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kou1960

Author:kou1960
小説専門のブログです。
小説の形を借りて自分史も入れたりしています。
もとよりアマチュアですし、たいしたものは書けませんが、楽しんでいってくだされば幸いです。FC2 Blog Ranking


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名鉄7507河和線



その女(ひと)は、見る限り、紅い色合いがこのほか好きなようだった。
紅いワンピース、紅いパンプス、紅い腕時計のベルト、深紅の口紅、セミロングの髪を紅いカチューシャで止め、そしてメガネのフレームも赤だった。
「わたしの時代が終わるの」
ふっと漏らしたその言葉に僕は背筋が寒くなるのを感じた。

美しい女性だ。
スリムな長身、豊かな胸、長く美しい脚をもつ美貌に恵まれながら、人懐っこい笑顔で何故かことのほか下町が好きらしく、お洒落な山の手よりは庶民の中に交じっている・・そんな人だ。

僕がその人と出会ったのは、もう三十年以上前の、名古屋に近い、決して都会とは言えない地方都市の、駅前にある居酒屋だった。
名古屋市内で数日の仕事をせねばならないが、どうもこの時は名古屋市内中心部で宿の確保ができず、やむなく、名鉄電車で少し乗ったこの町の、駅前の安ホテルを確保したのだった。

仕事を終えたのは遅く、空腹を抱えてこの居酒屋の扉を開けた僕の目の中に飛び込んできたのは、煙草の煙が充満する安酒場の中で、数人と楽しそうに酒を飲むその人のひときわ目立つ姿だった。

少し離れたところに僕は座り、ちょっと遠くから気になるその人を見ていた。
空腹に酒が入ったからか、普段の僕では絶対にしないようなこと・・女性に声をかけたのはその少し後だ。

トイレに立ったその人が自席に戻るときだった。
「お洋服、とてもいい雰囲気の色合いですね」
その人は何の警戒もなく、僕を笑顔で見つめてくれた。
「ありがと、ええ気色や」
見れば見るほどに美しい人なのだが、なんと名古屋弁のイントネーションで答えてくれた。
ふわりと温かな風が吹くような気がした。

そしてその人は一旦、自席に戻り、仲間に何やらちょっとだけ話をして僕のところ来てくれた。
一人客ゆえ、前の席は空いている。
その人は僕の前に座り、お店の人に「わっちの、こっちね」と、かわいい声で叫ぶ。
「ここ、座っていいですよね」
座ってしまってから僕に聞く。
「もちろん、美女が来ると嬉しいですから。でも・・」
「でも?なんでゃあも??」
「は??」
「ああ・・でもって、どうゆうことですかって‥」
僕を見つめてフフッと笑う。
整った顔立ちはテレビに出てくる女優でも、なかなかここまでも人はいないだろうと思えるほどだ。
「いや、お連れさんに失礼かなと」
「ああ、でゃーじょーぶ・・あのじんたち、ここで会ったばかりやから」
「は・・・」
「あ、ごめんなさい、あの人たちとはここでお会いしたばかりなのよ」
その人はそういったかと思うと大きく笑った。
真っ赤なカチューシャが店の照明に照らされて光る。
大きく開いた口元から見えた白い歯がきれいだ。
「すごく仲がよさそうでしたけど」
「そう?お酒とドラゴンズが好きな人に悪い人はいないわ」
「なんだか・・」
「な~に?」
「今日は何か嬉しいことがありましたか?」
「そりゃあ、ドラゴンズの圧勝じゃない、大量二十二点よ」
「あ・・そうなんですね」
「ホームラン八本、こんなの初めて!!」
「すごいですね・・」
「なんだ、あなた、テレビも見てなかったの??」
「仕事でして・関西から仕事に来ているんで」
「関西だったらタイガースでしょ!!今調子いいですよね」
「いや、ワタシは野球は全くダメでして・・」
「な~~んだ、面白くないヤツ・・」
その人は僕をちょっと蔑むように見て、そしてすぐに笑顔になった。
「まぁ、人それぞれそやから」
「はぁ」
「赤い電車は好き?」
いきなり、話のスジを変えられたので面食らった。
「赤い電車ですか?」
「ほら、そこにたくさん走っているでしょ」
そういえば・・ここに来るときに乗った電車も真っ赤だった。

真っ赤な名鉄の色合いがとても好きなの、ちょうど、わたしが生まれた年に「パノラマカー」ができたの。だから、真っ赤はわたしの色、その中でパノラマカーが一番好き・・
彼女は酒の酔いでか頬を赤く染めながら話してくれる。
赤い電車が紅い彼女の色彩と相まって、僕の視界も赤くなっていくような気がする。
彼女の紅いワンピースから露出している白い肌が赤みを帯びてくる。
だが、ドラゴンズのチームカラーは真っ赤ではなく、青ではなかったか‥
ふっとそういう疑問が沸き上がったけれど、ずっとしゃべりつ続ける彼女を見ていてそのことは言い出せなかった。
酔いが回り、そろそろ宿へ帰らねば明日の仕事に差し支える。

店を出ると彼女もついてきた。
「どこに泊まっているの?」
「そこのビジネスホテル・・」
「部屋が空いていたらわたしも泊まろうかな」
えっ・・僕は後ろからついてくる彼女を見つめた。
「あら、嫌なの?」
「嫌ではないけど、あなたも家に帰らないと・・」
「どうせ一人暮らし、どのようにもでもなるのよ」
達観しているかのようにつぶやく彼女のほうから、女の香りのようなものが飛んでくる気がする。
もしかして僕は今から未だ知ることがなかった「女」を知ることができるのだろうか。

歩いている二人の横の線路を名鉄の電車が突っ走る。
夜の闇でも真っ赤な電車は紅い。

踏切が鳴り、また電車が突っ走ってくる。
「パノラマカー!」
彼女が嬉しそうに叫ぶ。
大きな展望窓から室内灯の明かりをまき散らし、轟音とともに電車が走っていく。
「女性で電車が好きって、珍しいですよね」
「電車が好きなのじゃないの、パノラマカーが好きなの」

また踏切が鳴り、反対方向への電車が通る。
「またパノラマカーだ・・」僕の驚いた声に彼女はこう教えてくれる。
「たくさん走っているわよ、わが世の春、十分に一回くらい走ってる・・」

******

粗末なビジネスホテルの、足元灯だけが鈍く光る部屋。
大きく身体をのけぞらせ、彼女は喘ぐ。
僕はその喘ぎの大きさに戸惑いながら、女とはこういうものかと、自分の非力を思い知りながら、それでも精いっぱい攻めていく。
喘ぐ声の大きさに、隣室の人に聞こえやしないかとか・・明日の朝、仕事に間に合うように起きられるかとか、そんなことばかり頭の中に浮かび上がっては消えていく。

わずかの明かりに照らされた彼女の身体は、ほの赤く染まり、息遣いは一定のリズムを持ち、攻めているであろうはずの僕を逆に攻め落としにかかるようだ。
汗と体液の甘い香りが部屋に充満し、暗い部屋の中が僕たち二人の巨大な宇宙に思えてくる。

「はぁ、はぁ、はぁ、」
一定のリズムの声が僕をさらに掻き立たせるが、「もっと、もっと・・」の切ない願いにも似た叫びはますます自分の非力さを思い知らされる。

そして自分のすべてを出し切ってしまった僕は、彼女と抱き合ったまま、眠りに落ちたようだ。

気が付けばカーテンの隙間から朝の光が漏れている。
「あ・・起きねば・・」
僕は立ち上がりカーテンを少し広げた。
自分が下着もつけていない裸身なのが昨夜の出来事を思い起こさせる。
夏至過ぎの夜明けの光が差し込んでくる。

眠っているかと思った彼女が目を瞑ったまま「まだ大丈夫、今は夏至の後だから夜明けが早いの、まだ五時過ぎよ」と呟く。
彼女は肩のところまで布団をかぶり、気持ちよさそうに目を瞑って寛いでいるようだ。
「おはようございます」
「あら、よそよそしいのね・・おはよ」
片手で布団を胸のあたりに持ったまま、彼女はゆっくりと起き上がり、髪をもう片方の手で軽く整える。
朝の柔らかい光の中で、布団を胸のあたりの持った彼女は美しい。

「見せてほしい」
僕の口から自分でも意外な言葉が出た。
「なにを?」
「むね・・」
「恥ずかしい」
「昨夜は暗くてよく見えなかった・・」
彼女は頬を少し赤らめ、そっと布団を抑えている手を放す。
白い、形の良い胸のふくらみ。
思わず僕はそれを撫でる・・「あ・・」
僕たちはまた、二人の肌を合わせた。
白い乳房が僕の手によって柔らかくひしゃげ、彼女の息が荒くなる…

*****

七時すぎになってようやく僕らは起きだし、服装を整える。
「仕事はどこまで行くの?」
彼女が昨夜からのことを吹っ切るかのような素っ気なさで尋ねてきた。
「うん、名古屋の南のほう、名鉄でここから三十分ほど」
「わたしも仕事場は名古屋市内だから・・一緒に行く?」
「うん」

二人して小さな駅に入り朝の通勤の人たちが電車を待つ集団に加わる。
警笛というのではない、音楽の旋律のような音がした。
真っ赤なパノラマカーが目の前を轟音とともに通過していく。
そしてすぐに反対方向へのパノラマカーも通過する。

「かっこいいでしょ」
彼女が嬉しそうに言う。
「真っ赤ってすごく名古屋的だわ」
愛おしいものを追うように彼女の瞳は去っていった電車の方向を見つめている。

そしてしばらくすると、また音楽のような警笛を鳴らし、パノラマカーがやってきた。
今度の電車は真っ赤ではあるが白い帯を巻いていた。
通過する紅い車体の真ん中に描かれた白い帯が僕の目を引く。
「あれ、最近、特急専用になったパノラマ、あの白い帯もいいよね」
「特急って専用車両なの?」
「最近ね・・だから、わたしも白いベルトを買いたいなって思うのよ」
なるほど、いま彼女が着ている真っ赤なワンピースに白いアクセントはいいだろうし、プロポーションの良い彼女の腰のあたりを引き締めてやれば、それだけで今の倍くらいの魅力ができるだろうな、などと考えていた。

数分後にやってきた準急電車は色こそ赤だったが、パノラマカーとは比べるべくもない古い電車だった。
冷房もなく、窓を開け放している。
古い電車のモーターの音が車内に入り込む。
満員の乗客はみな汗をかく。
「パノラマカーとえらい違いだね」
僕が思わず口にすると彼女は諦めたように溜息をつきながら言う。
「名鉄は特急が中心だから通勤電車は後回しなんだわ」
「しかし、いくら何でも大手だろうに・・」
僕もため息をつきながら、ぐるぐる首を振る天井の扇風機を眺めた。
「あら、扇風機があるだけ、この電車はマシやわ」
「はぁ・・・」
暑い古い電車は途中で真っ赤なパノラマカーに抜かれ、それからいくつかの駅を通過して名古屋の地下に入っていった。
地下に入ると古い電車の騒音は窓を開け放していることでさらに増幅され、話などできなくなってしまう。

彼女とはその夜にも、あの店で会う約束をして僕は一日の仕事をする。
今度の名古屋での仕事はいわば、これからお付き合いができるかどうかという初めての取引先で、緊張しながらの作業であるはずだが、彼女と出会ったことで僕の心に少し余裕が生まれていた。
「これから長いお付き合いになるね」
一日の作業を終えて、担当のエライサンに挨拶に行くとそういわれた。
これから名古屋に来ることが増える・・そう思うと僕は嬉しく、そしてそれは彼女に会いに来られるという単純な思いだった。

そしてその夜も、彼女はあの店にやってきた。
「今日も勝った!」
「大洋なんて竜の餌よ!」
すでに数人の居合わせた客の中で出来上がっているらしい彼女は、僕の顔を見るなり大げさに手を振ってそう叫び、笑った。

「彼氏かいな?」
彼女と野球談議に夢中になっていたらしい年配の男性がそう揶揄う。
「うん、ゆうべ、彼氏になったの」
「あんたはホンマに、よーやるわ」
「今度は逃がしたらアカンでな」
「男前やのう」
仲間らしい人たちが一度にいろんなことを言って笑う。
僕もその人たちの輪に加えさせられたが、残念ながら僕は野球はほとんどわからない。
中日ドラゴンズの選手といえば田尾と宇野くらいしか知らず、それもただ、テレビニュースによく出てくるからというだけだった。

わからないといえば、彼女が夢中になっている名鉄のパノラマカーも僕にはほとんど興味がなかった。
ただ、こちらのほうは少し野球よりは親近感が湧き始めていた。

店を出て自分のホテルへ向かう道中、彼女もついてきた。
「今夜も泊まるの?」
彼女は首を振った。
「いくらビジネスホテルでも毎夜はエライ・・高うつく」
「じゃ、自宅に帰るんだ…」
一瞬間をおいて、彼女が僕を見つめた。
「ここにいつまでおるん?」
「たぶん、明日の仕事が終わったら大阪へ帰る」
「ね、それまで、うちへ来ん?」
「でも、会社の経費で泊っているから・・ホテルに泊まらないと問題がありそうで」
「そっかぁ・・」
「そうだ、今夜、もう一泊、あのホテルで泊まろうよ、宿代は僕が持つから・・明日の夜は君のところへ泊る、そして明後日は休みだからどこかへ行こう」
「ええの?」
「うん、そうしてくれたら嬉しい・・」

結局、僕らはその通りに、その夜も昨夜よりもっと激しく抱き合った。
翌日は仕事をすべて予定通りに終え、満足な達成感をもってあの居酒屋へ行き、その日もドラゴンズが勝ったようで大騒ぎしている彼女の仲間たちとの中に無理やり入れられ、そしてその賑やかな食事は済むと、約束通り彼女のアパートに入れてもらった。
小洒落たハイツの二階、いかにも女性らしい可愛い部屋の机の上に赤いパノラマカーの模型、壁には野球選手何人かのポスターが貼られていて、それが誰なのか僕にはわからない。

******

彼女に言われるままに、さんざんに彼女を舐め尽くした。
柔らかな白い肌は、豆電球の下で赤く染まる。
荒い息を繰り返し、もっと、もっとと僕に要求してくる。
必死に置いてけぼりにされぬように、立ち向かう僕はやはり自分の力の限界を知る。

身体中から自分の精気というものを放出してしまった僕は力尽きて彼女の横にて動かぬ体を横たえるしかない。
「ねぇ、上手になったね」
呼吸の荒さがまだ残り、それでも満たされたような表情の彼女が僕の顔を覗き込む。
「そうなんか・・」
上手かどうかは僕にはわからず、それでもこの三日間のうちでは最大の力を出し切ったはずだ。
「もうちょっとだけ・・」
僕は女性がこんなにも性欲を持て余していることを初めて知った。
そして、それはいわば男にとっては強烈な試練であることも。

*****

「あの・・」
僕は思い始めていたことを彼女に聞く気になった。
「なぁに・・」
僕の胸のところで頭をうずめている彼女は小さな声で返事をする。
「僕と結婚してください」
しばらく沈黙が続いた。
そして出た言葉だ。
「ごめんなさい、無理なの、特定の人だけのものになるの・・」


あれから三十年近く、僕は彼女のことを忘れたことは一日たりともないと断言できる。
だが、僕はやはり世間一般の男の常識の中で生きていた。
彼女からは少しずつ疎遠になり、名古屋の仕事が、ある程度から先の進展がなくなってからは、名古屋へ行くことも減った。
二年ほどして、やはり彼女のあの風貌が忘れえず、名古屋へ出かけたけれども、その時の彼女は僕とお茶を飲んだだけで、まともに話には乗ってこなかった。
そして走り始めたパノラマスーパーなる、赤よりもクリームの色彩の多い電車を彼女と駅で見た時、彼女は言った。
「わたしの時代が終わるの」
そのあとに普通電車にパノラマカーが使われてやってきた。

やがて僕は会社の上司の勧めで、取引先の専務のお嬢さんと結婚した。
妻になった女性は彼女にも負けないほど美しく、僕は妻を十分に愛しているのだが、それでも時によっては妻を飛び越えて彼女が僕の頭の中に現れるときもある。
やがて、僕は娘を得た。

いまなら、彼女の気持ちがわかる。
僕は彼女の何人かいるであろう男友達の一人になって、彼女が気まぐれで誘ってくれれば、喜んで出かけていく・・
そんな関係が僕と彼女には幸福だったのではということを‥
僕には彼女の情報をどうしても得ることができず、会うことは夢か幻かと思っていたものだ。

二十一世紀になってしばらくして、名鉄からあの「パノラマカー」が引退したことを新聞で知った。
それこそ全国から鉄道ファンが押し寄せたらしい。

そのころまだ、僕は彼女の面影をあの真っ赤な列車に求めていた。
パノラマカーの引退は僕と彼女の縁が切れたことを僕に突き付けられたような気がしたものだ。
だが、いつの間にか、彼女との連絡が取れない状態になっていた。
連絡が取れなくても、彼女が僕の最初の女性だったことは間違いのない事実であり、僕にとって最初にまともに惚れた相手であることも消えることがなく、それゆえ、僕の脳裏から彼女の面影が消えることもなかったが、自分の娘は成長していった。
いつしか、自分の娘もよい人を見つけて結婚し、その少し後に妻が思いもせぬ病で先に逝った
僕はまた一人になったが、会社では定年を超えて嘱託として使ってもらえ、食うのには困らない。

今年、ひょんなことから名古屋へ行く仕事ができた。
懐かしいあの町のどこかに彼女がいるかもしれないとは思ったが、彼女に会えるとは夢にも思えない。

だが、昼までの仕事を終えてから、やはり自分の意志の向くままにあの名鉄駅に降りた僕は、町のあまりの変わりように言葉を失った。
あの、居酒屋もビジネスホテルも、そして彼女のいたハイツも、どこにも面影を見出すことができなかった。
そして名鉄の線路を走るのは赤い色に塗られたごく普通の通勤電車や、いや、もはや色合いすら赤ではなくなった銀色の車両、そして特急ですらクリーム色の面積が幅を利かせる車両ばかりになっていたことも僕の心の中のイメージを覆すには十分だった。
僕は疲れた。

駅近くの暇そうなコンビニに入って飲み物を求めた。
店は閑散としていて、店員は手持ち無沙汰に見えた。
レジでの支払いの時に店員に聞いてみた。
「そこの名鉄電車の、パノラマカーっていうのは、もう、どこでも見ることができないのでしょうか」
店員はちょっと考えてから意外なことを言った。
「競馬場の奥のほうに、電車が置かれていて、中を見ることもできますよ」

そう聞くと、もうそこに行かねばならなくなる。
その足で名鉄電車に乗り、競馬場を訪れた。
駅から歩いて十五分はかかっただろうか。

競馬場ではその日はレースはなく、場外馬券だけが発売されていた。
レースのある日のような喧騒は今はないのだろう、それでも、警備員が囲む道を僕はゆっくり歩く。
窓口のかわいいお嬢さんに教えられたとおり、さらに広大な競馬場を奥に進むと、まさにその電車があった。
三両編成に組まれた電車は、家族連れのための公園の、芝生の向こうに鎮座している。

芝生広場では幾組かの家族がそこで休日を楽しんでいた。
子供たちが電車の周りを走り回り、真っ赤な電車が屈託なくそれを見ているように見える。

車内を見ると座席もきちんと残してあって、あの頃のパノラマカーそのものだ。
座席に座ると、彼女と出会ったあの頃を思い出さずにはいられない。
「会えたなぁ‥やっぱり久々の紅いパノラマはいいな・・」何気なく独り言が出る。
「だけど、僕が会いたいのは君を大好きだった彼女なんや」パノラマカーに語り掛けるが、電車は何も言わない。
「彼女に会いたいなぁ」
すでに、線路は名鉄と繋がっておはおらず、この電車はいわばパノラマの生き残りの仙人のような存在だ。

三~四歳の数人の子供たちが僕の座っている座席の周りを駆け巡る。
「こら、ほかの方にご迷惑でしょ・・」
女性が子供たちを叱る声がする。
懐かしい声だ、
忘れるはずなんてない声だ。
聴いた途端、涙があふれる。

驚いて振り返った。
座席の間の通路で中年の女性が僕のほうを見て「ごめんなさい、煩かったでしょ」という。
赤いジャケットにクリームのブラウス、紅いスカート、そして赤いカチューシャ、紅いメガネフレーム。
ああ、まさしく・・
女性の着ているものはワンピースでこそないが、間違いがない。
僕は涙を抑えられない。
女性は僕を見てちょっと驚いて、そして深々とお辞儀をした。
「今日、パノラマカーに誘われてここに来ました。お変わりありませんか」
お変わりはあるよ‥それもたくさん・・
そう言おうとしている僕は、声が詰まって出てこない。
「会いたかった」やっと、絞り出すようにそう言った。
少しふっくらとして、それでもあの頃の色香を残す彼女は、ゆっくりと僕の手を取った。
「わたしの孫たちです」そういうと彼女もまた涙を拭おうともせず、僕を見つめる。
「僕は昨年、妻を亡くしました」彼女にそう言うと彼女も言った。
「わたしも・・」

僕たちは競馬場の遊園地に置かれている、真っ赤なパノラマカーの中でお互いを見つめあったまま、動けなくなっていた。

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汽車の女

C5644かわねじ号イメージ


「汽車が好きなの」と、その彼女は言った。
真夏なのに黒のワンピースを着た長い黒髪の女だ。
彼女とは、つい先ほど出会ったばかりだ。

真夏の太陽を浴びて山間の鉄橋を、黒い蒸気機関車が茶色の客車を率いて突っ切っていく。
列車が来るまでは聞こえていた川の水音や鳥のさえずり、セミの鳴き声は消え失せ、小型の機関車ゆえのささやかさだがそれでも蒸気機関車特有のドラフトを響かせ、列車は橋桁からあの重い金属音を湧き立たせながら通過していく。
機関車が去ったあとは何両も繋がった茶色い客車の、規則正しいレールジョイントの音が山間にこだまする。
堤防脇で三脚を立て、大仰な大口径レンズをデジタル一眼レフに装着した僕が、前を横切る観光用のSL列車のドラフトを聴きながら夢中でシャッターを切り、そして静寂が戻った夏の河原の風景を眺めた時、自分のすぐ傍、10メートルほどのところに立っている彼女に気が付いた。

彼女は首から大きなニコン製のデジタル一眼レフをぶら下げていた。
黒いワンピースの上の胸のふくらみのやや下あたりで、巨大なカメラが存在感を見せつける。
昨今では鉄道好きな女性が増え、その人たちを「鉄子」さんと呼んでいるが、ほとんどの場合、鉄子さんたちは列車そのものより旅の風景としての鉄道、旅のアイテムとしての鉄道を好むように感じていた。

僕は彼女に近寄り、話しかけた。
「あなたもSLがお好きなんですね」
彼女は夏の炎天に巨大なカメラをぶら下げているというのに汗も掻いているようには見えず、頭の上からの直射日光を浴びながらも笑顔を見せる。
セミロングの黒髪がかえって涼しげに見える。

「私、蒸機が大好きなんですよ」
SLという言葉で表現せずに、蒸機と言った彼女に僕は一瞬たじろいだ。
なぜならSLを蒸機と言うのは、ふつうは僕なんかよりずっと年配の鉄道ファンだからだ。

「今日はC56(シゴロク)にオハ35(サンゴ)でしたね。好きな組み合わせですが、ここはやはり架線があるのが今一つなんです・・それと蒸機はもう少し大きめな・・でも、D51(デコイチ)では大きすぎて、この風景だとC57(シゴナナ)あたりがいいですけどね」
次に彼女の口から出た言葉は、僕をさらに驚かせた。
とても昨今流行りの「鉄子」さんが俄仕込みで喋っていることとは思えない。
「お若いのに、とても詳しいんですね」思わず僕の口から出た言葉がこれだ。
彼女はふっと僕のほうを見て、不思議そうに小首をかしげる。
「あら、特に詳しいというほどのことはないと思います」
「そう・・そうですね・・」
僕は圧倒され、そのことについてそれ以上は言えなくなってしまった。
このあと、少し歩いた始発駅から、先ほどの列車の折り返しに乗車するのが僕の予定で、僕は三脚を片付け始めた。
「あら、この後の列車、緑のズームカーですよ。これも撮らないと」
彼女が僕の背に話しかける。
「いや・・上りのSL列車に乗るので・・」
「十分、乗れますよ。緑の中を薄緑の電車が走るのもいいと思いますけど」
「は・・はぁ・・」
「私も、上りの蒸機列車の切符を買っていますからよろしかったらご一緒にいかがですか」
美女にそう言われて悪い気はしない。
でも、僕はもう、十分、彼女に圧倒されてしまっている。
やがて、先ほどのSL列車が向かった方向から薄緑に濃緑の帯を締めた「ズームカー」がゆっくりとやってきた。
元は関西の私鉄で特急や急行として使った電車で、確かに鉄道ファンの中にはこの電車だけを見に来る人もいる。
僕と彼女は並んでこの電車を撮影したが、電車が鉄橋を渡るとき彼女は小さくつぶやいた。
「やっぱりここのシチュエーションではこの電車が似合うわね‥」

電車が去ってしまったあと、僕は彼女と並んで駅への道を歩いた。
これは自然の成り行きだ。
「電車もお好きなんですね」
「あの電車は、私の父が好きだった電車なんです。うちはあの電車の沿線で・・」
「そうなんですね・・とても普通の鉄子さんよりはお詳しいのでびっくりしました」
「そうかなぁ・・たぶん、父の教育ゆえですね・・」
そう言って彼女は明るく笑う。

いくら山の中でもさすがに真夏、駅までの1キロほどを歩くだけで僕は大汗を掻く。
けれど、並んで歩いている彼女は涼しげで、気持ちよさそうに山々の風景を楽しんでいるようだ。
「暑くないですか?」
「わたしは暑さには強いので‥」
淡々と彼女は山々を眺めながら答える。
駅に着くと、先ほどのSL列車が機関車の位置を前後に換え終わって列車が組成されていた。

ホームを歩きながら、彼女と僕のチケットに指定された号車・席番が異なることで、ちょうど通りがかりの車掌に尋ねてみた。
「いいですよ、座席はワンボックスごとに発売していますからお連れさんがなければお一人でワンボックスになっています。ですので、お二人でそのボックスに座られても全然、大丈夫ですよ」
愛想よく、車掌が答えてくれた。
僕と彼女はどちらのチケットの座席でもいいわけだ。

一両の古めかしい茶色の客車の中で、向かい合って僕らは座った。
彼女は嬉しそうに客車のあちらこちらの方向を眺め、ごついカメラのレンズを向ける。
「懐かしいなぁ‥オハ35(サンゴ)のこの雰囲気・・」
彼女の言葉に、僕はちょっと気になり、軽い気持ちで訊いた。
「オハ35が実際に営業列車として走っていた時代をご存じなんですか?」
彼女は天井のたぶん、照明器具にカメラを向けながら「昭和50年頃までかなぁ‥オハ35はその頃では割と多かった客車で‥」と呟く。
「え・・」
「よく乗りましたよ・・山陰本線とか・・・」
そのあとにさらに呟く。
「最初はシゴナナ、それがディーゼルになったときは悲しかったですね」
彼女は天井の次は窓周りにカメラを向け、ちょっ悪戯っぽく笑った。

僕は目の前の若い女性が、何かとんでもない怪物なのではと・・思い始めていた。

「女性にこういうことをお伺いするのは失礼ですけど・・お歳はおいくつ・・?」
一瞬、彼女の動きが止まった。
そして僕を見つめた。

しばしの沈黙の後、彼女はため息をついた。
「わたし、何か変なこと言いませんでしたか‥」
「いや、この客車が山陰本線で走っていた時代をご存じとか仰るものですから・・」
「ああ・・また・・」
「?」
「わたしは平成の生まれです。知っているはずないですよね」
「それはそうでしょうが・・失礼なこと、お伺いしました」
「ときどき、わたしの中の別の人格がでてしまう・・」
「別の人格ですか?」
「その人格のおかげか、どこで知ったかも記憶にない知識が飛び出してしまうんです」

車内放送があり、汽笛が鳴る。
ほかの乗客たちが嬉しそうにざわめく。

「さっきの・・いや、最初にお会いした時の蒸機という言葉や、シゴロクとかオハサンゴ・・」
僕が確かめるように彼女に聞いた途端、彼女はまた大きなため息をついた。

列車は先ほど僕たちがいた鉄橋を渡り、カーブの多い山間の路線をゆっくり進む。
「もうね・・わたしにはどの知識が私自身が得た知識で、どの知識が別の人格からもたらされたものなのか・・見当もつかなくなっているんです」
夏の大河の河原を見ながら、彼女は屈託のない表情になる。
開け放した窓から、さすがに都会では味わえない涼しい空気が流れ込んでくる。

「もしかしたら、その別の人格というのは‥お父様ですか?」
窓框に肘を置き、汽車の旅を楽しむ雰囲気そのままに、彼女は小さく頷いた。

「汽車が好きな人でね・・家族なんてほったらかし・・」
「でも、あなたも案外、鉄道がお好きだったのでは」
「そう、うちには弟もあるけど、なぜだか私だけが父の影響を受けて鉄道好きになったの」
「で・・今でも?」
「汽車が好き」

フフッと彼女は含み笑いをした。
「ビール、さっき買っておいたの」
手に持った買い物袋から取り出した缶ビールを二本、窓下のテーブルにおいてくれた。
先ほどの始発駅で、そういえばちょっと彼女と僕が離れた一瞬があった‥あの時に買ったものだろうか。
「どうぞ」
二人して缶ビールのプルタブを開け、缶を合わせて乾杯する。
「父は、わたしが二十歳の時に、撮影旅行に行く準備をしていて倒れてそのまま亡くなったのです」
「それは悔しかったでしょうね」
「どうかな・・いつも旅行に出かけるその前が一番楽しいって言ってましたから・・」
「あ、それは僕もわかります。時刻表を見たり、カメラを用意したりしているときってすごく楽しい」
「でしょう・・だから、案外、一番楽しい時に楽しいまま逝ったのではないかなぁ‥」
「でも、やっぱりその先の撮影ポイントにはいきたかったはずですよ」
うんうんと頷く彼女。
袋から新しい缶ビールを手に、「もう一本、飲みます?」と僕に聞いてくれた。


「父は列車に乗ってお酒を飲むのが好きでね・・時々、わたしを撮影旅行に連れて行ってくれて、その時によく呑んでいた・・」
「楽しそうですね」
「でも、母は、ひとっつも家族旅行に行かせてくれない父に腹を立てていたわね‥わたしだけ、鉄道好きの気持ちがわかるから、父によく連れて行ってもらったけど」

黒いワンピースの彼女は屈託なく窓の外を見る。
白い肌にセミロングの髪、軟らかそうに盛り上がる胸の膨らみ。
その風貌に似合わない巨大なニコンのデジタル一眼レフが膝の上にあり、窓框に肘を乗せたその手には缶ビール。
不思議な組み合わせの向かいの席の彼女に、僕は得難い出会いをしたかのような気持ちになる。

トンネルに入る。
冷気が飛び込んでくる。
来るときは冷房付きの電車だったから、このトンネルの冷気は初めて気が付いた。
「トンネル、涼しいね‥」
僕が思わずそういうと、彼女は「昔と違って石炭がいいから、トンネルでも窓を閉めずによくなったの」という。
「それはお父さんの知識?」
「いいえ、来るときに車掌さんから聞きました」
彼女はそう言って笑った。
白熱灯照明に照らされた白い顔が美しい。

長いトンネルだ。
「きみ・・」
彼女が僕のほうを向く。
「君は独りものかい?」
姿勢を正して、彼女の口から男性のような言葉が出る。
「はい」
僕は一瞬で撃ち止められた鳥のように素直に小さくなる。
「相手はあるのかい」
「いいえ、鉄道と結婚すると周りも自分も思っていました」
「そうか、では娘を頼むよ、君とならうまくやっていけそうだ」
「はい」
思わず僕がそう答えると、彼女はクスリと笑う。
「今の言葉はわたしの父ですか?」
列車がトンネルを抜け、セミの鳴き声が列車を囲む。
「さぁ、それは僕にはわからないけど、どっちでもいい」
僕の答えに彼女は缶ビールを一気に飲んで、そして嬉しそうな笑顔をくれた。

機関車が汽笛を鳴らす。

可部線太田川橋梁

可部線105系3ドア白イメージ


空は青く、五月の風が囁く
鶯が鳴き、雲雀が囀る
川の流れる音、遠くで気動車の走る音
ややあって、すぐ近くの鉄橋を走る電車の音がする

電車が遠くへ去り
また川音と鳥の囀りだけの静寂
小さな風の音のようなものが聞こえる
すうぅ、すうぅ、すうぅ

河原で僕の隣で横になっているあなたの寝息だ

すうぅ、すうぅ、すうぅ
疲れているのだろうな

「どっか、静かなところで横になりたいんよ」
あなたのリクエストに応じて
僕が広島駅からわざわざあなたを連れてきたのが
この場所だ

可部線の電車が鉄橋で川を渡るこの場所
鉄道ファンである僕が何度も通って
古めかしい電車をカメラで追ったこの場所だ

電車は新しくなり、鉄道ファンの姿が消えたこの河原で
僕は今、あなたと体を横たえて午後のひと時を過ごしている

深夜勤だったと言った
それが明け方のお産で病院を出るのが遅くなり
寝る暇なく待ち合わせの広島駅に現れたあなたの目は
赤く充血していた

「映画でも行こうか」
「だめ、寝てまうわ」
「散歩・・」
「歩けんほどえらいんじゃ」
「じゃ、どうする・・」
「静かな気持ちのええとこで寝る・・」
「寝る・・」
「どっか、静かなところで横になりたいんよ」
それならばと可部線の電車に乗り、ここにやってきたというわけだ

どれほど経ったろうか
可部線電車が鉄橋を渡る音で気がついた
僕も寝入ってしまっていたようだ

あなたを見るとまだ夢の中にいるようで
無防備な寝顔が可愛い

あなたの顔に僕は自分の顔を近づける
白い肌、整った目鼻、細い髪
薄い唇は清楚で
上唇には細い傷跡のようなものがある

もっとあなたの顔に近づこう・・
「キスしたらあかんよ」
いきなり出た言葉に僕は驚くが
あなたは目を開けているとは思えず
だが、口元が笑っている

またそのまま静寂の時間
遠くの芸備線気動車列車の音が
二つの大河が合わさる山の中にこだまする

それでも、目が覚めてしまった僕は
あなたの方に体をむけ
寝ているであろうあなたを見ている
小さな胸の丘が白いブラウスに包まれ
ひとつ余分にはずしたボタンが白い肌を見せ付ける
短いスカートから無防備に伸びた白い足が寛ぐ

「きれいだ」
思わずつぶやく
またいきなりあなたの唇が動く
「襲わんといてね」
フフっと笑ったあなたは、ゆっくりと体を起こす
「ほんまにのう、男っちゅうもんは・・」
あなたは笑いながら僕のほうを見る
「いや、そんなつもりやない・・」
「うそ、今でもウチがじっとしとったら、いきなり乗っかってきたでしょ」
「いやいや・・」
「ま・・ええわ・・」
そういってあなたは立ち上がり、スカートの尻を払う
鉄橋を四角い電車が1両で渡っていく
「ええとこ、知っとるんやね・・おかげでよう寝れたわ」
あなたの目の充血は取れ、いつもの茶色い瞳が戻ってきた

雲雀が囀る
鶯が鳴く
遠くで芸備線気動車列車のエンジンとレールジョイントの音
川の流れの水音

阪堺電車

阪堺線162


あの日の大阪の方の空は真っ赤やってんよ。
奈良の親戚のところへ疎開させられていたから
私は空襲を知らへんの

でも、疎開先でいじめられてん
かばってくれた叔父さんが頼もしかったわ

車椅子に乗り、若い女性介護士に押してもらいながら
婦人は何度も喋ってきたことをまた繰り返す
横断歩道の途中には阪堺電車の、石畳の敷かれた線路があり
介護士には車椅子が押しにくい
遠くに電車が見えるが、路面電車ゆえ、まだ当分はここまではやってこない
ガタガタと揺れる車椅子、線路のところで詰まるようになりながら
それでも介護士は「えいっ!」と車椅子を強く押す

グイッと前のめりになりながら
介護士・被介護者の婦人はそこを乗り越える
「いつものことやけど、ここ、通りにくいですね」
苦笑しながら介護士が婦人に話しかける
「阪堺電車の線路ですもんね」
「仕方ないやんね、あなたにはしんどいやろうけど」
そういいながら線路のある道路を渡り終えたとき
ふっと思い出したように婦人が喋る

「子供の頃はこの電車で浜寺や大浜へ泳ぎに行ったもんやわ」
「そうなんですね、こんな都会にも砂浜があったんですね」
ここまではいつもの会話だ。

その時、深緑色の古い電車が近づいてきた
やってきた電車を見て、婦人が、いつも言わないことを言う
「まあ、懐かしい電車・・」
「あら、本当、えらい古臭い電車ですね、鉄道ファン向けに走らせてるのかしら」
「電車ばかり追っかけてる人たちって、おるよね、なにがおもろいんやろ」
婦人がそういって笑う
二人の真横を古い電車は「うおーん」とモーターの音を唸らせてゆっくり通過する

「この電車って、吉野さんが子供のころから走っているのと同じなんでしょうかね」
「そうねぇ、たぶん、見た感じはあの頃のまんまの電車だわね」
「そうしたらこの電車も八十歳くらいなのかしら」
「ほんまやね、長生きの電車よね」
いつもと違う会話になった、介護士は珍しいことだと思う

狭い商店街を車椅子を押す介護士と、その車椅子に乗る被介護者の二人が行く
「吉野さん、お久しぶり、今日はええお天気で良かったな」
八百屋の兄さんが語りかけてきた
「そやねん、このところお天気が続かへんで、お買い物もできひんかったしね」
「そやな、雨が多かったな・・ほんで今日はなんにしよか」
「う~ん、一人やからたくさん食べられへんしなぁ」
「いやいや、大根半分でも、三分の一でも、四分の一でもええで」
「きゅうり一本とかでも」
「きゅうり、一本言わんと半分でも売らせてもらいまっせ」
「ほな、半分は悪いからきゅうり一本と、トマト一個、キャベツ半分の半分・・」
「はいよ!それまとめて袋に入れてセットにしとくさかい」
「ああ、おおきにな、いつも助かります」

八百屋の兄さんと婦人が会話して、介護士が預かっている財布から小銭を取り出す
「まいどおおきに!」
明るい声に送られて二人はまた歩き出す

車椅子を挟んだ二人は、もと来た方向へ向きを変えてまた線路のほうへ向かう
「あんなこま切れの買い物、あのお店でしか、させててくれへんからな」
婦人が介護士に言うでもなく呟く
「ほんとうですね」と介護士も軽く返す
けれど介護士の彼女は
「スーパーやったらきちんと小分けでパックしてくれてるのに」といつも思っている
この婦人、吉野さんは、マンション近くのスーパーはお気に入りではないらしい
それが故、気分のいい日には線路を横切らねばならない八百屋まで行きたがるのだ

線路のある道路に出ると電車がすぐ近くに見えた
停留所に停車して客を降ろしている
さっきのと同じように古い電車だが今度は車体が茶色だ
「あら、また古い電車、今日は珍しいですね」
介護士が婦人に向けて驚いたような声を出す
「ほんとうやね、古い電車、たくさん残しているのかしら」
電車から降りてきた女が二人の前を歩いていく
きつい化粧に派手な赤系統のビロウド地らしいワンピース
黒いベルトには金の飾りが見え、肩から如何にもブランド物というバックを下げている
その女は肩で風を切るという表現そのままに威勢よく去っていく

その女を見た婦人がふっと呟く
「あの子、今からお仕事なんやね」
「そうみたいですね、スナックのお姐さんかな」
「いや、あの雰囲気はスナックというより、なにかこう、お色気のほうやね」
そう口に出した夫人は急に泣き顔を介護士に向けた
「吉野さん、どうされたの?」
「うううん、別に、わたしもあんな風に一生懸命だったなって」
「そうなんですか?」
「うん、あなたたち若い世代の人は軽蔑するかもしれないけど」
「いえいえ、いろいろご苦労なさっておられるんですから」
介護士の彼女は「いつもと違う展開になってきた」と思っている
反対方向へ行く阪堺電車が通り過ぎる
パンダの絵柄が車体にプリントされている電車だ

********

もう、どうにもならなくなった
今夜のお米はある、けれど明日の分はない
亭主はけっしてズボラな人間ではないが、運が悪いというのか
うまく金を稼ぎ出すことができない
よしんば、夫に明日、仕事があったにしても
その稼ぎが手元に入るまでには自分たちは干からびてしまう
「ね、もうお金があらへんの、どないするのん」
「いわれても、わしも必死やねんけど、こんだけ雨が続くし、景気が悪いし」
「じゃ、わたしがもう一つ仕事するわ」
「いや、お前、工場の仕事しながらできる仕事て」
「夜の仕事に行くわ、日銭でくれるとこもあるかもしれへん」
「いや、それはやめてくれ、夜の仕事言うたらお前・・」

出来る限りのおめかしをし、夫の制止を振り切ってアパートを出た
といっても、着るものもほとんどは質入れしてしまっていて、ろくなものがない
せめて化粧だけでもと、自分でも「お化けやな」と思うほどにした。

まだ日が長い夏の夕暮れ、阪堺電車が「うおーん」と唸ってやってきたあの景色を
わたしは今も忘れることができない
蛾や甲虫が飛びかう電車の車内
その窓に、渡ってはいけない危ない橋を渡ろうとする自分の顔が映し出される
怖い顔だと思った

車内のほかの乗客すべてが幸せに見え、その幸せを恨みたい気持ちになった
十分ほどで、そこだけが高架の、
線路の下からホルモン焼の匂いが漂う停留所に降り立った

意を決して道を歩くも
知る人に出会うことなど稀な街なのに、人目を隠すかのように歩いたあの夜
案内所のようなところでいきなり「わたし、働きたいんです!」と叫んだ自分

そして、そのまま連れていかれた菓子商のような間口の店で
教えられた吐き気がするような客への仕事を
ほんの数十分後にはやってのけた自分があった

もちろん、家では夫が怒った
「生きるためにウチが必死でやっとンや、あんたに文句を言われる筋合いはないわ」
そう言い返されると、何も言えずうなだれる夫
けれど、あの夜の
初めて赤の他人に身体を任せたときの
なんとも言えない嫌な感覚は今も身についていて時々自分を襲う

それから三年、嫌な仕事を続けた
相手にした男は千人にも上っただろうか

だが、そのおかげで、さすがに少しカネが溜まり、小さな喫茶店を出した
その店も何十年かやって、身体が言うことを利かなくなってから閉めた
夫は店ではよいマスターでいてくれたが、夫との夫婦関係は一切なくなった
妻としての自分を許してはくれていなかったのだろう

そしてその夫も、店を閉める少し前に他界した
夫は多分最後まで自分を許していなかったろうし
あのとき、不甲斐なかった夫自身を攻め続けていたのだろう

******

阪堺電車が行く。
連接車と言われる、スマートで大きな電車だ
静かに滑るように去っていく
「あんたは、わたしみたいな無茶をしたらあかんで」
そう言いながら夫人は涙を拭う
車椅子を止めたまま話を聞いていた介護士は
ただ、空を見つめ涙をこらえていた

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家出

雪の客車

雪は夜になる前に上がり、月明かりが煌々と辺りを照らす。
ここ数日で降り積もった雪が月に照らされた明るい夜だ。
好夫は「しまった」と唇を噛む。
これでは自分たちの行動が月と雪に照らされて丸見えではないか。
誰もが年末年始の多忙を過ぎた今だからこそ、ひっそりと実行できる計画だったはずだ。
それにこの月夜、そして大雪だ。
元より、さほど雪の降る地域ではないがこの年はことさらに雪が降った。
雪だけならさほど問題はない、だが、雪のあとの月夜となると、街灯の乏しい田舎とはいえ自分たちの姿を見られることのリスクを思わずにはいられない。

揖斐へ向かう近鉄電車の四つ目が彼女、悦子の家の最寄り駅だ。
そこはちょっとした町の中心的な駅でもある。

古い電車はモーターの唸りを上げて雪原を走る。
好夫は思わずため息をつく。
「中止したい」
そう思うが、もはや悦子に連絡を取る手段はなく、彼女はもう、好夫がカーテン生地で作った縄を部屋の柱に結びつけているころだろう。
こういう時、なぜに女は強いのかと思うが、それもため息のもとでもある。

好夫の心配をよそに、電車は気持ちの良いモーターの音を立てる。
窓の外は月に照らされた雪が広がるばかりだ。
あの町の神社の陰に、すでに悦子は向かっているだろうか。

今夜決行することは決めていた。
所謂、駆け落ち、家出である。
北風が吹きすさぶ真冬の夜ならば、たとえ家を出たことが家人に分かっても追っては来れないだろうという浅はかな考えからだった。
だが、自分の浅はかさを天に笑われたかのようなこの明るい夜はどうだ・・

そして好夫にはもう一つの不安があった。
それは今夜これから二人で落ちていくその行先を未だ決められずにいたことだった。
夜汽車に乗って遠くへ・・・
そう直感して決めたものの、その遠くがどこなのか、東京なのか、大阪なのかはたまた九州なのか・・

だが、手元に持ち合わせもあまりない。
まさか一銭の金も持たずに二人で過ごせるはずがないことは十分わかっているつもりだ。
それゆえできるだけ、鉄道の運賃にはお金をかけたくないという思いもあった。
けれどまた、近く・・例えば名古屋あたりだとすぐに親戚に見つけられてしまうだろう。
鉄道の運賃に使えるのは片道500~600円と言ところだろうか。
その当時、これだけあれば大垣から関西には行くことができた。
それゆえ、好夫の頭の中にはぼんやりと「関西」という方向性が浮かんでいた。

夜の広神戸(ひろごうど)駅で電車を降りる。
駅員にも顔をあまり見られたくない。

外套で顔を隠すように改札を抜ける。
夜の雪道を歩く・・・・降ったまま凍った雪が靴の裏で音を立てる。

夜の町は雪と月に照らされ、夜とは思えぬほどに明るく、美しい。
「わしは・・たわけじゃが」
凍てつく街を歩きながら独り言が出る。

******

その頃、町はずれの農家二階では悦子が、支度に余念がない。
「なんも持つな、からだ一つでええて」
そう好夫に言われたものの、女としてはせめて必要なものをバックに詰めるくらいのことはしなくてならなない。
息を殺し、階下の両親や兄に悟られないように、支度をする。
そのとき、いきなり襖が開いた。
母だった。
「なん、しよんね」
悦子は声が出ない。
バックを背中に回し、身体は母のほうに向かうが母の顔を見ることができない。
「あんたなぁ、ええ具合に先のこと、考えとんかい?」
声が出ない。
「どないするんや、生活していったら相手のおぞいとこも見えるでな」
嫌だ、どうあっても今夜、ここを出るのだ。
彼と二人で・・・

「まぁ、ええわい」
母はため息をつきながら、悦子の手に封筒を持たせた。
「え・・・」
「これだけしか、うちにはできん・・堪忍やで」
分厚い封筒にはいくらの紙幣が入っているのか見当もつかない。
「お母さん・・」
「ようけはない、お前の嫁入り用にと貯めよったんじゃ・・まだ、ちいとやでの」
「うち、そんなんしてもろうたら・・・・・」
「ただし、お父さんの立場もある、玄関から出てくんは・・あかん・・」
母はそういうと立ち上がり、襖を閉めて階下へ降りていく。
悦子は声を上げて泣いた。

******

好夫が神社の境内に着いても、悦子の姿がない。
しばしそこで待ったが、何かあったかもしれないと思うと居ても立っても居られない。
神社からほど近い悦子の家の前までくると、二階の悦子の部屋にだけ明かりがついていた。
何やら動くものがある。

まさか、声を上げるわけにもいかず、傍の木の枝を叩いてみた。
雪が好夫の頭の上に落ちてくる。
悦子は部屋の柱にシーツで作った縄を結んでいるところだったが、好夫の姿に気が付いたようだ。
小柄な彼女が一生懸命にシーツを結び、それに伝って降りようとする。
元より、好夫が考えたこととはいえ、危険極まりない。

さきにバックを放り投げてきた。
雪の上にバックが落ちる。
好夫は慌ててそれを拾い、自分の立っている木の根元に置く。
続いて間髪を入れず、悦子が縄にぶら下がる。

危なげな格好で、シーツの縄にぶら下がった悦子は、一瞬、うまくそのまま地面まで滑り降りるかと思ったが、すぐにシーツが切れた。
彼女は2メートルほど落下した。
ドサッ!
雪の上に尻から落ちた。
「大丈夫かや!」
思わず声が出てしまう。
「雪が積もっとってよかったがな・・」
悦子はそういい、好夫を見て、そして笑った。
「お尻が・・くろにえとるかな?」
「雪やからの、大丈夫やろ」

好夫がそう答え、悦子がまた笑う。
二人は雪を払い、駅へ向かう。
早くしないと最終の大垣行きに乗り遅れてしまう。

辛うじて最終の大垣行きに乗れた。
本日最後の切符を売った後は何も知らんとでも言いたそうな駅員から切符を買い、やがてやってきた古臭い電車に乗り込むが他に乗客はいない。
好夫から見た悦子は能天気に構えているように見える。
だがそれは悦子から見た好夫も同じでやはり能天気に構えているように見える。
さして速度を出さない田舎の電車は、雪明りのだけが光る夜の田園を走る。

大垣駅に着いたのは深夜11時過ぎ、古風な電車から降りて国鉄と共用の改札口へ向かう。
「ねえ」
悦子が好夫に問いかける。
「結局、何処まで行くの?」
「ああ・・うん・・」
「もしかして、決めとらんの?」
「いや、そんなことはないんや」
「ね・・何処に行くの?」
「ああ・・神戸や・・ごうど、と同じ字を書くのも縁やろ」
「きちんと決めてるんやね」
「ああ・・」
結局、今日の実行までに行先を決めることはできなかった。
だが、それでも何としても今日でないと悦子を掴むことはできない。
彼なりに必死だったが、悦子にそれがバレないようにしなければならない。

だがここに至って彼の心境は「この先、どうしよう」でしかなかった。

「神戸(こうべ)まで二枚」
出札口で好夫は切符を求める。
千円札では二枚は買えない。
なけなしの金が減っていく。

寒い待合室で二人が肩を寄せ合って待つ。
誰か知った人が来てももう止められないとは思うが、それでも好夫は周囲を気にする。
「0時28分発、門司行き、改札です」
駅員がそっけなくそう伝え、彼らを含め数人が立ち上がる。
ホームに出るとまた雪が降っている。
遠くからヘッドライトの明かりが見え、やがて、汽笛が聞こえる。
「ねえ・・」
悦子が好夫にしなだれかかる。
「もう一回、本当のことを言って・・・」
「本当のこと?今から神戸に行くことか」
「違う、私のことを本当に好きなの?」

だが、悦子の言葉はたくさんの貨車を牽いてやってきた黒っぽい機関車の汽笛で消される。
けたたましい警笛が二人を包む。
そしてそのあとの無数ともいえるたくさんの二軸貨車のレールジョイントだ。

「ねえ、私のこと、好いとるの?」
悦子が大声で好夫に聞く。
「あ・・・ああ・・」
「ねえ、わたし・・こんなに・・」
「なんだ・・・」
貨物列車が通り過ぎた。
遠くにジョイント音が去るが、まだ余韻が残る。
「私のこと、好いとるの?」
「ああ・・もちろんや」
「本当に?」
夜のホーム、足元は雪だ。
遠くにヘッドライトが見える。
「ねえ・・」
「なんだ」
「好きと言って・・」
機関車の警笛が響く。
今度の警笛は心なしか優しく聞こえる。
「汽笛に負けんように言って」
「ああ・・」
「好きと言って」
「ああ・・」
警笛がまた響く。
強いヘッドライトの光の中で二人は抱きしめあう。
「好きだ」
「聞こえん」
「好きだ!!」
機関車に率いられた茶色の客車が彼らの横を減速しながら通過していく。
ガシャ!ガシャ!
列車は金属音を立てて停車する。

客車の扉を押し開け、二人は客室に入る。
思い思の格好で座席を使って寝入っている乗客たちばかりで、彼ら二人の空席が見つからない。
気配を感じたらしい一人の壮年が彼らに声をかけた。
「おお、二人連れかいな・・ワシの前が空いとるわ」
壮年は独りで向かい合わせの座席を占めていた。
「あ・・すみません・・」
「いやいや、こちらこそ寝入ってしもうとったわ」
「ありがとうございます」
悦子が頭を下げる。
壮年は二人の顔をじっと見つめる。
機関車の警笛が鳴り、列車はガクンと振動を伴って発車する。
「どこまで行かれるのかな?」
壮年は二人に聞く。
「神戸まで」
悦子が答える。
だが、好夫には神戸はあてずっぽうでしかない。
「ま、その近くまでです」
「近くとな…」
壮年はそういったきり考え込んでしまった。
そしてやがて好夫を睨むように問いただす。
「行く当てはあるんかいな?」
好夫は顔を真っ赤にして何も言えなくなった。
「はぁ・・その、繊維の仕事で・・・」
「ほう、あんたは糸偏の仕事をしておるんかいな、その当てが神戸にあるんやな」
「いえ・・」
その好夫の言葉に驚いたのは悦子だ。
「あんた、当てもなくこの列車に乗ったの??」
「いや、そんなことはないんや」
悦子はうつむいてしまい、涙を流しているようだ。
列車は大垣駅の複雑な構内配線を抜け、やがて東海道線本来の速度へ加速していく。

「ほう、仕事が決まらへんのに、神戸へ行くんか」
「いえ、僕には繊維の仕事では自信がありますから」
「ほう・・そやけど、まだ何も決まってないんやろ」

壮年がそういうと好夫は肩を落とした。
壮年が続ける。
「ワシは名古屋へ織機を見にいっとったんや」
「織機・・ということは紡績の会社ですか?」
好夫が顔を上げる。
悦子はうつむいたままだ。
「そうや、神戸の先、兵庫県の高砂市で繊維会社をやっとる・・」
窓の外には燈色のさして明るくない車内の風景が反射するだけ。
時折、機関車の警笛が鳴る。
この辺りはつい先だって、電化されて蒸気機関車から電気機関車になったばかりだ。
ガクン、軽いショックで列車は関が原への上りにさしかかる。

レールジョイントが規則正しく車内に広がる。
乗客たちの息や酒、煙草や水虫の匂いが、蒸気暖房の湯気に煽られてかえって際立つかのように広がる夜汽車の車内だ。
向かい合わせの座席に二組の窓、天井の真ん中の燈色の照明。

窓の外では雪が横に走る。
「なぁ、君、もし、まだ行先が決まってないんやったら・・うちへ来んか」
唐突に壮年が好夫に問いかける。
「あなたの会社ですか・・・」
「この列車は朝には神戸を通って西へ行く・・明石を通って加古川という大きな駅がある」
「加古川・・」
当時の繊維産業では加古川には日本毛織の大きな工場が二つもあり、よく知られた町だった。
「ああ、その駅の次の駅が宝殿っちゅう駅や、わしはそこでタオルを織る会社をやっとんや」
「ほうでん・・」
「宝、それから殿様の殿、それで宝殿、縁起の良い駅名やろうが」
壮年はそこで笑った。
「あ・・他のお客が寝とるわい・・小さな声でな」
そういうと今度は悦子が俯いたままクスクス笑う。
「でもまだ、あなたには会ったばかりですし」
「何を言う、これこそ縁っちゅうもんやないか・・」
カーブは続く線路を客車の車体を軋ませながら列車は走る。

「ほんまに、ここで会ったばかりの僕でよろしいんですか?」
「ああ、今はタオルはいくら作っても売れる・・一人でも優秀な作業者がほしい・・」
「実は、僕はまだ行先を何も決めていませんでした」
「やっぱりそうか、ただ、さっき行先を神戸とはっきり言っていたと思うが」
「彼女の家が大垣近くの神戸(ごうど)で、同じ漢字やし」
「それだけのことかいな・・彼女はそれを知ってついてきたんか?」
悦子が顔を上げた。
「いえ、騙されました」
そう言って笑った。
まだ目に涙のあとがある。
「神戸に当てがあるものと思っていました」
「それはひどい・・」壮年が好夫を睨み付ける。
「ワシは、竹中繊維の竹中政造や」
そういいながら名刺を上着の内ポケットから出して好夫と悦子に渡す。
「私にまでお名刺を・・」
「あんたの惚れたこの男は、とんでもないええ加減な人間や・・何かあったら即ワシに言うてな」
そして好夫のほうを向き、「人生、女を連れてまでええ加減なことはしたらアカン、あんたはワシのところですぐに働くんや」

列車が減速をする。
雪で滑るのか、連結器の衝撃が大きい。

山間の小さな駅に停車した。
関ケ原と、駅名が粗末な照明に照らされている。

数人の乗客がおりていった。
「あんたの名前を教えてもらわんとな」
「はい、窪木好夫、こちらは妻になる予定の悦子です」
「そしたら、わしのところで明日から、いやもう、日付が変わったな・・今日からや・・働く、それでええか・・」
「はい、お願いします」
「住宅は事務所の横の部屋が空いとるさかい、そこを使うてくれ」
「なにからなにまで・・」
機関車の警笛が鳴る。
ガクンと衝撃が響き、列車は加速する。
客車の二枚並んだ窓の向こうに雪原が広がる。

「ちょっと社長さん、彼女とデッキで話をしてきます」
好夫は竹中に頭を下げる。
「ああ・・二人ゆっくり話しときや・・話が済んだらこの席に戻っといで」
「はい」

客室の、寝入っている乗客の間をすり抜け、デッキに出た二人は客室よりもっと粗末な照明の下で向き合った。
「たわけ・・」
そう切り出したのは悦子だった。
「すまん」
「あんたを信じてついてきたのに、なんも行先も決めとらんって、信じられんわ」
「すまん・・一応、僕には仕事の自信もあったし」
「そやけど、そしたら神戸に着いたらどうするつもりやったん」
「いや、それは取りあえず・・」
「とりあえず、二人でぶらぶらするお金なんかある?」
「いや、ない・・・」
「もし、あの社長さんに出会えんかったら、えりゃあことになりよったんや」
雪の降りしきる外界と遮るたった一枚のうすい木の扉の隙間から冷気が飛び込んでくる。
「たわけ・・」
そういったきり、悦子は好夫の懐に飛び込んできた。
「あんたはたわけや」
「すまん・・・」

列車は未明の雪原を西へひた走る。
二人にとってお互いの身体の暖かさ、何が何だかわからぬが、それさえあれば生きていけると二人が身体で感じていた。
門司行き普通、111列車は走る。

「宝殿は7時25分ということや、それまでせいぜい寝とかんとな」
列車の揺れによろめきながら通路を歩き、座席に帰った二人を竹中は笑顔で迎えてくれた。

(昭和30年代初期、この111列車は前日の14時30分に東京を出て、東海道線を各駅に停車しながら、大垣に0時26分着28分発、岐阜と米原の間は大垣と関が原だけに停車するが、米原からまた各駅停車となり、神戸6時15分、加古川7時18分、そして門司には22時01分着という今では考えられないのんびりした列車だった。
もっとも、京都・明石間の関西の国電区間では、大阪、三宮、神戸、須磨だけに停車していた。京都・神戸間1時間55分、大阪・姫路間2時間ちょうど、今の新快速はおよそ、その区間をそれぞれ半分程度の所要時間で結んでいる。)



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