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kou1960

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別府のべんとばこ

14別府鉄道キハ2別府口入構


山陽電車別府(べふ)駅の築堤下に見える、少し離れた二つの線路
それが「別府鉄道」という現役の鉄道路線であると、気が付いたのは引っ越しも済んで数週間が経つ頃だった。
というのは、僕はテレビニュースなどで地方の私鉄がどんどん廃止になっていく様子を見ていてそれが記憶に残っていたものだから、この路線もそういった廃線跡なのだろうと勝手に想像してしまっていたわけだ。

ある時、神戸へ行く母に同行していて、山陽電車のホームの下を緑とクリームに塗られた可愛い単行列車が走っているのを見た。

その山陽電車の別府駅ホームというのは不思議なところで、神戸と姫路を結ぶ私鉄である山陽電鉄と、その並びに当時、岡山まで開通していた山陽新幹線、そして山陽電車を潜っていたのが、昭和48年当時とて時の流れから置いてけぼりにされたようなクラシックなローカル私鉄という、今思えば鉄道ファンには堪らない場所だったのだ。

その時に見た小さな気動車は、これまたテレビか学校の掲示板に貼られていたニュース写真で見たことのある「マッチ箱電車」をイメージさせてくれた。
だが、どう見てもマッチ箱というより少し大きそうだ。

翌日、転校したばかりの中学校で仲良くなっていた隣席の「さつき」さんに小さな列車のことを訊いてみた。
「あんた、別府鉄(べふてつ)も知らんの??小学校の時、遠足で乗ったわよ」
あっけらかんとそう教えてくれた、肩までのきれいな黒髪のさつきさんに見とれ、それでも僕はこう聞いたものだ。
「マッチ箱電車って感じやんな」
すると、さつきさんはニコッと笑顔を大きくして楽しそうに言う。
「あれ、マッチ箱言うにはちょっと大きいやろ、わたしら、別府の弁当箱(べんとばこ)ゆうてるねんよ」
「へえ・・べんとばこ、うまい事言うなぁ」
「別府のガッタンとか、ケーベンっていう人もあるわ」

その時はそれで別府鉄に関しての会話は終わったけれど、この鉄道にぜひとも乗りたくなるのは鉄道ファンの卵として当然だった。

かつて海辺だったころは見事な白砂青松の景勝の地だったろうと思われる別府の、松林の中にある古臭い社宅では、母はいつも誰かとしゃべっていて、弟妹達も線路際で電車を眺める僕の趣味は理解できない。
ある日、日曜だったと思うが、まだ田畑が広がり、畦脇にはにはきれいな水が流れる別府の街を散歩していた。
田圃の向こうに新幹線と山陽電車が一緒に見られるのは嬉しく、引っ越す前に2年住んでいた大阪・泉大津では南海電車にも家からは遠かったし、4年住んだ天保山では地下鉄は高架の高いところを走っていたから、今ここで疾走する山陽電車の特急を眺め、その上に覆いかぶさるように、走るというよりも飛んでいるかのような新幹線の丸い電車を眺めるのは、楽しいことだった。

そのとき、田圃でなにやら探していたらしい女の子が僕の方を見た。
さつきさんだった。

「井野田くん、どこ行くん??」
甘い声で人懐っこく近寄ってくる。
この人懐っこさというのは、僕が泉大津にいた頃の僕の周囲ではなかなか感じられなく、天保山にいた頃には、僕はその真っただ中にあったように思う感触だ。
加古川の人は人懐っこく、屈託がない・・
そして、それがまたクラス一番の美少女と来ているから、これまた僕には嬉しいことだ。

「うん、することないから散歩・・さつきさんは、何を見てるの??」
「レンゲ摘んでるの、髪飾り!」
彼女はレンゲで作った輪を頭の上にのせて楽しそうに笑った。
その時、山陽電車の特急と新幹線の列車が並んで突っ走った。

僕は一瞬、我を忘れてそれを見ていたようだ。
「井野田君、電車がすきなんやね」
「あ・・うん」
僕の頬は少し紅くなっていたかもしれない。
「こないだ、別府鉄のこと、聞いてきたもんね」
「うん・・・」
頭にレンゲの花輪を載せてさつきさんは近づいてきた。
「ね、乗りたい??」
「なにに?」
「別府鉄よ、別府のべんとばこ、別府のガッタン」
美少女が自分に迫る。
こういう時の女の子というのは、どういして小悪魔的な雰囲気なんだろうと、僕はこれを書いている今でもそう思う。
「そりゃぁ」
「ね、100円持ってる??」
「それくらいあるけど・・」
「じゃ、乗りに行こうよ」
思い切り笑顔でそう誘ってくれる彼女にちょっと気おくれして後ずさりする僕。
「なんや、乗りたくないんや」
「いや、そんなことあらへん・・連れてってよ」
これは当時の僕としてはかなり勇気の必要な発言だった。
女の子と一緒に歩くなんて、天保山時代の小学校3~4年くらいのことだろうか。


楽しそうに花輪を頭に被せたまま、さつきさんは歩く。
僕は彼女の友達の話などを聞きながらついていく。
「とんび!」
彼女が指さした空に立派な鳶がゆったりと舞っている。

15分ほども歩いただろうか、大阪港を思い起こさせる倉庫や工場が集まっている一角の中ほどに小さな駅舎があった。
だが、そこが大阪とは違うのは、駅のすぐ近くに田圃があったことだ。
別府港駅と、簡単で分かりやすい看板が駅舎にかかる。

駅舎の中へ入っていって二人で時刻表を見上げる。
「土山行きと野口行き、二つあるんやね・・」
「うん、土山に行ったら帰れなくなるから野口行きや」
その野口行きはちょうど20分ほどで次の列車が出る時刻だ。
「野口まで大人二枚」
さつきさんは、「大人」にウェイトをかけてそう言う。
(僕たちはつい先月まで小学生だったのだ。)
小さな駅なのに、帽子に赤線が入っている駅員さんが苦笑しながら、鋏を入れた固い切符を出してくれた。
確か、80円くらいだったように思うが、僕は普段、私鉄しか使わなかったので関西ではこういう硬券は珍しく、自分で買ったのは初めてだった。

ホームに出ると目の前に停まっていたのは、先日、山陽電車のホームから見たあの可愛い緑とクリームの単行列車だった。
ガランガランとエンジンの鳴る音、まるで臨港線の機関車みたいだと思いながら、案外広い構内を見渡すと、確かに臨港線のような機関車やたくさんの貨車も見える。
時折、青い機関車が貨車を繋いだり外したりしながら行ったり来たりする。
「これこれ!」
僕らはまだ誰も乗っていない車両に乗り込み、油引きの匂いのする木の床を歩き、深緑のビニールレザーの座席に腰掛ける。
床は中央で盛り上がり、木材が器用に曲げられて微妙な曲線を描く。

別府鉄道野口線の単行気動車列車の発車時刻近くになると運転士が物憂げに乗り込んできて、後ろのドアからはネクタイを締めていない車掌が乗り込む。

いや、当時の僕には「気動車」などという言葉はなかったはずだ。
すべて都会生まれの僕には「電車」だった。


単行の古びた気動車列車は、やがてゆっくりと発車するが、当時のバスのようにクラッチを切り替える。
やがて速度が出た列車の、あけ放たれた窓から春の匂いも小さな昆虫も飛び込んでくる。
ガタガタと揺れて、ポイントを渡る。
「あははは」
さつきさんは、屈託なく、遠慮なく、座席に座りながら足をバタバタと上げ下げして、スカートをひらひらさせ、そしてその横の僕は心の底ではとても驚いていながらも、たぶん周りから見れば難しい顔をして、ビニールレザーのロングシートに座っていたのだろう。

今の加古川市別府町、野口町あたりを列車は走るのだが、今では考えられないほど外の景色は長閑で、明るい播磨の風情そのものだった。
エンジンの音を立てる割には大したスピードは出ず、激しく揺れて吊り輪が荷物棚にぶつかってカッチャカッチャという音が絶え間なくする。
別府鉄道野口キハ2進入


駅と駅の間隔は短くて、走りだしても1~2分で次の駅に着いてしまう繰り返しなのだが、始発の別府港からは僕らのほかには誰も乗らなかったのに、一駅ごとに乗客が増えていく。
10分ほど走る終点までにはお客は10人以上になっていた。

「着いたで」
さつきさんに促されて、ホームに降りる。
車掌に切符を渡そうとすると「加古川駅で」などという。

着いた駅はこれまた田圃の中の茫洋とした景色の中、でも線路の外側には巨大な市役所の建物が見える。
やがて、国鉄の気動車が2両連結でやってきた。

別府鉄に乗ってきたほかの乗客は皆、国鉄の気動車に乗り換える。
田圃の中の、茫洋とした乗換駅に二つの列車が停車し、その間を何人もの乗客が行きかい、そして片方の国鉄列車が発車していく不思議な景色を僕は驚愕の想いで見ていた。

さつきさんは、「ふ~ん」というような表情で列車を見送る。

「あれ、国鉄に乗らへんかったんか?」
別府鉄の車掌が怪訝な顔をして僕らに向かってくる。
「うん、歩いて帰るねん」
「ほう・・そうか、ほなら切符は返してもらうわな」
車掌はそういって切符を出せとばかりに掌を向ける。
「うん、おおけにな」
さつきさんは手慣れたようで、車掌の手のひらに切符を載せ、僕にもそれを促す。
僕は別府港の駅で買ったかっこいい固い切符を取られてしまうのが少し悲しい。

「気ぃつけて、いねよ」
車掌がそう言うのを「うん」と元気よく返事をしてさつきさんは僕の手を引いて改札も何もない駅から外の道路に出た。

「なぁ、ここから歩いて帰るん??」
僕は少し不安になって、さつきさんに訊いた。
「ここ、まっすぐ下りたら尾上やねん、ほな、そっからやったら、左に歩いたら浜の宮やろ、すぐやん」
彼女はいかにも大丈夫なように言う。
けれど僕には右も左も、下りるといっても坂道らしいものもない平坦な道の何処を下りるのか、不安なままで彼女の後をついていくしかない。
(下りるというのは南へ向かうこと、上るというのは北へ向かうことというのは後になって知った)

今思えば、旧野口駅から山陽電車の尾上の松駅までは1キロ半で、歩いても20分ほどだったのだろう。
だが、高砂線の廃線跡が道路として整備されている現在とは違い、ときに曲がりくねりながら、見知らぬ道を歩く20分はきつい。
最初は持っていたレンゲの花輪をかぶり元気にしていた彼女も、やがて無口になってきた。
僕もさすがに「この道でホンマに帰れるんか」と心配になったころ、山陽電車の踏切が見えた。
「ほら、ここ、尾上やん」
彼女はやっと明るくそういうが、それでもそこから学校のある浜の宮、さらにその先の別府町まで行かねばならない。

やがて、空が暗くなってきた。
学校近くの神社の松林が見えた頃には二人とも口もきかず、ただ黙々と歩く。
学校を通り過ぎ、小さなアパートの前で彼女はふっと振り向いた。
「うちとこ、ここやねん、またな!」
「ああ・・ここなんや」
「今日のことはみんなには内緒やで・・うちら付き合ってるって言われるさかいな」
「あ・・ああ・・」
「楽しかったわ、井野田君!!」
そういって彼女にアパートの玄関先で手を振られると、そこからは僕一人だ。
さすがに自宅までは歩いて10分ほど、迷子になることもなかったが帰宅したころには日が暮れていた。

古臭い社宅の引き戸を開ける。
「ただいまぁ」
「こうちゃんか!どこいっとってん!ほんまに・・」
母の甲高い、イラついた声が台所の方から聞こえた。
「いや、あの・・別府のべんとばこ・・」
「べんとばこに乗って、帰りの電車賃がなくなって歩いて帰ってきたんか!」
すっかり見透かされた僕は、母の洞察力に恐れ入ったが、ただ、さつきさんと一緒だったことだけは言わなかった。
「ふろ、沸かしてんか!」
母は台所に立ったままそこから大声で僕に命じる。

僕は五右衛門風呂の焚き付け場で、マッチと新聞紙、オガライトを無造作につかんでしゃがみ込んだ。
さつきさん、可愛いなぁ‥
叱られたのに嬉しい夕方だった。
別府鉄道野口ホームとキハ2

(本作は作者の思い出を繋ぎ合わせたフィクションです)


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おかんが逝った



平成三十年一月二十三日、午前六時二十八分、医師が母の死亡を確認した

おかん、もしかして死んでもたんか、死んどるんか
なんや、気持ちよさそうに寝とるやんか
息してるで、ほら、少し動いとうやん、動いとおよう見えるやん

「これは心肺停止っちゅうことですか」
分かり切ったことを、必死に感情を殺しながら仕事をするナースに問う
いつもはニコニコして感じの良い美人ナースだが
この時ばかりは悲しさと真剣さの厳しい顔だ

「そうです、先生が確認次第、死亡ということになります」
ちゃうわいな、寝とるんやで・・ぜったいそうや・・
そやけど、さっきから心電図モニターから、ピー!って煩いんや

そこへ息を切らせて走ってきた若い医師
聴診器を当て、瞳孔を見て、母の額に手を当てて
「六時二十八分、ご臨終です」と言って頭を下げはった

おかん、ゆうべ、ワシがここで晩飯食わせたやんか
おかん、そのとき、なんでか起きとるのに鼾掻きながら
息をするのが少しえらそうやったけど、ペースト状の晩飯全部食ったやんか
おかん、脚が痛いゆうさかい、ワシが脚を揉んだやろ
気持ちええって、ほとんど出えへん声でゆうたやないか
んで、めっちゃ眠そうやったさかい、美空ひばりのCDセットして
おかんの耳にイヤフォン差し込んで「東京ブギウギ」が流れたの確認して
「これでええか」ゆうて訊いたら満足そうに頷いたやんか
おかん、おでこの熱が下がっていくんや、おでこが冷えていくんや
おかん、ちょっと急やろが、もうちょい待たんかいな

昭和十二年五月十二日、満州国奉天で国際航路の上級船員の娘として生まれ
戦争のきな臭さを感じた両親によって神戸に連れてこられ
それでもまだ裕福な家の一人娘だった母

神戸の空襲で親族のあらかたが死に絶え
唯一残った実母と貧乏のどん底を味わうようになり
そして散髪屋の住み込みをしているときに
大阪から修行に来ていた父と出会い同棲を始めたという
そこからは驚くほどに多産で、十人の子を身ごもり八人を生み
六人が生き残り、それが我らが兄弟姉妹だ
父は酒がもとで母と六人の子を残して早世し
以後はほとんど苦しみの連続だったかもしれない母の
それでも、生来の良家の子らしく、物事に動じず
淡々として受け止めていくその強さとある意味の剽軽さが
母を助けたのかもしれない

おかん、二十八年前、脳内出血で死んだかと思ったのに
お医者もびっくりする回復で、見事に蘇ったよな
おかん、十年前、腎臓がもうだめで、いくらも生きられないといわれたときも
透析を受けることでワシらの前に居ってくれたな
おかん、三年前、もうホンマにアカン・・そない思わせといてまた蘇ったな
おかん、今度はなんで蘇らへんのや
また二三ケ月したら、ベッドの上から立ち上がるんちゃうんか
・・・おかん

額はますます冷たく、母は帰らぬ人となった
実父の面影を大きな客船に見ていた母にとって
明石海峡がよく見える病院が最後の住まいとなったのは
これは偶然ではないのだろう

(銀河詩手帖287号掲載作品)

冬の女性イメージ


あまりお洒落でもないファミレスで間に合わせて、貴女とお茶する。
屈託のない、ばかげた話ばかり出るのかと思いきや
今日ばかりは少し違うようで、
深刻な話を笑顔でする貴女に
僕ではなく、隣の席の若い女性が凍り付く

人生はいろいろだ。
そして人生はエロエロだ。
男女のことなど、大昔から繰り返されてきたことに
別に新しいものなどないし
殆どのことは想定内なのだけれど
それでも、あっけらかんと話そうとする貴女に
僕も思わずきつい目線を投げかけてしまう

だが、それでも僕の本心を言えば、僕のほうに向いてほしかった。
貴女が誰に貴女の身体を預けようが、それは僕の知るべきところではないし
貴女の自由を僕は抑える気などないし、
またそのようなことなど出来っこないことも分かっている

だが、それでもなお、言わせてもらうなら
僕が貴女の相手であってほしかった
もっと言えば、僕が貴女を抱きたかった

そんな資格はないし、僕はあなたに男性として見られているわけではない
でも、僕にもオトコとしての下心はあって
極上の女である貴女を抱きたいと思うのは
これは普通のことだろう

そして僕はあなたに惚れていて
と言っても恋多き男の一瞬の気まぐれに過ぎないかもしれないが
貴女の身体を自分のものにしたい欲情もないとはいいきれない

それは何をどう繕っても繕いきれない僕そのものであり
もはや開き直って自分を慰めるしかないわけだ

惚れたというのがすなわち相手の身体を求めること
それは若い男性なら、そういう短絡があってもいいとは思う
だが、人生も残すところ三分の一という
まもなく老いらくが始まる世代の僕では
自分の限界も知り
そして何より想いの大きさが大事になってくるといえば
それは美しすぎる表現だろうか。

もはやセックスは想いを果たした目的ではなく
生きるうえで何より大事なのはその想いを持ち続けること
歳を重ねるというのは、そういうことを事実として
自分の中に組み立てるということ
それがよく言えば経験を積む
悪く言えば老いるということなのだろう

屈託なく話しているようで
ふっと、涙を見せ
あるいは感情の高まりを見せる貴女の

その悩むことの要因を作った男に僕は嫉妬する
決して男前ではなく
決して頭がよさそうでもなく
無邪気で
無遠慮で
いつも笑顔を振りまいているあいつに
勝てっこなどないけど

僕はそれでも貴女を愛している

母と船と新幹線

1104明石川N700A下り

春の夕暮れ、山陽電車の別府駅で降りた我が一家は、高架の上でさらに構内踏切のある不思議な駅から沿岸工業地帯に林立する無数の煙突からの激しいばい煙を眺めながら、なんとも遠くへ来てしまったものだと、それぞれが感じていた。

いや、その中にいた母こそ、十二歳の私を筆頭にした六人の子供に、いつ倒れるかわからない、酒で身体を壊した父という組み合わせで、本来は自分が生活の拠点にしていた神戸や大阪から遠く離れてしまったこともあわせ、最も大きな不安を持っていたはずだ。

その時、宙を切り裂く轟音が聞こえ、強烈なヘッドライトが迫ってきた。

山陽新幹線の、白い車体は十六両もの車両を連結しながら、八つのパンタグラフから派手にスパークを飛ばして目の前を通過していった。
それは、これまで身近だった南海電車や大阪市営地下鉄、阪神電車・・それに今しがた長時間ゆられてきた山陽電車などの縁の深かった鉄道と明らかに違う異世界の生き物のように見えたかもしれない。

乗ってきた電車が行ってしまった別府駅のプラットフォームに佇み、呆然と新幹線を見送る母。
春の夕暮れの切ない思い出でもある。
たぶん、それまで母は新幹線には乗ったことがなかったはずだ。

ただ、父がそれからわずか半年後に亡くなり、母は自分で子供六人を育てる決心をするのだが、それは貧しくても気負う必要のない世界とて、以後はしばらく母にとって平穏な日々が続くことになる。

乗り物が好きな人で、観光バスに乗ることも喜んだが、一番、心底から好きだったのは船だった。
母の実父が船乗りで、その頃、母は満州の長春に住んでいたらしく、数か月に一度、きれいな白い制服を着て帰ってくる父親が自慢で、その父親、私にとっての実の祖父は大変な美男子で乗っていた船は大きな白い船だったそうだ。

これまでは常に、少し歩くだけで船が見えるところで生活していた母にとって、加古川は一般人が立ち入れる浜や岸壁が遠く、その港に出ても工業地帯のための貨物船ばかりで華やかな客船は見られない。

父が亡くなったのが新幹線や山陽本線に面した病院だった。
そこから、母は泣くような思いでスパークを上げて突っ走る新幹線の列車を眺めたことだろう。

住んでいたのが社宅であり、一家全員で暮らすために、加古川市内でもずっと北のほうの住宅を借りた。
海から離れ、内陸部で生活する羽目になり、自宅そばの棚田から遠くを見れば、海はいつもきらきら光って見えるが船は芥子粒ほどにしか見えず、母から船が遠ざかる。
かわりに新幹線の白い車体が時折用事の合間に見られるようになる。

山陽本線の快速電車で神戸へ向かう際、魚住辺りで山陽新幹線が走っているのを見ると、「あれに乗ってどこかに行きたいな」と独り言を言う。
実際に何度か新幹線には乗車しているはずだ・・それが楽しい思い出かどうかは別にして。

二十八年前、脳内出血の大病を患い、あと何時間生きられるかと医師に言われたが、奇跡的に三か月で退院し勤めも再開した。
この頃、まだ健在だった父方の祖母から会津の親戚宅を訪問する旅行を提案され、しかし、時期は五月の連休・・私がそのためにやっととったチケットは「急行きたぐに」の寝台車で新津へ出て、磐越西線「急行あがの」で会津へ向かうというものだった。

「あんた、自分が好きな列車を選んだやろ」
と見透かされはしたが、それはそれなりに旅を楽しんだ様子だった。
今思えば嘗ての「つばめ」「はと」にも何度も乗車したという祖母と、あまり旅慣れしない母があの五八三系電車の三段寝台でどのように過ごしたか・・考えるだけでも少しおかしい。
もちろん、帰路には東京から新幹線に乗っているはずだし、もしかしたら私がまだ一度も乗車したことのない東北新幹線にも乗ったのかもしれない。

その旅行はことのほか楽しかったらしく、つい最近までもその話をしていたほどだった。
祖母と母は妙に気が合うようで、自分の実母より義母のほうを本当の母親と思うとよく言っていた。

祖母が亡くなったのは神戸の震災の年だった。
三月、未だJR線も灘と住吉の間で途切れていて、母と妻を連れての大阪行きは、私には厳しい案内となった。
まだ肌寒い早春の、電車・バス・電車と降りては並ぶ乗り継ぎで、やっと着いた大阪ミナミの葬祭場の一室で寝ている祖母の小さな体に母はしがみついて泣いた。

葬祭場は狭隘で宿泊できず、大阪市内では震災特需のおかげで宿をとることができず、やむなく南海電車の堺駅前のビジネスホテルを使ったが、その南海電車は母にとって苦しい思い出でしかなかった泉大津へ向かう電車だ。
夜の新今宮駅、緑ではなくなった南海電車を不思議そうに見ながら、それでも和歌山市行の急行に乗るとさほど変化のない車内に「懐かしいね」と言っていた。

祖母の葬式の帰路、母を連れての過酷な阪神間の基本ルートは難しいと判断した私は、大阪天保山から神戸中突堤への臨時航路を使った。
天保山は私たち一家が六年ほど住んだ思い出の町で、その頃は我が家が経済的にも豊かで、父が元気だった。

最初は船のターミナル脇の小さな二階建てのアパート、そして文化住宅、さらに当時は珍しかったエアコン完備のマンションへと移っていった。
その天保山を懐かしく見ながら、そこから船に乗った。
いつもは神戸港の遊覧に使っていそうな船だったが、快適に、あっという間に神戸港へ着いた。
母が、いつも船を見ていた天保山から、その船に乗れたのは後にも先にもこの時だけではなかっただろうか。

脳の病気をすると腎機能なども衰えることが多いといわれる。
その通りに母は腎不全を患い、やがて透析患者となった。
すでに加古川の家を出て神戸に住んで長く、しかも一昼夜勤務の私には、時折ある病院からの呼び出しに付き合うのは苦痛でしかなく、医師の勧めもあり、私の現住地の近くで母に生活してもらうことになった。
その場所は緑に囲まれたニュータウンで、部屋の真横に大きな桜の木があり、「なんてきれいなところ」と喜んでくれたが、海は母の足には遠い。

透析の病院も転院となり、最初はそこへ送迎車で通っていたが、やがて病状の悪化とともに、入退院を繰り返すことになる。
その病院というのが私の仕事場のすぐ近く、丘に広がるニュータウンの中にあり、デイルームからは明石海峡がよく見えた。
母が入院するたびに、私は病院の夕食時刻には食事介護に行き、母をデイルームに連れて行って食事をしてもらうようになった。

ちょうどその時刻は天津への国際航路や、新居浜や高松へのフェリーが通過する頃で、母と気がすむまで船を眺めたものだ。
思えば、母が好きな船をゆっくりと眺めることができたのはこの時だけだったのかもしれない。

別の拠点病院へ検査のために行くとき、介護タクシーが明石川を渡るときだ。
ちょうどすぐ南の新幹線橋梁をN七〇〇の真っ白な車体が流れていく。
速度があまり高くなく、たぶん西明石に停車する「ひかり」だろうか。
白く長い車体を見て母が感嘆の声を上げた。
「きれいな電車!あれに乗りたい!」

だがすでにその時は歩くのはおろか、身体を支えるのも困難になっていた。
出来れば、母と一緒に新幹線か船の旅がしたかった。

そういえば、父も大変、乗り物が好きで、母いわく「三ノ宮から大阪まで、汽車の時間調べてそれに乗りよんねん。乗ったら駅弁、恥ずかしかったわ」といったことがあった。
その頃は長距離の客車列車が走っていて、父はその時刻を知っていたということなのだろう。
それに、我が家が神戸駅の近くだった時、「今夜は駅弁にしよう」と父が言って、駅へ行って駅弁を買ってきたことが何度もあった。
父と天王寺近くを歩いていた時、関西本線の蒸気機関車牽引列車が発車するところに出くわし、しばらく親子で見つめていたことだ。
私の鉄道好きは突然変異でもなんでもなく、両親から引き継いだものかもしれない。

つい数日前、母が最後は一年三ケ月の入院の末に亡くなった。
最後の三か月ほどは病室から出ることもできず、好きな船を見ることもかなわなかった。
子供六人を生み、父亡き後、女手一つで必死に私たちを育ててくれた母。
だが、乗り物を見てそれに喜ぶ少女の気持ちのままの、純粋な女性だったのだと、いま改めて感じているところだ。

母と父はあちらの世界で今頃、船か汽車、あるいは新幹線の旅をしているところだろうか。
0529サンフラワー

ルミナリエ

1217ルミナリエ広場

冬の夕方になると、君は人通りの多いライトアップされた街中を避けるようになる。
陽の短い冬の午後、三時ころになると君は決まって「人が増える前に帰ろう」とか、あるいは「どこかに入ろうよ、寒いから」などという。
春から秋の初めまでは、君も夜の帳の下りた三宮で賑やかな夜を楽しむのだけれど、少なくとも僕と君が出会ってからの五年は・・ずっと冬の夜には街中に出ていかない君だ。

だが今夜は神戸では冬の風物詩として根付いている「神戸ルミナリエ」の最終日だ。
僕は「今夜だけはルミナリエを見に行こうよ」と少し強く君に押した。
君は心なしか悲しい表情をしながらも「うん」と頷いてくれた。

元町駅前からの長い行列は、車道を厳重に囲んだ専用通路で、道路わきの歩道とは確実に仕切られている。

それにしてもだ、この街の、冬の夜のライトアップは居並ぶビルや商店の全てであり、街路樹までもが無数の電球で飾られていて、美しい。
クリスマスのライトアップとしては、たぶん、関西ではここの右に出る街はないんじゃないかと思うくらいだ。
「きれいだね・・」
僕のふっと漏らしたつぶやきに君は「そう?」とだけ答えた。
「なんか、機嫌悪そうだな・・無理やり連れてきたからかい?」
「別に・・機嫌はいつも通りなんやけどね」
いつもの柔らかな関西弁のイントネーションで、それでも機嫌の悪そうな君の横顔は様々な人工の光の中で美しい。

車道幅いっぱいの大行列は、元町の大丸前から一旦、ずっと東の三宮神社の先まで行き、そこから一筋南の道路へ・・
今度は元町の大丸を目指して歩くという大迂回だ。
「寒くないか・・」
今年の冬は寒い、まだ十二月の半ばだというのに気温は零度近いのではないだろうか。
「別に…」また愛想もなく君が答える。
「やっぱり機嫌が悪いんだ・・」
「こうして一緒に歩いとるんやから、機嫌が悪うてもええやん・・」
大丸百貨店の東脇の樹々につけられたイルミネーションはことのほか鮮やかで、軽い音楽が流れてくる。
ここまですでに三十分以上、歩いたり止まったりしている。

そして大丸百貨店の南角を曲がり、旧居留地に入った途端、巨大な光の塔とその先の長い光の回廊が僕たちの目の前に現れる。
「すごい、すごいね」
僕は思わず叫んだ。
横の君を見ると、君は頬を紅潮させ、光を見つめている。

大勢の人がスマホで写真を撮影したり、中には大きなカメラ機材をもって撮影している人もある。
警備員や警官が「立ち止まらないでください」と叫ぶ。
荘厳な音楽が流れている。
だが、観客は皆、この景色を見に来たのであって、立ち止まらずになんていうのは無理だろう。
行列の進む速度は遅く、人々の表情は笑顔であふれている。

僕もあまりの美しさに頬が緩む。
だが、君はじっと前を強く見据えたまま、黙々と歩く。
僕が何か感嘆の言葉を発しても、無視するか、黙って頷くだけだ。

光の回廊を過ぎ、東遊園と言われる広い公園に入ると、そこには巨大な光のアーチと、その先の巨大な光の城があった。
ここには三宮から行列なしでも入れるためか、回廊を歩く人の数倍の人がいるように思える。
だが、それでも光の城に近づくとそれなりに空間もでき、僕は自分のスマホでゆっくりと写真を撮る。

その時だ、君が急に僕の手を握った。
「こっち」と言いながら僕を光の城の外側に連れていく。
「どこに行くの?」
「行かなアカンとこなんよ」
人の流れを横切り、タコ焼きやケパプや牛串の店が並んでいるその脇、ルミナリエの光がそこだけは届かない僅かの空間、屋台から食べ物の匂いが流れてくるその暗がり・・そこに人々が入れ代わり立ち代わり、やってきている場所があった。


1217ルミナリエ震災の火

そこにあったのはガラスケースに収められた小さな炎。
その前で君は立ち止まり手を合わせた。
「これは・・」
「知らんかったん?あの震災の時の炎・・」
ここは暗がりで君の表情がよく見えない、だが君は目に一杯涙をためているように見える。

僕もそこで手を合わせた。
そこだけは何か冒しがたい雰囲気があった。
そこに集まる人々の表情から明るさや楽しさは窺い知れない。

君は炎に何かを語りかけているようだった。
「もしかして・・君の関係する人が震災で亡くなられたの?」
恐る恐る、炎を見つめる君に訊いた。
「父と母と、何人もの友達と、近所のたくさんの人と・・」
小さな声で君はそう言った。
そしていきなり大声をあげて泣き出した。

******

あの日、須磨区で崩れた家の中から、子供たちの泣き声がした。
まだ夜の明けきらない真っ暗な中、周囲の人が必死になって瓦礫をどけて、その子供たちを救い出した。
小学生の兄と妹だった。
一階にお父さんとお母さんがいるという。
一階と言っても崩れてしまった家では二階が一階を押しつぶしたような格好になり、とても人力で瓦礫をどけられる状態ではない。
それでも、大人たちは必至で親の名前を呼びながら瓦礫を退けようとする。
やがて、布団が出てきて、すぐに人の足先が見えた。
だがそれ以上ではとても人力では、身体に乗りかかっている木材を動かくことができない。
朝から辺りには近所で発生した火事の煙が漂ってきたが、ついにその炎が家のあった場所にも近づく。
「逃げよう」
誰となくそういう声がした。
逃げなければ自分たちが炎にまかれるのだ。
消防のサイレンはすれど、一向に火が鎮まる様子はなく、むしろ火勢は勢いを増し、真っ黒な黒煙があたりを覆う。
小学生の兄と妹は、そこから大人たちに無理に引き離された。
「おかあさん、おとうさん」と泣き叫ぶ声に、大人たちはどうすることもできず、黙って兄と妹をその場所から近所の小学校へと連れて行った。

*****

「帰る」
泣きながらそういう君を手を取り、僕らはその場を離れることになった。
僕は君の生い立ちを詳しく訊いたことはなかったし、ご両親が亡くなられていることは知ってはいても、それが神戸の震災の故だとは気づきもしなかった。
ただ、唯一の身内としてお兄さんが一人あって、近くで家庭を持っているということだった。

人混みの中を、右に左に避けながら、それでも串に刺したリンゴ飴をかじりながら歩いている女性の集団や、焼き鳥の串を歩きながら齧っている家族連れなどに少し危険を感じながら、公園の北の端まで来た時、君が立ち止まった。
そこには女性の裸像があって、時計を抱いていた。

1217東遊園地震災彫刻加工

「あの娘、可愛そうやんな・・寒い冬でも裸やなんて」
「ああ」
まさかそんなものにそう言う感情を抱くのが僕には不思議だ。
「時計を見てよ」
その時計の針が五時四十七分を指している。
「めっちゃ肌も汚れて、だれも綺麗にしてあげたいとか、服を着させてあげたいとか思わへんのかな」

ルミナリエの光の祭典の脇で、君は立ちすくんで裸像を見る。
僕はやっと、君が、冬の夜の神戸を嫌う気持ちが理解できた瞬間だった。
イルミネーションを見に来るたくさんの人々は、寒くて真っ暗な明け方の、火が迫る中での恐怖に満ちた時間を、命を終えねばならなかった時間を、感じ取ることはあるのだろうか。

僕は普段の数倍の人であふれる三宮の、ライトアップされたビルのその前で、君を抱きしめた。

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