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西向く侍

*岡崎城*

永禄6年夏、あの桶狭間の戦いから3年が経過していた。
岡崎城本丸に呼び出された高谷秀重は、所在投げに周囲を見回す。
お呼び出しの用向きは分かっている。
だが、彼はその用向きに応えるつもりはなかった。

桶狭間の戦いで今川が敗れて以来、今川義元の馬回りだった秀重は、敗軍について駿河へ戻ることを潔しとせず、故郷、尾張の寒村で老母を手伝い、百姓をしていた。
織田を仇敵とするのだ。
今川を最後まで仇敵とした、あの桑原甚内のように・・

そうは思っても、ではどこへ行くのか・・
駿河の新しいお館である今川氏真は親の仇を討とうというほどの器量は持ち合わせていないらしい。
さらに、彼が戸惑ったのは、彼の本来の主君であるはずの松平元康のことだった。
彼の目には義元は、同じ源氏の血をひく名家として松平を認め、元康にも多大な期待をかけていたように映っていた。
その今川を立てぬどころか、元康にとっての主君の仇であるはずの織田信長と同盟を結び、今川に敵対したのが彼が絶大な信頼を寄せる元康である。

もう、侍は嫌になった・・

まだ二十三歳の若さである秀重は、本来、彼が持っている一本気の故か、そう考えるようになっていた。
だが、義元に見出され、馬回りまで勤めた秀重である。
田畑を耕していようが、お城からは何度も出仕の命が届いていた。

ついに、「火急にて城内に参内せよ」との命を受け、それを断ると彼の家族に害が及ぶやも知れぬと、彼は意を決して岡崎城に向かったのだ。

だが、かつての主君であったはずの元康に会うことには非常な懐かしさを覚えるとともに、多分、意見が違うだろう気の重さは彼を苦しめた。

「それにしてもだ・・」
秀重は呟いた。
岡崎城のこの静かな雰囲気はどうだ・・
本来の主君を迎え、これまでの気の重さを取り払ったかのような平穏さは、かつての駿府城にもなかった寛ぎに満ちていた。

開け放した戸板から、庭の光が差し込んでくる。

「待たせたな・・」
静かな声が聞こえる。
懐かしい主君の声だ。
「元康様・・」
そう言ったあとは言葉にならない。
「ずいぶん、久しぶりだった・・何度も出仕の命を出していたのだが・・御身の母上殿は息災か?」
「は・・・」
顔が上げられない。
やはり彼にとって大事な主君であり、懐かしさと申し訳なさで彼の心は占められてしまう。
「それはそうと・・わしはもう、元康ではない・・」
え・・?
秀重はその言葉にようやく顔を上げた。
「わしは、今は家康と名乗っておる・・こうして自分の家に帰ったからの・・」
「家康様・・でありますか・・」
「おう・・素直に家と康だ・・我が松平が安らかである様にな・・」

元康という名は今川義元から頂いた名前だと聞いたことがある・・殿は、その名を捨てられたのか・・秀重は暗い気持ちになった。
「それはそうと・・」
「は・・」
「今一度、わしの元に入れ」
それは入らないかという誘いではなく、入れという命令だった。
彼はまた俯き、しかし、返事をしなかった。
「嫌か・・なぜかな?」
穏やかな主君の声が耳に響く。
彼は言葉を発せられない。
「嫌というのならその訳を聞こう」
「は・・」
「わけを聞いたとて、そのわけがどうあれ、わしは御身をなんともせぬ・・安心してわけを話せ」
秀重はゆっくり顔を上げ、家康の目を見つめた。
主従は互いをじっと見つめあう。

「殿様、我らが松平は、源氏の一党でおざります」
「ふむ・・」
「駿府のお館様も、殿様を高く評価しておられたように思います」
「それはどうかな・・」
「駿府のお館様がお打たれになったとき、殿様は・・仇である織田を攻める立場にあられたのではないでしょうか・・」
「やはり、そこか・・」
「は・・」

家康は彼のほうから秀重に近づいてきた。
お互いの声はお互いにしか聞き取れない近さである。
「はっきり言おう・・」
「は・・」
「確かに、御身の言うとおりであろう・・それがごく普通の世間の見方であろう」
「は・・」
「だが・・今は戦国である」
「は・・」
「わしとてもこの乱世に誰かの下で生涯を終える気はない」
「は・・」
「今川殿の下にいる限り、わしはいつまで経っても今川の与力でしかない」
「・・・」
「わかるか・・わしは我が源氏の本拠である関東へ向かいたい」
「・・・」
「それには京へ行こうとする今川の配下であってはならんのだ」
「されど・・」
「なんだ・・」
「では、織田と手を結ぶことがそれを叶えることになるのでございますか?」
「先はわからぬ・・だが、今のところはそうなる」
「何故でございますか?」
「信長殿は都へ向かう・・わしは信長殿と背中合わせに東へ向かう」
「・・・」
「お互いに干渉はせぬ・・だが相互扶助はできる」
「・・・」
「織田殿は平家の筋だと聞く・・だったら、織田が都へ上るのは不思議ではない」
「されど、殿が東へ向かわれるということは、今川殿を超えていかれるということになるのでは・・」
「そうだ・・わしは更に武田と結んで今川氏真殿を追い落とす・・」
「それでは、義元殿の仇を討つどころかまったく真逆」
「さよう・・一応はそう見える」
「一応ですか・・」
「思えば、義元殿は方向性を見誤っていたのではないか・・我が源氏は都にいると軟弱になる」
「なんとも、拙者ごときには理解いたしかねます」
「わしは、義元殿の都かぶれが好きになれなかった」
「都かぶれでございますか・・」
「鉄漿だの蹴鞠だの・・ましてや、武士たるもの、輿に乗って行軍とは・・」
家康は吐き捨てるように言う。
「しかし、義元殿は総大将・・しかも将軍に次ぐお家柄・・」
「家柄などこの乱世には何の関係もない・・家柄だけで天下を治められるのであれば、足利将軍家は今のような混乱を招かずに済んだであろう」
「混乱は将軍の責任ですか」
「さよう・・都かぶれした武士が、貴族どもの言いなりになって浮かれているからこそ、今の乱世があるのよ」
「・・・」
「都は貴族に任せておけばよい。織田が都に行きたいというなら、それはそれでよい・・あやつはあれで、結構覚めた目で都を見ておる・・」
「・・・」
「源氏は東国で武士の棟梁たるべし・・わかるか・・秀重・・」

言いたいことを言い切ったかのように家康はふっと目をそらした。
庭の緑がまぶしい。

「それでも、わしの元へ参るのは嫌か・・」
秀重にはまだ釈然としない思いが残る。
それは殿のこじつけの屁理屈ではないのか・・
彼はそう言いたかった。

「もしも、嫌なら仕方あるまい・・ただ・・一つだけ、わしの仕事を引き受けてくれぬか」
「・・・」
「今川の食客となっておられた武田の先代、武田信虎殿が都へ向かわれる・・もう、今川は武田と手を結ばぬそうだ」
「さようでございますか」
「うむ・・今川のものどもが、遠江と三河の国境まで信虎殿を送ってこられる・・我らは信虎殿を京までお送りするのだ」
武田信虎・・あの桑原甚内を虐め、我儘放題に振舞った老武士・・その警護か・・
そう頭の中で考えるより先に、彼の口から言葉がこぼれた。
「信虎殿の都までの警護、謹んでお勤めさせていただきます」
家康は少し寂しそうな表情で、頷き、彼を見つめた。

秀重は岡崎城を辞し、彼の生家へ向かう。
城下町を離れ、田植えが終わり、稲の葉が伸びている夏の風景を見ながら、複雑な気持ちで歩いていた。
これで、都に行ったあと、俺はどうすればよいのか・・
織田を打つ・・
ならば、そこから織田の相手方へ潜り込まねばならない。

畦の端で武士が立っていた。
殺気は感じない。
「高谷殿・・」
武士が彼に声をかけた。
「まさしく、拙者は高谷秀重でありますが・・」
「お久しぶりよの・・わしが判るか」
秀重は武士を見つめた。
壮年といってよい風貌のその武士の顔に見覚えがあった。
「半蔵殿ですか・・」
「さよう・・」
「これはこれは、お久しぶりでございます」
「信虎殿のお供で都へいかれるとか・・」
「さきほど、お館様より、その命を受けました」
「では、都でまたお会い申すとしよう」
「都でですか・・」
「さよう、そのときは、貴殿もお覚悟あれ」
武士はそういってかすかに笑う。
秀重は状況を飲み込んだ。
服部半蔵は家康の影の部下である。
表向きは侍大将ということになっているが、その実態は忍者であるとも聞く。
「では、都で・・お互いそれまでは息災でいたいもの」
「さよう・・さすがに判っておられる」
半蔵はそういったかと思うと、空を指さした。
次の瞬間、彼は姿を消した。
今まで、そこに彼がいたことすら感じさせない早業だった。

*東海道*

数日後、秀重は東海道を行く少人数の先頭に立っていた。
一行は馬に乗った武士数人、それに女のものらしい輿が二丁、徒が数人である。
もう齢六十を超えるはずのこの行列の主人は馬上豊かに少人数の行軍を進めていた。
引き締まったその表情の持ち主は武田信虎その人である。
「高谷殿とやら」
「は・・」
大声で後ろから叫ばれ、秀重は馬を並べた。
「貴殿はずいぶん若いな!」
「は・・二十三でございます」
「若いのう・・うらやましい・・その若さなら何でもできるぞ」
「は・・」
「我が晴信も若いが・・あれは若いくせに老人のような男だ」
「さようでございますか・・」
「うむ・・戦や政事は老人のような男だが、女への欲情だけはわしに似ておるらしい」
「なんと申し上げてよいか・・」
「高谷!」
今度は呼び捨てである。
「お前も女を抱け!その若さならいくらでも女を抱けるぞ!」
「は・・」
秀重は苦笑しながら聞いていた。
「女と睦みあいながら、それまでの自分をきれいに流し去ってしまうのじゃ・・新しい自分がそこから生まれる」
「そのようなものでしょうか」
「そうだ!そのようなものよ!」
信虎は空に向かって大声で笑う。
秀重はこの老武者に好感を抱いた。

その夜、宿で信虎はしこたま飲んだ。
秀重もいくら飲んでも酔わない口である。
「お前は強いな」
信虎が秀重に酔った目を向ける。
「何がでございますか?」
「酒よ!」
「強いのでございましょうか?」
「強い強い・・お前の酒の飲み方はまるで水を飲むようじゃ」
「水でございますか・・水はこれほどたくさんは飲めませぬ」
そういうと信虎は豪快に笑った。
「おう、わしの若いころに似ておるぞ!」
そうはしゃぎながら、老武者は若武者に濁酒を注ぐ。
秀重と出会ってからの信虎は終始ご機嫌である。

甲斐の山野での武勇を聞かされるが、それまた秀重には興味の尽きない話であったし、信虎の目から見る今川義元や氏真、武田晴信の評もまた独特の人物感で面白く、夜が更けるまでの酒のお相手は苦痛ではなかった。
「今宵は非常に愉快である」
「それは良うございました」
「さすがに喋り疲れたわ・・これほど喋ったのは久しぶりのことよ」
上機嫌の老武者はさすがに疲労感をにじませている。
「それでは、明日も早うございますゆえ、このあたりで」
そう促すと、信虎は素直に立ち上がる。
「今宵は志乃を・・」
そう言いながら、秀重を見て、笑顔をもらす。
「今からお供のおなごを・・ですか」
「さよう!それがないと眠れぬ」
大声で笑う。
志乃と呼ばれた女が、部屋に入って老武者の手を引く。
秀重は呆れながら、また酒を口に運んだ。

武田の総帥、晴信の実父である信虎の通過には、東海道沿道の各大名も静観を持ってこれにかかわらないように気を配った。
松平家康も挨拶に伺候するなどはせず、ただ、領内の通過を認めていた。
しかし、この一行に自らの配下を加えたことで、自然、松平と武田の関係、ひいては松平と同盟を結ぶ織田と武田の関係をうかがわせ、さらに、信虎を追い出した形になっている今川の行く末を見限る噂が広まりつつあった。

そのような噂は当然、信虎にも秀重にも聞こえてきたが、信虎は一向にそれに構う気配もなく、ただ酒を飲み、女を抱きながら夏の東海道を西上するのみだった。

*京*

京に到着した夜・・
幕府要人や公家との挨拶は翌朝になるため、仮の宿で一夜を過ごすことになる。
数日続いた酒豪の夕餉も今宵限りとなり、秀重は名残惜しさを感じながら信虎のそばで食事の伴をしている。
「高谷よ・・世話になったの・・」
信虎が酔いの回ってきた目で秀重に酌をする。
「もったいなきお言葉」
秀重もこの屈託ない老武士が好きだった。
「お前はこれからどうする・・家康殿の元へ帰るか」
秀重は首を横に振る。
「では、今川か・・」
「いえ・・」
「もし、どこにも仕官をしないのであればこのまま、わしの元へ留まらぬか・・」
「ありがたきお言葉・・」
秀重は言葉を詰まらせる。
「それも気に食わぬか・・どうされる・・」
「信虎様・・」
秀重は意を決したように信虎の前で平伏した。
「なんじゃ・・」
「信虎様であるからこそ、拙者の本心を申し上げます・・拙者、織田信長を討ちたい・・」
「ほう・・」
「されど、どのようにすれば信長を討つ方に加勢できるのかわからぬのでござる・・」
「わしは、織田と誼を結んだ武田の頭首のおやじであるぞ・・」
「それは分かっております」
「確かにな・・我が息子、晴信も本気で織田と結ぶつもりなどないだろう・・今は時の流れに従っているだけじゃ」
「は・・」
「今川はまもなく倒れる・・北条も当てになどならぬ・・真っ当、織田に対抗出来うる力を持つのは西国ではないか」
「西国でございますか」
「うむ・・」
「美濃の斉藤、近江の佐々木・六角などは・・」
「話にならぬ・・斉藤は家の中でごたごたがひどいと聞く、しかも、道三入道は信長を後継者であるとまで言っておったとか・・佐々木・六角などは家柄の高さだけが誇りだ・・家柄など過去の話だ・・家柄だけで人が寄ってくると信じておる連中の頭の中は、義元殿と同じだ」
「では・・」
「西国には毛利がおろう・・毛利の息のかかった別所、波多野、宇喜田・・武士の本分を守り、地道ではあるが政事、軍令、いずれも織田を凌駕しているのではないか」
「では、それら、毛利一党の元へ走るのがよいと」
酒を一口含み、信虎は言葉を続ける。
「されど・・今の日本に織田を凌駕しうる実力と運を持ったものはおらぬ・・せいぜい、一泡吹かせるのが関の山よ・・」
「たかが、尾張の田舎大名たる信長を、そこまで評せしめるのは何でございますか」
ふっと、信虎は肩の力を抜いた。
酒をあおり、空を見据える。
「違うのよ・・何もかもが・・」
「違うと申されますと・・」
「奴は・・他の武将と違うのじゃ・・己の領内の関所を取っ払い、民百姓を味方につけ・・されど、奴はどうも・・違うのじゃ・・」
「関所を取り払うことくらいは他の大名方でもなさっておられるのではないでしょうか」
「敵を追い詰めること魔王の如し、されど、部下への情けは仏の如し・・民には善政を敷き、敵対するものには血の粛清を行う・・」
「・・・」
「わしなど、もしも息子が晴信ではなく信長であったなら、甲斐を追い出される前に殺されておろう・・」
「・・・」
「奴は、道三の意を継ぎ、まもなく美濃を平定する・・道三入道は自分の息子ではなく信長に自分の仕事を継がせたのじゃ・・」
「その仕事とは・・」
「日本の再構築ではないか・・」
「再構築?」
「さよう・・その先はわからぬ・・わしごときではな」

翌朝、秀重は簡単な挨拶だけを済ませ、信虎の元を離れた。
別れ際、信虎は名残惜しそうに、けれども、かれに重みのある皮袋をくれた。
「放浪もよかろう、御身はまだ若い・・しかし、世の中には必要なものがある・・」
そういって渡してくれた袋の中身は大量の銭といくばくかの碁石のような金だった。
それがいくらになるのか、彼には判らない。
ただ、彼が数年を働いても得られないものであることだけは確かだった。

戦乱に明け暮れた京の都は荒れてはいたが、それでも、田舎侍には珍しい光景が広がっていた。
彼は、これほどたくさんの商人や僧侶が行きかう町を見たことがない。
それに、町には女性が多かった。
きらびやかな着物を着て楽しげに歩く女性の姿は、彼にはまぶしい。
思わず自らの姿を顧みた。
武士としては申し分ないはずだ・・
そう思うが、通りを行く人々の余裕に満ちた風体には圧され気味になってしまう。

町を外れ、ようやく田畑が見えるあたりで、彼は馬を降り、路傍に腰掛け、休もうとした。
鳶の声に空を見た・・そのときだ。
「高谷殿」
男の声がした。
「半蔵殿か・・」
人の気配をまったく感じさせず、服部半蔵はいつの間にか、彼の目の前に立っていた。
「主命により御命、頂戴仕る」
「主命か・・」
「さよう、松平家康殿の命により・・」
「裏切り者を処分せよとか」
「さよう・・」
そういうなり、半蔵は斬りつけてきた。
秀重は瞬時に身体を交わし、同時に刀を抜く。
「さすがだな・・」
半蔵はつぶやきながら次の一手に及ぶ。
秀重は腰を下げ、半蔵の足元を狙い刀を払う。
半蔵は飛び上がったかと思うと彼の後ろに回りこんだ。
「しまった」
秀重がそう思ったときには彼の背中に痛みが走っていた。
それでも、秀重は身体を交わしていた。
だが完全に刀を避けるのは間に合わなかったのだ。
血の流れる感覚が秀重を目覚めさせた。
瞬時に後ろへ向き直り、半蔵の動きを察して宙に刀を振った。
飛び上がっていた半蔵は刀を避けようとして転んだ。
半蔵の喉元に剣先を突きつけ、彼は動きを止めた。

「これまでか・・」
半蔵は観念したかのように彼を見つめた。
「殿に伝えよ・・」
「なにをだ・・早く殺せ・・」
「殺さぬ・・貴様ら忍者は何があっても生きる道を選ぶだろう・・だったら俺の言葉を殿に伝えよ」
「・・・」
「裏切ったのは俺ではない・・殿のほうだと」
「・・・」
「それともうひとつ」
「なんだ・・」
「殿の、家康様の武運を祈ると」
「わかった・・」
「武士の勝負に半蔵殿は敗れた・・これ以上は俺を追ってくるな」
「追わぬ・・」
その声を聞くと、彼は刀を下げた。
半蔵はまだ動かず、彼を見つめていた。
「俺は西へ行く・・」
秀重はそう呟くと、所在投げに立っている彼の馬にまたがった。
背中、着物に浮いた血のりがじわじわと広がっていくのを気にする素振りもなく、彼はゆっくりと馬を進めた。

*播磨国湯谷*

秀重は西国街道を西へと、馬を進めていた。
夏の日差しに照らされ、背中に受けた傷が痛む。
着物は血のりで背中に張り付いたようだが、それを取る気力もなく、彼はただ、西に向かって歩いていた。
尾張とよく似たのどかな田園風景が続く。
海の見える街道筋で、彼はついに顔をしかめた。
「痛い・・痛くて動けぬ・・」
馬をとめ、路傍で苦しむ彼を、街道脇で野良仕事をしていた農夫が見つけ、駆け寄ってきた。
「お武家様・・どうされた?」
「うむ・・たいしたことはない・・」
彼はそう言って立ち上がろうとした。
しかし、そのままそこで、気を失ってしまった。

気がつくと薄暗い土間で寝かされていた。
「気が付かれたかの・・」
老人が彼を覗き込んでいる。
「これは・・ここはどこでござるか」秀重が尋ねる。
「摂津の国、大石の街道筋でござります」
「大石といえば兵庫の近く・・」
「お武家様は、たいそうな大怪我をされておられた・・しばらくはこのお方の好意に甘えて養生されるがよいと思うが」
「あなたは・・」
「わしか、わしは医者やで・・この家のものが呼んでくださったのや」
医者の横に心配そうな農夫らしい男が座っていた。
「あなたが、お医者様を呼んでくださったのですか・・かたじけない・・」
「傷が癒えるまで、ゆっくり休んでいきはったら」
「かたじけない・・されど、武者などを匿うと碌なことはござらぬ・・しばし休ませていただいた上は、どこか湯にでも入りに行こうかと思うが」
「湯なら・・有馬か湯谷がありますが・・」
老医者がそういう。
「有馬はあまりにも名が知れておろう・・湯谷とやらをご教示いただきたい」
「何かご事情がありそうじゃな・・湯谷は、ここからほんの三里ほど、多井畑を越えた先でありますが」
「事情というほどではないが・・人目につかぬほうがよいかと思ってな」
服部半蔵が摂津まで彼を追ってくるとは思えないが、それでも用心に越したことはない。

数日、彼は農家で休ませてもらい、湯谷とやらへ湯治に向かうべく、この家をあとにした。
皮袋の中から幾枚かの銭を渡すと農夫は恐縮していた。
けれど、彼は嬉しかったのだ。
行き倒れの武士とあれば、落ち武者かも知れぬと役所に届けをされてもおかしくない時代である。
いや、いきなり首を切って適当に届ければ褒美もありつけたかもしれない。
その御時世に、報酬を求めず、彼を救ってくれた農夫のその気持ちが嬉しかったのだ。
「西国にはまだ、人の善性が生きている・・」
秀重は強くそう感じた。

穏やかな形の山並みが彼を迎え入れてくれるような気がしていた。

小さな峠を越え、山とも丘ともつかぬ盛り上がりの、その谷あいを進んだところに数軒の宿がある湯治場があった。
そこが播磨の国、湯谷である。
一軒の宿に入り、彼はここでしばらく逗留することに決めた。
粗末な湯殿の、老人であふれるその湯は、無色透明な今で言うラジウム泉だろうか。
小さな泡が常に浮き上がる湯船で、秀重は傷が癒えるのを待つ。
背中の傷は数日を経ずして快方に向かっているのが彼にも判る。

海が近い故か、ここは魚や貝類、昆布の類も豊富で、湯治場の路傍で売られているそれらもまた、彼の体にとってはよい薬となった感もある。
身体に力がみなぎってきたころ、年配の武士と思しき男から声をかけられた。
「ずいぶん、ひどい傷ですね・・なにか訳でもおありなのでしょうか」
「傷のわけを他人に話すほど無用心にはなれませぬ」
「これは失礼仕りました・・このごろは乱世とは名ばかりで、まともな戦もなく、不思議に思ったものですから」
「戦傷ではないのです・・」
「さようでございますか・・ではこれ以上はお訊ねすることはいたしませぬが・・」
「話すと長い話ですから・・」
そう言って秀重は笑った。
「わたしは、播磨の国・神吉城にお勤めしております、神吉ノ藤太夫と申します」
「拙者は高谷秀重と申します・・」
「高谷様ですか・・ずいぶんな美丈夫ぶりですな・・どちら様かにお勤めでございますか?」
「勤めはあったが、今は浪々の身・・」
そう言うと、藤太夫の表情が変わった。
なにか、見つけ物をしたというような表情になったが、その場は藤太夫はそれ以上は問わず、会釈をして別れていった。

その夜である。
秀重の宿に藤太夫が訪ねてきた。
「まこと、失礼とは思いますが、今宵はお酒でもご一緒させていただこうと思いましてな」
素焼きの小瓶をいくつも抱え、油紙に包んだ魚の干物を彼の前に差し出した。
「お怪我にお酒はよくありませんが、もう、随分、お傷も癒えなさっていると見ました。お近づきに如何ですか」
「酒は久しぶりです・・かたじけない」
秀重は素直に来客を喜んだ。
都を出て以来、何かに追われているかのような気持ちが抜けず、酒にも手が出なかったのだ。
「今朝方、お勤めがないとお伺いしましたが」
酒を飲み、魚を齧りながら藤太夫が問う。
「さよう・・さるお方にお仕えしておりましたが・・都で御役御免と相成り申しました」
「お仕事が済むと御役御免とは・・これまた冷たい仕打ちでござる」
「いやいや、それは違う・・拙者のほうからお暇を頂いたのです」
「なぜにまた・・」
「深くは聞かないで頂きたい・・ただ、西へ向かいたかったのです」
「西ですか・・」
「播磨、備前、安芸・・どこでも良うござった・・今の乱世に、気骨ある西国武士のどなたかにご縁があればと考えいたしております」
ほう、と藤太夫は膝を叩く。
「実はの・・わが神吉は播磨の国、印南郡にて、その地を支配して二百年・・先ごろ、頭首がまだ若い・・さよう・・ちょうど貴殿と同じ年頃の頼定さまになられたところにござります」
「別所様の配下でござるか?」
「さよう、いまは別所様の下にあり、滔々たる加古の流れを前に、実り多き平野を領し、神吉城という、さほど大きくはございませぬが難攻不落の堅城を構えております」
ま、一杯・・とばかりに藤太夫は秀重に酒を勧める。
久しぶりの濁酒は旨く、彼の身体に染み込んでいく。
「目先の利益にとらわれ、武士としての本文も忘れた者どもには、もう飽きたのでござる」
酒の酔いからか、秀重は本心の一部をいきなり喋りだしてしまう。
「西国武士にも目先の利益にばかり目が行くものもおります・・されど、我が神吉にはそのようなものは居りませぬ・・明朗、快活、一本気な播磨の気風は貴殿にも間違いなくわかっていただけると思いますが・・」
「それはどういう意味ですか?」
「わしはの・・貴殿を一目見て気に入ったのでござる・・男の一目惚れとでも言おうか・・」
「それで?」
「わしから神吉頼定さまにご推挙させていただきとうござる・・ここで出会えたのも何かの縁・・是非にわしに附いて神吉にお越しいただきたい」
秀重はいきなり、何杯か酒を立て続けに飲んだ。
黙って飲んで、しばらくしてから藤太夫の前に平伏した。
「どこの馬の骨か判らぬ、拙者のようなものを然程に評してくださること、これほどの喜びはございませぬ・・」
「いえいえ、貴殿は馬の骨などではございませぬ・・貴殿の風貌はまさに幾多の戦を乗り越えてこられたものと察せられます」
「かたじけない・・」
「ひとつだけ・・推挙するにしても貴殿の略歴くらいは知っておく必要がございますが・・」
秀重は顔を上げた。
粗末な湯治宿の一室である。
「拙者、松平家康殿の配下で、そのご縁から今川義元殿の馬回りとしてお仕え申し上げてありました」
「なるほど・・合点がいき申した」
「桶狭間の戦で、今川義元殿を守れず、敗退し、以後、主君を守れなかった己の身を今川に戻すことができず・・」
「ああ・・そのようなことがござったか」
「此度、松平家康殿より武田信虎様ご入京のお伴を言い渡され、そのお役が終わった時点で浪々の身になったのでございます」
藤太夫は過去を語る秀重をじっと見守っていた。
「拙者、生涯の思いは織田を討つことでござる・・」
搾り出すように秀重が言う。
藤太夫は語り終えた秀重の手を取り、彼の目を見つめた。
秀重は涙を流していた。

*播磨国神吉*

数日後、播磨平野を幾人かの武士集団が歩いていた。
稲の穂は伸び、豊かな収穫が確信される・・播磨平野ののどかさの中に、こののどかさが気骨ある人々の手によって守られていることを実感する秀重である。

やがて、彼は神吉頼定にも気に入れられ、砦を守る立場になる。
よそ者であっても素直に受け容れる播磨の気風は高谷秀重に優しく、それでいて快活で、一本気な武将たちは頼もしかった。
藤太夫の勧めで、志方城主櫛橋の娘、辻姫を娶る。

「わざわざ尾張から来てくださったのですか?」
祝言を挙げたその夜、辻姫は彼に尋ねた。
「尾張から西へ西へとな・・」
「わたしに会いに?」
「そう、お前に会いに西へ西へ・・」
「じゃ、西向く侍ですね・・」
辻姫は笑った。
「なんだ、その西向く侍とは・・」
「小の月ですよ・・二十九日までの月・・二月、四月、六月、九月、十一月・・でニシムク・・」
「十一月はなぜ侍なんだ?」
「十一を続けて書くと士になります・・武士の士です・・」
「なるほど・・そのような覚え方があるのか・・」
秀重は苦笑し、辻姫を抱きしめた。
「ニシムクサムライ・・わしは小の月か・・」
そう頭の中に浮かぶ言葉に自分でもおかしく感じながら、「女を抱け」と言った信虎の言葉も頭の中に響きながら・・
秀重は辻姫と睦みあう。

二人の穏やかで仲睦まじい生活は戦国期にあってもしばらく続くことができた。
秀重と辻姫は子宝に恵まれ、男の子ばかり六人の子がいた。

彼が仇敵としていた織田との戦いはそれから十七年後に実現した。
一時は織田方の羽柴秀吉と力を合わせ、毛利を討つべく評定をしていた別所、神吉であったが、この評定の際に立場の違いから一気に織田と敵対関係となった。

もっとも、すでに織田は毛利を凌駕し、並ぶものなき強大な軍事国家となっていた。
対する毛利は、兵糧などを送ってくれるも、それも届かず、軍隊の派兵は望めなかった。
別所も神吉も、織田に敵対して勝てるはずもなかったが、神吉城の出城として、高谷秀重の砦はよく奮闘した。
しかし、いよいよ明日には落城かというその夜のことである。
篝火を焚き、警備に余念のない砦の中、高谷秀重の前に一人の男が現れた。
「高谷殿・・お久しぶりでござる」
歳をとったがその男はあの服部半蔵に間違いがなかった。
「ほう・・半蔵殿・・さすがに忍者でござるな・・かような戦場まで、難なく忍び入られるとは」
「難なくではござらぬ・・これでもかなり難儀して参ってござる」
半蔵はそういって笑った。
「用向きはなんであろうか・・降伏の使者ならお引き取り願おう」
「相変わらず、気骨は衰えておらぬな・・」
「明日は討ち死によ・・衰えるよりもあの世とやらに向かう喜びもござる」
「なるほど・・用向きというのは他でもない」
「なんだ・・」
「わが主君、徳川家康公からのお言葉である」
「家康公か・・立派になったものだな・・」
「秀重、わが元へ帰れ・・とのことでござる」
懐かしいかつての主君の顔が目に浮かぶ。
優しい主君の声までも浮かぶ気がする。
しかし、一度は彼を殺そうともした主君でもある。
「家康様に伝えてくだされ・・」
「うむ・・」
「まことにかたじけないお言葉、秀重、夢を見るようでござる・・されど、されど、拙者は織田を仇敵として最後まで戦いぬく所存だ・・殿の武運を祈るとな・・」
「わかった・・それでよいのだな」
「俺は家康様とは違う生き方をしているのだ・・よろしく頼む・・」
「承る・・」
矢の走る音が聞こえる。
そちらを見たその瞬間に半蔵の姿は消えていた。

秀重は大音声に叫ぶ。
「ものども!よく聞け!家が恋しいもの、家族が愛しいものは今すぐ、この砦を降りろ!」
寝ずに警護している兵たちは訝しがった。
「俺と、武士の意気込みをかけて死出の旅に行こうとするものだけ残れ!ここから落ちるものの咎を俺は問わない!家族を大事にしろ!」
兵たちは上気した顔を彼の言葉に向けた。
「行きたい奴は今すぐここから落ちろ!かまわぬ!」
数人の兵が動いた。
「残るものは酒を飲め!存分に飲め!」

天正六年六月二十五日・・
羽柴秀吉の神吉城攻撃に際し、その出城であった高谷秀重の砦は一足先に落城した。
落城の寸前、秀重は佐久間信盛の率いる大軍に勇んで飛び込んで戦を仕掛け、散々駆け回ったあと、自らの砦に火をかけ、そこに飛び込んだ。
「六月か・・ニシムクサムライ・・俺は所詮は小の男だったのか・・」
燃え盛る炎の中、最後の意識の中で彼は呟いた。
不思議に熱さは感じなかった。
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播磨の浦島太郎

はじめに
この作品はフィクションであり、時代背景や時代考証も無視して御伽噺として書き上げたものです。
なお、もっとも浦島太郎の物語がはっきりしているのは京都府の丹後地方であり、拙作品での播磨での話もまた完全な創作であります。

**********

雄略天皇22年ごろ・・
西暦に直すと478年というから、5世紀の終わりごろになる・・その頃の話だ。

場所は播磨、江井の海岸、季節は夏、時刻は深夜である。

弓なりに曲がったとはいっても、たかが数百メートルの砂浜に、多くの船が乗りつけた。
海岸は静かだ。
波の音だけが響き、半月の月明かり以外の明かりは何もない。
乗りつけた船からは大勢の人間が静かに浜へ飛び降りる。

その者たちは浜の先、緩やかな勾配を登ったところにある集落へ急ぎ足で向かう。
すべてが計画された行動のようだ。
向かった先、夜目には質素な竪穴式の建物が幾つか並んでいるのが見える。

やがて、悲鳴が上がる。
何かが崩れ落ちる様な音がする。
そこへ、いきなり火が飛んだ。

その火は住居の藁屋根に落ち、激しく燃え始める。
悲鳴が歓声に変わり、迫っていったものたちがあわてて浜へ引き返してくる。
粗末な布切れで身体を包んだ海からの侵略者たちは我勝ちに先ほど浜に乗り上げたばかりの船に戻る。
追うのは重厚な鎧に身を包んだ者たちだ。

火矢が乱れ飛ぶ。
逃げるものたちが必死の形相で船に乗り込む・・
乗り込む前に捉えられ、その場で斬られる者もいる。
燃え盛る炎で明るくなった海岸に、侵略者たちが倒れて動かなくなる。

1時間ほどの短い戦いであっただろうか・・
侵略者たちが去った砂浜に、数人の兵士が立ちすくみ、夜の海を見つめている。
「やはり、ここから攻めてきましたな」
中心の男に一人が声をかける。
「この度は、わしの勘が当たってよかった」
中心の男は、静かにそういうと、身体の向きを変え、まだ燃え盛る建物もある集落のほうへ向かった。
「隊長、どこへ行かれますか・」
「わしか、わしは寝る・・」
隊長と呼ばれたその男は、ぶっきらぼうにそう答える。
「こやつらの始末はどうしましょう」
男は部下の問いかけに、機嫌が悪そうに答える。
「日が昇ってからでよい」
「まだ生きているものもいますが」
「ほうっておけ、逃げたければ好きにさせるがいい・・もはや、まっとうに動くことも出来ぬであろう」
男は、構わず集落のほうへ歩き続ける。

翌朝、海岸では昨夜の戦いの掃除が行われていた。
侵略者たちの遺体を丘に上げ、大きな穴を掘ってそこに放り投げる。
土で埋め戻してからその上に簡単な祠を築くのである。
「女の遺体が多いな・・」
侵略者の残して行った遺体には何故か女が多かった。
「ユラは女も戦をするそうだ・・」
「女か・・そうと分かっていれば殺さずに遊べたものを・・」
兵士たちは雑談をしながらも黙々と作業をする。

部下たちの作業を淡々と見つめながら、男はまた砂浜に戻る。
海は凪いでいる。
天気の良い日は淡路の島がすぐ間近に見える。

ふっと、軽い浜風の向こうから猫の泣き声のような声がするのに気が付いた。
「なんだろう」
男は、ゆっくりとその方向へ向かう。
漁師の船が浜に留められているその影から声がするようだ。
「いやだ・・いやだ・・殺せ・・」
猫の声のように思えたそれは、今は明らかに人間の女の声に聞こえる。
「やれやれ、やってしまえ」
聞き覚えのある男の声もする。
それは彼の部下の声だった。
それも一人ではない。
複数だ。

船を回り込むと、そこに彼の部下が数名、何かを囲むかのように立っていた。
「どうしたのだ!」
彼は叫んだ。
「女です」
「女?」
「夕べのユラの、女の兵士のようです」
彼が割って入ると、そこには砂浜に寝転がされた女がいた。
「どうせ、ユラの女ですからね・・ちょっと遊んでからって思いましてね」
女はすでに衣服をはがされ、裸身をさらしている。
彼の部下が一人、女の上に乗りかかろうとしている。
「やめろ!」
彼は思わず叫んだ。
「隊長、ユラの女ですぜ・・」
女に乗りかかった男はそのまま、行為を続けようとする。
「やめろ!女だろ!逃がしてやれ!」
男はそういいながら剣を抜いた。
女に乗りかかろうとしていた彼の部下は驚いてその場を離れた。
「みな、持ち場へ帰れ!日のあるうちに村を元通りにするのだ!」
男は剣を振り回しながら叫ぶ。

部下が去ったその場所に男とその女が残された。
「早く殺せ、情けなどいらぬ・・」
女は彼をにらみつけ、唾を吐く。
「強がりを言うではない。女は戦には関わりがない・・動けるなら船を貸してやろう、さっさと仲間の元へ帰れ」
「情けはいらぬ、さっさと、慰み物にして殺せばよいだろう」
裸身を放り出したまま、女はふてぶてしく言う。
年の頃は二十歳を過ぎたくらいだろうか・・
「着物をつけろ」
男は女にはそういい、それから彼の別の部下を大声で呼んだ。
「船をもってこい!」
呼ばれた部下は訝しげに答えた。
「はい、しかし、何に使うのです」
「小さな船でよい、持ってきてくれ」
やがて部下は数人で小船を担いできた。

「乗れ!」
男は裸の女に船に乗るように指図した。
「ユラの女なら船くらいは自分で漕げるだろう・・さっさと仲間の元へ返れ」
女は彼を睨み付けながら首をを横に振る。
「乗れ、命ずる!さっさと帰れ!」
女はしぶしぶ足を引きずりながら、船に乗り込んだ。
「足を怪我しているのか・・」
「たいしたことはない」
女は少し、穏やかになった口調で答える。
襤褸をまとった裸身が朝の陽光に浮かび上がる。
「美しい・・」
彼はふっと、そう思った。

彼と彼の部下数人で船を浜から海へ押し出す。
女を乗せた船は行きつ戻りつしながらも、浜辺を離れる。

「どうして、あの女を助けたのですか?」
部下が恐る恐る尋ねたが、彼は無言だった。
さりとて、女が乗った船がゆっくり離れていくその海を見るではなく、さっさと丘のほうを見て「これでは、村人は今夜は、まとまって寝てもらうしかないな」と呟いた。

それから数日後のことだ。
男は、何ともなく、浜辺で海を見ていた。
海を見るのも、防人としての彼の仕事には違いない。
けれども、彼は仕事としてより、単に海を見るのが好きだった。

まもなく日が暮れる。
播磨灘に沈む夕日はことのほか美しい・・

もともとは男は大和の出身で名をミズノエノシマコという。
代々、防人の家系で、播磨に頻繁に出没するクマソやユラによる海賊への備えとしてこの地に赴任してきたのだった。

夕日が水平線にそのまま沈むときは翌日は安穏である・・
シマコはそのように信じていて、今も、夕日が沈む瞬間を見ようとしていた。
なにより、大和には海がなく、こうして海に沈む夕日を見ることが出来たのはこの地に赴任してきた意外な成果ではないかとまで彼は考えていた。

大きな太陽が水平線に近づく・・
だが、その水平線には日没寸前に雲がなびくように発生し、太陽は水平線に落ちる前に見えなくなってしまった。
「何か、嫌なことがありそうな・・」
彼の気持ちは不安になった。
海のはるか先、太陽の手前のような場所に芥子粒のような点が見えた。
彼の不安は少しずつ大きくなる。
「ユラか・・」
けれども、時間がたってもその芥子粒は一粒以上にはならず、そのままゆっくりと近づいてきているようだった。
「漁師の船だな」
彼はそう自分に言い聞かせ、海の彼方から目を離した。

「夕餉です」
彼の部下が知らせてくれた。
砂浜の先の松林で、男たちは篝火を焚いていた。
大きな鍋に米や魚、貝が一緒くたに煮られている。
彼は自ら椀を取り、鍋の中のものを掬って入れる。
「良い出汁が出ているな」
彼の周りの男たちも我勝ちに自分の椀に鍋のものを入れる。
「差し入れの酒です」
部下の一人が大きめの土瓶を持ち上げた。
「隊長、一杯どうです」
部下の男は彼に小皿を差し出す。
濁酒が注がれ、彼はうまそうに飲み干す。
「酒など久しぶりだな」
部下たちもそれぞれに酒を飲みながら、屈託なく隣のものと話などしている。
「この酒は・・江井の村のものからか」
「そうです。先だってのユラの襲撃から村を守ってくれた礼だということです」
礼など要らぬのに・・
彼はそう思ったが、酒は旨く、有難く頂戴する。

ユラがこの村を狙うであろうことは事前の情報で分かっていた。
播磨灘に面する主要な海岸はどこも防人が常駐しているし、この村の東西数キロは海岸段丘の絶壁が存在し、尋常な手段では崖を登ることが出来ない。
ただ、この江井の村だけは海岸段丘が崩れたような斜面にあり、要注意箇所であると彼は考えていたのだ。
しかし、国司の役人たちは、江井のような小さな村を狙っても、得るものは少ないだろうから、ユラもここには来ないだろうとタカをくくっていた。

あるいは、これだけヤマトの威光が各国に広まっても、いまだ、先祖代々からのユラとの付き合いを捨てきれぬ者たちがいるのは確かであり、そのように国司に信じ込ませたのはそれらのものたちの工作によるものかもしれなかった。

播磨の国司へ赴任の挨拶に行く途中、シマコはこの海岸を見て、とっさにここは危険だと判断し、国司に行くまでに存在する大中の別司に知らせたのだった。
別司の駐在は、それならそこに留まり、油断なきように警備することを彼に命じた。

江井の村は豊かだった。
海岸段丘の上は広大な田園地帯であり、災害が少なく、気候の良い土地柄であり、どこかのんびりした気風が村全体を覆っていた。
海も荒れることは少なく、魚はいくらでも獲れた。

ただ、別司のある玉津や大中から遠く、これまで余り注目されていない場所でもあったのだ。

昨年ごろからユラの活動が活発になってきた。
特に淡路や播磨、讃岐、吉備には度々侵略行為を繰り返していた。
それはもう、ヤマトの政権が確立されかかっている現在においては、ほとんど無駄な抵抗のように思えたが、船を自在に操り、海流の動きを知り尽くしている彼らは神出鬼没であり、ひとたび彼らに侵略されると、多大な犠牲と被害を出してしまうのだった。
ユラやクマソ、イズモと長年にわたり戦ってきたヤマトのオオキミは、その支配地域が広がるにつれ、かえって、ゲリラの侵略に頭を悩ませていたのだ。

シマコが江井に彼のささやかな軍勢を駐留させてしばらくは平穏な日々が続いた。
彼自身も平和に過ぎる時間を持て余し、部下とともに近くの荒地を開墾し、田畑に変えたりする作業をしていた。

ところが、村人からユラが来るかもしれないとの情報が届く。
それは、いわばタレコミだった。
村人の何人かは今も隠れてユラと交流を続けており、そんな一人が近隣のものに漏らした一言から、その村人はユラが来ると確信したようだった。

ユラと交流を断て、というのはヤマトの命令だったが、先祖代々からのものになるとそうも行かない。
ユラは南洋や大陸とのつながりも強く、交流を続けることはある意味では既得権のようなものでもあったのだ。

けれども、ユラはすでに疲弊していた。
勝ち目のないヤマトとの戦争は長引き、ユラは瀬戸内海東部からは締め出され、失地回復を狙っても、今度は九州に駐留するヤマトの軍勢との戦に、瀬戸内海西部からもまた、撤退間近の情勢だった。
南洋や大陸からの支援も望めず、いわば彼らは自暴自棄になり、瀬戸内海の小島を足がかりにゲリラ戦をようやく展開しているというのがこの頃の現実でもあったのだ。

食事を終え、当直のもの以外は竪穴式の小屋で眠りにつく。
今日は何事もなかった。
明日、何事もないとは言い切れない。

シマコは先ほど感じた不安を思い出し、ふっと立ち上がり、海岸へ向かう。
先だってのユラの襲撃のときより少し膨らんだ半月に照らされた播磨灘は凪いでいる。
月明かりが海面に反射する。

対岸の淡路、岩屋の海岸にも篝火が焚かれているのが見える。

不安ではあるが、夜の風が心地よく、彼はそのまま砂浜に座り込んだ。

「恐れ入りますが・・」
女の声がする。
「誰だ!」
「お静かに・・」
「誰だ・・・」シマコは少し声を落としてさらに問う。
「隊長殿とお見受けしました」
「姿を現せ・・」

声の主は彼の後ろから近づいてきた。
彼のいる場所より三歩ほど後ろに跪いているのが分かる。
「先日はお助け頂き、有難うございました」
女はそう言う。
「何のことだ」
「私は、先日、お助けいただいたものです・・」
シマコは月明かりに僅かに浮かび上がる女の顔を見た。
「あのときのユラの女か・・」
「ユラ族ではございませんが・・あのときの女です」
「ユラへ帰らなかったのか」
「ユラ族ではございません・・ユラ族に誘われたヤクのものです」
「ヤク?」
「はるか南洋の島のものです」
「南洋? リュウキュウのほうか」
「リュウキュウほど遠くはございませぬ・・大隈から船で一、二日というところでございましょうか」
「遠くだな」
「それほど遠くはござりませぬ・・海流に乗れば大隈までも七日のうちでございます」
女はあくまでも慇懃だった。
最初は警戒していたシマコだったが、わざわざ自分を訪ねてきた女に興味を持った。
「もっと近くへ来い」
「有難うございます」
女は彼の前に進み出て両手をついて彼に儀礼の態をとった。
「名はなんという・・」
「カメと申します」
「変な名だな」
「亀は長寿の証、変ではございません」
「なるほど」
「お願いがあってまいりました」
「何の願いだ。命を助けたのだからそれ以上の願いなどなかろう」
「あなた様なら話が分かっていただけると思ってまいりました」
女は顔を上げた。
月明かりに浮かび上がる顔は美しい。
カメはまっすぐにシマコを見据えた。
「願いとやらを聞いてみないと何とも言えぬ。とりあえず言ってみよ」
「はい・・」
カメは少し戸惑ったようだったが、やがて、姿勢を正してシマコの目をまっすぐに見つめた。
「あなたさまに、わがヤク族のところへお越しいただきたいのです」
シマコは一瞬、何を言われたか判断がつかなかった。
月明かりが海岸を照らしている。
「隊長! 何をなさっているのですか?」
部下の声が響く。
カメはぎょっとしたかのように後ろを振り向く。
「何もないぞ!邪魔するな!」
シマコが叫ぶ。
「なるほど、お邪魔しました!」
部下が少し笑いながら返事をする。
部下にはシマコが女と逢引しているかのように見えたのかもしれなかった。
「また、助けていただきました・・申し訳ございません」
女は深々と礼をする。
「どうか・・あなた様に我がヤクにお越しいただきたいのです」
女は先ほどの願いをまた繰り返す。
「馬鹿なことを言うではない。わしはヤマトの防人だ・・」
「分かっております。だからこそ、あなた様の血が欲しいのです・・」
「血?」
「わがヤクは度重なる戦で、優秀な男の血が絶えてしまいつつあります。今一度、ヤクを再興したいのです」
「男がいなくなったというのか」
「いえ、男はいますが、老人か子供ばかりです。力も知恵も、優しさもある優秀な男の血が欲しいのです」
「わしの知ったことではないし、それに、ヤマトのわしでなくても、ユラにもクマソにも立派な男がいるだろう」
「今、倭国をまとめ上げるのはヤマトをおいてほかにありません・・ヤマトの男が欲しいのです」
「馬鹿なことを言うな、防人どもを呼ぶぞ」
「どうしてもあなた様をお連れしたいのです」
「去れ!」
シマコは一瞬、手を挙げようとした。
仲間を呼ぼうとしたのだ。
そのとき、カメがさっと手を挙げた。
次の瞬間、シマコは黒づくめの者達に囲まれた。
「しまった・・」
彼が声を上げようとしたそのとき、彼の後ろへ回り込んだ者が彼の口を布で覆った。
布には何か薬草の汁が塗ってあったらしい。
彼はもがいて抵抗したが、すぐに気を失っておとなしくなった。
カメが腕に巻いていた飾りが、シマコの抵抗のさい、外れて落ちた。

すぐに、静かに、一艘の小船が沖へ繰り出していく。
音も立てず、波を上手に操りながら月明かりの海へあっという間に去っていく。

「あ!」
シマコの部下が沖へ出る船の存在に気付いて走りよってきたときには、もはや船は呼んでも届かない沖合いまで去ってしまった後だった。
「隊長!」
部下たちは驚いて海岸に集まる。
何人かは船を漕ぎ出そうとしたが、すぐに止めるものがあった。
「無駄だ・・あれでは鯱にでも乗らぬ限り、追いつけぬ・・」

「これは・・」
誰かが砂浜に落ちていた石を繫いだ飾りのような物を見つけた。
「石か・・」
「いや・・これは珊瑚ではないか・・」
「珊瑚?」
「南洋の海の生き物だ・・美しい石になる・・」
「南洋の石か・・」
「リュウキュウあたりのものではないか・・」
男たちはそれぞれにその不思議な飾りを覗き込んだ。
「隊長は・・」
「リュウキュウに連れられていったのかも知れぬ」
「リュウキュウから人さらいが来たのか」
「いや、ユラではないか・・」
「ユラがリュウキュウへ隊長を連れて行ったのか・・」
まだほかに何か遺留物がないか・・彼らは波打ち際を捜し歩いた。
ちょうど、海亀が一匹、産卵のために砂浜に来ていた以外は・・何も見つけることが出来なかった。

船は凪いだ海をゆっくりと進んでいた。
海流に乗っているようで、人が漕がずとも船は進む。
やや膨らんだ半月の明かりの中、青い光に照らされ、船が進む。

船に寝かされていたシマコが目を開いた。
「お目覚めですか・・」
シマコの顔を女が覗き込んでいる。
「ここはどこだ・・」
「船の上です。今からイエの島へ寄り、大きな船に乗り換えます」
彼らが乗っている船は大きな木を刳り貫いて作ったもののようで、それでも彼ら二人のほかに四人は乗っているようだった。
「わしをどこへ連れて行くのだ」
「申し上げたではございませんか、ヤクの国です」
「いやだ、そんな遠くへ行ったならもはや大和には帰れぬであろう」
「機会があればまたお戻りになることも出来るかも知れません。でも・・」
「でも?」
「帰ろうというお気持ちは持たれないほうがよろしいかと存じます。それに、私どもは決してあなた様にご不便をおかけするようなことはございませぬ」
「大和へ帰れぬのが不便だろう」
シマコはなんだか悟ったような気持ちになっていた。
「あなた様にもご家族がおありだと言うことは分かっております。そのことのお気持ちを察するに申し訳ないとしかいえませぬ」
「家族か・・都に弟が一人いる以外はない・・」
「しばらくはお会いできませぬ・・」

女はそういうと、彼に自分の身体を寄せてきた。
女の身体の柔らかい感触・・彼は戸惑った。
狭い船の上で、周囲には他のものもいる。
「やめろ・・他のものが見ている」
「かまいませぬ・・」
女は彼に口づけをした。
周りのものたちは何も言わずに時折櫓を漕いでいる。
凪いでいるとはいえ、船は波に玩ばれるかのように大きく揺れる。

しばらくしてイエの島に着いた。
播磨灘の中ほどに浮かぶ小島だ。
入り江の奥の浜辺には篝火が焚かれ、多くの人が立ち働いていた。
シマコが見たこともない大きな船が浜辺に上げられている。
「大きな船だ・・」
シマコは思わず感嘆の声を漏らした。
「この船は我らがヤクのものです。二十人ほどが乗り込み、櫓を漕ぎ、帆に風を受けて十日ほどの旅なら難なくこなすことが出来ます」
「十日も旅が出来るのか・・このようなものは見たこともない」
「魏の国や高句麗、リュウキュウや越の国までも往来することが出来ます」
「このようなものを持っているヤクとやらが、なぜわしを連れて行こうとするのか・・」
「言ったではありませんか・・ヤマトの優しく、強く、賢い男の血が欲しいと」
「だが、ヤマトにはこれほどの船を作れるものはいない」
「この船は・・」
カメは言葉を濁した。
「この船はどうだというのだ」
「この船は、まだヤクに強く賢い男たちがいた頃に造り上げた船です・・いわば、その男たちの置き土産です」
「その、強く賢い男たちはどうしたのだ」
「薩摩との戦で大敗し、大方がその戦で死に果てました」
「薩摩がヤクとやらに攻め込んできたのか?」
「いえ、クマソが薩摩のヤマトに攻められ、ユラとヤクとでクマソの支援をしていたのです」
「なるほど」

南九州でヤマトがクマソに打ち勝ったという話は彼も聞いたことがあった。
しかし、それならそれで防人である彼にはふに落ちないこともある。
「いくら戦でも、自分の国を守るべき兵士は残しておくものだろう」
「もはや、クマソにとっても最後の戦という意味合いが強かったのです。クマソが落ちれば我らもまたヤマトの支配下になってしまいます」
「では、負けたときのことは考えないで男をすべて戦に出したというのか」
「ヤクの女は男以上に戦をします。自国を守るのは女と、引退した老人の仕事です」
「老人以外の男はいないのか・・」
「子供もおりますが、男は十三になると戦に出ます。ですので、今の子供たちが成人するにはまだまだ時間がかかるのです」
篝火が焚かれ、昼間のように明るい砂浜では他にも大きな船が引き上げられていた。
「ユラも、もう、撤退するのです。リュウキュウを頼って倭国を捨てるのです」
カメが他の船を指差す。
よく見ると、立ち働いているのはほとんどが女だった。
「ユラにも男が少なくなったというわけか」
シマコは訊ねた。
「そうです。だから、もう、これ以上は激しい戦は出来ませぬ・・ユラもクマソも・・もはやヤマトには勝てないと悟ったのです」
そう言ったかと思うと、周囲のものに声を上げた。
「すぐに出航する!準備は良いか!」
黒すくめの者たちも威勢良く返事をする。
シマコが男だとばかり思っていたそのものたちはみな、女の声で返事をした。

その夜のうちに、ヤクの大型船は瀬戸内海へ漕ぎ出した。
帆を張り、櫓を漕ぎ、舟は滑るように海を進んでいく。
ヤマトに見つからぬよう、篝火は焚かず、月明かりを頼りに揺れながら進む。

「船酔いにはなりませぬか・・」
カメが自らも櫓を持ちながらシマコに訊ねた。
「船は酔うことがあるのか」
「慣れぬものが乗ると、時として激しい酔いに襲われることがあります。もっとも、二日ほど辛抱していただければ慣れますが・・」
「わしは、まだ酔わぬぞ」
「でしたら、あなた様は船に身体が合っているのでしょう・・ヤクにお越しになる方としては適任でございます」
カメはそういって笑った。
「櫓はもう良い・・舵をしっかり守れ・・」
漕いでいるものたちにそう叫んで、立ち上がった。
「こちらへどうぞ」
カメはシマコを船の奥へ誘った。
そこには雨風をよける囲いがしてあった。
「ヤクの酒でございます・・お召し上がりください」
彼女は椀に酒を入れてシマコに差し出す。
「お疲れでございましょう・・しばし、お休みくだされ」
シマコは頷いてその椀に入った酒を口にした。
それは彼が飲みなれている濁酒とは明らかに種類が違う、強い酒だった。
「強い酒だ」
シマコは危うく吐き出しそうになりながらも、その酒を喉に流し込んだ。
身体の芯が一気に燃え上がるような気持ちの高ぶりを覚えた。
「わたしを、抱いてください・・」
カメは彼の耳元でささやくと、身体を寄せてきた。
シマコは本能の赴くままに、カメの身体を抱き寄せる。
「カメどのも変わっている・・」
他の女が喋る声が聞こえる。
「ヤマトの男をわざわざ連れ帰るのだからね・・」
別の女の声がする。
カメは、ちょっとおどけたような声で応える。
「この男は、わがヤクの宝になるのだからね!」
女たちはどよめき、ささやきあい、笑う。
「カメ、その男はあんたのものにするのかい?」
カメは楽しげに応じる。
「違うよ!姫様に会っていただいた上で・・あとはこの男に楽しんでもらうのさ・・あんた達も、せいぜい、この男の歓心を買うように努力しなよ」
女たちが一斉に笑う。
シマコは「案外、悪いことではないような気がする」と考え始めた。
カメが彼に頬を寄せる。
シマコは女たちが前を向いて座っているその少し後ろ、簡単な囲いの中ででカメとの行為を楽しんでいく。

好天に恵まれた瀬戸内海を、船は軽快に進んでいく。
女たちは巧みな操船術を心得ているようだ。
やがて、七日ほどして船は高い山のある大きな島に着いた。

その島には鬱蒼とした森があり、シマコが見たこともない昆虫や動物が自由に歩き回り、飛びまわっていた。
湿気が多く、島全体が水蒸気で覆われているかのようだ。
浜から少し進み、森を入ったところにいくつもの立派な建物があった。
「ヤクの都です」
カメがシマコに教える。
「ここの王はどんな人物なのか」
「王は女です。オトという・・」
「オト?オト王か」
「オト姫と・・みなは言っておりますが・・」
「オト姫か・・」
ヤマトの都でもこれほどの建物は滅多にない。
まだ、庶民の家は竪穴式住居の時代である。
木材をふんだんに使い、贅を凝らしたその建築物を見ていると、ヤマトの者たちが「自分たちこそもっとも偉大で文化的である」と誇っていることが嘘だったのだと・・彼は思った。

もっとも奥の建物の入り口には兵士の格好をした女が何人も立っていた。
女たちはカメの姿を見ると感極まったように泣き出す。
「カメどの・・よくご無事で・・」
「心配かけた・・申し訳ない・・」
カメは挨拶を返しながらシマコを連れて奥へ進む。

オト姫はカメより十歳位は年上に見える、非常に美しい女だった。
ヤマトの高位の女が着るような衣服を着て、何人もの警備の者たちを横においてカメとその後ろに端座するシマコに目通りをする。
「カメ、よく帰ってきてくれた・・男たちが去ってしまい、お前までも居なくなれば私はどんなに心細かったか・・帰って来てくれた事を感謝する」
「有難うございます。しかし、姫様・・このたびの戦ではついにユラも倭国から逃げ出すことになってしまいました」
「仕方あるまい・・それも時の流れ、われら人間は流れには逆らえぬ・・」
「ユラはリュウキュウを頼るそうです」
「もとはリュウキュウとユラは親戚同士のようなもの・・それがもっとも良い方向かも知れぬ・・」
そこまで話をしてオト姫はふと、カメの後ろに座っているシマコを見た。
「この男は・・」
カメが答える。
「シマコと申します。ヤマトの男で、優しく、賢く、強い男です。わがヤクのために、私が無理やり連れてまいりました」
「ほう・・」オト姫は感嘆したような声を上げた。
「無理やりか・・」
「はい、せめてこのたびの戦の土産として・・」
「人間の土産か・・」
「この男の血で、ヤクを再興しようではありませんか」
「このものの血でか・・」
「ヤマトの人としては、なかなか得難い人物であるように思いました」
「人物は良いのか・・それでは、男のほうはどうか」
「なかなかのものでございましょう」
「試したか?」
「はい・・」
物怖じせず、カメは平然と応える。
オト姫は少し頬を赤らめながらシマコのほうを見つめた。
「シマコどの」
柔らかい声でオト姫はシマコに声をかける。
「ミズノエノシマコでございます」
「無理につれてこられたそうだが・・ヤマトには帰りたくないか?」
意外な質問にシマコは緊張を和らげる。
「それは、帰りとうございます・・」
「妻や子はあるのか・・」
「ございませぬ・・身内といえば都に弟が一人いるだけでございます」
「弟とやらには会えぬが・・ここでは不自由はさせぬ・・良い思いをさせよう・・約束する・・」
「は・・」
「堅くならないでくれ・・すぐに食事を用意する・・」

彼はすぐに宴の主賓となった。
オト姫の周りはほとんどが女ばかりで、その女たちがまた美しい。
男は老人と子供ばかりである。

女たちが久々に見る若い男に刺激されるのか、上気した表情で次々の彼の前に姿を現し、彼の気を惹こうとする。
オト姫もカメもその場に居ながら、そのものたちを叱るでもなく、にこやかに笑っている。
出される食事は海や山の珍物をこれでもかと並べた豪勢なものばかりで、あの強い酒はいくらでも注がれる。
女たちの艶冶な踊りや、老人たちの見事な笛の音色もだんだん遠くにあるもののように思えてくる。
「もしかして、これは、わしとオト姫の婚姻ではないのか・・」
シマコはそう考えたが、やがて酔いが回り、どうにも思考力がなくなってきた。
長旅の疲れも出たのかもしれない。

彼が深く酔っているのを見てカメは彼に耳打ちした。
「姫様と奥へ・・」
彼は言われるまま、オト姫についていった。
そこはこの世のものとは思えぬ豪勢で、立派な寝室だった。
「きれいな部屋だ」
シマコは思わずつぶやく。
「きれいなのは部屋だけですか?」
オト姫が悪戯っぽく笑う。
「いや、あなたは本当に美しい・・」
オト姫は赤らんだ顔をさらに赤くする。
「カメどのとどちらが美しいですか・」
「カメどのも美しい・・でも、今は姫様が美しい・・」
オト姫はシマコの肩にしなやかな手を伸ばす。
野にある雑草のようなカメの肉体も彼には素晴らしいものに思えたが、ここでのオト姫の身体はまさに高貴な女が持つ独特の香りと気品を備えていた。
しかも、彼女は、男がどうすればより能力を発揮できるか心得ているようで、シマコにとっては夢のような快楽の時間の始まりだった。

やがて、シマコはヤクの国の兵士たちのまとめ役として活躍することになる。
彼は、若い女や少年を戦で使えるように徹底的に訓練をした。
そして、ヤクの国は徐々に国力を高めて行ったのである。

ただ、彼にとって不思議だったのは、彼はオト姫やカメの夫として束縛されることもなく、むしろ自由に島の女と寝ることを勧められたことだ。
やがて、シマコの子供が大勢、それもいろいろな女を母として生まれてきたのだ。
この子供たちはみな、頭も良く、武芸にも熱心に取り組み、数十年後にはヤクの国の中心的存在として活躍していく。
シマコは倭国へ帰るのは諦め、この島で九十歳近くまで長生きをした。

時は流れる。
大陸での政変は相次ぎ、かつて倭国と呼ばれた日本は、その間に独自の高等な国家を築き上げ、東アジアに君臨するようになる。
ヤクの国も薩摩から猛烈な攻撃を受け、これに対抗して大規模な戦闘に入りかけたが「男がみな死に絶えるような戦をしてはならない」というオト姫が残した掟に従い、薩摩の支配下に入ることで住民の安全を図った。
日本に統治されてからは、あの鑑真僧正が日本へ来航する際に立ち寄ったり、吉備真備が唐へわたる際にこの島を経由したりしている。
その後、ヤクの国は京、近衛家の荘園として支配されることになる。

京に都が移って三十年程・・
かの空海や最澄が活躍していた時代のこと・・
荘園主の近衛家へ、一度ヤクからも責任者が伺うべしという意見が出された。
太郎というシマコから数えてちょうど十代あとの子孫であり、島の代官を任されているものが都へ挨拶に行くことになった。
島を再興した「シマコ」の話は島では伝説として大切に語り継がれてきていた。

太郎たちを乗せた船は海流に乗り、瀬戸内海ではなく日本海側を進んでいく。
丹後の国の海岸に到着した彼らは、地元の警備兵や住民の注目を集めた。
「われらは怪しいものではござらぬ・・わしの先祖はヤマトの防人であった・・いわば今から三百年ほど前に日本を出て以来の里帰りなのだ」
彼は物々しく出迎えた警備兵にそう説明した。
世間には「三百年前に異国へ渡ったものが帰ってきた」と流布された。

都で時の天子、御簾の向こうの淳和天皇に謁した太郎は小さな箱を差し出した。
「わが祖先であり、倭の国の防人であったシマコの遺骨を携えてまいりました。ぜひに、この都あたりで倭国の土に帰してやりとうございます。
天長二年、西暦に直すと823年、ミズノエノシマコが倭国を去ってから三百四十五年、シマコの遺骨は日本の地を踏んだのだ。
シマコの弟の子孫、水之江のものが、遺骨が最初に日本の地を踏んだ土地、丹後の国に、遺骨を祭神とした神社を造り上げた。


僧と遊女

建長3年と言うから北条時頼が執権としてこの国の政を司っていたころの話だ。
季節は梅の花の香が匂う春である。

摂津の国の最果て、須磨の浦の浜辺を一人の旅の僧が歩いていた。
長旅と言うほどのものではないらしく、衣服の汚れ具合から察するに都あたりからの数日の道を歩いてきたような風体だ。

僧の名は是聖房蓮長という。
安房の国小湊の出身である。
「衆生見劫尽、大火所焼時、我此土安穏」
僧は先ほどから歩きながらこの経文を繰り返していた。
明るい春の陽光を跳ね返す海の波を、彼の目は追っている。
「だが・・現実に鎌倉の庶民は地震とその後の大火で苦しんでいる。多くの死人も出たと言う」
僧の気持ちは暗かった。

鎌倉ではこの春、大地震が起きたそうだ。
地震の後の大火で庶民の町の大半が焼け尽くされたと言う。
「大火が起きても、安穏とはどういうことなのだ・・」
僧が先ほどから誦している経文は僧が心酔している法華経の経文である。

僧には実は深く心に決するものがあった。
釈尊一代の本懐とは法華経である筈だ・・ではその法華経をないがしろにした結果はどうなのだ・・

聞けば北条政権は国家の安穏を願って巨大な伽藍を鎌倉に建設すると言う。
「伽藍を建設して庶民が食えるようになるのか・・」
そんなはずはない・・
巨大な伽藍を建設することで庶民の生活が安泰であると言うのは聖武天皇以来の迷信でしか過ぎない。
庶民の生活の安定よりも聖武天皇、桓武天皇と言った天皇が直接政治を司っていた頃の古事にちなんだ鎌倉幕府執権による一種のポーズでしかないではないか・・

結局、災害をネタに更に庶民は巨大伽藍の建設の為に苦しまされることになる・・

蓮長の目は光っていた。
穏やかな春の海の沖には大きな船も見える。
ここは、九州、四国、山陽と中央を結ぶ要路の海域でもあるのだ。

当代の寺院も政権も法華経をないがしろにはしていないと言うだろう・・
だが、密教による祈祷を取り入れたり、法華経を詠みながら阿弥陀如来を讃嘆するというのは、これは法華経を形だけ取り入れているに過ぎない・・

「疲れた・・」
蓮長がふと、そう漏らしたとき、彼の目に入ってきたのは砂浜で座り込んでいる女人だった。
女人は彼の姿に気づき、走り寄ってきた。
「お坊さん!どこ行くのん」
女は十七、八歳か・・
汚れた小袖、まだあどけなさの残る表情・・
「私か・・拙僧はの・・敦盛どのの打たれた場所を見に行こうと思っての」
女は彼の目を見ながら、それでも何が可笑しいのか小笑いしながらこう言う。
「ああ・・あの石塔のあるとこかいな・・あんな所に行っても何もないで・・」
「何が無くとも折角、須磨に参ったのじゃ、見ておかんことにはのう」
「ふうん・・そんなもんかいな・・須磨寺の笛は見たんけ?」
「ああ・・今しがた拝見させてもらった」
「お坊さん、それを見てどう思う?」
「どう思うとは?」
「笛を見て・・」
「哀れであるなと・・」
女はちょっと彼の目を見ながら言う。
「悲しい・・戦があれへんかったら、あの人は笛を吹いて生きていけたんや」
「だが、敦盛どのは武者であろう・・武者には武者の為すべきことが有る」
「それ、死ぬことなん?」
「そうとも言える」
「戦で死ぬことが仕事なん?」
「武者であるならば・・」

沈黙の後、女は蓮長をじっと睨んだ。
「うち、よう分からんけど、生きるの大事や思う・・死んだら、その人はもうそれきり・・なんも見えへん・・ただ、周りが勝手に祭り上げて立派やったと言うだけ・・」
「うむ・・」

女はいきなり、彼にこう言う。
「坊さん、坊さんって何の為におるんや?」
「それはどういうことかな?」
女は彼の前に立ちはだかるかのように、立ち止まり、息を荒げる。
「うち、辛いことがあったからお寺に相談に行ったんやで・・そやのに、中にも入れてくれへん・・不浄は寺に持ち込むなって・・」
「どんな相談だったのだ?」
「お腹にややこが出来たんや・・」
「その子の父御は・・」
「知るかいな・・誰か分かる筈無いやろ」
「お前は遊女か」
「遊女になったつもりはないんや・・・そやけど、他に銭を得る方法が無いやんか!」
蓮長は一瞬、言葉を詰まらせた。
「ややこはどうした」
「自然に降りた・・」
「ふむ・・」
蓮長は海の方を見ながら考え込んでしまった。
相変わらず春の海はのどかに光を反射している。

「お前の名は何と言うのだ?」
蓮長はいきなり女に名を訊ねた。
「すえ!」
「そうか・・それでは、すえさんとやら・・敦盛殿の石塔を知っているだろう・・そこへこの坊主を案内してくれないか」
「ええよ・・その前にお坊さん、何て言う名前?」
「私か、私は是聖房蓮長と申す・・」
「難しい名前やな」
「蓮長でよい・・」
二人は顔を見詰め合った。
すえの汚れた顔が春の光に浮き上がり、かけがえのない美しいものに・・蓮長には思えた。

砂浜で網を縫っている漁師がいる。
蓮長はその景色を眺め、ふと故郷を思い出した。
「私の故郷もこんな浜辺でな・・」
「お坊さん、漁師の生まれなん?」
「ああ・・今頃は両親とも春の漁で・・あのように浜辺で仕事をしているだろう・・」
「ふうん・・」
「お前の・・すえの親御殿は漁師なのか?」
「そうや・・けど、時化で無理に海に出て・・死んでもたわ」
あっけらかんとそう言うすえの表情に蓮長はかえって不幸と言うものを見た気がした。
「不幸じゃの・・」
「不幸か!そうかもしれへん・・そやけど・・どこにでもある話やな」
「あるなぁ・・」
「運が悪いだけや、しゃあない・・」
「私はな・・不幸の芽を摘み取りたいのだ」
「ふうん・・」

浜辺は山に向かい先細りになる。
その山にぶつかった先は断崖絶壁で歩いては通ることが出来なくなる。
やがて、その最先端の、ここから先は通れないと言う、砂浜の最後の部分に近づいたとき「アッチや!」とすえが指差す。
砂浜から松林に一歩入ったところに、こじんまりとした石塔があった。
石塔の前から振り向くとそこには茫洋とした春の海が広がっている。

「敦盛どのはここから海に馬を乗り入れようとした」
蓮長が呟くと、すえが首を振る。
「無理やわ・・馬で海に飛び込むなんて・・考えられへん」
「なるほど・・しかし、伝承では海に入って行くところを熊谷殿に呼び止められ、引き返したとされるが・・」
「多分・・ここに追いつめられたんやないかな・・ここから先は馬では進めないし・・」
「確かにその方が理に適っているな・・」
蓮長はまだ小娘の面影のあるこの女の頭の回りように感心した。
「すえは、随分、頭が良い娘だな・・」
「さあ・・頭が良いかどうか知らへん・・けど、うちは、お武家のお客をとるからな」
「なるほどな・・」
蓮長は苦笑しながらも、すえの持って生まれた頭の良さと言うものがあるのだろうと思った。

彼は、石塔に向かった。
長い時間、彼は石塔に語り掛けるように、祈りを捧げているようだった。
すえは為すこともなく、ただ、そんな蓮長を不思議そうに見ていた。

「敦盛殿・・生きていたかったであろうな・・笛の名手であったあなたならば、別の生き方もあったであろうに・・武家にお生まれになられたのが不運であったのか・・」
蓮長は石塔に語りかけ、そして経文を誦した。

彼が祈りを終え、振り向くと所在なげにすえが立っていた。
「お坊さん・・蓮長さんはうちに不孝の反対をくれるの?」
「不幸の反対?」
「そう、幸いっていうのかな」
蓮長は少し戸惑ったかのように彼女を見た。
「私があなたに、幸いをくれてやることが出来たなら・・それだけの力があるなら・・この国の不幸はとうになくなっておるだろう」
「ふうん・・やっぱり、坊さんは何の為にいるのだろ?」
「そこだよ、そこ・・坊主の仕事が今の世では出来ておらぬ・・」
「でも・・」
「なんだ?」
「うち一人なら幸いに出来るよね」
「どうやって?」
「うちを買ってくれたらええのんや」
「私は一応、坊主の端くれだぞ」
「坊さんだって買ってくれるよ・・恵んでくれとは言わない。買ってくれたら、うちは幸いになれるんや」
「他の坊さんはともかく、私には法を破ることは出来ない」
「つまんない・・」

二人は並んで歩き出した。
すえは少しふてくされたようになっている。
砂浜に出た。
「蓮長さん・・これでも買ってくれないの?」
すえはそう言うなり、いきなり着物をはだけた。
若い女の健康な肉体があらわになる。
「良い体をしておるな・・」
「だろ!うちを買っておくれよ」
「私にはできない・・目の毒だ・・早く仕舞っておくれ・・」
「つまんない・・」
すえは着物を投げ出して丸裸になる。
春の光に彼女の裸体が照らされる。
「美しいな」
「だったら買っておくれ!」
「買わぬ・・いや、良いものを見せてもらった。その礼はしよう」
「買って!」
「買わぬ・・早く仕舞っておくれ・・わたしの修行の邪魔をするではない」
蓮長はそういうと裸体の彼女に向かって手を合わせた。
「勿体無い・・仕舞いなさい」
彼女はしぶしぶ着物を身に着けた。

「お前に礼をしよう・・かの釈尊も最初に法を説いた相手は遊女だった。私もその古事に習ってお前に最初に私の法を説く」
「法?難しいもんはいらへん」
「まあ、聞け、難しくはない」
「なんやねん」
「お前は幸いを手に入れることが出来る。ただし、私の今から言う経を毎日朝晩、七回ずつ唱えるのだ。
「嫌やわ・・お経を七回も面倒やもん」
「短いから安心しろ」
「分かった。とりあえず聞くわ」
「よし、良いか・・」
「うん」
「南無妙法蓮華経」
「なに?」
「南無妙法蓮華経」
「なんみょうほうれんげきょう・・?」
「そうだ、その言葉を朝夕に七回ずつ、唱えるのだ・・」
「なんまいだじゃ、アカンの?」
「だめだ・・私の教えた南無妙法蓮華経だ」
「わかった」

すえは屈託のない笑顔を見せた。
「それから、なにか苦しいとき、楽しいときも同じように唱えるのだ」
「わかった」
「それから、これを・・」
蓮長が懐から少しの銭を取り出した。
すえは「要らない!」と強く断る。
「どうしてだ?」
「うちは大事な法を教えてもらった。御礼をするのはうちのほうや。でも、今のうちには銭はない」
「お前が良い人と出会って幸いを手に入れたら、その時に返してくれたら良い」
「お坊さんがどこにおるか・・うちにはわからへん・・」
「いずれまた、都に来たおりにでも須磨までこよう。その時は私の法は、うんと広まっているだろう」
「本当に須磨まで来てくれる?」
「くるとも・・ここは鎌倉の弓ヶ浜や私の故郷の小湊に似ている・・きっと縁があるだろう」
「じゃ、約束や!」
「うむ。約束しよう。今度会った時には、お前もきっと、良いおかみさんになっているだろう・・良い男を見つけろよ」
「うん」


やがて、蓮長はすえから離れて歩き始めた。
足取りはしっかりとしていて、何度も彼女のほうを振り返りながら去っていく。

彼は実はここに来るまで躊躇していたのだ。
彼自身の法門を説くべきか否か・・
法門を説くのであるならば、かの法然がやったように、民衆から説き広げなくてはならない。
けれども、法然は釈尊一代の肝心、法華経には目を瞑ってしまった。
少なくとも、蓮長にはそう見えた。

今、釈尊がそうであったように、彼もまた躊躇を乗り越えた。
彼は法華経を説く決心をした。
そうすると、反対意見を言うものやかえって誹謗するものも出てくるだろう。
それはその者達にとっては、仏の怒りを買うことになり、決して良いことではない。
それでも、不孝の根を絶つ為には法華経を広く民衆から説き広げなくてはならない・・

一人の遊女によって彼の決意が為されたことに、彼は深く感ずるものがあった。
「釈尊・・私はあなたに近づくことが出来るでしょうか・・」
比叡の連山に似た六甲の山々に彼は問いかけるのだった。

**********

蓮長はこの翌年、安房に帰国し清澄寺において始めて題目を唱え、立宗を宣言したとされる。
そしてその際に、日蓮と名を変えて活躍することになる。
なお、拙文の須磨への蓮長来訪はあくまでもフィクションである。

おんな哀歌


時は天正8年(1578年)夏、所は播磨の国、明石の町を東へ一里ほど外れた海岸の松林である。
このころの明石は海岸縁に漁師達の棲家が固まるのが中心であったけれど、それでも、明るく温暖な気候に恵まれ、淡路や四国との海上交通、それと西国街道や三木街道が交錯する交通の要所でもあり、人の往来が多かった。

けれども、ここの松林の奥のあばら家が数軒、固まっているあたりは昼間から人が通る事も少なく、周囲に田畑もあるわけでもなく、目の前の海岸には朽ちた船が捨てられているだけの閑散さである。

しかし、まったく人が通らないかと言えば、そうではなく、時折、人の目を盗むようにして男が数軒の家のどれかに引き込まれるかのように入っていく姿を見る事が出来たし、荒れた松林では数人の子供たちの歓声がこだましている。

今も一人の男が、そんなあばら家の端の家に入るところだった。
「おう!たまどの・・おるんかい」
さして広くない家の奥から女の声がする。
「おるわいな。何処に目ぇつけとるんや」
「暗うて分からんわい・・」
「待ったで・・ホンマに、長い事、待たせるんやな」
「いやあ・・今ごろが午の刻やろ・・」
「あんたの午の刻はお天道様が西向いて寝んねはじめてからやわ・・」

明るい表を歩いてきた人の目には、暗い家の中は、最初はまったく見えないものだ。
男の目にも、ようやくぼんやりと、この家の女の姿が見え始めていた。
「えらい、済まんかったわ・・そないに怒らんといてや・・」
男は何とか、“たま”と言う女にすがるようにして謝っている。
「ええで・・約束通り、していってくれるんやったら・・」
女はもう、怒っていたのを忘れたかのように男に優しい目をむけている。
「ほな・・これでええか・・」
男は女の手に銭をいくらかつかませる。
「ほう・・ええ案配なんやな、あんたの商売・・おおきに・・貰とくで・・」
そう言ったかと思うと、女は男の肩にしな垂れかかる。
「すぐ、するか?それとも、酒でも飲むか?」
「いや・・わし、もう、我慢でけへんねん・・」
間もなく、二人の会話は途切れ、女の喘ぐ声と、男の息遣いが狭く暗い家の中に広がる。

時折、海から波の音が聞こえ、松林の枝を吹き鳴らす風の音が聞こえる。
萱や葉を葺いた屋根の隙間から空の明るさが星の光のように・・女には見える。

・・こうして抱かれているのならまだ良い・・
たまは、男に抱かれるとき、いつもそう思う。
あれは2年前の事・・
城を包む猛火の中で、男は斬られ、女は犯されたあとに殺されていった。
炎の向こうで、泣き叫ぶ彼女の周囲の女達・・
本当は彼女もそこに残って、あらゆる辱めを受けて、そして犬や猫の死骸のように、裸のまま、そこらに放り捨てられるべきだったかもしれない。
けれど、息子次郎をなんとしても守りたい・・
彼女は、あの猛炎の中から、次郎を着物の前で布を被せて隠し、混乱の隙間を見つけ、山火事の広がる城山へ走り込んだのだ。
結局は死ぬしかないのかもしれない・・
けれども、少なくとも織田の男達の欲望と一緒に捨て去られるのはごめんだ・・

胸元に抱いた息子が動こうとする気配で目が覚めた。
戦は終わっていたようだったし、人の気配もなかった。
城山は大半が焼け失せていたが、彼女の回りには火が回らずに・・そこで失神していた彼女はその為に助かったのだった。
夜になるまで、その場でうずくまっていた。
夜になって、山を下り、焼け果てた田畑をひたすら歩いた。
途中、一人の武士に出会った。
「何処のものだ!」
彼女は何も答えなかった。
「何処のものだ!」
武士は、何度かそう訪ねたが、彼女は何も答えなかった。
月のあかりは、彼女と息子の顔を照らした。
「何処へ行く」
武士は誰何する。
彼女は答えない・・
やがて、武士は彼女の顔をじっと見詰めて、こう言った。
「東のほうなら戦も終わっていよう・・気を付けていけ・・」
けれども、播磨一国中・・何処へ行っても戦に明け暮れる様相の中、東へ東へと逃げていった彼女はここ、摂津の国との国境の海岸にようやく落ち着いていた。

たまは今、男に体を預けながら、福崎の向こう・・秋霜山の城が落ちるときの事を思い起こしている。
いつも、思い出してしまう・・そう、諦めに似た気持ちに浸りながら・・

夫だった男・・江藤基国は、彼の兄の守る城に立て篭もり、最期を遂げた。
最期を遂げたかどうかは彼女は確認したわけではないが、それは十の内十までも間違いがないだろう・・

あの状況下であの場所から逃げ出したものが、自分達以外にあるとは彼女には思えなかったのだ。

それにしても、自分を見つけながら逃がしてくれたあの武士は誰だろう・・

「おい、たまはんよ・・もうええか・・わし、いてまいそうや」
たまは、「は・・!」とした。
男に揺らされながら気持ちがまったく違うところを飛んでいた。
「もうええのんかいな・・情けない男やな・・うちが、もうちょいと・・ええようにしてやろ・・・」
たまは、男をからかいながら、今度は男と身体の位置を変える。

外が少し暗くなってきたころ、たまは表に出て叫んだ。
「次郎や!帰っといでや!」
その声に、他の数軒のあばら家の主たちも、引き摺られるかのように、声を出し始めた。
「三太や!」「はまや!かえっといで!」
やがて、夜の帳が落ちて、あたりは真っ暗になってしまう。
波の音、風の音、夜目に見える松の木の影・・
遠くの淡路島の島影・・・

世の中から捨てられた女たちの、それでも生きようとする命が、ここにしっかり根づいていた。

数日後、浜辺で子供たちが遊んでいた。
そこへ、立派なみなりをした武士が数人、連れ立ってやってきた。
「おうい!坊!ちょっと教えてくれぬか!」
子供たちは怖そうな武士の姿に、遊びを止めて立ち尽くしてしまう。
「怖がらなくても良い。教えてもらいたい事があるのでな」

しばらく、子供たちは黙ったままだったが、中で一番年長の女の子、“はま”が恐る恐る声を出した。
「お武家様・・何のようで来たのや?・・ここは、女ばかりの村だで・・」
「おお!済まぬな・・わしはの、人を探しておるんや・・」
「誰を探しているのか、知らへんけど・・女しかおらへん・・」
「うむ・・それは存知の上じゃ・・」
武士の一人は出来るだけ子供を怖がらせまいとする配慮か、腰をかがめ、娘の目線で話をしている。
「実はの、この村に“たま”という母御と、次郎という男の子がおらんかと・・思うての・・」
子供たちは凍り付いたように立ちすくんでしまった。
自分達の仲間である。
その仲間を恐ろしげな武者が探しているのだ。
しかも、当の次郎は皆の中に居て・・子供ながらにも自分が名指しされたのを分かっている。
次郎はまだ五つだったが、武士が嫌いだった。
あの、母とともに必死で逃げた恐ろしい記憶が、武士を見ると蘇ってしまう。

子供たちは凍り付いたまま、何も言えなくなってしまった。
「なるほど・・この中に、次郎どのは居られるらしいの・・」
武者は、子供たちを嘗め回すように見詰め、背を伸ばした。
「分かりもうした・・坊や娘っこを怖がらせては何にもならぬのでな・・村のほうで伺うと致そう・・」
武者はそういうと、仲間を引き連れ、あばら家の村のほうへ向かっていった。

子供たちは、何か恐ろしい事が身の上に起るのではないかと、震え、そして泣き始めた。
母達の待つ村へ帰らねばならなかったが、そうするとあの武者達が居る・・それは何より恐ろしい事のように思えるのだ。

武者達はあばら家の前で洗濯物を干している女に声をかけた。
「少々お尋ね申す。この村に“たま”と言われる方は居られませぬか・・」
女は武士のほうをちらっと見てから無碍にこういう。
「知らんね・・誰がたまで誰が石か・・」
「いや・・別にそのものに危害を加えると言うのではござらぬ・・我らの話を聞いて頂きたい・・それだけの事でござるが・・」
女はじっと、武士を見詰めた。
「いややわ・・武士なんて・・ろくなもんやあらへん・・とっとと消えてんか!」
「いや・・その、我らは決しておかしなものでは・・」
「わてら、武士が嫌いやねん!あんたらは客でとるのも嫌やねん!」
その時、連れ立ってきた他の武士が刀を抜いた。
「女!我らをなんだと思っておるのじゃ!」
「ほうらほうら!すぐ刀を抜くやないの・・欲しいものがあれば殺して取り・・そんな連中は、いらへんのや!」
「何を!」
刀を抜いた武士が女に向かおうとしたとき、中心に居たひときわ立派な武士がそれを押しとどめる。
「待て!わしの命に逆らうな!」
刀を抜いた武士は、悔しそうに刀を収める。
「失礼仕る・・我ら、黒田家の者でござる。このたびは、主君の命によりて、まかりこしてござる・・失礼の段、まことに申し訳なく・・お詫び申し上げる・・」
一時は表情を引きつらせた女も、やや、穏やかな表情になりつつあった。

その時、騒ぎを聞いて、他の女達が集まってきた。
「なんか、あったんけ?」
「なにや・・このお武家さんたち・・」

武者の中心に居るひときわ立派な男が、改めて女達に挨拶をした。
「騒がせてしまい、申し訳ない。実は、この村に“たま”という女性(にょしょう)とその連れ子である次郎と言う男の子が居ると聞き、まかり越してござる」
女達は押し黙ったままだ。
「何も危害を加えると言うのではござらぬ・・我らは黒田家のもの・・主君の命によりてその方々をお迎えいたしたく・・」

ここの女達はみな、戦に巻き込まれ、夫を失い、子を失い、親兄弟を失い、棲家を追われ、生きる糧を失い、流れ着いてきたものばかりだ。
いわば、彼女たちは元々が武家の関わりのある女達でもあった。
彼女たちそれぞれも筆舌につくせぬ苦闘の末に、何となく松の木が並んでいて、隠れ家になりそうなこの地に自然に集まったものだった。

ここは西国街道の外れ・・
西国街道は明石の町より海岸を迂回するように丘陵の間を抜け、小高い峠をいくつも越えて摂津の国、兵庫の津へ向かっていた。
女達の居る松林の先には断崖絶壁の海岸があり、それは延々と一里あまりも続いて摂津の国へ至るのだが、そこは漁師でもなければ越える事の出来ない難所でもあった。
つまり、彼女たちは播磨の国の最果てに居着いたわけだ。
そして、そこで女が出来る事と言えば・・自らの身体を売る事だけでもあった。

「わたしが“たま”です。」
ついにたまは名乗り出た。
これ以上、黙っていれば、結局は人の良い仲間を苦しませる結果になる。
「たまさん、あんた、名乗らんでもええやんか!」
「うちらの仲間やさかい・・」
「こんな武家の言葉なんか、信じたらあかん!」
周囲の女達は口々に叫ぶ・・

「ええんや・・わたしが・・皆に迷惑かけられへん・・」
たまは、そう小さく言うと、武士の前に進み出た。
「如何なる御用でござりましょうや!」
久々に城主の弟の妻・・である彼女に武家の言葉が戻ってきた。
「たまどの・・お名乗り頂き、かたじけなく存じます・・」
武士の一人が礼の姿勢をとる。
「黒田のものがわたしに何の用ですか?・・黒田官兵衛どのが小寺殿をお裏切りになられて以来、当家との関係はなくなっておる筈です」
「たまどの・・あれは、小寺殿が織田殿を裏切ったのでございます・・」
「何を言われる・・織田などは所詮は盗人・・播磨は赤松殿の国・・小寺・別所・神吉といった御歴々が厳然とおわすのに、何故に黒田官兵衛殿は織田や織田の部下に過ぎぬ羽柴になど尻尾を振られたのでございましょう・・」
「たまどの・・時でござる。時を見誤ればお家どころか国そのものが滅びかねませぬ・・」
「ああ・・かような話はしとうもない・・わたしに何の用でござりますか?」

立派な武士は姿勢を正した。
「たまどの・・播磨の名家である江藤のお家が、このまま滅びるのを見るのは忍びませぬ故、たまどのと次郎どのに是非、当家居城である妻鹿へお越し頂きとうござる・・これが、我らが主君、黒田官兵衛どののお言葉にて・・」
「そう言いながら、羽柴の命によってわたしを殺すのでありましょう」
「何をおっしゃいます・・主君はさような人ではございませぬ・・もしも、あなたさまや御子息に何かがありましたときは、拙者、命に代えましてお守り申し上げます」
武士は必死の表情で訴える。

「三木城も落ちてござる・・今は播磨は羽柴さまの御領地・・」
別の武士がそう呟く・・
「さよう、我が主君は秀吉様の軍師にてござる・・軍師たるもの、曲がった事は申されませぬ・・」
「では、何故、官兵衛どのが直々にこられない?わたしたちがあなた方の言葉を疑う事くらいは分かっておられよう・・」
「主君、官兵衛・・怪我を致してござる・・長く歩く事が難しいゆえ・・」

一時の沈黙が流れる。
「たまさん!騙されたらあかんで!」
仲間の女がそう叫ぶ・・
たまはあたりを見回した。
やや離れた位置に子供たちが立っているのが見えた。
次郎は泣いた目を腫らしている。
「たまさん!武家なんか!信じたらアカン!」
別の女が叫ぶ・・

けれども、たまは、この短い時間に考えた。
このまま、次郎がここに居ても・・所詮は遊び女の子供・・ろくなものになる筈もない。
いや、いずれは人買いに売られていくしかないかもしれない・・

別の考えも浮かぶ・・たまさえ、しっかりしていれば次郎を村の漁師に頼む事も出来るかもしれない。
そうすれば・・次郎は戦とは関わりなく生きていけるかもしれない。
しかし、武家は戦になると漁師も百姓も見境なく徴用もするし、戦に関わらずとも殺される事も多い・・

「わかりました・・黒田様を信じる事にしましょう・・その代わりにお願いがございますが・・」
「なんなりと、お申し出下され・・」
たまは、黙って突っ立っている女達のほうを見た。
「このものたちが、ここで安心して暮らせるように・・手配頂けませぬか・・」
「畏まってございます。必ずやこの方々が安心して暮らせるように取り計らいますれば・・」

松林は風がなく蒸し暑い・・
夕凪の時刻だ。
波の音も頼りなく、立ったままの人間たちは汗のしたたるのも忘れ、その場の結末を見ようとしている。
武士の後ろに夕日が降りてきて武士の顔は女達には良く見えない・・

やがて、たまが自分の子を呼ぶ。
「次郎!」
息子はよたよたと走ってきて母親の膝にしがみついた。

ややあって、未だ沈みきらぬ夕日に向かい、武家の一団と一組の母子が歩き始めた。
「今宵は林の城にて宿を借り申そう・・」
中心の男は、そういうと、松林の外れに繋いであった馬にまたがった。
「坊!馬に乗せてやろう!」
口を真一文字に閉じ、嫌々と首を振る次郎だったが、「乗せてもらいなさい」との母の言葉に、こわごわ、別の武士に抱かれ、馬の背に乗った。

一団は急ぐ事もなく、のんびりと去っていった。

後にこの子は成人し、武功を上げ続け、黒田家の重臣にまでなったと言う。
けれども、大阪夏の陣で豊臣方に組みし、亡くなったそうだ。
母親のほうは、子供が元服するまでは城に居たらしいが、その後は何処へ行ったか、分からなくなってしまった。
松林のあの村に、彼女に似た女がまた住みついていると誰かの噂に聞こえる。

出陣前夜


「殿!なにとぞ、軍議を開きますよう!」
絶叫にも似た声だ。
日の暮れかかった城内の大広間に詰めている泣く子も黙る筈の武者達ではあるが、誰も皆、心細さに不安の表情を隠せない。
「このままでは、丸根も鷲津も落ちてしまいます!」
髭面の大男が素っ頓狂な声を上げる。
風も吹かず、蒸し暑い。
永録三年五月十八日、西暦に直すと1560年6月12日の夕刻。
場所は尾張の国、清洲である。

「いやいや、殿には篭城され、稲葉山の御助力によりてこの難儀を乗り切るお積もりであらせられるのよ」
少しは物分かりのよさそうな老臣が髭面を諌める声も聞こえる。
「誰か、灯を!」
別の老臣が叫ぶ。

すぐに小姓が灯明に火をいれる。
さして明るくない灯明に照らされた部者達の顔は、強張り、汗が噴き出し、鬼のようになっている。
「されど!されど!このままでは、丸根の者どもは!」
「多少の犠牲はやむを得ぬ事よ・・」
「林殿!まさか、おぬし、佐々殿はじめお歴々の将士を見殺しになさるのか!」
「森殿!目先のことに戸惑っておれば大なる望みは得られましょうや!」
今にも老臣二人が掴みかからんばかりになりそうなとき、静かな声が溜息と共に響く。
「じゃがよ・・今川の四万にぶつかってしまえば、織田など木っ端微塵ぞ・・」
「柴田殿・・剛の者といわれるお主にも似合わぬひ弱な・・」
「ひ弱というなら言えば良いわ・・このままどっちに転んでも、清洲は明日には火の海よ」
「しかし、何か打つ手があるから殿は黙っておいでであろう・・」
「乾坤一擲!敵をひきつけて打つしかあるまい!」
「篭城はこもるほうが負けると・・決まっておるわ」
「決まってなどおらぬ!現に毛利家では吉田の郡山城にて篭城、尼子の大軍をば苦しめ、追い払ったと聞くぞ」
「毛利の後ろには大内がいたればこそじゃ」
「我が織田にも斎藤の後ろ盾はあろうが!」
「大内と斎藤とでは役者が違うわい」

「殿!是非、篭城の軍議を!」
「いや、殿!なんとか、丸根、鷲津の将士を救援する軍を!」
「これは、武士の面目でござる。仲間を見殺しにしてまで能々とは、生きておれませぬ!」

上座にどっかりと座ったまま、充血した眼で皆を見詰めているのがこの家の主人、織田信長だ。
具足もつけず、先ほどから嘗め回すように幕僚達一人一人を見ているのだ。
・・こやつらの、どれかが今川に内応しておろう・・
誰かが敵に内応しているのは事実である。
けれど、それを口に出すようなことは出来ない。
この場で作戦を告げたところで、すぐに今川義元もこちらの作戦を知ることになるのだ。

信長は幕僚達の声を嗄らしての議論も聞かぬ風を装っている。
脇に置いた酒を表情を変えずに飲む。
元々、酒はあまり好きなほうではない。
どちらかというと、果物や菓子のようなものが好きな質だ。
けれども、今日ばかりはこの騒ぎのなかで、平静を保つために酔いが欲しかった。

もしも、平静が保てなくなれば、それは即ち、自滅を意味している。
今は、耐えるしかないのだ。
頭の中に描いた最高の作戦・・
それへの準備はここに居る幕僚達の誰にも知られることなく、秘密裏に整っていた。

「殿・・」
彼の脇の戸が開く。
奥仕えの女が、彼に目配せをする。
「お前達はここで議論をしていろ!」
そう言い捨て、女の誘うほうへ導かれていく。
ここから先は誰人たりとも入れない、信長の私的空間でもある。

「猿か・・」
「さようで・・」
「蜂須賀、生駒の者ども、うまく動いておるか?」
「は、明日、昼を見計らい、今川義元殿本陣を桶狭間あたりにて足止めさせご覧に入れます」
「方法はあるのか・・」
「生駒党のもの、村の百姓男女と入れ替わり、貢ぎ物などを義元殿本陣に届けますれば」
「うむ・・桶狭間へは、どうやっておびき寄せるか?」
「それがしが一党、街道筋にてひと騒ぎなど・・」
「相分かった!多くは聞かぬ」
「しかし、丸根、鷲津はかなり苦しんでおるご様子・・明朝まで持たぬやも知れませぬが」
「うむ・・」
「何とか、逃げる手筈をせねばと思いますが・・」
猿と呼ばれた男は、暗い部屋で良く見えぬ信長の表情を伺っている。
「致し方なし・・許せよ・・」
しばらくの沈黙の後、信長はようやく、一言だけ言った。
「かしこまりました。では、明晩、良い知らせを・・」
「お主もな・・ここがわしらの踏ん張りどころだて・・」

信長はすぐに大広間へ戻ってきた。
「殿!なにとぞご決断を!」
「今、決断が為されなば、いずれ清洲は阿鼻叫喚の炎に・・」
「なにとぞ、丸根、鷲津だけでも・・」
口々に幕僚達が叫ぶのを、黙って聞いていた彼だったが、突然、大音声で叫んだ。
「やかましい!貴様らは黙ってわしの言うように動け!」
「殿!それでは!」
「殿!戦の世、降参も決して恥じるべきものでは・・」
その声の主だけは彼はしっかりと睨み付けた。
・・林か・・
次の瞬間、信長は意外なことを言った。
「腹もすきもうした!夕餉の支度も出来ておろう!メシだ!飯にしよう!」
奥のほうから小姓達の威勢の良い返事が聞こえる。

「もう駄目だ・・」
「ああ・・やはり、殿は御館の器ではござらぬ・・」
小さな声が広まる。
「殿に聞こえると、手打ちにされ申すぞ」
「御気性だけは随分と、荒っぽい方でおざるが・・いかんせん、戦を知らぬ・・」
戦に直面しているとあって、質素な膳である。
ただ、濁酒だけは、目を見張るくらいに運び込まれた。

「飲めや飲め!まさか、敵が迫っているときは肝っ魂が縮こまり、酒も飲めぬとは言わせぬぞ!」
信長は自分への悪口が囁かれているのを知ってか知らずか、皆に酒を勧める。
それも普段にない機嫌の良さである。

「やはり、殿はただの“うつけ”者よのう・・」
「ほんに・・ほんにのう・・」
宿老のなかには、信長から恭しく杯を頂きながら、陰口をこぼすものも居る。

髭面の大男、柴田は、杯をあおりながら、ずっと膳の淵ばかり見ている。
・・いや、殿の事だ・・これは、我らを欺いて、何やら大きなたくらみを図っているに決まっている・・
彼はそう思おうとした。
数年前、信長に反旗を翻した林にそそのかされ、彼もまた叛乱の戦を起こしたことがあった。
けれども、たくらみは見事に見破られ、彼も林もその時に首を斬られるところを、信長は意に介さず、助命したばかりか今にいたるまで重用してくれている。
柴田にとって今や信長は全てを賭けることの出来る神のような存在でもあるのだ。
・・しかし、本当に殿が“うつけ”ならば・・
悪事の同僚、林を見ると、彼はもう、信長を馬鹿にしきったのか、隣のものと何やらにやにや笑みをこぼしながら話をしている。
・・わしは、殿を信じるのみ・・
林を視線から振り払い、柴田はまた杯を空ける。

普段はめったに酒を過ごさぬ信長が、大酔している。
視線も定まらぬようだ。
彼とて飲みたい酒ではない。
“うつけ”を演じるために飲み出した酒だ。
けれども、飲むうちに、家臣の情けなさ、襲い来る大軍への恐怖・・そういったものが渾然となって彼に迫ってきた。
本当は泣きたい。
あるいは腹立たしく、居並ぶ宿老たちの首でも飛ばしてやりたい・・
元来が孤独感が苦手な彼である。
けれども、何も出来ない自分が居る。
これは策略である・・そう言い聞かせるが、自分でも本当に策略なのか、自分が皆が言う“うつけ”なのか・・分からなくなっても来る。

こうしている間にも前線からはひっきりなしに伝令が到着する。
伝令はこの部屋に呼ばれないので、彼らが幕僚の酒盛りを見て愕然とすることはないが、酒盛りをしているほうは、気にかかる。
ふらふらと、信長は立ち上がった。
「お主たちも寝よ!もはや夜もふけた!寝ずの頭では良い考えも浮かばぬわ」
信長はそういって部屋を出ていった。
残された幕僚達は、もはや何を言う気もなく、ただ、柴田や森ら数人が、甲冑を被りはじめただけで、他のものは、諦めたようにそれぞれの寝所へ下がっていった。
信長は、数人が甲冑を被る音を耳にしていた。

「さいよ!」
「はい・・」
信長に“さい”と呼ばれた女は、厳しい表情をしていた。
「少し、酒を過ごした・・」
「まあ・・明日は戦だというのに・・」
「今生の名残の酒になるかも知れぬ・・過ごしても仕方あるまい」
「今生の名残?」
「そうだ」
「私にはとてもそうは思えませぬ・・殿が弱気になるとすべての努力が水の泡でございます」
「おお!そうよの!さいには、いつも世話をかける・・」
「御館様・・私は、この勤めが嬉しくて、させて頂いております」
「そうか・・そうだったな・・」
「御家臣のなかにも、少しは骨のある方もおられましょうし・・」
「そうだ・・甲冑をつけていたのは・・あれは柴田か森か・・」
「自分の身ばかり可愛いお偉方は放っておかれ、良い家臣だけで進めば良いではありませんか・・」
「そうだ・・うむ・・まさしく、さいの言う通りだ・・柴田は可愛いやつよ」

信長の足はもつれ、呂律も回らない。
さいの肩にもたれて、だらしなく奥へ入っていく。

寝所にはすでに布団が敷いてある。
「うむ・・少し休もう・・」
そう言いつつ、信長の目が光る。
部屋に入った途端、彼の表情が引き締まる。
「明日の準備は良いか?」
「はい、今川殿のどのような動きも見逃しはしませぬ・・」
「猿とは連携がなっておるか・・」
「もちろんでございます」
「義元殿の顔を見知っているものは・・?」
「武田信虎殿の家中におりました桑原甚内と申しますもの・・このものが同道いたします。明朝、熱田の宮にて、簗田からご紹介があります」
「分かった!で・・明日の気象はどうなりそうだ・・」
「明日は、必ず大雨となります。時刻がはっきりしませぬが、案外、雨の降り出しは午ごろになるかと・・」
「それまでは持ちそうか?」
「たぶん・・」
信長の表情が変わった。
子供のような笑顔になった。
「勝てるの!」
「はい!」
信長の肩から力が抜けていく。
けれども、酒の酔いが抜けない。
「さい・・よ・・」
「は・・」
「今宵は構わぬか?」
そう言われた彼女は、すこし身を捩って、それでも、小さな声でこういう。
「今生の名残でなければ・・」
信長は、彼女を正面から見据え、笑顔になる。
「おう!明日もじゃ!」
さいも、軽く笑顔を見せる。
「なら、お好きに為さいませ・・」

信長は獣のようにさいに、覆いかぶさった。
さいは声を激しく上げ、信長にされるままに、身を任せる。
彼女は、実は信長が活用している忍びの纏め役でもある。
その彼女は、前線で指揮を執っている“猿”や簗田と組んで、大仕事をしている。

蒸し暑い夜の奥の部屋で、信長はこれまでの鬱憤の全てを吐き出し、新しい運を掴み取ろうとしていた。
その彼の思いは、そのままに、彼と睦みあい、汗を吹き出させる女の白い肌に向けられていく。
「勝つのじゃ!わしは死なぬわ!」
彼は、何度もそう絶叫し、女は彼の全てを受け入れていく。
彼女にとっても新しい運・・そこを乗り越えなければ、必ず死出の旅路となってしまう峠を、今、この男に賭けたかった。
彼女は妻でも側室でもない。
ただ、仕事として信長の側に詰めているだけだ。
側室になろうと思ったこともない。
ただ・・自分の運が欲しい・・
身悶え、絶叫しながら、彼女は明日の勝利を確信していた。

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