だ。運転士さんは山の方へバスを向けた。
道を変えて走るのだ。
こっちも混んでいたけれど、少しずつ、少しずつ、バスが進んでいく。
このあたりには何もなかったかのような普通の街の景色だ。
でも、道路には心配して空を見上げている人が大勢出ていた。
さつきも怖くて、また爆弾が来たらどうしようかと、そればかり考えていた。
やがてバスは山道に入っていった。
街の方を見るとあちらこちらで火事だった。
救急車や消防車、パトカーがたくさん走り回っていた。
停電で信号機も消えている。
バスはゆっくり、少しずつ進んでいく。
みんな少し安心したのか、眠っている人もいる。
瑞穂と由香が身体を寄せ合って、眠っている。
さつきは順子先生の横で、怖くて怖くて仕方がなかった。
「もう、爆弾は降ってこないのでしょうか・・」
松田先生が、運転士さんと話をしている。
「わからないですよ・・やっと自衛隊が出動して、頑張っているみたいですけれど、どこの国が来ているのかもわかってないらしいです」
運転士さんは慎重にバスを進めながら答えている。
運転士さんはずっとラジオを聴いていたそうだ。
トンネルが見えた。トンネルの中までずっとクルマが続いている。
その時、ものすごい音がした。
ギューン!バリバリバリ!
バスが停まった。しばらく地震のような揺れが続いた。
あたりが煙に覆われた。
怖い・・さつきは順子先生にしがみついた。眠っていた人も起きて、泣き出す人もいた。
煙が晴れると、トンネルの入り口で大きな塊がクルマを何台も押しつぶして、道路をふさいでいた。
「飛行機だ!」松田先生が叫んだ。

みんなで山を登り始めた。
もう、歩くしか前にはいけない。獣道を急な坂を岩に攀じ登って、もう誰も泣かなかった。
とにかく家に帰らなきゃ、そうしないともっとひどいことが起こりそうだ。
さつきはまだ元気だったけれど、由香がとてもしんどそうだ。瑞穂と二人で由香を支えるけど、なかなか進めない。
すると、あの健太が由香の背中を押してくれた。
なんとか頂上について、みんなが一息入れて、街を見ると、もう、そこは火と煙の世界だった。
飛行機は随分少なくなったけれど、それでもまだいくらか飛んでいる。
海の上でも、たくさんの船が燃えている。
「みんな死んじゃうの?」
由香が順子先生に訊いている。
「そんなことないわ・・絶対大丈夫だから・・」
順子先生も泣きながら、でもそう答えた。
山道を歩いていると、少し静かになってきた。
歩いて、歩いて、でも、山を降りて、街に入ったら歩いている人がたくさんいた。
ぼろぼろの格好をしている人もいた。けがをして血を流している人もいた。
もうすぐみんなの学校の場所だ。
大きなデパートと、たくさんのお店と大きなマンションがある町の学校だ。

日が暮れてきた。
やっといくつかの坂を登って、みんなの町についた。
すっかり暗くなってしまった。
でも・・そこにあるはずの大きなデパートは明かりも消えて、なんだか小さくなったようで、代わりに自衛隊の人がたくさんいた。
「ここから先は入ってはダメです!」
自衛隊の人が大声で叫んだ。
遠回りして、大勢の人ががやがや騒いでいる中をやっと学校に着いた。
学校の教室からはいくらか明かりも見えた.。
みんなが学校に近づくと、校門付近にいた人たちが一度に駆け寄ってきた。
「さつき!」
見るとお母さんが走ってくる。
「お母さん!」
さつきもお母さんの元へ走っていく。
その時だ・・
空が明るくなって、みんなの顔が夜なのにはっきりわかって・・そして真っ白になって・・大きな音がした。

「さつき!どうしたの?」
お母さんが心配して起こしてくれた。
「悪い夢でも見たの?汗でびっしょりよ」
あ・・夢だったんだ・・
いやな夢だったな・・昨日、寝る前に変な戦争モノのアニメを見たからかしら・・
さつきはちょっと安心して、それでもちょっとまだ怖さが残っていた。
「今日はいいお天気でよかったわね・・遠足」
お母さんがそう言ってくれる。
遠足・・・夢だったから・・大丈夫だよ・・
さつきは自分にそう言い聞かせて、お父さんとテレビを見ながら朝食だ。
お父さんは真剣にテレビのニュースを見ている。
「昨夜から、憲法改正論議で大荒れだった国会は、今日、未明に与党と一部野党の賛成で憲法改正が決まり、国会運営は正常化されました」
テレビのキャスターが喋っている。
「ほう・・とうとうやったか・・これで日本も一人前の国だなあ・・」
お父さんは満足したようにコーヒーをすすっている。
もうすぐ由香と瑞穂が迎えに来てくれる・・さつきはそう思いながら、お父さんの向かいの席でパンをかじっていた。
・・・今日はいいお天気・・・

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